嵐山の周恩来記念碑を訪ねて
去る6月の14日(2015年)に、京都の嵐山に周恩来の記念碑があるというので、訪 ねた。嵐山には、俗にいう嵐電で行く。嵐電は四条大宮と白梅町がともに始発駅である が、沿線には、龍安寺や仁和寺や広隆寺があるので、そこに行ったついでに嵐山まで行く と良い。 周恩来の記念碑は嵐山の亀山公園がにあるが、 車では亀山公園に入れないので、 嵐山の 駅から歩いて行く。亀山公園は、嵐山の渡月橋から渡月橋を渡らないで川(大堰川おおい がわ)沿いに行く。この碑は、正式には「周恩来副総理詩碑」といい。碑文は、漢文であるが、日本語では次 のように読む。 雨中嵐山 雨の中を二度嵐山に遊ぶ 両岸の青き松に いく株かの桜まじる 道の尽きるやひときわ高き山見ゆ 流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす 雨濛々として霧深く ・ 陽の光雲間より射して いよいよなまめかし 世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも 模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば 真(まこと)にいよいよなまめかし 日本京都 一九一九年四月五日 訳蔡子民先生
この「周恩来副総理詩碑」建立の経緯については、日本国際貿易促進協会は次のように 解説している。 周恩来は1917年(大正6年)9月から1919年(大正8年)4月にかけて日本に 留学し、ことに最後の半年余は京都の友人宅に寄宿していた。 当時、京都大学経済学部にはマルクス主義の紹介と普及に大きな役割を果した河上肇教授 が在職していたが、周恩来青年は河上の著作を愛読し、その影響を受けたと言われる。 経済学部選科(選科は今日の聴講生のごときもので、入学手続きも簡便だった)への願 書も河上の講義を聴こうとして提出したのであろうが、実際には入学しなかったと言われ る。 「雨中嵐山」の詩は、帰国を前に嵐山を訪れて作ったもので、その頃としてはきわめて斬 新斬な新体詩(口語詩)であることは、彼が当時の文学革命運動(文語による旧文学に反 対し、言文一致の国民文学を樹立しようとした運動)の先端的な実践者であったことの証 左でもある。 故周恩来総理は1917年に来日され、1919年までの青年時代の一時期を日本で過 され、京都にも滞在された。京都滞在中、周恩来総理は新しい思想を知り、暗い世界の中 で一点の光のような感動を受け、1919年4月5日、これを雨中嵐山という詩に表わし た。 1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し、 子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こった。そこで、京都にゆ かりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに 至った。 先ず、9月6日、日本国際貿易促進協会京都総局1978年度第一回役員会において正 式に提案し、賛成を得た。又9月7日、京都日中科学・技術者交流協会役員会でも賛成を 得た。吉村孫三郎 日本国際貿易促進協会京都総局会長(当時)の提案で、廖承志中日友 好協会会長(当時)に碑文の揮毫をお願いすることにした。 鄧小平副総理(当時)と共に来日された廖承志会長が10月27日京都に来られた折、 吉村会長よりお願いし、揮毫の承諾を得た。11月24日、日本国際貿易促進協会京都総 局が受け入れた中国科学院レーザー核融合視察組が京都市長あての廖承志会長の揮毫を携 えて来日された。12月21日、吉村会長がこれを京都市長に届けた。 京都の日中友好団体を中心に、詩碑建立委員会の設立準備が進められ、1979年1月 22日、正式に設立され、第一回打合せ会が行われた。この会議で、建立委員会は、顧問 を京都府知事、京都市長、京都商工会議所会頭にお願いし、委員長を吉村孫三郎 日本国
際貿易促進協会京都総局会長とし、京都日中友好十団体を構成団体とすることを確認し た。また予算、事務局所在地、事務局長なども決定した。2月13日、第二回打合会を行 い、詩碑建立場所、副碑などについて話し合った。3月16日、地鎮祭を行った。 19 79年4月16日、ちょうどその時来日中であった鄧穎超女史(全国人民代表大会常務委 員会副委員長、故周総理未亡人、当時)を京都にお迎えして、除幕式及び建立祝賀会を開 催した。 その後、1979年9月8日、谷牧副総理(国家基本建設委員会主任、当時))が詩碑 を参観された。また1980年4月13日、来日中の余秋里副総理(国家計画委員会主 任、当時)をお迎えして、詩碑建立一周年祝賀会を行った。 以上のとおり、 この「周恩来副総理詩碑」は、「日中平和友好条約」を永遠に記念する ために建立されたものである。したがって、日本人は嵐山の周恩来記念碑 に一度は訪ね るべきだ! 私はそう思う。そこで、私は、日本の大恩人・周恩来のことをもっと深く知 る必要があると考え、とりあえずウィキペディアを中心に勉強し、その核心部分を次の 「1、周恩来についての概説」にまとめた。
1、周恩来についての概説
日本の大恩人・周恩来について私の考える核心部分は次の通りである。すなわち、 『 周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。周恩来が13歳となった1911年、辛亥 革命が起きる。翌1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。1913年、周恩来は天津 の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。』 『 南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東 京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、 東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経 済学部)に通学。日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正 確で詳細な記録である。』 『 1918年、留学生の一斉帰国運動が起き、一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月 については記録もなく、よくわかっていない。苦渋の中で、酒に れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意し た。』 『 船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐 山の周恩来記念碑に刻まれている。』 『 1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる 五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。』 『 1920年パリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に 入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻る。その後中 国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この 留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者 が多数いた。』 『 第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の 政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代 の恋人鄧穎超と結婚した。』 『 1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹 立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出し た。』 『 その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。1931年、江西省の瑞金に中華 ソビエト共和国臨時中央政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、 長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東が主導権を掌握するの を助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。』 『 貴州省の北部地区(黔北地区:黔qianは貴州省の別名)の政治・経済・文化・通信の中 心地が、遵義の町だ。州都・貴陽と四川省を繋ぐ川黔鉄道や川黔公路もこの遵義を通って いるが、この町の名は広く内外に知られている。1934年10月から開始された長征途 上、1935年1月にここ遵義で、中共中央委員会政治局拡大会議が開かれたが、この会 議は、この結果、共産党の毛沢東指導体制が実質確立されるという歴史的な会議であっ た。』 『 毛沢東は、まず農村に革命根拠地を作り、しかるのちに都市にむかうという方針を主張 し、江西のソビエト区を拠点に革命闘争を展 開していたが、1931年1月には、上海の中 国共産党委員会が、党中央の出先機関を瑞金に置く事を決定。あわせて毛沢東を批判し、役 職を解任することを決 定し、王明らソビエト留学派が党の実権を握る。以降、党内では毛
沢東への批判が続き、やがてコミンテルンから派遣されたドイツ人の軍事指導者オッ トー・ブ ラウン(李徳)、博古、周恩来等が党を指導していた。 http://www.kuniomi.gr.jp/ geki/iwai/dougikaigi.pdf 』 『 1924年、孫文率いる国民党が中国共産党(1921年創立)との合作を決定、192 6年より、国民革命軍(総司令官は蒋介石)が広州を出発し北伐を開始。しかし1927年4 月蒋介石の上海での反共クーデターで、第1次国共合作が崩壊。これに対し、共産党側は、 周恩来、朱徳、賀竜、劉伯承らが指導し1927年8月1日に南昌で蜂起、同年9月には毛 沢東が江西省の銅鼓で蜂起、10月には毛沢東率いる革命軍が井岡山に最初の農村革命根 拠地を作るなど、抵抗を続けたが、蒋介石が展開する数次にわたる大規模な包囲作戦の 前に、苦しい戦いを強いられる。1934年10月、ついに中国紅軍主力部隊は、当時、 党中央の出先機関が置かれていた江西省瑞金からの退却を決意、ここに「長征」が開始さ れた。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/moutyou.pdf 』 『 日中戦争(支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在し、蒋介 石との統一戦線の維持に努めた。日本が降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共 に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続けた。しかし、これは物別れに終わり、国 共内戦が始まった。内戦に勝利した共産党は、1949年10月1日、中華人民共和国を 建国 した。』 『 日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来は、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に 関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族 の訪中や見舞いなどを許可す る」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはい けない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生 まれ変わら せ、我々の友にしよう。日本戦犯を「鬼」から「人」に変えられるかどう か、これこそ中国文化の知恵と量に対する試練なのである」と述べている。』 『 元戦犯たちが日本に帰国し中国帰還者連絡会を結成した。そして、その代表団が再び 訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。「今度、日中両国の 間に国交が回復し たことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約 束したものであります。しかし、本当の友好はこれか らでありましょう。中国人民と日本 人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、 初めて子々孫々に至るまで変わるこ とのない友好関係が結ばれることでしょう。これに はまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょ う」』 『 1960年代に入り、中華人民共和国とソビエト連邦との対立(中ソ対立)が激しさを増 すと、中華人民共和国はアメリカ合衆国や日本との国交正常化を求めるようになった。周 恩来は文化大革命の最中、総理として両国との交渉を管掌した。』
『 1972年、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの訪中を実現させ、アメリカと の国交正常化交渉を前進させた。さらに同年、訪中した日本国内閣総理大臣田中角栄と数 度にわたる交渉に臨み、日中共同声明に 調印して日本との国交正常化を実現した。調印 式で交わした田中角栄との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。「日 本人民は軍国主義者の犠 牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはある が、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めな い。日本の 人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を 請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と話した。』 『 近年明らかにされた外交文書ではアメリカ合衆国国務長官ヘンリー・キッシンジャー に対し「日本の台頭は米中両国の脅威である」などと話していたことが明らかになってい る。』 『 文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走 資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。文革勃発時に有力幹部 の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。周恩来は 毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決 め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。 その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。』 『 周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来な かった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的 事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。』 『 周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。 更にその後、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東 に信任され、実権を握り続けた。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新 を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築い た。』 『 1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今まで に会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強 く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。』 『 周恩来は日本の大恩人である。したがって、私は、 日本人は嵐山の周恩来記念碑 に 一度は訪ねるべきだと思うし、さらに私は、周恩来は中国の伝統である「天命政治」を忠 実に行なった誠に貴重な人であると思うので、中国人は周恩来のことをもっと深く知る必
要があるし、とりわけ周恩来が一生をかけて貫き通した「天命政治」のことをもっと深く 知る必要があると思う。』 『 だが、毛沢東は周恩来を最後まで信用せず、林彪事件後は自分自身の地位を窺う陰謀 を企んでいると思い込んでいた。周死去の報を聞いた 毛沢東は、祝いの花火を打ち上げ 上機嫌であったと言われている。しかし、この逸話は「天命政治」の本質をゆがめる話で はない。つまり、「天命政治」というものは皇帝に多少の欠点があろうとも、「天」がそ のまま皇帝としての地位を認めてさえいれば、皇帝の入れ替えは起こらないのである。』 ・・・である。 以上のとおり、周恩来は「天命政治」を一生をかけて貫き通した。以下において、中国の 歴史と伝統にもとずく「天命政治」について、お話ししておきたい。
2、天命政治について
(1)「天命の科学」
・・・天命の科学的説明 宇宙の原理、それは自然の原理でもあるが、それはとりもなおさず老子の「道」のことで ある。老子のいう「道」を正しく歩むためには、宇宙の原理や自然の原理にしたがって行 動するのが良い。宇宙の原理にしたがって行動するには、宇宙の意志、それは神の意志と いうことでもあるが、そういうものを信じることがまず必要である。 農民というものは、自然とともに生きている。したがって、自然の持つ不可思議な力を常 に感じながら生活をしている。これはとりもなおさず農民は常に神とともにあるというこ とだ。中国での神ということになると、おおむね道教の神であるが、自然に生きる農民に は神頼みが少なくないだろう。どのような形式の神頼みであっても、そこには必ず「祈 り」がある。 農民の「祈り」によって、農民の「内なる神」と天にまします「外なる神」との共振が起 こる。その農民と毛沢東の波長が合えば、その波長によって毛沢東と天にまします「外な る神」との共振が起こる。つまり、これが天命の正体である。天命とは天の意志というこ とであるので、それによって毛沢東のみならずも毛沢東の周辺の人々にどのような効果が 生じるのかは「神のみぞ知る」で具体的な説明はできないが、毛沢東にとって良い効果が 必ずあるのである。「波長が合う」ということが大事である。この世には、人間の五感を 超えた、情報伝達システムが存在する。心の状態は、ある種の波動なのである。チューニ ングというのは、送信機と受信機の波長が合えば音がである。音という波動が発生する。人間でも同じようなことが起こり、二人の波長が合えば、言葉を介さずに、印象による情 報伝達が可能である。恋人同士に限らず波長の合う人同士は、無意識的にこれを行ってい る。そして、両者の心を強く結びつけるために、神が介在するのである。農民と毛沢東の 波長が合った。そこに数々の神が介在したであろうが、遂には、神々の最高の神・天帝が お出ましになって毛沢東に天命が下ったのである。 以上の「天命の科学」については、次のペーパーをご覧いただきたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenkagaku.pdf
(2)二つの政治形態
現在、民主政治が理想の政治形態だというのが私たちの常識になっているようだ。しか し、果たして民主政治が理想の政治形態であろうか。民主政治の対極にある政治形態とし て中国における天命による政治形態があり,これもなかなか捨て難い政治形態である。何 故捨て難いのか,それをこれから少し考えてみたい。 民主主義国家であるかどうかの基準は、いろいろあると思うけれど、私は、フランク・ フクヤマの次の基準が良いと思う。イ、相対立する複数立候補者が存在する、自由で、無 記名で、定期的な男女普通選挙の実施。 ロ、普通選挙によって構成された議会が立法権 の最高権限を持っていることの憲法などの公式文書での明文化。 ハ、議会内における相 互批判的な複数政党の存在。 ニ、自由で多様な行政府批判を行う国内大手メディアが存 在し、それを不特定多数が閲覧できること。 世界には多様な民主国家が存在しているが、これらはおおむね共通して存在する基準で ある。したがって、日本は間違いなく、この基準を満足しているので、民主主義国家であ る。一 方、プラトンの考えによると、「民主主主義の成功のためには、国民の有権者全 体が知的教育を受けられること、恐怖や怒りなどの感情、個人的な利害、マスコミによ る情報操作や扇動などに惑わされず理性的な意思の決定ができる社会が不可欠である。つ まり徳を持つことである。逆の言い方をすれば、民主主義を無条件に広めると、知的教育 を受けていないもの、恐怖や怒りなどの個人の感情や利害損得に影響されやすい非理性的 なものも有権者(政治家と選挙民)となり、結果として衆愚政治となりかねない危険があ る」ということになってしまいかねない。この点からすれば、おおよそ世界の民主主義国 家と考えられている国家は、すべて衆愚政治に陥っていることになる。したがって、現在 の民主主義において、プラトンの哲人政治というか強い政治を望む声も出てくるようなこ とになる。マスコミ亡国論などというものも衆遇政治を忌避するところからでてくる。 現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができる。デ モクラシーの語源は古典ギリシア語の「デモクラティア」で、都市国家(ポ リス)では 民会による民主政が行われた。特にアテナイは直接民主制の確立と言われている。またヘロドトスの『歴史』では更に寡頭制と専制を加えた三分類が登場し、プラトンやアリスト テレスが貴族支配や君主支配の概念とともに整理した。ただし古代アテネなどの民主政 は、各ポリスに限定された 「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の 義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男 性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かっ た。しかし、後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱しソクラテス が処 刑されると、プラトン・アリストテレス・アリストパネスなどの知識人は民主政を「衆愚 政治」と批判し、プラトンは「哲人政治」を主張した。後にアテネ を含む古代ギリシア が衰退して古代ローマの覇権となると、大衆には国家を統治する能力は無いと考える時代 が長く続いた。 塩野七生など学識経験者で、今の政治に対し、哲人政治とまではいわなくても、強い 政治を望む声が少なくないのも事実だと思うが、そういう人の考えには、プラトンなど古 代ギリシャの知識人の考えが、潜在的に影響しているのではないか。かかる観点から、哲 人政治を理想とするプラトンの考えに照らして、中国における天命思想にもとづく政治形 態は大変魅力のある政治形態であるように見える。 白川静は、その著「孔子伝」(昭和47年11月、中公叢書)の第2章「儒の源流」の中 で「天の思想」について書いている。その要点は次の通りである。すなわち、 『 天は自らその意志を示すことはないが、天意は民意を媒介として表現される。為政者 が天の徳を修めていれば、民意の支持を受けることができる。天意はそれによって動く。 ここには人民が、天意の媒介者として意識されている。政治の対象として、民衆の存在が 自覚されてきたのである。このような政治思想は、天の思想と呼ばれる。殷周革命を契機 として、天の思想が成立した。』 『 天意が民意によって媒介されるとすれば、それは絶対にして神聖なる王権ではない。 受命によって生まれた王権は、また革命によって失われる危険を常に包蔵する。天の思想 はまた革命の思想である。』 『 天の思想は、古代的な宗教と政治を切り離した。そしてそこに合理的な精神を導入し たが、天意が民意を媒介として表現されるのは、人間の存在の根拠が、その徳性のうちに あるとする自覚にもとづいている。』 『天の思想とその展開を辿ってゆくと、初期の儒家の政治思想や道徳思想が、ほとんどす で西周の後期において、ほぼ体系づけられていることが知られよう。』 『 周初に起った天の思想は、西周後期の危機意識の中で深められていった。しかしその 思想を記した「書」や「詩」が、故事の伝承者である史や楽師によって伝えられたため に、思想として発展する機会を持ち得なかったことはやむを得ない。彼らは本来、神秘主 義者であるからである。史・師ばかりでなく、その学を承けた孔子においても、天の思想 は十分な展開をみせなかった。民人を媒介として天意が示されるという、政治思想として の天の理解は、孟子によって回復され、その民本思想の根拠となった。』 『 孔子も、しばしば天を称している。(中略)徳の根源を天にもとづけて言うこともあ
るが、これを政治思想として組織することはなかった。そこに巫史の学から出た孔子の思 想家としての限界があった。』・・・と。 それでは、政治思想としての天命思想について、孟子の思想を勉強しておきたい。 書経(しょきょう)は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の 帝王の言行録を整理した演説集である。その原型は周初の史官の記録にあると考えられて いる。儒教では孔子が編纂したとし、重要な経典である五経のひとつに挙げられている。 古くは「書」とのみ、漢代以降は「尚書」と呼ばれた。「書経」の名が一般化するのは宋 代以降である。 その「書経」について、金谷治はその著「孟子」(1966年6月、岩波書店)で次のよ うに説明している。すなわち、 『 五経の一つのである「書経」の内容の中心部は、殷を倒した周王朝がその革命の正当 性を強調した記録である。そこでは、殷王朝の徳が衰えたために新たに周が天命をうける ことになったと説く。(中略)周王朝の成立、それはおおよそ西歴前12世紀のことと考 えられているが、そんな古い頃に、政治は民衆のためにあるべきもので、それをなおざり にすると革命の危険があるという思想が、すでに確立していたのである。』 『 「書経」の中にみられる周初の政治思想を継承して、それを一層はっきりした形で強 調したのが、孟子であった。儒教のこの重要な一面が、こののちにも健康な伝統としてい き続けたのは、孟子の力によるところが大きかったとしてよかろう。』・・・と。 そして、金谷治はその著「孟子」のなかで、天命思想という政治思想について、次のよう に説明している。すなわち、 『 門人の万章が、有名な堯から舜への譲位の伝説を取り上げて質問した時のことであ る。孟子は、天子とても、かってな個人の意志で天下を他人に譲ることはできないと述べ て、それを「天のしわざ」であるとした。「天のしわざ」とは何であろうか。孟子はその 問いを待って、おおむね次のように答えた。「天命と言っても、別に天がものを言う訳で はない。それは人間世界の行事において示される。むかし堯は舜に国家の祭祀を代行させ たところ百神に祟りがなく、政務を代行させたところ万事がうまく治まって、人びとも安 らかであった。これは、天に推薦して天が承認し、民衆にあらわして民衆が承認したこと である。」 『 天命思想という政治思想は、「天子の地位を保証する天意は、民衆の意思によって代 表される」という思想である。』・・・と。 『 天命思想という政治思想は、けっして民主的な思想ではない。(中略)孟子の政治哲 学はもとより統治者のために考えられたものである。民衆の立場に身を置いて、民衆に向 かって説いたものではない。彼の念願は、混乱した世界を新しい道徳的な政治理念で秩序 づけることであって、民衆の勃興をそのままどこまでも肯定することではなかった。(中 略)孟子の天命思想は、民衆のための政治ではあっても、民衆の権利を正当に認める近代 的なデモクラシーの思想では、ついになかった。』
『 道徳とは縁遠い教養を持たない民衆が、いつも被治者として、そして租税を納める義 務を持つ者として枠づけられているいう事実は、重要である。それは、封建体制の維持に とっては、きわめて好都合な思想であった。「孟子」という書物が、国教となった儒教の 重要な典籍となったのには、やはりそれだけの理由があったのだ。』 以上、孟子の天命思想についての金谷治の説明を紹介したが、どうも金谷治は民主政治を 理想の政治形態だと考えているようである。しかし、中国のような民主主義の歴史のまっ たくない国において、そもそも民主政治が良いのかどうかについては、よくよく吟味しな ければならない。つまり、金谷治は「 孟子の天命思想は、民衆のための政治ではあって も、民衆の権利を正当に認める近代的なデモクラシーの思想では、ついになかった。」と 言うが、それはその通りだとしても、問題は、中国のような国ではたしてデモクラシーの 思想で統治していくのが良いのかどうかという問題であるし、さらに金谷治は「 孟子の 天命思想は、 封建体制の維持にとっては、きわめて好都合な思想であった。」と言う が、中国がこれから近代化を進めていく上で、孟子の天命思想がいちばんふさわしいのか どうかという問題である。この問題は、中国を統治していく上での根本的な問題であっ て、孟子の天命思想の対極にあるデモクラシーの思想で良いのかどうかという問題であ る。私は、中国のような5000年の歴史によって成り立っている国においては、やはり その歴史を重んじて、この際、孟子の天命思想に立ち返ることができるかどうか、それが 中国の為政者に問われているのだと思う。それを以下において、考えてみたい。
(3)天命による中華の政治
私は先に孟子の天命思想についての金谷治の説明を紹介し、次のように述べた。すなわ ち、 『 どうも金谷治は民主政治を理想の政治形態だと考えているようである。しかし、中国 のような民主主義の歴史のまったくない国において、そもそも民主政治が良いのかどうか については、よくよく吟味しなければならない。つまり、金谷治は「 孟子の天命思想 は、民衆のための政治ではあっても、民衆の権利を正当に認める近代的なデモクラシーの 思想では、ついになかった。」と言うが、それはその通りだとしても、問題は、中国のよ うな国ではたしてデモクラシーの思想で統治していくのが良いのかどうかという問題であ るし、さらに金谷治は「 孟子の天命思想は、 封建体制の維持にとっては、きわめて好都合な思想であった。」と言うが、中国がこれから近代化を進めていく上で、孟子の天命思 想がいちばんふさわしいのかどうかという問題である。この問題は、中国を統治していく 上での根本的な問題であって、孟子の天命思想の対極にあるデモクラシーの思想で良いの かどうかという問題である。私は、中国のような5000年の歴史によって成り立ってい る国においては、やはりその歴史を重んじて、この際、孟子の天命思想に立ち返ることが できるかどうか、それが中国の為政者に問われているのだと思う。それを以下において、 考えてみたい。』・・・と。 そこで、まずは、中国における5000年の歴史を踏まえて、政治思想としての天命思想 を現在どのように認識すべきなのか、私の教科書「おどろきの中国」(橋爪大三郎、大沢 真幸、宮台真司共著、2013年2月、講談社)から参考になる記述を紹介しておきた い。彼らは次のように言っている。すなわち、 『 本来、デモクラシー(人のなす政治)の反対概念は、シオクラシー(神のなす政治) です。だから、中国共産党を神の織りなすパンテオンだと理解したり、毛沢東を神だと見 なせば一貫しそうな気もする。(注:毛沢東は神ではないが、天命(神の意思)を受けて 中国共産党王朝を打ち立てた皇帝と見なすのが正しい見方である。ただし、現在の中国共 産党王朝は世襲制ではなく、中国共産党の最高指導者が国の最高権力者になるという点 で、歴代王朝の皇帝とは異なる。そういう意味で私は、中国共産党の最高指導者を「今皇 帝」と呼ぶこととしている。)』 『 中国は必ずしも「中国」とは呼ばれてこなかった。その時々の、統一政権の固有名で 呼ぶものなのです。秦、漢、唐、明などと。(注:天命によって行なわれる政治、それが 中華の政治である。現在、中国の正式名は中華人民共和国であり、やはりそこには中華思 想が連綿と流れているように思われる。)』 『 中国と比べると、ヨーロッパでは政治的統合が遅れた。かわりに、宗教的統合が先行 した。中国の場合は順序が逆で、複数の政治的まとまりの対立・抗争がおこった。ちょう どその時期に、諸子百家が生まれている。これは、いろいろな政策的オプションを提供す るものだった。統一政権をつくるなら、この政策的オプションを採用してはどうですか、 という提案だった。しかし、中国の場合は、政治的統一が根本で、政策的オプションは選 択の対象、という順番は変わっていないでしょう?ここに中国の本質がある。(注:中国 は古来、政治的まとまりの対立・抗争が激しく、その秩序を確立する必要性から天命思想 が発達したと思われる。天命思想は、まず政治的統一と安定がまず先にあって、政策はそ の次にある。政策が悪ければ、また天命によって別の王朝が誕生する。政策の善し悪しよ りも、まず先に王朝ありきなのである。)』
『 天が何をするかというと、政府に統治権を授与する。それだけなのです。(中略)で はどういう場合に、天命が下るか? 「孟子」などの考えを要約すると、その実体は、農 民の総意である。政治がうまいっていて、農民の支持が調達されている限り、この政権は 正当だと証明されたことになる。でも裏返せば、農民が不満をつのらせれば、革命が起こ りうる。この繰り返しなんです。』 『 毛沢東が農地再配分をしたということ、それによって農民の支持をどんどん獲得して いき、各地に根拠地がつくられていったということ、そうした事実自体がポイントです。 もちろん、農地再配分を支えるイデオロギーがあったかも知れないけれど、農民が支持し たのはイデオロギーそのものでは到底ありません。つまり、毛沢東が語るイデオロギーが 何であるかということは、実は判っても判らなくてもさして違いはないのです。毛沢東の 行なった農地再配分を含めた実践を評価するが故に、人びとが毛沢東という人を評価し、 まさにそれ故に、毛沢東にこそ天命が下っているはずだというふうにとらえた。そんな気 がします。イデオロギーという抽象的な概念的原理は、毛沢東についていく民衆には見え ても見えなくてもあまり関係がなかったのではありませんか?』 『 神と違って、天は人格がない。最後の審判もない。天命によて統治権力をある人に与 えた後、チェックがない。契約ではなくて、「丸投げ」(中国語で「承包<チャンパオ) >という。)なんです。丸投げだから、チェックをかける基準がない。そこで、政治権力 者として振る舞うというパーフォマンスをやり続けるのが自己正当化になる。このシステ ムでずっと来ているわけです。』 『 天が毛沢東に権力を丸投げし、毛沢東に個人的な欠陥がある。でもこれを承認する。 そしてあたかも、個人的な欠陥などないように、彼に従う。周恩来がやったことも、鄧小 平がやったことも、これだと思う。』・・・と。
(4)習近平に期待するもの
先に述べたように、天命思想による天命政治、それが中華のあるべき政治であるが、はた して習 近平がそういう政治を今後やっていけるかどうか? 私は、今皇帝になった習 近 平に是非それをやってもらいたいと願っている。そのためには、孟子の天命政治を貫いて ほしいし、日本と一緒になって世界平和路線を歩んで欲しい。それが習 近平に期待する ものである。そのためには、習 近平が今皇帝として中国共産党王朝に君臨し、中国共産党の中で絶対 的な権力を持たなければならない。その前提条件として、習 近平は軍を掌握することと 農民の支持を受けることが必要である。その上で、中華政治として世界平和路線のための 政策を打ち出すことが必要である。覇権主義はもってのほかである。習 近平がそれらの ことができる人物であるのかどうか、それを書いたのが以下の論文である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syuukin.pdf
3、尖閣列島問題に関して
(1)かっての野中広務発言に関して
尖閣諸島の領有権をめぐって、元官房長官の野中広務氏が発言した内容が波紋を呼んでい る。1972年の日中国交正常化した直後に、当時の田中角栄首相から「尖閣諸島の領有権に ついて日中双方が棚上げを確認した」と直接聞いたというのだ。 野中氏は6月3日、北京で中国共産党幹部の劉雲山・党政治局常務委員と会談した際にその 内容を伝えたと、会談後の記者会見で明かしている。朝日新聞デジタルは次のように報じ ている。 野中氏によると、「(日中)双方が棚上げし、そのまま波静かにやっていこうという話 だった」という。(略)野中氏は「当時のことを知る生き証人として、明ら かにしたいと いう思いがあった。私としてはなすべきことをしたという思いだ」と述べた。野中氏によ ると、田中氏は周恩来首相との国交正常化交渉を終えた直 後、箱根で開いた田中派の青 年研修で「棚上げ」について明らかにしたという。 (朝日新聞デジタル 2013/6/4 5:23) 尖閣諸島の領有権問題について、中国は「棚上げ合意」があったと主張しているが、日本 政府はこれまで認めていない。 外務省が公表した「田中角栄首相、周恩来総理会談」で は、1972年の第三回首脳会談で、田中氏が尖閣について質問し、周氏が「今、これを話す のはよくな い」と棚上げ案を返答したという記述にとどまっている。田中総理:尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。 周総理:尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。 石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。 (東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 「日中国交正常化交渉記録」) 一方で、今回の野中発言を政府は公式に否定。火消しに必死になっている。以下は、朝日 新聞デジタルの報道だ。 岸田文雄外相は4日午前の記者会見で「我が国の外交記録を見る限り、そういった事実は ない」と否定した。菅義偉官房長官も同日の会見で「棚上げや現状維持で合意した事実は ないし、棚上げするべき問題も存在しない」と述べた。 (朝日新聞デジタル 2013/6/4 10:57) 尖閣諸島は、沖縄県の石垣島の約170キロ北方に広がる無人島の一群だ。魚釣島(うおつ りしま)など、主に5つの島から成っている。1972年の沖 縄返還に伴って、米国から日本 に返還されたが、その前後から中国と台湾が領有権を主張するようになった。実効支配し ている日本政府は「日本領であることは明らか。領有権の問題はそもそも存在しない」と いう立場を取っている。 2012 年9月、日本政府は魚釣島など三島を地権者から20億5000万円で買い取って国有化し たことで、中国・台湾の両政府が強く抗議する事態となった。日本政 府を威圧する目的 で中国当局の船は、尖閣諸島周辺に繰り返し領海侵入しており、昨年9月の尖閣国有化以 降では46回にも上った。 強硬路線だった中国政府だが、ここにきて尖閣諸島の棚上げ論が浮上してきた。6月2日に は中国人民解放軍幹部の戚建国・副総参謀長が、シンガポールで開かれたアジア安全保障 会議で「棚上げ」に言及した。産経新聞の報道は次の通り。 戚氏は「東・南シナ海における中国艦船の航行と巡回活動は、中国領内での正当なもの だ。国家の核心的利益を守る決意と意思は揺るがない」と主張した。そのうえで「当面解 決できない場合は棚上げし、対話による解決策を探るべきだ」と述べた。 (産経新聞デジタル 2013/6/2 20:02) 今回の野中氏の発言は中国政府の意向と足並みを える物といえ、日本政府がどのように 対応するかに注目が集まりそうだ。
(2)加藤紘一の発言
2013年2月13日、日中友好協会の加藤紘一会長(元自民党幹事長)は日本記者クラブで記 者会見し、40年前の日中国交正常化交渉の際、田中角栄首相と周恩来首相が「棚上げ」で 合意している、と明言した。発言要旨は次の通り。 『 1月下旬に日中友好協会訪中団の団長として、村山富市元首相と共に訪中し、唐家セ ン元国務委員(元外相)ら中国要人と会談した。中国側も日中関係を早期に 改善すべき だとの認識だった。同席した李源朝政治局員(副主席に昇格見込み)は「尖閣諸島問題は 「棚上げでいい。あとは両国の外交部門にやらせておけばい い」と言っていた。中国も 日本も「(自国に領有権があり)領土問題はない」と言っており、双方が言い合ってい る。日本で「領土問題は存在する」「棚上げ」 と言うと「非国民」扱いとなってしまう が、このままでは(尖閣問題を)打開できない。 』 『 40年前の1972年の日中国交正常化交渉の際、田中角栄首相と周恩来首相が「棚上げ」 で合意している。日本政府は実効支配しながら事実上尖閣諸島を「棚 上げ」してきた。小 泉純一郎政権下でも島に上陸した中国人を立件せず、すぐ送還した。この合意を破ったの は、(2010年9月の)中国漁船の海上保安庁艦 船への衝突事件の時の民主党政権であり、 「言うだけ(番長)」の前原(誠一)国土交通大臣だ。船長を立件し、沖縄本島にまで連 れて行った。昨年9月の「国 有化」騒動も(棚上げ合意の変更ではないかと)中国は猛反 発した。 』 『 今年1月の山口那津男代表と習近平総書記との会談は大きな意味を持つ。安倍晋三首 相に対する中国側の信頼は厚く、過去の植民地支配への反省を盛り込んだ「河野談話」な どを後退させなければ、両国関係は改善に向かうと思う。』(3)米コロンビア大学・ジェラルド・カーティス教授の見解
米コロンビア大学政治学教授のジェラルド・カーティス氏は尖閣諸島をめぐる問題につい て、日本が国際司法裁判所に持ち込まないのは誤りだが、中国が そうすることに合意し ないだろうから、この問題は棚上げするのが得策だろうとの見方を示した。ウォール・ストリート・ジャーナルが6日に東京都港区のアー クヒルズカフェで開いたトークセッショ ン「WSJカフェ東京」で話した。 主な一問一答は以下の通り。 ──安倍首相は領土問題にどのように対処しているか。 「これも頭脳と心情の問題だ。つまり、実用主義と一段と観念的なアプローチの問題だ」 「領土問題は3つある。中国との尖閣諸島の問題と、韓国との竹島問題、さらに、ロシア との北方領土の問題だ。これら3つの問題について、深刻なのは1つだけだ。それは尖閣問 題。これは潜在的に非常に危険な問題だ」 「竹島問題はそうでもない。韓国人が独島(竹島)について語ったり、大統領がこの島を訪 れるのを止めて静かにすれば、われわれは大ごとにするつもりはない、というのが日本の 政権の見方だと考える」 「日本にはこうした諸島を奪還する希望はないし、軍事力を行使する意図もない。しか し、韓国の指導者がこれは韓国の領土だと言えば、日本の指導者は 国内的にはいいや違 う、それは島根県に属すると主張するだろう。この問題は完全に対処可能だと私はみてい る。また、韓国側もそう考えていると確信してい る。したがって韓国の李明博(イ・ミョ ンバク)前大統領が竹島を訪問するというようなばかげたことをするのは完全に国内向け で、政治的な理由からで、私の 見方では非常に無責任な行為だ」 「2つ目は、北方領土問題だが、これは重要ではない。どうなるかに注目する価値はある が、この問題は解決する可能性がある。その理由は2つだ。1つ は日本には大きなエネル ギー問題が存在すること。原発の再稼働は当面難しいだろう。日本経済が拡大すればする ほど、エネルギーがますます必要になる。米国 からのシェールガス輸入については多くの 期待がある。しかしまた、ロシアから輸入できる天然ガスも大量にある。そして、ロシア はそれを輸出したがってい る」 「もう1つは、安倍首相が各国を訪問していることだ。首相はモスクワを訪問しプーチン 大統領に会った。中国を取り囲むあらゆる国を訪れた。これが、 北方領土問題の解決が 不可能ではない理由だ。この地域の地政学的バランスの問題だ。日本がついに平和条約に 調印し、大いに経済交流を行うと想像してみてほ しい。中国政府はよく思わないだろう が、日本の強さを示すことになろう」 ──日本はロシアとの間でどのような妥協ができるだろうか。
「2プラスアルファ―と呼ばれるものだ。つまり、ここで問題になっているのは4島で、そ のうちの2島は、日本が平和条約に調印する際にロシアが返還 することで合意した。4島 のうち、小さな方の2島だ。したがって問題となるのは、日本が示している公式な立場通 りに、安倍首相が4島全部にこだわる場合に は、解決は見られないだろう。したがって、 2島プラス他の2つということだ。様々な形式が協議されている。1つは領土すべてをたし て割って半分ずつという もの。あるいは、この問題を解決せずに50年か100年、共同で管 理し、100年後の国民に考えさせるというものだ。実際、これが最善の解決策だ。した がって、意思があれば道はあるということだ」 ──中国についてはどうか。 「これは非常に危険だ。安倍首相は実際、これは歴史的にも国際法に照らしても日本の領 土で、議論の余地は全くないとの立場に固執している。習近平国 家主席に会って多くのこ とについて語るのが非常に楽しみだが、尖閣諸島の問題での妥協については尋ねないでほ しい、尖閣諸島は日本の領土だ、受け入れるべ きだ、というのが日本政府の立場だとみ ている。そして、中国政府の姿勢も同じくらい頑なだ。これは中国の領土なので、何とし ても取り戻す」 「したがってこの状況が続く限り、日本にとっての は米国を味方に付けておくことだ。 米国の見方は米国が尖閣諸島に関して日本を見はなせば、安全保 障条約自体が紙切れ同 様になってしまうというものだと私は考えている。この条約は何のためのものか。日本の 施政権下にある尖閣諸島を守ることを米国にコ ミットさせるものだ」 「尖閣諸島は日本の施政権下にある。これが奇妙なほどに難しい問題になっているのは、 日本の尖閣諸島の領有権を米国が認めていないことだ。米国は中 立だ。米国の公式な立 場は、あなたたち(日本)が中国と折り合いをつけるべきだというものだ。双方で解決せ よと。しかし、日本政府は尖閣諸島を支配してい るので、米国は日本の支援にコミットし ている」 「中国側は、中国人も尖閣諸島近海に出向くことができ、日本人はそれを止められないと 主張し、また、中国も同諸島に対し高度な施政権を行使している と主張するために、日 本政府の施政権を徐々に弱めようと試みている。中国側がその議論を正当化できれば、米 国の立場は弱まるだろう」 「問題は、可能な妥協などあり得るかということだ。答えは、あるというものだ。実際、 田中角栄元首相は1972年に当時の周恩来首相と妥協に達し、 1978年には鄧小平氏もその 立場を繰り返した。忘れて、棚上げしよう。日本政府はそうした姿勢を取ったことがある ことを否定している」
「日本政府の見方はいわゆる棚上げも含め、議論することは何もないというものだ」 「われわれは、棚上げという言葉を安倍首相と習主席に言ってほしいと思っている。この 問題はあまりにも複雑すぎるということだ。そのままにしておく ほうがいい。日本は施 政権を保有している。中国は漁業権をはじめとする他の全権を有している。そしてそのま ま棚上げしたほうがいい」 「他の解決策は、この問題を国際司法裁判所に持ち込むことだ。中国側はこれを拒否して いる。日本はもっと強力にこの策を支持しないことによって過ち を犯していると私は考え ている。日本政府の見方は、問題は存在しないというものだ。しかし、中国人がこれを問 題だと考えれば、このケースを国際司法裁判所 に持ち込むことができ、われわれは合意 するだろう。安倍首相はそうしないとは言っていない。しかし、中国人は自分たちが負け ることが分かっているので、そ うしないだろう」 以上のとおり、尖閣列島問題については、 中国は「棚上げ合意」があったと主張している が、日本政府はこれまで認めていない。 外務省が公表した「田中角栄首相、周恩来総理 会談」では、1972年の第三回首脳会談で、田中角栄が尖閣について質問し、周恩来が 「今、これを話すのはよくな い」と棚上げ案を返答したという記述にとどまっている。 そうだろう。正式文書に残っていないとしても、周恩来が「今、これを話すのはよくな い」と棚上げ案を返答したことは事実であるし、私としては、日本の大恩人・周恩来の見 識に従って行くのが良策だと思う。米コロンビア大学政治学教授のジェラルド・カーティ スの言うとおり、中国政府も日本政府もだ。