【特集:南シナ海問題をめぐる力と手法の非対称】
中国海洋行政の発展
南シナ海問題へのインプリケーション
益尾知佐子
はじめに
国連海洋法条約(United Nations Convention on the Law of the Sea, 以下 UNCLOS と略)は、一般 条約として初めて、沿岸国が設定できる領海の許容限界を基線から 12 カイリと定め、ま た沿岸国に基線から 200 カイリまでの排他的経済水域(EEZ)を、そして領土の自然延長 部分につき大陸棚を、それぞれ設定できるよう認めた(山本、1985: 363、379、396–407)。 UNCLOS が 1994 年 11 月に国際的に発効したことで、世界は「海洋再分割の時代」に突入 することになる。例えば EEZ について UNCLOS は、向かい合う、もしくは隣接する沿岸 国どうしは、国際法に基づく「衡平な解決」を目的としてその画定を行わなければならな いと定める(第 74 条第 1 項)。だが UNCLOS は「衡平な解決」を求めるための基準を示せ なかった。外交上の協議がうまくいかず、また関係国が海洋境界の画定を国際法廷に委託 しなかった場合には、同じ海域(あるいは島・岩礁)に対して複数の国の管轄権(もしくは 主権)主張が重複する状態が、長期にわたって続くことになる。海洋画定作業が遅々とし て進まない東アジアでは、多くの海域がなおそうした状態に置かれている。この地域の海 洋摩擦は、UNCLOS の発効とその後の海洋再分割の不調がもたらしたものとも言える。 沿岸国が係争海域というグレーゾーンに対して取りうるアプローチは、大きく二種類に 分けられる。第一に、海域の国際的な未画定性を認め、相手国の潜在的な権利をも尊重し ながら、可能であればさらに相手国と協力して摩擦の管理に務める、いわば国際的アプ ローチである。第二に、重複海域に対する自国の権利を確保し維持するため、それを自国 の管轄海域とみなし、そこでの国内行政力を強化して海域の実効支配の確立に務める、い わば国内的アプローチである。こうした係争海域の取り扱いに定型は存在せず、ほとんど の国は二つのアプローチを同時併用している。また、例えば国際的アプローチを重視して いた国が、相手国との交渉の不調により国内的アプローチを強めるなど、両者の間の重点 は経年的に変化しうる。 近年、中国の南シナ海政策は中国外交の「強硬」化を示す事例として取り扱われてい る 1)。だが 2000 年代の前半には、中国は南シナ海問題で周辺国との協力を進めたことも あった。2002 年 11 月には ASEAN と南シナ海行動宣言を発表したし、2005 年 3 月には資
源共同開発の前提としてフィリピン、ベトナムと共同地震調査の実施で合意した(国家海 洋局課題組、2009: 112)。これにより、1990 年代に東南アジアで広まった「中国脅威論」は 一時かなり下火になった。ただし、その後中国は、中国海監総隊や中国漁政(現在はとも に中国海警局)を動員して係争海域で実効統治の拡大を推し進めた。南シナ海問題に対す る中国の姿勢は明らかな変化を遂げたが、では、それはなぜ、どうして起きたのか。また、 中国の南シナ海政策は現在、どのような方向に発展しているのか。 中国の対外姿勢の転換点は、かつては 2009 年 7 月の第 11 回駐外使節会議とする説が強 かったが(増田、2013: 88–91)、青山瑠妙の指摘により、最近ではより早く、2006 年 8 月の 中央外事工作会議とみる説が有力になっている(益尾他、2017: 184–186)。青山はこの会議で、 (経済)発展の利益の擁護という中国のそれまでの外交目的に、国家主権と安全保障の擁護 が加わったとする(青山、2013: 53)。昨年出版された『胡錦濤文選』では、胡錦濤総書記が 会議で実際に以下のように発言し、国家主権や安全保障の貫徹のために新たな行動を呼び かけていたことが裏付けられた。「対外工作は、…国家主権、安全保障、発展の利益の擁 護に資するものでなければならない。」「我々は対外工作のイニシアティブを拡大していく べきだ…。新たな行動をとっていく〔有所作為〕ときの基礎は、国家利益を擁護し発展さ せることの上に置くべきだ…。…核心利益については、旗印を鮮明にし、原則を堅持し、 寸分の妥協も許さず、ますます擁護を貫徹していくべきだ」(胡、2016: 508–509、518–519)。 ただし、この胡錦濤の発言の背景、そして対外政策転換と南シナ海問題との関連性は、こ れまでほとんど検討されてきていない。 ここで重要と考えられるのは、中国の立場に基づけば、南シナ海を含む管轄海域の問題 は必ずしも外交問題ではないということだ。海の領域に関する中国の主張は、詳しく見れ ば多くの曖昧さを抱えている 2)。中国は中華民国の主張を引き継ぎ、南シナ海に「九段線」 を引いてその内側の管轄権を要求してきた。国際法上の海域区分におけるその位置付けの 不透明さはこれまでも問題視されてきたが(佐藤、2010)、実際には「九段線」の引き方す ら地図ごとに微妙に異なっている。東シナ海については、中国は沖縄トラフを自国の大陸 棚の外縁と主張するが、具体的にどこまでを自国の管轄海域と考えているのかを地図に示 してはいない。にもかかわらず、中国は極めて意欲的に海洋権益の擁護の貫徹を唱えてい る。中国国内の計算によれば、中国の管轄海域は約 300 万平方キロに及び、そのほぼ半分、 約 150 万平方キロの海域が他国の主張と重複する(斉他、2013: 107) 3)。つまり、ほぼモンゴ ル一国の面積に相当する広大な領域が、中国の立場から見れば自国のもの、国際的に見れ ば係争海域なのである。先行研究はこのグレーゾーンの国際性に着目し、中国の対外政策、 すなわち国際的アプローチの側面から中国の南シナ海への関わりを検討してきた 4)。しか し国内的アプローチを視野に入れなければ、中国の海洋政策に関してバランスのとれた全 体像を結ぶことはできないだろう 5)。 そこで本稿は、国家海洋局の組織史を検討し、国内行政において中国の南シナ海政策が どのように編み出されてきたのか、今後どのように発展する見込みかを分析したい。国内
行政としてこの問題を見るとき、政府におけるその所管部門は、外交部ではなく国家海洋 局となる。同局に対する研究者の関心は、これまで基本的にその海上法執行機関である中 国海警局(2013 年以前は中国海監総隊)に集中し、組織編成や装備が重点的に研究されてき
た(Erickson and Collins, 2013; Martinson, 2014)。これは中国海警局を中国海軍に次ぐ準軍事力
と捉え、それと周辺国との力の対比を分析することで、中国周辺の海の未来を占おうとす るリアリスト的発想であったと言える。だがまさにそのために、国家海洋局が国務院の行 政組織として、早くから海洋管理体制の構築を図ってきたことはほぼ看過されてきた。実 際には国家海洋局は、中国の海洋政策の方向性を主体的に打ち出してきている。例えば中 国共産党が 2012 年 11 月に国家目標に掲げた「海洋強国」建設を、国家海洋局の張登義局 長は早くも 1998 年 5 月に提唱していた 6)。 国家海洋局はなぜそのようなアイディアを抱いたのか。そしてそれはなぜ、14 年もの時 を経て指導部に受け入れられたのか。以下では、国家海洋局の任務や役割を時期ごとに整 理し、その問題関心や指導部との関係の変遷を分析することで、中国の海洋政策、そして 南シナ海政策の展開を検討していく。
Ⅰ 国家海洋局の成立から文化大革命期
国家海洋局は 1964 年 7 月、国務院総理の提出議案に基づき、「海洋工作を強化し、我が 国の海洋事業の発展をさらに促進し、国防建設と国民経済建設のニーズに応えていくた め」、国務院直属機構として成立された。国家海洋局の科学調査研究工作の方針や政策、 長期計画(中国語で規格、以下同)、年度計画などは科学技術委員会が管轄し、その監督・ 検査、党の領導(強制力を伴う指導)、政治工作、行政管理、組織編成、海上行動の指揮に は海軍が責任を負った(張・劉、2000: 109)。初代局長は元海軍南海艦隊副司令員の斉勇で、 国家海洋局は海軍の支援を受けながら組織を立ち上げていった。 1966 年には文化大革命が始まった。70 年 6 月、国家海洋局は科学技術委員会の管理を 離れ、国務院に所属したまま海軍の直接領導の下に入る(張・劉、2000: 131)。これは国内 的にも国際的にもかなり微妙な時期だったとみられる。69 年 3 月の中ソ国境紛争を経て、 翌月、中国では中共第 9 回全国代表大会が開催され、国防部長の林彪率いる軍を中心に社 会の混乱収拾と秩序回復が図られた。しかし、林は 71 年 9 月に「クーデター」とされる 事件を起こし、中国からの亡命を図る途中にモンゴル上空で墜落死した。国内のムードは 一転して軍の権力肥大には厳しい視線が注がれ、軍は政治的に極めて難しい立場に立たさ れた。 他方、中国が海洋権益意識に目覚めたのもこのころだった。1968 年末には国連のアジア 極東経済委員会(ECAFE)が尖閣諸島周辺の海底油田の存在を指摘し、70 年 6 月には台湾 の中華民国政府が尖閣諸島の領有を主張し始めていた。これを受け、同年 12 月 31 日には『人民日報』が、「中国は東シナ海の大陸棚に主マ マ権を擁している」という論調を展開し、大 陸棚という新しい国際的概念を初めて紹介し、それと尖閣諸島とをセットとして、双方に 対する権利を訴え始める。中国の尖閣諸島に関する主張は、大陸棚への海洋権益意識と不 可分な形で出発するのである。翌 71 年 10 月、中国は国連に加盟し、72 年 2 月には国連の 海底平和利用委員会という実務会議に外交部と国家海洋局の代表を派遣した 7)。中国はこ こで初めて、UNCLOS 制定に向けた大掛かりな国際的議論の展開を理解することになる (毛利、近刊)。国家海洋局とその上部組織の海軍にとって、指導部に中国の海洋権益擁護 の重要性を訴えていくことは、職責貫徹のためにも組織の保身のためにも必要だったはず である。 中国はそれまでも南シナ海の「九段線」内の領有を主張していたが、そこでの実効支配 の足がかりはほとんど築いていなかった。ベトナム統一の前年の 74 年 1 月、中国海軍は 風前の灯火となった南ベトナム軍からパラセル諸島を武力奪取する挙に出た。海南島に置 かれた国営企業、南海水産の社史は、同社が 73 年 10 月に「上級の指示に基づいて」南シ ナ海漁労隊を編成し、それまで出漁していなかったパラセル諸島に漁業基地を構築し、海 上民兵として南ベトナム軍を挑発する役割を担い、中国海軍のため南ベトナム攻撃の口実 を作っていく様子を記述している(海南省遠洋漁業総公司編志弁公室、1991: 119、126–131)。こ れは中国が、UNCLOS の将来的な制定を念頭に、自国の主張と現実との差を実力で埋めよ うとした最初の事例となった。
Ⅱ 改革開放初期
改革開放時代の到来は、国家海洋局の外部環境を大きく変えた。経済発展が国家の優先 事項となり、国家海洋局にもそれへの奉仕が求められたのである。 改革開放の初期、中国が外貨獲得のため最も期待した輸出品は、大慶油田の発見をきっ かけに国内生産が可能になった石油であった。おりしも 79 年 11 月には渤海湾で石油リグ 「渤海 2 号」の転覆事故が起き、大規模な海洋汚染と経済損失が発生した。関連幹部の処 分が続く中、1980 年 10 月には国家海洋局の代理管理組織が海軍から国家科学技術委員会 (科学技術委員会の後身)に戻された。これは国家海洋局を、国務院の下で全国の海洋工作 を管理する職能部門に転換させるための措置であった。以後、国家海洋局は、国家計画委 員会に海洋工作の長期・単年度計画を直接報告して国家計画の一部を担い、必要経費も財 政部から直接支給されるようになった。また遠洋以外の海域では、海軍とは別個の指揮・ 通信システムの構築に着手した(張・劉、2000: 109–110)。こうして国家海洋局は、海軍か ら自立し、国家行政を担う官僚機構として新たな歩みを始める。 このころ国務院では、対外開放の窓口となった沿海部の管理強化が課題になっていた。 1980 年から 85 年にかけ、国家海洋局など 5 部門が合同で全国沿海域・干潟資源総合調査(全国海岸帯与海涂資源総合調査)を初実施し、中央から地方に連なる海洋管理体制の整備が 始まった(寧凌、2009: 29)。82 年の国務院機構改革では、国家海洋局は国家計画に関して は国家計画委員会の、経済部門との協力については国家経済委員会の指示を受け、また海 洋調査工作では海軍と緊密な連絡関係を強化すると定められた(張・劉、2000: 110)。 ただし総じて、この段階で国家海洋局に最も期待されたのは、経済発展を側面支援する ための環境保護対策であった。1983 年 3 月の「海洋環境保護法」の施行により、国家海洋 局の海洋環境監視船は中国の管轄海域(当初はおそらく沿岸地帯)でパトロール活動を始め ていた(国家海洋局編輯部、1986: 998)。90 年 9 月に初公布された国家海洋局令第 1 号・第 2 号も環境保護に関するものだった(国家海洋局編輯部、1991–93: 26–28)。つまり国家海洋局は、 「部(省レベル)」ではなく「局(庁レベル)」という位置付けが示す通り、改革開放に邁進 する国家行政の中で周辺的な存在だった。 さはさりながら、海の専門集団である国家海洋局の側には、中国はどのように海洋に関 わるべきかという問題意識が強く存在した。1974 年以降、UNCLOS 制定に連なる国際会 議で中国代表を務め、80 年ごろに国家海洋局の局長となった羅鈺如は、85 年 2 月の会議 で次のように任務の優先順位を示している。「海洋局の今後の工作の方向性は、主に海洋 管理の面で体現していかねばならない。職責を尽くして海洋権益を守り、海洋資源を守り、 海洋環境を守って、産業ごとの業務管理を進めていかねばならない」 8)。国家の海洋権益、 経済、科学など多様な分野のニーズに応える海洋工作の土台として、国家海洋局はすでに 総合的な海洋管理という新たな方向性を見出していた。 また、上記からも窺えるように、海洋権益擁護への国家海洋局の関心は高かった。羅鈺 如が第一編者を務め、1985 年に出版された『当代中国的海洋事業』は、当時の中国の海洋 認識を示す貴重な書籍である(羅・曽、1985)。特に興味深いのは、同書が南シナ海の島々 と尖閣諸島の領有権について対照的な記述を行っていることだろう。同書は前者について は強く主張するが、後者についてはまるで何かのタブーが存在するかのように言及を避け ている。だがそれでも同書は、東シナ海の大陸棚権益には多くのページ数を割き、その確 保を強く主張していた。つまり中国の海洋専門家たちが、尖閣諸島に関しておそらく上部 から何らかの制約を受けた後も、UNCLOS の国際発効を控え大陸棚権益の確保という観点 から、島の領有権に関心を寄せ続けたことを暗示するのである。 中国は 1988 年 3 月にはソ連の庇護を失ったベトナムと交戦してスプラトリー 6 島礁を 奪った。さらに 1992 年 2 月には「領海法」を制定し、南シナ海の島々だけでなく尖閣諸 島をも中国領と明記した。「領海法」の起草工作には国家海洋局も参加している(国家海洋 局編輯部、1991–93: 32)。93 年に中国が石油の純輸入国に転じると、中国は積極的に海底油 田の探査を行うようになり、94 年ごろから国家海洋局の科学調査船が東シナ海の等距離中 間線の東側にも姿を現すようになった。また、92 年 11 月にフィリピンから米軍が撤退す ると、中国は 95 年までにフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(スプラトリー諸島 に含まれる)を占拠するようになった。
Ⅲ 国連海洋法条約への適応
1994 年には UNCLOS が国際発効し、96 年 5 月 15 日には中国もこれを批准した。同日、 中国政府は「中華人民共和国の領海基線に関する声明」を発表し、大陸部およびパラセル 諸島にかかる自国の領海基線を宣言した。UNCLOS の国内発効を受け、国家海洋局の取り 組みには大きな変化が生じていく。 まず 1996 年 4 月、国家海洋局は『中国海洋 21 世紀議程』を発表し、今後の海洋工作の 課題を初めて包括的な文書にまとめた(国家海洋局、1996)。これは全体としては、持続可 能な海洋利用や沿海部への人口集中を踏まえた海洋開発などに多くのページ数を割き、海 洋の経済利用に強い関心を示していた。もっとも、その根拠となる国際的な海洋秩序観に は極めて厳しいものがあった。『議程』は冒頭で、「海洋を大規模に開発する能力を持つの は少数の先進国に限られ、海洋の全面的な開発と利用は大多数の国家を包括した地球規模 のものになっていない」と述べ、UNCLOS を活用して海洋を「大多数の国家」の側に引き 戻す必要性を唱えた(国家海洋局、1996: 1.1)。国家海洋局の理解によれば、UNCLOS の発 効により、「海洋権の再分配は新段階に入り、200 カイリ以内の海域〔管轄海域〕は徐々に 国土化し、公海と国際海底は国際的な共同管理の方向に発展していく」(国家海洋局、1996: 1.2)。すなわち国家海洋局は、中国の管轄海域から他国の影響を排除してその「国土化」 を進め、並行して公海域の国際共同管理に食い込んで応分の利権を確保することが、「海 洋覇権主義を打破し、海洋の持続的利用を進める」(国家海洋局、1996: 10.6)ための重要な 任務と認識していた。 こうした考え方に基づき、『議程』は、自国管轄海域における海洋権益の確保、そして 国際海域における中国の影響力と利益の確保という二つの方向性を打ち出した。そのうち 本稿が分析対象とする前者に関しては、無人島および沿海部・管轄海域の管理状況に強い 危機感が持たれた。特に無人島は、その多くが長い間「誰も管理していない状態に置かれ」、 「一部の島嶼の主権は激しい侵犯を」受けているとみなされていた。その対策として『議 程』は、立法措置による行政管理の開始、島への定期パトロールの実施、開発利用の許認 可制度の立ち上げ、島と周辺海域の資源開発の長期計画策定などを提起した(国家海洋局、 1996: 4.28–37)。また沿海部・管轄海域についても、海洋権益、海洋資源、海洋環境の保全 という観点から、海洋法制の構築と海上法執行の強化、全国的な海洋総合管理体制と部門 間の協調メカニズムの構築などを提案した(国家海洋局、1996: 7.6–24)。国家海洋局はその後、 こうした項目に依拠して海洋政策を進めていくが、この段階では UNCLOS に基づく海洋 境界画定の必要性も認識され、「平和的な方法を求め、交渉で国家間の係争を解決してい く」(国家海洋局、1996: 10.8)ことも謳っていた。 国家海洋局が次に行ったのは、管轄海域に関する自国の主張を整理し、来るべき海洋画 定交渉に備える作業だった。1998 年 6 月、中国は「排他的経済水域及び大陸棚法」を発表し、領海基線から 200 カイリまでを EEZ、自国の陸地領土のすべての自然延長部分を大陸 棚とした。同年中、国家海洋局は『中国海洋政策』を制定し、黄海、東シナ海、南シナ海 など海域ごとの管轄権主張を政策化した。これに依拠した書籍によれば、同文書は管轄海 域を拡大するため UNCLOS のどの論拠に基づいて各海域の画定交渉に臨むべきかを検討 したものだった(于・王、2008: 112–116)。国家海洋局はこのとき、UNCLOS に合わせて自 国の海域主張を整理するのではなく、自国の政治的主張の実現に UNCLOS をどう利用す るかという発想で作業を行ったため、中国として広大な管轄海域を主張し続けることにな り、またそれぞれの海域に対する法的根拠もちぐはぐなものになった。これにより結果的に、 国家海洋局は国際法に基づく他国との境界画定交渉へのハードルを上げることになった。 さらに同じころ、国家海洋局弁公室とその海洋発展研究所が『中国の海洋強国戦略』を 起草した。この文書は、シーレーンの安全や公海・国際海底における資源開発配分を見据 え、管轄海域を超えたより広い範囲で中国の海洋主権と権益を確保し、「海洋強国」を建 設していく長期戦略を構想した(于・王、2008: 112–116)。1998 年 5 月に張登義局長が「海 洋強国」の目標に言及したのは、この文書に基づくものだったとみられる。 しかし、国家海洋局が打ち出したこの壮大な目標が、国務院の中で共有されていたとは 言い難い。経済発展の継続のため、中国ではエネルギーの確保が急務であった。1998 年 3 月の国務院機構改革では国土資源部が新設され、大型石油企業を傘下に抱える巨大省庁が 誕生した。このとき、国家海洋局は海洋資源の行政管理機能を国土資源部に委ね、自らは その管理を受ける行政機構となった。国家海洋局の新たな任務は、海域使用管理、海洋環 境保護、法執行などによる海洋権益の擁護、海洋科学技術研究の組織化・監督と定められ た(張・劉、2000: 110)。国土資源部の傘下に入ったことで、国家海洋局はより直接的に経 済実利への奉仕を意識するようになったであろうが、官僚組織におけるその位置付けはあ くまで補助的なものに留まっていた。 国家海洋局の意欲と上位レベルの期待の落差を示す最初の事例が、海洋権益擁護の実行 部隊の取り扱いである。南シナ海における状況は不明だが、東シナ海では国家海洋局の海 洋科学調査船が 1994 年ごろから尖閣諸島に近づいていた。日本の報道で最初の領海進入 があったとされるのは同年春だが、これが無害通航だったかどうかは不詳である。だが調 査船は 96 年 9 月上旬には二度、明らかな領海侵犯を行った 9)。さらに 97 年 4 月と 98 年 4 月にも尖閣諸島の領海に姿を現し、複数回の侵入を繰り返した(第 11 管区海上保安本部、 2012: 3)。国家海洋局のそれまでの立場に依拠すれば、これが中国の海洋権益を擁護するた めの示威行動だったことは間違いない。ところが同年 11 月の江沢民来日などを経て、日 中の外交交渉の中で東シナ海問題が争点化すると、中国公船による尖閣諸島の領海への進 入は 2008 年まで発生しなくなる。海洋権益をしっかりと擁護していきたいという調査船 の行動は、指導部レベルから抑止された可能性が高い。 もう一つの事例は、中国海監総隊の設立である。1997 年 9 月、国家海洋局は中央機構編 制委員会弁公室に報告書を提出し、統一的な海上法執行部隊の構築を訴えた。98 年 10 月
には国家海洋局に、既存の船舶航空機派遣指揮センター(船舶飛機調度指揮中心)を改組し、 局内に中国海監総隊を設立して新たな海上法執行部隊の一つとすることが認められた。新 組織は 99 年 9 月に王暁光を総隊長として発足している(中国海監総隊、2010: 20–31)。ただし、 上記報告書は複数の海上法執行部隊が統一されるまで、それらの間で暫定的な協調機能を 構築するよう訴えていたが、その機能が新組織に与えられた記録はない。しかも国務院改 革の中、中国海監総隊の人員編成は指揮センター時代から 45% 削減されていた。2000 年 3 月、国家海洋局は国家発展計画委員会に海監船 13 隻と海監用航空機 5 機の建造を申請し たが、1000 ∼ 3000 トン級の海監船 6 隻、航空機 2 機、総額 4.5 億元のみが認められた(中 国海監総隊、2010: 29、39–40)。海上法執行の質と量の向上に向けた国家海洋局の意気込みは 高く、彼らにとってこうした状況ははがゆいものだったに違いない 10)。 海洋政策への国内の無理解を改善するため、この間、国家海洋局は研究者や海軍の戦略 家の中に理解者を増やすべく努力している。1994 年には太平洋学会や中国社会科学院アジ ア太平洋研究所と協力し、学術誌『太平洋学報』の刊行を始め、海洋法学会などとの連携 も深めた。99 年 8 月には国家海洋局は第一回海洋戦略高級検討会を開催し、海軍や研究機 関などから参加者を得ている(国家海洋局編輯部、1999–2000: 54–55)。専門家の少ない海洋問 題では、所属機関を超えた意見交換がもともと重視されていたようだ。
Ⅳ 反日ナショナリズムの追い風
21 世紀に入ったころから徐々に、国家海洋局をめぐる国内環境は質的転換を迎える。 2001 年 1 月の春節前夜、温家宝副総理が国家海洋局を訪問し、南極観測隊を慰問し、中国 海監総隊を視察して海上行政・法執行状況に関するブリーフィングを受けた(国家海洋局 編輯部、2002: 62)。実務的にはこれは、翌月日中間で成立する海洋科学調査の相互事前通報 枠組みに関連するものだっただろう。逆説的だが、中国の海洋権益を確保しようと係争海 域で積極的に調査を展開していた国家海洋局の活動が、それを快く思わない日本側の指摘 で、ようやく指導者に認知され始めていた。 同年初めには第 10 期五カ年計画の策定が進められていた。3 月には朱鎔基総理、さらに は江沢民総書記から国家海洋局に対し、海洋資源の総合管理や法整備の遂行に関する指示 が下りた。同月に採択された第 10 期五カ年計画の要綱には、「海洋資源調査、開発、保護 と管理の強度を上げ、海洋で利用できる技術の研究開発を強化し海洋産業を発展させる。 海域の利用と管理を強化し、国家の海洋権益を擁護する」と、海洋関連の目標が初めて盛 り込まれた(国家海洋局編輯部、2001: 62–63)。それまで一向に目立たなかった国家海洋局に とり、これは画期的な出来事であった。 国家海洋局は次に、「海域使用管理法」の制定にこぎつけた(内水や領海に対して適用、 2001 年 10 月 27 日公布、2002 年 1 月 1 日施行)。これにより、国家海洋局は「全国海洋経済発展長期計画」を策定し、全国的な海洋機能区分制度(功能区画制度)を実施することになっ た。同様の制度は実際には国家海洋局の下で 1993 年から実施されており、この措置はそ れを法的に追認するものだった(近海および一部 EEZ に対して)。こうして国家海洋局は、全 国の海洋利用を取り仕切る権限を法的にも獲得した。 ただし、指導部の中で国家海洋局への認知度を高めたのは、東シナ海での海上法執行 だったと言えよう。国家海洋局は第 10 期五カ年計画に合わせ、2001 年 4 月に海洋工作要 綱を策定し、大陸棚や EEZ でも計画的なパトロールと監視活動の実施を掲げていた(中国 海監総隊、2010: 56)。12 月 22 日には東シナ海で九州南西海域工作船事件が発生した。日本 の EEZ で発見された不審船(北朝鮮工作船)が、海上保安庁の追尾を受けて日中中間線の 西側に逃走し、日本側との銃撃戦ののちに自爆自沈したのである。中国海監総隊はこれを、 「日本が外国船に対して戦後初めて気が狂ったように武力を使い」、「我が国の海洋権益を 激しく侵犯した」事例と指導部に訴えた。日本側が不審船を引き上げるまでの 9 ヶ月間、 海監総隊は現場で大規模、高強度の監視活動を続け、「党中央、国務院、および関連職能 部門の指導者たちから高い評価を受けた」という(桂、2011: 22–25; 中国海監総隊、2010: 75– 76)。 この経験を踏まえ、国家海洋局は指導部に海上法執行の実績を積極的にアピールし始め る。その一環として、2003 年 1 月からは毎年、「海洋行政法執行公報(海洋行政執法公報)」 が刊行されるようになった(中国海監総隊、2010: 83)。2003 年 5 月から 12 月には、中国海監 総隊が「海盾 2003」と題する特別法執行運動を初展開し、外国船への監視活動の実施を強 調した 11)。9 月には国家海洋局は、中国の管轄海域における米軍の軍事活動についての報 告書を外交部、総参謀部、海軍に送付し、温家宝総理らから反応を得た(中国海監総隊、 2010: 87–89)。管轄海域における外国勢力への海上法執行は、このころから「権益擁護」活 動という特殊な名称で呼ばれるようになっていく。他方、穏健派の胡錦濤総書記は、当時 中央軍事委員会主席就任をめぐって軍や江沢民派から批判を受けていた(益尾他、2017: 185–186)。世論からも「軟弱」と突き上げられた胡は、11 月には中国の海上法執行の問題 点とされていた「多龍管海」(複数の法執行機関が交錯しながら海洋を管理している状態)に関 する文章を読み、海洋権益と安全保障の擁護の名目で、温家宝総理に海上法執行の機能強 化に向けた方策の検討を指示した(中国海監総隊、2010: 92)。 最高指導者の後押しを得て、国家海洋局、特に中国海監総隊をめぐる環境は劇的に改善 に向かった。2004 年 1 月 19 日(春節前夜)には曾培炎副総理が国土資源部部長の孫文盛ら と総隊を視察している。3 月には急遽、強化プラスチック製の小型法執行船 27 隻が措置さ れ、翌年 3 月までに全国配備された。そのほか、新たにスチール製海監船の建造や改造な ども決まり、2000 年に措置された新造船の就航も加わって、「海に出ようにも船がない」 という装備の問題は解消されていった(中国海監総隊、2010: 94–101、107)。 ここで再び、東シナ海の緊張が国家海洋局に追い風を送ることになる。中国は 2004 年 6 月、日中中間線のギリギリ西側の春暁ガス油田で海底パイプラインの敷設工事を始めた。
日本政府はこのガス油田によって日本側の資源が吸い上げられることを懸念し、中国に地 下構造に関する情報開示を求めたが拒否された。7 月、日本側が同海域で独自調査に乗り 出すと、中国海監総隊東海総隊は翌年 6 月までの間、日本側の「一方的」調査に対し監視 活動を展開した(中国海監総隊、2010: 112)。東シナ海の沖合で、「日中は海洋資源をめぐっ てにわかに緊張し始めた」 12)。 同じころ、中国では反日世論が激化していた。小泉純一郎首相の度重なる靖国神社参拝 によって、世論レベルで日本の歴史認識への不満が急拡大したためである。2004 年 7–8 月 にはサッカーのアジアカップでの騒動があった。翌年 4 月には、日本の国連安全保障理事 会常任理事国入り申請を契機に、中国全土で大規模な反日デモが発生した。反日世論の政 権批判への転化を懸念した胡錦濤は、政治局常務委員会の緊急会議を招集したとされ る 13)。国内状況に対応するため、日中対立の象徴とみなされ始めた「釣魚島」や東シナ海 の問題で厳然とした態度を示すことは、党指導部の重要な課題になっていった。 こうしたムードの中で、新たな課題に応える手段として位置付けられたのが、中国海監 総隊による海上法執行である。海監の東海総隊が提出した「東シナ海管轄海域画定」に関 する報告書に対し、2005 年 8 月末には胡錦濤が「重大指示」を下した(中国海監総隊、2010: 114)。これは、翌年立ち上がる東シナ海の定期パトロール制度に関するものだった可能性 が高い。2006 年 4 月末には、国務院が東シナ海ガス資源に関する国家海洋局の海上法執行 案を承認した。6 月初めには、国務院の関連部局、軍、国営石油企業などの代表者が「中 国海監 83」上で船上座談会を開いた。7 月には国務院が、東シナ海の資源問題への対処を 理由として、同海域における権益擁護パトロール法執行工作の定期化を承認した(中国海 監総隊、2010: 128)。胡錦濤が新たな外交目的に言及したのは、その直後の 8 月であった。9 月には、前年 1 月に申請されていた中国海監船の第 2 期建造プロジェクトを国家発展改革 委員会が承認し、海監船 7 隻、航空機 3 機の新造が決まった(中国海監総隊、2010: 107)。 この 2000 年代前半には、南シナ海問題は中国と ASEAN 諸国の間で外交的に管理され落 ち着いていた。ただし、指導部が主に日本を念頭に承認した「権益擁護」活動は、国家海 洋局という官僚組織を通して中国の管轄海域全体に拡張され、対外関係のバランスを突き 崩していくことになる。
Ⅴ 係争海域における力の行使
いったん歯車が回り始めると、国家海洋局は対日関係以外の分野にも、独自の問題意識 を反映させていこうと動き始めた。確かに、一国の海洋行政という観点に基づけば、すべ ての管轄海域で同様の政策を実施しないのは筋が通らなかった。2007 年 2 月には東シナ海 と同様のパトロール制度が、黄海および南シナ海中西部海域に広げられ、12 月にはさらに 南シナ海南部海域に拡大して、中国が主張する全管轄海域をカバーするようになった(国家海洋局課題組、2009: 424)。 この過程では、中国海監総隊と軍隊との協調配置メカニズム(海上行動協調配合機制)も 整備されている。すでに 2005 年 5 月には、南シナ海での海上法執行につき、国務院各部 局や総参謀部を集めた合同調査研究が組織されていた。国家と軍にまたがる海の専門家た ちは、関係国に多くの島々が実効支配されている南シナ海の状況に危機感を持っていたの だろう。2006 年 11 月、総参謀部が協調配置メカニズムの原案を承認し、2007 年 2 月には 国土資源部の関連報告を、曾培炎と、党中央軍事委員会副主席の郭伯雄および曹剛川、対 外関係担当国務委員の唐家璇が承認した。こうして、中国海監総隊の海上パトロールを軍 が支援する体制が立ち上がった(中国海監総隊、2010: 111、132)。2009 年になると、海軍は 安徽省の蛙埠士官学校に中国海監訓練基地を設立し、海上法執行スタッフの研修を担当し て、彼らの「軍事・政治的素質の向上」と「海洋及び海洋権益に関する意識の強化」に直 接的に協力するようになる(国家海洋局課題組、2014: 91)。 軍という後ろ盾を得た中国海監総隊には、相手国に対して実際に力を行使する、準軍事 的な海上法執行の実行が早速求められた。その最初の事例となったのが、2007 年 5 月から 7 月にかけての対ベトナム「権益擁護」活動だった。中国海監総隊が内部向けに企画した ドキュメンタリー小説によると、胡錦濤総書記の直接指示を受けた南海総隊が、5 月にま ず南シナ海中西部に向かった。そしてベトナムの大陸棚延伸申請に関する海底調査を請け 負っていたロシア船を、ベトナムの護衛船から孤立させて作業妨害し、外交圧力も併用し て、最後はロシアにベトナムへの協力合意を解除させた。次に、パラセル諸島の周辺海域 に意図的に初めて石油探査船を投入し、警戒に集まったベトナム公船に対して、より大型 の中国海監船で 5 度にわたる計画的な体当たりを仕掛けた。ベトナムが南シナ海で石油を 掘削してその輸出国となり、2009 年 5 月の国際期限を念頭に大陸棚延伸申請の準備を進め ていたことに、国家海洋局は反感を募らせていた(桂、2011: 89–96)。 中越海軍の間では 2005 年 9 月にトンキン湾共同パトロール協定が締結されたばかりで、 表面的には信頼醸成が進んでいた。しかし、2007 年初夏の例を皮切りに、中国海監総隊は ベトナムの周辺海域、さらには南シナ海全域で「権益擁護」活動を展開していく。ベトナ ム政府は上記の事件を公表しなかったが、同年中には国内で中国への不満が急激に高ま り、12 月には学生がハノイとホーチミンで反中デモを組織し、当局もそれを黙認した 14)。 ベトナム紙によれば、2005 年から 2010 年 10 月にかけ、中国に拿捕された漁船は 63 隻、 漁民は 725 名に及んだ(Fravel, 2011: 305)。同年中には、黄海で中国と韓国が管轄権を争う 蘇岩礁(離於島)周辺にも中国海監総隊北海総隊のパトロール船が姿を見せ、2008 年ごろ からはフィリピン周辺でも同様の現象が起きた(益尾他、2017: 197–198)。南シナ海におけ る中国の海上法執行は、数年のうちに急速に強度を上げていった。 さらに、南海総隊や北海総隊の活躍を目にした東海総隊も、2008 年 12 月には尖閣諸島 の領海に進入した。これは指導部の承認を得ない独自行動だった可能性が高い。東海総隊 の郁志栄副隊長は、いつか「釣魚島」の周囲をパトロールするという夢を温めていたが、
定年退官を目前に控え自ら船に乗ってそれを実現させた、という逸話が伝わる。だが、中 国は「釣魚島」の主権を主張しているため、指導部にも副隊長の行動を咎めるのははばか られた。特に海軍が郁をかばい、処罰は下されなかった 15)。日中両国は同年 6 月に東シナ 海のガス田共同開発でいったん合意していたが、世論の反発を受け、中国側はその後の話 し合いを遅延させていた。この領海進入で日本政府は中国への失望と警戒を強め、海上保 安庁は尖閣諸島の周辺に常時巡視船を貼り付けることになり、東シナ海をめぐる緊張は一 段と高まった。 2008 年 7 月には、国務院が国家海洋局の 10 年ぶりの組織改革を行った。これによって ようやく国家海洋局は、1997 年 9 月の建議に沿って、「海洋戦略研究と海洋関連業務」に 関し政府組織全体の「総合的協調」を図れるようになった(国家海洋局課題組、2009: 395– 396)。2013 年には中国の海上法執行組織が統合され、国家海洋局内に中国海警局が誕生し ているため、それに向けた過渡的措置だったとみられる。こうして漁業監督を行う農業部 漁業局の漁政にも、中国海監総隊との協調が求められるようになった。漁政は 2009 年 3 月から南シナ海でのパトロール活動を定期化し、海軍から転籍した大型監視船「漁政 311」 を主力に周辺諸国の漁業活動を排除するようになり、2010 年 4 月から 6 月にかけてマレー シアやインドネシアの公船とも対峙した(飯田、2013: 114–115、158–159)。9 月に尖閣諸島周 辺で漁船衝突事件が起きると、漁政は東シナ海でもパトロールを定期化した。 国内からの批判に脆弱だった胡錦濤政権は、2006 年から中国海監総隊、さらには漁政に 対し、係争海域における「権益擁護」活動の拡大を認めた。これによって中国の南シナ海 政策の重心は国際的アプローチから国内的アプローチへと急速にシフトした。これによ り、中国と海洋境界を接する国々は、台頭した中国が「強硬」化したと認識し、対中姿勢 を硬化させていく。これらの国々が対中牽制力として米国への期待を高めたことは、オバ マ政権が 2011 年 11 月にアジア太平洋リバランス戦略を正式に立ち上げる呼び水になった。 「権益擁護」のための定期パトロールは、周り巡って中国の対外環境の急激な悪化を導い ていくのである。
Ⅵ 国家戦略の中心部へ
東アジアの海洋紛争は、2012 年には 4 月からのスカボロー礁をめぐる中比対立、9 月の 尖閣諸島をめぐる日中対立へと発展しピークを迎えた。11 月に開かれた第 18 回党大会で は、習近平が総書記に就任し、中国は海洋強国の建設を国家目標に掲げることになる。こ の間、指導部の期待を受けた国家海洋局は、国家の行政力を中国の管轄海域全体で充実さ せていくため、海軍などとともに奮闘を続けていた。その過程では、習近平の福建省時代 の部下で、2011 年 2 月にアモイ市長から国家海洋局の局長に転出した劉賜貴が重要な役割 を果たしたとみられる(2014 年 12 月に海南省に転出、のち省委員会書記)。2010 年代前半に国家海洋局が注力していたのは、第一に管轄海域の島々に対して国内法 に依拠した行政体制を構築すること、第二に総合的な海洋行政機構として自身の地位を向 上させていくことであった。まず、第一の点を見ていこう。UNCLOS の下で広大な管轄海 域を勝ち取るには、陸地から遠い構造体を自国の島とみなし、その実効支配を固めて周辺 海域の管轄権を主張するのが手っ取り早い。中国では、2003 年に海島保護法の制定が全国 人民代表大会常務委員会の立法長期計画に盛り込まれ、2006 年 11 月には海島保護法の起 草領導小組が同委員会に草案を提出した。その後、全人代と国務院の間で修正が繰り返さ れ、2009 年 12 月に同法が成立した 16)。『議程』で同法の成立を掲げていた国家海洋局は、 起草工作でも中心的役割を果たしたとみられる。 同法は中国に帰属する島々の管理区分体制を作り、「無人島」の一部を「特殊用途島」 に区分し、それをさらに①領海起点島、②国防用途島、③海洋自然保護島に分類した。② は国防と無関係の目的に用いることが禁止された。同法に基づき、国家海洋局は政府関連 部門や軍事機関と協力しながら「海島保護長期計画」の組織・編成にあたることになった。 同法の公布後、国家海洋局は中国に帰属する島をリストアップし、数々の行政文書を公布 して、島嶼の開発と管理を進めるための行政体制構築に励んだ。 国家海洋局が2012年2月に発表した第1期全国海島保護長期計画(基本対象期間:2010年∼ 2020 年)は、『議程』の構想を受け継ぎ、管轄海域の国土化を図っていくための具体的な アクションプランだった。そこでは特殊用途島の管理強化が掲げられ、その手法や期限が 具体的に定められていた。同長期計画はパラセル諸島およびスプラトリー諸島・スカボ ロー礁など係争のある島々についても「保護」計画を立案しており(公開版では後者の内容 は省略)、2014 年に顕在化したスプラトリー 7 島礁の埋め立てはこれを踏まえたものだった とみられる。国内行政上、埋め立て 7 島礁は国防用途島に区分され、軍が主たる管理者に なる。ただし、埋め立て等による自然状態の改変は国務院の厳格な審査を経る必要がある ため、その海洋主管部門として、国家海洋局は軍と緊密に協調して埋め立て計画を立案し、 推進していくことになった。またこれは軍と国務院の境界案件にあたり、どちらにも最終 決定権がないため、両者の上位主体である中央指導部の承認がなければ動かない計画で あった。中国の海の専門家たちは第 1 期全国海島保護長期計画の策定までに南シナ海の島 嶼の「保護」計画を練っていたが、その具体化が急速に進んだのは習近平政権の誕生後 だった可能性が高い。 第二の点で注目を集めたのは、何より中国海警局の新設である。2013 年 3 月には第 12 期全国人民代表大会が「国務院機構改革と職能転換方案」を可決し、国家海洋局の改組を 発表した。これにより、それまで乱立していた海上法執行組織、すなわち中国海監総隊、 中国漁政、公安部辺防海警、海関総署海上緝私警察(密輸取締警察)が統合され、7 月には 国家海洋局の中に中国海警局が設立された。中国海監総隊は 2007 年 8 月から「2010–2020 年中国海監発展長期計画」の編制工作を進めており、これはその案をベースにした組織改 革だっただろう(中国海監総隊、2010: 145–146)。
もっとも、この改組は中国海警局の新設にとどまらないものだった。このとき同時に、 海洋行政における国家海洋局の中心性が強化され、中央から国家海洋局へと連なる指揮命 令系統が構築された。国家海洋局の任務は新たに、海洋の総合的管理と生態環境保護を強 化し、海上権益擁護・法執行を強化し、統一的に中国海警チームの長期計画策定、組織建 設、管理、指揮にあたり、海洋秩序と海洋権益を擁護することと規定された。加えて、国 務院全体にまたがる調整メカニズムとして国家海洋委員会が設置され、国家海洋局がその 具体的な任務を担うことになった(国家海洋局課題組、2014: 63–67、84–90)。また、海上の突 発事件に即応するため、ハイレベルの調整機構として中央外事弁公室海洋権益局(海権局) が設立されることも決まり、海権局は国家海洋局、外交部、公安部、農業部、軍隊など海 洋関連部門間の調整を行い、海洋権益に関する事項を統合的に管理することになった(国 家海洋局課題組、2016: 50)。 ただし、これは国家海洋局としては不満の残る改組だったようだ。中国海警局は公安部 の業務指導を受けることが決まり、中国海警局局長は公安部副部長(正部長級)が兼任し、 また幹部ポストの多くが公安部の辺防警察からの異動者によって占められることになっ た 17)。内部に別の「局」を抱える変則的形態を迫られた国家海洋局は、劉賜貴局長(副部長 級)が「部」への昇格を働きかけたが、受け入れられなかったと言われる(Jacobson, 2014: 18) 18)。 胡錦濤政権は、国内の反日ナショナリズムが高まり海洋が国際的な争点として急浮上し た際、専門家集団である国家海洋局の提言に沿って対応策を立てていったと考えられる。 しかし習近平政権は、海洋行政における国家海洋局の権限を強化しつつも、他方で国家海 洋局をしっかりと統制しながら海洋問題に対処していく方向性を打ち出している。
おわりに―指導部 – 国家海洋局関係から見る中国の南シナ海政策
国家海洋局の組織史を紐解くと、その問題関心が長い間、かなり高い一貫性を維持して きたことに驚かされる。国家海洋局の担当者たちは、UNCLOS の下で国際的な海洋分割が 始まったという認識に基づき、中国が新たな国際秩序の中で不利益を被ることのないよ う、細心の注意を払い対策を打ち出そうとしてきた。2000 年代後半以降、諸外国に「強硬」 と指摘された海上法執行や島嶼管理強化のアイディアは、基本的には 1996 年の『中国海 洋 21 世紀議程』ですでに提唱されていたものである。国家海洋局は、彼らに与えられた 海洋の行政管理や海洋権益の維持という任務に対して忠実に、中国の利益を最大化するた めの策を練ってきた。 ただし、国家海洋局の国内的な位置付け、およびその提案の達成度は、国内の政治状況 や中国の国力の大きさによって変化してきた。国家組織の中で周辺的な存在だった国家海 洋局が指導部の関心を引いたのは、歴史と海の問題をめぐる日中関係の悪化がきっかけだった。胡錦濤政権は世論対策として日本に毅然とした対応を取る必要性に迫られ、2006 年夏、国家主権と安全保障の擁護という新たな外交目的の提唱と並行して、中国海監総隊 の増強に注力を始めた。そればかりではなく、国家海洋局の提案に沿う形で中国の主張す る管轄海域全体で排他的な「権益擁護」活動の展開を容認し、法律整備や島嶼に対する行 政力の強化といった方面から、管轄海域の統治体制を固めていった。軍の支援も得ながら、 国家海洋局は海洋行政の主管部門として国内政治の中で地位を急上昇させ、指導部はその 提案の多くを取りいれたとみられる。 以上の措置は基本的に、対日関係を契機として国内政治の展開の中で打ち出されたもの であり、本来は南シナ海問題とは無関係であった。しかしその「権益擁護」活動は、国家 海洋局という官僚組織を通して、中国の主張する管轄海域全域の政策として採用されてい く。これにより、中国の南シナ海政策の重心は、2007 年ごろには国際的アプローチから国 内的アプローチに急激にシフトしたと言えよう。まだ足腰の弱かった国家海洋局にしてみ れば、日本の海上保安庁を相手に東シナ海で活動するより、他国の海上法執行機関が自国 よりも脆弱な南シナ海で海上法執行措置を実行する方がずっと容易であった。こうして、 それまで相対的に安定していた南シナ海でも、国際的な緊張が急激に高まっていった。ま た、南シナ海で「海洋権益」活動が盛んに展開されたことを受け、2008 年末には東シナ海 でもパトロール船が尖閣諸島に進入した。中国の国内政治を経由して、南シナ海問題と東 シナ海問題は相互に共鳴しあいながら増幅していった。しかもこの動きは、中国の台頭、 およびそれに伴うナショナリズムの高揚と軌を一にするものであった。 では、中国は今後、南シナ海に関しどのような政策を取っていくのだろうか。習近平政 権は国家海洋局に対する手綱を締め直しているため、2012 年の反日デモのように、国内の 責任者が曖昧なためにコントロールが失われ、事態が悪化の一途をたどるようなことは想 定しにくい。ただし他方で、二つのアプローチの間の重心が国際側に大きく戻る可能性も ほとんどないと言えよう。中国が国際的に急激に台頭した 2000 年代において、海洋問題 が脚光を浴び、係争海域に国内的アプローチが採用されるようになってから、中国国内で はそれを自国の海として取り扱うことが既定路線化していった。2013 年 7 月末、中央政治 局開催の海洋強国建設を検討する第 8 回集団学習会において、習近平は「主権は我にあり、 論争は棚上げし、共同で開発する(主権属我、擱置争議、共同開発)」という方針を堅持しな がら、海洋政策において互恵的友好協力を進め、共同利益を求めていくと述べている 19)。 「主権は我に」が筆頭に来ていることを重視するなら、ある海域や島嶼の「主権」が中国 に帰属するという前提条件が尊重されるとき、中国は他国との協力が可能、という意味に 読める。すなわち、国内的アプローチが主、国際的アプローチが従であり、中国の強大化 という状況でこれを逆転させる必要性は、中国には見当たらない。 この点は、国家海洋局の報告書ではさらに具体的に確認できる。最新版(2016 年版)の 『中国海洋発展報告』は国家海洋権益について、「権益擁護と安定擁護を相互一致させる中 央の方針」をしっかり貫徹しようと訴え、「国家主権、安全保障、発展の利益の相互一致
をしっかり貫徹し、海洋権益の擁護と総合国力の向上を合体させ、安定の中の進化を実現 しよう」、「海洋権益の闘争では統一的に策を練り、積極的に事をなし(積極作為)、筋の通っ た有利で効率のよい闘争を展開し、権益擁護と安定擁護の動態バランスを保持しよう」と 唱えた。他国との協力については、「係争のある島嶼とその付近の海域の主権を堅持する 前提の下で、周辺国家との互恵的で友好的な協力を積極的に推進し、協力の強化を通して 共同利益の合致点を探し拡大し、係争海域における資源の共同開発を進めていく」と謳っ た。さらに、中国は自由航行の「断固とした擁護者」になるが、「自由航行を言い訳とし た地域の海洋問題への干渉に反対する」と主張し、米国や日本の南シナ海問題への介入を 強く警戒している(国家海洋局課題組、2016: 45–46)。総じて、中国は南シナ海をめぐる国際 環境の安定を保ち、第三国の干渉を防ぎながら、拡大する国力を盾に効率よく海洋権益を 擁護していくことを目指している。 現在、スプラトリー海域の 7 島礁では中国の軍事施設の建造が進み、パラセル諸島では 三沙市建設の名の下で中継基地建設が進んでいる(益尾、2017: 81–85)。習近平政権が目標 とする南シナ海政策は、周辺国に経済協力の飴を与えて中国の主権と海洋権益を尊重さ せ、国際情勢を表面的には安定化させて大国の干渉を回避しながら、米国の影響力を徐々 に排除し、この海域を漸進的に自らのプレゼンスの下に置いていくこと、と言える。その ためであれば、周辺小国に漁業や資源開発などの経済的利益を部分的に分け与えること は、中国にとってさほど大きなコストではない。2016 年 10 月のドゥテルテ大統領の訪中 にあたってフィリピン漁船にスカボロー礁周辺での操業を認めたように、むしろ中国はそ うしたコストを積極的に払っていこうとしている。 2013 年秋、習近平政権は「一帯一路」構想を提唱し、陸上のシルクロード経済帯建設と ともに、21 世紀海上シルクロード建設を謳った。習近平外交の目玉とも言えるこの構想の 中で、国家海洋局は沿海地域の海洋経済建設および他国との関係強化に乗り出すように なっていたが、2017 年 6 月には国家発展改革委員会との連名で「『一帯一路』建設の海上 協力に関する構想」と題する文書を発表した(国家発展改革委員会・国家海洋局、2017)。そ の 2 年前の 3 月に初めて一帯一路構想の中身を具体化した「展望と行動(願景与行動)」と 題する文書は、国家発展改革委員会、外交部、商務部の名義で出されていた(国家発展改 革委員会他、2015)。国家海洋局は今回の文書で初めて、中国の海洋管轄部門として対外政 策に関する重要文書を発表したことになる。ここで中国は、①中国 – 南シナ海 – インド洋 – アフリカ – 地中海、②中国 – 南シナ海 – オセアニア – 南太平洋、③中国 – 北極海 – ヨーロッ パという三つの「青い経済通路(藍色経済通道)」の構築を目指すことを初めて公式に明ら かにした。うち二つの経済通路が通過する南シナ海は、中国では海上シルクロード実現の ための非常に重要な重点協力地域として位置付けられた。今後しばらく、中国と南シナ海 の周辺諸国との間で経済協力が大きく進展するであろうし、中国と比肩できる域外大国が 現れない以上、南シナ海はその強い影響下に組み込まれていくことになろう。
(付記)本稿は、サントリー文化財団 2014–2015 年度グループ研究助成、Harvard-Yenching Institute Coordinate Research Program (2014–2015)、科研費(23730168)の成果である。
(注) 1) 例えば(Thayer, 2011)や(小原、2016)などを参照。 2) 中国の海洋秩序認識には国際社会とのズレが確認される。最も典型的には、領海を含む管轄海域を「海 洋国土」「藍色(青色)領土」などと呼び、あたかもその全体に主権が適用されるようにみなす傾向が強 いことであろう(益尾、2017: 77–78)。 3) 中国のある論文は、中国と周辺国との海域主張の差につき以下のように述べる。総面積 38 万平方キロ の黄海のうち、中国に帰すべき海域は 25 万平方キロで、中朝間には 3000 平方キロ、中韓間には 18 万平 方キロ超の未解決海域がある。南シナ海では、ベトナムが中国から 25 の島礁を奪い、石油資源の略奪を 進めている(重複海域面積不詳)。フィリピンは 9 の島礁を占拠し、中国から 42 万平方キロの海域を奪っ ている。マレーシアは 3 つの暗礁を占拠している。インドネシアは中国の伝統海域から 4 ∼ 5 万平方キロ をかすめている。ブルネイは中国の 1 暗礁を侵略し、中国の伝統的海洋境界(海疆)から 3000 平方キロ の大陸棚を要求している。総面積 77 平方キロの東シナ海のうち、54 万平方キロが中国に帰すべきだが、 日本は中間線で海域を分けるべきと主張し、16 万平方キロを無理に要求し、尖閣諸島を違法に占拠して いる(唐・王、2005: 39–40)。 4) 南シナ海は中国の「核心的利益」に含まれると中国外交幹部が言及したかどうかが注目されてきたこ とはその一例であろう(Swaine, 2010: 8–11)。 5) 国家海洋局に関する初歩的研究は(越智他、2006)(Jacobson, 2014)(Masuo, 2015)を参照。 6) 『解放軍報』1998 年 5 月 30 日。 7) 『人民日報』1972 年 2 月 23 日。 8) 『人民日報』1985 年 2 月 8 日。 9) 『読売新聞』1996 年 9 月 4 日。 10) 国家海洋局の「2001–2005 年教育養成工作要綱」は、スタッフ養成の正規化と制度化を掲げ、海洋監察 員の資格者を 5 年で 3000 人に倍増すると謳っていた(中国海監総隊、2010: 51)。 11) 『中 国 網』2012 年 7 月 6 日(http://guoqing.china.com.cn/2012-07/06/content_25832640_2.htm、2017 年 9 月 25 日最終確認)。 12) 『朝日新聞』2004 年 7 月 22 日。 13) 『読売新聞』2005 年 4 月 18 日夕刊。 14) スプラトリー諸島付近では 2007 年 7 月までに、中国の海軍艦船に妨害されたベトナム漁船 1 隻が沈没 し死者が出る事件も発生している(Straits Times, Jul. 19, 2007)。
15) 中国の有識者からの聞き取り、2016 年 8 月 9 日。実際に郁志栄は、尖閣国有化をめぐる反日デモ直後に、 このパトロールの意義を強調する発言を行っている(『環球網』2012 年 9 月 14 日、http://world.huanqiu. com/roll/2012-09/3118696.html、2017 年 9 月 25 日最終確認。『新浪網』2012 年 9 月 24 日、http://news.sina. com.cn/c/sd/2012-09-24/114225240228.shtml、2017 年 9 月 25 日最終確認)。 16) 以下、同法およびそれに基づく諸制度について詳しくは、(益尾 、2017)を参照。 17) 中国海警局の設立は「海の武警」の構築のためという指摘もある。このころには新造の法執行船が次々 と投入されたが(国家海洋局課題組、2014: 92–93)、国家海洋局のホームページ上の公表予算には計上さ れていない。軍などと同様、中国海警局の経費は国務院予算の外枠で用意されていると考えられる。 18) 2014 年 12 月に海南省に転出した劉賜貴は、国家海洋局と協力しながら三沙市の開発を進め、埋め立て 7 島礁を後方支援するための基地建設に励んでいる(益尾、2017: 88–89)。 19) 『人民日報』2013 年 8 月 1 日。『人民日報』によれば、類似の方針が初めて提起されたのは 1993 年 3 月(領 海法制定の翌年)の全国人民代表大会における李鵬総理の政府工作報告だった(4 月 2 日掲載)。ただし これは、「主権が我にある南沙諸島の問題で、我が国は『争いを棚上げし、共同で開発する』と主張する」 と述べたのみで、「主権が我にある」ことを相手方が容認するかどうかは共同開発の前提になっておらず、 領域として東シナ海は無関係であった。その後、政府高官では 2000 年に外交官の劉華秋が鄧小平の功績 として、領土問題での「主権は我にあり、争いを棚上げし、共同開発する」という新思考の提起を挙げ ている(『人民日報』2000 年 7 月 13 日)。全体としてその言及例は少なく、2000 年代はほぼ途切れている。 これを中国の管轄海域全体をカバーする「方針」として掲げたのは、おそらく習近平が最初であろう。
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