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This Side of Paradise F. Scott Fitzgerald This Side of Paradise 1920 The Great Gatsby 9 This Side of Paradise Amory Blaine Rosalind Connage 1 Milton R

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(1)

[ 39 ]

F. Scott Fitzgerald

の処女作である

This Side of Paradise

1920

)は近年再評価 の機運が高まっているが、その中でも異彩を放っているのは三浦玲一による 論考で、そこで三浦は作品におけるジェンダーの力学を、フィッツジェラルド のロマンティシズムと関連させつつ、恋愛プロットに焦点を置きながら洞察的 に論じている。三浦はその論考において、「ジェンダーそれ自体への考察」は フィッツジェラルドのその後の作品で回避され、

The Great Gatsby

においてジェ ンダーは「経済階級」という「下部構造」を与えられると述べている(

9

)。すな わち三浦は、

This Side of Paradise

においては階級から独立した問題としてジェ ンダーが扱われていることを前提にしている。

確かにこの小説におけるジェンダーやセクシュアリティと階級の関係を探 る批評は少ない。作中、エイモリー(

Amory Blaine

)とロザリンド(

Rosalind

Connage

)との結婚は彼の富の欠如によって阻まれるのだが、その経済的要素 は局所的にとどまりテクスト全体への拡がりを有しているとは言い難いのは事 実だ。また他方では、近年の消費文化の表象への関心が、階級そのものへの興 味を薄めてしまったことも否めない1 しかし

Milton R. Stern

も指摘するように、小説中、(英国の大学と異なり) 確固とした階級的アイデンティティを学生に保証しないプリンストン大学は激 しい社会的競争の場と化し、エイモリーは階級上昇への熱望を抱く一方、下降 への恐怖に苛まれる2。また

Peter L. Hays

は、フィッツジェラルド自身、プリ ンストン大学における「相対的な貧しさ」ゆえに自分をアウトサイダーのように 感じていたと述べている(

215

)。この処女作は、フィッツジェラルドがニュー

坂 根  隆 広

1 このような観点からの作品の解釈の例として、Curnutt, “Fitzgerald’s Consumer World” 94-96, “Youth Culture and the Spectacle of Waste” 79-91を参照。

2 Stern 18, 29を参照。

(2)

ヨークで貧困生活を強いられた直後に故郷に戻って執筆されたことを想起して もよい3。裕福な少年時代からエイモリーの経済状況は劇的に悪化し、最終的 には社会主義を一つの選択肢として考えるに至る。社会全体を規定する階級構 造は描かずとも、階級の下降的流動性と貧困の恐怖についてこの小説はきわめ て敏感である。 エイモリーの階級的不安は、さらに性愛の問題との関連で描かれるのだが、 本論で実証したいのは、その関係が主に彼の身体をめぐる意識のうちに展開さ れるということだ。

Betsy L. Nies

はエイモリーが有する、「身体の脆さや不安 定をめぐる不安」を正しく指摘した上で、それを階級と人種の文脈において論 じている(

89

)。しかしより根本的には、エイモリーの身体的不安は、階級と 性の連関を指し示しているように思われる。エイモリーが性愛や階級について 不安を抱くときにとりわけ彼の身体意識は前景化されるからだ4。 その二つの不安の関係は複雑で、両者が密接に結びついており、一方が他方 の変奏された表現である、というだけでは足りない。実際には階級の不安が抑 圧される形で性の不安へと横滑りすることや、その逆の運動が多く、そのため 両者はしばしば隣接的に描かれる。この運動はおそらく階級と対立するものと して、あるいは階級を超越するものとして性愛を把握しようとする主人公のロ マンティックな性向に起因する。本作品の高度な自伝性を考慮に入れれば、そ れは作者自身の衝動とも言えるだろう。 しかしそもそも階級と性をめぐる不安の連続性を前提とせずには、横滑りな ど不可能であろう。実際、エイモリーの身体意識に即して作品を読み進めると、 階級的不安と性的不安の深い相互依存と、その依存への作者の(撞着的な表現 を承知で言えば)無意識的な気づきが見えてくる。階級と性の相互依存を直感 しつつ、なおそれを否認しようとする、作者自身の相反する認識の相克がエイ モリーの身体意識を規定する。その様相を、細部の精読を通して浮き彫りにす ることで、本論はこの処女作の新たな読解を試みる。 なお、性的な(あるいは性化された)身体に焦点を置く本論は厳密にはジェ 3 この時期のフィッツジェラルドの経済的苦境についてはBruccoli 92-96を参照。 4 Michael Kimmelは、運動を通して男性的な身体をつくり上げることで、階級上昇の実 質的な不可能性によって危機に晒された男性性の保持を試みる傾向を、1920年代の米国男性 に見出している(140)。階級の障壁を忘れるために男性的身体の構築が試みられたという事実

は、This Side of Paradiseにおける階級、性、身体の連関に社会的文脈を与えるだろう。なお、

本作品と同年にフィッツジェラルドが発表した “The Four Fists” では、主人公が文字通り顔を

殴られ顎が変形していくのと、階級が上昇するのがパラレルになっている。身体と階級との関 連はこの時期のフィッツジェラルドの一つの重要なテーマであったと想定できる。

(3)

ンダーよりはセクシュアリティを扱う、ということになろうが、この小説にお いて両者は連続的に一つの問題系を成している。もっとも本論の後半におい て、ジェンダーの問題は独自の重要性を帯びてくるが、さしあたって連続的な 問題系を緩やかに捉えて、階級との差異化を図るために、性、あるいは性愛と 呼んで議論を進めたい。 1.財政と身体 小説の最終章でエイモリーはニューヨークの貧困層への嫌悪を顕わにしつつ、 「男あるいは女だけがいるところ」であればともかく、「男女が下劣に群がって いるとき」に彼らが「汚く(

rotten

)」見えると考え、そこでは「誕生も結婚も死」 も「いやらしい秘密(

loathsome, secret things

)」になると考える(

237

)。エイモ リーにとって貧困の嫌悪とは性愛の「汚さ」の忌避を含意する。 このような階級と性愛の相関関係の意識は、翻ってエイモリーの性愛の形式 に影響を与えずにはいないが、それが身体をめぐって展開するのは不自然では ない。というのも、エイモリーにとって性愛の「汚れ」はその身体的次元と同 義だからだ。それは端的に、最初の恋人であるマイラ(

Myra St. Claire

)とのキ スにおいて、エイモリーがパニックに陥る場面に示される。そこでエイモリー は、キスへの“

disgust,

” “

loathing

” に襲われる ―“

[H]e became conscious

of his face and hers, of their clinging hands, and he wanted to creep out of his

body and hide somewhere safe out of sight, up in the corner of his mind

”(

21

). ここで嫌悪されているのは、マイラの身体だけではなく、エイモリーのそれも 含めた、性化された身体そのものと言える。 この場面が階級的要素を含んでいると言いたいのではない。あくまでそれは エイモリーの思春期の反応であって、性愛そのものを拒む訳ではない彼は、こ のパニックを克服していくほかないわけだが、その克服の仕方や性愛と身体の 関係のその後の展開にこそ、階級的な幻想が関わってくる。しかしその考察の ためには、いくつか予備的な手続きを必要とする。まず最初に、小説がどのよ うにエイモリーの身体意識を階級や財政の問題と関連させて描いているかを示 し、さらに、嫌悪すべき身体とは対照を成す身体イメージの形成を媒介する(か に見える)「水」という要素を考察することで、小説全体における身体像の大ま かな輪郭を示した上で、この小説中最も議論されることの多いディック・ハン バード(

Dick Humbird

)の事故と「悪魔」の場面の考察へと移っていきたい。 ロザリンドとの結婚を阻むことになるエイモリーの困窮の大きな原因の一つ は、遺産をほとんど残さずに死ぬ彼の両親の経済的失敗である。この小説にお

(4)

いて父親との関係は、彼が投資に失敗して仕送りが減少する、という言及にと どまり、経済問題に終始還元される。それがいかなる特殊な父子関係を指す のかをここで問う余裕はない。父親の死は“

Financial.

”と題される重要な章に おいて描かれる。父親の死後エイモリーは、彼の「石油」への投資の失敗によ り資産と収入が大幅に減少していたことに驚く―“

Very little of the oil had

been burned, but Stephen Blaine had been rather badly singed

”(

98

).この比喩 は、その直前の父親の葬式を観察しながら、「火葬」よりはやはり「埋葬」がよ いと考えるエイモリーの残酷な思考に対応している(

97

)。「埋葬」されたはず の父親が、投資の失敗によって「火葬」され、経済的失敗とは嫌悪すべき死体 への変容を暗示する。そのような想像力がここでは働いている。

エイモリーは葬式の翌日、自分の死体を想像する。

The day after the ceremony he was amusing himself in the great library by

sinking back on a couch in graceful mortuary attitudes, trying to determine

whether he would, when his day came, be found with his arms crossed

piously over his chest (Monsignor Darcy had once advocated this posture

as being the most distinguished), or with his hands clasped behind his

head, a more pagan and Byronic attitude.

97

エイモリーが自らの身体を比較的具体的に思い描く珍しい場面だが、しかしバ イロンへの言及を指摘せずとも、その身体がロマンティックな投影に糊塗され た美しい死体であることは言うまでもない。このような描写に続くからこそ、 父親が油で「焼かれる」というイメージが字面以上の激しさを帯びると言えよ う。 父親とは対照的に、母親のベアトリス(

Beatrice

)は非常に裕福な女性だが、 身体的にも精神的にも脆い女性として描かれる。エイモリーもその弱さを受け 継いでいるらしく、イタリアに向けて母親と共に船に乗るエイモリーが盲腸に かかってアメリカに引き返し、手術の後、母親が神経症を発症し、エイモリー ひとり叔父と叔母のいるミネアポリスに残されることによって彼の学生生活が 開始する、という形で物語が始まる。 “

Financial.

”のセクションで引用される手紙で、母親は彼の虚弱体質を心配 する。夫の死に伴い、ベアトリスはエイモリーに家の財政事情を手紙で説明す るのだが、実際引用される手紙では、エイモリーに「金融(

finance

)」こそが階 級上昇の足掛かりであるというメッセージ、そしてエイモリーの「健康」の心

(5)

配、その二つが並置される。ベアトリスは株への興味を示しつつ息子に金融界 に入ることをすすめ、そうすれば「ほとんど無限に」階級が上がると主張した 後に、「もし自分が男性だったらお金を扱うのが大好きだっただろう」と、性 差に関する認識が示され、そこにエイモリーの体の気遣いが記述される(

98

)。 イェール大学の学生は冬も夏の「下着」を着て、寒い日でも「頭を濡らして(

with

their heads wet

)」走り回っているらしいが、エイモリーの通うプリンストン大

学では大丈夫なのか(

98-99

)。昔エイモリーは一つも「留め金(

buckle

)」をつけ ずに靴を履いて走り回り、クリスマスには「オーバーシューズ(

rubbers

)」も履 かなかった。お前から手紙が来ないと色んな「恐ろしいこと(

horrible things

)」 を想像してしまう(

99

)。そう母親は述べる。大学生を幼児のように描く母親 の叙述は、幼児的な描写のうちに大学生のふるまいへの仄めかしを読み取る ことを促す。既にこのときエイモリーはイザベル(

Isabelle Borgé

)との恋愛 も経験している。

Oxford English Dictionary

の用例では「コンドーム」の意での

rubber

”という語の使用は

1913

年に る。ベアトリスのいう「恐ろしいこと」 に性的ニュアンスを読み取ることは難しくないと思われるが、さしあたってこ こでは階級の上昇に関する思考が、「男だったら」という性差の認識を喚起し、 そこにエイモリーの(性的な)身体をめぐる不安が続く、という事実を確認し ておけばよい5。 ベアトリスの死は事後的に言及されるのみであり、父親の場合と同様、財政 問題として処理される。母親の投資や浪費によって彼女の財産は目減りし、残 された金も多くは経営状況の悪い鉄道会社に投資されていることを知る(

153

)。 まともに残された遺産は、ウィスコンシンのレイク・ジェニーヴァ(

Lake

Geneva

)の土地と屋敷だけであり6、弁護士は税金のかかる家の売却をすすめ るが「ぼんやりとした感傷(

a vague sentimentality

)」と共にエイモリーはそれを 手放さない決心をする(

198

)。母親との絆を守るという感傷は、死を超えて残 る財産としての土地と屋敷への執着と一体である。彼がロマンティックな死体 を夢想するのも、その屋敷の「偉大な書斎」においてであった(

97

)。

Malcolm

5 Jonathan Schiffは、母親の、息子の身体的・精神的弱さへの心配がエイモリーの自己像 に投射されていると指摘する(71)。母親の手紙における息子の身体をめぐる心配も、エイモ リーに内面化されているものとして読めるかもしれない。フィッツジェラルドの母親と全く異 なる人物としてベアトリスを造型したことに関する示唆的な議論についてはIrwin 198-200を 参照。 6 レイク・ジェニーヴァの象徴性についての洞察的な考察として、David W. Ullrich 2004 を参照。本論の文脈では「レイク」にも「水」への憧憬が見られることを指摘しておきたい。

(6)

Cowley

はフィッツジェラルドを、土地や家などの所有物から、株などの流動 的な形式に富の尺度が移行する時代的変化の文学的体現者であったと説いてい る(

36

)。しかしフィッツジェラルドはその処女作において、時代遅れになりつ つある富の形式ヘの郷愁を隠していない。 2.濡れた身体の射程 母親の手紙には、学生が寒さの中、頭を濡らして走り回るのを心配する記 述があり、また(後述するように)小説後半では盲腸と水との関連にも触れら れるが、この作品において身体と水は切り離せない関係にある7。第一部第四 章のタイトルにおいて、エイモリーをナルキッソスに譬える作者の感性を考え れば、そのつながりに驚きはないだろう。実際作品中において、水はナルシス ティックな詩的陶酔を(脱)身体的に実現することが多い。最も典型的でなお かつ意義深いのは、一貫して水が前景化され、エピソード全体が極度なまでに ロマンティックに幻想化されたエレナー(

Eleanor Savage

)をめぐる章であろう。  メリーランドの林の中、夢想に耽りながらエイモリーが歩いていると「雨」が 降ってきて、そこにエレナーの歌声が聞こえてきて出会う、という滑稽なまで にメロドラマティックな始まり方をする物語に一貫する陶酔は、エイモリーの 水との合一において頂点を迎える―“

Often they swam and as Amory floated

lazily in the water he shut his mind to all thoughts except those of hazy

soap-bubble lands where the sun splattered through wind-drunk trees

”(

215

.

詩的陶酔と身体の幻想化の重要な媒体として水や雨が機能する一方で、水 で「濡れる」身体の表象は、時にそのような陶酔を否定するような力学を生み 出す。母親が手紙で言及する、髪を濡らした大学生とは、病気や不健康を示 唆する一方で、エイモリーが大学入学前に友人に説明する“

slicker

”の哲学に 呼応している。ある種のスマートさや、服装が人格の構成要素であることへの 自意識を有し、世俗的にも成功するタイプの人間を彼は“

slicker

”と呼ぶ(

40

)。 彼が友人に伝える“

slicker

”の条件は髪を濡らしていることである―“

Why―

why, I suppose that the

sign of it [being a slicker] is when a fellow slicks his hair

back with water

”(

39

).“

slicker

”とは字義通りには「レインコート」を指し、実 際その意味において小説中で使用されてもいる(

58

)。エイモリーの用法は防 7 Dan Seitersは本作品における水のイメジャリを丁寧に追っているが、水は一貫した象徴

的パターンを有さないと結論付けている(48)。だが水と身体との関わりは一貫していると同

(7)

水と親水の境界を曖昧にし、レインコートの連想は、水で整髪することが、あ たかも防水用具を透過した雨水によって髪が濡れることを意味するかのような 印象を生み出す。そしてここで水と身体の繋がりは、エイモリーにとって具体 的かつ世俗的な成功の外見的な唯一の指標として浮かび上がっている。

だがエイモリーは大学でそのような成功を収めることができずに、時間だけ が流れていく。その焦燥感を端的に示すのが、“

A Damp Symbolic Interlude.

と称されたセクションである。大学の「湿った芝生」に横たわりながら、彼は 考える。

Damn it all

―”

he whispered aloud, wetting his hands in the damp

and running them through his hair.

Next year I work!

Yet he knew that

where now the spirit of spires and towers made him dreamily acquiescent,

it would then overawe him. Where now he realized only his own

inconsequence, effort would make him aware of his own impotency and

insufficiency.

57-58

水で湿らせた手を頭に通すという動作は“

slicker

”のそれを反復している。

spires

”と“

towers

”というあからさまに男根的な象徴は、彼の“

impotency

”を 性的な次元に引き寄せる。だがセクションのタイトルにすら示唆される「象徴」 のあからさまさは、むしろ尖塔の象徴としての機能不全(

impotency

)を示して いよう。つまり将来の不安を性的な不安として捉えようとする、エイモリーや 作者の意図そのものが透けて見えるように構成されている。「雨」が降ってき てもしばらく横になっていた彼が立ち上がり、“

I

m very damn wet!

”と叫びこ のセクションは終わる(

58

)。身体を忘れさせてくれるロマンティックな媒体で もある水や雨が、身体にじっとりと密着して直接的な不快感を催すところで、 現実的な不安や焦燥が喚起され、それが性的な不安と重ね合わせられている。 3.ディック・ハンバードの死と悪魔の意義 以上の考察を前提にして、従来から論争の対象であるハンバードの事故と、 その後の“

devil

”のエピソードを検討してみよう。「完璧なタイプの貴族」の典 型に見えるハンバードへのエイモリーの憧れは、次のように説明されている ―“

He differed from the healthy type that was essentially middle-class—he

never seemed to

perspire

”(

78

).小説中ではエイモリーを“

a sweaty bourgeois

(8)

pictures

”に似ているとエイモリーは述べるが、イメージが汗をかかないのと 同程度に、ハンバードは脱身体化された存在として把握され、それが中産階級 と汗という身体性の接続を印象付ける(

78

)。身体が濡れることに伴う不快感 はここで有閑階級からの遠さとして把握されている。

しかしエイモリーは友人に思わぬ事実を知らされる―“

[I]f you want to

know the shocking truth, his father was a grocery clerk who made a fortune in

Tacoma real estate and came to New York ten years ago

”(

78

).それを聞いた エイモリーは、“

a curious sinking sensation

”を感じる(

78

)。費用がかさむレイ ク・ジェニーヴァへのエイモリーの固執を考えれば、ハンバードがその父親に よってではあれ、「不動産」を通して成り上がったという情報は「ショッキング」 に違いない。

ハンバードの事故死は彼の身体をグロテスクな死体へと書き換える。

All that remained of the charm and personality of the Dick Humbird he

had known—oh, it was all so horrible and unaristocratic and close to the

earth. All tragedy has that strain of the grotesque and squalid—so useless,

futile . . . the way animals die. . . . Amory was reminded of a cat that had

lain horribly mangled in some alley of his childhood.

86

省略符号は原文) モノを見るかのごとく冷たい視線を、エイモリーはハンバードに投げかける。

unaristocratic

”という語の明白に階級的な響きは、“

squalid

”や“

close to the

earth

”といった表現もまた階級的に解釈するよう読者に促す。

Richard M.

Clark

は死体がハンバードの本来の身分の低さを顕わにすると的確に論じてい るが(

43

)、より正確にはエイモリーがそのように死体を意味付ける、という ことだろう。ハンバードの醜悪な死体への変貌は、労働階級への転落としてエ イモリーに現前する。     本論の文脈において決定的なのは、事故のエピソードに続いて、その「翌日」 に場面が移り、イザベルとのキスと抱擁のセクションが開始することだ8。そ の“

Crescendo!

”というセクションは次の重要な一節で始まる。 8 Pearl Jamesもこのエピソードの隣接に注目するが、エイモリーのハンバードへの同性愛 的な感情を読み取る彼女は、イザベルへのキスとその後の(異性愛的な)失望を、転移された ハンバードの喪失として読む(15)。同性愛的な感情を読み込むにはハンバードの描写は乏し く、ルームメイトのトム(Tom D’Invilliers)が言及されないという点でもその議論は説得力に 乏しい。

(9)

Next day, by a merciful chance, passed in a whirl. When Amory was by

himself his thoughts zig-zagged inevitably to the picture of that red mouth

yawning incongruously in the white face, but with a determined effort he

piled present excitement upon the memory of it and shut it coldly away

from his mind.

86

「現在の興奮」を、死体の「記憶」の上に4 4 「積み重ねる」という表現に注意したい。 作者はここで明瞭に、エイモリーにとって、イザベルとのキスが、深く階級的 に規定されたハンバードの死体を抑圧する形で成立することを示している。イ ザベルとの性愛がハンバードを忘れさせてくれると、彼はそう信じている。だ が上の表現は、その死体が性愛の無意識を構成することを示唆してもいる。 注意したいのは、ここのキスにおいては、エイモリーではなくてイザベルが パニックに陥るという事実である。エイモリーが彼女を強く抱擁しすぎるため、 首に彼の襟のボタンの跡がついたのを必死で擦り落とそうとする彼女を、エイ モリーは笑いながら観察する。“

Haven

t I enough on my mind and you stand

there and

laugh!

”とイザベルは叫ぶ(

89

)。

Linda C. Pelzer

はエイモリーがハン バードの死に感じる幻滅が、イザベルに対する幻滅と通底していることを看破 している(

44

)。それを我々の文脈に照らして言い換えれば、エイモリーのイ ザベルへの事実上の身体的暴力とサディスティックな視線は、ハンバードの損 傷した死体への冷酷な視線の延長上にある、ということになろう。ハンバード の悪魔を予感させる形で、首についたあざをイザベルが「悪魔(

Old Nick

)」の ようだと言う意味はそこにあると思われる(

89

)。つまりエイモリーがパニック に陥らずに女性とキスをするには、ディックの死体を目撃する必要があったと いうことだ。エイモリーは階級的不安を性愛によって忘却しようとする。だが 実際には、その階級的視線によってこそ、エイモリーの性愛が(不)可能とな る。そう物語のエコノミーは主張する。 このように見てくると、悪魔を、エイモリーの性的欲望、あるいはその道徳 的罪悪感の投影された姿とみなす解釈の不十分さが理解されるだろう9。ある コーラス・ガールの部屋で、アクシア(

Axia Marlowe

)という別のコーラス・ ガールが、頭をエイモリーの肩にもたせかける。彼が「誘惑」を感じるや否や、 幽霊的な人物が前方に座っているのを見る、という構成はたしかにそのよう な解釈を誘う(

108

)。語り手自体が小説の後半で、“

The problem of evil had

(10)

solidified for Amory into the problem of sex

”と明確に述べてもいるのだが、 だからこそ、そのような読みは相対化される必要があるだろう(

258

)。

これも既に指摘されてきたことだが、この男に階級的な意義が託されてい るのは間違いない10。悪魔の顔は、「男らしい青白さ(

virile pallor

)」を備えた、 「鉱山で働いて」いたか「湿った気候(

a damp climate

)」で夜勤をした「屈強な男 (

a strong man

)」の顔のようだとエイモリーは感じる(

108-9

)。

Rena Sanderson

は、アクシアを、フィッツジェラルドの“

sexual prudishness

”を示すべく彼の 小説でしばしば現れる、俗悪な労働階級の女性登場人物の原型として捉えてい る(

151

)。この幽霊的な男が労働階級の人物として捉えられる背後には、アク シアの性的身体に屈することが、階級の下降を意味するのだというエイモリー の潜在的な恐怖があるだろう。あるいはそう思うことで女性の性的誘惑を拒も うとする。ここで性の不安と階級の不安は端的に一致しているように見える。 男の「顔」は再び悪魔が夜道に現れたときに、「ディック・ハンバードの顔」と してエイモリーに認識される(

111

)。それはハンバードの死を階級との関連で 捉える我々の解釈を補強するはずだ。 しかし悪魔の場面で目を引くのは、男の顔の描写に続いて強調される、この 悪魔の高度な身体性であるとともに、それを生み出す、エイモリーの視線の執 拗さであろう。

Amory looked him over carefully and later he could have drawn him after

a fashion, down to the merest details. His mouth was the kind that is

called frank, and he had steady grey eyes that moved slowly from one to

the other of their group with just the shade of a questioning expression.

Amory noticed his hands; they weren

t fine at all, but they had versatility

and a tenuous strength . . . they were nervous hands that sat lightly along

the cushions and moved constantly with little jerky openings and closings.

Then, suddenly, Amory perceived the feet and with a rush of blood to the

head, he realized he was afraid. The feet were all wrong . . . with a sort of

wrongness that he felt rather than knew. . . . It was like weakness in a good

woman or blood on satin; one of those terrible incongruities that shake

little things in the back of the brain.

109

省略符号は原文)

(11)

この小説において、これほど詳細に身体の描写がなされることはない。存在し ないはずの幽霊的存在に人間以上に過剰な肉体性が付与される、という逆転は しかしさらに微妙な力学を含んでいる。この描写は身体のぎこちなさを表現す る一方で、手の“

tenuous strength

”、“

cushion

”を触る手を経由して“

weakness

in a good woman

”へと至り、女性性を徐々に強調することで段階的に“

a

strong man

”という「顔」の印象を否定する方向に進む。男の身体の特徴を追 うことは、その(上流階級的とも言えるかもしれない)女性性を強調すること で、男の顔の労働階級的な意味合いを否定することにつながる。エイモリーに とって、男のジェンダーの動揺は、男の一見したところの階級に身体が一致し ないということと同義である。エイモリーが意図的に男の顔の階級的暗示を否 定しようとしているかは定かではない。肝要なのは、階級と性的不安とジェン ダーの揺れが相互に結びつき、かつせめぎ合うときに、小説一般を覆うロマン ティックな幻想の膜が破れ、身体の身体性が不気味な形で最も顕わになり、エ イモリーを恐怖に陥れるという事実そのものだ。それは、エイモリーのロマン ティシズムとは、そのようなせめぎ合いを無意識として抱えもち、抑圧しよう とする不断の努力にほかならないことを逆照射的に示している。 4.階級と男らしさ 悪魔の描写が示す身体における階級とジェンダーの相克という視座は、エイ モリーとロザリンドとの関係について新たな読みを促す。「大量のお金と結婚 する」と言うロザリンドとの恋愛が、エイモリーの経済階級に直結することは 言うまでもない(

167

)。それは一見すると、階級と性愛の一体化にロザリンド との関係において彼が直面しているように見えるし、小説自体がそのような 解釈を誘導する。彼女との結婚を考えてエイモリーは、「突然金持ち」になる ことを夢見ながら広告会社に就職する(

174

)。しかしロザリンドの母親は彼の 給料の低さを指摘しながら、金持ちの男性と結婚するよう促し、娘はその忠 告を受け入れる。自暴自棄になったエイモリーはやけ酒をし、作者はそれを “

alcoholic

”と称す(

187

)。酔いながら彼は、友人に唐突に戦争の話をし、そこ

で理想主義を失い、“

physcal anmal [sic]

”になったと言い、その場面は朦朧と している彼が、友人が「靴ひもの結び目」について何かを言っているのを聞く ところで終わる(

186-87

)。小説中で「靴ひも」が焦点化されるのは、ハンバー ドの死体を見る場面だけである(

86

)。さらにそこでハンバードの死体が「動物」 の死体になぞらえられていたことを想起すると、エイモリーのやけ酒はハン バードの死体への同一化を暗に意味すると推測できる。また失恋の直後に、自

(12)

分は“

rottenly underpaid

”だと上司に告げて彼は会社を辞めるが、そのセクショ ンは“

Amory on the Labor Question.

”と題されている(

192

)。中産階級として の矜持を示しつつもその行為によって彼は職を失うのであり、ストライキの頻 発や社会主義への恐怖が問題化していた

1919

年頃の米国においてはなおさら 顕著だったであろう、“

Labor Question

”という語の階級闘争的ニュアンスは見 逃せない。続くセクションでは、突然彼は大勢の人間に殴られて友人と住む部 屋に戻る(

192

)。彼の階級下降の不安が現実味を帯びることと、身体が損なわ れていくことがここでは並行している。 だが他方で注意すべきは、象徴的な次元では生死よりも重要な違いが、エイ モリーのやけ酒や怪我とハンバードの醜悪な死体との間にはあるということだ。 殴られたことを話すエイモリーは、友人に一度は経験しておいた方がいい、と 得意げに話す(

193

)。酔った中での「戦争」の話も同様、彼に一定の男性的な自 尊心を回復させている。つまりハンバードの死体との同一化はポーズでしかな く、むしろエイモリーは、(悪魔の顔が示していた)労働者と男らしさの連想に 依存しているように思われる。 おそらくここで垣間見えるのは、女性によって脅かされる男性性というジェ ンダーの問題を、ハンバードの死体の喚起を通した階級的な身振りのうちに 克服しようとするエイモリーの衝動である。ロザリンドとの別れの直前に、 “

Aquatic Incident.

”という短いセクションが挿入されることを想起しよう。そ こでエイモリーは、ロザリンドを愛するある男から彼女についてのエピソード を聞かされる。壊れそうなサマーハウスの上から誰かが飛び込んだのを見て 彼女がそれを真似しようと誘い、彼女が真っ先に飛び込んだというのだ―

A minute later . . . a form shot by him; Rosalind, her arms spread in a beautiful

swan dive, had sailed through the air into the clear water

”(

177

省略引用者)

.

男 は続ける。“

Of course

I had to go after that—and I nearly killed myself

”(

177

.

エイモリーはその話を笑って聞いているが、これほどロザリンドが男性を脅か す無鉄砲さを顕わにする場面はない。そしてこの次のセクションで、唐突に二 人は別れるのだ。 先述したエレナーについての章はロザリンドとの恋愛より後に位置し、そこ で水に「飛び込む(

dive

)」ことは、エイモリーにとって身体性が融解するような 陶酔の延長上にある(

215

)。「澄んだ水」はロザリンドの場面において、男性性 を脅かす媒体として立ち上がっていたが、その恐怖を忘却するべく、エレナー との関係の中で「水」の意味をエイモリーが書き換えているようにも見える。 だがエレナーとの関係は、彼女が馬に乗って崖から飛び降りようとして、その

(13)

直前で馬から「飛び降り(

plunged

)」、馬は死に、怖れるエイモリーの体が「氷」 のようになる場面で幕を閉じる(

221

)。「泳いだりゴルフをする」ロザリンドを、 エイモリーが「性的魅力に欠けている/中性だ(

sexless

)」と思っていたと述べ る場面がある(

163

)。水に飛び込み馬から飛び降りるロザリンドとエレナーは、 その性的身体ではなく、性の不明な身体によって男性の身体を凍らせる。小説 後半においてエイモリーを脅かすのはこのような、身体的に顕現する、女性の 死を恐れぬ放胆さではなかったか。そこで揺らぐ男性性を、ハンバードの死体 への同一化を媒介とする階級下降の幻想と身体的な怪我を通して回復すること を彼は試みているのではないか。これは少なからず思弁的な解釈には違いな い。しかし次の最終節において確認するように、テクストはそのような読みを 後押しする。 5.フィッツジェラルド的モダニズムの地平 以上に見た身体を通して展開する階級、性、さらにはジェンダーをめぐる不 安の相克は、最終的にはエイモリーの陶酔のもとに回収されるかに見える。小 説の最終章において、将来の不安を抱えながら、彼は「官能的」に「消えてしま いたい」という衝動に駆られ、メキシコの家で横になりながら、エキゾチック な少女に髪を撫でられる様を想像する(

242

)。現実への不安は、ロマンティッ クな空想で覆われた身体への衝動に転化する。 しかし同じ最終章に、我々がこれまで確認してきた階級と性愛に関わる 不安の相克を、エイモリーに体感させる決定的な一節をフィッツジェラルド は小説に埋め込んだ。それは小説中で群を抜いてモダニスティックな手法で 書かれた、意識の流れを彷彿とさせる一節である。小雨の降るニューヨーク で、エイモリーは貧困層に自らが抱く嫌悪を実感しつつ、バスの屋上に乗っ て経済状況や将来の不安をめぐる問答を心の中で繰り返したのち、その問答 は、“

a grotesque blending of desires, worries, exterior impressions and physical

reactions

”へと溶解する(

239

)。本論だけではなく、小説においても最重要と

言える一節なので長さを承知の上で引用したい。

127th Street—or 137th Street. . . . Two and three look alike—no,

not much. Seat damp . . . were clothes absorbing wetness from seat, or

seat absorbing dryness from clothes? . . . Sitting on wet substance gave

appendicitis, so Froggy Parker

s mother said. Well, he

d had it—I

ll sue the

steamboat company, Beatrice said, and my uncle has a quarter interest—

(14)

did Beatrice go to heaven? . . . probably not—He represented Beatrice

s

immortality. Also love affairs of numerous dead men who surely had

never thought of him . . . if it wasn

t appendicitis, influenza maybe. [. . .]

Apartments along here expensive—probably hundred and fifty a month—

maybe two hundred—Uncle had only paid hundred a month for whole

great big house in Minneapolis. [. . .] What a dirty river

̶

want to go down

there and see if it

s dirty—French rivers all brown or black, so were

Southern rivers—Twenty-four dollars meant four hundred and eighty

doughnuts. He could live on it three months and sleep in the park. Wonder

where Jill was—Jill Bayne, Fayne, Sayne—what the devil—neck hurts,

darned uncomfortable seat. No desire to sleep with Jill, what could Alec

see in her? Alec had a coarse taste in women

̶

own taste the best; Isabelle,

Clara, Rosalind, Eleanor were All-American. Eleanor would pitch, probably

southpaw. Rosalind was outfield, wonderful hitter, Clara first base, maybe.

Wonder what Humbird

s body looked like now. If he himself hadn

t

been bayonet instructor he

d have gone up to line three months sooner,

probably been killed. Where

s the darned bell

―(

239-40

下線と括弧付き の省略は引用者) 雨水によって不快に濡れた身体は盲腸をエイモリーに思い起こさせ、その記憶 はベアトリスを喚起するやいなや、叔父の有する“

interest

”というお金の問題 に結びつく。昔の記憶から外の風景に目を転じるエイモリーだが、お金への関 心を引きずったまま家賃と叔父の屋敷へと思考が流れる。これに先立つ自問自 答において、エイモリーは自分の財産は二十四ドルしかないと自 し、それで もレイク・ジェニーヴァの土地を売らないと再び言い聞かせている(

238

)。そ の屋敷もまた、低い家賃収入しか生み出さないことが強調されていたのを思い 出そう。ベアトリスの“

immortality

”は、エイモリーの屋敷の保持と軌を一に するはずだが、家賃をめぐる思考はその不可能性の認識を指すだろう。注目す べきはそこからの意識の流れである。経済状況の問題は直接的に自分の持つ金 の問題へ連結し、「ドーナツ」に変容する交換価値としての貨幣は、公園で三 か月「寝る」という荒涼とした貧困の風景を想像させる。だがその「寝る」とい う語は、すぐに性的な意味に横滑りする。ジル(

Jill

)とは友人のアレック(

Alec

Connage

)が共にいた娼婦らしき女性である。貧困の想像は(貨幣と交換され る)娼婦と「寝る」という欲望と不安に直結するのだ。彼が拒絶する女性の性的

(15)

身体と対置させる形で、エイモリーは自分と関係の持った女性を、野球選手と いう男性性のうちに措定する11。しかし素晴らしい「打者(

hitter

)」としてのロ ザリンドに端的に表現される攻撃性は、エイモリーの男性性を脅かしかねない だろう。そのとき唐突にハンバードの死体に彼は思いをめぐらせ、さらに加え て醜い事故で死んだ彼の戦争での死を空想する。男性的な女性たちの喚起が、 労働者的(ハンバード的)でありかつ4 4 戦死するヒロイックな死体の夢想を導い ている。しかし「銃剣」というあからさまに男性的な象徴性を帯びたハンバー ドの死体は、男性性の殺害をも含意するだろう。そこで意識の流れは止まる。 そしてこの意識の流れは、「汚い川」への反発と、そこに近づいて本当に汚い のか確認したいという、澄んだ水への憧憬の感覚、さらにエイモリーの濡れた 不快な身体感覚を伴って展開する。 フィッツジェラルドが実験的モダニストに最も近づく瞬間とはこうして、小 説における階級と性愛をめぐる不安の相互関係の物語を、エイモリーが凝縮し た形で生き直す瞬間にほかならない。階級と性が結びついている、そう認識す るのはたやすい。しかしその連関を身体の次元において感得しなければならな いところに、エイモリーの、そしておそらくは作者の苦しみがあり、だからこ そ、彼らはそれを知りつつも否定しようとする。しかし作者のモダニスト的意 識はそれを許さず、むしろ階級と性愛の相克を反復的に演出しエイモリーに水 を通して体感させる。その演出においてこそ、フィッツジェラルドがモダニス トとして誕生すると言ってもよい。三浦が言うように、「経済階級」が現実社 会のそれを反映する形で、小説的に構造化されるのは後の作品においてであろ う。しかし社会的に構造化される以前の、身体的不安という個人的かつ存在論 的な次元において捉えられているからこそ、階級と性が重なることの衝撃が 生々しく読者に伝わってくるのではないだろうか。 11 先に触れた場面で、「水泳やゴルフ」をする「中性的な」女性だと思っていたと言うエイモ

リーに対し、ロザリンドは、“Oh I do [swim and play golf]̶but not in business hours” と答 える(163)。この “business” という語にSarah Beebe Fryerは求愛と売春との相似についての

ロザリンドのシニカルな認識を見出している(24)。ジルのように娼婦として性化されない場合

は、スポーツ選手のように「中性(sexless)」的に捉えるという、エイモリーの女性についての

二者択一的想像力、そしてロザリンドもそのような男性の想像力をシニカルにせよ内面化せざ るを得ないという事実は、イデオロギー上の問題を含んでいるが、フィッツジェラルドの明白 に実験的で意識的な叙述は、一定程度そのような想像力を相対化していると言えよう。

(16)

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参照

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