資本制的農業と自然カ
ー前者による後者の包摂の論理と自然環境問題一
献 沢 直 樹
1 序 資本制商品経済は,交換(=市場経済)という人々の交流の特殊な方式が自 己の論理を展開していった極北に生み出された経済体制である。と同時に,資 本制商品経済は,他の経済体制に寄生する存在ではなく,むしろ歴史の一時代 を構成する自立的な経済体制であり,そうしたものとして,社会存立の基盤を なす経済原則的課題をそれなりに実現してもいる。つまり,社会存立のために はその成員の消費する財やサービスが再生産されねばならず,またそれらの富 は労働と自然力との協働により再生産されるものであるという点に照らせば, 資本制商品経済は,社会的総:労働や自然力をともかくも配分し,利用している フレム ト ということである。しかも,これら資本制商品経済の相互に疎遠な二側面は決 して摩擦や緊張なく接合しているわけではない。すなわち,資本制商品経済は, 経済原則的課題の一方の柱である社会的総労働の配分にあたっては,それを自 己自身の論理(;資本にとっての生産費)に即して,換言すれば社会的総労働 の配分問題に直接に即した基準からは遊離した基準をもって,実現しているの である。だからこそまた,そこには,資本制商品経済に固有なかたちでの長時 間労働の問題や発展途上国からの先進国への剰余労働の流出という問題が生じ 1) ている。さらに,資本が,上述のような出自のものとして,労働がその一属性 2) として内包する豊かさとは矛盾を孕むかぎり,この面からも,労働の担い手と 1)叙上の諸論点については,拙著『価値論のポテンシャル』昭和堂,1991年,とくに第3, 第4,第5,第7章参照。 2)労働に苦痛としての側面があることを看過するのは危険だが,他方で,若きマルクスが/234 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 3) しての賃金労働者を自らの論理で包摂するにあたっては,摩擦を生み出すし, また一定の妥協を容れつつ多様に展開することともなっている。 では,経済原則的課題のもうひとつの柱である自然力の利用に関してはどう であろうか。そこにも,経済原則的基準と資本制という制度の論理とのあいだ に乖離が存在し,それが何らかの問題を生んでいるのであろうか。自然環境問 題はこうした文脈のもとで捉えることができるのであろうか。もしそうだとす れば,自然環境問題は,交換という人々の独特の交流様式の帰結としての資本 の論理が社会存立の体制貫通的基盤をなす経済原則的課題を包摂するさいの緊 張関係の問題として,人間的自然の営みたる労働をめぐる問題と一対の関係に ロ おいて,資本制商品経済の体系的認識のうちに位置づけられることとなろう。 本稿は,叙上のような問題枠組を念頭に,資本制的農業が自然力としての地 力を包摂する論理と経済原則的立場からの地力の捉え方との関係について,一 定の考察を試みたい。もっとも,農業における地力という問題は,自然環境問 題としては品品に過ぎると感じられるかもしれない。なぜなら,地力は生産要 素として生産過程で労働と協働するもの,すなわちインプットの問題であるの に対して,自然環境問題として注目されている一主要分野は,生産ないし消費 の派生物,つまりアウトプットの処理にさいしての自然力との関わりである。 そして,この分野は,資本制商品の評価基準が「資本にとっての」生産費であ って「社会的」費用に関わる経済原則的基準とは乖離しているがゆえに問題が 生じているという,まさに叙上の問題枠組にぴったりの問題領域でもある。だ が,そうした乖離が世論を動かせばいわゆる外部費用の内部化(=アウトプッ トのインプット化)が生じる。しかも,そのさいには,インプット化されたも \生き生きと描いていたように,労働が効率性のみでは律しされない,生活の一部としての 豊かさを内包しうる活動でもあることを看過するのも一面的だと解される。 3)賃金労働者は工場やオフィスで労働するばかDではなく,その外でさまざまな消費活動 をも享受するのであって,賃金労働者が労働の論理のみを体現するとは言えない。また, 資本制商品経済のもとに生きる者として,その支配的イデオロギーに多かれ少なかれ浸透 されてもいよう。この点,本稿にとっては,地主が農地の地力をそのままに体現する存在 ではないことと好一対をなすものとして,注目しておきたい。
のはやはり資本の論理でしか評価されず,以下でのようなインプットとしての 地力に関わる考察が一定の意味をもつ。のみならず,インプットとしての地力 も,その利用のされ方次第では,肥料や農薬を通じて水質汚染や健康破壊など の派生的アウトプットの処理に関わる問題を随伴するのであって,それは以下 での考察の対象となる。他方で,農業は,自然力の協働がきわめて重要な要素 となっており,かつその自然の協働力が不均質であるがゆえに,自然力の協働 を人々がはっきり意識せざるをえない営みであって,自然力の協働を資本が自 己の論理でもっていかに包摂するのかを問うには好都合なi舞台だと解される。 この点,インプットとしては自然力の協働を相対的に大がかりな人工的装置を もって引き出し,またそうした装置をもって普遍的に自然力を利用できたがゆ えに,アウトプットの処理にさいして自然の許容能力に抵触するまでは,自然 力の協働をあまり意識にのぼらせることのなかった工業とは異なる。 そこで,以下では,次のような手順で考察を進めることにしたい。すなわち, まず,地力をめぐる経済原則的立場からの取扱いの基準,つまり地力の利用に さいして費用視されるべきものは何かについて検討する。ついで,資本はいか なる論理をもって地力を包摂しようとするのかを考察する。そのうえで,資本 による地力の包摂の論理は,経済原則的立場からの地力の取扱いの基準といか なる関係に立っているのかを検証してみよう。ちなみに,本稿は,資本がいか なる論理をもって地力を包摂しようとするのかについて,マルクスの地代論を 4) 基礎に展開されてきた諸理論に依拠しつつ考察するが,同時に,マルクスの地 代論の限界が本稿のような問題意識のもとではいかなるかたちで現れてくるか, 今後さらにどのような点が追求されねばならないかにも留目したい。 4)環境問題に関わってこうした方向を追求した労作に,重富健一「農業生産と環境保全」 (2)『経済論集』(東洋大学)4−1,1978年,及び吉田文和「〈無償の自然力〉と資源・環境問 題」『経済学研究』(北大)29−3,1979年がある。なお,重富氏の労作は,当該の論点を農工 聞の不均等発展の問題,さらには価値概念の問題との関連へと展開した同名の9論文の一 部であり,それらでは社会資本論的接近から,エントロピー論,エネルギー分析手法的接 近にいたるまで,非常に広範な対象が考察されている。また,吉田氏の労作も,のちに触 れるリービヒ論をも含んだ,自然環境問題の総合的考察の連作の一部である。
236 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) II地力の利用に関わる人間にとっての費用 5) 労働がいかなる意味で費用視されるかについては,二つの論点が認められた。 すなわち,一方で,さまざまな用途に用いられうる重要な生産要素であり,か つ希少でもあるがゆえに,ある財の生産に費消されれば機会費用が生じるとい う論点,他方で,労働が,煩労及び生活時間の費消(;自由時間の制限)とし て積極的に負担としての性格をも多かれ少なかれもっという論点である。 では,地力の利用に関してはどうであろうか。まず,後者,すなわち利用に 6) 伴う積極的負担について言えば,地力の損耗が考えられよう。といっても,地 力が損耗しても代替地が豊富にあるなどして人間に影響しないなら,経済の問 題とはならない。したがって,経済原則的課題としても,地力の損耗それ自身 ではなく,地力の損耗が人間にとってどのような負担をもたらすかということ が問われることとなる。そしてこの点は,自然環境問題という視角から対象に 接近するばあいにもただちには揺るがない。というのは,そもそも環境とは必 ず何らかの主体にとっての環境という相対的存在であり,主体次第のものだか 7) らである。たとえば,人間を主体とすれば,土壌中のバクテリアは地力を左右 する環境要因となる。だが,バクテリアにもバクテリアとしての生活があるわ けだから,バクテリアを主体とする視点から世界を見ることもできるし,その さいには人間の方が土壌を掘り返したりしてバクテリアの生活に影響を及ぼす 環境要因となる。しかもこのばあい,自然環境問題からの接近だからといって これら二つの立場を同等視する覚悟のある博愛主義者はまず少ないだろう。 そこで,さしあたり経済原則的課題が人間中心主義であるという前提のもと 5)前掲拙著,第9章参照。 6)農耕,すなわち地力の利用は,必ずその損耗をもたらすわけではなく,適切に行えばむ しろその増進をもたらしうるということを否定しているわけではない。 7)高橋正立他編『環境学を学ぶ人のために』世界思想社,1993年,2∼4ページ参照。但 し,同書第3章,第5章などが強調するように,自然のネットワークは複雑,精妙で人間 が完全に理解しえたり,まして統御しうるようなものではなく,したがって人間にとって の環境を守るためには結局,さまざまな生物にとっての環境を全体としてそのまま尊重す ることが求められるということは十分にありうる。さらに,本稿末をも参照。
で,地力の損耗がいかなる意味で費用となるかを考えてみよう。すると,ここ でも二つの論点が浮かび上がってくる。すなわち,まず,土地が痩せれば,従 来より多くの労働を直接,間接に投下しないと従来と同等の収穫を得られなく なる。ということは,地力収奪的な農法により一時前に多量の収穫が得られる ばあい,それがさしあたり安価に享受されているとしても,その真の費用は, じつは将来の労働投下増まで加算して評価されてしかるべきものだということ になる。第二に,土地が損耗して不毛化する,つまり,いかに労働を投下して も収穫は得られなくなるということがありうる。このばあいの費用としては, かねて収穫物から得られていた効用の消滅ということが挙げられよう。 もっとも,地力が損耗するといっても,それが地力回復のための直接,間接 の労働の投下を通じて取り戻されるばあい,つまり損耗が可逆的なばあいも当 然存在する。そのばあいには,そうした地力回復のための労働が,地力収奪的 な農法の生産物に隠されたかたちで随伴していた費用ということになる。但し, 地力回復が可能であるとしても,農業がそのもとで営まれている制度次第で, 当事者にとっては地力回復努力を怠る方が有利ということもありうる。そうし たばあいには,前パラグラフで述べたことが現実化することとなろう。また, 当事者にとっての有利,不利の分岐点が,部分的な地力の回復の努力に照応す るケースも考えられる。このばあいには,そのかぎりでの努力に費やされた労 働と,結果として残された将来の労働増等が隠された費用とみなされる。 それに対し,損耗が不可逆的な水準まで進み,不毛化が避けられないという 上述の第二のケースが懸念されるばあい,その生産物から得られていた効用の 消滅に人間は耐えられず,かつそれを埋め合わせる代替物もないとすれば,何 としてもそうした水準への地力の損耗は避けられなければならない。かくして, 地力の損耗を地力の再生力や人間の努力で回復しうる範囲ないしそれら回復力 がいまだ機能しうる水準に留めるため,地力の損耗度それじたいを収穫物に要 した費用とみなすという方途も現実的意味をもちうる可能性が出てくる。極端 なかたちでのエントロピーの経済学に対応するケースである。このばあいには, 地力の損耗度それじたいという自然的事象が財を得るための費用の実体となる
238 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 8) わけで,マルクスの労働価値説のひとつの盲点と言える。但し,これも人間に とって耐えがたい地力の損耗を避けるという課題から発したものであって,人 間中心主義じたいを否定するものではない。また,上述のような地力の損耗を 避けるためには,各生産物の費用を地力の損耗度で評価し,それを基準に何を 消費するか,どんな生産手段を用いるかなどを市場を通じ選択するという手法 のみが有効とはかぎらない。生産者に対して,ともかくも地力の損耗を一定の 範囲に抑えるように直接に規制するという方法もありえよう。ちょうど,環境 汚染に関して,汚染物質の排出量を直接規制する方法がありえたように。 さらに,地力の損耗が時間をかけて進むものであるならば,その間に新技術 が開発されたり,新たな財が開発されたりして,将来の投入労働増が杞憂に終 わったり,地力回復処置のために必要とされる労働量が軽減されたり,あるい は消滅する財の効用が代替財によって埋め合わせられることも考えられる。要 するに,地力の損耗に関わる隠された費用はかなりの不確実性を随伴している ということである。したがって,将来の労働増や不毛化に伴う効用の消滅の危 9) 険をどの程度の費用とみなすかは,結局,社会的合意の問題ということになる。 ちなみに,そのばあいでも,不確実性じたいは消滅させえないのであるから, 将来世代の権利をも保障することを重んじるとすれば,リスクを小さくするこ とに比重を置いた選択が図られることになるであろう。そして,それがサステ 10) イナブル・ディベロップメントというかたちで問われている問題でもある。 最後に,地力の損耗そのものではないが,それに深く関連した費用がありう ロ コ る。すなわち,地力の損耗の当面の回避のために,肥料や農薬が多量に投下さ れ,水質汚染や健康破壊を招きうるという問題である。 ついで,用途に多様性をもち,重要かつ希少でもある生産要素を特定財の生 産へ投入することは,機会費用を発生させるという論点へと移ろう。農地もま 8)同種の問題として,再生不可能な希少資源の問題が挙げられよう。 9)社会的費用論の重要な要素として社会的合意の問題があることを焦点化したものに,市 原あかね「カップ社会的費用論の問題領域」『金沢大学経済論集』28,1991年がある。 10)この語をいかに翻訳すべきかについて興味深い考察を展開したものに,M.レッドタリフ ト著,中村尚司他訳『永続的発展』学陽書房,1992年,での中村氏の解説がある。
た,重要かつ希少な生産要素であるのみならず,いくつかの作物の栽培に利用 できるという多用途性をもつ。したがって,その特定の作物の栽培への充用は 機会費用を発生させることとなる。とはいえ,経済原則的課題の人間中心主義 的性格を顧慮すれば,このことは,一定面積の農地に米を栽培すれば00トン だが麦なら△ムトンといったように,農地そのものを直接の対象として機会費 用を捉えるというかたちはとらないであろう。むしろ,一定面積の農地に一定 量の労働を投下したとき米なら00トン,麦なら△ムトンというように,労働 量を媒介させ,直接には労働量を対象として機会費用を捉えることになると解 される。つまり,同じ労働量ならより高い効用を生む作物を,あるいは同じ効 用度ならより少ない労働量で済む作物をというように,より有効に労働の軽減 を図るというかたちで農地の機会費用は把握されることになるわけである。 類似の状況は,農地の肥沃度の差異に関連しても認められる。すなわち,農 地が豊かであったり痩せていたりすれば,同じ作物の栽培に同じ労働量を投下 しても収穫量は異なってくる。こうしたばあい,人間にとっての費用は,豊か な農地を耕作すればそれだけ労働が少なくてすむというかたちで意識されるこ ととなろう。つまり,ここでも,農地の地力ないし農地の協働分は,それじた いが主題化されるのではなく,労働をどれだけ軽減させうるかという,労働を 媒介項とした,しかも相対関係の問題として取り上げられることとなるのであ る。さらに,この論点は,次の問題,すなわち天賦の才として高い能力をもつ 労働者について,効率的な労働配分という観点からはその労働をどう評価すべ きかという一見酷似した問題との関連でも,人間中心主義の意味を浮き彫りに する。だが,その詳細については次々節であらためて考察することにしたい。 III資本制的農業による地力の包摂 『資本論』を踏まえたとき,地力の資本制商品経済的農業による包摂に関し て,まず次のような諸点が想起されよう。第一に,資本制商品経済は私的所有 制度に基づくものであり,当然,農地も私有されている。したがって,無償で それを利用することはできない。いわゆる絶対地代の問題である。第二に,商
240 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 品経済においては各商品生産者は独立しており,自らにとっての生産費と市場 価格とを比較しながら生産の拡大や縮小を決定する。したがって,各商品の重 心価格は,需要を充足するために不可欠の生産者階層の個別的生産費により規 11) 定されることとなる。このことからは,差額地代が発生する。第三に,資本制 経済としては,上述の「生産者にとっての生産費」は資本家にとっての生産費 であり,具体的には生産価格となる。最後に,商品経済においては将来世代の 利害が自動的に反映されるメカニズムはなく,また借地契約は期限付きで行わ れるので農業資本家は契約期間内での「最高度」の農地の利用をめざすように なる。これらのことは,地力の収奪や地力改良投資の逡巡などを招く,と。 だが,「資本論』の地代論には受け入れがたい論点もあれば,いっそう整理す べき論点もある。じっさい,そうした論点を鍛える努力も多くの論者たちによ 12) って重ねられてきた。そこで,本節では,差額地代,絶対地代,地力の損耗に まつわる問題の順に各論題に立ち入りながら,本稿としてはそれらの問題をど のように把握しようと考えているかについて明らかにしておきたい。 まず,差額地代については,肥沃度の異なる別々の土地を対象とした差額地 代1と,同じ土地に次々に投資を重ねていくときに各投資に関する限界収穫が ロ 変化することを対象とした差額地代IIとが分析的には区別されうる。だが,差 額地代1において一括のものとされている投資額も,じつはより小さな限界投 資額の集積とみなすほうが合理的な額に達していることが十分に考えられる。 しかもそのさいには,限界投資の効果は,各農地毎にその肥沃度の差異を反映 しながら増加や減少の軌跡を描いているはずである。つまり,現実的には,差 額地代1とIIとは一体不可分なものだと解される。そこで,本稿は,差額地代 13) に関してはそうした一体不可分性を理論化した中野説に従うこととしたい。す 11)このことじたいは,農産物に特有なことではなく,むしろ工業生産物にも共通する商品 経済に一般的な法則である。拙稿「マルクスの市場価値規定について」,「市場価値規定と 需要供給関係」(上),(下)『経済理論』(和大)164,170,173号,1978,79年,参照。 12)久留島陽三他編『資本論体系』7,有斐閣,1984年,地代論第III部や佐藤金三郎他編『資 本論を学ぶ』V,有斐閣,1977年,第13∼17章,などを参照。 13)中野正『経済学原理』ミネルヴァ書房,1985年,169∼72,174∼82ページ参照。
なわち,下図のように,各農業資本家は,自らの借りた農地に対し,限界収入 が限界投資額の回収とそれに対する平均利潤を保証するかぎりで投資を重ねる。 そして,その最終的限界投資までに生み出された超過利潤の総体が,農業資本 家間の借地競争によって地代に転化されると解するのである。 限界収入額 万円 60
B
A
地 50万円 100万 150万 200万 限界投資 十 平均利潤 250万 300万投資額 但し,超過利潤が地代化されるということであれば,農業資本家としては上 記の限界点を越えて投資を続行し,そうした追加投資まで含めて一括の資本と みなしてそれに対する平均利潤と超過利潤とを規定したいであろう。そのさい には,追加投資が生む負の超過利潤を先行の正の超過利潤の食い潰しというか たちで地主に負担転嫁しつつ,追加投資にみあう平均利潤を入手できるからで 14) ある。したがって,なぜ農業資本家はそのような追加投資や総資本規定の主張 をなしえないのかが問われることとなるのだが,まず,農地に余裕がなく農業 資本家は地主の要求する上記の限界点に対応した差額地代を受容するよりない ケースが考えられる。第二に,農地に余裕があり,超過利潤が地代化するなら どこを借りても同じと強く交渉されるなら,地主は超過利潤の一部を農業資本 家に譲り,上記の限界点に照応した地代より少し低い地代を設定する必要があ ろう。そのばあいには,農業資本家は,その地代を支払いつつ自らにとっての 超過利潤を確保するためには,上図の限界点までは投資しなければならず,ま たそれを越えて追加投資することはできなくなる。第三に,農業資本家の側に 注目するとすれば,とくに優良な農地のばあい,自らの手腕ならその農地から 14)地代論の研究史に即せば,いわゆるエンゲルス方式に関わる問題である。242 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 通常期待される以上の超過利潤を引き出せると自信をもつ農業資本家が,上図 の超過利潤に照応する地代を受け入れつつ,自らの手腕で限界投資毎の超過利 潤が消滅するところまで追加投資を重ねていくといったケースも考えられる。 ついで,絶対地代論に移ろう。マルクスの絶対地代論は,生産価格論を前提 に,かつ農業部門の資本の有機的構成は全産業部門での平均構成より低位にあ ることを仮定して展開されている。だが,前提とされているマルクスの生産価 格論じたい抜本的修正を必要とするものであったし,農業部門の資本の有機的 構成が平均より低いという仮定も,たとえば現代のアメリカ農業を想起すれば 明らかなように,決して必然的ではない。したがって,本稿としては,マルク スの絶対地代論を継承するわけにはゆかない。むしろ,その後に積み重ねられ 15) てきた研究に依拠しつつ,絶対地代を次のように理解したい。 すなわち,上記のような理由から絶対地代論についてのマルクス的な問題設 定とそれに伴う制約を捨象したとき,残される課題は,特別な果実の栽培用地 ロ ロ ロ コ などではない普通の農地について,それが私有財産であって無償では利用され えないという事情に基づき,どれだけの地代が要求されるのかを解明するとい う問題となろう。そして,この課題は,差額地代論の応用問題として解決され ることとなる。というのは,絶対地代は,農業資本家としては農産物価格に転 嫁するよりないものである。したがって,地主としては,過大な絶対地代を要 求して,より劣等な農地の参入やより限界生産性の低い追加投資が可能となる ような農産物の値上がりを招き,相対的に希少な農地の貸し手という自らの地 位を危うくする愚は避けなければならない。かくして,要求されうる絶対地代 は,その絶対地代を含めた価格での当該農産物に対する需要を充たすに必要な 最:劣等限界投資にとっての個別的生産価格とそれよりもう一段階劣等な限界投 資(劣等農地の参入を含む)にとっての個別的生産価格との差額という幅のな 15)筆者がもっとも教えられたのは,青才高志「独占地代について」山口重克他編『マルク ス経済学・方法と理論』時潮社,1984年,所収,からである。なお,ごく最近,同氏「地 代論の再構成」(上)『信州大学経済学論集』31,1993年,が刊行された。
16) かで,当該農産物や土地の需要供給関係が許容する額ということになる。 最:後に,資本制的農業が地力の損耗ないし改良の遅滞に与える影響について 考察してみよう。まず,本稿のような問題意識からの資本制的農業への接近に おいてしばしば引用されるところであるが,『資本論』第1部第4篇第13章末尾 には次のような叙述がある。「都市工業のばあいと同様に,現代の農業では労働 の生産力の上昇と流動化の増進とは,労働力そのものの荒廃と病衰化とによっ てあがなわれる。そして,資本制的農業のどんな進歩も,ただ労働者から略奪 するための技術の進歩であるだけではなく,同時に土地から略奪するための技 術の進歩でもあり,一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も,同時 17) にこの制度の永続的源泉を破壊することの進歩である」と。これは,第3部門 18) 6篇の地代論の末尾での叙述とも照応したものであるが,多肥料,多農薬投下 型の農法が地力の荒廃,さらには水質汚染や健康破壊を招いているという現代 農業の暗部に通じる問題を鋭く射抜くとともに,資本制的農業のもとでの地力 の荒廃は,労働力商品をめぐる諸問題など一荒廃や収奪一辺倒とはかぎらな い と有機的に関連させ,資本制的商品経済の体系性を鋭敏に意識しつつ把 捉されるべきであるという根本視角を明確にしたものとして,やはり含蓄深い 19) と言えよう。第二に,マルクスは地代論において次のことにも言及している。 すなわち,農地の借地契約が期限付きでなされることから,相対的に長期的な 効果をもつ地力改良投資は,結局地主の懐を潤すことになるということ,また 借地農業資本家の方も契約期間内での回収があやぶまれる地力改良投資は避け ようとするということである。たしかに,次期の契約期間における自らの耕作 16)絶対地代論において,土地の需給関係を農産物の需給関係とは一応独立的に措定したう えでそれらを統一的に把握することの必要性を強調したものに,山田良治「絶対地代の〈上 限〉論争批判」『経済理論』(和大)241,1991年,がある。同説は,マルクス的絶対地代論 の枠になお捉われており,地主の論理への踏み込みも不足と思うが,『資本論』の絶対地代 論の欠落点やその補完のひとつの方向としては示唆的である。 17)K.マルクス,マルクス=エンゲルス全集刊行委貝林野『資本論』第1巻第1分冊,大月 書店,657ページ。 18)同上書,第3巻第2分冊,1041一一1042ページ参照。 19)たとえば,同上書,同上分冊,799∼802,1040ページ参照。
244 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) が保障されていない状況のもとでは,農業資本家としては,農業技術的にはい かに合理的なものであるにせよ,今期の契約期間内で回収しえない投資は避け ざるをえない。また,投資としては回収されうるとしても,自らの行ったこと の効果が何もしなかった他人の懐を潤すのを見ることには割り切れなさが付随 しようし,それが投資意欲を多少とも削ぐことは考えられる。 かくして,『資本論』は,地力の損耗という当面の論点についても示唆深いと ころをもつのだが,なお未展開な叙述に留まっていることも否めない。前者に ついて言えば,『資本論』の当該個所は,その構成上の制約のゆえもあって,か の問題の制度的背景や機構について立ち入った説明を行っていない。たしかに, 上掲のいずれの個所でもリービヒに論及されており,また上掲の引用文の少し 前の叙述からみても,マルクスの念頭には,農産物を介しての自然一人間一自 然の物質代謝が近代農業では切断されてしまったというりービヒの立論があっ 20) たにちがいない。そして,そのリービヒの立論自体は,農村と対立して進行す る都市化への警鐘や,窒素肥料に頼る農法は目先の収穫の多寡しかみていない という洞察など,鋭くかつ視野も広い魅力的なものではあるのだが。 それに対し,後者については,『資本論』がもともと「資本一般」次元で構想 され,地代論も基本的に資本の側からしか考察されていないということの限界 21) が指摘されねばならない。換言すれば,資本制的農業のもう一人の当事者たる 地主が,地主としての利害に立って資本制的農業に対し能動的にどのように働 きかけうるかの分析が欠落しているのである。たとえば,『資本論』において 22) は,地力改良投資は基本的に農業資本家が行うものとされている。だが,次節 で見るように,そうした想定は現実的ではない。だからまた,そうした点が掘 20)マルクスのこうした叙述とリービヒの立論との関係を考察したものとして,椎名重明『農 学の思想』東大出版会,1976年,第5章,及び吉田文和「リービヒ『農耕の自然法則・序 説』と『資本論』」「経済学研究』(北大)28−4,1978年,がある。 21)この点を形成史的に追求したのが田中菊次氏であるが,氏のそうした作業の根底には, 資本の側からのみの地代論は「形式論理的・機械論的」だとする方法論的認識があった。 同氏『「資本論』の論理』新評論,1972年,211∼12,216,221,223∼24ページなど参照。 22)前掲邦訳,第3巻第2分冊,796,799ページなど参照。
り下げられないかぎり,資本制的農業が地力の損耗や増進に対してどのような 意味をもつ制度であるかということは,十分には解明されえないであろう。 IV 経済原則的基準と資本制的農業の論理 前々節での考察によれば,地力の利用に伴う経済原則的次元での費用は次の 二種に大別された。すなわち,一方は,重要で希少かつ多用途的な生産要素た る農地を,効率的な労働軽減のためにどのように有効利用するかという,機会 費用性の問題である。他方は,地力の損耗という動態的事象に関わる問題であ るが,そこには,地力の損耗は農作業の増加や地力回復のための追加労働,さ らには不毛化に伴う農産物の生産不能(=効用喪失)を招くという問題のほか, 地力損耗の当面の弥縫策としての肥料や農薬の多量の使用が水質汚染や健康破 壊を招くという問題も含まれていた。そこで,本節では,前節を踏まえ,これ らと資本制的農業による地力の包摂の論理との関係を考えてみることにしたい。 まず,前者の機会費用性の問題について言えば,次のような3点が注目され よう。第一に,資本制商品経済のもとでは農産物も生産価格という資本の論理 で評価される。したがって,農地をどの作物の耕作に利用するかの選択にさい しても,生産価格に即して機会費用が問われることとなる。 第二に,商品経済のもとでは,商品の重心価格はその商品に対する需要を充 たすために不可欠の,この意味で限界的な,生産者階層の個別的生産価格によ り規定される。差額地代に関わる問題である。そしてこれに関連しては,次の ような三つの論点が検討に値しよう。まず,地力の絶対値が問われるのではな く,差額という相対関係が問われることである。だが,これは,既に前々節で 見たように,経済原則的基準もまたその人間中心主義ゆえに共有する構造であ る。ついで,差額の内実が生産価格であることが注目される。つまり,地力の 貢献が資本にとっての費用の軽減度をもって測られることになっている。この 点は,もちろん資本制的農業に特有のことである。最後に,重心価格が限界原 理で規定され,より肥沃な農地ないし生産的な追加投資の評価は,それとの差 として把握されるということが挙げられる。この点も,既述のように各生産者
246 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) が独立しているからこそ生じることであり,商品経済に特有のことと言える。 第三に,資本制的農業は絶対地代を不可避的に随伴する。このことは,農産 物の価格をそれだけ吊り上げることになる。とともに,絶対地代の額は差額地 代の応用問題として解明されるということであったから,ここでも差額の資本 制的内実は生産価格であるということが作用することとなる。 こうして,資本制的農業が地力を包摂する論理は,商品経済ないし資本制で あるがゆえの諸特性をたしかにもっている。そして,それらの諸特性は,農産 物の資本制的商品としての評価基準は生産価格であることを中心に,労働軽減 のための農地の有効な利用や,社会的総:労働の諸産業部門間及び諸農産物間へ の配分に一定の歪みをもたらしていると解される。のみならず,差額地代に関 わっての第三論点は,じつは次のような問題をも内包していた。 すなわち,豊かな土地は,天賦の才に恵まれた労働者に擬しうるところがあ る。だが,社会的総労働の合理的配分のための経済原則的基準となると,両者 の取扱われ方は大きく分岐する。というのは,上述のような労働者を含む社会 でその総労働の合理的配分を考えるとすれば,彼らの高能率の労働は強められ た労働として重みをつけて評価されることとなろう。たとえば,500万人のうち の1割の労働者が2人分の働きをするとすれば,550万人の労働者が存在すると みなして労働配分を考えるというように。そして,そうしたことの前提には, そもそも普通の労働者の生産[生を,その社会で普通の才能をもち,普通の教育 を受けた人のそれとして,特別な労働者の生産性からは独立に規定しうるとい うことがある。それに対し,肥沃度が異なる農地の耕作のばあい,まさに普通 の労働者が耕していながら,収穫量は異なってくる。したがって,このばあい の普通の労働者の生産性を規定するとすれば,豊かな土地に投下された労働も 痩せた土地に投下された労働もすべてを平均して考えるよりない。ということ は,豊かな土地の協働分は,その土地に投下された労働を強められた労働とし て重みづけるというかたちで積極的に評価されるのではなく,むしろ労働の軽 23) 減というかたちで消極的に評価されることを意味する。つまり,同じ天からの 23)マルクスの地代論に即せば,虚偽の社会的価値の問題となる。
恵みであっても,土地に体化したものと労働力に体化したものとでは,経済原 則的基準での受けとめられ方はいわば逆ベクトルとなるのである。このことは また,商品経済では限界原理が支配するということとの関連で経済原則的基準 からの乖離を問うばあい,農産物については,純粋なないし単純な平均原理か らの乖離という固有の関係に注目する必要があるということを示している。 以上のような機会費用性をめぐる問題に対して,地力の損耗をめぐってはま ず次のことが注目されよう。すなわち,地力の損耗が生み出す既述のような費 コ コ つ 用は,いずれも将来の負担増に関わるところ少なくなく,資本の論理との関係 でもこのことがひとつの焦点になるということである。さらに,この点に関わ る前節の考察を振り返ってみると,マルクスはたしかに引用したような貴重な 指摘を行っていたが,それに深く立ち入ってはいないということであった。 そこで,資本制的農業には将来的負担を軽視せしめる制度的要因があるか否 かをあらためて顧みてみると,ただちに商品経済の本性に関わる次の論点が想 起されよう。すなわち,商品経済は他者との連帯が断ち切られた私人たちを行 為主体として前提するものであり,他人の負担,だからまた将来世代の負担は 二の次の問題視されるということである。つまり,資本制的農業は,たしかに その制度的要因ゆえに地力の損耗に鈍感な傾向をもつと考えられる。 コ さらに,そのことは,地力の損耗の当面の弥縫策,あるいはより積極的に当 面の地力強化策としての,肥料や農薬の多量の使用を招きもするであろう。し かも,それが随伴する水質汚染や健康破壊については,商品の売り手にとって の生産費と社会的費用との乖離という,結局は上述の商品経済の前提に帰着す る特性ゆえに,軽視されることとなる。むしろ,競争のもとで個別的生産費を 低下させようとすれば,社会的費用の発生を回避するための処置はできるだけ 省こう(=資本にとっては,いわゆる不変資本充用上の節約)とさえされる。 また,資本制に関わっては,農産物の評価が資本の論理に即して生産価格で り ロ ロ ロ 行われるかぎり,農業労働者が低賃金であれば将来の労働増は資本家にとって たいした負担とならず,したがって地力回復処置は怠られるといった論点が挙 げられる。のみならず,マルクスも論じていたように,農地が期限付きの貸借
248 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) であるかぎり,農業資本家は契約期間内での農地の「最高度」の利用をめざす し,そのことは地力の収奪や地力改良投資の遅滞を招きがちとなる。 但し,最:後の論点については,資本制的農業における地主の存在にも留目す る必要がある。すなわち,地主は,差額地代の受領者として,自らの農地の地 力の保全,増進に切実な関心をもつ。それゆえ,地力保全に適した農法を施す ことを契約条項に入れもするし,農業資本家による地力改良投資が怠られがち ということであれば,自ら投資を行ったり,改良投資の未償却分の買い上げ制 24> 度を取り入れて農業資本家の改良投資を促したりもするのである。もちろん, 地主は,差額地代という資本制的農業に固有の利害に基づき介入するのであっ て,地力そのものへの関心は副次的である。したがって,地力の保全,改良に 関する地主の機能も制約的なものとなる。たとえば,土地の売却まで視野に入 れれば,地主もまた当面の収穫増にとらわれえよう。かくしてみると,資本制 的農業のもとにも地力の保全,改良に利害関心をもつ当事者がいることを,そ の制約面まで含めて掘り下げないと,資本制的農業が制度として自然環境問題 にどのような意義をもっているかは十分に解明されえないということになる。 上述の点は,地力の損耗に伴う費用が将来的不確実性を孕み,その評価は社会 的合意に委ねられるということからも重要となる。というのは,そうした合意 を形成する機構のなかでの地主の地位は決して軽んじえないであろうから。
V 総括
社会存立の基盤を資本が自己の論理で包摂するさいの摩擦として,労働をめ 24)たとえば,椎名重明『近代的土地所有』,前掲,第2章二での「テナント・ライト」補償 慣行成立史についての考察や第3章での「ハイ・ファーミング」期の土地改良投資の実態 についての考察を参照。また,小幡道昭「土地所有の原理的把握」『経済評論』1981年9月 は,異なる階級と認めることは彼らの行動原理の異質性を措定することのはず(130ページ) という認識に基づいて,土地所有を資本からの「分化=発生」としてではなく,資本にと って外的存在の「包摂=内面化」として説くべきと主張するとともに,地主による土地改 良投資に一定の立ち入った理論的省察を加えている。さらに,『資本論』も事実問題として は,テナント・ライトや地主による適正な耕作法の強制などに論及している。前掲邦訳, 第3巻第2分冊,799,808,869∼70,933ページなど参照。ぐる商題と一対の関係において,自然環境問題を資本制商品経済の体系的分析 のなかに位置づけられないかというのが,本稿の問題意識であった。そして, それを,資本制的農業と地力との関係に即して考察してきたわけだが,叙上の 考察は上述の問題意識の正当性を一応裏づけたと言えよう。 もっとも,本稿は,資本制的農業の論理の考察の基盤をマルクスの地代論に 置いており,資本制的農業における地主の機能との関わりについて,さらに, より重要な問題としては,農薬使用による土壌汚染や水質汚染など排出物と自 然力との関係について,今後なお補完されてゆかねばならないところをもつ。 とはいえ,後者についても,あらためて確認しておくべき重要な論点が見出さ れた。すなわち,前々節で引用したようにマルクスは土地の荒廃を労働力の荒 廃と一体化して捉えようとしていた。マルクスは,資本制という制度の特性に あくまでこだわったがゆえに,そのもとで生じている諸事象の一部を機械的に 抽象するのではなく,むしろそれらの有機的関連に着目しえたのである。自然 環境問題は,労働力との関連では,労働者を体制内化するための欲望の刺激と いったこととも結びつけられるべきであろうが,自然環境問題をそのように統 合的に捉える視角はやはりマルクスから学ぶべきである。ちなみに,そうした 諸事象の統合性に関連しては,いわゆる小農経営も,労働者を階層的に分断し 25) て包摂することと関わりつつシステムとしての資本制商品経済が措定するので 26) あれば,その意味で資本制的農業であるし,それが抱える問題を資本制商品経 済と自然環境問題との関連として問う価値は十分にあることとなる。 最後に,本稿では,安易な自然との共生論に陥ることを警戒し,さしあたり 人聞中心主義を前提としたが,自然環境問題においては人間による自然の支配 が自明視されてよいわけはなく,マルクスの自然観がどこまで19世紀的制約に とらわれているのかの批判的検証と合わせ,今後の検討課題としておきたい。 25)この点については,前掲拙著,143∼44,231∼32,234∼35,237ページなど参照。 26)ウォーラーステインの世界資本主義論は,あまりに流通主義的だとは思うが,こうした 問題を考えるうえでは参考になる。また,椎名氏の近代的土地所有論にも,むしろこうし た方向かち接近したい問題が提起されている。前掲書,1,3ページ参照。さちに,『資本論』 の地代論にも,事実問題として小農民に触れた興味深い叙述が随所に散見される。