講演録
〔書女医雄4謝巻平醗塑蒲〕
現代っ子の精神保健一箸登校について一
神奈川県児童医療福祉財団 小児療育相談センター所長 東京女子医科大学 小児科非常勤講師 アメリカ ノースカロライナ大学医学部精神科臨床教授 サ サ キ マサ ミ佐 々 木 正 美
(受付 平成5年6月28日) きょうは,こうして皆さんのお集まりでお話を させていただく機会を与えられましたことを大変 光栄に思います. 今日では,ごく普通の子供が,ごく普通に育つ ことが大変むつかしい時代だと児童精神科の医師 として思いますので,広く精神医学のほうから小 児科学臨床をなさる皆さんに,新たな視点を少し でもお与えできれぽと思います. 不登校には,これがひとつの原因だということ が,な:かなかございません.おそらく今日の私た ちの時代の文化が持っている様々な要素や側面が 影響していると思います.そういう問題を幾つか の観点から御案内してみたいと思っています. 1.豊かさと他罰性,そして人間関係の稀薄化 先年,お亡くなりになりましたが,筑波大学で 臨床心理学を研究していらっしゃいました我妻先 生1)は,文化人類学にも大変幅広い知識や御経験 をお持ちでございましたが,よく私たちにこうい うことをおっしゃいました.文化人類学の方面か ら人間ということを考えますと,地球上ほとんど 至る所にいろいろな:種族,民族,いろいろな人間 が住んでいるわけでありますが,経済的,物質的 に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど,外 罰性とか他罰性という感性を強く持っていると言 われます(表1).外罰,他罰というのは,何か不 愉快なことがありますと,自分以外の人を罰した 表1 今日の社会心理的背景 1)経済的・物質的豊かさと「外罰性(他罰性)」 vs。内罰性(自己罰性) 2)過密社会と「人間関係の稀薄さ」 vs.過疎性と人間関係の濃密さ 3)そして他者(周囲の人)の欠点・短所への過敏さ vs.長所への気づき くなる,そういう感情,感覚,感性のようなもの であります.人のせいにしたくなるとでも言いま しょうか.卑近な例を申しますと,仮に幼い子供 の手を引いて自分の家の周囲を歩いていて, ちょっと親が心の隙を作ったときに,子供が親の 手を振り払って,ちょろちょろ歩いていって,こ ろんで,運悪く道の端のどぶ川へ落っこちたとし ます.この場合,「ああ,しまった,いけない.」 と思うだけで済ませれば,それは自己罰であり, 内罰でありますが,同時にこのどぶ川の管理責任 老は誰だろうという感情が沸き上がったとしま す.こういう人通りの多いところのどぶ川をオー プンのままにしておくというのは許しがたい,こ の道路とどぶの管理責任者は誰だろうという感情 に自分が支配されたとしますと,この部分が外罰 であり,他罰であります.経済的に,あるいは物 質的に恵まれない社会に住んでいる人の場合は, おそらくこんなときに,こんな外罰的な感情はわ き上がらないというわけであります.豊かさと外 Masami SASAKI〔Kanagawa Day Treatment and Guidance Center for Children:Department of Pediatrics, Tokyo Women’s Medical College:Department of Psychiatry, University of North Carolina at Chapel Hm〕:Mental health considerations in today’s children罰性,他罰性.貧しさといわぽ内罰,自己罰とい う感情が結びつきやすい.これは,人類としての 特性だそうです. 次いで,過密社会にいる人ほど人間関係が希薄 になりやすいというのです.反対に過疎地の人ほ ど人間関係が濃密です.近隣や友人や親戚,その 他の人々との人間関係が濃厚である.過密社会の 人ほど人間関係は希薄になりやすい.これも,人 世としての特性だそうであります.この2つ,豊 かさと過密さというのは,同時並行しやすい人間 社会の現象です.先年,私が札幌へ当地の教育委 員会のお招きで伺ったときに,ある指導主事の方 が,こんなことをおっしゃいました.北海道全道 では,人口はじわじわと減っているそうでありま すが,札幌の人口は急増中であるとおっしゃって いました.バブルがはじける以前の話ですが,豊 かさというのはそのように人口を過密にしゃすい ということです.一極集中的にしゃすいというこ とであります. 私は,今三人の男の子の父親です.二人が大学 生で,一人が高校生ですが,大学の受験期前後の 子供たちを持っておりますと,そういう様相がよ くわかります.上の二人の子供たちが受験してい るとき,すなわちバブルがはじける以前の大変に 経済的に景気のいい時期は,東京周辺首都圏の私 立大学の入学競争が大変激烈でした。地方の人も, どんどん東京へやってくるわけです.そうして, 地方の国立大学がすいているという状態であった ようです.ところが,このバブル経済がおかしく なって,少し不景気風が吹き「はじめますと,あっ という間に東京の私立大学の競争倍率は減ってき たのだそうです.そして,地方の国立大学が息を 吹き返すみたいになるわけです.豊かさというの は,どこかへぱっと人を集めるんですね.不景気 になると,地方へ散らばっていくという人間の特 性があります. 豊かさと過密さというのは,このように関連し やすいものだそうでありますが,東京などはその 最も典型的な場所であろうかと思います.その両 方が合わさりますと,私たちは自分の周囲にいる 人に対して,その人の持っている長所よりは短所 のほうにセンシティブになると言われます.弱点 や欠点,短所のほうが気になってしかたがなくな るということです.こういうことが人間関係をさ らに希薄にしていくことになるのだろうと思いま す. 貧しさと過疎化というのは,特に過疎というの は相手の人の長所のほうに感性を働かせやすくす るということです.こういう人間の,あるいは人 類のとでも言いましょうか,持っている感性ある いは特性のようなものは,他人との関係だけでは なくて,夫婦の間でも,親子の間でも,同じよう に認められるのだそうであります.今日精神医療 をやっていますと,家庭内暴力事件というのに非 常にしぼしぼ遭遇します.今日では腕力が逆転し ますと,親子の間に親が子供に服従せざるを得な いという場面がしばしぼあります.腕力の強い方 が勝ちでして,子供が幼いときには親の方が支配 していますが,子供の腕力のほうが親を上回るよ うになりますと,子供が支配し始めるという家庭 が牟くさんあります.そのように相手の弱点,欠 点のことが大変気になりやすく,しかも野守的に なるということですが,さらに相手の長所への気 づきというのがなかなかむずかしくなるというの です.こういう今日の心理的な社会背景を,私ど もは心得ておく必要があろうかと思います. 2.基本的信頼感と自律性 次いで入間が成熟していくプロセスですが,仮 にエリクソソ2)のモデルを表2に示しました.人 間には,それぞれの時期に成熟していくための, あるいは発達していくための主題があるというこ とです.かいつまんで申しますと,乳児期には子 供とい.うのは豊かな基本的な信頼感を育てられな ければならないということです.母子一体として いるときに,その一体感がしっくりくれぼくるほ ど,十分であれぽあるほど,子供の中に人を信じ る豊かな信頼感が身についてくる.今日幼稚園, 保育園などを私ども巡回することが多々あります し,あるいは市町村別に幼児保育,あるいは乳児 保育している保育者との勉強会のような場所によ くお付き合いをしますが,子供たちが10人います と,人を信じる力,そういう感情の豊かさや乏し
表2 人間の成熟 1)身体の成長 e.g.首の固定,寝がえり,犯行……歩行 2)精神心理機能の発達(E.H. Erikson) a)乳児期:基本的信頼感(不信) ∼望んだように愛される b)幼児期:自律性(恥と疑惑) ∼教えて待つ c)児童期:自発性(罪悪感) ∼“いたずら”の実験的・創造的意味 d)学童期:勤勉性(劣等感) ’ ∼友だちから学ぶ・友だちに教えることの 意味 e)思春期と青年期:アイデンティティ・自己同一性(そ れの拡散) ∼価値観を共有でぎる仲間の意味 f)成人期:親密性(孤立) ∼生産性の原動力 9)壮年期:世代性(自己陶酔) h)老年期と円熟期:自我の統合(絶望) 3)社会的存在としての人間になるため a)ソーシアル・レフアレンシンダーsocial referenc・ ing一の感性(R, Emde) 生後6ヵ月から1歳半(2歳)の育児 b)遊びが育てる社会性(Vygotsky) 規則と役割 責任と感動 共感と道徳性・倫理観 さというのは,十人十色であることがわかります. 基本的な信頼感,ベイシックトラストとエリクソ ンは呼びましたが,これは乳児期に最も豊かにそ の感性が育つというわけです.人を信頼するとい うことは,自分が望んだように愛されること,あ るいは十分な母子の一体感を経験することによっ て育てられるとエリクソンは言っております.今 日の親は,しばしぼ子供の望んだような愛情では なくて,親が望んでいるような愛情のかけ方をす るわけです.時間があれぽ,後ほど触れてみたい と思いますが,子供の望むような愛情のかけ方を 乳児期にする.これが十分であればあるほど,子 供は自分自身の安全感と周囲の人に対する信頼感 を豊かに持つということであります. もう30年あまり前に欧米のいくつかの乳児院で ある実験が行おれました.深夜に授乳するのがい いのか,そうでないのかということです.今日で の決定的な結論は,授乳するほうがよいというこ とです.赤ん坊が望んだ場合には,授乳したほう がいいのです.当時は議論が専門家の間でもあっ たようであります.乳児といえども,現実を知る べぎであって,過剰な保護をすべきではない.非 現実的な期待を抱く習慣は身につれるべきではな く,、深夜には授乳はされないことを早くから理解 することが望ましい.そういう現実認識を早期か ら身につけることが,本当の意味で自立につなが る云々ということを信じた学者もありました.け れども,そうではないという人ももちろんいたわ けです.その結果,子供たちを無作為に二分して, 望んだ乳児に深夜に授乳をする群と,望んでも与 えない群とに分けて,その後ずっとフォローアッ プしていったリサーチがあります.それによりま すと,深夜に泣いても授乳はしないと乳児院で決 定して,一貫した対応をしますと,早い子は3日 くらい泣くだけで,翌日の朝まで泣かないで待て るようになるそうですし,一般には1週間前後で ほとんどの子が泣かなくなるようです.2週間を 超えて,なおかつ要求をし続けるという子供は, むしろ例外的にしかいないということがわかって まいりました.やったり,やらなかったりすれば 別ですが,一貫して与えなければ,そういうこと なのだそうです. そこで,翌日の朝まで泣かないで待てるように なった赤ん坊は,忍耐強くなったのかどうか,あ るいは現実認識ができたのかどうかということで あります.その後子供のフォローアップをしてま いりますと,忍耐強くなったのではありません. 全く逆でして,ギブアップしゃすい子供になると いうのです.直ぐ努力を放棄する子供になるわけ です.集団で見てまいりますと,そんなふうなパー ソナリティーの違いがわかってまいります.赤ん 坊には,努力の方法というのは泣くこと以外にな いわけでして,そういう根気を簡単に投げ出すと いうわけです.要するに,困難にぶつかったとき に直ぐあきらめてしまうということがわかりまし た.そして,同時に周囲の人に対する漠然とした 不信感と自分自身に対する無力感,自己不全感と いうふうな感性を身につけてしまうということで あります.
要するに望んだことを,望んだとおり十分にし てもらえた子供のほうが,人を信じる力と自分を 信じる力とを同時に豊かに身につける.要するに 人を信じる力と自分を信じる力,すなわち自信の ようなもの,あるいは意欲のようなものでありま すが,これは表裏一体のものであるということが わかってまいりました.したがって,母親を信じ る力が弱いということは,母親以外の人を信じ.る 力ももちろん弱いですし,自分自身を信じる機能 も身につきにくいということであります.そのよ うな意味合いで,ベイシックトラストの育ちのた めには,乳児期に乳児がどれくらい自分が望んだ ことを望んだように十分してもらえたかというこ とが,とても大事なことであります. 次いで幼児期の前半のことを申します.エリク ソンが自律性と呼びましたオートノミー,あるい はセルフコントロールという意味合いでありま す.自分で自分を律する.衝動をコントロールす ることに象徴される,ある機能といいましょうか, 成熟であ.ります.この自律性が育つ時期というの は,子供が最初のしつけに出合う時期でありまし て,トイレットを中心にいろいろなしつけをされ る時期であります.しつけというのはある意味で は,禁止と強制であります.こうしてはいけませ んという禁止でありますし,こうしなけれぽなり ませんという強制でありますが,禁止や強制の事 項をいろいろな形で親は子供に教えていくわけで あります.手づかみでご飯を食べてはいけない. スプーンを使いなさい.トイレットはでぎること ならぽ,パンツやオムッの中にするのではなくて, このオマルの中に,あるいはトイレに行ってする ということを,こちらは期待して教えるわけであ ります.そのときに,とても大事なことは,こう してはいけないんだと,こうしなけれぽいけない んだということを根気よく伝えることがしつけの 重要な部分でありまして,しつけはそこまでがす べてだと言えるくらいです.決して早くからでき なけれぽならないということを,強く望むのでは なくて,いっからできるかは子供まかせにしてあ げるというところに子供の自律性が育つ理由があ るというわけです. 私は秩父学園という重度の精神薄弱児施設で仕 事をしたことがありますが,不慣れな養育者はし ぼしぼ定時排泄をするときに,出るまで便器から 離れてはいけないということをやるわけです.こ れは最も子供の自律性の発達をそこなうもので す.自律性を育てる営みとしては,最もいけない 方法であります.子供からすれぽ,他がコントロー ルするのですかり他律であります.ここでオシッ コをするのです,スプーンを持ってご飯を食べる のですということを子供に伝える必要があります が,いっからあなたがそれをできるようになるか は,自分で決めればいいのですという態度が大事 なのです.しつけを通して自律性を育てるという のは自分で自分の衝動をコントロールできるよう にすることです.何をしなければならないかとい うことは,根気よく伝え続けまずけれども,いっ からそれを子供が意欲的に取り組むかということ に関しては,子供まかせにしてあげるのがいいと いうことです.一こ口申しますと,教えて待つと いうことです. この自律性というのは,実はそれ以前のいわぽ 発達課題が克服されていると,スムーズに育って いくのです.エリクソンは決して発達課題とは言 わないで,クライシスすなわち危機と言うのです. 健全に成熟していくために,それぞれの時期に乗 り越えなけれぽならないある危機的な状況,危機 的なテーマがあるという意味合いで危機と呼んで います.クライシスと言っているのですが,日本 語にして危機という意味合いは,どうも馴染みに くくて,むしろ発達や成熟へのその時期折々の課 題だと言ったほうが私たちにはしっくり来るよう に思いますので,よく保育老との勉強会では課題 と申し上げるのです.基本的な信頼感を他人に対 しても,自分に対してもしっかり持っている子供 のほうが,次の自律的な活動に取りかかりやすい. 前の危機的な状況を,あるいはいわば成熟への課 題をしっかり消化している子供が次の段階に行き やすい.逆にそうでなけれぽ,次の段階に行けな い,こう言ってもいいかもしれません.エリクソ ンは,多人種・多民族国家のアメリカで,いろい ろな文化,風習,伝統,宗教などを持っているそ
れそれの家庭の中で育っている子供たちの成熟の プロセスを詳細に観察して,健全に育つための エッセンシャルな不可欠なテーマを共通して抜き 出してくると,乳児期には信頼の問題があり,幼 児期早期には自律の問題があると言っているわけ です.どんな文化的な背景,どんな宗教上の背景, どんな民族的な伝統文化を守りながら育児をして いても,子供が健全に育っている場合には,基本 的に共通したエッセンシャルなテーマがクリアさ れているものであるということを言っているわけ です. 3.自発性,実験や創造のもと 次いで幼児期の後半とでも言いましょうか,児 童期と仮に書いてありますが,この時期には自発 性というものを育てられることが望ましい.ある いは重要な成熟へのテーマになるというわけであ ります.すべてこの時期の子供は,自分から何か に働きかけることによって,そのものの性質を知 ろうとする時期でありまして,よく動きます.絶 えず動いていると言ってもいいですね.疲れを知 らない時期,あるいは失敗を恐れない時期.ある いは失敗を直ぐ忘れる時;期だとか,疲れが直ぐ癒 される時期だというふうに言われます.好奇心が 旺盛,すべてのものに対して自ら感覚運動的に働 きかけをすることによって,ものを考える時期だ といってもいいのかもしれません.例えば斜面の 性質については登ったり,下りたり,滑って転がっ たりして知る.高さの感覚は,登ったり,飛び下 りたりしてみて知る.精神活動を含めてすべての 営みが直接行動によって行われる.すべての思考 力,物を考える力も,行動によって獲得していく 時期であります.親から見ると,あるいは周りの 保育者から見ると,ろくでもない悪戯ぽかりして いるように見えるわけです.斜面を登ったり,下 りたり,あるいは滑って転がったり,洋服を汚し たり,頭に瘤を作ったり,体のあちこちに擦り傷 を作ったりということを何度も何度も繰り返すわ けです.こういう子供たちの行動に関して,それ らをどれくらい根気よく認めてあげられるかとい うことが,この自発性,spontaneityというものを 育てるための基本要件だとエリクソンは言ってい ます.そのこととよく似たことについてピアジェ は,こんなことを言っています.科学の第一線に いて,未知の分野を開拓している科学者が,未知 の分野を開拓している研究者が,同じ条件下で同 じ実験を何度も繰り返しても同じ結論を得たとぎ に,そのことが真理だというふうに確認していく 作業と同じことを子供はしているということであ ります.すなわち,子供は昨日は登れたけれども, 雨上がりの斜面になると滑って転がってしまい登 れなくなってしまう,洋服を汚してしまう.晴れ て,乾いているときなら僕は登れるんだというこ とを何回も成功したり失敗したりしているうちに 理解していくわけですね.登れるときと,登れな いときというのは,斜面にどういう性質があるの か,あるいはどのくらいの勾配だと,どうなのか と,どれくらいの川や溝なら飛び越せて,どのく らいときに落っこちてしまうのかというようなこ と等々でありますが,大人から見れば一見,わか りきっていて,ろくでもないことであります.と ころが,それを何度も何度も繰り返して,環境や 対象物の性質,同時に自分の体力,知力,能力と いうようなものを確認していくわけです.それは 科学者が新たな真理を究めていく行為と質的には 全く同じだということをピアジェは言っているの です.「知能の誕生」などの書物の中でも言ってお ります.そういうことが十分子供に経験,体験さ せてあげられれぽ,子供の中に自発性というのを 育ててやることができる.そのことは創造的に生 きるための原動力になるものです.そのためには, 前の段階の自律性,自分で自分の衝動をどれくら いコントロールすることができるか,この発育課 題ともいうべき危機を乗り越えていることが重要 なことであるということです.今日の幼児教育や 幼児保育の場,あるいは幼児を育てる家庭や地域 社会の環境が,こういうことを子供にどれくらい 十分にやらせてあげられるか.あるいはそれ以前 に乳児期に親とか,親代わりの育児者がどれくら い子供に豊かな信頼感とか自律性とかいうものを 育ててやれるような育児ができているかどうかと いうことです.今日では,乳児保育をする保育園 がたくさんありますので,そういうところの保育 一E457一
者との勉強会では,こういうことを繰り返し申し 上げるわけです. 4.勤勉,その真の意味 次いで学童期でありますが,エリクソンの言葉 でいいますと,我々の文化圏に住む子供の場合に, 公教育,public educationが始まって最初の数年 間に相当する時期ということです.なぜエリクソ ンがこんな:言い方をしたかと言いますと,世界中 のいろいろな種族,民族の子供たちを調べている わけでありまして,ジプシーの子供であるとか, 遊牧民の子供であるとかは,学校へは行かない人 もいるわけですから,必ずしも小学校時代ではな いわけですね.我々の文化圏に住む子供について いえば,ちょうど公教育が始まって最初の数年間 に相当する時期,これは小学生時代に相当する時 期なのですが,この時期に勤勉性というものを身 につけるわけであります.勤勉さの最もベイシッ クな感性や習性は,小学校時代の数年間に獲得す るということだそうです. 勤勉ということは,どういうことなのか。エリ クソンは,社会的に期待される活動を自発的に, 習慣的に営むことだと考えています.自発的であ り,習学的でなけれぽならない.ある日突然やっ て,翌日できないというのは,勤勉とは言わない. 一夜漬けの勉強みたいなものでありますが,平素 からコンスタントに習慣的に社会的に期待される 活動に取り組めるかどうかということが,勤勉さ の定義のようなものであります. それでは,そういう感性を,あるいは習慣を子 供たちはどのように発達課題のようにして身につ けていくかということであります.社会的に期待 される活動という言い方をするもの,これも地球 上の至るところ,文化や風習などによって期待さ れる行為や営みが違うわけですね.それでエリク ソンは,そういう表現をしておりますが,いずれ にしろその子供の所属している社会や文化圏で, 社会的に期待される活動を自発性を持って,習慣 的にどれくらい営めるかということです.そこで そういうことが十分身につくためには,こういう 要件があると言っています.仲間と道具や知識や 体験の世界を共有し合わなければならない.友人 と道具とか,知識とか,体験の世界を…です.こ の道具の内容は,それぞれの社会文化によって異 なるのですね.知識の内容もそうです.道具や知 識とともに体験の世界を,仲間と共有し合うこと を十分しなければならない.仲間が大切なのです. ところがある雑誌,Psychology Todayというポ ピュラーな雑誌で,記者のインタビューに答えて, ちょうどそこに該当することに関して,仲間と道 具や知識や体験の社会を共有し合うということ は,砕いて言えば友達から何かを学ぶこと,友達 に何かを教えることだというのです.こういう経 験をどれくらい豊かにするかどうかということ が,子供の勤勉さを育む上で決定的に重要な要件 であるとエリクソンは言っているのです. 今日,私どものところにやってくる様々な子供 たちをよく見てみますと,不登校に限りませんが, 精神保健の悪くなってしまった子供たちは,大人 からしか物を学んでいないところが顕著です.エ リクソンは大人から物を学ぶことに価値がないと は一切言っていません.それは,勿論価値のある ことであります.けれども,この時期の発達や成 熟課題を十分に消化していくために不可欠の要件 というのは,友達からものを学ぶことであり,友 達に自分の物を分かち与えることなのです.こう いう経験を十分しなければならなくて,教え合う ことは内容よりも量が大切だということも言って います.どれくらい多くのことを友達から学んだ か,どれくらい多くのことを友達に与えられたか ということです.この経験を十分にしないと,私 は,人間は優越感と劣等感を体験しながら生きて いくということになるように思います.能力の高 い友人とか,クラスメートに出会ったときに,そ の友人を尊敬できるか,その友人に共感できるか ということです.現代っ子は,そういう気持ちに ならない子が多いと思います.そして嫉妬とか, 羨望とか,敵意とか,その裏返しとしての劣等感 を強く意識してしまう.あるいは逆に自分のほう が何か優れているときに,健全な誇りとか,自信 とかいうことではなくて,優越感を感じてしまう. 劣等感と優越感というのは表裏一体の感情であり まして,劣等感のない人に優越感というのはない
わけです.優越感のない人には,劣等感ももちろ んないわけです.人間は,だれもがいろいろな意 味で程度の差はあれ,そういう感情は持っている のですが,それが過度に強調されて子供の中に 育ってしまうということは,ちょうどこの勤勉さ を習得しなけれぽならない小学校時代に,友達か らどれくらい豊かなものを学び得たか,同時に友 達にどのくらい多くのことを分かち与えたかとい うことに関連することなのです.要するに共感的 な相互依存的な生き方を,どれくらいでぎたかと いうことに尽きるわけです.こういう経験が学童 期に,とても大事であるということをエリクソン は強調していると思います. 5.思春期とアイデンティティ 次いで思春期でありますが,この時期の成熟の テーマは,皆さん御存じのアイデンティティーの 確立であります.アイデンティティーという概念 や言葉の創造でエリクソソは有名だと言ってもい いくらいです.自分という人間の個性や特質を問 う時期です.identify, identificationという言葉か ら出てきたエリクソンの造語であります.自己同 一性とか,自我同一視とか,いろいろな言葉で表 現されまずけれども,自分というのは一体何だろ うということを自覚する,あるいは洞察すると言 いましょうか,自分の本質を知り,他の人との違 いを知るということでもあります. このアイデンティティーの確立には,今度は価 値観を共有しあえるような友人が必要です.それ はなぜかと申しわすと,思春期に,アイデンティ ティーを確立するということは,自分を客観的に 見つめることでもあります.幼児期は,主観の世 界にいます.大きくなったら何になりたいという ことを問いかけますと,もう子供は自由に答えま す.オリン・ピックの選手になbたい.会社の社長: さんになりたい.新幹線の運転手になりたい.自 由に言えるわけです.言えると同時に,幼児はも う将来はそのようになれると思っています.それ は主観の世界にいる非常に幸せな時期であります が,アイデンティティーを確立するということは, 客観的に自分を洞察する力が身についてきて,初 めて可能になるわけであります. ですから,思春期の若者は,幼児期と決定的に 違いまして,鏡をよく見るようになるわけですね. 自分が客観的にどんな様子をしているんだろうか ということが強い関心事になります.けれども, 最大の関心は内面でありまして,自分の内的な世 界がどんなになっているんだろう,あるいはどん な人格を持っているんだろうもいうことを客観的 に見つめようとするわけです.その客観的に自己 を洞察するための鏡の役割が,友人達であります. 自分が親しくしている友入の自分に対する感想と か評価をたくさん寄せ集めて自己というものを 作っていくわけです.ですから,外形については 鏡でよいのですが,内面については友人が必要な んであります.自分に対して,安心できるような いい評価をしてくれる友人というのを持つ必要が あるわけです.ですから,思春期の若者というの は,それまでの小学校時代の仲間とは違いまして, 価値観を共有できる友人が必要になるのですね. 趣味や思想信条,主義主張,価値観などが共有で きる,あるいは深く共感できる友人を強く求める ようになります. したがって,子供たちは誰とでも遊ぶというこ とは,思春期になるにつれて,しなくなります. ところが小学校時代,とりわけそれも低学年の頃 であれぽあるほど,子供はだれとでも遊べる子供, どの子ともコミュニケーションできる少年が健全 でありますが,思春期になれば価値観を共有でき る,深く付きr合える選ばれた友人をしっかり持つ ということがアイデンティティーを形成するため にとても大事なことになるのです.けれども,思 春期のそういう発育課題というのは,それまで広 くいろいろなタイプの友達とコミュニケーション をしておく体験によって,友人を選ぶことができ るし,自分が選ばれて仲間に入ることもできると いうわけです. その広く友達から学ぶとか,自分を友達に分か ちあえるとかいう経験は,勤勉さの獲得と表裏一 体のものでありまして,勤勉さというものには自 発性があって,習慣性がある.その自発性という ことは,実は幼児期の後半,児童期に獲得してお くべきことであり,児童期の自発性というのは,
幼児期の前半の自律性というものがクリアされて いることで習得が可能です.さらにま.た自律性の 中身でセルフコントロールということも,自分に 対する確信のようなもの,基本的な自他に対する 信頼感が前提として必要だということで,次々に 前の成熟課題を乗り越えて,次の発育主題が達成 されてくるという手順があります.したがって, それらを乗り越えられないということについての 問題,これを危機,クライシスという概念と表現 でエリクソンは提言しているわけで,そういう発 育や成熟のプロセスが順調に進展するか,しない かということが青少年の精神保健問題の基本にあ ります.結局,不登校の子供たちによっては,こ ういうズロセスがうまく来ていないと思われる事 例がよくあります.大人からはよく学んでいる. だから,知識や技術はたくさん持っているおだけ ど,仲間との心理的な距離がとれない.共感的な コミュニケーショγができない.あるいはクラス .の中に自分が存在すべき精神的な場が見つからな い.そういうことが続きますと,一種の対人恐怖 のようになってきます.その結果,強迫神経症み たいになってきます.その後のライフサイクルに ついても,実はエリクソンは成人期と・か,壮年期 とか,老年期についていろいろ言っております. 5.親密さと生産性,そして世代性を生きる 成人期というのは,詳しくお話しすると,なか なか面白いテーニマがあるのですが,一言だけにし ておきます.若い成年期と言ってもいいと思いま すが,よい精神保健の状態で成熱のプロセスをた どるためには,親密性というテーマがとても大事 である.自分を賭けることができるほど,自分を 賭けてしまって悔いがないと思えるほどの対象を 見つけることが必要である.あるいは親密性と生 産性とも言っています.価値をこの世に作りつつ あるのだという実感です.この2つが重要な若い 成年期の成熟課題です.自分を賭けることができ るほどの親しい人たちに恵まれるということで, そのひとつのテーマが,結婚ということです.結 婚も,ある意味では賄けのようなものです.自分 をかけても悔いがないというほど信頼ができ共感 ができる友人とか,知人とか,人生のパートナー に恵まれること,それが生産性の原動力になるの です.ですから親密性と生産性というものが,こ の時期の生ぎ方の大事なテーマなのです.余分な 解説は省かせていただきますがこの場合の生産と は,物質的なもののみでなく,精神的生産も含ま れます.思索とか芸術とか育児なども重要な生産 活動です. 次いで壮年期であります.この時期は,世代性 をテーマにして生きることが大事だと言います. 世代性というのは,前の時代から先人が築き上げ てきたものを受け継いで,そして自分の時代に新 たなものをプラスαして,次の世代に引き渡して いけるという認識でして,次の世代に残していけ るものを,自覚できるという生き方です.先人文 化や歴史や伝統などの業績を引き継いで,自分の 時代に修正,改良,加筆などの発展的なものをプ ラスして,そして次の若い世代に譲り渡していけ るという実感を持った生き方ができること,それ が世代性を生きているということなのです.三世 代家族とか,昔の村時代とか,そういう時代には こういう生き方は壮年期の人にとってとてもでき やすかったわけですが,現代は世代間の断絶がひ どくなって,世代性をテーマにした生き方が困難 になり,壮年期の人たちの精神保健は悪くなりま した. 最後が老年期で,人生の円熟期です.成熟や円 熟のためのテーマは,自我の統合と言われます. 悠久と続く歴史の中で,あるいは際限もなく無限 大のように思える宇宙の中の一点のような地球の 上で,それこそ瞬間的に終わる自分の人生に,自 然との関連で秩序を感じる.エリクソンはそうい う言い方をしているのですね.悠久と続く宇宙の 歴史,あるいは地球の歴史の中で,あるいは無限 に広がる宇宙の中では一点のような地球の上で, 瞬間のような百年以内の人生に,豊かな秩序を思 い出して,納得するということで,すなわち自分 の生涯を生き甲斐のあるものだったと自覚して, その終結することを受け入れることです.これを 自我の統合と言っております.人生の最終段階で, 自分の存在を,肯定的にとらえること,一言で言 えばそういうことです.ちょうど年割リクソソご
自身が,この時期だろうと思います.昨年,私ど もの療育センターのスタッフがエリクソンに手紙 を書きましたら,もうお返事ができるような状態 ではないと秘書の方から手紙をいただきました. もうほとんど寝たきりになっておられるそうです が,エリクソン自身,今ちょうど人生の統合のプ ロセスにおられるわけです. こういうふうな成熟や発育のテーマが,順調に 進展や克服をして来ない場合に,さまざまな精神 保健上の問題が出て来るように思います.不登校 の子どもたちを見ていますと,社会的な存在とし てクラスの中で人聞関係を通して自分の位置づけ がうまくいかなくて苦悩していることがわかりま す.劣等感が強い.あるいはあることに強い優越 感を持とうとする子供もよく見かけます.だけど, 人との共感的なコミュニケーションができない. 本当の意味の自信がない.同世代の仲間に共感的 な気持が抱けない.こういうふうなことで,いろ いろ苦しむわけですが,これまでお話してきたよ うな意味での発育と成熟のプロセスが,順調にこ なかった結果と言えるかと思います. 6.ソーシアル・レファレンシング その他に,今日ここにちょっと皆さんに御参考
にと思ってお手元のメモに書いておきました
social referencingということについてお話して おこうと思います.ロバート・エムディというア メリカのデンバーにありますコロラド大学の精神 科の教授がいます.40代の若い教授で,乳幼児精 神医学を専門としている今日その領域では,高名 な人です.そのエムディーがsocial referencing の感性ということを言い始めました.例えば私た ちが社会的なルールを守るのは,なぜだろう.あ るいは守らない人がいるのは,なぜだろうという ことを考えてみます.ひと言でいいますと,守る 人には,social referencingの・感性が豊かに育って おり,守れない人には,social referencingの感性 が欠落しているのだということです.このsocial referencingというのは,読んで字のごとくであり ます.社会的にいろいろなことを参考にしながら, 引用しながら,生き「ていくという感性であります. 生後6ヵ月くらいから1歳半,あるいは高々2歳 くらいまでの間が最もよく育つとエムディは言っ ています.ハイハイとか,よちよち歩きの時期で ありますが.子供が親から離れて,好奇心や探索 心旺盛によちよち歩いていく.あるいは,ハイハ イしていく.そして見たことのない物に出くわす と,「おやつ/」と思いますね.自分が体験したこ ともないものや状況に出くわしたときに,不安を 持って振り返る.そのときに自分をフォローして くれる温かい視線に,いつも恵まれるかどうかと いうことが,social referencingの育ちを豊かにす るかどうかということであります.それは怖いか ら,手を触れてはいけません.それは大丈夫です よ,手で持って遊んでごらんというふうにです. ハイハイして行ったら,その縁側にかぶと虫が はっていた.あるいは猫が通りかかった.あるい はよちよち歩いていったら,目の前に水たまりが あった.あるいは角をちょっと曲がったら,大き な人だかりがあった.どんなときでも子供が未知 のものに出くわしたときには,不安を感じて,「ど うしょう.」と思って振り返る.そうしたときに自 分のことを見守っていてくれる温かい視線にいつ も恵まれながら育てられてきたかどうかというこ とだというわけです.好奇心に伴う不安をこのよ うにして解消されながら,暖かい心のまなざしを 背中に感じ続けて育てられることが,social refer− encingの感性を育てられるために基本的に重要 なことなんだとエムディは指摘しています. もう1つの側面としては,今度はもう少し大き くなって,2歳近く子供たちがなってまいります と,それまでできなかったことが初めてできたと いう経験をすることがあるわけです.例えばボタ ンが初めてかけられた.今までお母さんにやって もらっていたのが,初めて自分でボタンをかけら れたというようなことが起こり始めるわけです. そのような時にも,子供は必ず振り返りますとい うわけです.今度は先の場合とちがって,不安で 振り返るのではなくて,誇りの気持ちを持って, 「どんなもんだ.僕,できちゃった.」というわけ で,「見ててくれたでしょうね.」という気持ちで 振りかえったりあたりを見まわしたりするのです が,その振り返ったとぎに,自分をフォローしていてくれる人がいたかいなかったかというわけで す.繰り返し繰り返しそういう経験をするのです が,情緒的に共感し合う経験を繰り返してきたか そうでなかったか,情緒的にプラスの経験をする か,マイナスの経験をし続けるか,そういうこと によって実はsocial referencingの感性というも のが育つか,育たないか,決定的に大きな相違を 示すということをエムディ7は言っています.い ろいろな施設で,乳児院や養護施設や家庭や,そ の他のところで育った多くの子供たちの追跡を長 くやってきて,そういう感性,入間としての重要 な感性の存在証明をしたわけです.子供が不安を 持ったとき,あるいは誇りを持って人の合意や賞 賛を求めようとしたとき,その不安や誇りの感情 を共有し合ってあげられるような温かい気持や眼 差しにいつも恵まれて育つか,あるいは誰も自分 を見守ってくれる人がいなかったという経験を繰 り返して育ったということによって,社会的な ルールをきちんと守ることができるようになるか どうかということが大きく左右されるというので す.社会の一員としての自覚の育ちは,基本的に はそのようなところにあるというのです. 要するにsocial referencingの感性というの は,こういうことだというのです.社会のルール を守る入と,守らない人がいる.いろいろな程度 に…,守る人というのは,自分たちは守り合って いるんだという誇りを分かち合う.そういうプラ イドを他の人々とシェアーすることができる感性 が育てられているということです.守らない人と いうのは,そういう誇りの感情をみんなと分かち 合えないということです.そういう共感的な感情 がないということでもあるのです.そのシェアー をするというのは,乳幼児期に自分を見守ってく れた人と共通の感情が育っているかどうかという ことです.子供の不安を自分の不安のように……, あるいは子供の喜びや誇りを我が事のように喜び 誇りにしてくれた人に,いつも恵まれながら育て られたかどうかということによって決まるのだと いうわけです.大きくなってから,その意味を説 いて理屈で教えても,そんな感性は身につくもの ではないとエムディーは強調しているわけです. 7.・遊びと人格 ここにビゴツキー4)の遊びが育てる社会性とい うようなことを書いておきました.ごゴッキーは 古い人で,過去の人であります.けれども,子供 の発達について大変に優れた論文を沢山書いてい ます.彼の「遊びと主体性」ということに関する 論文を読んだのでありますが,とっても素晴らし いと思いました.こんな一場面があるんですね. 幼い子供が遊んでいる.電車ごっこをしている. するとそのなかのAという子が,「僕が運転手を やる.」と言ったのです.そうしましたところ,み んなはそれを承認した.次いでBという子が,「僕 が車掌をやりたい.」と言ったよところが,今度は みんながそのまま承認しなくて,Cという子が「僕 だって車掌をやりたい.」と言いはじめた.さらに BとCが車掌をやると言うのを見ていた,Dとい う子まで「僕も車掌をやりたい.」と言った.そこ でだれが適任かということで,みんなで議論した のですが,結局くじ引きになった.くじを引いて B君が車掌のくじを当てた.A君が運転手をやる というときには,誰も対抗馬が出なかったのに, B君のときは出た.だけどB君は,くじを引き当 てて車掌になった.次いでC君が,「それなら僕は 駅長になる.」と言った.そうしましたら,最初に 運転手をやると言ったA君が,「みんなに聞いて おくけれども,運転手と駅長とどっちが偉いと思 う?」と,こう聞いたというんです.そこで子供 達は口々にそれぞれの意見を言い合ったというわ けです.中には,運転手をやると言ったりーダー 格のA君に,あたかも媚を売るようにして,それ は運転手のほうが偉いに決まっていると叫んだ子 供もいたというのですけれども,それぞれ子供達 は自分の分相応,その集まった仲間の中での自分 の立場や位置をちゃんと考えながら,主張すべき ことは主張するし,同調すべぎことは同調すると いうことをやっているというわけですね. ところがD君というのは,何にもなれなかっ た,そうしたら,「家に帰る」と言って,帰ってし まった.しかし暫くすると,そのD君がまたやっ てくるわけです. そこで,いろいろな問題があるわけですが,か 一E462一
いつまんで申しますと,今度やってきたときには 紙袋を下げてきて,お母さんが作ってくれたクッ キーを袋の中にいっぱい持ってぎたというわけで す.「僕は,お母さんが作ったクッキーをいっぱい 持っているから,レストランをやる.」と,こう言っ たわけです.そしてさらに運転手や車掌や駅長は, 仕事があるから食べに来られないんだと言ったと いうのです.それで大騒動になったというわけで す.けれども暫くした時,その仲間の一人が,運 動手だって,車掌だって,「非番のときをつくれぽ レストランに行けるんだ」と,こう言ったのです. それで「そうだ,そうだ.」ということになった. ところが電車ごっこが,いざ始まろうとしても, みんな一向に電車に乗らない.客も乗らないし, 運転手も走らそうとしない.よく見ていると,ビ ゴッキーの若い共同研究者が遊びを観察している わけでありますが,うっかり電車に乗っているう ちに,みんながレストランに殺到したら大変だと いう思いがあって,誰も電車に乗らない.そのう ちにたまりかねて,ある子がクッキーを配給にし てくれないかと,申し出たというのです.それで 配給制度にするわけです.数をやっと数えて,誰 に何個行き渡るかということをやって,ついに配 給制度にする.紙袋の端をちぎって,みんなにチ ケットを配っている.それで,みんなが安心して 電車に乗れるようになるわけです. ところが,そうしたときに子供たちはそれぞれ 子供のまま乗客になる子は誰もいない.最初にあ る子供が,「僕は宇宙飛行士だ.」というようなこ とを言った.それはどうきうことを意味している かというと,普段は宇宙飛行士なのだけれど,きょ うは宇宙飛行士の仕事が非番なので,電車のお客 さんになると言うわけですね.子供たちは,さら にみんなが「僕は消防士だ.」とか,「校長先生だ.」 とか,いろいろなことを主張しあって,そしてやっ と電車ごっこが始まったという,概ねこんなス トーリーなのです.本当に観察したことを上手に 書いているわけです. ビゴッキーと彼の後継者たちは,こういう遊び をたくさん観察して集めて,いろいろな年齢の子 供,たった二人きりで砂場で遊んでいる情景から, 大勢でスポーツに発展していく子供の遊びまで, さまざまな情景をたくさん詳細に観察して検討し て以下のような結論的な解説をしているのです. 子供の遊びというのは,好きなことをやりたい放 題好き勝手にやっているのでは,決してないのだ と.たった二人で砂場で遊んでいる子だって,二 人の間にちゃんとルールを作り合っている.すな わち遊びには,必ずルールが発生するものだとい います.そしてルールを守り得る子供だけが,遊 びに参加する資格を得るというのです.次いで役 割を必ずみんなが担い合う.しかも,その役割は 仲間の承認を得なければならない.僕が運転手に なってもいいだろうというわけです.どういうタ イプの乗客になると言う事まで,みんな仲問の承 認を得なければならない.そして,承認を得たら, 互いに責任を果たし合うということになります. 規則,役割が厳しくなれぽなるほど,遊びは緊張 の強いものになるのは当然です.しかし,その緊 張の大きさに比例して感動も大きくなるというこ とを,ビゴッキーらは指摘しているのです.です から,子供達は自分たちの能力や機能に合わせて, ぎりぎりいっぱいの制約をお互いに付け合って, そしてそれを達成するために最大の努力をしてい る.そういうことがとても不可能な幼い子がいた ら,特定例外を設けて,この子達はオミソだとい うふうなことを言らて仲間に入れて遊ぶ.いわぽ 福祉的な発想の起源かも知れません.要するにこ ういう遊びを豊かに経験しておくことが,倫理観 や道徳観を育て,規則を遵守し,役割や責任を果 たすという社会的ルールを尊重する社会人になる ために必要な基礎的要件だとビゴッキーたちは 言っているのです.この種の遊びを十分経験する ことなしには,健全な社会人にはなれないという ことです.現実に不登校と言われる子供たちは, こういう意味での遊びの体験が特に不足している と思います.さらにその上でsocial referencing の感性が育つような乳幼児期の育児を,正確にさ れていないように思えるケースが少なくありませ ん.エリクソンの言葉で言えば,信頼感から自律 性,自発性,勤勉さ,アイデンティティーの確立 というような人格形成のためのテーマを終了して
いくプロセスを順調に歩んでいないということが 言えますし,social referencing,あるいはビゴッ キーたちが言うような意味合いでの遊びが,うま く消化されていないとも思います. 私達,皆さんはおそらく今申し上げてきたよう なことは,子供の頃何ということなく自然にそれ ぞれの濡々町々で十分にやってきたのじゃないか と思います.十分自然に…….こういうことは, かつては家庭や学校で親や教師が苦労してやった ことでは,必ずしもありませんでした.社会が自 然にこういうことを可能にするような風潮や環境 をもっていたと思います. それから,本当は母性とか父性とか,今日の若 い父親母親のことについて,もっとお話をすべ きことが,いろいろございまして表3,表4の資 料も用意はして参りましたが今日いただいた時間 がこれで過ぎてしまいました.不登校と言われる 子供達を考えるときに,誰が悪い,これがおかし いというようなことを一面的に言っても正しくな いだろうと思います.学校の偏差値教育を批判し 表3 親や教師(大人)がモデルとし℃生きるには… 1)感謝・尊敬・共感・感動は人間関係のなかで育つ.人間関 係のなかでしか育たない. 2)豊かな人間関係のある生き方をするには… 近隣・親類・祖父母・友人の意味 3)友人や仲間の個性や能力に感動(尊敬)できる子どもに。 cf,嫉妬や敵意 真の競争の意味 表4 まとめ 1)勉強・スポーツ・稽古事などは指導者がいる. 2)思いやりの心はだれが教えるのか.誰がモデルになれる のか。 cf他罰的,希薄な人間関係,共感より競争,長所より 短所に敏感な人間関係の時代 3)多くの人と相互依存関係のなかで生きる,それが人間と しての自立.人に頼ることを教える.人から頼られるよう に育てる. cf.競争 4)人間としての平等と個性や個人差(能力差)の意味を実体 験として知る(感得する). 自分にない能力をもった友人と共感し合って生きる・学 ぶ経験の意味. cf,優越感と劣等感 ても,それだけでは視野の狭窄にすぎないと思い ます.母親の個人的な問題にすりかえることも誤 りでしょう.おそらく私が申し上げたいくつかの 単純な理屈以上に,もっとたくさんの社会的,家 庭的な要因に広く気配りをして問題を整理して対 応しな:ければならない問題が,たくさんあろうか と思います.これは,一人不登校の子供の問題だ けに目を奪われては,不登校児の問題も前進しな いだろうと思います.しかし子供達の心身症にし ろ,心因性反応性の病気にしろ,いるいはその他 様々な精神保健上の問題を揺るがす原因になって いるたくさんの問題や関連の現象などが,あれこ れ申し上げてきた一連の話のテーマの中に,たく さん存在しているのではないかと思っています. ご静聴くださいましてありがとうございました. 質疑応答 〔大澤〕先生,どうもありがとうございました.折 角でございますから,何か御質問があれば……. 〔長島〕ちょうど1年くらい前の雑誌が「楽しくな きゃ学校じゃない」という特集をしました.今の 先生のお話の中で,いろいろ思い当たることがあ りますが,自律,自発という問題があります.も .う一方,これも欧米から出た本で3年くらい前に 学校の教師が,なぜぼけるかと.’痴呆の中で,日 本もそうらしいのですが,学校の教師の数が非常 に多いということは,関連あるのか,ないのか, コメントをいただけますか. 〔佐々木〕学校の先生がぼけが多いというのは,知 りませんでした. 楽しくなけれぽ学校でないということは,ある 意味では真実だと思います.それは,授業じゃな いのですよ.休み時間とか放課後が楽しければ, 学校は必ず楽しいところであります.授業がよく わかり,勉強がよくできるということが,学校を 楽しくするものでは決してない.これはもう確か です.ところが,授業が面白くない.勉強が必ず しも好きでないということでも,学校は休み時間 が楽しかったり,放課後のクラブ活動が楽しけれ ば,間違いなく楽しいところでありますし,不登 校にはならないと思います.この逆は,しぼしぼ 不登校があるわけです.ですから,クラスで1,
2を争う,あるいは学年でトップを争うような秀 才の不登校とか,家庭内暴力というのは,ざらに あります.しかし,クラブ活動に熱中するとか, 休み時間を仲間と共感し合って過ごせるという子 供達の不登校というのはめつたにないわけです. 授業を楽しくというのは,これはなかなかむずか しいことではないかと思います.私も楽しい授業 の思い出なんて,ほとんど子供のときからありま せん.ところが,休み時間と放課後は,大変楽し かった.ですから,学校の始まるよりも30分も1 時間も前に学校に行って遊んでおりました.そう いう意味合いで,学校は楽しくなけれぽいけない というのは,本当だろうと思います. もう1つ,痴呆が教師が高齢になると多いのか どうか,これは知りませんでしたが,学校の先生 の子供に精神保健の悪い子供が決して少なくな い.あるいは敢えて多いと申し上げてもいいかと 思います.保育園に伺って,保母さんが保育にて こずっている子供達のベストテンを挙げてくださ いと言いますと,その中には必ず先生の子供が何 人もいます.これは1つには,子供にとって先生 という指示,命令調の人は学校だけでたくさんで して,家庭はお母さんとお父さんがほしいのです ね.そういうことがあると思います.医師である こともお気をつけいただきたいと思いますが,子 供から見ると,医師とか,先生とか,警察とかと いう人との体験は,あまり楽しくないことが多い のですね.したがいまして,私は子供を育てると きに,子供が小さいときは,例えば白衣を着てい る写真というのは,家庭に置かない.聴診器を家 には置いておかないというようなことを心掛けま した.帰ってきてまで,医師とか先生とかを子供 のためには決してしません.私は子供が病気した ときに病院の先生のところへ子供を連れて行くこ とはしました.子供が大きくなってからは,これ
はもう別でありまずけれども,そんなことも
ちょっと心掛けたことがあります. いずれにしろ,先生と親というのは全然違うの でして,子供にとって家庭は安らぎであり,憩い の場であって,弱点や欠点を安心して出せるとこ ろ,依存できるところ,反抗できるところです. 子供は依存と反抗を繰り返しながら,螺旋階段を 昇るように自律し自立していくのです.ところが, 先生というのは,依存と反抗が最もできにくい対 象ですから,そういう意味では子供にとっては先 生顔というのは,家庭では非常に具合悪いと,思っ ておりました. それと痴呆の問題になりますと,これはもう全 然別のことでありまして,私にはお答えできませ ん.お答えの趣旨に全然合わないことをお答えし ているというのは,よくわかっているのですが, 失礼します. 〔小泉〕ゲームボーイとかテレビゲームとかに子供 が夢中になるという状況がよくあるのですね.ど のようにテレビゲームと付き合ったらいいのか教 えて下さい. 〔佐々木〕テレビゲームは,「 рヘ自分の子供には, 夜するのがいいと言ってきました.友達と別れて 家に帰ってから,やりたけれぼやれぽいいと言っ てきました.日中は外で仲間と遊ぶことが必要で, 幼児期と小学生の頃にはテレビゲームというの は,あまり好ましくないだろうと思います.とこ ろが,1現代っ子は友達と相互依存の関係で遊べな い.相互依存の関係で遊ばないと,友達と遊ぶこ とがむしろ窮屈になって,家へ退却してぎて遊ぶ ということをやるわけですね.そういうことが起 きたときに,そういう問題を多少とも解消する方 法とすれぽ,まずゲームをやるのに自分の家へ友 達に遊びに来てもらう.それから,だんだんゲー ムでない遊びで友達と遊ぶ.遊び合う仲間の家族 とは親同士も親しくしていく.やがて家族同志で 遠足とか,旅行とか,遊園地にいく.そんなとき には,必ず2,3家族お誘いにな:って,気心の知 れた親同士が何家族かで小さい子供を連れて遊園 地に行くとか,動物園に行くという経験をなさる と,子供が仲間と昼間遊べるように割合早くなり ます.そういう経験をなさらないと,どうもゲー ムに埋没してしまうということがありそうです. もう何年も前になりますが,某有名私立校で編 集している雑誌の座談会にお招きを受け,会が終 わった後に生徒指導の先生と雑談したときに,中 学の先生が生徒に「君達が最も楽しいと思う時間は何をしている時だ?」と問われたら,「一人でコ ンピューターと向かい合っているときだ.」という 生徒が半数を超えたということで,ある種の危機 感を感じていらっしゃいました.今の入学試験の 方法が,まずいからそういう生徒がたくさん来る のではないでしょうかと私は申し上げたのです. けれども難しい点は,問題をやさしくしたからと いって,生き生きとした仲間とよく遊んでいる, いい経験をした子供が来るわけではなくて,コン ピューターゲームに取りつかれている点では同じ で,その上勉強ができない子供が来るだけになっ てしまうので,試験をゆるめることもできないと いうわけです.この辺が,難しいところだとおっ しゃっていました.弱点は弱点として,みんな共 通に持っていて,その中で勉強ができる子のほう を採ると,結果としてはこんなふうになってしま うわけです. ですから,地域社会の人々みんなの生活のパ ターンが変わらなけれぽ,.どうにもならな:いわけ で,学校とか地域社会で,なかなか子供をとりま く問題を変えられない. 現代っ子は自然にしておきますと,どうしても 一人目何かをすることが楽しいということになり がちです.相手がほしいとか仲間と何かをしたい という感性を,周りの子供たちがあまり持ってい ないからですね.そういう場合に私はどれくらい いろいろな御家庭とコミュニケーションしあいな がら育児をするかということが大事だと思いま す.コンピューターゲームで,一人で何かをする ことに安らぎを感じ過ぎるように子供たちが見え た場合には,仲間と共感することのほうが,もっ と面白いという経験をする意味で,海水浴である とか,ハイキングであるといった楽しい体験を何 家族かで共同してやる.いとこ,すなおち親同士 が兄弟で,子供は互いにいとこであるとか,ある いは親しい近所の人といった人と,何家族か誘い 合って,レジャーなどにお出でになるとよろしい と思います.相手の御家族との折り合いがっかな いときには,子供だけ借りていくというのもいい と思うのです.私はそういうことはよくやりまし た.子供の親しい友人も連れて,つり堀りにいく とか,ナ.イターをみにいくとか,遊園地に連れて いくとか…….そうすると子供達の活動が,親だ けと行ったときとは全然違います.非常に生き生 きとします.親から離れて仲間と相談し合って活 動しようとします.こういう自発性のようなこと が育ってまいりますから,そんなことも1つの方 法であろうと思うのです. 本講演録は,東京女子医科大学小児科学教室同門会 総会で(1993年5月29日(土),経団連会館)において, 佐々木正美先生が,米国ノースカロライナ大学医学部 精神科臨床教授になられたのを記念して行われた講 演会の記録である. 参加者は,東京女子医科大学小児科同門会員(小児 科医師)60名であった. 文 献 1)我妻 洋編:非行少年の事例研究一臨床診断の 理論と実際一.誠信書房,東京(1973) 2)Erikson EH:Childhood and Society(2ed, Revised and Enlarged). WW Norton&Co, 1963。(仁科弥生訳:幼児期と社会1,II.みすず 書房,1977,1979) 3)Bowlby J:Maternal Care and Mental Health. WHO,1951.(黒田実郎訳:乳幼児の精神衛生. 岩崎学術出版社,1967) 4)ヴィゴッキー,レオンチェフ,エリコニンほか(神 谷栄司訳):ごっこ遊びの世界.法政出版,東京 (1989) 5)Clyman RB, Emde RN, Kempe JE et al: Social referencing and social looking among twelve−month・old infants。伽Affective Devel, opm6nt in Infancy.(Brazelton TB,1 Yogman MWA eds), Norwood, NH Ablex(1986) 6)Emde RN, Johnson WF, Easterbrooks MA: The do’s and don’ts of early moral develop・ ment. Psychoanalytic tradition and current research.加The Emergence of Morality. (Kagan J, Lamb S eds), University of Chicago Press, Chicago(1988) 一E466一