北 陸 大 学 紀 要 第
22
号 (1998)pp.177〜188
1環
境倫
理
の
可
能性
三
国
千
秋
*Bases
of
Environmental
Ethics
Chiaki
Mikuni
*1
〜θoθ’z/edOctober30
,1998
はじめ
に環 境 問 題の解 決のた めに,
一
般 的に は, 環 境に対 する個々人の意 識 やモ ラ ル の 点から論 じ ら れ るこ と も多
い が,
そうした 意 識やモ ラル の面か ら論
じ るだけ ではお のずか ら限 界がある。 そ の た めには, ま ず 個々 の問 題を統一
的にと らえる視 点, それ に基づ くしっ か りし た ビ ジョ ン, コ ンセ プトが 必要であ り, これなし には,
対 処 療 法 的に 問題 を た だ先
送 りする こ と に し か な ら ない だ ろう。筆
者は, 環 境 問 題の背 後には様々な 対 立, すな わち意
見の対 立や考 え
方の違い , 様々な 利 害 の対
立がある と考
えるが,
この よう な対
立の解 決の 場 合,
個々 人の 意 見や考
え 方 をで きるだ け 尊 重 しな が ら, 対立点や問 題 点を明 確にし,一
歩一
歩 解 決 策を模 索 し な が ら進むのが最 短 距 離 であるよ うに思 わ れる。 こ こ に は, 対 立や対 立の解 決につ い ての従 来 と は違 っ た 新しい 見 方 が 求め ら れ る。 い ずれ に し て も,
拙 論に おける筆
者の立場は,
何よ りも環 境 問題 を解 決 する に は ど うし たらよい かとい う実 践 的 視 点に立つ もの であ り,
環 境倫
理 を そのた めの理 論 的 手 が か り と して位 置づけ る という
こ とに あ る。第
1
章
ドイ
ツで
の環 境 教
育
の視
点
から
1997
年,筆者
は,
環 境市
民グルー
プ(
環境NGO
)
の メ ンバー
の一
員
と して,
金 沢青年
会議
所の メ ンバー
, 金沢 市お よ び石 川 県の 職 員と共に,
ド イツ の環 境 先 進 都 市フ ラ イ ブル ク を訪れ た。 その際
に,
フライブル ク市
の シェー
ン ベ ルク小学校
の環境教育
の現場
を訪
れ,取
り組み に つ い て の話 を 聞い た が, こ の学 校の環 境 教 育は, 以下の三つ の テー
ゼ か ら出 発 してい る。1
.
地 球 を汚 すことは やめ な け れ ば な ら ない 。2
,
地 球の資 源には限 りがある。 *外 国 語 学 部2
三 国 千 秋3
.
地 球は われわ れの もの ではな く, われわ れの子 供たちの もの である。次
い で,
この 三 つ の テー
ゼ か ら以下の よ うな結論
に導
か れ る。 すなわ ち,「
こ のテー
ゼ を真
剣に受
け 止め る な らば, エ コ ロ ジ カルな視 点に立っ て, 次の ような認 識に達 する。 わ れ わ れ は環境
意識
を 目覚
め させ,環境
に対
し て責任
を持
つ必要
がある。 そ して で きるか ぎり
の努力
をし な が ら, われわれ 自 身お よ び子 供たち を そのた めに教 育 する必 要 が ある。」この 三つ の テ
ー
ゼ につ い て解 説 する と, まず
最 初の命題
「
地 球を汚す
こ と は や め なければ な らない」
とは,
い う まで も な く,
人間の 生活
を支
える基 盤 とし ての 自然
環 境につ い て述べ て いる。 つ ま り, い か な る人 間の 自 由 な 活 動 も生 活 基 盤である環 境 を無 視 して はな りたち え ない という
こ とだ。 と同時
に,
こ こ で は子供
たちの視
点に 立っ て,
この命
題 が述べ ら れ てい るとい うことが 重 要である。 人 間は一
人では生 きて い け ない 。 これは小 さな子
供の場 合に最 も 良 くあ て は ま る。 大 人の助 けが なければ,
小さ な子供
は決
し て自
分の力では 生きて はい けない か らで ある。 赤 ちゃ んは生 きて い くた めに, その母 親 を 絶 対 的に信 頼 してお り, 幼い子 供たちは大 人 を信 頼 し な くては生 きて はい けない 。こ の ように, 社 会 的に弱い 立場にある
子
供は, 生 きる上 では大 人を信 頼せ ざるをえない し, また 大人た ちが生活
して い る この 地球,
地 域の 自然 的・
社 会 的 環境
を信
頼せ ざる を え ない とい うこ と だ。「
地 球を汚
すこ と は や め なければな ら ない 」 とい うテー
ゼ は, 子供
た ち が安
心 し て 生 ま れて来るため の基 本 的 条 件, 彼 らが 大 人を信 頼 するた めの基 盤 を 意 味 してい るの で はない だろう
か。時には, 環 境 問 題の デ ィ ス カッ シ ョ ン の 中に, 大 人たちの中 か ら, わ れ わ れ はも うこ の地 球 上 には長
く
は生 きてい ない か らとか ,自分
たちの生 きてい る間は環境
悪化
は そう深刻
にな ら な い だろう
, 環 境 問題
の解決
のために は 人間が みなこ の地 上 か らい な くな れば良
い,
とい っ た極
端 な 意 見 が 飛び出 すこと がある。 し か しな がら, そ う した発 言は全 く子 供の立場を無 視 し たも の とい わ ざるを え ない。
そ うした 言葉
に よっ て は,
大 人 は子供
の信頼
を獲
ち得
るこ とは で き な い だろ う。 皿 を使っ て汚れ た ら,
次に使 う 人のた めにその皿 を 洗 うのが 当 然である。 プー
ル を使
用 し て汚れ た ら掃
除 をして次に使
える ようにきれい に し て お か な け れ ばな ら ない 。同 じ様
に,
子 供 も大 人 も, 自分たちが地 球を汚 した ら, でき
る だけ 自分たちで元 通 りに きれ い にし て お く 必要がある。加
え
て, 子 供たちは,「
地 球上 の資
源には限 りがある」とい う現 実 を 知る必 要がある。 子 供 たちは,自
分たちの住 む地 球は有限であ り,自
らの自 由 な行為
や活動
に は自 ずか ら制限 がある こ と を学 ばねばな ら ない 。資
源につ い て も,水産資
源や 鉱物資
源,水
や空気
や 土 は決 して無
限 にある もの で はな く, ス トッ ク は有 限であ り,
その よう な 有 限 な生 態系
の 中で 生 物の種や個々 の生命が維 持さ れ てい る とい えるの で ある。最後
の テー
ゼ,「
世界
はわ れ わ れの もの では な く,
わ れ われ の子供
た ちの ものである」
は,
い わ ゆる 「世 代 間の公 平 」 とい う考 え を表 して い る。 地 球上 に生 活 し, その資 源 を利 用 し, 自 由で の びやか な 生活
を送るの は, 現に今
生き
てい る わ れ わ れだ けでは ない 。「
この地球
は未来
の世代
か ら借
り受
けてい る」
とか 「できるだ け きれい な環境
に し て次
の世 代に渡したい」
とい う言 葉 も 同 じ発 想 か ら生 じてい る。 現 在, 特に重 要 な 問題 となっ てい る, 地 球 温 暖 化は, こ の よう
な世 代 間の公 平 という
面か ら見 ら れ るべ きで あ る。環 境 倫理 の 可能性 3
以 上 を ま とめる な らば
,
こ の 三つ のテー
ゼは,
子供
と大
人 にとっ ての環境
教育
の基本 的
コ ン セ プ トであるのみな らず,
環 境 倫 理の可 能 性に とっ て も基 本 的 前 提と見 な すこ とがで きる の で は ないだ ろう
か。日本 と ドイツ,
「
豊かさ」
感の比 較環 境 保 護 や 環 境 教
育
の ビジョ ン を形 作る た め には, われわ れの具 体 的 な 生 活との関わ りで論ず
る必 要があるの は当 然で ある。 環境
の ことを問題 にする と,
時には,
わ れ わ れは昔の 生活
に 戻ら ね ば な ら ない と か, 原 始 時 代の生活に帰る な ど不 可能
だ とい う意 見 も飛び だすが, もちろ ん その よう
な極論
は,議論
のための議論
にす ぎず,
現実
の社 会
生活
や制度
を無視
して,個
人の 生 活や ライフ ス タ イル に言 及 すること か ら目をそ らして しま う結 果 となる。 その 意 味で は環 境 倫理 も実行
可能
な事柄
か ら出 発す
べ きであり,実
現 可 能な範
囲で議論
を展 開すべき
である。個
人の生 活や ライフ ス タイル は, その 中 心にある 「豊 か さ」 感や考
え 方と不可分である。 し か しな が ら,
わ れ わ れ は,
個 人の「
豊か さ」
感 を 絶 対 視 する こ と はで きない 。 も ちろ ん,「
豊
か さ」
に対 する考 え 方は, 個々人の価 値 観に根 差 し て お り, 物 質 的, 心理的 要 因 な どが関 係 し て お り,多種多様
であるだろう
。 とは い え,
その よう
な個 人 的な「
豊か さ」
感の 形 成には社会
的 要 因 も影 響 し て い るの で あっ て, 個 人 レベ ル の考
え 方を越 えた とこ ろ で , 社 会 的 な「
豊か さ」感
につ い て語ること がで きる。 例 えば,
環 境の 面か ら,
ドイツ の フ ライブル クと日本
の 地 域 社 会を比 較し て み る な ら,
両 者の 間には 二つ の異
な る「
豊か さ」 感がある よう
に思わ れ る。日
本
での 「豊 か さ」の特徴
につ い て語るさい に, まず 目につ くの は, あふれ る ほどの 品 物の 多さ とその種 類で あ る。 スー
パー
マー
ケッ トや デパー
ト,各
種の商 店に あ ふ れ るこれ らの品 物 を 見る な ら,
誰 もがこ の国は豊 かだ と思 うだろう。 お 金 を 手に して店に入 れば,
何で も欲 しい ものが手に入 る とい うのは実に 「便利」
である。 し か し,
こ こ で忘れ て な ら ない のは, わ れ わ れは 日々 の消 費 行 動におい て, 例 えば野 菜 や 魚, ビー
ルや ジュー
ス など を買 う さい に, それ ら の 品物
を買うだけでな く,
大 抵は容器 や包 装 材 も買っ てい るとい うこ とである。 そ して, これ らの容 器や包装材
は,役
目 が終
わ ればゴ ミとし て捨
て ら れ,毎
週 あ るい は毎
日 のよう
に大
量の ゴ ミや廃 棄 物として各
家 庭か ら排 出 され る。 わ れ われ がこの ゴ ミとして の容 器 を 買 うの も「
便 利さ」
のた め である。次に , 食 料 品 や生活 必 需 品の他に も, エ アコ ンやク
ー
ラー
, 自 動 車につ い て考 察 して み る と, こ こで も 「便利
さ」
が快 適な暮
ら しの重 要 な 要 素 となっ てい る ことに気がつ く。家
の 中に 入 る と, 毎日の電 灯 や 温 水 機, 冷 蔵 庫 などの他に も, 夏はエ ア コ ンや クー
ラー
, 冬は電 気カー
ペ ッ トがス イ ッチー
つ でわ れ わ れ に快適
な生活
を 運ん で くれる。 通勤
の 際に自動車
を利
用す
る の は便利
で コ ス ト も低 く, 雨の 目には とりわけ便 利である。 近 くの スー
パー
に買い 物に行 くに は自動車
は便利
であ り,
しか も買い 物の 間にエ ン ジン を か けてお くの は車
内の 空気
を冷房
する た め である。 だが, 忘 れてな らない のは,
この よう
な「
便 利 さ」は, 大 量の エ ネルギー
消 費とい う 代 価を支 払っ て手
にい れ ること が で きる という
こ とだ。この よ う な日本 人のライフ スタイル
,
その 「豊 か さ」
の特徴
で ある 「便 利 さ」
をフライ ブル ク で見たもの, 経 験 し た もの と比 較してみ る と, そこ には も う一
つ 別の豊か さがある ように思 わ れ て な ら ない 。 そこ で体験
した 「豊か さ」感
は厂
快適
さ」
と置
き換
えて も良
い が,例
え ば,
市街
地で の 自動 車の騒 音 と排 気ガス を 避 ける た め に自動 車の乗 り入 れ を規 制 する ことに表われ4
三 国 千 秋 てい る。 実 際, フライブル ク市で感 じら れ る 「豊か さ」 を代 表 する もの と は, 街 全 体の 「きれ い な 空 気 」 ,「
静 けさ」
,「
野鳥
の さえず り」,「
古
い街
並みの 落 ち着
い た雰 囲気」
,す
ぐ手
の届 く
ところ に 流 れる疎水
の 「き れい な水」
などで ある。5
月の フ ラ イブ ルク は夜
8
時
頃 まで明
るい が, わ れ わ れ は一
週 間の 滞 在の 間,市
の中心 部や郊外
の レ ス トラ ンや カフェ で も,,
ほ と ん ど毎
日の よう
に屋外
で食事
を取
ることがで きたし, そ れがごく自然
なことの よう
に思 われた。も ちろん
,
こうした 「快
適 さ」は, フ ラ イブル ク市 民の環 境 意 識に よっ て も支 え ら れてい る といえ
る。 しか し,一
方で市
民の意
識 を取 り上げるとすれば, 他方
で, 車の両輪
のよう
に様
々 な市
の政策や施策
が実施
さ れ てい る点
も見 逃 すべ きで はない だろう。
例 えば
,
フライブル ク市が市 全 体の「
きれいな 空 気 」 や「
静 け さ」のた め に選 択 した方 法は, 市の中 心 部に自
動 車の乗 り 入 れ禁
止 地域 を 設け た ことであ り,
通勤
をは じ めで きるだけ 公共 交 通機 関
を利
用 する よう な 誘 導 策 をとっ たこ とである。 そのた め に, 中心 部の駐 車 場の料 金 を 高 く設 定 して, 代わ りに公 共交
通 機 関 (路
面 電 車の復 活 とバ ス)の料
金を思い切っ て低 く設 定し た り, 電車
と近 郊のバ ス路 線の接 続 を便
利に し て利
用し やす くし たこ とで ある。 他に も,早
朝5
:00
か ら深 夜12
:00
ま で電 車やバス を 走ら せ る,1
枚
の 切 符で乗 換 えは自 由,
月の 定 期 券は5000
円以下, 日曜日な ら大 人2
人に子
供4
人 まで利
用で きる し, またこ の 定 期 券を他 人に貸し て も 良い な ど,様
々 な 工夫
が なさ れ てい る。
こ れと平 行 して, フ ラ イ ブル ク市は,
1989
年か ら こ れ まで35
億マ ル ク (2450
億 円 )を投じ て,450km
に お よぶ 自転 車 道の 整 備 と自 転 車 専 用 道 路 を建 設して きた。 自動 車 禁 止 区 域の交 通 手 農 と しては, 歩行,自
転 車,
路 面 電 車の三つ の方法
が残
り,
こ れに よっ て安
全に街
中 を歩 けるこ と, き れい な 空 気と野鳥の さ え ず りが 戻っ た だけでな く , 市 街 地の商 店 街の活 性 化にもつ なが っ た。さ らに, フ ラ イ ブル ク
市
民の間には,数年前
か ら, エ ネル ギー
の浪費
を止めゴ ミ減
量化
の た め に,
リ サイク ル ではな くリユー
ズ や, なるべ くゴ ミ になる もの を買わない 「ゴ ミ回避 」の 政 策が実 施 さ れ てい る。 そのための具体
的 な取 り組
み とし て は,
ゴ ミを税
金で処理 しない ゴミ の 有 料 化, 生ご み をコ ンポス ト堆 肥に して土に返 す と か, トレー
や ラッ プを 使 用 しない野 菜や果 物,簡
易 包 装や秤売
り な ど様
々 なもの を目 にするこ とが で きる。特
に,
包 装材の ゴ ミ処理費
用 をメー
カー
が 負 担 する とい うDSD
社 (デュ ア ル・
シ ス テ ム・
ドイ チェ ラン ド=
行 政 と企 業に よ る,
ド イツ廃棄物
処理 二 元 シス テム〉
に よ る プロ ジェ ク トは, メー
カー
側か らすれ ば な るべ くゴ ミ の処 理 費 用 を削 減 する た めに, で きる だけ 簡 易 包 装に切 り替 えた り, デポ ジッ ト制 度の導
入 に踏み切ら せ る結
果と なっ た 。以 上 をまと め る な ら ば, 人々 の環 境
意
識やモ ラ ル は, その 社 会の環 境政策や制 度と不 可 分の 関係
にある とい うこ とが で きる。 そ して,
こ こ には,
人々 が 生活
環 境や 自然環境
を どの よ うに と らえる か とい うこ と が関わ っ て くる。 その点につ い て次に見てみ よう。第
2
章
社 会 的 共通 資 本
の概 念
(
宇 沢弘 文 氏
)
を用
いて
経 済 学 者の
宇
沢弘文
氏 は,
「社 会的共
通資本 (
social overhead capital )」
の概 念 を提
唱し てい るが, そ れは,都市
や地 域におい て様
々な 社 会資本
が 集 積 さ れ た もの と考
え ら れてい る。 社 会 的 共 通 資 本は 三つ の部 門に分 けら れ る。1
) 都 市や地 域における社 会資
本 (生活 道 路,
電 力,
環境倫理 の可 能 性 5 上下
水
道,
電車,
バ ス な どの 基 礎 的交
通機
関 な ど)
,
2
) 自 然資
本(
土,水,
空気
な ど)
,
3
) 制 度 的 資 本 (教 育・
医 療 などの 施 設, 公 園, 図 書 館な どの 自然 的・
文 化 的 施 設 , さらに は銀 行 な どの金 融的資本
な ど)。 m歴
史的
に見て,
社 会 的 共 通資本
の考
え 方に先行
し てい る のは,
W
・
カッ プの 社 会 的費
用 とい う概 念である。 ド イツ生 れの ア メ リカの経 済 学 者で あっ た カ ップ (1910
−
76
)は, 第2
次 大 戦 前 後にお ける著 しい生産 力の拡
大,
技 術革新
の背後
に ひそむ人 体の損
傷,
森林
荒 廃,
農 地の浸 蝕 な ど を取 り
上 げ,
『私
的 企業
と社会
的費
用一一
現代資 本
主義
にお ける公害
の問 題』 (
1950
) の中で, 私 企 業の利 潤 追 及によっ て発 生 する社 会 的 費 用に注 目 した。一
般に, 企 業 が なん ら か の経 済 的生産 活 動を行 う際に,
企業は労賃,
原 材料
な ど を負 担 し てい る が,
これ はその企業に とっ て の私
的費
用 と見 な さ れる。 と 同 時に, 騒音
, 悪臭
, 汚水
な どの よ うに, 「ある経済
活 動 が, 第三者 あるい は社 会全体に対して,
直 接 的 あるい は間 接 的に影 響を及ぼ し,
さ ま ざ ま な か たちで の被害
を与
える とき,外部
不経済 (
externaldis−
economies)
が 発 生してい る」
とい わ れる。 (以 上 は平 凡
社
, 世 界大
百 科事
典 を参考
にし た)
この よ うに, 外 部 不 経 済と は, 何 らかの 自然に対 する被 害, 身 体 的 被 害や損 傷, 社 会 的 基 盤 の
破
壊を 生 み 出 すこ と をいう
。 し た が っ て,社
会的費
用の定義
とし て は,「
外部
不 経済
を と も な う現 象につ い て, 第三者 あるい は社 会 全 体におよ ぼす 悪 影 響の う ち, 発 生 者が負 担 してい な い 部 分を な ん ら かの方法
で計
測し て,集計
した額」
と表
わす
ことが できる。 enしか しなが ら, 残 念 なこ とに, こ の ような社 会 的 費 用は企 業に よ る経 済 活 動の 中に内 部 化 さ れる こ とは なか っ た。 理
由
はt宇沢
氏 も述べ てい る ように,近代経済学
の中
心 的 な学派
である新古
典 派の経 済
理論
で は,
「社会
的 費 用 を発
生さ せ る よう
な経済活 動
はむし ろ例外 的
な現象
で あっ て , そ れぞれの事 例ご とに個 別に考 慮さ れ るべ き性 質の もの である」とい う考え方が と ら れ てきた か ら であるe (’
1 }そ れどこ ろか,
「
資 本 主 義 的 な 経 済 社 会の歴 史 的 発 展のプロ セ ス で,
産 業 公 害の 問 題を は じ め とし て,
さま ざ まな か たちでの社 会 的費
用の発 生は不可避な もの で あっ ただけでな く,
こ の ような 社 会 的 費 用を第三者,
と くに労
働 者 あるい は低 所 得 階 層に転嫁
する こ とによっ て, は じ め て資本
主 義 的 な経済
制 度の もとで の経 済 発 展は可 能で あっ た」 とさ えい うこ とがで きる。「
とくに, 第二 次 世 界 大 戦後,
日本をは じめ多
くの先進
工業 諸 国に おい て,重化
学工業が きわ め て早い テンポでおこなわ れ, 公 害, 環 境 破 壊 などのか たちで の社 会 的費
用は増 大 し,多様
化 してきた」の であっ た。 a ]では
,
どう して, 個々 の 企 業 が 社 会 的 費 用を無 視 しえたのか。 それ は, 新古
典 派 理 論の前 提 とし ての純 粋な 分権
的 市場
制度
にある。 この 制度
の特 徴の まず 第一
は,
「生産 手段
の私
有 性」
で ある。 す なわち,各
経 済 主 体はそ れ ぞれ所 有 する希
少 資 源 を, 自 己の私 有 物 と みな して 自 由 に使 用で き る という
前 提であ り,
ま た こ の私有
性 と な ら ん で,
個々 の 企業や個
人の経済活
動の 自 由 とい うこ とも暗 黙の前 提 と みな さ れて きたか らで ある。しか し な が ら, 今日の複 雑 な 経 済シ ス テム と
希少資
源の 有 限 性に照 ら してみ る な らば,
果た してそれで良
い の だろ うか という
疑 問 が残
る。資本
という概
念を広義
の 意味
に とる なら ば,「
生産・
消費
のプロ セ ス におい て必 要 とさ れ る希少資
源の ス トッ クを広
く資本
と呼
び, こ の資
本
か ら 生 み出さ れ る サー
ビス を使
っ て さま ざ まな経
済活
動が お こな われ る」
1’
i) と考
える とす れ ば,
この よ う な 資 本につ い て,
宇 沢 弘 文 氏に よれば大 き く次の ように 二つ に分 けら れ る。6
三 国 千 秋 どの よう な 経 済 社 会を とっ てみて も, 生産・
消 費 活 動を おこな うた めに必 要 と なっ て くる よう
な希少資源
は 二 つ の カテゴ リー
に分類
さ れる。各経済
主体
に分属
さ れ, 自由
に使用
さ れる よう な 私 的 資 源, あるい は私 的 資 本 とい わ れる もの が 第一
の カ テ ゴリー
で ある 。 これ に対して, 私 的な経済
主体
には分 属さ れず
,社 会
全体
に とっ て共 通の財 産で あり
, 広い 意味
で社
会 的に管 理 さ れる よ う な社 会 的資源 ,
あ るい は よ り正確
に は社 会 的 共 通資本
とい う第二 の カテ ゴ リー
が 存 在 する。 C6)こ こ で われわれは
,
「社 会 的 共 通 資 本 」の特 徴 をより明 確にすることがで きる。 その第一
は ,「
社 会 的 共 通資
本 」 と は, 特 定の個 人 あるい は企 業 や 団 体,
組 織な どに属 する もの でな く,特
定
の都市
あるい は 地 域の住 民にとっ て の共 有の財 産 だ とい うことで ある。 もちろ ん,
い か なる 希 少 資 源を 「社 会 的 共 通 資 本1
と みな すか は, その地 域の住 民な り市 民な りが, それ を どの程度
共有
の財産
とみ なす
か,
という社会的
同 意や コ ンセ ン サス に よ る。例
え ば, 川 の水
を例
に と ると, ある 工場 が ある川か ら水を引い て利 用 する場 合には, その川の水はその工場の私 有とも見
な さ れう
るが,
その 工場か ら排出
さ れ た廃液
で 川の水
が汚染
さ れて, 下流 域の住民
にその影
響が お よぶ場 合, その川の水
は 工場の私 有 物で ある と同 時に, 住 民にとっ て は「
社会的
共 通資
本 」とみな さ れる で あろ う。一
般
に,様
々 の社
会資
本,
すな わち道路
や公 共交
通機
関,電力,
ガス な どが社 会的共
通資本
とみ な され るのは当 然であろ う。 しか し なが ら, 日本の道 路 事 惰を見る な ら, 宇 沢 氏が指 摘 す る よう
に(
『自動車
の社 会的費
用』
,岩波新書
1974
)
, わが国
の道 路 は 自動車中
心に建 設 さ れ て来た た めに, 結 果 と して歩 行 者や 自転 車を利 用 する者の権 利が無 視さ れて い る とい う意 味で は, 十 分に 「社 会 的 共 通資本」
とい う見 方が社 会 的に定 着 し てい る と はい え ない 。こ こ で
,
「社会
的共
通資本」
の第
二 の特徴
である,混雑 (
congestion)現象
の 発 生につ い て 述べ てお く必 要が ある。 つ まり,
社 会 的 共 通 資 本は無 限なス トッ ク とい うわけにはい か ない の であるか ら,
そ れ が 無 制 限,
無 原 則 的に利 用 さ れる と,
必 ずや混 雑 現 象 を伴 うとい うこ とで あ る。 言い換 えれば,
社 会 的 共 通資
本が効 率 良 く市 民に配 分さ れ,
そのサー
ビス を効率 良
くお こ な うため にも,
何ら かの 制 度に よっ てその使 用や利 用 を規 制し た り , その社 会 的 費 用 を 負 担 す る必 要がある。 この例と し て は,
例 え ば電気,水道
な どの公 共料
金,高速道
路の料
金,
公 共交
通 機 関の運 賃 などが あ げ られる。そ
う
はい っ て も , その よう
な公 共 料 金の 設 定にあたっ て は,無
原 則 的に使
用料
を引
き上げ
て はな ら ない こ と はい う まで も ない 。 理由は, 公 共 料 金の ような生活に必 要な基 礎 的 費 用は, 所 得にか かわらずこれ を値
上げ すれ ば,高額
所得者
に とっ て負担
は軽
い もの であっ ても,所得
の 低い 人々 か らみれば, 重い 負 担になっ て公 共 的 サー
ビスを 受 けに くい とい う状 況が生 まれ る か らで ある。ところが
,
新古典
派の理論
で は,第
二 の前
提である 「報
酬」
につ い て,
「各
経 済 主 体は,
そ れぞれ自ら所 有 する 生産 要 素を市 場に供 給 して, 市 場 価 格によっ て評 価さ れ た額を所 得と し て 得る」
という前提
に立っ てい る。 だ としたら,宇
沢氏
もいう
よう
に, 「もしある人につ い て, その所
有 する労 働に対 する市 場の評 価 が 低 く, 生 存 する に必 要 な 収 入 を得 られ ない 」 σ 1 とした ら, この 人は生 存 するこ とが 不 可 能になっ て し ま う。 これでは明ら か に, 人 間が「
健康
に し て 快 適な最 低 限の 生活を す る権
利 を もつ」
という
「生活権」
の 思想に反 する こ と に なる。 CS)環 境 倫 理の可 能 性
7
以上 を要 約 すれば,
「
社
会 的 共 通資
本 」の概 念は, 社 会 的 公 正の側 面, つ ま りその サー
ビス を受
け るため に,誰
もが 「健康
に し て快
適な最 低 限の生活
を営
む権 利
を もつ」
という
基 本 的権
利 を満 た すとい う面 か ら も重 要であるこ とが 分 かる。水, 空 気, 土 (土 壌
・
土地 ) などの , いわ ゆ る自然 資 本 を無 限にある とか, 単に私 的 資 本 と見
なす
ので は なく,「
社会的共
通資本」
とみ なす
ことは,
以上 のよう
な 理由
か らも 重 要であ る。 空気
を例に とっ てい え ば,都市
の中
心部
にお ける自
動車
の混雑
や渋滞
か ら当然混雑現象
が予 想 され るの であ り, それ をその ま まに放 置 すれ ば, そこに住む住 民か ら きれいな「
空 気 」として の「
社会
的共
通資本」
を奪 う結
果に な る か らである。 われわれ は先
に,
ド イツ の フラ イ ブ ル ク 市で の交 通 政 策の事
例 を 紹 介し たが, フ ライブル ク市は 「空 気」
を 「社 会 的 共 通 資 本」
とみな し て, こ の よう
な考 え 方に 立 っ て「
混 雑 」 状 況を回 避 し た とい える わけである。また, 土 (土壌
)
につ い てい えば, 昨今
の バ ブ ル現象
やバ ブ ル の 崩壊
は,本
来 「社会
的 共 通資
本」
であるべ き「
土(
土 地)
」
を個人 や法
人の私有
とみ な し て きたこ とに起 因 する。 そのた め に土 地の 価 格や土 地取
り引 きに制 限 を 設 ける ことな く,全 く 自 由 な 取 り引 きに任せ て しまい,
結 果 的に土 地 に対 するf
投機
」をあお る という
日本の土 地 政策か らの必 然 的な結 果で もあっ た とい える。 これに対して, ドイッ で バ ブル現 象 が 生 じな かっ たの は,
土 地の価 格や取 り引 きに 厳しく規 制が設 けら れてい る た め に,
土 地に投 機 すること が起こ り得な か っ たこ とに よ る。以 上の こ とか ら, これか らの環 境 保 護の視 点には何 を 「社 会 的 共 通 資 本 」 と み な す かとい う
市
民や 地域住
民の コ ンセ ンサス が ま す ます 重 要に なっ て くる と思 わ れる。 その 際 に,
自分の 知 識のみ を 正 しい と み なすの で は なく,自
分は どこ に位
置す るのか という
視 野に立 っ た 広い 意 味 での 調 和 的 な知 識の あ り方 を 目指 すこ と, その よう な 知 識 を得たな ら そ れ を「
外 部 」に説 明 す ること が 重要 とな る。 そ れ が次
の問題 とな る。第
3
章
環
境
倫
理 の可 能性
人 間 と 自然
の調 和
につ いて
知 識の二つ のあり方知 識を
,
純 粋な 理論 的 研 究 分 野に限るの では な し に,
広 く一
般に行 為や行 動,
実 践の 領 域で と ら えるなら ば, 知 識は どのようなもの であるべ きか がこ こ で の テー
マ で ある。現
代
ア メ リカの 詩 人・作
家であ り,環
境につ い ての 優 れ たエ ッ セ イス トで もあるウェ ン デ ル・
ベ リー
は,『
言 葉 と 立場 』 (1983
年 )とい う本の 中で,
知 識を「
情 報 」と して の知 識とこ の 知識
に 「限界
を課 す(
制 限 する)
」
ため に働
く知 識の 二 つ に分 けてい る 。まず 最 初に, ベ リ
ー
が「
情 報 」 と して の知 識と呼んで い るものは,
通 常,事
実につ い て の情報
や知 識,
い わゆ る 「客観
的」
知識
とい われ るものである が,彼
によ れ ばこ うした 知識
の見方
は以下の よ う な, 二つ の前 提の上に成 り立っ てい る。「
い わ ゆ る知 識 (情 報 ) がく充 分〉にあ り得る という
前 提,
そして時 間と仕事
は不 足 して い る とい う前 提で ある」
。 C9)情報
がく充 分〉 にありう
る という前提
か ら は,「
十 分な情報」
に基づい た決定
が 可能
で ある という
仮 定が導
か れ る し, またそう
し た仮定
か ら は,「
あら ゆ る問題 は く技
術の進歩
〉によっ て解決
さ れ るだろ う とか,
い か なる問 題 も切 迫 感,情報 ,
資 金 を広 くつ ぎこ むこ とで速やかに解 決 さ れ 得る」“°) とい っ た「
産 業 的 楽 天 主 義 」の教 義へ の信 仰 が 生 ずる こ とになる。し か し
,
日常
生活を見れば す ぐ分か るこ とだが,何
か を 決定 する時
にも,
われわれ は決
し て8
三 国 千 秋常
に十 分 な 知 識 (情 報 ) を持
ち あ わせ てい るわけ で は ない 。 重大
な決 断 を下すさい にも,
わ れ われ が 驚 くほ ど無 知だ とい うこともあ りえ
る。 こ の例 と してベ リー
は結
婚 を挙
げてい る。結婚
に際し てわ れ わ れは,
決し て「
十 分な情 報 」のみに よっ て決 断 した りする わけで はない か らで ある。そこ で, ベ リ
ー
が第
二 の種
類の知 識と呼ん で い る ものが 重 要 となる。 それは,「
情報
を含
ん だ 類の 知 識である が,情報
とは 同 じもの で は決
し て あ り得ない 」。 こ の (第
二番
目の)
知 識は,「
常に第一
の 種 類の (情 報 としての ) 知 識の 限界
を含
み,
ま た 明 ら かに第
一
の種類
にしば しば 限 界を課 し てい る ことが分か る」。 “1) この ような知 識と は行 動や実 践の た め に,
一
定の, 部 分 的 な 知 識(
情報〉
に従
うこ とで決断
し,
そこか ら一
つ の可能性
を選
択 し,他
の可能性
を最終的
にはあ きら め る ような知 識の こ とである。行動
や実践
におい て の知識
を考
える 上 で,結婚
と並ん で,次
にベ リー
が挙げ
てい る例は さ ら に分 か りすい。 そ れは, ある人 が 新 し く農 地 を手に入 れ, そこに移 り住んで農 業 を営 む 場 合で ある。 つ い で に言
う と, これ は彼 自身
が こ こ十 数 年 間に渡っ て経 験 し てきた こ とでもある。最 初, 農 場に移 り住ん だ時には, 彼の
夢
や希 望,計
画は大 き くふ く らむにち がい ない 。 だが,時
間の経
過 と共 に 必ずしも事
が 順調に 進 むわ けでは ない とい うこ と を知る よう
に な る。 農 場で は一
年,一
年が ゆ っ く りと進む か らで ある。 自然の 歩み は わ れ わ れの思い よ りはるかに遅い 。 工業や商 業での 機 械や コ ン ピュー
ター
の ように,
自然 はわれ わ れの 思い 通 りに歩
む わ けにはい か ない か ら である。 自然災害
もあ る かもし れ ない 。 ここで は「
時 間と仕事
が不 足してい る」と い うの で はな く, わ れ わ れ は多 くの もの につ い て無 知である こ とを認めねばな ら ず,
無 知であ りなが らも行
動し実 践 し なけれ ば な らず,
その た めには農 場と し ての場(
場 所 )に と ど ま ら ね ばな ら ない 。 「正 しい 規律」
と 「十 分 な時間」
とは,
切 り離せ ない概念
で あ る, 正 しい 規律
は急が さ れ て は な ら ない 。 という
の も それ は, 何がな されねばな ら ない かにつ い て の知 識であ り, か つ そ れ をしよ う とい う, そのすべ てを正 しくし よう とい う意欲だか ら である。良
い働
き手
は,「
良い 仕事
」が急 ぎや緊 急 時や非 常 時に も正 し く責 任をもっ てな され る と は考えない。 ま た 仕事
が 完 了 した後,
その価値
を証 明 する の には なお多 く
の時
間が か か るという
こ と も 承 知 し てい る。 結 果を経 験 し,
研 究し, 理 解 するには, 留 まらねばならない 。 結 果と共に暮
らす ことで結 果 を理解
し, 必要
であ れ ばさらに生活
し,働
く事
で 正 さね ばな ら ない 。 〔12)こ こ で
「
良
い仕事」
と は どの よう な仕事
をいう
の だろう
か。 ベ リー
自身
はっ きり
と そ れ に答
えてい るわ けで は ない が,
そ れ は,彼
のいう 「
愛
」と「
熟 知 」 と呼ぶ に ふ さ わ しい 知 識 (ベ リー
のい う 第二 の種 類の 知 識 ) か ら生 まれる ように思わ れ る。
つ ま り,
「熟
知」
とは 「良
い仕事」
に仕 える よう
な知 識の こ とで ある。 また,「
良い 仕事
」は「
規 模の適 切 さ」の問 題 と切 り離 し えない 。 とい うの も,
「良
い仕事」
は量 で は な く質
に か か わ るものだか らである。 さ らには,
「
細 部 を見 届 ける」た めの「
適 切 な 謙 虚 さ」
とい うこと も重要
と なる。 “/1)環 境倫理の可能性
9
農業
に お け る知
識の場一
農
場の体系
農 業におい て は, 知 識はその場 (場 所 ) と切 り離 しえ ない
。
なぜ な ら,
農 場 は 生活
の場,
基 盤で もある か ら だ。 そう
し た農 場の体 系 的 な場を, ベ リー
の挙 げて い る図に よっ て示 す と次の よう
に な る。 [14)左
側の 図か ら少し解
説し たい 。 まず
ベ リー
の 言 葉 を引 用し よう。 左の 図で は,「
第一
に , あ ま りに多
くの こ と が忘
れ去ら れてい る。 家 族や共 同 体, 自 然, それぞ れの要 求が, すべ て無 視 さ れ てい る」。
c15)こ こか ら分 かる こ と は,
明 らかに, 主 眼 は一
番
外側 の 産 業 経 済に置か れ てい る という
こ と だ。 つ まり,
酪農家
の知 識や行為
は,
最 大 限の利 潤を追 及 する た め に用い ら れ る の であっ て, 酪 農 家の意 図 も酪 農 も, ま た 農 業 もその外 側にある産 業 経 済の論理 に従 う もの と 見な さ れ る。 言い 換 えれば,
そ れ ぞ れの体系
の価 値は一
番 外 側の 産 業 経 済の体 系に従 属 する か たちで しか 認められない。この
点
につ い てベ リー
は, 以下の よう
なコ メ ン トを付
け加
えてい る。1 .
1944
年か ら1975
年とい う期 間に… …
酪 農 業 者が大 幅に減っ た。 弱 小 な一
常に弱 小な
一
酪
農 業 者は, その「
製 造装置」
の比 較 的 「非 能率」
の ため に締め出さ れて しまっ たQ2
.
牛 乳 生 産の 工業 化を含む農 業の 工業 化は, 農 業の専 門 家で さ え 気づ き始めてい る深 刻 な問題 を
引
き起こし た。 す なわち,
土壌浸
蝕,
土壌
圧密,化
学 中 毒と汚 染,
エ ネルギー
不足,
数 種の金 銭 トラブル, 植 物 や 動 物の種の 消 滅, 土 壌 生 態の崩 壊 などで ある。 qω
他方 ,右
側の図 を見て み ると,
その中心にあるの は一
人の農
夫であ り,
こ の円の中に は彼
の 関 心や利 害 が 含 まれてい る。 次い で その まわ りに家 族, さ らに は共 同 体の体 系, さ らにそ れ を 取 り巻 くよう
に農業
の体系
が位
置づ けら れ る。一
番外
側に自然 とい う体系
が置か れ る。 ベ リー
のい う農場
の体系
と はこ の ような複数
の体系
か ら なる もの であ り,個
々 の体系
お よび その関 心 や利
益はそれ ぞ れ独 立 し てい る とみなさ れ る。 だが,独
立 し な が らも相
互 に影響
しあっ て, そ うした 相互作 用の う ちに体 系 全 体の バ ラン スが 保たれてい ると考
え ら れて い る。
要 する に,
右 側の図が示 してい るのは,
農 場を豊かに保つ とい うこ と は, 単に農 業 生 産を 上 げる とい うこ と で なく,
土壌
を豊
か にするこ と,農夫 ,家族,共
同体
にとっ て知 識や経験
が蓄積
さ れ てい くこ と,
自 然 を含
めた生 活 基 盤 を 整 え, 安 定 させ て い くこ とを意 味 してい る。 “7) こ の よう な体系
と10
三 国 千 秋 し ての場
に描か れて い る の は, そ れぞ れの体 系
の生 態学
的 なバ ラン ス,
自然界
に おける 調和 ,
人 間と自然の調 和 的 関 係である。自 然 界における調 和や 生
態
学 的なバ ラン ス につ い て,
わ れ わ れ は水 や 大 気の循 環,
バ クテ リ ア の働
き,動物
と植
物の共 生関係
, 「食物連鎖」
や 「存在
の鎖](
全ての被造物
を一
つ の秩序
の 形に整 序 するよう
な連
鎖ない し は漸
次 的 移 行がある という
考え
方一
平 凡 社『
西 洋 思 想 大事
典』
に よ る)
など様
々 な 知 識 を得
てい る が, そ れ以上 に無
知の ことは多
い 。 とこ ろで, 「食物
連 鎖」
や 「存 在の 鎖 」の考え
方には「
位 階 性」
の概 念 が そ なわっ てい るの も確
かであっ て,
そう
し た「
位 階 性 」に基づ い て自然
界の調 和 的な秩 序が保た れてい る と考 えら れ てい る。ベ リ
ー
自身
もそ う した見 方に立つ が,
それは次の言葉
か ら もわか る。 「〈被
造物
〉が 豊 かで 変 化に富むの は, 生命が豊 富だ か らでは な く, 〈被 造 物〉 が秩 序 正 し く, 多 様 性に富む 生 き も のが安
心し てい ら れ る場所
に満 ちてい る か ら である」
。 “s) こ こに は,
それ ぞ れの種
が し か るべ き 「場 」 (場 所 )に位 置 するこ とで安 定 した秩 序 を 保つ こ とがで きる とい う「
位 階 性 」の考 え 方が あ る。 ま た,「
存在
の鎖」
自体
は「
生 き物 (
被造物)
と価 値の位 階」
を理解す る た めの方
法である と断っ た上で こ う も述べ て い る。 「生 き物は, 等 しい こ と に よっ て で はな く, そ れ ぞ れの種
の 相 違に よっ て保護
さ れてい る という考
えが〈存在
の 鎖〉に は ある」
。 Cl9)で は, 人 間と自然との調 和につ い て, ベ リ
ー
は どの よ うに考
えてい るの で あろ うか。人間にと り調
和
とは,常
に 人間の作
り出した人為
的な もの で あ り,
その作
り方
を 知 らず,
そ れ をす すんで作 らな けれ ば, 調 和はない こ とになる。 そこ で 人 間に とっ て, 私 が 語っ て い る調和
は道徳
律と し て知 られ てい る もの に 必然 的に似通 っ て く る一
つ ま り人 間 にと っ て道 徳 律 と は 生態
学 的お よ び農 業 的 調 和の表 記 法の重 要 な 部 分とい うこ とにな るの だ。多
くの 人々が, 情 報を徳の安 全 な代 用 物 と して認め て きたよ うだ が, こ れは, 人 間 が長い仕事
と長い時
間に向 き合っ て短い 人 生 を送る準 備 をし な け ればい けない,
とい うこと を と りわけ無 視 してい る。 ao〕も ちろ ん, ベ リ
ー
は,
すべ ての 人 間に農 業を勧め てい る わけで は ない。 そ う 言 うこ と は間 違 っ てい る。 しかしな が ら,
先に述べ た 農場
の体系
を,
人 間 と 自然
との調和
的関係,
生活
と環
境 との 関 係, そのた めの知識のあ り方に とっ て一
つ の範 例 と み な して い ること は確かである 。 な ぜな ら, その よう な 農場
の体系
は, そ れ を構
成 する複数
の体系
の生 態学
的バ ラン ス, 自 然界
の 調 和に基づ く「
道 徳 律 」に とっ て のモ デ ル と み な さ れ る か らである。 ア カウ ン タ ビ リ ティ説 明
賣任能力
につい て『言 葉と立 場
』
とい う 書 物 を一
貫して貫い てい る モ チー
フ は,
「話 し手 と言 葉の 間の 誠 意 (正 確 さ)」 や「
忠 実さ」か ら, わ れ わ れ はい か に し て離れてい っ た か という
問 題である。 こ れ につ い てベ リー
自身
は,
「自分の こと ば を守
る とい う考
え,
もの ご と を 正確
に表
す言葉
とい う考
え,
言葉
に忠 実 な 行 為とい う考
え」
で もっ て答 えようとしてい る。 〔2Dわ れ わ れ は, ここ で
,
ベ リー
が言 葉を単な る知 識や情 報 ,意
志の伝 達の手 段と み なすの で は な く,何
のため に,
ま た何
をめざし て行動す
べ きか という
目的
や主 題 との か かわり
で と ら えて い る こ と に注 目し たい 。 晋 葉 を 単 なる伝 達 手 段とみ な すだけで な く,個
々人の発 言や表 現 など環 境倫理 の可能性 11 が その 人の
「
外
部 」の 世界に対
して何 ら かの影響
を及ぼす もの と見る な らば,
言 葉は個 人の関 心や利害
にか か わる の み ならず, 広 く社会
や 自 然に もか か わる もの となる。わ れ わ れ は, 先にベ リ
ー
の農
場の例におい て,一
人の農 夫が 自分の 関 心や利 益を守 りたい と 思 うなら ば,
家 族に対
して も,
共 同体
に対
し て も,農場
や農業
は もちろ ん自然
に対
し ても何
ら かの 責 任 を 負 うこ とを結 論として得たの で あるが,
そ れは個 人の 体系
を含
めた 複数
の体系
全 体 の安 定 性のた めであっ た。自然
に か ぎ らず,
おそ ら く社
会におい ても,
そ の制度
や しくみ,組織 ,あ
るい は人 間 関係
の あ り方にい た るまで, そ う した複 数の体 系を想 定 し うるであろ う。 また,
そ うし た複 数の体 系 か ら な る全体
に おい て は,
個人の言 語使
用はその人の「
内 部」
と同じくその外
側にある「
外
部」
の体系
にとっ て も何 らかの影 響 を及ぼす とい っ てよい だろ う。か くし て, ベ リ
ー
のい う「
話し手 と言 葉の間の誠 実 さ (正確 さ)」 とい う 問 題は, その個 人 の 「外部」
に対
する説明責任能力
の問題 となる。説 明 責 任 能 力 (accountability )と は, 今日, 情 報 公 開との関 連で議 論 さ れる こ とが
多
い が,定義
に よれ ば,「
ある こ とを任
さ れて い る代
わり
に,
そ れ に対
して きちん と説 明 する責任
を有
するこ と」
と言わ れ る。 例 え ば,「
政府
は人々 に対 して , 企 業 は 株主 に対 し て, たん に組 織や 事 業 を 円 滑に運 営 する責 任 (respOnsibility ) を 有 するだけで な く,
事 業 内 容,
財 務 など重 要 事 項につ い て も十
分に,
かつ 正確
な報告
を行 う責任
をもつ こ と」
である。 (2Mこう した説 明 責 任 能 力に とっ て重 要 なのは, まず 相 手 方 を 異 なる立 場にある者と して認め, その上 で異な る立
場
にある 人々 に 理解
で きる よう
な言葉
で話す
こ とで ある。ベ リ
ー
が論 じてい る ように, 「
知 性の専 門 化 」のた め に, 自 分た ちの 組 織の 「内 部 」で通 用 する言語
が 「外部」
に対
し て は通 用 しない と か, そ うし た 不安
, 恐怖
の ため に秘密保持
や情報
の非
公 開につ な が る としたら,
そ うした言語使
用 は,
「自
分の居 所や同席者
が わ か りに くく な っ てい る」とい う点で「
病んで い る」とい うこ とにな る。 123) ま して,一
片の通 達や専 門 用 語や ア カ ウン タビ リテ ィ デー
タの羅
列で 「外部」
に対 する説
明に代
えるとした な ら,
その当事者
の説 明責任能力
は 欠如
して いる と言わざる をえない 。 とい うのも,
問 題 解 決 する た め に共に行 動 する とい う視 点に立 つ なら,
他の体系
に位 置 する人々に対して も開 か れてお り,
た と え対
立する場 合で もその原因 を明ら か に し なくて は な ら ない か らで ある。結 論 と し て, われわれは
「
便 利 さ」に象 徴さ れ る豊か さ は一
つ の 特 殊な豊か さに過 ぎない と い うこ と を見て きた。 そ うし た「
経 済 的 豊か さ」の他に も, 人 間の 生活
基 盤と しての 社 会資本
や 「社会
的共 通資本」
とし ての 豊か さ, さ らには お 互い の個 性を認め合う
こ と,協
力や共 同に よっ て表 される「
人 間 関 係の豊か さ」とい うこ ともある だろ う。 また,
「未 来の 世 代に通 ずる た めの豊 か さの蓄 積 」 という
視 点 も重 要で あ る。環境倫
理の基 盤は生 活である。 したがっ て,環
境倫
理 は生活
か ら離
れるのであっ ては な ら な い 。 産 業 社 会はその中に多 くの種 類の専 門 家を産み出し た が, 過 度に専 門 化 した知 性は今や説明責任能力
という
カベ に突
き あ たっ てい る。環境倫
理 が問題解決
の ため に役
立つ とす
る な ら,
そのた め に は, 自 らの言 葉や知 識 を 「外 部 」つ ま りは第三者や公 けに向 けて分 か りやす く説 明 するも
の で なければな ら ない だろう
。最後
に,
環境倫
理 と しての 「動 物の権利」
や 「自 然の権利」
の 問題,
デ ィー
プエ コ ロ ジー
や12 三 国 千 秋 マ レ
ー ・
ブ ク チ ンらの ソー
シャ ルエ コ ロ ジー
, エ コ・
フェ ミニ ズム につ い て今 回は触れ ること はで き なか っ たが,機会
をみ て論ず
ることに したい 。 注 (1
)『宇沢 弘文 著 作 集 』ag
1巻 「社 会的共 通資 本と社会 的費 用 」,
岩波 書店,1994
年,106
ペー
ジ お よ び195
ペー
ジ を参照。
(2)同上,
70
ペー
ジ (3) 同 上,87
ペー
ジ (4)同 上,87−88
ペー
ジ (5) 同上,
103
ペー
ジ (6) 同上,
103ペー
ジ (7)同 上,91
ペー
ジ (8
) 同上,
176
ペー
ジ(9)Wendell Berry
.
Standing by Words,
North Point Press,
1983(邦訳書 『言葉と立場 』,
谷 恵 理子訳,
マ ル ジュ 社,
1995
年,78
ペー
ジ) (10) 同上 , 83ペー
ジ (11) 同上,
81ペー
ジ (12
)同 上,84−85
ペー
ジ (13) 同上,
85
ペー
ジ 〈14
) 同上,56−57
ペー
ジ (15
)同上,57
ペー
ジ (16
) 同上,54
ペー
ジ (1
ア)この よう な 農 場の あ り方 につ い て,
宇 沢弘 文 氏は農 業とい う 概 念 規 定よ り,
む しろ 「農の営 み」とい う 言 葉で言い表し ている。 『字沢弘 文 著 作 集 』 第10
巻 「高度 経 済成 長の陰 影 」,
岩波書 店,
1995年,
156ペー
ジ参 照 (18
)『言 葉 と立 場 』,207
ペー
ジ (19) 同上,209
ペー
ジ (20
) 同上,91
ペー
ジ (21
) 同上,
38
−
39
ペー
ジ(
22
)亅ohn Friedmann,
Empowerment
The Politics of Alterna[ive Development.
Blackwel],1992
(邦訳r
市 民・
政府・
NGO 』