戦後日本の環境政治と大企業の権力 : 東京電力を事例として-香川大学学術情報リポジトリ

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匹]

戦後日本の環境政治と犬企業の権力

東京電力を事例として

I.本稿の課題と分析視角

H.環境政治のなかの東京電力

小林科氏(東京電力顧問)オーラル・ヒストリーから

 1.公害問題の始まり

 2.公害国会・環境庁創設

 3.発電所の誘致と立地

 4.公害健康被害補價法の制定と改正

 5.環境アセスメントの法制化

Ⅲ.知見の要約と今後の課題

本稿の課題と分析視角

 本稿は,環境政策をめぐる政治(環境政治)の分析視角のなかに企業,特に大企業を位       (1) 置づけていくための予備作業である。  はじめに本節では,戦後における企業と政治経済および環境(公害)との関係に関す る一般的な理解を確認しておくことにしたい。その際には,近年における勤向も考慮し て,行動原理として経済的利益を追求する企業が,それと対立的に捉えられてきた環境 を経営に採り込んできていることをどのように考えるのかという問題があるだろう。  この現泉の検討にあたっては,A.ジェイミソンによる整理が参考になる。まず彼は, 環境に関する人々の自覚は60年代以降の「産物」と見なせること,たとえば70年代初 頭に各国で環境省(庁)が創設されていったことに見られるように,環境保護というテ ーマが一犬公共政策セクターに浮上したことを確認している。また,同時期に国連人間 一 63∼ 27−3・4−346(香法2008)

一三二

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一三一

戦後日本の環境政治と大企業の権力(森)

環境会議(72年)が開かれたことなどを観察して,「環境」は国際的な課題となっていっ たのだとする。そして,確かに80年代のような「停滞」と見られる時期も存在するが, 今日では人問と対置した上での(no-human)白然の保護から,人間社会そのものが緑化  (gl=−雨)へと移るようになってきているというのである。「縁化」の意昧には曖昧さが 残るものの,環境の文脈は全体としては持続(却持)可能な発展(s。・idl。[]。,,。1.m。・t) に代表されるような,[良きイメージ]が定着するようになってきているとされる。た だし,「緑化」が経済にも浸透していくなかで,環境主義(Environmentalism)自体は相対的 に後背に位置するようになってきたという。この意昧において,環境が経済に採り込ま       (2) れるようになってきたのだと理解されている。別言すれば,環境に関する取り組みの多 く は,(公的部門の直接的な介入に限定されず,)企業, さらには市場によって決められるよう    ③

になってきたというのである(the Challengeof Green Business)。

 次に,このような煙解を前提とした上で,既存の政治学的な研究が「企業と政治経済 および環境(公害)との関係]についてどのように切り込んできたのかを硫認していこ う。総じて見れば,先行研究の多くは,専ら企業と政治経済との関係に焦点を当てて論 じてきたといえる。それらは,アクター(政治家,官僚,企業,XGOなど)の影響力やそれ らを取り巻く「制度」および「構造」に目を配りながら,とりわけ中央政府と大企業と       (4) の間に見られる権力関係を分析してきたのである。すなわち,ヅァリエーションはある けれど伝経済絞策や産業政策を事例としながら国家と杜会との関係のあり様を説明し ようとしてきたといえる。結果として,それらの分析のなかでの犬企業は,相当程度の 重みを与えられた「権力者」として位置づけられている。  他方で,企業と環境との関係に言及する研究は,基本的にそれらを調和しないものと 捉えてきたが,そもそも日本ではその関係についての知見が紹介されることすら稀で あった。また,日本における数少ない環境政治の先行研究は,例えば,コンビナートに 進出する大企業との間の不調和の帰結としての反公害運勤や,それへの対応に追われる 地方政府の勤きに焦点を合わせてきた。もっとも近年では,欧米との比軟の可能性を追        ⑤ 求しながら,中央政府レペルの政治過程の分析も行われ始めてはいる。しかし,これら の研究では,犬企粟の動きについて十分な説明が行われてはいない。語られるにして 仏それは政官業の「鉄の三角同盟」の一角として,あるいは環境保全の動きを抑制す る静態的な要因として著され,環境政治の文脈では副次的に言及されるにとどまってき       ㈲たからである。要するに,大企業の存在は,環境政治の分析視角に十分に採り込まれて こなかったのである。  以上のように,経済政策などをめぐる政治と環境政策をめぐる政治は別個に論じられ る傾向にあったといえるが,ジェイミソンの整理を考慮すれば,そうした政策過程問の 27−3・4−345(香法2008) 一 64

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関係にもなんらかの変化が生じている可能性が残される。本稿が関心を寄せる環境政治

の議論を深めていく際に仏絞策過程の比較検討などを視野に入れつつ,より包括的な

分析を目指すことが必要だと考えられるのである。そこで本稿では,新たな研究の方向

性の手がかりの一つとして企業,特に犬企業の権力性に着目しながら,戦後日本の環境

政治を記述してみることにしたい。

 具体的には,n節において,環境政治にかかわる企栗としての束京電力の動向を分析

する。なぜならば,日本最犬級の規摸を誇る民間企業の一つとして政治的・経済的そし

て社会的に影響力を行使してきた一方で,早くから公害防止協定を自治体と結ぶなど,

必ずしも経済と対立したものとして環境を見ず,むしろ積極的な取り組みすら見られた

興味深い事例だからである。ここでは,同社顧問の小林料氏へのインタビューを最大限

に活かすかたちで,いくつかの場面に洽って「環境政治のなかの束京電力」を再構成し

ていくことにしたい。そしてⅢ節においては本稿の知見をまとめ,今後の課題を確認す

る。

豆.環境政治のなかの東京電力

小林料氏(東京電力顧問)オーラル・ヒストリーから

一 65 − 27−3・4−344(香法2008)

コニ○

 本節では,小林科氏に行ったインタビューを再構成するかたちで「朧境絞治のなかの       (7)東京電力」を記述していく(表1も参照)。次項以下において文字のポイントが相対的に 小さい括弧の部分は,文章の流れを崩さない範囲での筆者なりの注釈を表す。また,年 号については,引用を除いて基本的に西暦を用いる。  作業を始めるにあたって,小林氏の経歴を簡単に紹介しておく。氏は,1952年に京 都大学工学部土水工学科を卒業し,束京電力に入社された。当初は建設部や企圃室に配 属されていたが,同室企圃諜副長時代㈲年)から公害にかかわり始めた。また,68年 頃からは,公害対策本部(後に公害総合本部公害部に改組)総括課長,理事環境部長,理事 立地本部環境副本部長などの環境・公害畑のポストを歩まれた。そして,95年以降は 顧問に就任されて現在に至っている。  なお,本稿作成中に本稿と類似する問題意識をもった複数人へのインタビュー記録  (小林料「東京電力の公害対策絃験」を含む),すなわち,アジア環境政策研究会(アジアにおけ る環境政策の形成・実施過程研究会)編『日本の公害対策経験に関するヒアリングの記録』日 本貿易振興会アジア経済研究所開発研究部,2002があることを知った。多くの有益な 知見が『記録』に収められており,本稿はその袖完に努めるという観点から記述するこ とにしたい。その意味において,本節の記述は必ずしも網羅的ではない。

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一 一

戦後[]本の環境政治と犬企業の権力(森)

年 一 1963 1967 1968 1970

1971

1973

1984

1987

1993

1997

      表1 本稿関連略年表

       環境・公害関連法と政治・行政

ばい煙の排出の規制等に関する法律(ばい煙規制法)

公害対策基本法(「調和条項」)

犬気汚染防止法(ばい煙規削法のバージョンアップ)

公害対策基本法の一部を改正する法律(「調和条項」削除。公

害国会)

環境庁創設

公害健康披害の補價等に関する法律(公健法)

環境影響評価要綱の閣議決定

公健法改正

環境基本法

環境彭響評価法(環境アセスメント法)

H節の項数

︱ N N 9乙 り乙 9 LQ 4 り乙 5 3

出典)筆者作成。「n節の項数」は,「環境・公害関運法と政治・行政」にある内容が

  H節のどの項で古かれているのかを,また「’」は,それらの内容が問接的に関

  係していることを表す。

1.公害問題の始まり  小林は,公害は「ある意昧では極めて物理的な現象」であるという理解を示した。産 業がある行為をすれば,環境に何らかの影響を及ぼす。私害ではなく,「公害」という のは,「対象が不特定多数で,しかも物理的に空気や水などの媒体を通した原因と結果 であり,そうだとすれば,経済成長があろうとなかろうと,産業と周辺の市民との間で は必然的に起こっていた問題jなのだという。日本で公害が顕在化した理由については, 高度成長期に狭い国土に多人数が往んでいたという「地政学的な要因」が関係している のではないかというのが,小林の解釈である。また,外国から輸入した責源とエネルギ ーに付加価値を与えていくなかで発生してきたのが,公害現象だというのである。  しかし,電気事業についていえば,「水主火従」(水力発電が主で,火力発電が従)の時代 は1951年頃まで続いてきており,公害は潜在化していた。公害の直接の原因について は,石炭の使われ方を戦後復興との関係において見ていく必要がある。小林は次のよう に整理した。まず石炭火力と水力とで日本の復興が始まったわけだが,その際に奨励さ れていたのが石炭産業であって,牝海道,常磐,九什│などの各炭鉱には公的貴金が投人 されていたのだ,と。このとき,電気事業の公害対策といえば,煤塵対策を指す(小林 によれば,石炭は品質によっては30%ぐらぃが灰になり,火力発電所の設備資金の3割が公害対策費に当 てられてぃたとぃ引。具体的には,1951年から集塵鉄を使い姑めたという。大々的に取 り付け始めたのは,豊洲にあった新東京犬力発電所であった。 27−3・4−343(香法2008) 66−

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 やがて燃料の主軸は,石炭から石泊へと転換していった。この理由について,小林は 三つ挙げた。第1は,経営者と労働組合との関係である。炭鉱でストライキが頻発する ことは,経営側にとっては「セキュリティ」上の問題なっていたということである。第 2は,国策としての石炭購人の必要性という点は東京電力にも当てはまるのだが,民間 の九電力は「確保が性しくなってきた石炭に頼っていられない」のに加えて,石油が安 定的かつ低価格で輪入可能になってきたことである。そして第3は,1951年に制定さ れた電源開発促進法によって,電源開発株式会社(以下,電発)が,石炭を買い続けると いう目的および水力発電による復興を目的として作られたことである。要するに,政府 としては電力粟におけるストライキといった危機を回避しながら経済効率を高めたい一 方で,石炭産業を維持させるための販路を確保しておきたいことから,電発は作られた のである。  しかし,こうしたエネルギーの転換によって公害が滅じたわけではない。この過程で 現れてきたのは,煤塵に代わる犬気汚染物質としての亜硫酸ガス(sox : 硫黄副ヒ物)であっ た。すなわち,「転換」は急激には進まず,石炭と石油の「混焼」の時期を経るなかで 石油使用量が増加し,亜硫酸ガスのみが問題になる時代へと移っていったのである。政 府と大企業,あるいは国家と社会との関係を自覚的に捉えようという本稿の関心からす れば,このとき,電発と九電力が公害対策で協力関係にあったのか否かは興昧を引く問 題である。小林によれば,中央電力協議会に「公害対策専門委員会」ができ,九電力は その構成員である電発とも「昭和40年頃から完全に,密接に協力をしてき」たとされ る。脱健装置の開発は電力業界全体の協力の賜物でもあったのである。たとえば,日立 製作所,石川高播磨垂工業(現IHI),東芝などの企業に協議会として資金を出し合って もらい,各電力会社にメーカーを割り当てて(「日立は,九州電カヘ」など)対策を進めていっ たのである。 2.公害国会・環境庁創設

公害問題の頂点になる政治的動向が,1970年に開かれた公害国会である。小柿は多

くを語っていないが,この頃の野党の勣きを中心に「55年体制」について言及してい

る。 jプ F

ト常にいい仕組みだったと思うのはね,ある意昧で2大絞党だったんですよ。」社

会党というのは「野党としては非常に大きな勢力をもっていた。白民党といえども,社

会党のいうことを聞かなければ前に進まなかった。それを55年体制と思っているんで

すけどね」と答えた。また「たとえば,社会党の岩垂(寿喜男)さんのような人と企業

の人間とが付き合いながら,法律が作られていた時代なんですね」と述懐した。

 また,公害国会における薗1要法案の一つである公害対策基本法の改正(67年制定パこ

67 − 27づ・4−342(香法2008) 一 一 一 八

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一 一 一 七

戦後日本の環境政治と大企業の権力(森)

関して,「『調和条項』㈲法第1条2項により,生活朧境の保全は経済の健全な発展との調和のもと で進められると規定したもの。経済発展が環境保全に優先するというように広く理解されていた)を外 したという凰に言われていますが,国会笞弁は全然異なるんですよ]と語り始め,記億 を辿りながら,「調和粂項」について経済同友会代衷幹事の本川田一隆(東京電力社長,会

誤カ才のように述べていたことを敦えてくれた。「外したのは当たり前だ,と。当た

り前のことを法律に書いてあるから騒がれるんだ,と。」小林の認識も次のようなもの

だった。「一般的な印象としては経済との調和と言うのは,そこで(改正で)考え方が変

わったとされている。最拐は経済と公害とを調和させるということで法律を作ったんだ

けれども,経済を落として,環境を重視するという風に変更したんだと捉えられている

ようだが,国会答弁は異なるんですよ。答弁によれば,本来なら当然のことであるから

書くべきではない,と言っているんですよ。]今目においては,「『経済と環境の調和』

ではなく,強いて言えば『経済と環境の統合』と言いたいですね」と述べた。つまり,

それらの関係は対立概念として廟和するとかしないとかではなく,「本来一績に成長す

べき事柄」ではないかというのである。

 次に,公害国会を経て1971年に創設された服境庁関逓の話を間いた。束京電力と環

境庁はどのような関係があったのか。小林自身は犬学時代の後輩が環境庁におり,その

ことによって情報交換を「非常に頻繁に」行し

jブ F

卜常に親しく」していたという。ま

た,厚生省公害課長であった橋本道夫(後環境庁へ。ドスター環境庁)とも評される。なお同庁 創設の際には,厚生省が主力となった)とは,週に1,2回情報交換をしていたし,たとえば 本節4項で触れる公害健雍披害袖償法に関して「ざっくばらんに」意見交換が行われて いたという。これは,政府と犬企業との開に人的ネットワークが張られていたことを示 唆するものである。  他方,東京電力以外にも環境庁は様々な企業と接触を保っていたと思われるがどう か,と尋ねた。小林によれば,産業界における木川田の影響もあって,主導的に国会議 員と会っていたのは圧倒的に東京電力だったという。さらに他某種の勤きについては, エピソードとして次のように語ってくれた。「石油,石油化学にははとんど外資が入っ ていたわけですが,鉄(鉄鋼栗。以下同じ)も電力も国内産業でした。そのへん(電力と石 油化学の考え方)はやや違っていた。披らは,経営の姿勢が少し違った。川崎公害訴訟で 鏝初に議論したとき,外貢系の企業というのはお金の勘定なんですね。我々は,まず面

子。公害企業と言われたくないですからね。彼らは訴訟費用や公害対策費用の勘定が

先。もし,負けましたと言えば,全銭的に得ならば,受ける。そういう考え方は,公害

国会のときに法律を作る段階から,やはり考え方が基本的に違った。我々は日本の企業

として対策を講じようとしているんだ,それが法律の中で認められるものであってほし

27−3・4−341(香法2008) 68 −

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いということでした。外資系は,頭からそういう法律に反対するという気持ちが強かっ

たように思いますけどね。」

3.発電所の誘致と立地  小林は,発電所建設において,成否が分かれる点について語ってくれた。まず,立地 に成功した地点というのはニュースにならず,失敗したところはニュースになるという ことを鎧認した。では,立紋に失敗した初めてのケースとしての三高・沼津(静岡県。閣 議決定を経て「工業整備特別地域」指定を受けてぃただけに,インパクトが大きかった事例である)に進 出していった契椴とは何か。小林は「個別論としてほとんど知らない」としながら払 様々な立地に携わった経験から成否の鍵として漁業袖償を挙げた。「漁業権と称するの は日本だけです。権利を持っている人しか戦業として魚を取ってはいけないというのは []本だけ。生活に直結したものであるから,成功した地点では特定の洽岸漁栗というの があまり盛んでない。漁民が執着していないところというのは,比較的問題が少ないん ですね。福島(すぐ後ろを参照)では,鮭。(河川での漁業であって)洽岸漁業というのが主た る対象ではないという事情があった。一方,沼津・三高の誘致失敗の理由は,田子の浦 のヘドロ。富士地域の製紙会社の(公害)はひどかった。沼津火力の失敗の後,富士火 力も失敗。公害がすでにあるところにもかかわらず,どのように計團を立てていたのだ ろうか]と振り返った。続けて関逓事項に触れれば,「福島第1(原子力発電所)では漁業 補償はたいした問題でなかったんですが,㈲高)第2(原子力発電所)の立地を決めたの が昭和40年,県に漁業袖償を依頼したのが昭和44年で,電源開発調査審議会が昭和 47年。このあたりから問題になり始めた」という(新潟県の柏埼・刈羽火力発電所でも同様)。  「単純な解釈ではあるが」と断りながらも,外海での漁業が国際的な問題(ぃわゅる2oo カイリ問題)で厳しくなり,福島でも洽岸漁業が重視されるようになったことの影響が あったのではないかとも述べている。  また,小林は,電源立地に関して次のように語った。「すべて,電源立地というのは 地元の誘致。電力会社の方からということは私の知る限りほとんどといっていいばどな いですよ。コンビナートには電力がいる。コンビナート用地のなかに発電所がいる。だ から自治体は誘致を考えていたのでしょう。」一方で,電力需要が仲びている時期とい うことがあって,電力会社でも発電所を作ることを望んでいた。「(需要が)年率10%ぐ らい伸びていたから,ある意昧では立地候袖を探していた。誘致ということがあれば, 喜んで。一方で新たに大きくしていったにこでは,発電機1基あたりの話)。スケールメリッ トを狙おうとね。これによって公害対策費も下がる。ただ,発電所を作っている最中に 次々と新技術が生まれるという状態だったね。」 - 69 − 27−3・4−340(香法20㈲ 一 一 一   1 . ノ ヘ

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コー五

戦後日本の環境絞治と大企業の権力(森)

 では,発電所の立地が都心から離れていることについてはどうか。「水力,原子力が 遠い。これは当たり前であって東京の地政学的な話。(理論的には)雪要の集中,送電線 を短くすることで,安定惧給ができるしコストも下がる。東京の近くに原子力を作らな い理由ですが,作らないのではなく,作れない。火力よりも址盤が良くないといけな い。安全性も理由」だと語った。また,発電所だけのための土地ならばよいのだが,法 律上より広範囲の土地が必要なのだという点も理由に挙げた。ただし,遠隔地立地に関 しては,安全の問題に関して地方からの批判もあるが,それはどのように考えていたの か。小杯は,大学などの原子力研究所に見られるように,都心近郊にも原子力設備は存 在することを挙げる一方,発電所となると港湾など設姻が必要だが,東京湾では無理だ ということを繰り返し述べた。  発電所の立地についてさらに聞いた。小林は,1951年の電力再編成の際に「凧揚げ 地」が置かれていたことから脱明し始めた。当時,配電区域内において需要に対して供 給が足りない会社は東京電力と関西電力であって,そのうち前者については,たとえば

猪苗代周辺を所有することを認められたのだという。 NIMBY (=Not in My Back Yard。「自 分の裏庭に(もってくるの)はやめてくれ」,との意昧。当該地域の「環境の質」の改善というよりは,産 廃処理場等の「迷惑施設」の追い出しに重点が置かれている概念。一定の地域や空間において必要性が認 められる施設だが,自分の近くにあっては困るというディレンマを内包している)にも関連した批判 が出ることがあるが,九電力体制になったときに東京電力は管外にも土辿を所有して いたということである。このことは,先行研究においてほとんど触れられていない。こ れに関連する事例としては福島県の広野火力発電所におけるエピソードを披露してくれ た。「これも100%誘致。広野という町が町有地が余って,かつ経済がどんどん落ちて いって,どこかに土地を売って何でもいいから工場を作って欲しいというときにね,広 野町は仙台へもどこへも行かなかった。東京へ出てきて東京で探したんです。そのなか では重厚長大産業もあったし,いくっかの工場立地希望があったんだけど,東京電力を 彼らが望んだわけね。それに対してはね,地元は驚いたんですよ。」そして,日本だけ に限らないとしても,「中央志向」というのがあり,その意昧で広野町には比較という ことがそもそも念頭になく,誘致するとすれば東京電力だったのだろうと解説した。つ まり,これは,発電所の立地はNIMBYの構造をもつとはいえ,レ部の人々だけかもしれな いし,また当時の地域の政治経済状況も検討しなければならないが,)地元が望んで生じた構造でも あるという情報である。  続けて,先にも触れた福島第1,第2原子力発電所について話が聞けた。小林は「直 接はタッチしていないが」,通産省『原子力立地適正地調査』というものがあったこと を語ってくれた。「昭和30年代に日本全国の海岸線を全て周べて原子力の候袖地を探し 27−3・4−339(香法2008) 一 70

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ていましてね,それから原子力が始まった。当時は,地元にも公表されていた。地元は

国が認めているな,ということを知っていた。福島県の犬熊町,新潟の柏崎もそう。候

袖地は若干ずれたりもするが,おおむね『調査』に洽ってね。当時は鉄腕アトムの時代

で,原子力は『夢のエネルギー』。原子力についても今とは考え方が違っていたんです

ね。」

4.公害健康被害補償法の制定と改正  本項の話は1970年代前後から始まる。公害について,「企業は土下座をして新聞に撮 られて騒がれるしか解決方法がないのかと経営者は恐れていました。一方,厚生省にも 人々が押しかけていたという事情があったので,国,企業ともに公健法(公害健康披害補 償法。1973年制定)がほしかった。款済法(公害に係わる健康被害の款済に関する特別措置法。公健 法の前段階にあたる)からの変化があったというのは,段々と法律が整備されていったと いうことではないですかね。」  また小林も認めるように,公健法の制定は,四大公害裁判の影響を受けながら進んで いったといえる。「企栗から見ればね,公健法が第1に裁判の予防策として機能してほ しかったが,あてがはずれたということは確かだし,国の方も公害裁判が滅ることを期 待していたのではないですか」という。なお,「原告側の弁護士は特定の政党の人が多 かったが,西淀川(公害訴訟)の代理人が,川崎の代理人でその反対もあった。自民党政 権はそういう面で,裁判が収まることも期待していたのではないか」ともいう。  なぜ,公健法制定後にも訴訟が発生したのか。「公健法ができる前から,公害裁判と いうのは,各地で全部準備されておったんですね。準備期問というのはね,彼らもいろ いろなデータを集めなければならないし,原告団を組織しなければならない。お全と時 間をかけたんですね。川崎(公害訴訟)について言えばね,組織化をするために会費を集 めていた。お金を集めるということは,公健法ができる前に公害裁判をやって問題を解 決しようということで組織化を進めていったということです。事実かどうかわかりませ んが,川崎でね,何千万かの準備費用が貯まったんですよ。訴訟を起こせば,これくら いは楼小な金額なんだけど,訴訟をやらないときに集めた1千万円以上のお金というの はね,お金を出した方からするとどうしてくれるんだ,というのがあったと思います ね。もう一つは,やっぱり,それぞれの地域の特定の政党の選挙対策として。川崎でい えば,ある代議士が公害訴訟の集団と一緒になってデモなんかやっていました。そんな 中で訴訟というのをやらざるをえなくなったというのが彼らにもあったんでしょうね。」  では,企栗間では何か対応があったのか。「かなり俄烈な議論がされましたよ。鉄  (鋼),電力,石油と自動車栗界との間で。自勤車はもっとNOX(窒素酸化物)を減らす努 一 1 7 27−3・4−338(香法2008) 一 一

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一 一

戦後日本の服境政治と大企粟の権力(森)

力をしないといつまでたっても産業界全体の犬気汚染の問題は解決をしないよと。自勤

車業界というのは終始輪出産業のリーダーだった。彼らの稼いだお金で日本経済を支え

ていたというのもありましたけどね。厳しい議論はありましたよ。鉄がこれだけ投資し

てこういう成果を挙げているのに,車は(なぜ勁かなぃのか),という感じの話があった」

という。

 これに関連する企業集団としての経団逓の対応は,どのようなものだったのか。「環

境安全委員会というのがあってその委員長というのは,経団運の副会長がやるんです

ね。その下に環境部会(現地球環壇部会)というのがあって,その部会長はだいたい鉄や

電力がやっていた。そういう産粟界の公害対策の栴造のなかで鉄,あるいは電力が自勤

車に対してもっと頑張れと言っていたのは事実。」これはすぐ上の発言を衷書きする情

     ㈲

報でもある。

 ちなみに,ほぼ同時期にアメリカ合衆国で議論されていた「マスキー法」(自勤車の排

気ガスの基準にかかわる法律)の影響はどのようなものだったのか。「自勤車は猛烈な反発。

成立後もやはり過剰投資である,と。その分の投資をより有効に使えていれば,[]本の

自動車業界はもっと発展していただろうといっていましたね。環境庁は白慢していたけ

ど,反発し続けていましたよ。」ホンダが最初に基準をクリアしたが,業界のリーダー

は目産だった。この点については,競争業界という面が犬きかったのではないかとい

う。「電力の場合は,地域独占ということもあって脱硫装置を電発と九電力が共同して

やったが,鉄にしても自勤車にしてもそうはいかないんですよね。」

 続いて,87年の公健法の改正に至るまでを聞いた。経団運のいくつかのパンフレッ

トにもあるが,SOX濃度と公害梢患者の数の交差について(前者炳咸少する中で,後者が増

加してぃったことにょる)はどのように見ていたのか。「我々にとって意外でしたが,環境

庁にとっても意外だったのではないかな。その理由の一つは,さまざまな対策,法規制

の成果で,あんなに早くSOXの環境基準がクリアされると思ってなかったのではない

か。にもかかわらず,公害病患者がどんどん増えていく。したがってね,公健法を適用

する全額がどんどん上がっていく。

SOXの基準単価(sox濃度を抑える際にかかる「単位」あ

たりの費用)が,30倍,40倍とかに上がっていった。これは経済界から見れば,明らか

に矛盾。設愉投資をしてSOXの量を何十分の1にしているのに,何十倍も負担が増え

るのは。」

 これに関連して,経団巡が,公健法制定後1年目の74年頃から公健法に反発を始め

ていたこと(筆者調べ)について尋ねた。この質問白体への回答としてはややズレるが,

興昧深い話を聞くことができた。「結果としてね,改正したときに,約束があったと言

われている。鍵になるのはNOXである。 SOX はクリアされて問題ないんだけども,NOX

27−3・4−337(香法2008) - 72

(11)

もいわゆる公害病の原因物質ということが証明されていて

くれば,改正したものを再び改正する。という        (班 ことがね

,もし今後その値が上がって

白民党と社会党との間で約束

があったと言われている。これは環境庁と社会党との問といってもいい。それで,その 約束を結ぶことによって,社会党が公害病患者を納得させるというのに時間がかかっ た。したがって,NOX問題が公健法の改正を遅らせたんですね。」  この点については,岡崎洋『素顔の環境行政』(エネルギージャーナル社い990)の最後の 方を読むと「かなりきわどいことがわかる」,との情報をくれた。「NOXの問題とね, もう一つは彼(岡崎)が環境庁企團調整局長,次官のときだったんだけどね,拠出金の 話。法改正をすれば新しい公健法恵者は出てこないけどね,一時金は経済界に出しても らうように各業界を回って歩いていましたね。」改正の直前に,環境庁は活勣量を増や していたのである。それはもっぱら社会党,公害患者対策であった。また,企架には, 岡崎と次期次官が中心となって,川崎製鉄,トヨタ,東京電力に声をかけてきたのであ る(拠出全の多さは,第1に東京電力,次に新日鉄であった)。以上に関巡して,一時全を「公害 病患者」に給付する公害健康披害補價予防協会についての感想を求めてみた。「こうい う(形の)給付にする以外なかったんじゃないですかね。認定は自治体が,お金は企業 が拠出していたし,自勤車分は税金から取ったでしょ。このとりまとめにはそんなに時 間はかからなかったという記億がありますね。」  現在に至るまで訴訟は続いているわけであるが,その後の勤きについてはどのように 見ているのか。「あの問題はもう終わったんじゃないですか」と小林は切り出した上で,  「NOXをきれいにしないといけないという問題は残っていながらも,日本が公健法と いう特殊な法律をもってああいう制度をつくっておく理由というのはもうなくなってい ると思いますよ」と述べた。

5.環境アセスメントの法制化

 小林は,環境アセスメントについて,著書(注7参照)の中でも技術と手続きの問題に

分けて議論を進めている。このことについては,次のように述べた。「一般的に言われ

ているアセスについての賛否は一面に過ぎないですよ。それは手続きに関する話をして

いることが多いですよ。しかし,僕は産栗界でもっとも早くアセスメントに取り組んだ

一人だと思うが,一例として,出た煙がどういうメカニズムで,濃度で,どこに着地す

るかということを正鎖に調べることが『環境アセスメント』と考えていました。この技

術的な面をきちんとやらないで,手続きだけね,住民にいつ公開するとか説明会をやる

とか そんなことだけやってたってしょうがないじゃないか,と思っていた。僕がやり

始めた頃はね,排煙の計算于法すらなかったんですよ。僕が技術屋ということもありま

73 − 27−3・4−336(香法2008) 一 一 一

(12)

一 一 一 一

戦後日本の環境政治と大企業の権力(森)

すが,いろいろな実験をやりましたよ。そういうことをやることがアセスメント精度の 向上だと思っていました。いかに地元の人に納得してもらうことが大事かは,もちろん 十分に承知しておりましたけどね。」  東京電力の環境アセスメントの法制化への反対は,具体的にはどのような理由による のか。「環境庁と論争しているときの話になりますが,披ら(環境庁)は社会党案を読ん でないんだね。開発行為者にとってどうなるか,ということが。社会党の政策審議会で 激論をしましたが,社会党案のままだと説明会だけでも毎[1やって3年かかる。馬鹿げ たというかね。そういう手続きが必要であるとした環境庁案にはあくまでも猛反発し た。住民に対する説明が要らないと考えたことは一度もなくて,広野火力(発電所)の 時には,2,000戸,7,000人ぐらいの町で僕が本店の(公害部総括)課長で半ば註在しな がら,手分けして全戸訪問し,理解を求めるように勤いた。住民にしたら,火力発電 所,SOX,煙突っていうのがなんだかわからないんだからね。法律や条例でね,何日間 公開して,意見を集めて,それを町がどこどこへ提出してということをやってたって しょうがないんじゃないか」というような感想を述べた。  また,環境アセスメントを法刎化にするということについて,当時,小林は原子力発 電所の立地に非常に支障になると考えていたという。「法律になると,法律の細かい手 続き上の瑕疵をとりあげて,住民運動になる。柏崎(新潟)の話ですが,保安林解除に は,手続きがいりましてね。公聴会だか,説明会だかをやる必要があって。地元の反対 というのは少ないんだけど,社会党が全国勤員をかけて,当時,国労とか自治労とかが くるわけだ。公聴会を開けなくて遅れる。直接,原子力規制法とか電気事業法に直接関 巡することのないどんな手続きであっても,とにかく持ってくる。それは勘弁してくれ ないか,と。そうしないと本来の手続きが全く進まなくなる。(繰り返すが,)そういうこ とに使われる恐れが多分にある。これが平岩(外四)とかが反対していた理由です。と はいえ,彼は『アセスメント』自体には賛成でしたけどね。」  環境庁は84年の7度目の法案化失敗において「要綱行政」に向かったが,この頃東 京電力はどのように動いていたのか。「環境アセスメントについては,’電気事業が代表 になって反対しているところがあった。立地というのは,他の産業ではあまり深刻な問 題ではなかった。鉄なんかは200万坪ぐらいの土地を一度に買うでしょ。ほとんど埋め 立てでしょ。工場立地と関連する環境アセスメントには比較的関心が薄かった。どんど ん新しい立地を求めては発電所を作っていかなくてはいけない電気事業はアセスに関わ るから,あらゆる段階で反対しましたね。」  具体的な環境庁との祈衝については誰と行ったのか汀出てくるのは通常は,担当宮。 しかし,環境庁も真剣だったし,ある段階からは全部事務次官とやりましたね。当然, 27−3・4−335(香法2008) 74 −

(13)

環境庁と経団連あるいは電気事業が相対してやるだけでなく,法律(学者)では加藤一

郎さんとか金沢良雄さんとかね,そういう人が仲介というかな,特に加藤さんはなんと

かアセスメント法を作らせられないか,と。法の運用ということについては,いろいろ

と考えようがあるし,と言って。加藤さんは,当時の過激な市民運動を肋長するような

ことには反対でしたし,そういう意昧での産業界の心配は十分理解できるけれども,や

はりこの法律は必要だから,と盛んに言っていましたね。基本的に私は,法律で規制

すれば,システムが勤くとかうまくいくとかは考えてませんけどね。」

 ここで小林が,環境アセスメント法と公健法との問に取引の噂があったと語り出し

た。「大蔵省出身の金子(太郎)という環境庁事務次宮が辞めて証券会社の社長になった

とき,非常に面白いことをいったと言われる。産業界はアセスメント法を受け入れる,

その代わりに公健法を改正すると。犬阪かどこかの商工会議所で話したとかいう噂が,

東京にまことしやかに伝わってきまして。一応情報として,平岩に言うと怒られまして

ね。r私はそんなのに乗るつもりはないよ。環境アセスメント法はいらないでしょ,公

健法は改正するんでしょ。あれはあれ,これはこれ,取引するつもりはない。当たり前

の話だ』,とね。」ちなみに,小林によれば,平岩の意識は,環境配慮派ないし優先派

で り

木川田の信奉者であったということもあったし,市民運勤に関する配慮,理解もあ

むしろ重視するという方だったという。

 この時期に通産省が発電所アセスに関する省議決定をしているが,これはどのように

見ているか。「通産省といえども,役人(行政)としては環境庁がアセスメントを出して

いるし,橋本龍太郎をはじめ環境派の議員が推進しようとしているのに配慮しようとい

うことでしょうね。それに最も反発している電気事業に対して,ナカを取ろうとしたの

ではないか。法律で規制するんではないが,政治家が法律と同様のことをやらせる環境

アセスメントを通産省でもやらせようとしたのではないか」小林は,さらにこの文脈

で語り続けた。「記録に残ってないんですがね,昭和46年に通産省と話をして,アセス

メントのテストランをした。広野火力でね,技術的なものをやって,例えば,町,福島

県,公聴会でやってみたらどうなるか,と。(それに関連して)社会党に対する反論はあち

こちで喋ったが,環境庁がアセスメント法の原案を作る段階で,最もアセスについてよ

く知石ていたのは,私ではないかな。当時の課長,課長補佐クラスの人とはよく喋りま

したよ。」

 再び84年頃の話が続く。「清水(汪)という次官の時だったと思うけどね。金沢さん

㈲㈲が仲介をして清水さんと経団連との会合があって,金沢さんのオフィスでやっ

た記憶がありますね。清水さんは,『やっぱりだめですか』と。環境庁が考えたけれど

も,関係省庁の調整がつかなかったというのがほとんどですね。」なぜ,要網になった

-75 − 27−3・4−334(香法2008) 一 一 一 〇

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一 一

戦後日本の環境政治と犬企業の権力(森)

のか。「あきらめたんじゃないの」と一言であった。これは,中曽根政権の時のことで あるが,「原子力推進派だからね,原子力の立地に影響があるということを産業界が 言ったのが効いたのかもしれないですね。思い出せるのはこれくらいだね。」  その後,一転して要綱行政から法制化(1997年)へという勤きに変わるが,この頃の 印象はどうか(な牡この時期には小林は顧問に就任しており,この問題では環境庁へ出入りしてぃな ぃ)。[思い出せることは,特にありませんね。私白身は,環境アセスメント法というの にはあまり関心がなかった,昭和46年頃から国に言われようが言われまいがやってき た。国,あるいは白治体なんかがやる説明会というのは2,3回。われわれがやる往民 対策というのは,数十回,数百回ですからね。セレモニー的にやる説明会というのは, それはそれとしていいとしてもね,それよりは灰且が飛び交うなかで漁業袖償をどうす るかという『生の』環境アセスメントを重視していたし,力を入れていましたからね。」  法制化の勤きというのは,束京電力はアセスメントをやっているにして仏それをし ていない企業が多数だからこそ法制化に乗り出そうとする動きがあったのではないか。 これに関しては,次のように語った。「企業同士話をしていますとね,お前のところは なにをやっているんだという企業はいくつかありましたよ。企業としてはね,そういう ことをやっていてはダメだよと。他の企業からは,どのように説得をしてきたのかとい うことを(束京電力に)聞きに来た。新聞社まで来ました。印刷を担当している課長が来 て,廃液の垂れ流しを自分としては悪いと思うので,しかるべき装置を付けてもらえる ように上司を説得したいが,納得してもらえないと。東電は意識が高いがどうしてなの か,と。当時都心に有力新聞があったのでね,相当な廃液を街中に出してたんでしょう ね。」また,次のように続けた。「ある電力会社がなぜ東電が風洞実験なんかをやるん だ,と。計算でいいじゃないかと言っていましたね。イ奏らはね,往民や市議会議員なん かを長崎ド菱)に連れて行ってね。その会社は,東電はいいけど,我々にはできない と。風洞実験というのは目で見て納得させられるのでね,住民のためになるんではない ですかと説得したことがありますね。]  では,自動車業界とは何か打ち合わせなどをした経験はあるのだろうか。「アセスに ついて話をしたことはないですね。鉄とか石油,石泊化学とはよく話をしたことがあり ます。任せるよ,あなた(小林)の言う通りだと言われ,環境庁との折衝は任されたと ころがあったね。鉄から任されていたというのはね,経団逓の事務をやっていましたか らね,そこで会う。またそれ以外の会合でも諸企業の公害担当者と会う機会がありまし たね]情蜂交換についてさらに聞いた。「ある人が環境庁長官のとき,定期的に5,6 人で『朝飯会』を月1回ぐらいでやっていた。あと,環境庁の局長・課長クラスとはね, 月1回よりは空いていたけど,『朝飯会』をやっていた。電話なんかはしょっちゅう。 27−3・4−333(香法2008) 一 76 −

(15)

公害諜長の時に記録をとってみたら,一日90件以上。ほとんど社外の人でしたよ。」

 法制化後および今後のアセスについては,どのようにみているのか。例えば,アセス

メント法制化と新潟県巻町の往民投票はほぼ同時期に実施されているが,どうみるか。

 「電源立地をいろいろ見てきたが,ここは良い,ここはまずいというのがあるんですよ

ね。巻町はね,現状の海の中に用地があるんですよね,見てみるとね,海の中なんです

よ。僕の感覚からするとね,なんでこんなところに土地を選んだんだろうか,と。原子

力立地の以前にね,土地白体がきちんと法律上の上址と現実の土地と言うのがね,きち

んと整理されてなければ,紛争が赳きるのが当たり前ですよね。」

 小林は,さらに語り続けた。「今憂慮しているのはね。アセスメント専門の会社がで

きてきてるでしょ,開発行為者がアセスメントをやらないでそうした会社に任せている

でしょ。公聴会,説明会も専門会社がやるでしょ。法律によって決められたそういうこ

とがね,僕はあまり奸ましいことだとは思わない。古い感覚かもしれないが,作る人,

運営する人がやるべき義務者であってね。『環境(行勤)レポート』の第三者認証という

のがありますね。最初に東京電力に監査法人が来て,やらせてくれないかと言ってきた

ときに言下に断りましたよ。今は少し考え方が変わったけどね。ともあれ,社会責任が

分化してきて,コンプライアンス(法令道守〉も分化してきているような気がするね。第

三者が格付けすることによって,評価されるんだ,っていう考え方はいいとは思いませ

んね。」これは,第三者機関が見ることで信頼を鎖保しようとする勣きによって,かえっ

て見えなくなるものもあるということだろう。一方で,某自勤車会社のリコール隠しに

見られるような透明性に関する問題もあるがと問うと,次のように述べた。「自由化の

過渡期ではないかな。自由主義経済のメカニズム。安けりゃいい,というのだけでは,

悪くなるんですよ,どうしても。(2oo4年現在,)美浜の原子力(の事件)で駈いでいます

けどね。経費を削滅した。チェックする費用をちゃんとかけていれば,そんなことにな

らなかった。自由主義経済といいながらね,マーケットメカニズムだけで世の中が動く

のではおかしいのでね,別の評価基準が見つからないとだめになるんじゃないかな,と

思うんだよね。」

 最後に小林は,なぜ,束京電力で2002年の福島第2原子力発電所の事件が起こっ

たのかにも言及した。「公害・環境をやっていた立場から考えてみるとね,公害対策本

部は,第一一に人に謝ることから始めた。それが至上命題だったんだね。原子力というの

はね, ム ト ア

夢のエネルギーだったんだね,褒められ,そやされして育ったんだね。

原子力PRと公害PRの違いかな。それが事件に繋がっているような気がしますね。]一

つの組織から生まれた公害と原子力は「育ち」が違うというのである。これらの関係

は,今後どのようになっていくのだろうか。

一 77∼ 27−3・4−332(香法2008)

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一 一七

戦後日本の環境政治と大企業の権力(森)

Ⅲ.知見の要約と今後の課題

 本稿では,従来の環境政治の分析視角においては見えにくかった大企業の動きについ て,東京電力を事例として追跡してきた。得られた知見を犬雑把に言えば,多くの先行 研究に見られる「鉄の三角同盟」的な論じ方を反証する素材は相当程度にありそうであ る。それは,体稿では十分に取り組めてぃなぃが,)産業政策をめぐる政治についていえば, R.サミュエルズや田原総一朗の仕事に見られるように(注4参照),東京電力が政治家(政 党)や官僚(主として通産省)の介入を防ぎつつ,自律性を保って政策を展開しようとして いたことに求められるし,環境政策をめぐる政治についていえば,小林の証言が必ずし も鉄の三角同盟を形成していないことを傍証するからである。例えば,環境アセスメン ト法制化への反対は,企粟の独自路線の色合いが濃い。ただし,証言については,小林 が一貫して環境‥公害畑を歩んできた人物であることを考慮する必要もある。例えば, 環境庁への言及が通産省や政治家よりも相対的に多いという特徴が見られるからであ る。諧資料と小林の見解とをつき合わせながら,戦後史の一面を同定していくことが当 面の課題である。しかし,将来的には,他の関係者についてのキャリア・パスも調べた        圈 上でインタビューを重ね,本稿の課題を解きほぐしていく必要がある。また,企業間関     (13)係の諧相や企業の自律性の高低の時期を特定し,従来の研究との接点を見極めていくと いうことも諜題になるだろう。  ともあれ,本稿の知見だけでは,鉄の三角同盟のある意昧では協調的なイメージと国 家対企業といった対立的なイメージは交錯したままである。小林は次のように述べてい る。「表裏一体。密接な関係を保っているからこそ,于を握りながら喧嘩もできるので す。議員の関心とこちらの関心。たとえば,岩垂氏と自分の関係。市民側と企栗側。公 害をなくすために一生懸命やっていくということでは共通していて,立場は違えども, つながりを保つことができたんですよ。」大企業を環境政治の分析視角に位置づけるに あたっての手掛かりは,この意昧を岨聯することにあるのかもしれない。  [付記]本研究は,平成19−22(2007−2010)年度文部科学省科学研究費袖助全若手 研究(B)「戦後日本の環境絞治の比較事例分析」(課題番号19730109)および,2005 年度昭和シェル石泊環境研究助成財団学術研究肋成による研究成果の一部である。本稿 の作成に当たっては諸方面にお世話になった。インタビュイーの小林料氏には2004年 8月9日(10 − 12 時),10日(13−15時),19日(10−12時),2006年n月17日(n −12時半)の4日問にわたって貴重なお話をうかがい,諸資料も見せて頂いた。その 際,損保ジャパン環境財団には会議室を提供して頂き,また一部の貢料の人手について 27−3・4−331(香法2008) 78 −

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は,アジア経済研究所の協力を得た。以上の方々および諸機関に記して謝意を表する。

むろん過誤の責めは,筆者に帰す。

註 田 本稿は,「オーラル・ヒストリー夏の学校2004成果報告集」東京大学先端科学技術研究センター,2004  における成果(未定稿)を加筆・修正し,公表するものである。オーラル・ヒストリーについては,御 厨貴『オーラル・ヒストリー 現代史のための□述記録」中公新書,2002,日本政治学会編「年報政  治学2004オーラル・ヒストリー』岩波書店,2005,御厨貴編『オーラル・ヒストリー入門』岩波害  店,2007などを参照。

(2)Andrew Jamison, 77,。Mai昭がGrgどタ1&16wlaなa‘£zly函別胴Erlな71 P∂jjljcsαy㎡C£jlfz4n217rg謂凶r削alj,M,  Cambridge university Press,2001. 本稿の出発点としては,昨今の経済と環境との関係の一端を示すこと

 ができれば事足りるのだが,ジェイミソンは,スウェーデン,デンマーク,アメリカ合衆国のそれらの  関係に与える知識や思想などに関心を持って議論していることを付記しておこう。

(3)訟d。Chap 5.なお,彼の議論は,経済学や経営学の観点から見れぱ,近年盛んになっている「企業

 の社会的責任論(CSR : Corporate Social Responsibility)」との関連で捉えることもできるだろう。CSRの  概要などについては,例えば,「経済セミナー」627号,2007における「特集 いま,CSRが問いかける

 もの」の諸論考を参照。

(4)簡潔なレヴューを含む文献としては次を参照。真渕勝「大蔵省統制の政治経済学」中央公論社,1994,  特に序章。また,次節で述べる電力産業をめぐる政治に関する文献としては,次のものが興味深い。

 Richard J.Samuels,刀lg召M一2gg司^。稿叩z7sg&aaり£z2£りly Ma池gzsiC∂z叩arzzljw azzd j7i地っ■r  jl)g呵gcz泗,Come11 University Press,1986,田原総一朗『ドキュメント束京電力企面室』文春文庫,1986,

 橘川武郎『日本電力業発展のダイナミズム』名古屋大学出版会,2004。

(5)例えぱ,次のものを参照。Daniel P.Aldrich,Z)alj,2g wj11 ,2S廸り陥&£s町j 77・ε,/αpasg SjazE’j  j?g印Qsa zQ Cθ,zr。das戸∂lj瘤㎡ルf∂。。。,zr∂wr n。,1,paper for the 2004 AnnuaI Meeting of the American  POlitica】Seience Association, September 2-5, 2004,森道哉「戦後日本の環境政洽」立命館大学博士学位論

 文,2003.その他,日本の環境政治に関する文献としては,次を参照。 Jeffrey Broadbent,£, 「−。a  POUtks in Japan 。・jVE師∂戌?∂wg az 「戸r心jz,Cambridge university Press,1998. 般橋晴俊「環境制御シ  ステムによる経済システムに対する介入の諸段階」赴橋晴俊代表「社会制御システム論にもとづく環境

 政策の総合的研究」2001 ・ 02 ・ 03

年度科学研究費袖助金(基盤研究C・1)研究成果報告書,2004,1- 22頁。 S.Hyden Lesbirel,jV7MSy j)・崩・訥丿叩a尹2.151gりび5jfj,lgαzlj ZjlE肘αnagE謂g耐げ&nj函Mi?zalrα1  Conflict,Corne11 University Press,1998.

(6)もちろん政治過程における大企業の権力を論じた業績は存在する。たとえぱ,大嶽秀夫「現代日本の  政治権力経済権力」三一害房,1979,を参照。 (7) (8) 小林料『生真面目でいいじやないカ 電力・環境・人模様」エネルギージャーナル社,2002も参照。  木川田と公害にかかわる人々との開係も相当程度にあった。エピソードを以下に記しておこう。経済 学者の都留重人が三島・沼津の反対運動に協力していた。したがって,都留と水川田とは紛争の中にあっ たが,一方では尊敬しあう中だったという。また,大井火力発電所での公害対策(公害防止協定の締桔) については,束京都知事の美濃部亮吉と手を結ぶというような場面もあった。小林によれば,木川田は  「白由経済人であるけれども,思想的にはね,単純な言い方をすると,市民側への理解をもった人でし たね」という。ただ,破壊的な考え方には同意していなかったとも語った。水川田の思想は,[官僚に拘 束されない自由主義者」であり,国家管理に対しては猛烈に反発し,このような考え方だからこそ都留 一 79 27−3・4−330(香法2008) 一 一   i . ノ X

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戦後日本の環境政治と犬企業の権力(森)

 や杜会党を支持するような人々とも親しかったのではないか,という。たとえば,市川房江(元参議院  議員)もその一人ではないか,という。後の話になるが,木川田は彼女と相談して政治献金の廃止を決  めた,という。「どこかつながっていたんではないか」と小林は語った。ちなみに,経団違が政治献金を  廃止したのは平岩外四が委員長の時代である。 ㈱ 経団連は委員会単位で活動するということだが,小林は環境安全委員会の専門委員として参加してい  た。しかし,実質的な仕事を担っているのはそうした委員会の下部組織としての部会であり,ここでの  意思決定が経団運としての意思決定に大きく反映されているという。そこから委員会会議,副会長会議  に上げ,会長が決断するが,事務局は自らが考えるコアメンバーに当たるなかで意見を集約していくの  だという。環境委員会での決め事に関しては,直接平岩(当時会長)にいろいろと聞いていたと述べた。  たとえば,「地球環境憲章をまとめるときには,2回か3回ほど部会でこういう話をしていると言いに  行ったんですよ。 91年頃,リオサミットの始まる前,『経団達の地球環境問題に関する提言』というよ  うなものを提案したが,『それでは弱い』と。もっとインターナショナルなものをアピールするような表  現を」と言われたという。「平岩が言い出したのかはわからないが」,事務局員と3人で話をしていると  きに「憲章」ということに決まったとのことである。その前に,「日本の企業が国際的に活勣する為の指  針」を発表していたが,国際的に評判がよく,「もっとよりよい指針へ」ということがあったのだという。   さらに,リオデジャネイロ地球環境サミットについて,モーリスストロング事務局長が経団運に何度  も来たというエピソードも紹介してくれた。竹下内閣の時のことであったが,話の内容は資企の相談だっ  たという。彼にすれば,サミットを成功させるために,第1に,日本がそれを出す気になれば,世界を  説得できると考えていたこと,第2に,91年に彼がステファン・ハイニーく実栗家)にBCSD(Business  Council for Sustainable Development: 持続可能な発展のための経済人会議。現在は,WBCSDすなわち  World Business Council for SustainableDeveloPmentとなっている)を作らせて,世界の産業人を集め,そ  こでリオサミットのバックアップ体制をとらせていたことがある。また,サミット直前にBCSDからISO  に関する事柄を『チェインジングコース』に戴せたように,環境管理に関する相談もあったのだという。 (10)NOXの濃度に関する議論については,表立っては伝えられてきていない。「それをやったのが社会党  の岩垂さん。公害病の団体に万が一,NOXが原因で患者が増えることがあったら改正すると。正しい動  きだと思いますね。患者の側に立って政治活動をし,しかもそういう人のバックアップを受けて成長し  て,これが矛盾だと思えばね,あえて環境庁と一緒になって住民を脱得する,と。しかし,そこには粂  件を付けて,白分の政治思想の許す範囲でああいうことをやったのは立派だと思いますよ」と語った。  ちなみに,岩垂は堂本暁子(現千葉県知事)と対立していたが,前者が後者を説得していたという。 圓 この件に関するエピソードは次の通りである。「庁舎での話にも疲れたので,新橋の飲み屋で環境庁の  課長とアセスメントの話を続けていたんですが,環境庁詰めの新聞記者が来てね,『明日の新聞に出す  ぞ』とね。出せばいい,と言いました。そのときの泉長が,現在白民党の伊吹文明さんでした。彼は『何  が悪いんだ』と。『一番真剣に話しているのは,この二人だ』とね。夜遅くまで激論をして完仝に割り勘  で飲んでて,何が悪いんだといったら,帰って行きましたよ。」また,この頃,環境庁の職員はアセスに  ついての理解が深まっていたと思うかと問うと,「いや,彼らは所詮手続きについての意識でしょう。  元々厚生省出身の人が多いでしょ。いわゆる食品衛生とか安全みたいなものに対する考え方から,法規  制とか説明会とか公聴会とかということがあったのではないかな。ああいうね,古典的な市民の生活を  守るという感覚が常にあったのではないかな」と答えた。 聯 関連事項を述べておく。小林は,組織構造に関して,東京電力では環境関係部署と立辿関係部が統合  されているのに対し,他業種では分かれているところが多い,と語っている。また公的耶門との関係で  いえば,たとえば,厚生省公害部が創設されたのが1964年であり,東京電力の公害部は68年であった  が,部署の設置に関する企業側の勣き自体は国側とほぼ同時期であったという。これらの関係について 27−3・4−329(香法2008) 一 80 一

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 は必ずしも解明されているとは言えず,組織構造(およびキャリア・パスに見られる人事の形態)が環  境パフォーマンスに与える影響の検討は重要な課題になると考える。 (13)この課題を整理・検討しているものとしては,次を参照。谷川浩也「日本企業の白主的環境対応のイ ンセンティブ構造 ケース・スタディとアンケート調査による実証分析」7?/訂H沁a加凹?卯匹 &4バ)4-J-30,2004.この論文は,独立行政法人経済産業研究所のホームページ内から入手可能である  (http://www.rieti.go.jp/publications/dp/04j030・pdf: 最終確認日2008年1月7日)。 一 1 8 一 27−3・4−328(香法2008)

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参照

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