国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月
はじめに
中世の香取文書のなかに検注帳が六点ほど存在している。このことは 早くから知られており、これまでの香取社領研究において社領の全体構 成や内部構造を分析するための基本な帳簿として検討されてきた。東国 の中世史料としてこれほどにまとまった検注帳類は存在せず、香取社領 の検注帳分析は東国社会における名や作人の存在形態、さらには農民的 土 地所有の性格をめぐる議論のなかでも重要な位置をしめるもので ︵1︶ あった。 ただし、そこでの研究は富澤清人が指摘したように、検注帳に記載さ れた数値を定量分析的に操作したものであり、かつて網野善彦が﹁架空 の 数字をもとにした空疎な議論﹂と批判した荘園や名についての個別研 究とほぼ同じ方法によるものであったことも事実である。富澤は、網野 の 批判を﹁史料学を欠落させたままでは、﹃検注帳﹄は﹃架空の数字﹄ しか語ってくれない、という研究史への反省として受け止めたい﹂とい い、検注帳の分析によって中世における土地所有や領主11農民関係の問 題を考えていくためには、中世検注の実態論的復原と帳簿論とが統一し て進められる必要があると述べている。富澤は山本隆志などとともに、 こうした姿勢から中世検注および検注帳に関する基本的な論考を発表し ︵3︶ たのであった。 本 稿 の目的も富澤や山本などの検注論に学び、香取文書にのこる検注 帳類を史料学的に位置づけようとするものである。また、新しい千葉県 史の編さん事業に参加し、多くの香取文書の現物を調査する機会があり、 検 注帳類を史料学的に検証しやすい立場にあるので、あえて調査記録の ︵4︶ 意 味もふくめて検討してみたいと思う。千葉県史の編さん事業のなかで、 応永六年︵=二九九︶五月日の検注帳︵田地帳と畠地帳︶のうち田所家 本を除く大禰宜家本・録司代家本・案主家本の三本の存在が明確となり、 ら 写真帳によって相互に比較が可能となっている。また、応永六年の検注 帳の作成過程に位置つくものと推定される帳簿をふくむ数通の関連帳簿 も確認できており、応永六年の検注帳自体の史料的性格とともに、同検 注帳作成の香取社領における歴史的な意義についても再検討が必要と なっている。 そこで本稿では、第一章において、香取社領に関する研究史にふれた うえで、社領に属した村郷を中心に香取社領の概要を確認し、第二章で は鎌倉時代の検注帳の史料的性格を検討し、第三・四章において、応永 六年の検注帳の歴史的な意義について検討することにする。そして、お わりにおいて、香取社領における検注帳の性格と、本研究のテーマであ る﹁室町期荘園制の研究﹂とのかかわりについて考えてみたいと思う。 なお、本稿で検討する検注帳は、表1の①から⑧である。0香取社領の概要
香 取 社領についての本格的な研究は西岡虎之助や百瀬今朝雄に始まっ たのであるが、社領の全体的な構成に関して実証的な研究をすすめたの ︵6︶ は福田豊彦であった。福田は、鎌倉・南北朝期の香取社領について、 ①神戸や神郡を前提としつつも、一円的神領化は実現しておらず、の ちに﹁香取十二郷﹂とよばれた村郷は神田や神官名田・千葉氏の名 田・公田などが混在したものであったこと、 ②香取大中臣氏の惟房流に大禰宜職が継承され、大禰宜職に附属する 私領として小野・織幡村は相伝されたこと、 ③これにたいして神主︵大宮司︶職は知房流に継承され、神主職に附 属する私領として二俣・相根村が相伝されたこと、 などを論じていた。福田論考の特徴は、鹿島社領や香取社領が国衙に属表1 香取社領の土地台帳一覧 西 暦 土 地 台 帳 名 l l l l l ‘ ’ ‘ l l l l ‘ 1 | 1 ‘
聯罐i轍灘i灘騰購涙
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〔 1 ‘ 小困樹浅 見1内畑1木 ii竃i川コ 蜘 |l i I ‘ 1 じ ‘ 香離噺畑陣1群
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・ 応保2年 6月3日 1162 大禰宜大中臣実房譲状(禰) 口 日 口 1口 い 日 l l l l l°…°川…ul……川川□…□川ll
i⊥L川川山1山1コ
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iii I ‘ 1 l l l l 口1□旧氾旧 l l l l i l l l l ,」 1 1 十 卜 寸 ト ↓ 十 † 大禰宜帳(×) 葛原牧内小野織幡地帳(案 /分) 案主帳(○)=香取神領 ・ 建長 ①弘長元年 11月25日 ②弘安元年 10月14日③・弘安④正応4年 11月 日・永仁 1249∼56 1261 1278 ?1278∼8812911293∼99 田数目録(案) 新田帳(案) l l l l l l l l l l l l l l l l { ; l l l l l l l l l l l l l l l { l l l l l l l l l l l l l l l l l } 1 ; ; } l l l l l l l l l l l l l l l { 録司代帳(×) 加符村田数目録(案/分) 熾帳(x) 1 ↓ L」 L ﹂ L寸 1 ・ 嘉元2年 4月22日 1304 大中臣実秀等連署和与状 (禰) ,、いい 1日、H††;†1°i°i°i°i°川゜i°iii°iii°i°川゜i llllll lllllllllll ’⊥‘L‥ 」▲lIl‥」 ‘⊥‘ l l lOlαOlO
iii ‘ ‘ 1+ + 1hHHH+ + }
卜 † 卜 ↓ ト→ ← 田所帳(×)/偲剛噸(x) ・ 文保 ⑤正慶2年 4月16日 ・建武 ⑥応永6年 4月16日 ⑦応永6年 5月 日 ⑧応永6年 5月 日 1317∼19 1333 1334∼38 1399 1399 1399 案主帳(O)二香取大領麦 畠検注取帳(案) 圃所帳(x) 香取社領検田取帳写(賜) l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ; l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ; ; l l l l l l i l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l lI l l l 香取神領検田取帳(禰/案 /録) 番囎島… (ネ爾/案 /録) 木村礎・高島緑雄編『耕地と集落の歴史』(文雅堂銀行研究社、1969年)114頁の第2表をもとに作成。 凡例:●○は田地、■口は畠地/綱原は大禰宜家職領→私領/縫1は大宮司職領=物忌職領/*□は大禰宜家本と録司代家本にはない。 出典は本文参照。 71国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 した﹁古代的な﹂性格の所領であったとするとともに、社領に属する村 く7︶ 郷 の意味を評価した点にあったといえよう。 その後、福田による実証的な検討をふまえ、さらに歴史地理学的研究 ︵8︶ によって社領構造についての研究を深めたのは高島緑雄などであった。 高島は、香取社領は遠隔地や特殊な社領と律令郷制の解体と在地領主制 の 展開のなかで成立したものとしたうえで、 ①平安末期の社領は、多数の神官名・在地領主名・一般百姓名の集積 であり、錯綜・散在していたこと、 ②そのうち﹁織幡村﹂︵小野・織幡・綱原村︶は大禰宜家私領であっ たが、﹁織幡村﹂以外は一円所領ではなく、大禰宜家の領主名で あった犬丸・金丸名も散在的な名であったこと、 などを明らかにしたのである。 さきにふれたように、福田をはじめとするこれまでの鹿島社領や香取 社領の研究では、神領とは公領に対置される荘園とは同一視できず、国 衙に属する﹁古代的な﹂性格のものであるとの評価がなされてきたので あった。こうした評価を否定し、新たな読み替えをおこなったのは村井 章介である。村井は鹿島社領を事例として、鹿島社領の﹁公領的性格﹂ ︵9︶ そのものを中世的所領の一形態であるとしたのであり、村井の方法に学 んで、私も香取社領の性格が鹿島社領と同様に、中世的な所領形態をも つものであったと論じたことがある。 香 取 社 領 の 場 合について、私が明らかにしたことは、①社領の基本的 構成は香取社の神物部分と神官職領とからなっていたこと、②平安末期 から確認できる神官職領には大宮司︵11神主︶職領と大禰宜職領とが あったこと、③そのうち大禰宜職領は大禰宜職がはやくに相伝の職と なったため職領の私領化がすすんだこと、④他方、神主職は遷替の職と しての性格がつよく、神主職領の私領化はすすみにくかったこと、など ︵10︶ であった。 こうした研究史をふまえて、香取社領について概観しておきたい。香 取 社 領 の 性 格を考えるに際して、まず検討されるべき史料は応保二年 ︵11︶ ( 一 一 六 二︶の大禰宜大中臣実房譲状である。この譲状は、大禰宜大中 臣実房が﹁私領田畠﹂ならびに香取社の大禰宜職と末社の大戸社宮司 (神主︶職とその社領などを、前神主︵大宮司とも︶であった嫡子の惟 房に譲与したものであった。このとき次男の知房には、同じく末社の神 崎社宮司職とその社領が譲られていた。ただし、この譲状自体はのちの 時代の写の可能性もあり、この譲状に記載された所領等はほんらいは大 ︵12︶ 禰宜職領であったと考えておくことが妥当であろう。このなかで同時代 の史料からも裏付けられる大禰宜家の私領を確認しておけば、それは 「葛原牧内織服村︵織幡村︶﹂と﹁犬丸・金丸二名﹂とであった。前者の 織 幡 村をふくむ綱原︵葛原︶村と小野村の三か村は大禰宜家の基本的な 私領となったものであり、金丸・犬丸名︵総面積11五二町三段一七八 歩︶は大禰宜家の支配する領主名であったことが確実である。他の村郷 としては、﹁村々名畠﹂として香取・大畠・二俣︵田俣・多俣︶・新 家・田太︵多田︶・吉原・津部などの村名が記載されており、さらに 「処 々神田等﹂の所在地として、浅木葉・小見郷・木内郷・福田郷とみ えるのであった。 これにたいして、大宮司︵H神主︶職領の全体像をある程度しめすも のが、建永二年︵一二〇七︶摂関家政所下文写と承元三年︵一二〇九︶ ︵13︶ 関東下知状写である。この二通の文書は一三世紀初頭の神主大中臣広房 ヘ ヘ へ と香取社地頭国分胤通との相論にたいする裁許なのであるが、両者の相 論は神主職領をめぐるものがほとんどであったのであり、ここでの争点 から神主職領の概要を把握することができるのであった。まず争点の 「相根郷︵村︶﹂と﹁灯油田田︵多︶俣村︵二俣村︶﹂は、加符村ととも に 基 本的な神主職領であり、のちには物忌職領として遷替された所領で ︵14︶ あった。これ以外にも、﹁大神田ならびに上分田﹂﹁渡田﹂﹁神宮寺仏聖
灯油修理料等﹂や﹁神宮寺・柴崎両浦︵田畠︶﹂などが神主職領に属し たことがわかるのであるが、本稿では神主職領の三か村︵郷︶に注目し お ておきたい。 また、嘉元二年︵一三〇四︶四月二二日の大中臣実秀等連署和与状は、 鎌 倉後期の地頭勢力の台頭にたいして大中臣一族が合力して社領を保全 しようとするものであった。和与状の事書部分には、 下 総国香取社領葛原牧・小野・織幡・加府・相根・二俣・大畠・佐 なザ 原・津宮・返田・丁古・追野・小見・木内・福田以下村々祖穀検田 容力︶ ︵16︶ 米、浅黄口上分田井金丸・犬丸・大神田・司名々田畠所務等事 とある。ここで和与の対象となった﹁葛原牧﹂以下の村郷は、表1から わかるように香取社領に属する村郷としてもっともまとまったものなの であり、大禰宜職領︵あるいは私領︶および神主職領をふくむ香取社領 のほぼ全体像に近いものとみることができるのである。表1は、上記の 三 通 の 文 書にみえる村郷名と次章で検討する検注帳類にみえる村郷名と を一覧にし、所収文書との関連を表したものである。また表2は、検注 帳類にのる村郷ごとの筆数と面積とを表している。表1によれば、応保 二年大禰宜大中臣実房譲状や建永二年摂関家政所下文写・承元三年関東 下知状写にみえる社領、そして嘉元二年大中臣実秀等連署和与状にみる ことができた社領が、香取社領の全体構成のなかのどのような部分︵位 置︶をしめるものなのかが、一目瞭然である。 そこで次章では、表1・2を参照しつつ検注帳類の性格について検討 していくこととする。
②鎌倉時代の検注帳
1 これまでの研究
これまでの検注帳類の分析方法の問題点については、すでに富澤が検 ロ 討しているが、これまでの研究では検注帳類の史料的性格についてどの ようなものとみていたのであろうか。この点について、どのような見方 や 議 論 があったのかを確認してみたい。表1に記載した検注帳のなかで、 ①から⑧まで番号を付したものが現存するものであるが、これまでおも に検討されてきた帳簿は①②④⑤⑦⑧の六通である。 これらの検注帳の分析によってはじめて香取社領の全体的な構成や性 格を検証した福田にしても、検注帳の分析に先立って検注帳自体の史料 学的検討はおこなっていない。高島も同様であるが、一三世紀末に集中 する検注帳作成の目的は、広汎に進行しつつある名の解体に対処し、名 の 現実の保有者︵11作人︶を確定すると同時に、作人の一部を社役負担 ︵18︶ 者として把握し直すためのものであったとしている。また山本充朗は、 香取社領の検注帳が上分の基盤である下地をしめしたものではなく﹁地 本﹂の台帳であり、神役勤仕の台帳であったとするが、やはり史料学的 む な批判はしていないのである。 そ こで表1の①から⑤までの現存する鎌倉時代の検注帳の史料的性格 について検討してみたい。2 史料的な性格
ね ︻弘長元年葛原牧内小野織幡地帳︵①︶︼ この弘長元年︵一二六一︶一一月二五日葛原牧内小野織幡地帳は、大 禰 宜 職領から大禰宜家私領へと変化しつつあった綱原︵葛原︶・織幡・ 小 野 の 三 か 村についてのものである。後掲するように、冒頭には﹁注進 葛原牧内小野織幡地帳事﹂と記載されており、綱原︵葛原︶村が表記 されていないが、﹁合 高房里﹂から﹁織幡﹂の間の坪付が綱原︵葛 原︶村のものであることは、すでに指摘されているとおりであり、この 検 注 取帳の最初の坪付部分は綱原︵葛原︶村のものなのである。また、 73国立歴史民俗博物館研究報告
第104集2003年3月
表2 検注帳による香取社領の田畠数
①弘長元年(1261) ‘1②弘安元年(1278) |i③年月日未詳(新田帳) ‘i⑤正慶2年(1333) ‘i⑦応永6年(1399)
‘ i⑧応永6乖(1399) i‘ ‘1④正応4年︵1291︶︸
il
i︿神領細取帳﹀‘ i‘ 〈椰鵬検蹴 綱 原 167筆、37町1段240歩1 ‘i
i
i
i
織 幡 158筆44町8段300歩i ‘i
i
1
i
小 野 ‘159筆、32町6段120歩1‘i
i
i
i
丁 古 1224筆、44町7段180歩])ii
i225筆、44町8段 60州 ⊥ 1 ﹂ ﹂ 丁 古il
il
寸144筆、9町1段 0歩1|11
il
44筆、8町3段120歩 T T T ︺ 1 佐 原 i122筆、23町0段120歩 1i
1123筆、22町5段300歩1 ← ← ﹂ ﹂ 侮 原i←
i﹂
1 1152筆、11町2段120歩 ﹂ i↓i﹂
61筆、11町7段0歩 新 部 ‘i102筆、18町9段120歩i
i
‘i103筆・19町0段240歩1‘ ← 4 4 ﹂ ﹂ 新 椰 ←i
i
﹂ ﹂i1曄、3町5段240歩 ﹂i
﹂i
16筆、3町5段240歩 上相根 大相根 i49筆、1。町7段。歩i95筆、16町7段85歩1‘i⋮
ii‘
i48筆、11町3段18。歩l i94筆、16町5段12。歩i‘1‘
十 † ︺ メ ↓ 網 楓i←
1﹂
i﹂
1﹂
11
53筆、66町7段 0歩2〕 返 田 i44筆9町2段60歩i
i
i43筆10町3段 「 o歩i ⊥ ﹂ ﹂ ﹂ ﹂ 遮 働i︷
il
i26筆3町4段18。歩1i;
11
26筆、4町2段260歩 T T T 1 1 苅鍬 馬山 134筆、7町7段60歩 i6ぽ13町9段60歩li
ii
i35筆、8町1段 i62筆13町4段300歩1 60劇 1 加 新 符田 1134筆、28町8段240歩i8蕗4町7段310歩← 1④140筆、31町3段240歩i‘b85筆、4町8段250歩i﹂ ,﹂ii
ii
宙 原i
i
i53筆1。町4段6。歩11
11
53筆、10町5段180歩 大 島i
i
1 ll133筆、28町3段300歩 1 ‘ i133筆、28町8段120歩 灘 宙i
i
i76筆13町8段180歩i
i
74筆、19町3段60歩 遣㎜斤幽 遭 宙 野 本iii
iii
h障記載形式異なるlil﹁
‘ii‘
⋮li‘
16筆、記載形式異なる 16筆、3町2段 0歩 56筆、8町4段300歩3) 合 計 | ; 484筆、114町6段300歩1951筆、178町6段155歩 1
i
ll402筆、80町0段1 l l O歩 11733筆、146町2段180歩1548筆、164町9段200歩 1 1)三里の下に「堀河」(別筆)とある。 * 綱原は田地,丁曲‘は畠地。 2)大禰宜家本・録司代家本に相根の記載はない。3)あと「4升」との記載あり。この帳簿は検注取帳そのものであり、これまでの検注帳論の成果にした がえば、香取社領綱原︵葛原︶・織幡・小野村検田取帳写と文書名をつ けるべきものである。 この検注取帳は、案主家文書と分飯司家文書にのこされているが、案 主 家 のものはもともと冊子であったものが開かれて一紙状態で裏打ち紙 に張られている。表紙にあたる丁はなく、一丁から二一丁の右側までに 本 文 が 書 か れ ており、一二丁の左側に﹁弘長元年十一月廿五日/安主 帳﹂と書かれている。そして裏表紙にあたる可能性がある二二丁は右側 しか残されていない。また、一丁から二〇丁までは各丁の左端︵綴じ込 み部分︶に小さな字で=﹂から﹁二十﹂までの番号がふられている。 これまでは弘長元年十一月二十五日の日付がありながらも、帳簿内の ︵21︶ 追 記などから、この検注取帳は弘長元年のものではないとされてきた。 しかし、ほんらい帳簿というものは追記がくわえられ、さらに書写され ながら利用されていくものである。もともとは冊子であったこの帳簿は、 弘 長 元年の﹁案主帳﹂の正文そのものとはいえなくとも、中世には﹁案 主帳﹂として利用され意味をもっていた検注取帳であったと考えられる の である。なお分飯司家文書のものは、末尾に﹁弘長元年十月廿五日﹂ とのみあるが、筆跡からして﹁案主帳﹂を後代に写したものであり、し かも﹁十一月﹂を﹁十月﹂と誤記している。 つぎに記載内容を確認するため、冒頭部分を掲げておく。 注進 葛原牧内小野・織幡地帳事 合 高房里 十一月四日 一坪六反小内鹸寸庭板中太郎判官代 二 坪良二反 中平神主 三 坪 金丸一反 ﹁同人﹂ ﹁四坪金丸一反小 関田五郎入道﹂ 検注取帳として記載された事項は、二坪を例にすれば、﹁二坪﹂が取帳 へ の 記 載 ( 取る︶順序をしめすものであり、﹁良﹂が所属する名などを、 「 二反﹂が取田の面積を︵斗代をしめす場合も︶、﹁中平神主﹂が名請人 ( 地 主あるいは請作者︶をしめしている。すでに福田が指摘しているよ うに、香取文書中の検注取帳に記載された条里坪付は実際の条里制地割 の存在を意味しておらず、検注における取る作業の順序をしめしている ︵22︶ にすぎないのである。 高島が論じたように、この帳簿は大禰宜家の私領に関する検注取帳で あったということができる。そして表2にしめしたように、この検注取 帳によれば大禰宜家私領の三か村︵綱原・織幡・小野︶は、四八四筆、 一 一 四町六段三〇〇歩ほどの面積があり、大半は金丸名︵大禰宜家の支 配する領主名︶に属していたことになるのであった。 ︵23︶ ︻弘安元年香取神領田数目録︵②︶︼ 弘安元年︵一二七八︶香取神領田数目録は、﹁香取神領田数目録﹂と 旧県史では名付けられているが、内容からみて検注取帳写であり、﹁香 取 社 (神︶領検田取帳写﹂が文書名としてふさわしいものである。この 帳簿も案主家文書にのこされたものであり、もとは冊子であったが現状 では一紙ごとに開かれた状態となっている。旧県史では一丁目︵第一紙 目︶の左側に書かれている﹁香取神領田数目録﹂をもともとの冊子の表 紙にあたると考え、この文書名としたのであろうが、袋とじにすると 「香取神領田数目録﹂の文字は表紙の裏側になってしまうわけで、もと もとの表紙ではないのかもしれない。ただしこの帳簿にも、丁︵一紙︶ ごとに左奥に﹁壱﹂から﹁三十四﹂の番号がふられているが、﹁香取神 領田数目録﹂とある丁が﹁壱﹂とされており、もとの冊子の状態から 「 香 取神領田数目録﹂とある丁が第一紙として綴じ込まれていたのは確 実 である。 また、末尾として﹁本云/弘安元年十月十四日 案主所在判/田所
蹴
糊
/︵録司代在判︶﹂あるのは、三十四丁目の右側に書かれてお0 75国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 裏表紙の裏側に記載されたものである。この記載からわかるように、い くつかの追筆等をふくんではいるが、この検注取帳写は弘安元年作成の ︵24︶ 帳簿を書写したものとみてまちがいないのである。したがってこの帳簿 は、後述するように応永六年の香取神領検田取帳の前提となった﹁弘安 の案主帳﹂の写とみることができるのである。 ︵25︶ この検注取帳写は、二丁目からなんらの事書などなく、本文がはじま るが、冒頭部分は、丁古村である。香取社の﹁神領﹂に関する検注取帳 において、﹁丁古﹂は最初に︵検注される︶取られる村であった。この 帳簿に取られた丁古村以下一〇か村は、①の大禰宜家私領にたいして、 文字どおりの﹁神領﹂であった。神領とは神官職領の集合体とみるべき で、一〇か村のうちの相根と加符の二か村は、さきにふれたように、確 実に大宮司︵神主︶職領である。記載事項は、①とほぼ同様であり、神 領の面積は九五一筆、一七八町六段一五五歩ほどであった︵表2参照︶。 ︵26︶ ︻年月日未詳新田帳︵③︶︼ 年月日未詳新田帳も、案主家文書として伝来するもので、文書名とし ては香取社領新田検注取帳写とすべきものである。その内容は、②の帳 簿の新田部分とほぼ同内容であり、この帳簿は②のもととなった新田の み の帳簿か、②の帳簿の新田部分だけを写したものか、それとも②と共 通する元帳簿からの写か、のいずれかである。もちろん、①や②などの 帳簿の作成過程を考えてみれば、村ごとの﹁日記﹂的な帳簿がさきに あって、それにもとついて検注取帳が編成されることは当然ありうるこ とである。しかしこの新田帳は、貼り継がれた三紙に書かれたもの︵現 状は三紙に分離している︶で、写真をみるかぎり一気に︵同時に︶書き ︵27︶ 写されたもののようで、﹁日記﹂的な様子はないのである。 記載事項は、②の新田部分とほぼ同じであり、筆数︵﹁坪﹂数︶はこ の 帳簿の末尾に﹁以上八十五坪欺﹂あるように、八五坪︵筆︶であり、 面積は②の新田部分よりは若干多い四町八段二五〇歩ほどであった。 ︵28︶ ︻正応四年加符村田数目録︵④︶︼ 正 応四年︵一二九一︶加符村田数目録も案主家文書として伝来したも ので、のちの写が分飯司家にのこされている。もともとは一一丁にわ たって冊子とされていたもので、現状は一紙ごとになっている。各丁の 左端︵綴じ込み部分︶に、確実に﹁壱﹂から﹁九﹂までは小さく番号が ふられている。冒頭には、﹁注進 正応四年障十一月日加符村検田取帳 9 事﹂︵分飯司文書で補訂︶とあり、正応四年︵一二九一︶二月に注進 された加符村検田取帳案というべき帳簿である。 この検注取帳の特徴は、﹁損田数﹂を追記している点にあり、正応四 年=月段階での加符村の検注の成果として損田数を注記した帳簿なの であった。こうした面でこの帳簿は、原本により近いもの、つまり﹁日 記﹂的な性格をもった帳簿なのである。なおその筆数は、②より6筆多 い 一 四 〇筆であり、面積は②より二町五段ほど多い三一町三段二四〇歩 ほどであった。 なお、分飯司家文書のものは、案主家の帳簿の写本であるが、前者は 傷みがひどく、後者によって補訂することができるという関係になって いる。じつは③と④の帳簿は、次章で取り上げる⑥⑦の帳簿と深く関係 するものなのである。 ︵29︶ ︻正慶二年香取大領麦畠検注取帳︵⑤︶︼ 正慶二年︵二三二三︶香取大領麦畠検注取帳は、もともと二九丁にわ たる冊子であり︵現状は、一紙ごとに貼られている︶、各丁の左奥に ︵慶︶ 「壱﹂から﹁二十九﹂の番号がふられている。冒頭には、﹁注進 正きや ︵癸酉︶ う二年みつのとのとり四月十六日 香取大領麦畠取帳事﹂とあり、この 帳簿は正慶三年四月一六日に作成され、注進された香取大領︵大領とは 「神領﹂のことであろう︶の麦畠の検注取帳であったことがわかるので ある。全丁数は二九丁であり、もともとは冊子であったものが現状では 開かれた状態となっている。各丁の左端︵綴じ込み部分︶にやはり、
「壱﹂から﹁二十九﹂の番号が小さくふられている。 ここでも冒頭には村名が記載されていないが、この部分は丁古村の記 載である。また、末尾に記載された﹁返田新畠﹂の記載事項には、取帳 へ の 記 載 (取る︶順序をしめす坪が書かれておらず、面積についても記 載されていないものも多い。さらに=升ねぎはうり︵禰宜祝︶﹂や 「 二升 いち口口﹂との記載もあり、明らかに他の村郷における記載方 法とは異なるのであった。そして、この記載方法は応永六年の畠地帳に も踏襲されていくのである。その﹁返田新畠﹂をのぞく、筆数は四〇二 筆、面積は八〇町ほどである。ちなみにこの帳簿は、香取社領における 畠地の帳簿の成立を意味するものとして重要である。 以 上 のように、①弘長元年葛原牧内小野織幡地帳が大禰宜家私領三か 村 の田地についての検注取帳であったのにたいして、②弘安元年香取神 領田数目録は大禰宜私領を除いた、まさに﹁神領﹂の田地についての検 注取帳であったのであり、①②の検注取帳には応保二年大禰宜大中臣実 房譲状や嘉元二年大中臣実秀等連署和与状にみえる散在神田畠の﹁小 見・木内・福田・浅木葉︵浅黄口︶﹂は除外されているのであった。そ の 理由は明確ではないが、散在神田畠については検注取帳が作成されな かったか、あるいは作成されても伝来しなかったのであり、散在神田畠 が い わゆる神領そのものとは区別された存在であったことは明らかであ る。そして香取社領内の田地の場合、鎌倉中期までには基本的な検注取 帳 が成立していたことがわかるのである。そして、③年月日未詳新田帳 と④正応四年加符村田数目録とは、②に位置づけられた神領内の二村の 検 注 取 帳なのである。 これにたいして畠地についての現存するもっとも古い検注取帳が、⑤ 正慶二年香取大領麦畠検注取帳なのであった。畠地についての検注取帳 も鎌倉時代末までには成立していたのである。
③応永六年香取神領検田取帳について
1 諸本の性格
香 取 社領における土地台帳のうちで、もっとも重要な帳簿が、応永六 年五月日の日付で作成された⑦⑧の応永六年帳である。⑦が田地帳であ り、⑧が畠地帳である。この両帳簿に関しては、これまでつぎのように 評 価されてきた。 福田は、応安七年︵一三七四︶に応安の大争論に勝利し、大禰宜職と いう﹁神職﹂における優位性にたよる支配から、すべての神官・社領に 君臨する封建的な領主に変質した大中臣長房が、﹁社領把握の統一を期 し﹂たものとし、高島も応安の大争論後の社領再編成のために後述する 四帳を総合したうえでの、二二∼四世紀段階の状況をしめす統一台帳で あり、弘長の検注帳とともに香取社領の基本的土地台帳であるとしてい た。山本も地頭代などの非法によって荒廃した神領秩序の再建を意図す るものであったとしている。しかし、これまでの研究では十分な史料学 ︵30︶ 的検討はなされていないのである。 そこで本章においても、応永六年の香取神領検田取帳︵以下、応永六 年田地帳と略す︶の史料的な性格から検討していきたい。 さて応永六年田地帳は、大禰宜・録司代・田所・案主の四社家に伝え られたことがわかっている。しかし、現在確認できるものは大禰宜家 ︵31︶ 本・録司代家本・案主家本のみであり、田所家本は所在が不明である。 本文には若干の異同があるが、基本的には同一の帳簿とみてよいもので ある。なお、賜盧文庫本﹁香取文書 二﹂に収録されている応永六年の 香 取 九ケ村諸名帳写︵賜置文庫本と呼んでおく︶は、帳簿の性格として は応永六年田地帳の作成過程に位置つくものとして重要であるとともに、 77国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 応永六年田地帳の田所家本であった可能性もあるが、この賜盧文庫本に ︵32︶ つ い てはのちに詳しく検討する。以下、各本の特徴を述べておきたい。 ︻大禰宜家本︼ 大禰宜家本は現状も冊子であるが、現在の表紙は後代のものであり、 本来の表紙の状況は不明である。現状の表紙を除く一丁目は白紙であり、 これが本来の表紙だとすると本来の表紙には表題が記載されていなかっ たことになる。そして検注取帳の記載は二丁から二七丁にかけてであり、 二 八 丁 が白紙であり︵本来の裏表紙か︶、そして現状の裏表紙となる。 ︻録司代家本︼ 録司代家本は以前にもふれたように、虫食いや傷みがほとんどなく、 ほぼ作成当時の形態を残している点でたいへん貴重な帳簿である。ただ し現状の表紙・裏表紙は嘉永四年︵一八五一︶六月に装頓されたもので、 渋柿に染められ﹁嘉永四年辛亥六月装背/録司代家所蔵/香取検田取帳 参﹂と書かれている。そして一丁目の本表紙には中央やや左に﹁香取 太神宮検田取帳﹂とあり、中央やや右下に﹁録司代慶海﹂とあるが、 ちょうど中央の部分は擦り削ったようになっている。中央の擦り消し部 分 は た い へ ん に 気 になるのであるが、何が書かれていたのかはいまのと ころ不明である。しかし、現状の﹁香取太神宮検田取帳﹂と﹁録司代慶 海﹂は本文とほぼ同筆とみてまちがいないものである。この点について、 嘉永元年︵一八四八︶になってやっと録司代家本を確認することができ た色川三中は、この冊子本を応永年間頃の録司代慶海の自筆本であると ︵33︶ していた。﹁録司代慶海﹂の文字は草書体に近く崩されているが﹁司 代﹂の部分などは、本文二行目の﹁録司代帳ハ弘安﹂とある﹁司代﹂と 字形がほぼ一致しており、三中の推定は動かないものである。表紙を一 丁目とすると、本文は二丁から二七丁までであり、二丁目から二七丁目 までは各丁の左端︵綴じ込み部分︶に﹁二﹂から﹁二十七﹂と番号がふ られている。そして現状では、二八丁の右側に延文三年五月一日香取九 ︵34︶ ケ村注文が書写され、左側が本裏表紙となっているのである。もちろん、 現 状 の裏表紙は表紙と同じ装頓であり、本表紙の裏にあたる一丁目の左 側にはなにも書かれていないのである。 ︻案主家本︼ 案主家本も嘉永四年に装頓されたものである。現状の表紙には、﹁嘉 永四年辛亥八月装背/案主家所蔵/香取文書 四﹂とあり、録司代家本 の表紙と同筆と推定される。一丁目は左半分しか残っておらず、本表紙 の 形態は不明である。本文は二丁から二六丁に記載されているが、案主 家本には末尾の起請の一部︵﹁当社大明神御罰お各々身上可罷蒙候、伍 所定如件﹂︶と年記および署判が欠落している。写真では最後の二六丁 の 右側が﹁⋮⋮偽申候者﹂で終わるのであるが、左側は白紙である。た だし、写真では二六丁の右側と左側が一紙なのか、あるいは左側は別の 丁なのかは不明である。 なお録司代家本と案主家本はほぼ同筆と考えてよいが、大禰宜家本は 両 本とは異筆のようである。したがって、録司代家本が当時の録司代慶 海の自筆だとすると案主家本も録司代慶海の筆によるものということに なる。また、録司代家本と案主家本の記載内容を比較すると、録司代家 本に記載されている事項が案主家本には欠落している場合がある。慶海 ははじめに作成した案主家本に校合をくわえて録司代家本を完成させた ︵35︶ の であり、案主家本を校合するにあたっては田所家本などが参照された 可能性がたかいのである。 つまり、応永六年田地帳は録司代慶海の手でまず案主家本が作成され、 それを慶海自身が校合して録司代家本を完成させたのであり、そのうえ ͡36︶ で 大禰宜家本が作成されたと考えることができるのである。
2 賜盧文庫本との関係
ところで、応永六年田地帳は実検にもとついた検注取帳ではなく、「四 帳を合わせる﹂ことによって編成されたものであった。では、実際 の手続きはどのようにおこなわれたのであろうか。その点で注目される 史料が、さきにふれた賜盧文庫本である。賜盧文庫本は冒頭に、 ︵応︶ 注 進 口永六年卯月十六日 香取九ケ村諸名帳四帳合 とあり、応永六年田地帳が﹁五月 日﹂とあるのにたいして、四月一六 日という日付を限って香取九ケ村諸名帳の四帳が﹁合わされ﹂︵読み合 ︵37> わされ︶て、作成された帳簿であることがわかろう。帳簿の内容は、他 の 応 永 六年帳と基本的には同じ内容である。つまり四帳とは、応永六年 田地帳の冒頭に書かれていた建長の大禰宜帳と弘安の録司代帳・文保の 田所帳そして弘安の案主帳のことなのである。この四帳が実際に合わさ れたのは四月一六日であったのであり、その時に作成された帳簿がこの 「香取九ケ村諸名帳﹂なのであった。つまり、この帳簿は応永六年帳の 作成過程に位置つくものとして重要なのである。 賜 盧文庫本﹁香取文書 一⊆に収録されているこの帳簿は、末尾に 「 干時応永廿七年庚子閏正月二日書写了、/執筆師什乗群櫛三歳﹂とあり 執筆師什乗が年齢七三歳の時の応永二十年︵一四二〇︶閏正月二日に書 写したものの写本であった。この執筆師什乗とは、応永二八年︵一四二 一 )に丁古内の屋敷や田地を弥四郎祐房宛に譲っている﹁高倉目代師什 ︵38︶ 乗﹂と同一人物と考えられるのであり、譲与先の弥四郎祐房が田所祐房 であったことからすると、什乗自身も田所家出身の人物であった可能性 がたかいのである。そうだとすると、賜盧文庫本の原帳簿は田所家に伝 来したものとみることができるとともに、応永六年田地帳は田所家本の 可能性もあるのである。 かりにそうだとすると、応永六年田地帳は同年四月一六日に先述の四 帳が合わされて、賜盧文庫本︵田所家本の原帳簿︶が作成され、五月に なってその原帳簿にもとついて、録司代慶海が案主家本を作成し、さら に案主家本に校合を加えて録司代家本を完成したのであり、さらに別の 人物によって大禰宜家本が作成されたものと考えられるのである。そこ で 試 みに、前掲の弘安の案主帳と賜盧文庫本、応永六年田地帳のうちの 案主家本・録司代家本・大禰宜家本の冒頭部分を比較してみたい。 (弘安の案主帳︶ 大祝二反 一坪司神拝田五反内目代二反 孫太郎一反 二 坪吉宗私二反
三 坪 金丸二反内醐謂贈+甑赫 なカ 四坪吉清私一反小 検口 ( 賜 盧文庫本︶ 二反 五藤三郎 一坪司神拝田五反内二反目代 ↓反 大祝 二 坪
吉次私二反手
三 坪 金丸二反内+反藤榊嚇嶋祝 四坪吉清私一反小 検校 ( 応 永 六年帳︰案主家本︶ 一坪司神拝田五反内仁版ユ噸三郎 二 坪
吉次私二反手
三坪金丸二反内+反勧太㈱ソハタヵ祝 四坪吉清私一反小 検校 (応永六年帳一録司代家本・大禰宜家本︶ 二反 五藤三郎 一坪司神拝田五反内二反目代 二反 大祝 二 坪 吉次私二反 手
三 坪 金丸二反内+反勧太榊肥ハタヵ祝 四坪吉清私一反小 検校 一坪をみてみれば、弘安の案主帳では司神拝田五反内が﹁大祝二反/ 目代二反/孫太郎一反﹂とあったものが、応永六年四月一六日におこな われた他の三帳との合わせの結果、賜盧文庫本では﹁二反 五藤三郎/ 79
国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 二 反 目代/一反 大祝﹂と修正されているのであった。そして、五月 になり録司代慶海が案主家本を作成した際には、﹁二反 五藤三郎/目 代 二反﹂として、=反大祝﹂を欠落させてしまったのであるが、 録司代家本の作成にあたっては、その部分を﹁二反 大祝﹂︵弘安の案 主帳などによって校正したのであろうか︶と記入し、それは録司代家本 を書写したものと考えられる大禰宜家本にも踏襲されたのである。 もう一点、三坪の金丸二反内の場合、弘安の案主帳では﹁脇鷹神一反 小﹂とあったものが、賜盧文庫本では=反 神脇鷹祝﹂となり、案主 家本で⊃反小 神ソハタカ祝﹂と修正され、録司代家本・大禰宜家本 では案主家本の記載が踏襲されているのである。もちろん、校合には他 の帳簿が使われた可能性もあり、現存の帳簿のみからこうした帳簿の編 成過程や関係・関連を推測することは危険かもしれないが、一応こうし た関係があったものと考えておきたい。
3 応永六年田地帳の意義
現存する三本の応永六年田地帳の冒頭はともに同文であり、つぎのよ うに記されている。 注 進 香 取御神領検田取帳事 大禰宜帳ハ建長、録司代帳ハ弘安、田所帳ハ文保、案主帳ハ弘安、 合 彼 四帳、応永六年二社家・地頭・公人寄合、為後証所注置也、敢 勿疑 、 つまり応永六年田地帳は、それ以前に存在した建長の大禰宜帳・弘安の 録司代帳・文保の田所帳・弘安の案主帳の四帳を合わせて、社家・地 頭・公人が寄り合って後証のために注し置いたものなのである。では、 応永六年田地帳編成の前提となった四帳はのこされているのだろうか。 表1にはこの四帳の位置もしめしておいたが、四帳のうちで現存する帳 簿と対応する可能性があるものは、残念ながら前章で検討した弘安元年 香取神領田数目録︵②︶のみであり、②を弘安の案主帳とみることは十 分に可能であると判断している。 建長の大禰宜帳・弘安の録司代帳・文保の田所帳にはどのような村郷 が記載されていたのかは残念ながら不明であるため、ここでは弘安の案 主帳︵②︶と応永六年田地帳︵⑦︶との関係を少しだけ検討しておきた い。弘安の案主帳が作成されたのは弘安元年︵一二七八︶であり、応永 六年︵=二九九︶までは一二一年ほど経過しているのであるが、取帳の 記載内容に基本的な変化がないことに驚かされる。まず、さきに引用し た取帳部分の冒頭にかぎった場合、変化したところとしては、一坪が五 反内にもかかわらず﹁孫太郎一反﹂が﹁二反五藤三郎﹂と変化したこと で 五 反内との矛盾がおこっていること、二坪では﹁吉宗﹂が﹁吉次﹂へ か わ っ て いること、三坪では、﹁脇鷹神﹂とあったものが﹁神ソハタカ 祝﹂と記載表現がかわっていること、同じく三坪で﹁藤二郎入道﹂が 「藤太太郎﹂にかわっていること、のみである。 また全体的には、﹁丁古一里﹂︵冒頭部分︶において、弘安の案主帳で は坪数が三六坪までであるのに応永六年田地帳には﹁舟七≧吉千代私三 反 講田手﹂があること、弘安の案主帳には同﹁三里﹂の下に別筆で﹁堀 河﹂と追記されていること、佐原四里は弘安の案主帳では一四坪までで あるが、応永六年田地帳には﹁十五≧司一反同神藤作入道作﹂とあるこ と、苅馬は弘安の案主帳では三四坪であるが、応永六年田地帳には﹁舟 五富永御名三反 三郎太郎﹂があること、大相根三里は弘安の案主帳で は﹁廿三坪司大 三郎太郎﹂まであるが、応安六年田地帳では二二坪ま でしか記載されていないこと、同様に返田二里は弘安の案主帳では七坪 が 二度続けて記載されているが、応永六年田地帳では七坪の記載は一度 でおわっていること、などにすぎないのである。 もちろん、こうした一坪ごとの記載内容の変化の意味を問うことも重 要であるが、弘安の案主帳と応永六年田地帳とのもっとも重要な相違点は、表1からもわかるように、応永六年田地帳には﹁新田﹂と﹁加符﹂ の 部 分 が 抜け落ちていることである。つまり、応永六年田地帳とは弘安 の案主帳から、新田と加符を除いた帳簿ということになるのであり、 「彼の四帳を合わせる﹂とはいっても、四帳をあわせた最大の村郷数で はなく、四帳に共通した村郷が応永六年田地帳において確定されたもの というべきであろう。弘安元年から応永六年までの間に、新田と加符は いわゆる﹁神領﹂から除外されたのである。この間の帳簿である﹁弘安 の 録司代帳﹂と﹁文保の田所帳﹂にはどのように記載されていたのか興 味ある点であるが、これらの帳簿は現存しない。そこで注目される帳簿 が、前出の年月日未詳新田帳︵③︶と加符村田数目録︵④︶である。両 帳簿の性格については前章で述べたところであるが、年月日未詳新田帳 も弘安元年から応永六年までの間に作成されたものだとすると、両帳簿 は新田と加符とが香取﹁神領﹂から分離される過程で、あるいは分離さ せる目的で作成された帳簿の可能性があるのである。 もともと弘安の案主帳︵弘安元年香取神領田数目録︵②︶︶に記載さ れた丁古村以下十か村は、弘長元年葛原牧内小野織幡地帳︵①︶に記載 された大禰宜家私領の三か村を除いた、文字どおりの﹁神領﹂であった と考えられるのであり、その十か村のうちの二か村がさらに﹁神領﹂か ら分離したのである。二か村のうちの加符村はもともと相根・田︵多︶ 俣 (二俣︶村とともに大宮司︵神主︶職領であったが、のちには物忌家 の 私 領となり、さらに大中臣長房による両職兼帯によって大禰宜家私領 ︵39︶ に取り込まれ、新田は地頭領に組み込まれたものと推定されるのである。 こうして香取﹁神領﹂のうち田地は、弘安元年には十か村、九五一筆、 一 七 八町六段一五五歩ほどであったものが、応永六年には八か村、七三 三筆、一四六町二段一八〇歩とされたのであった︵表2参照︶。しかし、 弘安の案主帳︵②︶と応永六年田地帳との間では、加符と新田が分離し たことを除くと、個々の村郷ごとの筆数と面積がほとんどかわっていな い の であり、この点は香取社領における土地台帳の意味と社領の性格を 考えるうえで重要な論点となるのである。 つぎに末尾の起請文と署判について検討してみたい。 此外、可有注漏候、追可注進候、 右、為後証、社家・地頭・公人同心、更不存私、応永六年注置処也、 若此条偽申候者、 当社大明神御罰お各々身上可罷蒙候、伍所定如件、
応永六年旧五月 日 案主︵花押︶ 9 田所︵花押︶ 録司代︵花押︶ 宮介代紀右近三郎左衛門尉︵花押︶ 大禰宜兼大宮司散位長房︵花押︶ この起請文によれば、応永六年田地帳には社家・地頭・公人が同心し、 さらに私を存ぜず注し置いたものであった。署判は案主・田所・録司代 の 三奉行と、宮介代と大禰宜兼大宮司である。この案主・田所・録司代 の 三奉行と大禰宜のもとに四帳があったわけである。 ところで、一味同心している社家・地頭・公人とはだれをさすのであ ろうか。社家とは、詳述する余裕はないが、応安年間に大禰宜職と大宮 司職をともに相伝し兼帯することによって香取社の権力を一元的に掌握 した大中臣長房のこと、あるいは長房によって大宮司職をも取り込んだ ︵40︶ 新 たな大禰宜家のことを意味しているのである。 地 頭とは宮介代紀右近三郎左衛門尉のことであるが、地頭とは香取社 地 頭 のことであり、以前に述べたように、はやくに香取社地頭の地位を ︵41︶ えていたのは千葉氏一族の国分胤通である。近世の史料には﹁宮之介
桁
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モ コクブ国分権頭﹂とあり宮介11地頭11国分氏との認識 ︵42︶ はのちの時代にも引き継がれたものであった。また、嘉慶二年︵一三八 八︶の史料には﹁地頭代兼宮介生蓮胎瀦﹂とあり、中村胤幹が地頭代で 81国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 ︵43︶ あったことは確実である。応永六年田地帳の場合は﹁宮介代﹂とあるの で 「宮介11社地頭﹂ならば宮介代とは地頭代のこととなる。ところで 「紀右近三郎左衛門尉﹂は、他の史料では﹁紀右近三郎左衛口口﹂や 「 口 所 中村三郎左衛門屋敷丁古﹂とみえる、中村三郎左衛門と同一人 ︵44︶ 物と考えてよかろう。 ちなみに香取社地頭代の中村氏については、応安の大争論での地頭側 の 現 地 の中心勢力であったことが知られており、なかでも中村胤幹こそ は貞治四年︵一三六五︶正月と翌年二月に香取社の宮中に押し寄せ、仮 嬬 殿に放火し、神輿に射立て、八龍神木像を切り砕き、神人を殺害刃傷 ︵45︶ に及んだ張本人であった。しかし、応安の大争論が大禰宜長房側の勝利 におわったあとは、地頭代は中村胤幹ではなく別の人物が任じられた可 能性がたかいわけで、胤幹にかわる地頭代こそが中村三郎左衛門︵尉︶ であったのではないか。宮介代の紀右近三郎左衛門尉とは中村胤幹と同 族 の中村氏なのであり、胤幹の後の地頭代は紀右近11中村三郎左衛門で あったとみてほぼまちがいないものと考える。したがって、一味同心し た地頭とは﹁宮介代紀右近三郎左衛門尉﹂と署判した香取社地頭代の中 村 氏 だ ったとみてよいものと思う。 のこる公人とは、録司代・田所・案主の三奉行のこととみてまちがい あるまい。中世における公人とは、一般に﹁公権を所有する権力機構に ︵46︶ 所属し検断など公的活動に従事する職員﹂と定義されており、中世香取 社において公人とは録司代・田所・案主の三奉行のこととみてよかろう。 つまり、応永六年帳を編成するにあたって一味同心した社家・地頭・ 公 人とは、当然のことであるが、この起請文に署判した大禰宜兼大宮司 (‖社家︶と宮介代︵‖香取社地頭代︶と三奉行︵‖香取社公人︶のこ とであった。これまでにも指摘されてきたように、この帳簿は神訴に よって社家の大禰宜長房側が千葉氏などの地頭勢力によって押領されつ つあった﹁神領﹂を回復し、そのことを証明するものとして作成された ものである。したがって、香取社地頭代の中村氏が宮介代として起請文 に署判していることが重要なのであった。こうした意味で、応永六年帳 (田地帳と後述の畠地帳ともに︶に記載された田畠は地頭あるいは地頭 ︵47︶ 代側も認めた﹁神領﹂を意味したのであり、香取﹁神領﹂は鎌倉中期段 階までの香取社領を縮小するかたちで再編されたのである。
④応永六年香取神畠検注取帳について
1 諸本の性格
つぎに応永六年︵一三九九︶香取神畠検注取帳︵⑧︶について検討し ︵48︶ て みたい︵以下、応永六年畠地帳と呼ぶ︶。応永六年畠地帳は、応永六 年田地帳︵⑦︶が田地の帳簿であったのにたいして畠地の検注取帳で あった。中世の香取社領においては、応永六年五月に﹁神領﹂の田地と 畠地の両方の帳簿が整えられたのである。応永六年畠地帳の冒頭部分に はつぎのように記載されている。 注進 香取御神畠検注取帳事 大禰宜帳ハ永仁、録司代帳ハ文保、田所帳ハ建武、案主帳ハ正慶、 合 彼四帳、応永六年二社家・地頭・公人寄合、為後証注置処也、 応永六年畠地帳の場合は、永仁の大禰宜帳と文保の録司代帳・建武の田 所帳そして正慶の案主帳の四帳を合わせることで作成されたものであっ た。 表1からわかるように、畠地帳の場合も永仁の大禰宜帳と文保の録司 代帳・建武の田所帳は現存していないのであるが、正慶の案主帳は第一 章で検討した正慶二年︵一三三三︶四月一六日香取大領麦畠検注取帳 (⑤︶にあたるものと考えられる。また、応永六年畠地帳も大禰宜家 本・録司代家本・田所家本・案主家本が伝来したはずなのであるが、現存するものは大禰宜家本・録司代家本・案主家本のみであり、田所家本 は色川三中が確認して以降、現在までのところ所在は不明である。また、 各本の史料的な性格は応永六年田地帳と基本的には同じであるが、畠地 帳 に関する所見を記しておきたい。 ︻大禰宜家本︼ 大 禰 宜家本は畠地帳も冊子であり、表紙・裏表紙とも田地帳と同じで ある。本来のものと思われる表紙・裏表紙とも文字の記載はなく白紙で ある。本文の記載は二丁から三二丁にかけてであり、三三丁が本来の裏 表紙であろう。なお、三二丁の左側奥︵綴じ込み部分︶に﹁已上舟一 丁﹂とみえることからすれば、一丁目と三三丁目は表紙と裏表紙として、 丁 数に入れていないことがわかる。また、田地帳と同筆である。 ︻録司代家本︼ 録司代家本は畠地帳の場合も、虫食いや傷みがほとんどなく、ほぼ作 成当時の形態をのこしている帳簿であり、現状の表紙・裏表紙も田地帳 と同じく嘉永四年六月に装頓︵背︶されたもので、渋柿に染められ﹁嘉 永 四年辛亥六月装背/録司代家所蔵/香取御神畠検注帳 四﹂と書かれ て いる。そして、一丁目の本表紙には中央やや左に﹁香取太神宮御神畠 検 注 取帳﹂とあり、中央やや右下に﹁録司代慶海﹂とあるが、ちょうど 中央の部分は擦り削ったようになっている。畠地帳も慶海の自筆とみて よく、本来の表紙を一丁とすると本文は二丁から一九丁までであり、畠 地帳の場合もこのあと二〇・二一丁に、延文三年の帳を書写したとある 香 取 社 領相根村本畠検注取帳写が綴じ込まれ、二二丁目が本来の裏表紙 ︵49︶ になるのである。 ︻案主家本︼ 案主家本の畠地帳も嘉永四年に装頓されたものであり、現状の表紙に は、﹁嘉永四年辛亥八月装背/案主家所蔵/香取文書 五﹂とあり、や はり録司代家本の表紙と同筆と推定される。一丁目の傷みはひどく、裏 打ち紙に張られており、本来の表紙部分に文字は記載されていない。本 文は二丁から二一丁に記載されており、本来の裏表紙部分は右側しかの こっていない。起請文の書かれた二一丁の折り目部分ははなはだしく欠 損しており、年記部分と案主の署判部分は一部しか確認できない。花押 は田所と録司代にあり、欠損部分の案主にも花押はあったものと推定さ れる。しかし、﹁宮介紀右近三郎左衛門尉﹂と﹁大禰宜兼大宮司散位長 房﹂には花押が書かれていないのである。この点では案主家本は案文的 な性格をもつ帳簿というべきかもしれない。 畠地帳の場合も、録司代家本と案主家本はほぼ同筆と考えてよいが、 大禰宜家本は両本とは異筆のようであり、案主家本も録司代慶海の筆に よるものということができるのである。そうだとすると、畠地帳の場合 も四帳を前提に録司代慶海によって案主帳さらに録司代帳が作成され、 録司代帳にしたがって大禰宜帳が完成されたものと考えられるのである。
2 応永六年畠地帳の意義
では田地帳と同様に、四帳の一つの正慶の案主帳︵⑤︶と応永六年畠 地帳の案主家本・録司家本そして大禰宜家本の関係を確認しておきたい と思う。まずは、各取帳の冒頭部分を比較してみたい。 ( 正 慶 の案主帳︶ 一坪吉千与私五反内 五郎四郎 二≧吉千与私一反 二郎三郎三 ≧吉通私二反小内︸駆幹鯵ぱ榔欧㎜入道 四≧吉安口口口 ふつけう (応永六年畠地帳︰案主家本・録司代家本・大禰宜家本︶ 一坪吉千代私五反内焙蝸頭郎五螂鋼ぷ人 二坪吉千代私二反 同人 三坪行事禰宜私二反小手 83
国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月 四坪吉安私二反 静覚法橋 引用部分の一坪では﹁五郎四郎﹂が複数名に変化しており、二坪では面 積が一反から二反へ、そして﹁二郎三郎﹂が同じく複数名に変化してい る。三坪では﹁吉通﹂が﹁行事禰宜﹂となり、作人の記載も変化してい る。四坪も作人名は異なっているのである。これが六六年間の変化とい うことになる。なお引用部分については、応永六年畠地帳の案主家本以 下の諸本には異同はないのである。 また全体をみてみると、吉原二里において正慶の案主帳︵⑤︶には 「十七・良一反 さうめうつくり﹂とあるが、応永六年畠地帳の案主家 本と録司代家本には、一七坪は記載されておらず、大禰宜家本において は﹁十七≧良一反 権禰宜四郎﹂とあるのである。畠地帳の場合、大禰 宜家本は録司代家本をそのまま書写したものではないのであった。また、 返田新畠については、正慶の案主帳には一四筆目として﹁二升 いち口 口﹂があるが、応永六年畠地帳の各本には記載されていないのである。 応永六年畠地帳の作成に際して、四帳を合わせるなかで除外されたもの であろう。 こうした個別的な相違点にたいして、大きなちがいの第一は、正慶の 案主帳にはまったく記載されていなかった追野村一六坪︵筆︶と宮本の 二 里にわたる五六坪︵筆︶が応永六年畠地帳の各本には記載されている こと、第二は、正慶の案主帳にもなかった相根の二里にわたる四八坪 (筆︶が、応永六年畠地帳の案主家本にのみ記載されていることである。 これらをどう整合的に理解するか難しいところである。また、録司代家 本 のなかに延文三年に書写された相根本畠︵二里四七坪︶と相根新畠 ︵50︶ ( 四坪︶についての検注取帳写がのこされており、この相根村の本新畠 についての検注取帳も応永六年畠地帳の作成に関連するものと推測され るが、まだ十分に説明することができない。 つぎに表1によって、応保二年大禰宜大中臣実房譲状や正慶の案主帳 (⑤︶との関係をみておきたい。第一に気づく点は、応保二年大禰宜大 中臣実房譲状に= 村々名畠坪付 金丸・犬丸﹂として載る﹁香取 村・大畠村・二俣︵田俣︶村・新家村・田太︵多田︶村・吉原村・津 部﹂の七か村のうち、応永六年畠地帳に載るのは大畠と吉原のみであり、 他 の 五 か 村は記載されていないのである。これらのうち二俣︵田俣︶村 は、さきにもふれたように、もともとは大宮司職領であったと考えられ、 一時は物忌職領として伝来したものであるが、この五か村ははやくから 地 頭領に組み込まれつつあった田太︵多田︶村とともに、地頭領として 応永六年畠地帳から除外されたものと推測されるのである。 第二に、応永六年畠地帳には正慶の案主帳には記載されていなかった 追野と宮本とが記載されていることである。そのため応永六年畠地帳の 場 合には、応永六年田地帳とは逆に検注取帳の村数・筆数・面積とも増 加しているのであった。そこには田地と畠地との性格のちがいがあるも のと推定される。 なお、応永六年畠地帳の場合、案主家本が特異な位置を有している。 それは案主家本のみに﹁相根﹂︵五三筆、六六町七段︶の記載があるこ とである。じつは相根の部分はちょうど二丁にわたって記載されており、 帳簿上の不整合はないのであるが、写真帳によるかぎり、相根の二丁分 の筆は他と同筆ではあるが、同時に書かれたものではなく、のちに挿入 されたものである可能性がたかいのである。ただし、挿入された理由や 時期については未詳である。 つぎに、応永六年畠地帳の各本の起請文と年記と署判についてみてお きたい。起請文の文言などについては、前掲の応永六年田地帳の起請文 と基本的には同じであるが、いくつか指摘しておくべき点がある。まず、 案主家本であるが、先述したように、起請文の書かれた二一丁ははなは だしく欠損しており、年記部分と案主の署判部分は一部しか確認できな い の である。また、花押は田所と録司代にはあるが︵欠損部分の案主に
も花押はあったものと推定される︶、﹁宮介紀右近三郎左衛門尉﹂と﹁大 禰宜兼大宮司散位長房﹂には花押が書かれていないのである。なお、も ともとの年記部分の左に後筆で﹁応永六年卯九月﹂と書かれているが、 もちろん﹁卯九月﹂の部分は誤りである。また、大禰宜家本には、応永 六年田地帳の各本と同様に起請文の前に﹁此外、可有注漏候、追可注進 候﹂とあるが、応永六年畠地帳では大禰宜家本以外には、この文言は欠 落しているのであった。こうしたことからみると、やはり大禰宜家本こ そが応永六年畠地帳の正文というべき帳簿なのかもしれない。ただし、 「宮介紀右近⋮⋮﹂に関しては、応永六年田地帳の録司代家本と大禰宜 家 本にはともに﹁宮介代紀右近⋮⋮﹂とあったが、畠地帳の場合では、 案主家本・大禰宜家本ともに﹁宮介紀右近﹂であり、録司代家本のみ 代 「宮介紀右近﹂と追筆されているのであった。また、録司代家本のみに、 佐