《付属資料Ⅰ》 南部藩と仙北町の生い立ち
参考出典:①私たちのまちと南部氏(南部首長会議編)②もりおかの地名(盛岡市)③盛岡 市消防団第一分団「は組」火消し・こころ意気(200年の歩み) 1.南部氏のルーツ ⑴ 大化2年(646)天皇の命令で、甲斐の国(山梨県)に4郡を設けることが定めら れ、南部が属したのが巨麻郡で「巨麻ハ駒ナリ、地多ク駒馬ヲ産ス」とあり、現在の 甲府市内の荒川から西の全域に及んでいた。 ⑵ 戦国時代の武田信玄の滅亡により、天正17年徳川家康が甲斐を9筋と河内領と郡内 領の2領に細分化した。河内領に巨麻2郡内あり西の南部御牧に加賀美遠光の三男・ 光行が居を構え「南部光行」と称し、ここに甲斐源氏南部氏が創立された。 2.陸奥の南部氏 ⑴ 文治元年、壇ノ浦の戦で平氏を滅亡させた源頼朝は、文治5年奥州・藤原泰衡を討っ た。この戦の1大将の加賀美遠光と戦功を挙げた光行に頼朝から行賞として陸奥の5 郡が与えられた。 ⑵ この地は、奥州馬産の中心地であったので、甲州南部御牧経営で手腕経験を頼朝が活 用しようとした。 ⑶ 南部光行は、建久2年(頼朝が征夷大将軍の宣下の前年)鎌倉の由比ヶ浜から船団で 陸奥に進駐した。 ⑷ 一戸に南部行朝、三戸に実光、四戸に宗朝、九戸に行連、七戸に朝清と、諸氏を配置 して領内の経営にあたらせ、ここに南部氏の封建社会の創始期から、その終焉である 明治維新に至るまでの歴史の基盤が成立した。 ⑸ 南部藩は、上方の京からの物資や文化交流を日本海航路に頼っていて「北前船」で多 くは野辺地湊か田名部湊を経由したが、秋田街道や津軽街道も用いられた。また、酒 田方面とを結ぶルートは、仙北町を起点とし沢内・横手を経由した「湯坂道」で、明 治になって「山形道」になった。 ⑹ 一方、江戸からは太平洋航路を活用し、石巻湊から北上川を「艜船(ひらたぶね)」で 仙北町と川原町に渡る「新山舟渡」まで多くの物資と新文化が導入された。 新山舟渡は、力鋼として鉄鎖や藤蔓を用いて渡っていたようだが、延宝8年(168 0)に東北地方で唯一の船橋になり「新山船橋」と呼ばれた。 ⑺ 新山船橋の構造は、大船18艘と中船2艘を大黒柱に渡した鉄鎖につなぎ、その上に 長さ2間半から3間半の敷板294枚を並べたもので、洪水などの時は、板と船を両 岸に引き上げる仕組みになっていた。 ⑻ 仙北町側には、「船番所」があり、常に番人が看視していた。保守する水主衆は両岸の 水主町に住んでいた。南部の船橋として有名になったが、大水の度に川止めになり、 両岸の木賃宿が満員になり、民家にも分宿した。 ⑼ 明治6年(1874)に木橋が架けられたが、翌年に流失し、明治9年の明治天皇巡 幸に合わせるため本格的に復旧をして「明治橋」と名付けた。【南部藩と仙北町の生い立ち/その2】 3.南部氏と豊臣秀吉の関係 ⑴ 北奥の大名・南部信直が三戸の南部氏を継承したのは、戦国の天正10年で、織田信 長が本能寺の凶変で急逝し、天下は豊臣秀吉の時勢であった。 ⑵ 南部信直は、26代目の継承問題で九戸政実との対立や領内の岩手郡・閉伊郡、鹿角 でも羽後の豪族との騒乱が続き、この間隙に津軽では親族の大浦為信が離反し津軽一 円を渡した。 ⑶ 信直は、中央の太閤秀吉に気脈を通じる方策を講じるため、北陸加賀の前田利家を中 立ちに懇請し、関東小田原の北条征伐に参陣したほか、九戸政実一揆では中央軍の参 戦を得て制圧し、領内を統一した他、領土が和賀・稗貫地方に拡大した。 ⑷ 九戸政実一揆鎮定の後、帰国する中央軍の浅野長政と蒲生氏郷が不来方館で信直に盛 岡城築城を進言したと伝えられる。その後、会津城主の蒲生飛騨守氏郷の養妹お武の 方を信直の嫡子利直の正室に迎え、南部氏は豊臣中央政権との関係を維持することが できた。 4.南部信直が盛岡に移転 ⑴ 信直の直轄地は天正20年(1592)には、所領48城の内、破却した城郭36城、 領内北上川と支流地域を含めて存置が12城だった(岩手郡=不来方城、志和郡=長 岡城・片寄城、稗貫郡=鳥谷崎城、閉伊郡=増沢城) ⑵ 信直の盛岡移転の基本構想は、①盛岡城を居城、②鉄砲など近代火器戦略に有利な築 城、③対伊達政宗氏、和賀氏と稗貫氏の残党に対応した南方政策が計算されたもので あった。 ⑶ 史実は諸説あり、不来方城の普請認可は文禄元年、着工は文禄2年、寛永9年完工慶 長2年に鎌始め、慶長4年(1599)に三戸より信直入城か? ⑷ 盛岡城の普請は、奉行5人衆(八戸弾正・八戸根城主、石井伊賀、桜庭安房・三戸赤 石城主、中野吉兵衛・志和片寄城主、大光寺左衛門・鹿角花輪城主)で縄張下司地割 奉行2人(内堀伊豆・前田藩家臣、四戸上総)、奉行並5人(浄法寺修理、大槌孫三郎、 日戸内膳、簗田大学・志和平沢城主、江刺兵庫頭・稗貫新堀城主)と記述されている。 ⑸ 盛岡開祖の信直は、入城直後に病没したので嫡子の南部利直がその跡を相続した。利 直は、上洛して豊臣秀頼に謁見挨拶した。徳川家康にも挨拶したと記されている。 5.南部利直の盛岡城下建設(築城第2期) ⑴ 慶長14年(1609)中津川に上の橋、16年に中の橋が架設され、利直在銘の青 銅擬宝珠が欄干に取り付けられ、盛岡城と城下町がほぼ整備されたことを示す重要な 記念物で、元和年間(1615~1623)の初期には諸士庶民ともに城下に定住し た。 ⑵ 利直は、慶長期に城下の建設と街道の整備、社寺の勧請と遷座、住民の定住化を進め た。町割では、広大な外郭を確保整備して、領内諸城の統合集約による軍団諸士屋敷 を確保し、諸職人と商人など多様な業種の人材を集団移住させた。 ⑶ 第2期の城下拡張期があり、外郭惣門の外で諸街道沿いに新規の武家屋敷と町屋が発
達した。仁王と上田の武家小路、町人街の仙北町・材木町などが江戸前期の早い時代 に整備された。 ⑷ 延宝3年(1675)には、北上川の河川改修工事(新築地堤防・大沢川原小路と菜 園用地の造成を成功させて、盛岡城の水害を防いだ。 6.歴代の主要な盛岡藩主 南部氏始祖 南部三郎光行 文化5年4月祭祀 盛岡開祖 南部信直 寛延2年9月祭祀 初代藩主 南部利直 天正元年10月祭祀 10代藩主 南部利敬 文政3年6月祭祀 この4公は、その神霊を盛岡城内に勧請して、桜山神社の御祭神に合祀尊崇されてい る。 7.戊辰戦争・明治維新 ⑴ 南部利直を初代藩主として盛岡に築城し、城下町を構成して治府とした。 以来、南部氏は第14代藩主利剛にいたる江戸時代約270有余年間、領内20万石 の10郡を統治していた外様大名である。 ⑵ 盛岡藩は、明治元年(1868)12月、維新の変革によって領地を没収されるまで 転封されることなく同一領地に定住していた。 ⑶ 維新の変革とは、徳川幕府が開国せず、武家政治を保持する政権に対し、薩摩(鹿児 島県)と長州(山口県)の薩長同盟が倒幕を企てた。 盛岡藩は、これまでの豊臣・徳川中央政権と南部藩歴代当主の過去の歴史から、幕府 軍に加担するため奥越列藩同盟を結んで薩長連盟と対抗したのが戊辰戦争である。 朝廷側の官軍は、江戸城を攻め入り、徳川藩主が降伏して、江戸城は無血開城し、武 家政治に終止符が打たれた。 ⑷ 慶応4年(1868)戊辰7月17日に江戸は「東京」と改称され、同時に「明治」 と1世1元制度が定められた。 ⑸ この時期、奥州は未だ戦乱の渦中で、盛岡藩は家老楢山佐渡を総大将として、奥越列 藩同盟を離反した秋田・弘前両藩に攻撃を開始した。 戦闘は、鹿角口大館方面・雫石生保内方面・野辺地口狩場沢方面に及んだ。 一方、盟約を結んだ仙台藩と一関田村藩も出羽に侵攻していたが、錦旗を立てた官軍 の圧倒的な軍勢その近代兵器戦の前に9月15日に仙台藩は降伏し、盛岡藩も25日 までに全面降伏するに至った。10月9日藩主南部利剛は、嫡子彦太郎を名代に、南 部美作守信民と三戸式部を正使として、秋田横手の官軍総督府に降伏嘆願状を提出し て正式に謝罪した。官軍は翌日、盛岡城に入城した。南部藩は「賊藩」の名を負う悲 劇の結末となった。 ⑹ 南部領20万石は、全部没収されて朝廷直轄地になって、盛岡藩は完全に解体され諸 士以下3800余名が解職された。 ⑺ 盛岡領民は、南部氏の盛岡復帰を嘆願したところ、政府は70万両の賠償献金を条件 に盛岡復帰を認可し、明治2年7月24日に盛岡藩知事に南部彦太郎(改称して南部
利恭)が就任した。岩手郡・紫波郡・和賀郡・稗貫郡が管轄地となった。 ⑻ 明治3年5月に南部利恭知事は、郡県制施行を建白し、7月に盛岡藩から盛岡県と改 称され、知事免職となり、明治5年1月に岩手県となった。 8.仙北町の成り立ち ⑴ 南部利直公が盛岡城下を営むとき、古代や中世から雫石川筋を通って、出羽国の生保 内から仙北郡と繋がりの深い土地だったので、商人や職人が集団で移ってきた他、津 志田や志波からも多数移住して仙北町と町立てをした。 ⑵ 盛岡城を築城する際の「奉行5人衆」の一人が大光寺左衛門で鹿角花輪城主であり隣 の仙北郡・生保内方面への影響があったのではないか。 ⑶ 仙北町の先に仙北組町、仙北組町の先には「津軽町」が町立てされ、枡形が設けられ、 江戸から北に続く奥州街道が盛岡城下に入る入口あたるし、北上川舟運の新山舟橋が あり、城下と直接つながる重要な役割をもっていた。 ⑷ 小鷹(現在の南仙北一丁目)には、街道に「刑場」があり、初期には盛岡以南の科人 を処刑し、上田以北の科人は上田の一本杉刑場で処刑していた。 ⑸ 仙北町に隣接する青物町は、太田から雫石に通じる湯坂道があり、仙北町新小路と呼 ばれていた。文化9年(1812)町方再編成のときに独立して「青物丁」となった。 雫石川の沖積地帯で畑が野菜に適し、種物商が東北各地や松前まで移出された。 9.仙北町衆の心意気と消防「は組」 ⑴ 盛岡市消防団第一分団「は組」は、平成元年(同時に盛岡市政施行100年であった) に結団200年記念事業を実施した。この事業で「は組200年の歩み」“火消しここ ろ意気”と題した記念誌を発刊したが、この中に南部藩と江戸火消しの記述があり、 仙北町衆の結束の強さのルーツといわれる力士の七ッ滝岩平(は組初代組頭)がしる されていたので紹介したい。 ⑵ 南部藩27代利直は、他藩のような碁盤の目の町割ではなく、新しい時代に向けた城 下町づくりを目指して、「五の字」のプランにしたことは「南部の知恵袋」と評価され た上、三戸城・福岡城・郡山城を転々とし、玄人はだしの土木知識を有し、京都にも 住んでいたことから、戦国武将というより経済人の素質をもっていた。 ⑶ 利直公は、「他領から来る者に情けを施させ、さすれば忠節を尽くすものだ」との考え を町づくりに生かし、出身地を同じくする者を町ごとに居住させ、出羽国仙北郡から の来住者を住まわせたのが仙北町である。 仙北町は、奥州街道から盛岡城下の入口、新山舟橋で城下と直接つながり、敵が進入 してくれば一番先に被害を受けることになる。 凶作・飢饉や雫石川と北上川の氾濫による水害に遭うことも度々で、他所から住みつ いたのだから頼りになるのは隣近所との信頼と結束の強さで、この気質と土地柄が進 取の気性に富み、江戸下町の町火消しと同様に血の気が多いことで知られている。 ⑷ 寛永15年(1638)江戸桶谷町の火事で、徳川将軍・家光が大手門まで出て陣頭 指揮をとり、諸大名も消火にあたったが江戸の大半を焼失してしまった。 この時、参勤交代で江戸屋敷にいた南部藩28代重直公は、家臣を引き連れて猛火の
中で身命を投げうって指揮にあたり、家臣も主君と一体となって目覚ましい活躍をし たという。この消火活動を見ていた家光公は褒章を与え、やがて江戸城中でも重要な 御成橋筋の消防を担当することになり、「南部火消し」が名声をあげた。 この大役は、遠野南部藩の八戸三五郎が行って、消防規則や火事場での心得を定めて 高い評価を得た。これを基に南部藩に消防組織ができたのが延宝4年(1676)で あった。 ⑸ 七ッ滝岩平は、明和4年(1767)青物町で南部藩士を父として生まれた。生来人 並みはずれた体格と体力を持っていた。15歳で力士を志し、修業のために岩手山の 中腹にある七ッ滝に3年間こもり、18歳で下山し、江戸相撲に入った。 22歳の時には、弟子も20数人を数えるまで出世していた。自分が生まれ育った仙 北町の消防組に、江戸でも誉れ高い「は組」の名を冠した。岩平は25歳から70歳 までの45年間「は組の組頭」をつとめ、力士を辞めてからは野菜種と豆腐屋を職業 としていた。天保7年に70歳で亡くなった。 ⑹ 明治の終わり頃、都南村の野田に「出水川」というシコ名のアマチュア相撲の名人が いて、岩手県一強かった人で、七ッ滝岩平は弟子として修業しており、自分でも「手 柄山道場」を開いていて、いつも30人ほどが出入りしていた。 ⑺ 手柄山の名は、江戸相撲4代目横綱「谷風梶之助」が苦手としていた相手が「磐石」 で、磐石が苦手としていたのが「手柄山」という関取だったので名を付けた。 ⑻ 寛政10年(1798)江戸大火の時、櫻田屋敷付近の御宝蔵に火がつきそうなので、 防ごうとしたが火勢が強く、鳶たちは「い組」の“けします纏”を捨てて逃げたのを 南部家お抱え相撲の「錦木塚右エ門」らが鎮火させ、纏を無事で部屋に持ち帰った。 後に「い組」がこの纏を受取にきたが、錦木は「い組が捨てていった纏を命を掛けて 守ったのだから返す必要はない」と跳ね返した。翌年、盛岡八幡宮で江戸勧進相撲の 際に、錦木達は力士で出場する手柄山一門の七ッ滝岩平に土産として纏を与えたとい う。 ⑼ 江戸「い組」の“けします”は、仙北町「は組」の手に渡ったが、後に八幡町「い組」 の源氏車の纏と交換することになった。 ⑽ 藩政時代の消防体制は、消火より防火に主力がおかれていたが、その知恵は土蔵とい う建築物であり、城下の建物には瓦を使うこと、屋根の上には天水桶を置くように命 じ、光台寺所蔵の盛岡城下図六双屏風には、仙北町の町屋の屋根の全てに天水桶を乗 せている様が描かれている。 ⑾ 南部34代藩主利雄公の奥方(玉台院)は、加賀100万石の5代藩主の前田吉徳公 の4番目の姫君で、輿入れの時に同行してきた惣八と伝之丞の二人に御用火消しを命 じ、金沢城下で行われている「わら屋根禁止」「火の見櫓を82ケ所設置」し「拍子木 を叩いて町内を警戒」していて『江戸火消し』と『加賀鳶』は他藩の模範となってい た。これを盛岡藩に導入したのであった。 ⑿ このように、消防一分団「は組」には、先人の心意気が脈々と引き継がれて、今日の 分団活動でも広報発行と夜回りなどで、防火意識の啓蒙を繰り広げている。秋の「盛 岡八幡宮奉納山車」、夏の「秋葉神社奉納子供相撲大会」冬の「不退院虚空蔵堂祈願裸 参り」が消防団「は組」が主体となって賑やかに行われている。