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『甲冑御披露』にみる政治批判 ――日本回帰を戯曲から検討する―― 利用統計を見る

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全文

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『甲冑御披露』にみる政治批判 ――日本回帰を戯

曲から検討する――

著者

小田切 璃紗

著者別名

ODAGIRI Risa

雑誌名

東洋大学大学院紀要

53

ページ

87-111

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008806/

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  長谷川如是閑(一八七五~一九六九)は、一九三〇年代半ば(昭 和一〇年ごろ)を境に、論考のテーマを日本の過去に求めるように な る 。日本回帰(転向)と呼ばれる時期であ る 。しかし、劇作にお ける長谷川は、すでに大正末には黒船来航をテーマにした『馬鹿殿 評 定 』 を 発 表 し、 さ ら に 昭 和 に 入 る と『 甲 冑 御 披 露 』『 国 賊 を 中 心 として』 『太閤の犢鼻褌』 の三作品を世に送り出している。本稿では、 長谷川が日本回帰と呼ばれる時期に先がけて、既に時代を遡る戯曲 作品を手掛けたことに注目した。思想統制がなされるなか、長谷川 は「当たらない的」と称されるように健筆を振るい続けるも、満州 事変以後は、政治的見解を封印することとなる。が、日本回帰に至 る軌跡は、 すでに劇作からはじまっており、 この、 戯曲執筆期間には、 本格的な論考に入る前の準備時期として、思想的根幹が築かれてい たと仮定した上で、 『甲冑御披露』に秘められた評論家としてのメッ セージを紐解きつつ、描かれる性格描写と笑いに隠された批判を読 み解いていきたい。   石 沢 秀 二 は「 喜 劇 は お こ り つ つ あ る 」 の 中 で、 「 明 治 末 か ら 大 正 にかけて、日本に移植された喜劇の代表であるモリエールの大多数 は、諷刺とか批判精神とかの影はうすれて、思想を抜きとられた笑 いの技術性のみを強調された滑稽喜劇として扱われたようだ」と述 べている。石沢の指摘からは、近代化とともに移植された喜劇の思 想性は薄れ、一部の作家を除いて、単純な笑いのみが追求されてき ており、このために、長谷川の喜劇に関する思想的考察は、ほとん どなされていないままであると捉えることができよう。   同時に、こうした日本における喜劇観は、長谷川の劇作に対する 評価が低いばかりでなく、作品そのものに対する言及すら皆無に等 し い こ と に つ な が っ て い る と 考 え ら れ る。 し か し、 日 本 に お い て、 笑いに対する思想的な考察が欠けていたにもかかわらず、長谷川は 一貫して喜劇仕立ての作品を発表し続けた。この長谷川のスタンス は、日本が戦争に向かう昭和に入っても変わることはなかった。本 来は思想的な意味合いの強い喜劇を、長谷川が執筆・表現活動の重

『甲冑御披露』にみる政治批判

 

――

日本回帰を戯曲から検討する

――

文学研究科国文学専攻博士後期課程3年

 

小田切

 

璃紗

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要な手段として利用しない手はない。   長谷川は、雑誌『我等』の改題『批判』創刊 時 に「批判」につい て 自 身 の 信 念 を 述 べ る な か で、 「 社 会 科 学 は 歴 史 的 知 識 の 手 続 き た る ば か り で な く、 歴 史 の 創 造 の 手 続 き で あ ら ね ば な ら ぬ 」「 歴 史 か ら抽象された『公式』は、それが歴史に還元されて始めて意味をも つものであること 『批判』 は誰よりも先に主張する」 といったスロー ガ ン を 掲 げ て い る。 そ の 理 由 と し て、 「 普 通 の 用 語 例 に よ る 意 味 の 『批判』 」が「歴史の現在の段階に於て、二重に要求されてゐること を知るからである」という。長谷川にとっての「歴史」は、単なる 過去をなぞることでなく、また同時代における思想的束縛を忌避す るためのものでもない。長谷川の思想活動のいわばバックボーンで ある。   少年時代から歴史を愛し、願わくば歴史学者になりたいと望んで いた少年は、その後新聞記者となった。その長谷川にとって、現実 の 問 題 を 解 決 す る た め の 方 策 が、 歴 史 か ら 学 ぶ こ と だ っ た。 「 い つ で も 欧 米 諸 国 に 先 例 が あ っ た 」 日 本 で は、 「 自 国 の 歴 史 の な か に 先 例 を 見 出 す 努 力 」 が 欠 け て い た か ら で あ る。 そ し て 長 谷 川 の 歴 史 観 は 、 過 去に 思 い を 馳 せ る 少 年 時 代 に と ど ま ら ず 、 現 実 的 な 対 峙 の 必 要 不 可 欠 な 武 器 と な っ た 。 か つ 、 日 本 と い う 国 の 政 治 の 成 り 立 ち で あ る 歴 史 を 整 理 し 、 過 去 から 現 在 、 そ し て 未 来 に 続 く 政 治 的 展 望 を 突 き 詰 め る た め の モ チ ー フ だ っ た の で は な か ろ う か 。   し た が っ て 、「 す べ て の 思 想 と 運 動 は 、 そ の 前 史 と 源 流 に お け る 考 察 を ぬ き に し て は 正 し く 捉 え る こ と は で き な い 」 以 上 は 、 大 思 想 家 ・ 長 谷 川 の 作 品 研 究 に お い て も 、 同 時 代 の社 会 動 向 、 そ し て そ れ 以 前 の 流 れ を 把 握 す る こ と が 重 要 と な ろ う 。   大正時代に発表された長谷川戯曲は、同時代のおける社会問題を 巧みに取り上げ戯画化している。例えば、 大正デモクラシーの最中、 普選前年(一九二四年)に発表した『大臣候補』にみられる政治と 金 の 問 題 、『 エ チ ル・ ガ ソ リ ン 』 の 近 代 化 に 伴 う 公 害 の 発 生 と そ こ に 描 か れ る 資 本 家 や 知 識 人 の 立 ち 位 置 な ど、 社 会 的 笑( ユ ー モ ア ) に 包 ま れ た 普 遍 的 な 問 題 が 隠 さ れ て い る。 ま た、 『 両 極 の 一 致 』 に 登場するヒロインの大叔父の軍国主義と父親の平和主 義 (注 など、戯曲 に登場する人物は、対立を表現する最も有効的な方法として極めて 単純な性格によって特徴的に描かれている。   上述の三作品に共通することは、単純故の思い込みの強さが、災 いや問題を必要以上に大きくしている点である。ストーリーは、ど の作品も同時代の社会問題を題材にしているが、登場人物の性格的 な特徴を主軸に作品を鑑みるとき、そこには時代の差異を感じさせ ない共通項があるように思われる。人物の性格を特徴づける背景を 現代的な問題にしなければ、時代設定の重要性は薄れるだろう。   近代国家では、善良な市民が健やかな生活を送る際に、政治的な 影響を受けることは止むを得ないであろうし、時代の潮流において も政治的なものに左右されよう。しかし、異時代の政治や社会的状 況にも、社会集団で起こる意見の相違や分裂、闘争などの種々様々

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な事件はあり得ることである。 発表される作品が歴史物だとしても、 それは時代設定を現代人の感覚から突き放しているだけであり、時 代が遡ったとしても、人の心はそれほど変化しないものである。む しろ政治的な規制以外の慣習等は、いにしえの昔から脈々と続いて いる。   一九三〇年代頃を境に、日本人の特徴について研究する長谷川の 脳裏から生まれる過去を題材にした戯曲においては、現実的な問題 も、隠された形で、日本独特の社会や人間の性質として描かれてい ると推測される。従って「社会的笑」に秘められた批判を読み解く ためには、描かれる作品の時代のみならず、時代性を超越した視点 を捉える必要がある。   本稿では、一九三〇(昭和五)年七月、雑誌『批判』第一号第三 巻に掲載された『甲冑御披露』を題材に、長谷川の思想の遍歴の一 端を垣間見る考察を試みる。この過程では、作品内の問題を解決し て い く 性 格 的 特 徴 を『 日 本 的 性 格 』 を は じ め と し た 論 考 と と も に、 現代における社会科学の観点をも含めて紐解いていきたい。 同時に、 題目から連想されるイメージ、作品発表時の社会動向、長谷川の歴 史・芸術観を政治的時代背景とともに俯瞰する。 一、戯曲構成と甲冑の価値   『 甲 冑 御 披 露 』 は、 一 九 三 〇( 昭 和 五 ) 年 に 連 続 し て 発 表 さ れ た 三部作の第一作目にあたる。これら三作は、いずれも喜劇と銘打た れた一幕物の戯曲である。各々の作品はそれぞれ時代設定は異なる ものの喜劇三部作として銘打たれてい る (( 。一作目の 『甲冑御披露』 は、 雑誌『我等』改題の『批判』にはじめて発表された戯曲であり、日 本文化の繁栄著しい江戸時代を舞台にした、購買品の支払いを免れ ようとする京都の公家と公家ににらみをきかせる京都所司代の話で ある。本戯曲は、題目の『甲冑御披露』にある「甲冑」が宴の主役 である。思想的考察に入るにあたり、まず作品そのものを読んでい きたい。梗概は以下の通りである。 享保年間。一条前関白邸。大書院での甲冑披露の宴が始まる。 ( 朗 詠 ) 王 船 艤 し て 未 だ 出 で ず、 春 の 棹 沙 涯 の 間 に 容 与 す、 糸 帷垂れて猶ほ眠る、暁の夢書帙の間に芬芳たり   一 条 前 関 白 が 朗 詠 を 披 露 す る と 、 一 同 か ら 「 や ん や や ん や 」 と 歓 声 が あ が る 。 雅 な 甲 冑 の 披 露 目 で は あ る が 、 大 坎 御 門 の 話 に 続 き 徳 大 寺 が 京 役 人 へ の 憤 懣 を 語 り だ す 。 す る と 万 里 小 路 大 納 言 は 、 周 防 の 天 顔 に 対 す る 行 為 は 野 獣 の 振 る 舞 い で あ り 、 そ の 行 為 は 逆 賊 だ と 話 し 出 す 。 皆 の 話 を 聞 い て い た 一 条 内 大 臣 は 、 憤 懣 の 理 由 を 武 力 が な い せ い だ と 答 え る 。 和 気 あ い あ い と す す む 宴 の よ う に 見 え た が 、 突 然 、 四 辻 中 納 言 が 声 高 に 笑 い 出 し 雰 囲 気 が 一 変 す る 。 四 辻 は 言 葉 に こ そ し な い が 、 一 条 の 言 動 全 て を 滑 稽 に 思 っ て い る よ う で 、 腹 が よ じ れ る ほ ど お か し い と 言 い 出 す 。

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  一 条 の 計 ら い で 、ま ず は 四 辻 の 話 を 聞 く こ と に な る 。 四 辻 は 、 一 条 の 甲 冑 、 万 里 小 路 の 体 術 そ し て 儒 者 和 学 者 を 抱 え て の 謀 判 の 学 問 に 昨 今 流 行 り の 馬 術 で は 、 京 役 人 一 人 の 征 伐 も お ぼ つ か な い と 話 し 出 す 。   表 の 方 が 騒 が し く な っ て く る 。 招 か れ な い 客 人 、京 都 所 司 代 ・ 土 岐 丹 後 守 が 家 来 四 名 を 従 え て 登 場 す る 。 代々伝わる甲冑だと 一条は説明していた甲冑は、真新しく新品同様である。京都所 司代に代金の不払いを問い詰められていくうちに、実は馬の代 金も甲冑同様の状態であることが露呈する。他の公家も馬の代 金の支払いを滞っているようで、一同、困り果てる。土岐丹後 守は、言葉巧みに一条に所望し中央にある甲冑を家来に身に着 けさせる。時経ずして土岐の家来が狼藉者の侵入を伝える。狼 藉者を追うように命令された家来は、甲冑を身に着けたまま退 場する。   四辻は所司代の、役職を盾にした、したたかな企みに気づい たかのようである。含みをもたせた問答がなされていく。所司 代が追い込むかのようにみえたが、 最後は四辻に追い込まれる。 しかし、所司代が窮するその時、両者は同時に大笑いにて決着 となる。正親町だけが、甲冑や馬の代金を支払えずにいる公家 連中の顔を可笑しいような悲しいような顔つきで見つめている (幕) 。   登場人物は、甲冑の披露目をする前関白の一条、披露目に招かれ ている二条内大臣、三条内大臣、三条右大臣、大坎御門大納言、徳 大寺大納言、正親町大納言、万里小路大納言、四辻中納言そして京 都所司代である土岐丹後守である。その他、披露目を行っている大 書院には、一条家の家来、侍女、下僕等が控えている。このなかで 主要な登場人物は、家来や侍女たちをのぞく一条と客人そして京都 所司代の土岐である。 台詞が与えられている人物も全員男性である。 本戯曲には女性の登場はあるにしても、メインキャストはすべて男 性である。   従来の長谷川戯曲と比較したとき――男性と女性が随所随所で活 躍 す る 今 ま で の 作 品 と 異 な り、 『 甲 冑 御 披 露 』 に お け る 幕 政 改 革 時 の経済事情、 『国賊を中心として』 の明治維新直後の武士たちの動揺、 そして 『太閤の犢鼻褌』 の独裁的な企業家の崩壊という設定からは、 どの作品からも女性をイメージさせるものは描かれていない。―― 三部作のどれひとつにも女性の活躍がまったくみうけられないこと にも違和感をすら感じる。女性の登場に代わって、歴史的背景が前 面に出ている作品群になっている。このように三部作いずれも女性 の登場が希薄になり、代わって時代背景を現代からずらした作品に は、経済的な豊かさは描かれていない。時代を過去に設定するとい う歴史的な背景は、ある種のカモフラージュであり、実際のところ は世界恐慌後の現実の(一九三〇年の)社会そのものを表現してい るのではなかろうか。   本 作 品 の 構 成 は 、 ① 甲 冑 の 披 露 目 を 台 無 し に す る 四 辻 と 一 条 に 付

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和 雷 同 す る そ の 他 公 家 一 同 、 ② 土 岐 の 登 場 と 甲 冑 の 行 方 、 ③ 四 辻 と 土 岐 の 問 答 と い う 大 き く 三 つ に 分 け る こ と が 出 来 る 。 ① で は 一 条 を は じ め と す る 登 場 人 物 ( 公 家 ) が 、「 甲 冑 」 や 「 馬 」 の 支 払 い に つ い て を 詮 議 す 。 本 作 品 に 登 場 す る 人 物 構 成 が 代 金 未 払 い と い う 一 件 に 拍 車 を か け て い る が 、 四 辻 対 一 条 他 、 つ ぎ に 土 岐 と そ の 他 、 そ し て 四 辻 対 土 岐 と い う 対 立 構 造 を 社 会 的 身 分 で 表 す と 、 一 つ の 様 式 に な る 。 す な わ ち 武 家( 京 都 所 司 代 )対 公 家 で あ る 。 そ し て こ の 対 立 は 、 戯 曲 に 設 定 さ れ て い る 享 保 時 代 か ら イ メ ー ジ さ れ る 経 済 問 題 に 付 随 す る 。 極 め て 単 純 化 す れ ば 、 管 理 す る 側 と 管 理 さ れ る 側 の 関 係 で あ る 。 実 際 の 近 世 に お け る 法 令 の 流 れ は 、図 1 に 示 し た 通 り で あ る 。 本 作 品 は 、 京 都 所 司 代 が 直 接 一 条 家 を 訪 れ る く だ り か ら 、 図 1 に お け る ⑤ の 流 れ だ と 考 え ら れ 、 長 谷 川 が 、 歴 史 的 流 れ を ヒ ン ト に 作 品 を 描 い て い た と 考 え ら れ る 。 また、 幕政改革のひとつである享保の 改革から浮かび来るのは、八代将軍吉宗時代と幕領の石高を増加し 財政を好転させたといった政治的手腕であるが、その背景には厳し い経済状況があった。 ①将軍または老中からの朝廷(禁裏御所 ・ 院御所) 、または天皇 ・ 上皇、摂政・関白に出された法度 ②将軍から武家伝奏または公家に出された法令 ③将軍から京都所司代または付武家に出された法令 ④老中から京都所司代・京都町奉行、または付武家に出された 図1    近世朝廷法令の流れ

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法令 ⑤京都所司代より武家伝奏または公家に出された法令 ⑥京都町奉行または付武家から朝廷に出された法令 ⑦上皇または天皇から公家に出された法令 ⑧摂政または関白から公家に出された法令 ⑨武家伝奏から公家に出された法令(禁裏小番の番頭から相番 頭へと触れられていくケースも多 い (図 )   つぎに、四辻は笑いの様を色々と説明するが、その笑いはおかし いと言うよりも、茶化にした雰囲気を醸し出している。そして舞台 は、四辻の態度により、四辻対一条とその他という構図になる。つ まり一対多という単純な対立として構成されている。この四辻対一 条その他は、つぎに、京都所司代の土岐丹後守の登場で変化を見せ る。土岐は家来を連れて来訪しているので、狼藉者の侵入事件まで は京都所司代と公家一同といった構図であるが、一対多という形を 取りながら、実際は土岐対一条その他と四辻、そして最終的に土岐 対四辻と、台詞の掛け合いで変化している。   京都所司代の登場は、突然であり、一条の披露目をたしなめる四 辻との対立が一端途切れることになる。一瞬であるが、招かれざる 客の登場で来訪者対公家一同となる。この京都所司代の登場は、も めている最中の宴を瞬時に制止する働きを持つ。京都所司代の公家 に関する政務の管掌という力関係を如実に示すことが顕著に描かれ ている。そして、土岐は、所司代としての役どころである訴訟の検 断を思わせる内容を話し出す。甲冑の出所の怪しさを暴露するくだ りである。にもかかわらず、丁重な態度である。言葉巧みな土岐の 台詞に一条は逆らうことができず、土岐の家来に甲冑の着用を許す ことになる。土岐の台詞は以下のとおりである。 お 尤 も に 存 じ 上 げ ま す る 。武 人 の 家 に 生 ま れ て も 、 つ ゞ く 太 平 の 有 り 難 た さ に 、 碌 々 物 の 具 の つ け よ う も 弁 えぬ 輩 が 少 な か ら ず ご ざ い ま す る 。( 間 ) さ り な が ら 折 角 か よ う に 見 事 な 物 の 具 を 御 所 蔵 あ つ て 、 そ の つ け よ う も 御 存 知 な い と 申 す のも 、 下 世 話 に 申 す 、 あ つ た ら 宝 の 持 ち 腐 れ 、 不 躾 け な が ら 、 手 前 の 家 来 に 申 つ け 、 こ の 場 で 身 に つ け さ せ て 御 目 に か け る で ご ざ い ま せ う 。   この土岐の台詞をつぐように、四辻が「それは一段のこと」と答 える。一条の返答も確かめられぬまま家来は甲冑を身に着ける。こ こでは、有無をいわさず従うほかない公家の状況が窺われるといえ よう。こうして土岐と一条のやり取りは、すでに四辻の指摘した甲 冑披露目の愚かさを超える(一条に対する)笑いを誘い出すきっか けになっていると考えられる。   つ ぎ に、 人 物 の 登 退 場 は そ の ま ま に「 狼 藉 者 」「 狼 藉 者 」 と よ ぶ 声が聞こえてくる。甲冑を身につけたままの家来が狼藉者を追いか けていく。そして、家来と同時に甲冑も舞台からなくなる。ここで

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四辻の質問により、土岐のたくらみの成り行きが読めていく構成に なっている。 四辻    いかう賢しこい狼藉者と見えて、よい汐時に立ち現は れ申した。 土岐    何と仰せられる? 四辻    いや〳〵丹後殿のことではござらぬ、狼藉者のことで ござる。   土岐の返答で、家来に着用させた甲冑は、どうやら売り手に返す のではなく、土岐自身の借金のカタにするために一条家に来訪した のではないか、という疑惑が浮上する。土岐の一条に対する丁重な 挨拶や、甲冑への賛美とも思われる着用の懇願、そして狼藉者の到 来は、一見つつがなく進んでいく構成に捉えることもできるが、一 条に対する礼を尽くした土岐の対応は、慎重かつ大胆な企てである ことが後にわかる仕掛けが見え隠れしている。   本来であれば、土岐は、自身の役職により強引に甲冑を持ち出す ことが可能だったかもしれないところを、恭しく着用を願い、絶妙 なタイミングで狼藉者の侵入を企て甲冑を持ち出している。丁寧且 つ大胆、 そしてわざわざ架空の狼藉者の登場をさせている。さらに、 本作品の中央に座している甲冑と同様に支払いを免れようと僅かな 金品で所有する馬の存在を出し、公家の困窮具合をより強調させて いる。必要のない、そして着用法もわからない甲冑や、支払いもで きずに馬を所有する事柄は、甲冑や馬が公家と武家の社会的身分を 超越してもなお君臨する力の象徴であると考えられる。   甲冑が家来とともに無くなり、四辻が土岐の画策を悟ったように 話し出す。ここで、土岐が馬の代金のことを出すが、舞台はさらに 四辻の土岐への詰問に代わっていく。四辻と土岐の一対一の問答で ある。京都所司代の任務を担い、土岐は一条家に赴く理由は、甲冑 の支払いに関する訴訟を受けての訪問である。しかし稟議は中途に して、狼藉者の追跡のため、家来に甲冑を身につけさせたまま退場 させる。実際のところ、本当に狼藉者が存在したのかどうかは定か ではない。しかし、訴訟に上る品を、着用の仕方を公家に披露する という名目であっても、勝手に家来に身に着けさせることはいささ か不自然ではあるまいか。   では、つぎに甲冑そのものについて概観し考察を進めたい。   享 保 年 間( 一 七 一 六 ~ 一 七 三 六 ) か ら 時 代 を 二 世 紀 を 経 て、 一九〇九(明治四二)年に建築された迎賓館の屋根には、富国強兵 の象徴として甲冑の装飾がなされているように、迎賓館のデザイン からは近代になり明治も終わりに近づいていた時期でさえ、イメー ジとして甲冑の存在は大きかったと言える。甲冑の存在から放たれ る威厳は、武士の象徴であり、さらに迎賓館は大正天皇の東宮御所 だったという事実からは、実は日本という国の象徴でもあると考え られる。

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  長谷川は、こうした富国強兵、すなわち当時の日本の象徴とも考 えられる甲冑をはじめとした日本人そのものに関してを『日本人的 性格』 の最終に纏めて述べている。 甲冑に関して長谷川の見解は、 「外 国の物は、鐵の人間の様な誠に不趣味な、且つグロテスクなもので ありますが、日本の鎧などは敵を防ぐよりか、美的意識に依って同 感せしめる、敵と一脈相通ずる感覚に訴えるといふ風がある」と述 べている。ほかにも、討死をする時に「兜に香を焚く」ことや、戦 場で 「御互ひに歌で以て応対する」 などの例を挙げている。そして、 こうした差異をもたらすことについては、 是は矢張り政治的形態、経済的形態、地理的環境とこの三つの 條件であつて、それが隨つて逆に政治的形態を規定するもので あります。大陸的に極度に行かないといふ事は、 社会制度にも、 政治制度にもあるのであります。日本的の文化的表現を見た時 にさうした事情が暗示されてゐるのでありま す (注 。 と三つの条件をあげ、日本的な特殊性は外国との差異に暗示されて いると結んでいる。   こ の「 日 本 的 表 現 を 見 た 時 に 暗 示 さ れ て い る 事 情 」 を、 『 甲 冑 御 披 露 』 の 存 在 お よ び 作 品 構 成 と 鑑 み る と、 日 本 的 甲 冑 の 美 し さ や、 その美しさが敵と相通じるものの役割は、一条の行う披露目を感歎 する公家の場面であり、 土岐の恭しさに描かれている。こうした 「甲 冑」の重要性は、一条の考える武力の代わりといった創作のなかの 社会的な建て前だけでなく、日本社会そのものの象徴であり、物言 わぬ主役である。   長 谷 川 は 、『 日 本 的 性 格 』 の な か で 、 日 本 に ま つ わ る 種 々 様 々 な 物 事 を 順 序 立 て て 理 解 を 促 し つ つ 、 ま ず 「 日 本 人 の 性 格 の 特 徴 は 、 一 般 の 歴 史 、 及 び 特 殊 の 、 文 学 、 芸 術 そ の他 文 化 形 態 の 各 部 門 の 歴 史 に よ つ て 討 究 さ れ ね ば な ら ぬ も の で あ る 」 と 断 り を い れ て 、「 著 者 自 身 及 び 読 者 職 が そ れ に 入 るた め の 緒 論 と も い ふ べ き も の 」 であ る と し て い る 。   こ の 長 谷 川 の 言 及 は 、『 日 本 的 性 格 』 を 読 書 後 に 、 一 般 の 歴 史 や 文 学 芸 術 と い っ た 各 方 面 に よ り 専 門 的 な 探 求 に必 要 性 を 示 唆 し て い る と 捉 え られ る と 同 時 に 、 長 谷 川 の思 想 の 一 端 を 読 者 に 披 瀝 す る こ と によ り 、 物 の 捉 え 方 の 一 例 を 示 し 、 将 来 の 知 識 人 を 含 む 青 少 年 ら の 更 なる 成 長 を 促 し て い た と 推 察 で き よ う 。 甲 冑 に つ い て を 長 谷 川 が 著 作 の最 後 に 収 め て い る こ と か ら は 、 甲 冑 そ のも の 存 在 が日 本 的 性 格 の ま さ に 一 端 で あ り か つ す べ て で あ る と 推 測 さ れ る 。   そして、本作品での甲冑の存在は、一条が話すような存在自体が 重要なのではなく、作品における社会的な事情を象徴しているひと つの隠喩だったのではなかろうか。それは昭和における華族 (公家) のしきたりや儀礼の裏返しという蓑を被り、江戸の公家たちの、武 士に負けたくないための強さの象徴に甲冑を飾るといった行為を戯 画化しているようにも見える。しかし、同時代の政治状況――日本

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がようやく掴んだ二政党が崩れゆく、ロンドン軍縮会議を発端とし た憲法問題への批判――には全く関係しないところでの作品だった のだろうか。本作品に描かれているであろう重層的構想による筋立 てを紐解くにあたり、時代や人物設定にのみ固執せずに社会を俯瞰 することおよび登場人物の動きに注視しつつ、以下長谷川の歴史観 および芸術観を確認していきたい。 二、著書の言葉にみる「歴史」と「芸術」   殿木圭一は、自身の青少年期を振り返り、 「毎月、 『我等』が売り 出されることになると、毎日のように本屋の店頭に立った」と回想 している。殿木が『我等』の愛読者の一人であることが切にわかる 一節であるが、 実際のところは 「如是閑の論文を読解する実力は持っ ていなかった」 と吐露している。殿木によると、 長谷川の文章は、 「普 通の人間が物を考えるのとは違った、一段と高い、あるいは深い思 考方法」があり、 また、 「三段論法で書かれているのかもしれないが、 私には四段論法か五段論法か、とにかく私たちの思考方法では考え られない論法が採用されているように思えた」と結んでいる。当時 の長谷川の人気の理由として論考の複雑さと読解の困難さが考えら れる。また、殿木は本戯曲と同年の一九三〇(昭和五)年に創刊さ れた『真実はかく佯る』の一冊について語るなかで、長谷川の論法 の複雑さのみならず、主題の選び方について以下のように言及して いる。 古今東西、今日の問題が取り上げられたかと思うと、次には何 千年もの昔のことが書かれる。そしてそれが昔のことであるか と 思 っ て い る と 今 日 の 問 題 を 取 り 扱 っ て い る の で あ っ た り す る。日本や中国のことばかりでなく、ギリシャ、ローマが登場 するかと思うと、 今日のヨーロッパやアメリカが取り上げられ、 驚くことには日本の新聞などではついぞ目にふれたことのない アフリカや南洋の、聞いたこともない民族や種族の話が引き合 いに出されたりす る (注 。   殿木は、長谷川の深淵な思想とともに、該博な知識から得たであ ろう主題選びの壮大さに感心したことを述べている。 さらに殿木は、 長 谷 川 が 思 想 構 造 や 広 範 な 知 識 と は 対 照 的 に、 「 大 言 壮 語 は 吐 か な い」 ということも付け加えている。 「論説というよりもコラムといっ た 方 が 近 い 」 と 言 及 す る 巻 頭 言 に 対 す る 賞 賛 は、 「 時 に は 江 戸 小 咄 を思われるような滑稽なはなしもあり、時には秋霜烈日の批判が秘 められている」ものもあったという。殿木の述懐からは、長谷川の 認める作品には時空を超える秘策と言えるような構造が隠されてい ると考えられる。   長谷川自身の歴史観は、 『真実はかく佯 る (注 』の著者後記に、 「この 一書もまた、私自身の長い歴史のある段階における心の歩みの足あ とである。人は、現在どんなところに居ようとも、将来どんなとこ ろに行こうとも、そのこころの歩みの足どりをたどれば、必ず今の

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心 の 在 り か が 見 出 さ れ る、 人 に も わ れ に も。 」 と 書 い た よ う に、 過 去の一頁で終わることではなく、また現在に連なる軌跡であるだけ でなく、今の在りかが見出されることのできる重要なファクターで あったと考えられる。   そ れ は つ ま り、 著 者 の 言 葉 に あ る よ う に、 「 真 実 」 を 啓 示 す る の は「ことば」ではなく「歴史」をもってするが、 「歴史」には、 「裏 表」や「矛盾」があり、それはまるで人間の「ことば」のごとくで ある。そして、 「真実」が、 「歴史」のレンズを通して自身の心に映 る影を捉えようとしたので「真実はかく佯る」という題目にしたと い う。 こ の 長 谷 川 の 言 及 か ら は、 「 歴 史 」 に お け る「 真 実 」 が 心 を 捉 え、 か つ「 歴 史 」 の レ ン ズ が「 真 実 」 を 佯 る の だ と 考 え ら れ る。 そ し て、 『 甲 冑 御 披 露 』 に お け る 歴 史 物 に み る 事 件 を 通 し た 構 成 を 紐解くことにより、作者のメッセージを読み解いていくことに繋が ろう。   一方、 「芸術的創作に於ける 『意識』 の問題」 (『セルパン』 四七号、 一 ~ 五 頁 ) で は、 「 創 作 」 は 一 種 の「 歴 史 」 で あ る と 断 言 し、 そ の 理由を「歴史も創作も、その表現の外形は、ともに社会的事実の構 成であり、その発展過程の発見である」としている。ただし、対象 になる社会的事実に関しては、創作におけるそれは作家の創造の世 界であるのに対し、歴史においては客観的現実性を持ったものであ るとしている。では、本稿で扱う『甲冑御披露』においては、何処 までを現実性を持っていると鑑みればよいのだろうか。長谷川は小 説や戯曲創作に際しての「史観」を以下のように述べている。 小説でも劇でも、主観をとおして、客観的現実を世界を想像し て ゐ る の で あ る か ら、 そ こ に 一 種 の『 史 観 』 が あ る 訳 で あ る。 然し史観は、歴史に於ては論理的に表現されなければ意味をな さないが、創作に於ては、論理的の史観として表現されたので は意味をなさない。創作に於ては、史観は、恰も現実の世界に 於ける場合と同じやうに、作家の創造の世界の具体的の発展過 程として表現されてゐるのである。史観は、歴史に於ては、論 理的構成であるが、創作に於ては具体的の『客観的事実』の形 相をとる。   長谷川の述べる「客観的事実」の形相をとる史観とは、あたかも そうであるかなような形をした筋・構成であり、凡そのところは歴 史的発展過程を経ているが、詳細は想像の世界のなかでの発展過程 を経るものだと認識できよう。   長谷川が一九三二 (昭和七) 年に大畑書店から刊行した 『日本ファ シズム批判』は、一九二九年から三二年までの論考をもとに編集さ れているが、 そのなかで、 「芸術的態度及び表現」という項目を挙げ、 芸術家と歴史家や哲学者との相違点を以下のように言及している。 芸術家は歴史家又は哲学者と異つて、一定社会の『観念』に形

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態を与へるものではなく、その観念の基底を為すところの社会 事実の具体的再現を社会人の前に展開せしめるものである。従 つてそれは、科学的又は哲学的可能性を即ち因果律又は論理的 確実性又は蓋然性を立証するものではないから、自然の社会事 実を、その空間的関係や時間的関係を、いかに作り代へやうと 自由自在であるが、芸術家も人間であるから、彼等自身の社会 的条件から『自由自在』であり得る理由はない。即ち彼れは必 ず一定の階級層に居り、その角度から社会事実を認識するもの であり、同じくその角度からそれを再現する者である。   長谷川が述べるのは、戯曲執筆における作者も芸術家であり、そ して「必ず一定の階級層」に所属し、完成した作品はその所属の角 度から認識する「社会事実」である。このことは、長谷川作品にも 一 定 の 階 級 層 か ら み た「 社 会 事 実 」 が 再 現 さ れ て い る と 言 え よ う。 本作品と、長谷川の芸術観を歴史観とともに鑑みれば、一定の角度 から認識する「社会事実」を歴史的なトリックを使った作品仕立て ( 社 会 的 笑 に よ る 批 判 ) を 試 み た の で は な い か と い う 疑 問 が 生 じ て くる。   先に触れた『日本的性格』では、社会的笑による批判を紐解くヒ ントとなろう日本の文明および江戸時代観について認められている と思われる箇所がある。 長谷川が、 「下から盛り上がって出来た文明、 ピラミッド型に下の方が廣がつた文明と、徳川文明をいふことが出 来るのは、 當時の政治的の支配階級であつた武門階級のそれよりは、 経済的支配階級であつた町人階級の文化が、時代の文化の樞軸を為 すに至つたためである」と言及している箇所がそれである。長谷川 の言及する徳川時代の特徴は、政治的支配が身分制度ではなく経済 的な力によるものであることを重視している点であり、それは長谷 川の江戸観が経済的分析によるものだと考えられる。町人の経済力 が、文化的には全国的展開をみせていることと、経済的な安定の有 無が単なる所有者の自己満足以上に力の顕示としての事実がある。   『日本的性格』は、 「日本的性格の問題及びそれに関係した問題に ついて、 一九三五 (昭和一〇) 年以来公にしてきたものの一部を纏め」 たものである。この一九三五年とは、長谷川が雑誌『批判』を休刊 した後である。そして、長谷川が「日本的性格の問題及びそれに関 し た 問 題 に つ い て 」 の 論 考 を 公 に し だ し た 頃 は、 「 日 本 主 義 と か 日 本精神とかいふことが、 各方面に於て云はれ」てはいるものの、 「そ の客観的根拠であるところの、日本国民の性格の自覚なしに、主義 も精神も云はれ得る筈はない」から「先づ隗より始めた」次第だと いう。   長谷川の説く日本的性格は、日本の歴史を俯瞰し、また文学や芸 術といった文化面での言及を挟んだものである。また、日本的性格 論 を 展 開 す る 本 書 の 特 徴 は、 作 者 自 身 が 断 り を 入 れ て い る よ う に、 日本的性格の長所の自覚を主として述べている点であると考えられ る。 本 書 は、 「 外 国 人 に、 日 本 国 民 の 性 格 に つ い て、 い は ば 初 歩 的

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の理解を与へる目的で、執筆を依頼されたもの」と「まるで方面違 ひの人達に話したもの」が混然一体となっている。   さ ら に、 冒 頭 で 触 れ た、 雑 誌『 批 判 』 の 改 題 に 際 し て の 言 及 は、 長谷川の「歴史」と「批判」の関係をはっきりと述べている。長谷 川 は、 社 会 科 学 に と っ て の 歴 史 観 を 述 べ て い る が、 一 方、 『 日 本 的 性 格 』 の な か で も 歴 史 を 通 し て 性 格 描 写 を 為 し て い る。 長 谷 川 は、 日 本 人 の 心 理 的 特 徴 に は、 ( 副 題 に ―― 特 に 欧 米 人 の 理 解 の た め に ―― と あ る ) 第 一 に、 「 日 本 人 の 心 理 や 性 格 は、 多 く の 進 歩 的 の 国 民のそれが然る如く、頗る多面的である」といった日本国民を一面 だ け に と ら わ れ ず に 説 明 し つ つ、 「 外 国 人 の 観 察 も、 自 分 の 強 く 印 象づけられた一面に囚へているので、往々正反対の判断を下すもの が あ る 」 と 断 り を 入 れ て い る (注 。 日 本 国 民 に は、 「 極 端 を 好 む 性 質 が 相富に強い」と同時に「実際的の傾向も強い」と説明している。さ らに、 「進歩的な一面」を持つと同時に「保守的の一面」を持ち、 「平 和的とみられる面」もあれば「好戦的とみられる面」も持っている と述べてい る (注 。しかし、 社会心理的の視覚から日本人を見た時に見出される一つの著し い特徴は、同じ時代、同じ地方、同じ集団に、相反する心理的 傾向が併存してゐるといふことである。 この事情を知らないと、 日本人の心理も、日本人の歴史の傾向をも見誤る処がある。こ の事情は恐らく、日本民族が種々たる特徴をもつた多くの人種 から成立したものであつた結果であらうが、而して日本の歴史 が何づれの極端にも偏することなくして、中間の過程をとると いふ特性も、そうした多種なるものの総合の必然の結果と思は れる。すべて部分的の特徴は総合に於て調整され、 相殺されて、 一つの全体的性質を形作る筈であ る (注 。 と 結 論 付 け て い る 。   長 谷 川 は 、 ま ず は じ め に 、 日 本 の 成 り 立 ち そ のも の の 歴 史 を 言 及 し て い るな か で 、 性 格 に 至 る 政 治 的 条 件 に つ い て を 客 観 条 件 を あ げ て い る 。 こ の 条 件 ( 一 、 既 に 史 前 時 代 に 民 族 的 対 立 が 整 理 さ れ 、歴 史 時 代 に 民 族 闘 争 が 行 わ れ な か っ た こ と 。 二 、 氏 族 制 度 の 統 一 形 態 が 史 前 時 代 に 完 成 され 烈 し い 内 部 闘 争 に よ る 統 一 形 態 の変 化 が なか つ た こ と 。 三 、 政 治 的 統 一 が 峻 烈 性 を も た ず に 始 め か ら 家 族 主 義 的 パ タ ーナ リ ズ ム で あ つ たこ と 。 四 、 外 国の 征 服 を う け た な か つ た た め に 、 内 部 的 な 政 治 的 対 立 が 民 族 的 対 立 と結 び つ い た 悪 辣 性 を も つ に 至 ら な か つ た こ と 。 五 、 中 央 権 力 に よ る 大 規 模 の 収 奪 の 行 は れ ず 、 氏 族 制 度 に よ る 地 方 的 収 奪 が 中 央 権 力 に よ つ て 調 整 さ れ た こ と 。 六 、 政 治 的 統 一 の中 心 が 、 民 族 的 、 社 会 的 の中 心 と な り 、 武 力 によ る 統 一 中 心 の 代 替 が あ り 得 な か つ た こ と 。) に よ り 、 武 門 政 治 も 、 伝 統 的 中 心 た る 皇 室 の 絶 対 性 に 触 れ る こ と が 出 来 な か っ た の み な ら ず 、 そ の 伝 統 を 尊 重 し な い こ と は 自 己 の 覆 滅 の 原 因であ り 、 さ り と て 余 りに 実 質 的 に 尊 重 する こ と も 自 己 保 存 を困 難にする 原 因 と な る デ ィ

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レ ン マ に 陥 つ た 。「 武 門 政 治 の 最 後 の 徳 川 政 府 も 此 デ ィ レ ン マ の た め に 倒 れ た の で あ つ た 」 と 結 論 付 け て い る (注 。   貴 族 政 治 と の 関 係 に つ い て は、 「 政 治 上 の 弊 害 と 文 化 的 頽 廃 と は ( 中 略 ) 武 門 政 治 と の 交 替 期 に 於 け る 末 期 時 代 に は、 漸 く 前 期 の 特 性 は 失 は れ、 た だ 綱 紀 の 弛 緩 と 風 俗 の 標 本 の や う な も の に な つ た。 都会及び地方ともに秩序も安寧も失はれ、貴族階級はただ全く混乱 した社会の上層に、腐敗した空気のやうに漂つてゐた存在に過ぎな いものとなつた」と言及している。それでも「その階級が、我国に 成立せしめた地位は、各名目にも観念的にも、又文化的にもその後 の武門時代を通じて、 永く失はれなかつたほど、 伝統的に確保され」 武 門 貴 族 は、 「 つ ひ に こ の 朝 廷 貴 族 の 階 級 的 及 び 文 化 的 地 位 を 如 何 ともすることが出来なかつたのであつ た 図注 」とまとめている。   こ の 朝 廷 貴 族 と 武 門 貴 族 と の 関 係 は、 「 外 国 の ア リ ス ト ク ラ シ ー に類例のない形態だが、それは我国の上層階級の性格にある特性を 与 へ 」「 武 門 貴 族 は、 こ の 関 係 の た め に、 伝 統 的 貴 族 の 性 格 に 倣 は ざるを得ない、社会的強制をうけた」と締めくくっている。武門貴 族 に 関 し て は、 「 そ の 多 く は も と も と 中 央 貴 族 の 地 方 官 と し て 分 布 されたものが、地方的勢力を築き上げて、所謂豪族となり、武士と なつて、つひに中央権力を争ふに至つたもので、ローマを滅したそ れのやうな外国武士ではない。それ故朝廷貴族に取つて代らんとす る頃には、 中央貴族に失はれた祖先の精神が、 却つて地方豪族に残っ て ゐ る 」「 そ れ が 所 謂 武 士 気 質 と し て、 あ る 時 代 の 一 種 の 国 民 的 性 格としての現はれであつた」と武士気質を説明している。   こ う し た 武 門 貴 族 の 発 生 的 事 情 に よ り、 長 谷 川 は、 「 純 然 た る 土 豪的勢力からでた地方貴族の時代に至つても、なほ伝統的の貴族階 級の気質が継承され、一般に京都の文化的権威を尊崇する性格を与 へられるに至つたのであ る 図( 」とまとめている。京都を舞台にした本 作品は、長谷川の上述する「京都の文化的権威を尊崇する性格」を 如実に描いている戯曲であると考えられる。図1で示した通り、そ の後登場する京都所司代に関しても、同様に法令の流れに従ったも のであろう。   長谷川の説く武門貴族と朝廷貴族を本戯曲の登場人物の構成にあ てはめてみると、武門貴族を京都所司代である土岐、一条その他は すべて朝廷貴族側の人間と捉えることが出来よう。土岐の恭しい登 場や、代金不払いの品に対して仕掛けられる狼藉者の登場は、朝廷 貴族の自尊心を損なうことなく有無を言わせないばかりか一条家に 赴く名目ともなると考えられる。   長谷川の江戸観は、先に経済的な視点から鑑みられていると考え られると触れた。また、江戸からさらに過去に辿ることにより、江 戸時代に象徴されている政治のありかたは、外国勢力により形成さ れていないという点から鑑みると、同時に日本の貴族の在り方をも 浮き彫りにしていることが理解できよう。この貴族、すなわち公家 の 生 活 の 一 部 を 垣 間 見 る 様 な 場 面 を 劇 化 し た の が 本 作 品 で あ る が、 一条家の大書院に飾られる甲冑は、甲冑それ自体を超越した何もの

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かを示唆するものとして鎮座させているのではなかろうか。次章か らは、同時代の社会を概観したうえで、登場人物の対立と政治との 関連性を鑑みる。ロンドン軍縮会議に付随する統帥権干犯問題、軍 部に対する内閣の態度、そして政党間の対立を、作品内の対立に当 てはめて考察していきたい。 三、同時代の社会   『 甲 冑 御 披 露 』 発 表 年、 一 九 三 〇( 昭 和 五 ) 年 の 幕 開 け は、 一 月 の金解禁にはじまる。当初、前年の世界恐慌は、欧米の金利が低下 することにより日本の資金の流出を抑えられ、金解禁には好都合だ と 考 え ら れ て い た。 そ の た め、 翌 一 九 三 〇( 昭 和 五 ) 年 一 月 一 〇 日 に 金 解 禁 が 実 施 さ れ た。 つ ぎ に、 同 月 二 一 日 に は、 英・ 米・ 日・ 仏・伊の五か国が参加しロンドン海軍軍縮会議が開催さ れ 図図 、同年四 月二二日に調印された。その間、三月二四日には、帝都復興記念式 典が開かれ、大正一二年の関東大震災で灰燼に帰した東京は復興に 沸いていた。新時代は、大正天皇崩御により皇太子裕仁親王践祚と し、 新 し い 元 号 に 改 元 し た 一 二 月 二 五 日 か ら は じ ま る。 昭 和 時 代 は、金融恐慌と労働争議というパニックで始まったと記録され る 図注 ほ ど、 (第一次世界) 大戦後の好景気に沸いた大正時代と対照的である。 一九二七(昭和二)年三月一五日には、東京渡辺銀行などの取り付 け休業し金融恐慌で始まり、さらに一九二九(昭和四)年には世界 恐慌の影響を受けた。経済的な動き以外にも、日本国内では農村部 の不作による損害が大きく不況をさらに煽ることとなった。   経済面ではショッキングな事件が多い反面、昭和の幕開けは、慶 事も多々訪れたのが特徴的である。一九二八(昭和三)年五月一七 日にはアムステルダム五輪が開催され、初の日本人メダリストが誕 生するなど活気のある年であることがうかがえる。さらに、昭和の 御大礼こと、即位の大典は一九二八(昭和三)年十一月一〇日に古 式ゆかしく行われた。ここで、必見すべきは、内閣総理大臣・田中 義一の姿である。田中は、黒袍束帯姿であり、即位する天皇および 皇后の着衣と変わらぬ雅なものである。 平成の今日からみるかぎり、 当 時 の 写 真 か ら は、 享 保 年 間 よ り 二 百 年 の 歳 月( 本 作 品 発 表 当 時 ) が経ているようには見受けられない。反対に、昭和初期では大臣で すら古式にのっとった装束を身に着けるほどの経年を感じさせない 慣習に驚かされるのではなかろうか。   長谷川サイドから概観すると、本作品が発表された一九三〇(昭 和 五 ) 年 は、 『 我 等 』 の 終 刊 か ら『 批 判 』 の 創 刊 へ と い う 雑 誌 の 生 まれ変わりの年であり、長谷川自身の転換期と考えらえる。この時 期 の 長 谷 川 に つ い て 丸 山 真 男 は、 「 最 も ラ ジ カ ル に な っ た 時 代 の 開 始 期 」 で あ る と と も に、 「 ラ ジ カ ル に な っ た と き に、 日 本 が 反 動 時 代に突入したということは如是閑の悲劇」 だと述べている。しかし、 丸 山 は、 「 如 是 閑 は 根 本 的 に 傍 観 的 」 で あ り、 か つ「 た ん に 傍 観 的 で は な か っ た 」 と 追 想 し、 「 大 正 デ モ ク ラ シ ー の 時 代 で も、 逆 に 戦 争 中 で も 決 し て 時 局 的 な も の に 便 乗 し な い 」 長 谷 川 を、 「 い つ も 対

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象にいかれないで、デタッチド(距離を置く)なのが如是閑の本来 の 行 き か た 」 で あ り、 『 断 じ て 行 わ ず 』 と い う の は 如 是 閑 の 本 音 」 だと語ってい る 図注 。   一九三〇(昭和五)年における長谷川の論考は、一月の『婦人之 友』に掲載された「月賦哲学」から、一二月一四日『読売新聞』に 掲載された「学生思想問題と大学の根本精神」まで、書評をはじめ 多岐にわたっている。本作品発表前月の一九三〇 (昭和五) 年六月、 長谷川は『歴史を捻ぢる』を上梓しているが、その最終頁に「ロン ドン会議の場所錯誤」を載せている。長谷川が時事に素早く反応し 自身の論を繰り広げていることが窺える。   さ ら に そ の 後 お こ っ た 問 題、 「 統 帥 権 干 犯 」 の ス ロ ー ガ ン の 下 に 政治問題化した軍部の趨勢にたいしては、同年六月の『批判』第二 号に「蝗軍蜂起」を書いている。 「蝗軍蜂起」は、旧約聖書にある、 エホバがイスラエル人奴隷を解放しないエジプトを罰するためにイ ナゴの大軍を下して苦しめた、という故事にことよせたエッセイ的 論考である。長谷川は、 「『奴隷の解放』が叫ばれてゐる間は、エホ バはいつ何時、蝗軍蜂起の悪戯をしないとも限らない、現にエジプ ト政府を手古摺らせてゐるやうに」 と記している。 「蝗軍」 は 「皇軍」 のことを指し「エジプト政府」は天皇制国家の下の政府のことを念 頭において揶揄してい る 図注 。   さらに統帥権干犯問題で民政党浜口内閣にゆさぶりをかける犬養 毅、鳩山一郎に対する論考も発表している。当時の政党政治は、あ いつぐ汚職事件と相手党を倒すための泥試合とで、危機の様相を深 め て い た が、 長 谷 川 は、 「 近 代 政 治 の 機 構 と 政 治 家 の 地 位 ―『 政 治 的腐敗』 に関する一考察」 を 『理想』 (一月号) と、 一〇月号 『批判』 の巻頭で「政治家登録法案」を示し、揶揄するとともに批判してい る 図注 。政治的には、戦前の日本で「憲政」がその頂点に達した年であ る 図注 ように、長谷川も健筆を振っていたことが窺われる。   が、 さ ら に 言 え ば、 「 ロ ン ド ン 会 議 の 場 所 錯 誤 」 は、 も と も と は 一九三〇 (昭和五) 年 『我等』 一月号に掲載されているものである。 ワ シ ン ト ン 条 約 か ら 続 く こ の 会 議 に 対 し て、 長 谷 川 は『 我 等 』『 批 判 』『 理 想 』 の 紙 面 に 論 考 を 立 て 続 け に 発 表 し て い る。 長 谷 川 の ま なざしが鋭く向けられていることを示唆する編集であると考えられ る。長谷川の執筆スタイルを過去の作品とともに鑑みると、その特 徴は重層的なことであるが、論考だけにとどまらず創作もまた長谷 川のデタッチドでありかつ傍観的ではあるが、なにかしら同時代の 時事にリンクする内容と批判精神が秘められていることは想像に易 い。ロンドン軍縮会議は、ワシントン条約から続く世界的な政治問 題である。しかし、日本国内では、統帥権の問題が浮上し憲法問題 に発展した経 緯 図注 がある。   なお、 本作品が描かれている享保年間(一七一六~一七三五)は、 徳川家康が江戸幕府をひらいて約一〇〇年を経た時代である。この 時 期、 経 済 の 発 展、 消 費 の 需 要 に よ る 物 価 高 等、 活 気 の あ る 反 面、 年 貢 に 頼 る 武 士 の 生 活 は 苦 し さ を 増 し て い た。 武 士 の 生 活 状 況 は、

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幕府や藩の財政悪化を示すものであり、年貢のもとになる米の生産 が増えても、米価が下がり支出が増えていたため、大商人から借金 をする大名(本作品の次作『国賊を中心にして』で類似した話の展 開がある) も存在した。 経済力による身分の逆転が顕著になっていっ た時代である。この享保年間を時代に描かれた本戯曲は、一九三〇 ( 昭 和 五 ) 年 七 月 に 発 表 さ れ て い る。 享 保 年 間 か ら お お よ そ 二 百 年 後の社会での歴史物である。 四、政治と作品の関係   本作品の舞台は、一条の朗詠からはじまるが、この朗詠の内容に 関しての説明は台詞にもト書きにも記されていない。戯曲から読み 取れることは、交互唱と思われる大坎御門の朗詠と一条に対する激 賞のみであり、それ以外の詳細はわからない。イメージされること は、一条(=公家)のなす朗詠であることから、その朗詠は雅楽の ひとつと捉えることができ、さらに舞台のはじまりと同時になされ る公家による朗詠は雅なイメージを喚起させる二点である。こうし た雅なイメージを彷彿とさせる本作品は、四辻の笑いによる座の白 けをきっかけに、スピード感あふれる進行がなされる。   ス ト ー リ を 追 う こ と に 集 中 す れ ば 、 甲 冑 の 出 所 と そ の支 払 い や 土 岐 の 持 ち 出 し の巧 み さ の み に 意 識 が 向 い て し ま う き ら い が あ る 。 も ち ろ ん 、物 語 が ひ と の こ こ ろ を 動 か す わ け で あ る が 、 戯 曲 そ の も の の 進 行 や ス ピ ー ド 感 以 外 に 、 冒 頭 の 一 条 の 朗 詠の 存 在 か ら 、 長 谷 川 の 戯 曲 に 込 め られ た 批 判 を 醸 し 出 し て い る こ と を 忘 れ て は な ら な い で あ ろ う 。 雅 さ の 一 端 を 担 う 朗 詠 と 、 一 条 家の 甲 冑 披 露 は 、 臨 席 す る 者 の 絶 賛 の 中 で 引 き 立 っ て い る が 、 こ の 朗 詠 の 内 容 と 甲 冑 の 披 露 が あ わ せ て 激 賞 の 対 象 に な っ て い る も の の 、 そ の 後 の 展 開 と は 距 離 を 置 か れ 、 取 り 残 さ れ て い く 。 朗 詠 の文 句 か ら 読 み 取 れ る 状 況 は 、 季 節 は 花 々 で 満 ち て い る 春 で あ り 、 港 には 、 既 に 王 船 が き ち ん と 列 を な し 待 ち の ぞ む 時で は あ る が 、 帷 を ま と う 船 は ま だ 出 航 し な い 。岸 に は 良 い 香 り が 漂 い 、 書 物 の 間 に 暁 の 夢 が た ゆ た っ て い る 、 と 想 像 で き る 。 し か し 、 甲 冑 の 存 在 は と も か く 、 何 を も っ て こ の 船 が 賞 賛の 対 象 と な り 、 ま た 船 か ら 何 を 示 そ う と し て い る の か は 不 明 で あ る 。   思想家としての軌跡を鑑みれば、一九三〇(昭和五)年の世界的 な動きの中で船にまつわる事柄であり、かつ長谷川の論考にものぼ るそれは、年初から行われたロンドン軍縮会議である。さらに、朗 詠の立派な船がきちんと居並んでいる文句からは、同時代の読者で あれば日仏英米そして伊の五か国の戦艦を思い浮かべることが容易 で あ ろ う。 こ の 王 船 の 朗 詠 に つ づ い て 甲 冑 披 露 の 賞 賛 は、 「 尊 慮 の ほど誠に恐畏の至りに存じまする」と述べる大坎御門の台詞のとお りであるが、一条自身は誉め言葉に対して、したり顔でもなくまた 謙遜することもない。続く一条、大坎御前、徳大寺の文言は、公家 の特徴である雅な体裁を保ってはいるが、対話の内容は以下のよう に過激なものである。

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大坎御門 関東の夷侍どものこの頃の跳梁跋扈。思ふだにこ の胸も煮へ返る心地のいたしまする。 徳大寺 分けて京役人どもの畏れ多くも禁裏仙洞を蔑ろに いたす不敬の振る舞ひ、やがて天罰覿面とは存ず るが、もはや一日もこのまゝに差し置けませぬ。 万理小路 板倉周防めは、禁裏に於かせられ、己に仰せ聞か せられずして公家参内の日取りを定めさせられた と申して、 勿体なくも一天万乗の君を脅かし奉り、 「御んあやまり」の勅語を賜はり、又内膳正めは、 畏れ多くも、天顔を咫尺に拝し奉らんと存じ、宮 中の御体儀をも顧みず、御簾を高く巻き上げられ 候へと奉聞いたすなんど、神威を畏れず天の咎め をも憚らざる野獣の振舞ひ、天地容れざる逆賊と は彼奴等のことでござる。 一条 それと申すも、彼等に武力あって我等にこれなき がためであらうぞ。 二条 甲冑お披露目の御深慮、誠に恐れ入りまして、 一同 ござりまする。   このやり取りから推測される「武力」とは、本日の主役である甲 冑 の こ と で あ る。 甲 冑 自 体 は、 公 家 に と っ て は 無 用 な 長 物 で あ る。 さらに着用の仕方もわからない品を、武力の象徴として捉えるだけ でなく、自身の武力そのものとして披露目まですることは滑稽以外 のなにものでもない。しかし、関東勢や京役人を極めてよく思わな い台詞からうかがえることは、烈しい憎悪であり敵対心の表れであ ろう。 一条達公家の気持ちに沿えば、 出航しない王船は、 一天万乗 (天 子)をはじめとする自分たちを象徴する姿であり、ここでも怒りの 矛先は武士を指していると推測される。   板倉周防と内膳正に対する台詞では、 「禁裏」 「一天万乗」 「勅語」 といった言葉が含まれている。これらはまさしく天皇に対する言葉 であり、板倉、内膳正両者がそれぞれ天皇から勅語を賜り、また直 接交渉に出かけたことが語られている。上奏する板倉と内膳の行為 が、一条たちの許容を超えたものであることが描かれている。怒り こそ覚えても、甲冑を飾ることでしか武力の恩恵にあずかることの で き な い 公 家 た ち は、 滑 稽 で あ る 以 上 に 哀 れ で し か な い。 し か し、 この甲冑に込められた思いは、一条の考える愚かさだけを物語って いるのであろうか。そして、京都所司代の巧みな騙りと思われる流 れで甲冑は奪われる。武力をわがものにするために、甲冑まで用意 し披露する一条の気持ちを優先し、 劇中に描かれる事の真偽よりは、

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甲冑の存在がそれだけ貴重であることを物語っていると考えるのが 賢明であろう。   では、ここからは享保と昭和初期の政治的な類似点を探してみた い。本作品の時代設定である享保年間から想像されるのは、江戸三 代政策のひとつである享保の改革である。この改革は、 一九三〇 (昭 和五)年同様の経済状況すなわち不作・不況に対する緊急政策であ る。そして一九二九(昭和四)年に成立した浜口内閣も享保の改革 同様に政策を行ってい る 図注 が、ロンドン軍縮会議の背景には、この浜 口 内 閣 の 勝 利 が あ る。 そ の 経 緯 を 簡 単 に ま と め る と、 浜 口 内 閣 は 一九二九(昭和四)年に圧倒的な勝利を収めて与党となる。この総 選挙における勝利を背景に、浜口内閣は海軍軍令部が不満を表明し ていたにもかかわらずロンドン海軍軍縮協定に調印する(一九三〇 年四月) 。   これに対して、海軍、枢密院、野党政友会、民間右翼らは、海軍 軍令部長の不同意を無視して軍縮条約に調印したのは、統帥権の独 立 を 定 め た 明 治 憲 法 に 違 反 し た「 統 帥 権 の 干 犯 」 で あ る と 攻 撃 し、 海軍軍縮問題が軍部と内閣の権限問題に拡大し た 注注 のである。統帥権 の独立規定と、海軍の兵力量に関する国際条約である海軍軍縮条約 とは無関係であるが、参謀本部と海軍軍令部のそれぞれの条例にあ る、両部の長が「国防洋用兵」に関しても天皇に直接上奏できると いう「帷幄上奏権」の明記によって、加藤寛治海軍軍令部長が規定 に従い条約調印に先立ち天皇への上奏を試みたが、天皇側近に阻ま れ、さらに加藤の上奏を待たずに内閣が条約調印の指令をロンドン の全権団に発してしまった事が干犯問題の詳細であ る 注( 。   この問題は、軍部と内閣の争いにとどまらず、憲法学者もまじえ る三つ巴四つ巴に拡大されていく。一九三〇(昭和五)年六月の美 濃 部 達 吉 の 表 明 は、 「 統 帥 権 」 が 憲 法 上 の 違 憲 で な い こ と を 前 面 に 押し出す。もともと統帥権問題以前から、 「民政党と政友会の対立」 に 対 し て、 一 部 の 海 軍 側 の 不 満 が 隠 さ れ て い た。 そ し て、 「 安 全 保 障上の観点からする海軍軍縮の是非の問題」から「統帥権」の憲法 上の解釈問題へ発展していった。図3に表した天皇の所在とは、 「海 軍の大元帥」としての天皇と「国家における元首」としての堂々巡 りの言い争いである。 憲法上の美濃部の見解が正論であったにせよ、 「 五 ヶ 国 間 の 軍 縮 条 約 の 是 非 と い う 現 実 問 題 と は、 相 当 に 離 れ た 議 論であっ た 注図 」。   天皇の所在、すなわち統帥権に関する解決のつかない状況は、公 家である四辻と土岐の問答に近似している。また、一条を賞賛する 公家たち対一人大笑いする四辻の構図は、人数の民政党と知恵の憲 政会と重なってくると考えられる。簡潔に言えば、一条派と四辻の 構 図 か ら、 四 辻 対 土 岐、 即 ち 公 家 対 武 家 で あ り( 図 2) 、 同 時 代 の 政治構造(図3)では憲政会と民政会の争いから、政友本党と憲政 会の一部によって出来た民政党対政友会が近しいと考えられる。現 実の世界では、一九二五年の普選後、吉野作造が想像した通り、日 本もようやく二党制の時代に入る。しかし、頻繁な政権交代によっ

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て対中政策が大きく変わることに強い不満を持つ軍部の一部によっ て仕掛けられ、ファッショの台頭した原因の一つとなるのがロンド ン軍縮会議に関連する流れである。軍部が問題にする統帥権は、も ともと軍人勅諭にある軍が天皇の軍であることを強調したものであ り、 第二次世界大戦の敗戦に至るまで、 明治大正昭和の三代にわたっ て軍人精神の源泉として維持された軍の拠り所といえよう。   長 谷 川 は、 「 軍 縮 の 研 究   総 論『 国 家 形 態 に 於 け る 戦 争 の 必 然 と それの回 避 注注 』」のなかで、 「軍備」とは、 「国家そのもの」にとって、 「武装することである」と断言している。長谷川の述べる軍備とは、 「社会形態の用意」 であり、 「社会的武装」 のことである。そして 「社 会的武装即ち軍備」は「他の生産行動に依頼する社会集団にのみ必 然の方法である」 、「いかなる社会も必ず軍備を要するという観念は、 歴 史 的 に も 理 論 的 に も 何 の 根 拠 も な い 誤 謬 で あ る 」 と 述 べ て い る。 さらに「狩猟社会が同じ経済的条件に陥った時には、必然に戦争と なる」と説明している。長谷川は、軍縮の研究というテーマの総論 として述べているが、戦争の必然を他の生産行動に依頼する社会集 団、すなわち自己の生産性を持たない社会に生きる人々が必要とす る武装が軍備であると説明している。さきの論考における蝗軍を皇 軍と置き換えたのと同様に、本作品では公家を時の内閣、所司代を 二政治家、そして狼藉者を軍部とすれば、甲冑をひたすら愛で敬う 精神を揶揄する先に何を示すのかが浮かんでこよう。 図2   『甲冑御披露』構図  

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図3    二大政党と軍部の関係図 おわりに――題目の意味するところ――   戯曲の考察、及び本作品発表年に長谷川が認めた論考の確認、さ らに同時代の政治を確認しつつロンドン軍縮会議、統帥権干犯問題 を中心に概観した。発表年の一九三〇(昭和五)年は、普通選挙制 に基づく二党政治の時代であり、この二党制に不満を持っていたの が海軍の一部の人々であった。この不満が後のロンドン軍縮会議調 印後の統帥権干犯問題に繋がる。本章ではこうした統帥権干犯問題 を整理しつつ、軍縮すなわち軍備に関しての長谷川の見解を確認し た。   一九三〇(昭和五)年時点における天皇の地位は、内閣の長(元 首)と軍の長(大元帥)の両方を兼ねていた。このように、天皇が それぞれの長であることは、憲法上違憲とはならないものの、調印 の是非に関する国の意思決定に直面する時、軍と内閣との間で衝突 が生じた。すでにそれに気づいていた美濃部は、軍令を出す「大元 帥」としての天皇と、勅令を出す「元首」の天皇を別物としてとら えることにより、前者の天皇は後者の天皇に従うという解釈を展開 した。しかし、こうした理論だけで解決するには無理があるのは言 うまでもないことである。   ここで、長谷川が批判の対象にしたのは、軍の承諾を経ずに条約 に調印をしたことに反発した軍の一部による「統帥権」の利用では ない。憲法問題として「統帥権」を持ち出し、利用した二政治家に あった。長谷川はこの統帥権干犯問題を戦前天皇における「専制君

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主と単なる虚器の像」を弄んだろうと述べ、干犯問題を実質的に扇 動した二政治家を痛烈に批判している。   も ち ろ ん、 論 考 に お け る 長 谷 川 は、 丸 山 真 男 が 指 摘 す る よ う に、 デタッチドであり、 その批判は揶揄という形で表明される。それは、 長谷川流であること以前に、長谷川が真に欲しているのが、イギリ ス国民のような日本国民、つまり国民による政治を求めているから である。同年上梓した『歴史を捻じる』の最終頁に「ロンドン軍縮 会議の場所錯誤」を掲載させることからもわかるように、思想家と しての長谷川のストレートではないが故の激昂をうかがい知ること が で き る。 そ し て、 こ こ で は、 軍 縮 会 議 に 派 生 す る 問 題 に つ い て、 論考での揶揄とは違う視点から、無用な争いの愚かさを戯画化しよ うとしたことは明らかである。   江戸時代の公家と言えば、経済的にはとても貧しい状況が伝えら れることが多い。そうした認識にもかかわらず、幕藩体制の支配の もとで、なおその権威を維持し続け、幕末に至るまでには、相応の 家政の仕組みを備えていたことが想定され る 注注 。しかし、その実像と なると、法令についても未解決のままになってい る 注注 という。長谷川 は、公家の生活を同時代の軍部と内閣との確執にたとえ、京都所司 代の土岐を登場させることを通じて暴露させるという発想で、異時 代のそれぞれの堂々巡りの状況を滑稽に描いている。これぞ公家で あることを物語る朗詠に続く甲冑の披露も滑稽の極みである。   四辻が指摘するように、現実的な世界では「甲冑」自体が強さを 与えるどころか何の効力もない。公家の体面を守ろうとするときに 「 甲 冑 」 を 持 ち 出 す こ と が 滑 稽 で あ る よ う に、 ロ ン ド ン 軍 縮 会 議 の 調印を政争の具とするために持ち出され、海軍がこだわった「統帥 権」は、どちらも社会の本質を無視したところで共通している。体 面を繕う公家の姿、自身の損得勘定とともに確信犯的に事を進める 京都所司代、そして、どちらにも共通する生活そのものが苦しい中 では、 享保の時代も一九三〇 (昭和五) 年時においても変わりはない。 長谷川は同時代の政治体制を巧みに利用することにより、公家の日 常的な宴に形を変えて大切な「甲冑」を「元首」と「大元師」の天 皇自身の役割を重ねて表現しつつ四辻の大笑いと所司代の持ち出し の巧みさで両者それぞれに痛快なパンチを食わらせているようにも 見える。設定を江戸時代に置き、怒りは「笑い飛ばしてしまう」江 戸風の筋立てで批判に替えている。   形こそ数百年を遡る公家や所司代を主体としながらも、日本政治 の流れを基にした構図をヒントに、軽く面白おかしく簡潔に描き上 げている。また、終幕の幕切れによって(歴史の)善悪を決めるの は 読 み 手 で あ る こ と を 暗 に 匂 わ せ て い る。 「 歴 史 に 学 ぶ と い う こ と は、先人たちの失敗を嘲笑することではなく、同じような失敗を繰 り 返 し て い る 者 と し て、 先 人 た ち と 謙 虚 に 対 話 す る こ と 注注 」 で あ る。 享保、昭和の時空を凌駕する創作のなかに、読(観劇)者は未来に 向けて歴史を紐解く必要がある。   その後の 「日本回帰」 を外見的に転向ととらえて終わるのみでは、

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