ぐる民族関係 (<特集>台湾をめぐる境域)
著者名(日)
西村 一之
雑誌名
白山人類学
号
14
ページ
53-80
発行年
2011-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002409/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止台湾東
部漁民社会に
大陸漁工をめぐる民族関係
おける中国人
西 村 一 之* Migrant Fishing-Workers from Mainland China in the Eastern Taiwan: Ethnic Relations in Harpoon-Fishing NISHIMURA Kazuyuki* Aging and a serious shortage of fishermen has made Taiwan’s fishery area highly dependent on foreign labor, At present, therefore, Taiwan’s fishing industry is sustained by laborers from Southeast Asia(notably Indonesia)and China. Atown ineastern Taiwan derives its importance from fishing. Fishermen there are comprised of Han Chinese as well as of indigenous people called‘Amis. Many of the fishermen possess their own fishing boats, with the boat owners recruiting crews at the start ofeach fishing season. Given the present shortage of fishermen, their supply is heavily dependent on migrant workers from Indonesia and China. Commonalities in language and lifestyle habits have induced reeruitment efforts prioritizing the latter; Chinese workers are perceived as sharing the same℃hineseness’. In the fishery area of the town, the main language is Taiwanese, which is quite similar to the dialect spoken in the Chinese mainland province of Fujian. In addition, there is an intermingling of the religious customs of the fishermen in this town-exhibiting the characteristics of those found in Fujian, as well as customs left behind by Japanese fishermen. Hence the Taiwanese prefer Min Nan(literally“Southern Fujian”) laborers;after all, both sides manifest Min Nan-Chinese qualities. Yet on the other hand, the Fujian fishermen are also strongly conscious of their difference from the Taiwanese. Fishermen from the Chinese mainland generally were not required for the *日本女子大学人間社会学部;Faculty of Human Society, Japan Women’s University,1-1-1, Nishiikuta, Tama・ku, Kawasaki, Kanagawa,214-8565/nishimurak@fc.jwu.ae.jptraditional harpoon fisheries in the town. Recently, however, some of them have engaged in harpoon fishing together with Taiwanese fishermen. Moreover, close personal relations have developed between the two groups, sometimes even resulting in fictive parent-child relations. While at present the complex political interaction between China and Taiwan has imparted a peculiar quality to the employment relationship between their fishermen, Chinese workers may in future acquire Taiwanese-like positions. キー一一ワード:漁民,台湾,中国,閲南,移動 Keywords:Fishermen, Taiwan, Mainland China, Min Nan, Migrant はじめに 台湾は移民社会と呼ばれてきた。「原住民族」と称される先住民も,元をただせば 東南アジア島嗅部やオセアニア地域をめぐって台湾にやってきたとされ,また人口 の多数派である漢人も中国大陸からの移民である。今,中華民国政府は,「原住民族」, 閲南人,客家人,外省人という4っのエスニックグループを意味する「四大族群」 を明らかとし,多元的社会であることを謳っている。 「原住民族」とは,台湾の先住民族の総称であり,公的名称でもある。オースト ロネシア語系の言語を持ち,主に台湾東部に居住するが,現在は多くが北部あるい は西部の都市部に移住している。そして,後者3グループは漢人系である。閲南人 と客家人は,本省人と呼ばれ戦前より台湾島内に暮らす者とその子孫であり,外省 人とは戦後国民党の台湾撤退に伴って移動してきた人びととその子孫を指す。本省 人の閲南人は,主に中国大陸の南部福建省より16世紀から18世紀に渡って台湾に やってきた。彼らは,母語として台湾語とも称される閲南語を使用する。そして, 客家人はこれに多少遅れて台湾に来たものであり,広東省を中心とした地域を故郷 とし客家語を母語とする。そして,外省人は,政治的要因を基にしたグループであ り,1945年から1949年にかけて中国国民党に伴われて台湾に渡ってきた,中国大 陸の各地を出身地とした人びとで構成されている。なお,この外省人の移動を生ん だ戦後の中国国民党と中国共産党との間の関係は,中華民国としての台湾という領 域のありかたに大きく関連する。そして,1980年代末以降,社会の民主化が進む中 で,新たな人的移動の波が台湾に向かって起こっている。それは,台湾の領域を越 えた海外からの移動であり,配偶者や労働者として流入している。そこで,こうし
た人的移動を巡る研究について簡単にまとめておこう。 近年の台湾への人的移動は,主にタイ,フィリピン,インドネシアあるいはベト ナムといった東南アジア地域をその送り手としている。例えば「新台湾人」そして 「新台湾人之子」と称される,ニューカマーとその子女が社会的に注目を集める。 彼らは,婚姻を理由に台湾にやってきた女性と,彼女らと台湾人男性との間に生ま れた子供たちを指している。その存在は,国際規模での人的移動の一局面を明らか にしていると同時に,台湾住民にとっての台湾社会という自画像を照らし出す働き もしている。この東南アジアからの人的移動を対象とする人文社会科学的研究が行 われている。いわゆるトランスナショナリズムを扱うもので,国家あるいは国境の 存在を前にそれを容易に超えて出入りし移動する人びとに焦点が当てられている。 具体的には,家族や婚姻の理念的なあり方をめぐる新しい台湾の社会現象として, またニューカマーに対する福利厚生や子弟に対する教育の問題として,人類学,社 会学や人口学を始めとする研究者の関心事となっている[紀など2009;施など 2007;横田2005]。そして,こうした婚姻を契機として入ってくる新しい移民に加 え,台湾には多くの外国人労働者が存在する。彼らは,1980年代より深刻化した労 働力不足に対応すべく,やはり主に東南アジアから台湾にやってくる。特に介護者 としての女性外国人労働者は,近年増加傾向にある。この介護者としての外国人労 働者については,先の婚姻を理由として台湾に来る女性たちの存在とも関連してお り,外国人移民の問題であると同時に介護を巡る社会福祉の問題として研究が進め られている[例えば安里2008]。 加えて,台湾社会の人的移動を考えた時,そこにはもう一つ重要な相手を考える 必要がある。それが中国大陸である。中国大陸からの人的移動については,例えば, 台湾本位の社会認識形成が進む中で外省人が持つ国家観や自己認識を巡る研究[コ ルキュフ2008(2004)]や,近年の中華人民共和国(中国)との関係の変化を受け て台湾海峡を渡って中国で活躍するビジネスマン「台商」や婚姻のために台湾にや ってくる中国人女性「大陸新娘」に対する研究がある[郵建邦2009;朱柔若・劉千 嘉2005など]。そして,そのいずれもが特殊な政体間の関係である中台関係とその 変化を踏まえたものであり,特に移動する当事者が持つ多重な国家認識や自己アイ デンティティをその分析の対象とする。後述する通り,台湾と中国大陸の間の人的 な移動は長い歴史がある。だが,その移動には厳しい制限が加えられている。そこ では,国家の強い枠組みや国境の持つ拘束力を前提とした人的移動が展開されてい る。 台湾のマジョリティーである漢人はそのいずれもが時期こそ違え,すべて中国大
陸からやってきた。いわば台湾社会のオールドカマーである彼らにとって,中国大 陸とは「故地」に他ならない。一方,中華民国である台湾にとって,中国大陸にあ る中華人民共和国は,その成立から現在に至るまで,常に政治的に対峙する相容れ ない存在である。本論文で取り上げる中国から訪れる漁業出稼ぎ労働者「大陸漁工」 と台湾漁民の間に形成される関係には,中国大陸に由来する文化的基層としての〈中 華〉を共にしながら,政治的に対立する台湾と中国との結びつきが端的に表れる。 本論文では,この政治的関係を踏まえ,実際の大陸漁工と台湾漁民の結びつきを異 なる他者との日常として考える。そして,台湾漁民にとって欠かせない存在となっ ている大陸漁工の姿を描き出す。これは,トランスナショナリズム研究の視点から 社会学者の王宏仁と人類学者の郭侃宜が「台湾のトランスナショナリズムが台湾の 姿を決定づける」[王・郭2009:24]と述べるように,台湾社会を理解するために は,移動する民族それぞれについてアプローチすると同時に,各民族集団間の関係 に研究の手を伸ばすことが重要と考えるからである。 なお,本文中III章とIV章は,筆者が台湾台東県S町において1993年より継続 的に実施している臨地調査による資料を用いている。調査はS町の台湾漁民と大陸 漁工に対するインタビューと参与観察を主な方法として採った。インタビューの実 施に当たっては,中国語,台湾語(閲南語),日本語を必要に応じて用いた。本文中, 台湾語の表記は教会式ローマ字を用い,中国語の場合は特にことわりを入れピンイ ンで表記している。 1 台湾の労働力問題と外国人労働者 台湾経済について研究する施昭雄[2007]によれば,高度な経済成長を遂げた台 湾では,1980年代,深刻化した労働力の不足を前にして,政府が強い危機感を持ち 始めた。当時,合法的な外国人労働者の受け入れについて賛否が争われるなか,実 際にはすでに不法就労の外国人が8万人程度存在していたとされる。そして,1990 年9月,政府は,外国人労働者の合法的受け入れを決め,翌91年2月にタイから 合法的労働者の受け入れを開始した。これを皮切りに,外国人労働者の数は増加, 男性は建築工事現場などでの単純労働に,女性は介護あるいは看護の現場で補助的 な仕事に就いている。主にタイ,インドネシア,フィリピン,ベトナムといった東 南アジア地域から流入する彼らの姿は,現在の台湾ではきわめて一般的であり,都 市部ばかりでなく農村部でも多く認められる。産業構造の変化を受けて,男性労働 者の数は減少傾向にあるが,女性労働者の需要は高く,一般家庭や専門施設での老
人あるいは障碍者の介護・介助を担っている。 そして,東南アジア地域からの労働者に加え,中国からの労働者の存在がある。 歴史的な経緯から,台湾と中国大陸の間では人的な交流は長くある一方,国際政治 の動向を受けてその移動には厳しい制限がある。1945年に日本の植民地であった台 湾は,中華民国の下に入った。しかし,1949年に蒋介石を中心とした中国国民党(中 華民国)が台湾に撤退,さらに中国大陸で毛沢東を中心とした中国共産党が中華人 民共和国を設立したことにより,「中国」を称する二つの政体が台湾海峡をはさんで 対立することとなった。以降,中華民国と中華人民共和国は,互いの国家としての 存在そして〈中華〉の正当性を争ってきた。当初は冷戦という国際関係の状況を背 景に,正に戦火を交える激しい戦闘状態があり,その後武器兵力を互いに向け合っ てのにらみ合いが持続する。だが,1980年代後半に入り台湾の政治が急速に民主化 し,中国でも改革開放路線が進んでいく過程で,その関係性は戦闘状態から部分的 な接触交流へと変化した。例えば,1986年11月からは外省人の中国大陸での親族 探しである「探親」が可能となり,人的交流の枠が広がり,商業領域における密接 な結びつきへと展開していった。そして,現在は物流や人的移動に関する規制が緩 和され,それぞれの地域に暮らす一般の人びとの中で「大陸人」(台湾側から見た中 国人の総称)そして「台湾人」の存在が身近となっている。台湾側でその一例とな るのが,中国人の出稼ぎ漁業労働者「大陸漁工」Dである。次にこの大陸漁工の台 湾への導入過程について,簡潔に述べておこう。 II 大陸漁工と両岸関係 東南アジアからの人的移動同様,深刻な労働不足を背景とした中国からの労働力 移動が,特に漁業領域において起こっている。本論文では,これまでやや看過され てきた感のある,この中国からの漁業出稼ぎ労働者「大陸漁工」(中国語,daluyugong) について取り上げる。台湾において大陸漁工を巡る研究は決して多くはなく,漁業 経済や労働問題あるいは治安に関する法律上の問題が指摘される経済学や法学的研 究が中心である[劉志儒2001;荘慶達・李新泰2000など]。ようやくごく最近に なって,大陸漁工の人びとそのものを対象とした臨地調査による社会学あるいは人 1)「漁工」とは漁業労働者を指す言葉であるが,台湾の外部から移入してきた者にしか用い られない。そこで,中国大陸から来た者には「大陸漁工」,インドネシアから来た場合は 「印尼漁工」と呼ばれる。以下,本文中ではそれぞれ「大陸漁工」,「インドネシア漁工」 と表記する。
類学的研究が現れてきた。その中で籍建致[2006]は,大陸漁工が寝泊まりする施 設で彼らに直接インタビューを行い,個々の来歴や労働の実態ばかりでなく,出身 が異なる大陸漁工間の認識や他の外国人労働者に対する認識にまで質問が及び,大 陸漁工の実際を知る上で実に興味深い内容となっている。ここでは,先行するこれ らの研究を踏まえた上で,台湾と中国の間の関係「両岸関係」の中で生まれた大陸 漁工について簡単に紹介する。 台湾の漁業界では,いわゆる単純労働である漁携に参入する若年労働者が極端に 少なく,労働者の高齢化と就労人数の減少に悩まされてきた。その打開策として見 出されたのが外国人労働者の導入であった。特に中国籍の労働者は,安価な労働賃 金での雇用が可能な上,コミュニケーション上の問題もないため,急速にその人数 が増えた。そこでは中国人である彼らは,「同文同種較易溝通」(同じ言語,同じグ ループであり分かり合いやすい)とみなされ,言葉だけでなく生活そのものの近さ が強調される。 1990年代に始まる大陸漁工の公的な雇用は,当初遠洋漁船が海外の寄港地で中国 からの労働者を雇い入れることから始まった2)。それが,次第に台湾漁船が仲介業 者を介し中国大陸で大陸漁工を雇用するようになり,さらには中国から台湾近海に 浮かべた船に労働者を送って出港時に彼らを雇用する形式へと変化した。彼らが従 事するのは,アルゼンチンやペルー沖の南太平洋にまで行ってのイカ釣漁,北太平 洋でのサンマ漁,あるいは南太平洋でのマグロ延縄漁である。また,近年は遠洋漁 業ばかりでなく,台湾近海の漁場で作業を行う近海漁業でも大陸漁工が盛んに雇用 されている。 このように,中国人である大陸漁工は,労働力として台湾本島に近づいてきた。 しかし,彼らが中華人民共和国の国民(中国人)であることが,国家安全上の理由 から大陸漁工を「陸」に上げることをこぼんでいる。中華民国政府が,中華人民共 和国に対する見解を示す基本的法律として,「台湾地区與大陸地区人民関係条例」が ある。これによると,主管する政府機関の許可なく中国人が台湾にはいること自体 が罪に問われることになっている。これはつまり,台湾住民と中国人との接触が, 政府レベルの強い規制を受けることを意味する。そして,漁業を巡っては「台湾地 区漁船船主境外雇用及接駁暫置大陸地区漁船船員許可及管理辮法」がある。これは, 2)大陸漁工を始めとする外国人労働者が参入する以前は,台湾先住民男性も現金収入を得る 働き口として遠洋漁業出稼ぎに出ていた。「2年航海」などと称されたこの遠洋漁業出稼ぎ は,先住民集落に貴重な現金収入をもたらすと同時に,それまでの集落のあり方を大きく 変化させ,さらには高雄や基隆といった遠洋漁業基地である港の周辺に新たな先住民集落 を形成した[楊2005;西村2006]。
台湾で雇用される大陸漁工を管理する法律で,元々は2003年に出され最近では 2010年3月に修正され現在の名称となっている(元の名称には「安置」という言葉 が使われ,「暫置」という言葉に変わった。前者は適当な場所に置くという意味があ り,後者には一一時的に置くという意味がある)。これによると,2010年現在,台湾 の船主は大陸漁工の雇用や彼らの送り迎えなどを政府の許可を受けた中間会社に委 託して行うことが定められている。各港では,これまで漁業協同組合が大陸漁工の 管理を担っていたが,中国側が待遇の悪さを理由に大陸漁工の送出を停止し(2002 年から2006年まで),この間戻ることなく不法に長期間滞在していた大陸漁工が存 在したり,台湾漁船が直接に大陸漁工を集めていたため,その管理が不十分になっ ていた。この制度改正には,中間会社に委託することで,改めて大陸漁工の管理体 制を整える意味がある。中国側と台湾側にはそれぞれ会社があり,前者が募集と送 出を,後者が船主の間に入っての雇用手続きと管理を担う。これに依らない大陸漁 工は不法扱いとなる。大陸漁工は満二十歳以上で,中国で乗船作業するための証明 を受け,また遠洋漁業に従事する場合は海員証の発行を受けなければならない。そ して,大陸漁工を乗せた漁船が領海に入り,台湾の水域に入ったのちは,直接生活 施設がある漁港に入り,大陸漁工を隔離された生活施設以外の陸上に上げることな くその施設に運ぶことが定められた。 現在,中国からの出稼ぎ漁業労働者である大陸漁工の存在を台湾で知らない者は いない。台湾における彼らの存在は,社会のマイナス面を象徴している。それは, 彼らが起こす海上作業中の台湾漁民に対する傷害あるいは殺害事件であり,人権侵 害とも受け取れるその劣悪な労働環境である。こうした事件事故を報道するメディ アを通して否定的なイメージが形成され広く流通している3)。 なかでも象徴的なのが「海上旅館」と呼ばれる,大陸漁工の海上居住施設であっ た。彼らは台湾に上陸することが許されていないが,これは岸壁で網の補修などの 仕事をすることも,陸上で食事をし寝泊まりすることさえもが不可能であることを 意味する。中華人民共和国の国籍を持つ彼らは,中華民国である台湾の陸上で自由 に行動することができない。このため,これまで南部の高雄や東北部の基隆あるい は蘇襖など大陸漁工が多く働く港には,彼らが生活する船が海上に浮かべられてい 3)大陸漁工を取り上げたノンフィクション作品として江海の『台湾船・陸漁情 大陸漁工在 台湾的故事』(2006)があるが,これは人権問題を管轄する政府機関である監察院の人権 問題シリーズに収められている。また,通常のニュース報道はもちろん,ドキュメンタリ ー作品も作られている。例えば,2004年に台湾の映像作品に対する賞,金馬奨を最優秀 ドキュメンタリー部門で受賞した『南方襖海洋紀事』(李香秀監督,2004年)がある。な おこの作品は,2005年に開かれた山形国際ドキュメンタリー映画祭にも出品されている。
た。老朽船を改造した狭い空間に押し込められるようにして寝泊まりする彼らの生 活は,非人道的,人権侵害とされ,人びとの注目を集めた4)。現在多くの大陸漁工 を抱える港では,「陸上岸置」と呼ばれる方法が取られ,2006年から前後して「大 陸漁工岸置中心」と名づけられた,彼らが寝泊まりする施設が漁港の傍に作られて いる。しかし,変わらず陸上での行動は厳しく制限され,また土地の人びととの日 常的な接触もほとんどない。台湾東北部のある港町で聞いた大陸漁工についての話 は,まったく彼らと言葉を交わすことはないこと,施設の周囲にゴミが投げ捨てら れて不衛生であることなど,ネガティヴなものであった。なお,こうした施設が置 かれていない小規模な港町の場合は,漁港に係留された漁船の中で生活しなければ ならない。 故郷を同じくし,同じ言葉を話すなど文化的近接性が指摘されることで雇用され ている大陸漁工ではあるが,身近にいながら台湾住民の日常からは切り離され交わ ることがない隣人「中国人」という姿がそこに浮かび上がる。このように,大陸漁 工の存在からは,中華民国である台湾と中華人民共和国の関係が端的に表されてい る。また,大陸漁工の制限された陸上生活が象徴する,双方の国家認識がそこには 存在する。では,「中国」という国家が投影された大陸漁工と台湾漁民との関係はど ういったものなのか,次章では台湾東部の漁港におけるその姿を見ていくことにす る。 III 台湾東部漁民社会における「大陸漁工」 筆者は1993年より台湾東部の沿岸部で臨地調査を行っている。III章とIV章は, この調査を通して得た資料が基になっている。台湾東部地域は,一般に先住民居住 地であり,調査地の台東県S町には先住民アミ(’Amis)が多く暮らしている(図1)。 この町は,日本植民統治末期から戦後初期に漁業領域が確立し,台湾東部有数の漁 業地となった。漁業領域には,漢人が多く参入しているが,先住民アミも漁業に従 事している。近年は政府主導の観光開発が進み,島内レジャーが浸透するにつれ, 観光地として知られてもいる。地域産業としての漁業の重要性は低下しているが, 観光資源としての海洋環境に注目が集まっているなかで,新たな価値が見出されよ うとしているのが現状である。そして,1990年代半ばより大陸漁工がこの町にも現 4)高雄港そばで台風襲来さなかに火災を起こした屏東船籍の海上旅館「元勝二號」の救出劇 は,多くのメディアが取り上げ人びとに大きな衝撃を与えた。詳しくは江[2006,2章と 3章]を参照。 60
黒潮
。夢亀 ● 口 口 台北 図1 台湾全図 れている。 1 S町の漁業概観 歴史的経緯 S町は,東側は黒潮が流れる太平洋に面し,漁業はこの海流に乗ってやってくる 魚類が主な対象となる。また,町の西側は山並みが海岸そばにまで迫り,平地面積 が非常に狭いのが特徴となる。S町漁業の中心は, C漁港である。この漁港の原型 は,日本植民統治期の1932年に完成した。漁港の建設と前後してその北側に日本人漁業移民村が築かれ,ここには和歌山県および千葉県を主な出身地とする公的 移民が暮らし,周辺には沖縄県八重山地方を中心とした自由移民が暮らした5)。こ の漁港の建設と移民事業は,当時の台湾東部開発の一環として行われたものであり, 東海岸にはこの地を含め3つの港と移民村が作られている。S町の移民村では,戦 争の激化に伴う人手不足を補う形で,周辺の漢人および先住民アミをはじめ,台湾 南部H町や離島のM島より若壮年男性が集まって来て,日本人漁民の船に乗り組 んで働いた。日本植民統治末期から戦後直後,…時的に漁業は停滞したが,日本人 漁民との漁携経験を持つ彼らが先導役を果たすことで,戦後大きく成長した。 1945年以降,中華民国の下に入った台湾では,直後より日本人の送還が行われて いる。しかし,一部日本人は政府機関によって徴用(「留用」)され残留した。沖縄 出身者は「琉僑」,以外の日本人は「日僑」と呼ばれた。彼らは,技術者や教育者な ど戦後台湾の経済復興に役立つと目された者が対象となったが,ここに漁民が含ま れていた。アメリカの支援を基に実施されたこの経済振興のなかで,S町でも移民 村に暮らしていた一部の漁民とその家族が,台湾住民に漁携技術などを伝える目的 で残留している。このため,公的機関に接収されまたそこから漢人有力者に払い下 げられた漁船に,日本人漁民が船長や機関長として乗った。そして,台湾住民たち は日本人漁民の下で漁業に参入し,実質的に植民統治期の労働形態が維持された。 また,先住民を対象とした漁業講習施設が作られ,ここに日僑と琉僑の漁民が講師 として一時期所属した。そして,ここでも台湾住民と日本人漁民との漁携が行われ ていた。こうして,日本人漁民との接触を通じてこの地に「漁民」が生まれた。 S町の漁業は,日本植民統治期に開発され,さらに戦後のアメリカ支援を受けて 成長を続ける過程で資本家による漁船経営が拡大し,その後政策的に漁民自身によ る漁船の個人所有化が進められた。1950年代から70年代,台湾語で「ソァティン タオケイ(soan-teng・thau・ke山頂頭家)」と呼ばれる非漁民船主が,資金提供者 となって漁船を保有し,船長をはじめとする乗組員を雇い入れて漁船経営を行った。 この非漁民船主の多くは商人で,当時の近海漁業の活況を前に,有益な投資先とし て漁船を所有し,実際の漁携は船長を頂点とする乗組員にまかせていた。船主と船 長は個別的な関係を結び,船長と各船員はさらに別に関係を結んでいた。80年前後 には,船の所有権を分割して船主と船長が漁船を共同所有する船長の船主化が起こ り,これを切っ掛けとして船長と船員による漁船の共同所有も多く行われ,その後, 船長個人による所有が一般的となった。また政府が一貫してすすめてきた「漁者有 5)ここでは,台湾総督府の移民募集事業に応じて移住したものを公的移民とし,これに依ら ずにS町に移動移住したものを自由移民とする。
其船」(漁民がその船を所有する)の方針も漁船の個人所有を促した。漁業協同組合 に貸付業務部門を置き,漁民が低利で融資を受けられるようにするなど,個人所有 を可能とする環境が整備されたのである。しかし,この頃,S町の漁業は次第に下 降線をたどり,従事者の減少と高齢化も進んだ。若壮年層の多くが,都市部での就 業就学のため故郷を離れ,いわゆる後継者がいなくなった。これには,1970年代か ら次第に調査地一帯にも高度経済成長の影響が及び,人びとの生活は変化,特に消 費生活が大きく様変わりしたことも一因である。日本で3K労働(きつい,汚い, 危険)として敬遠されたように,高度に成長していく経済の中で,漁業の新しい担 い手がここでは生まれなかったのである。また,台湾全体で労働賃金が高騰するな か,下降線をたどり始めた漁業では労働内容に見合うとされるような収入を得るこ とは困難であった6)。そして,漁船所有の個人化はつまり漁船数の増加を意味して いた。これが労働力不足に拍車をかけることとなり,台湾外から従事者を呼び込む 必要が生じたのである。 漁業の状況 S町の漁業は黒潮の流れる海洋環境に適応して展開される。周年操業が普通だが, 漁期は大きく分けて,春から夏(3月~6月)にかけてと冬から春(10月~2月) にかけての2期である。7月ころから9月ころは台風シーズンに当たるため,出漁 できる機会が少なくほぼ休漁となる。そして,時期によって対象となる魚類も漁法 も異なる。春から夏にかけてはシイラやサワラが主たる対象となり,延縄漁あるい は引縄漁が行われる。一方,冬から春にかけてはカジキ類が主たる対象となり,流 刺網漁そして突棒漁が盛んに行われる。一般の漁船はこれらの漁法を時期に応じて 組み合わせ漁携を行う。また,いずれの漁法でも複数の乗組員を必要とし,特に延 縄漁は多くの人手がいる。そして通常,早朝出港し,午後3時ころから開かれてい る魚市場での競りに間に合うように帰港する,日帰り漁を行う。以外には,数日沖 に留まって漁を行ってから港に戻る「バンラウ(pang-la u 放流)」が行われる。 いずれにしても,比較的陸に近いところまで迫ってくる黒潮を漁場とした漁業が営 まれる。 戦後,1960年代から80年代半ばにかけて,この地域の漁業は急成長を遂げ,こ の間町には大量の人口流入があった。大部分は離島M島の漁民とその家族であった。 日本植民統治期に始まるS町の漁業の成長が,現在の町の姿を形成したといえる。 6)当時漁民として活躍していた世代は,危険で収入が不安定な漁業に自身の子供たちが就く ことを望まなかった。 63
漁携関係 元来,S町の漁業領域には慣習化された漁携関係が存在する(図2)。基本的にど の漁においても船主船長と各船員とが個別的に関係を結ぶ。通常,船長は漁船を自 身で所有し船主でもあるため,台湾語で主人を意味する「タオケイ(thau-ke頭 家)」と呼ばれる。船員は「ハイカ(hai’kha 海脚)」という。そして,この船長 と船員の紐帯は,理念的には漁期毎の流動的な結びつきと考えられている。だが, 一方で良いパートナーとの関係を持続することも重要とされている。これは,船長 と船員双方にとって,最も適した相手をスムーズに見つけることを可能にするとと もに,優れた相手との共同労働こそが漁携の成功には欠かせず,船長と船員によっ て結ばれる二者関係の安定化が求められるからである。 船主船長 船員 船員 船員 船員 図2 船主船長と船員の関係 1960年代から1980年代半ばの近海漁業最盛期には,数少ない現金収入を得る手 段として,S町の人びとにとって漁業は非常に魅力的であった。漁船数が増加する 中で,船員のなり手は多く,むしろ漁携技術に優れた船員を見極めることが必要で あった。しかし現在は,船員のなり手が非常に少ないため,その確保自体が大きな 課題となる。そして,船員集めは船長の責任で行われることであり,漁期が始まる 前に乗組みの確約を得るため,船長は前金を渡すなど適当な相手を見つけることに 腐心する。さらに今,人手不足が深刻な中,操業に必要な乗組員数を確保するため に,台湾の外にこれを求めるという手段が一般的となった。 2 台湾東部の漁業と漁業出稼ぎ労働者について 今や外国籍の労働者の存在なしに,S町の漁業,いや台湾の漁業は立ち行かない 64
状況となっている。次に,この町の漁業出稼ぎ労働者について述べる。 大陸漁工とインドネシア漁工 一般的に,人手不足がすすむにつれて「幹部船員本国化,普通船員外籍化」(幹部 クラス船員は台湾人となり,一般船員は外国人労働者へ)が進むとされる。S町で も経験と技術を必要とする役割を担う船員を除き,外国籍の乗組員が雇われること が常となっている。調査地にあるC漁港では,現在大陸漁工とインドネシア漁工が その数を二分している。特に延縄漁や引縄漁では,外国籍の乗組員を多く雇い入れ る。 S町で大陸漁工の雇用が始まったのは,1996年である。彼らは,台湾語で「タイ リョックヒーカン(tai’liok’hi-kang 大1圭漁工)」あるいは「タイリョックア (tai一万o丘一a大陸仔)」と呼ばれる。一時,海のない四川省からも来ていたが,今は 福建省からの出稼ぎ者が多い(図3)。なお,そこでの漁業は,タチウオを対象とし た延縄漁が主である。このうち福建省K県は,台湾漢人なかでも閲南人にとっての 祖籍地の一つである。話す言語は閲南語であり,台湾住民にとっての「台湾語」に 極めて近い。2010年現在,S町の大陸漁工はその多くがK県Z町からの出稼ぎ者 である。かつての中国内陸部四川省から来ていた者は漁携に慣れておらず,雇用す る側からすると期待外れであった。さらに,同じく福建省F市H町から来ているケ ースがあるが,ここの出身者は福州語を母語とし,閲南語を解さないため,S町の 漁民との間では中国語(北京語)でコミュニケーションが取られる。 今,S町の漁民たちに最も望まれる大陸漁工は,この福建省K県Z町からの漁民 である。理由として頻出する点は,言葉が通じることから作業時のコミュニケーシ ョンに支障がなく,沿岸部からやってくる彼らは中国でも漁業を営んでいるため海 上作業に慣れているという点である。しかし,一方で近年,大陸漁工に対する賃金 は高騰しており,漁獲量の減少に加えてエンジン燃料の価格が上がりコスト高が深 刻化する中,より賃金の安いインドネシア漁工の雇用に転換をはかる船主船長も増 えっっある。だが,インドネシア漁工とは意思の疎通に大きな困難がある。漁港に 戻ってきた船を見ていると,船主船長がインドネシア漁工に対し身振り手振りで指 示を出す姿を観察することができる。 さて,インドネシア漁工は町の中に暮らし,仕事後や休日には小売店やコンビニ エンスストアに買い物に出るなど自由に行動している。また,S町には多くの女性 外国人労働者がケアキーパーやハウスキーパーとして暮らしているが,中にはイン ドネシアから来ている者がある。このため,双方が情報を交換するなど同じ出身者
図3 大陸漁工の母村 同士の交流が比較的自由にある。一方,大陸漁工は,陸上での行動が厳しく制限さ れている。日帰りあるいは一定期間沖に出ての近海漁業が主であるC漁港には,現 在のところ大陸漁工の生活施設である「岸置庭」がない。彼らは,普段漁港内に繋 留された雇い主の漁船の中で生活している。食料品や日用品は,雇用主である船主 が購入して船にいる彼らに届ける。また,簡単な煮炊きが出来るよう船には普通プ ロパンガスが備え付けられているため,大陸漁工の中には船主が買ってきた食材を 使って,自炊をする者もいる。漁船は港の内部に重なるように繋留されている。こ のため,互いが行き来することは出来るので,仲間同士で話をすることもできるが, インドネシア漁工の様に陸で生活し自由に出歩くことは不可能である。さらに彼ら は国家安全上,治安管理の対象となる中国人である7)。例えば,港ごとに雇用でき る人数には上限がある。C漁港の場合は最大150名の大陸漁工が雇用可能である。 また,この港に船籍を置く船それぞれが雇用可能な人数も定められている。漁船は 7)陸に上がる自由がない彼らが,まれに港を離れて逃亡し,警察に逮捕されることもある。 また,逃げて行方が分からない者もいるが,こうした行方不明の事案などについてはイン ターネット上で公開されている。 66
乗組み人数が規定されているが,ある船で12名の船員の乗せることができるとす ると,その3分の2に当たる9名の大陸漁工を雇うことができる。なお,2009年 は最大143名の大陸漁工がこの港に所属する漁船で働いていた。 船主船長と大陸漁工の関係 船主と大陸漁工の間の関係は,賃金を介した雇用関係である。2010年現在,船主 船長は通常月当り20,000台湾元(4000人民元強)を賃金として大陸漁工に支払っ ている8)。彼らを取り結ぶ中間会社は,双方に対して契約書を取り交わさせるが, ここに賃金の金額に関する記載がある。ただし,船主との交渉次第ではこれを上回 り,また逆にここから経費として中間会社に払う船主側の仲介料(1人当たり月 3,500台湾元)や食費などが引かれることもある。 大陸漁工の雇用期間は1年間である。そして,周年操業が基本であるS町の漁業 の実態に合わせ,通常の労働期間はこの地の漁期に沿ったものとなっており,2期 に分かれている。第1期は中秋節明けである旧暦8月中旬から旧暦12月まで,第2 期は旧暦正月後から新暦6月末頃までである。っまり,台風シーズンでほぼ休漁期 となる新暦7月から9月までと,漢人にとって重大な年中行事である旧暦正月期間 を,それぞれ区切りとしている。また,単年契約であるが,ほとんどの船主がある 特定の大陸漁工と継続的に複数年間の関係を結ぶ。これについて,S町にある中間 会社出張所によると約70%の船主が前回契約した相手との継続を望んでいるとみ ている。現在,携帯電話などの通信手段が台湾と中国との間で発達しかつ問題なく 利用できることから,船主船長は予めパートナーとなる大陸漁工個人に連絡を取り, 次回の雇用について相談をしている。また,こうした特定の相手が決まるまでは, その都度短期間の契約が繰り返され,大陸漁工からする「良い船主」,船主からする 「良い船員」となると関係が安定化する。 例えば大陸漁工T.K(福建省K県Z町出身)の雇用関係を見てみると,彼は,2003 年9月からS町に来て働いているが,2010年までの間に雇用される船主を頻繁に 変えて11艘の船に乗っている。特に初めの4年あまりの間は流動的に乗る船を変 えている。持続的な関係を結ぶまでの一回当たりの雇用関係は平均3カ月であり, 中にはひと月ほどで船主の下を離れている時もある。そして,現在乗っている船は 8)インドネシア漁工は月17,800台湾元が相場であり,台湾漁民を雇う場合,漁獲に左右さ れるが月5-6万台湾元程度を渡す報酬として見込んでいた。そして大陸漁工に対する賃 金は年々上昇している。漁携に慣れている者で,2001年は月15,000台湾元,後の2008 年には17,000台湾元が相場であった。 67
2007年8月からで,3年間にわたって関係を継続している。流動的に関係を結ぶ相 手を変えていくことが可能である一方で,特定の相手との安定化が図られる漁携関 係は,前述の通りS町の漁業領域において常識的な紐帯のあり方でもある。 また,先述の通り大陸漁工は月給制で雇用されている。台湾漁民を船員とした場 合は歩合制,つまり水揚げから経費を引いた利益が人数によって配分される。船主 と乗組員とで利益を5:5あるいは4:6などと分け,乗組員の間では平等に分ける。 また,多くの水揚げがあった場合は,特別報酬「アンリ(aηg・万 紅利)」が船主の 配当分から渡される。ただし,船の所有権を分割し,船員がこれを持っている場合 は,船主としての配当を受け取る。大陸漁工は船員ではあるが,こうしたいわゆる 伝統的な利益配分が適用される船員ではない。また船主と大陸漁工の間は,資本家 と労働者の関係とも受け取られる。時には雇用する船主による搾取や抑圧が,大陸 漁工に向けられる。このため,船主船長に対し非難の声が上がるあることもある。 なかにはまるで牛のように大陸漁工を働かせる悪い船長がいる。ある船長は 二人の大陸漁工を使っているが,港で食事をしているとき,漁工がおかずに箸 を伸ばしたのを船長が怒鳴りつけ怒った。傍で聞いた妻が,その船長をしかり つけたことがある。ある時彼女が岸壁で彼らを散髪してやると,仕事がきつい とこぼしだし「逃げたい」と話した。後日彼らは本当に船から逃げてしまった。 しかし結局,つかまってしまった。(この船長は)漁に出られない時も網の修 理をさせるなど,彼らを休ませようとしなかった。 別の船長は「シイラを海に落としたら月給減らすそ」と脅しつけて,仕事を させつづけた。やはり,この船の大陸漁工は逃げた。高雄で殺人事件が起こる が,あれば漁工が悪いのではないと思う。実際のところは船長が悪い。 カジキ突棒漁船長(先住民アミ) この先住民アミの船長自身は大陸漁工を雇用していないが,しばしば同じこの町 の漁民である船主船長たちの大陸漁工に対する扱いを否定的に述べる。「牛のように」 働かされている大陸漁工に対する同情的な視線がそこにはある。もちろん,大陸漁 工の側でも不当にきっい労働から逃れるために,延縄漁の活餌や獲った魚を海に流 してしまうなどのささやかな抵抗にはじまり,この言葉にある逃亡という大きな抵 抗が示されることがある9)。 9)漢人である大陸漁工に対する同情の声が,先住民アミの船長から発せられることには意義 深いものがある。台湾の先住民は漢人から長く社会的劣位者として扱われてきた。また,
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こうした船主船長と大陸漁工の関係であるが,すでに1990年代半ばから続く中 で,様ざまな他者認識も生まれている。先に述べたとおり,インドネシア漁工と比 べて大陸漁工は「同文同種」であり,共に働く相手としては望ましく捉えられてい る。しかし,台湾漁民との比較でその差異が広く認識されてもいる。例えば, (大陸漁工には)悪いものもある。大陸には兵役がなく,団結心が低い。船 主の言うことは聞くが,(みんなでの)仕事となるとバラバラで,台湾の漁民 とは違う。服従心もない。言葉が通じ合うだけで,違っている 延縄漁船船長(漢人) という指摘がある。こうした,乗組員の中で形成される仲間意識に対する違いはし ばしば指摘される。台湾の漁民つまりS町の漁民との違いが,漁携の成功に欠かせ ないとされる漁携集団の仲間意識において明らかにされる点は重要である。 3 閲南中華:〈同〉ということ S町の漁業領域では,通称「拝拝」と称される儒教,仏教,道教が混渚した漢人 民間信仰を軸とした宗教観が存在する。船には船主船長が選んだ,嬬祖や水仙王な ど海や航海に関連する神々の写真やそれが祀られている廟からもらいうけた旗「レ ンキー(7eng-ki令旗)」が乗っている。また,旧暦毎月2日と16日には,供物で ある「三牲」(豚肉,鶏肉,魚)を供え祀り手のない霊魂「ホーヒィアティ(ho hian-tin 好兄弟)」に対する儀礼が行われる。つまり,こうした漢人社会の通念が,S町の漁 業領域では共有され実践されている10)。また,漢人の民間信仰において,豚肉は供 物として最も頻繁に使用される。供物は,儀礼が終わるとその場にいた全員で食さ れる。だが,イスラム教徒であるインドネシア漁工は宗教的な理由によりこの供え られた豚肉を口にしない。これに代表されるインドネシア漁工たちが示すムスリム としての実践を前に,S町の漁民は自身との民族的違いを強く認識している。一方, この地の船主船長には先住民アミがおり,彼らが漢人である大陸漁工を雇用する場合もあ る。ここから大陸漁工がこの町の民族集団間関係のコードの中で曖昧な存在であることが 分かる。 10)先住民アミの多くはキリスト教徒である。S町のキリスト教は主に3つの宗派(カトリ ック,長老教会系プロテスタント,新興宗教系の真耶蘇教)がある。このため,アミ船 長の船には十字架がかけられているものがある。また,漢人の行う「拝拝」は行わず, 出港の際に神に祈りをささげる船長がいる。だが一方,自身のキリスト教信仰と別に漢 人漁民が行う「拝拝」を実践するアミ漁民もある。アミ漁民も身近な他者である漢人の 信仰に対する知識を共有している。 69
こうした漢人の民間信仰体系は,台湾漁民と大陸漁工との間ではほとんど同じであ ると考えられている。日常的な「拝拝」に加えて,出産後一カ月目の祝いである「倣 満月」などの人生儀礼,旧暦に基づく正月「過年」や祖先祭祀を行う清明節などの 年中行事といった,生活上の常識がほぼ共通し,その実践を通してある種の同族意 識が相互に確認されている。 また,一般的に大陸漁工がインドネシア漁工に比べ望まれて雇用されるのは,互 いに言語コミュニケーションが取れるという最大の理由があるからである。つまり, 言葉が非常に重要な因子として掲げられる。そこでは,台湾住民と中国住民は,同 じ「中国人」であることが示されている。だが,実際のところ,S町の漁業は,漢 人に加えて先住民アミの漁民がおり,そして彼らの間では台湾語(閲南語)が話さ れる。漢人漁民はもちろん,先住民アミ漁民たちも非常に流暢に台湾語を操り,意 思の疎通に全く問題をみせない。漁携の現場において使われるのはこの台湾語なの である。このため,同じ福建省でも北部のF市H町から来る漁工たちは,閲南語で はなく福州語を母語とするため,S町の漁民たちとは中国語を使って会話がされる。 しかし,しごと言葉ではない中国語を介しての作業はやはりスムーズとは言えない ようで,同じ船に乗って仕事をする相手としては閲南語を母語とする福建省K県出 身者の評価が最も高い。漁携上の関係形成に求められるく同〉のカテゴリーは,台 湾語つまり閲南語を介して示されているのである[cf. Cohen 1968]。 大陸漁工とインドネシア漁工を比較して,S町の漢人および先住民アミの漁民が 言う「語言通,生活習慣比較一様」(言葉が通じ,生活習慣がほぼ同じ)という表現 は,上記のような状況を指している。この時,社会通念がほぼ同じであるという共 通項は,漢人社会つまり中華世界のそれである。台湾東部は先住民が多く暮らして いるものの漢人の生活習慣が深く浸透しているため,S町におけるその「生活習慣」 は,漢人の民間信仰体系が基盤になっている。だが,同じとされる言語についてみ ると,それは高レベルでの共通語である中国語ではなく,S町漁民社会で使用され る台湾語一閲南語なのである。こうしてみると,ここで〈同〉と考えられているの は,閲南漢人的意味世界,つまり閲南中華であることが分かる11)。 11)言語による意思疎通を理由に大陸漁工が高い評価を受けているが,先住民アミ漁民が多 い別の漁港では,アミ語を話すインドネシア漁工が現れている。今,外部からの漁業出 稼ぎ者を雇っていないS町のアミ船長は,もしこの町に彼らが来るのであれば是非使い たいと話す。先住民が多く暮らす東部では,閲南中華とは違った〈同〉の存在が重要と なるのかもしれない。
IV カジキ突棒漁における大陸漁工 次に,外国籍の漁業出稼ぎ者は雇用されない漁法であったカジキ突棒漁に,大陸 漁工が参加し始めた現状にっいて紹介する。このカジキ突棒漁は,S町においては 特別な意味を持つ漁法であり,ここに大陸漁工が入るということは,S町の漁民社 会に深く参入することでもある。 1 S町のカジキ突棒漁の沿革 カジキ突棒漁(台湾語pio ki ’hi錬旗魚)は, S町を代表する漁法である。日本 植民統治期に日本人漁民によってもたらされた漁携技術で,この地を含む台湾東部 一帯で行われている。前述の通りS町には1932年にC漁港が作られているが,こ れも当時すでにカジキ漁が台湾東部において広く行われたことを一因としている。 翌33年に移民事業による日本人漁民が移住し,移民村が作られたが,はじめにや ってきたのは和歌山県と千葉県の出身者であった。この内,千葉県出身者が突棒漁 を携えてきた。後に,黒潮が流れる海洋環境を同じくする他県の移民が募集に応じ て移り住んだ。S町に先行して東北部の基隆と蘇襖に移民村があったが,これらの 港には愛媛県や福岡県からカジキ漁を行う漁民が通漁のため多く訪れ,自由移民あ るいは蘇襖で大正15年度と昭和2年度に実施された移民事業に応じた日本人漁民 が定住した。遅れて作られたS町の移民村には,基隆と蘇襖に住む日本人漁民もや って来てカジキ漁を行った。この時,彼らが行った漁法も突棒漁である。S町の移 民村に暮らしまた往来した日本人漁民たちの間でこの漁法が広く浸透し,元来カジ キ突棒漁を行わない漁民たちもこれを行うようになった。そして,戦後S町ではこ のカジキ突棒漁を柱とした近海漁業が展開した。町はカジキ漁の発展とともに急成 長し,漁業に参加するために多くの人的移動も生み出した。現在の町の姿を形作っ たのは,このカジキ突棒漁に代表される漁業なのである。さらに,観光化が進む近 年は,この漁法がS町の「伝統的漁法」となり,ある種の観光資源としてイベント のテーマや町のシンボルとして扱われている。 2 カジキ突棒漁の漁携集団 ヵジキ突棒漁漁船は,その形に大きな特徴がある。船の前部に長く突き出た台が 付けられ,船の中央には高いブリッジが据えられている(写真1)。この漁法では, 前にのびた台の先端に鈷を持った人間が立ち,カジキ目がけて鈷を投げ,魚を突き 取る。鈷は4,5メートルほどもあり,上下左右に揺れる台の上に立ってこれを投
写真1 カジキ突棒漁船 げるのには高い技術が必要であ る。この鈷を投げるのは船長の 役目となっている。このためS 町漁民の間では,船長には高い 尊敬が寄せられてきた。そして, カジキ突棒漁を行う際の乗組員 には,それぞれ明確な役割があ る(図4)。かつては利益配分も この役割分担に基づいて細かく 定められていたが,現在は船主 と乗組員の間で経費を引いた水 揚げを分け,乗組員の間ではそ の人数で等分されるのが一般的である12)。っまり,船長を含め,乗組員間で配分差 はない。但し,その収入は水揚げに大きく左右され,多く漁獲があればたくさんの 配分が渡されるが,少ない場合はみな同じようにその収入も減る。 また,カジキ突棒漁を行う漁携集団では,他の漁法と比べて乗組員同士の感情的 調和が非常に強調される。冬の東北季節風が強く吹く厳しい天候条件の中で行われ, 人間の力に多く依存した漁法であるカジキ突棒漁は,常に危険および失敗と隣り合 わせの漁法である。船長が船員に求めることは,まじめによく働くこと,波間に見 え隠れするカジキのヒレを探す優れた視力(bak-chiu lkai’lai 目目周 蓋利)に代表 される高い身体能力,そして同じ船に乗っている仲間と良い関係を結び保つ力であ る。船員同士が口げんかなどの争いを起こして,仲間同士の感情的調和を乱す (kam ’ch eng phah 一ρhain感情 打壊)ことは,漁携の失敗を招くと考えられ忌避 される行為と説明される。っまり,乗組員同士の気持ちを合わせて働くことが,非 常に重視されているのである。 また,船長に対してもこうした漁携集団を形成維持する資質が求められる。例え てよく出されるのが,海での出来事は陸には持ち込まないということである。船員 の失敗によってカジキを取り逃がしたとき,船長は船上でこれを激しくののしり怒 る。しかし,陸に戻ってからはその失敗にはこだわらない,そんな船員にいやな気 持を起させないのが,良い船長の典型である(その性格は,しばしば日本語由来の 12)かつての利益配分は,船長L5人分,副船長1.3人分,比魚仔1.1人分,船員1人分, 見習い0.5から0.8人分などとなっていた。こうした配分方法は,植民統治末期から戦 後初期に存在した日本人漁民が行っていたものに倣っているという。
台湾語でa-sa・ノih(阿沙力)と表現 される)。 このように,船主船長を中心にま とまっていることが,船上での作業 をスムーズにし,漁携の成功をもた らすと考えられている。良好な乗組 員同士の関係を評する時に,「ガム ツェン ホ(kam -ch en8力O 感情 好)」あるいは「エーハー(θ・ha 會 合)」といった感情的表現が用いら れるが,こういった良好な紐帯から 構成される漁携集団が理想とされ, また高い漁獲を安定して持続する ための条件とされている。 船長(正錬chian-pio) (漁携長,突き台に立って鈷を投げる) 副船長(左錬cho一ρio) 比魚イ子 (pihi-a) (魚を見て操舵する船員に指示を出す) 船員(海脚hai“kha) 図4 カジキ突棒漁船の漁携集団 3 カジキ漁と民族集団 S町は日本植民統治期に日本人と漢人が前後して移住,周辺に元から住む先住民 アミを加え,複数の民族集団によって住民が構成されていた。そして,町を代表す る漁法であるカジキ突棒漁は,この日本植民統治期にもたらされた。1930年代初め に完成した漁港と移民村を中心として,日本人漁民によって行われたカジキ突棒漁 は,移入当初より複数の乗組員による役割分担のはっきりした漁携集団を構成する。 そこには非熟練者にも役割が与えられており,漁携未経験者の若者が当たった。メ シタキやアブラサシと呼ばれた彼らは,一人前の船員としては扱われなかったが, 船長に認められると船員へそしてさらに重要な役割を当てられ収入も増えた。戦争 が激しさを増す中で,S町では乗組員不足が生じ,町周辺の集落から先住民アミの 若者と漢人の若者が,このメシタキやアブラサシとして日本人漁民の船に乗り始め た。次第に突棒漁に慣れた彼らは,船員あるいはごく一部が副船長や機関長となっ た。また,与那国島を始めとした沖縄八重山地方から多くの漁民がこの地に寄留あ るいは居住し,やはり日本人漁業移民の船に船員として乗組んでいる。こうして, 戦前日本人漁民を中心として,漢人そして先住民アミからなるマルチエスニックな 構成を持つ漁携集団が構成された。 戦後一時期,沖縄出身者を含む日本人漁民は,漁携技術を台湾住民に伝えること を理由として政府により残留させられた。このため,戦前のマルチエスニックな漁
携集団構成も,この間継続した。日本人および沖縄出身者が引揚げた後,S町の漁 業は資金提供者の漢人商人が非漁民船主として漁船を所有し,船長を雇い入れて漁 船経営を始める。1950年代から70年代に盛んに行われた,この経営形態において も,漢人と先住民アミが同じ船に乗ってカジキ突棒漁に従事する姿があった。多く の船長は漢人であったが,船員として優れた先住民アミを好んで集める漢人船長も まれではなく,船長以外の乗組員はすべてアミという船もあった。また,アミの船 長もあり,船には船員として漢人漁民も集められていた。当時,漁携技術に優れて いれば,漢人でも先住民アミでも船長として活躍したし,彼らも共に働く相手とし て自分とエスニシティを同じくする者を必ず選ぶということはなかった。そこにあ るのは,漁携集団を構成する個々が持つ漁携技術と同船乗組員としての仲間意識を 形成維持する力の重視である。 その後,漁船の所有形態が大きく変化し,資金提供者である非漁民船主が姿を消 して漁民による個人所有が一般的となり,漁船数が増加していく中で漁民の数が減 っていった。この個人所有が一般的となった当初,乗組員は父・息子関係など家族親 族関係が軸となった13)。しかし,台湾社会全体の経済成長に伴って,その息子らが 漁業から離れていった。個人所有による漁船は,その大きさも縮小しエンジン技術 の革新も手伝って,必要とする乗組員の人数が10名前後から5名程度と,かつて の半分ほどになっていた。それでも次第に乗組員を集めるのは困難となった。だが, この漁法に必要な特殊な技術と乗組員間の感情的調和が重要な位置を占めるカジキ 突棒漁に,台湾漁民以外の船員は充てられないと長らく考えられてきた。 4 カジキ突棒漁船に乗る大陸漁工 多くの漁民たちの説明によると,カジキ突棒漁を共に行う乗組員として大陸漁工 は向いていないという。カジキを取り扱うある仲買人も「大陸人不好倣錬,不好看 魚(大陸漁工は,カジキをうまく突けないし,うまく見つけることもできない)」 (2009年9月)と話し,大陸漁工にはカジキ突棒漁を行う上で必要な技術と身体能 力を持っていないと説明した。さて,ここで船長T.Y(漢人)の漁船を取り上げる。 彼の船では2010年夏,シイラ延縄漁を行った。この時,T.Yは4名の船員を雇い入 れた。この内,3人は大陸漁工である。このT.Yは, S町でも非常に優れて有名な カジキ突棒船長である。2010年秋にインタビューを行ったとき,丁度これから始ま るカジキ漁の準備時期に当たっており,船はすでに整備され,乗組員の募集も終わ 13)甘えを理由に統率が乱れるため,船長は家族親族を船員として同じ船に乗せることを避 けるべきとする考えもある。
っていた。T.Yは,夏同様4名の船員を雇っていたが,この内1名は大陸漁工であ った。 このように,これまで向かないとされてきた大陸漁工が,カジキ突棒漁船に船員 として乗るケースが現れている。船長T.Yは,2009年にこの若い大陸漁工T.B(福 建省K県Z町,20歳代前半)を突台に立たせ,鈷を投げる練習をさせ始めた。彼 は,この船長の船に雇われて3年が経つが,以前は別の船長(先住民アミ)の下で 1年間延縄漁に従事していた。T.Yの船で彼に割り当てられてきたのは,エンジン の管理,船上での魚の発見や処理といったカジキ突棒漁未熟練者としての作業であ った。ここに最近カジキ追跡時の漁船の操作が加わっている。先に述べたとおり, カジキ突棒漁には,漁携に未熟なものが船上での作業を通して技術を習得していく プロセスが存在している。大陸漁工T.Bはまさにこのプロセスに入ったのである。 船長T.Yは,大陸漁工T.Bが若くて体力があり技術を身につける可能性を見出し た。そこで定石通りT.Bに鈷を持たせ,夏の間にバショウカジキやシイラを突かせ 練習させ始めたのである。2009年秋の時点で,船長T.Yは漁期である冬に入ったら, T.Bを突き台に立たせ試しにカジキを突かせてみると話していた。結局, T.Bはそ の冬カジキを仕留めるまでには至らなかったが,前述のように2010年の冬も船長 T.Yの船に乗ることが決まっていた。船長T.Yは大陸漁工であるTBを,この町の 若い漁民として扱いその技術を教えようとしている。しかし,そんなT.Bに対し, 船長T.Yはある危惧を抱いている。それは,船員に求められる資質の一つである, 同じ船に乗る船員同士の仲間意識の形成と維持に関わる点である。カジキ突棒漁の 乗組員は,船長を中心とした役割分担が明確な構成となっている。この役割もやは りカジキ突棒漁漁民としての経験に基づく漁携技術の習得に応じて,船長により割 り当てられている。乗組員同士はそれを踏まえ仲間意識を形成している。その関係 は船員同士決して平等ではない。しかし,最も若年で経験も浅い大陸漁工T.Bは「同 じ仕事をしているのだから」と他の船員たちから発せられる指示や助言に耳を傾け ることが少ない。これが,乗組員間の不協和音を生み出しかねず,漁携の成功の妨 げになると船長T.Yは考えている。 カジキ突棒漁の際,カジキによって得られる収入と,それ以外は分けて考えられ ている。前者を「トァコン(toa -kon8 大公)」,後者を「ショコガァ(sio -kong-a 小公仔)」と呼ぶ。トァコンは,決められた比率で船主と乗組員の分とに分けられる。 乗組員の分が人数で割られ,取り分が決まる。ショコガァは船主の取り分は無く, 乗組員同士で平等に分けられる。また,カジキ突棒漁においては魚を発見する度に 小遣銭程度(100台湾元位)の報奨金(尾巴銭(boe-a -ch in)あるいは看魚仔
(khoa・・hi-a))が,船主の取り分から渡される。またこれは厳密に,月ごとに精算さ れるわけではない。これまではこうした慣習的利益配分が行われてきた。この中に 今,大陸漁工が入ったのである。大陸漁工は月給制であるため,漁の成否や出漁の 有無に拘わらず船主船長は定まった賃金を支払わなければならない。では,彼らの 月給はどのように作られるのか。船の持ち主でもある船長T.Yは,トァコンを船主 として乗組員と折半している。この時,乗組員には船長としてのT.Yが含まれる。 現在彼を入れて5名の乗組員でカジキ突棒漁を行っているため,乗組員分は5人で 分けられる。だが,この内1名は大陸漁工TBであり,彼には月25,000台湾元の 固定給が渡される。そこでT.Yは,自分の分とTBの分を合わせた乗組員2名分の 利益を取り,この中からT.Bの給与を工面している。ちなみに,元々は20,000台 湾元の月給であったのだが,視力が良く魚を良く見つけカジキ突棒漁に参加するよ うになったT.Bとの雇用関係を安定化させるため,船主船長T.Yは彼に5,000台湾 元の上乗せをしている。そして,食費などを含めT.Bを雇っているためにかかる支 払いは合わせて月30,000台湾元程だという。なお,カジキを発見した時の報奨金 は他の船員同様に渡されている。このように従来のやり方に折り合いをつけながら, 大陸漁工を雇いカジキ突棒漁に取り込んでいる。 こうして,「伝統的漁法」であるカジキ突棒漁に大陸漁工が参加,突き台に立って 鈷を投げ,魚を仕留めようとしている。もともと,エスニックな違いよりも技術力 が優先するカジキ突棒漁に,閲南中華という共通項を持つ中国人である大陸漁工が 参入するのは,さほど難しいことではないのかもしれない。漁携上の必要から協働 し,エスニシティを保ちながら漢人と先住民アミとが異なる隣人として関係を築い てきたS町の漁業領域では,民族集団間関係を形成する回路が備わっている。これ と関連して社会学者の谷富夫が「社会構造=生活構造の中で「民族」役割以外のさ まざまな地位一役割に基づく協働関係(symbiosis)を迂回路として,その過程で互 いの民族性を尊重しながら共同関係(conviviality)を形成する」ことを「バイパス 結合」と呼んでいる[谷2002b:721]14)。 S町の漁業領域における民族集団間関係 も,漁携という仕事に基づいた地位一役割に基づいた協同関係を通じて形成されて きた。そこに深刻な労働力不足を直接的な要因として,国境を背負う格好で台湾に 近づき,まさに水際までやってきた大陸漁工が新たに現れた。さらに従来台湾漁民 14)大阪の大都市に暮らす在日朝鮮人の社会学的研究を行う谷は,そこで認められる労働領 域における民族集団関係について分析し,民族を越えた関係形成の原理が働くところで 結ばれる異なる民族間の紐帯の実態を通してこの言葉を提唱する[谷2002a:161- 164;200]。
のみが可能と思われてきたカジキ突棒漁に参加し始めた。大陸漁工T.Bがカジキ突 棒漁に参入し,台湾漁民の船長T.Yの下で人びとの耳目を集める鈷の突き手となろ うとしているのは,彼が今,出稼ぎ労働者である大陸漁工という単なる労働力とし ての存在から,S町の台湾漁民の一・員になろうとしていると受け取れる。つまり, 外部から多くの人びとを受け入れる形で展開してきた台湾東部S町の漁業領域に, 新たなエスニシティを持った台湾漁民が生まれようとしているのである。 まとめにかえて 台湾と中国の間の関係は,「両岸関係」として個別的に扱われるように,非常に特 殊な結びつきである。かつては互いに一方を取り込もうとし,今,台湾は独自性を 示しての自立を,中国は共通性を掲げての包摂を目指している。ここには,互いの 存在を認め合わない異化の視線と,共通項〈中華〉を基にした同化の視線が錯綜し ている。このため,たとえ双方の必要性から生じている人的物的流れであっても, そこには結合と断絶という相反する動きが存在する。 大陸漁工は,現行の制度上あくまでも台湾の外側に位置し,政治的理由によって 境界的におかれている。大陸漁工が自由に台湾の「陸」にあがれないのは,これを 極めて象徴的に示している。一方で,近年の対中国政策の変化によって,旅行やビ ジネスで中国人との関わりを持つ台湾人は大変多くこれに関する話題に事欠くこと はない。しかし,顔と顔を合わせて共に働き生活する日常的領域となると婚姻を理 由として入ってくる女性と,より制約が厳しいがこの漁工として入ってくる男性に それは限られる。 台湾漁民と大陸漁工は,身近な「両岸関係」を実践している。双方は,中国国民 を対象とした台湾の法制度の下,漁携を共にするパートナーとして接している。そ こでは互いが「語言溝通,習俗一・様」(言葉は通じるし,習慣が同じ),つまり文化 的に〈同〉であることが認識されている。その一方で,例えばS町の漁民から見て 大陸漁工は,中国から移動してきた労働者でありよそ者であることから,カジキ突 棒漁漁船では雇用されてこなかったように,異なる存在として扱われてきた。だが 今,S町を代表し「伝統」として認識されるカジキ突棒漁に参加する大陸漁工が現 れた。振るわない漁業と上昇する彼らの労働賃金を前にすると,今後こうした大陸 漁工が増えていくのかは定かではないが,少なくともこれまで共に働く相手とはな りえないとされてきた中国大陸から来た漁民が,この漁法に関わり始めたことに間 違いはない。さらに,労働関係である台湾漁民と大陸漁工の紐帯が,これとは本質