緊急輸送道路沿道建築物の耐震化が
地価に与える影響について
【要旨】 阪神・淡路大震災では、震災発生時に建物が倒壊し幹線道路を閉塞したため、救助・ 避難活動等の妨げとなった。東京都は「東京都耐震改修促進計画」を2007 年に定め、 避難や救急・消火活動、緊急物資輸送の大動脈となる緊急輸送道路の沿道建物につい て、耐震診断や改修に対し補助制度を設けるなど耐震化を進めている。一方、緊急輸 送道路沿道の建物所有者にとっては、道路閉塞を防ぐことで消防・病院等へのアクセ スが確保でき安全性が高まるため、正の外部性から地価が上昇する可能性があると思 われる。また、正の外部性は沿道に限らず一定の範囲に影響するものであるとも考え られる。 そこで、本稿では緊急輸送道路沿道および一定の近隣範囲を対象とした政策導入効 果を推定するため Difference-in-Difference(DID)分析を行い、正の外部性が生 じることを明らかにした。この結果より、補助金を与えたうえ地価も上昇するのであ れば、建物所有者に対する補助が過大となる可能性があり、場合により沿道だけでな く一定の範囲の近隣も含め、正の外部性を踏まえ地域性に応じたきめ細かな補助金の 制度設計が必要であることを指摘した。 2012 年(平成 24 年)2 月 政策研究大学院大学 まちづくりプログラム MJU11005 尾關 桂子目次
第1章 はじめに... 3 第2章 阪神・淡路大震災での教訓と東京都の耐震化政策 ... 4 2.1 阪神・淡路大震災での被害と教訓 ... 4 2.2 東京都における緊急輸送道路沿道建築物の耐震化政策 ... 5 2.3 問題意識 ... 7 第3章 耐震化補助制度に関する理論分析 ... 8 第4章 耐震化補助制度に関する実証分析 ... 9 4.1 分析の考え方 ... 9 4.2 耐震化が与える外部性についての実証分析 ... 9 4.2.1 分析方法 ... 9 4.2.2 分析結果 ... 12 第5章 実際の緊急輸送道路沿道地点におけるシミュレーション ... 13 5.1 シミュレーションの考え方 ... 13 5.2 一定の広範囲における分析 ... 14 5.3 所有者個人レベルにおける分析 ... 15 5.3.1 耐震化に対する東京都の補助制度 ... 15 5.3.2 地価上昇額 ... 16 5.3.3 補助率が 0 の場合の負担額 ... 16 5.3.4 補助率が 1/3 の場合の負担額 ... 17 5.3.5 補助率が 5/6 の場合の負担額 ... 17 5.4 シミュレーションの結果を踏まえた理論分析 ... 17 第6章 まとめ ... 18 6.1 考察および政策的インプリケーション ... 18 6.2 今後の課題 ... 19 参考文献 ... 19 参考資料 ... 20 謝辞 ... 20第1章 はじめに
1995 年に発生した阪神・淡路大震災では、建物の倒壊による道路閉塞に伴い救助活 動等に支障が生じた。これを教訓とし、東京都は災害時の救命救急、消火活動、物資の 輸送、復旧復興の大動脈である「地震発生時に閉塞を防ぐべき道路」(以下「緊急輸送 道路」)を指定し、2007 年にその沿道建築物の耐震化を定めた。耐震化の推進にあたっ ては、建物所有者に対して耐震診断・設計・改修工事等への金銭的な助成制度等が設け られているが、補助額は都内区市町村によって異なっている。 一方、建物を利用する側から見ると、この政策により緊急輸送道路沿道の耐震化が図 られ、公的施設など地震発生時に必要な施設へのアクセスが確保できることから、建物 利用者の安全性が高まることになる。このため、沿道の土地については地価に対してプ ラスの影響があることが予想される。耐震化にあたっては前述の通り所有者に対してイ ンセンティブとなるよう一定の補助を与えているが、地価にプラスの影響があるならば 耐震化の費用に対し、地価上昇つまり所有者の私的便益が過大になる可能性がある。そ れに加え、緊急輸送道路沿道だけでなく一定の近隣範囲においても、近くまで安全性の 高い道路が確保できるため正の外部性を受ける可能性がある。しかし、近隣の建物所有 者には耐震化に対する負担は生じていない。 そこで本研究では、耐震化の政策導入によって生じる外部性について、地価に与える 影響を推計するためヘドニック・アプローチの考え方を基に Difference-in-Difference (DID)分析による実証分析を行った。また、実証分析より得られた結果を基に、実 際の緊急輸送道路沿道地点での地価上昇効果と耐震化費用負担額を計算し、それらの関 係についてシミュレーションを行った。 実証分析の結果、建築物の耐震化は緊急輸送道路沿道および一定の近隣範囲において 正の外部性を生じさせ、地価の上昇効果をもたらすことが明らかとなった。さらに、シ ミュレーションの結果から、補助率によっては沿道建築物の建物所有者の便益が過大あ るいは過小となることを指摘した。そのため、外部性を踏まえた効率的な補助制度が必 要であり、その外部性は地域性等により異なるものであることから、それに応じたきめ 細かな制度設計を行うべきであることを政策提言とした。また、補助だけでなく外部性 の及ぶ一定の範囲に対して費用負担を設けることも考えるべきであること、政策に応じ ず耐震化を行わない建物所有者がいた場合は社会的費用が無駄になる可能性があり、場 合によっては強制力の発動が必要であることも合わせて政策提言とした。 論文の最後では、今後に向けた課題について述べた。本論文では耐震化により土地に 帰属する便益を対象としており、建築物自体の安全性向上など建物に帰属する便益を評 価しておらず、便益が過小評価である可能性がある。また、建物に帰属する便益はマン ションやオフィスの場合賃料に反映される可能性もあること、地価上昇に対する固定資 産税の負担も踏まえたシミュレーションにより建物所有者の耐震へのインセンティブ をより適切に評価できることを示唆した。本研究では、地価に対する環境特性の貢献度について回帰分析を用いて計測するヘド ニック・アプローチの考え方に基づき分析を行っているが、ヘドニック・アプローチを 取り入れた論文については金本・中村・矢澤(1989)など多く存在している。また、 建物の耐震化について経済的に分析を行っている論文については、山鹿・中川・齊藤 (2002)が共同住宅の家賃の推計を通じて消費者が選択の際に地震リスクを考慮して いることを実証し、費用便益分析により耐震化投資が収益的かどうか分析を行っている。 しかし、耐震化で生じる便益について、緊急輸送道路沿道など広い範囲で分析を行った ものは見当たらなかった。 なお、本論文の構成は以下の通りである。第2章では阪神・淡路大震災における被害 および教訓と、東京都の緊急輸送道路沿道建築物の耐震化に対する補助制度とその課題 について述べている。第3章では耐震化政策の補助制度について、1棟でも倒壊すると 便益が生じないという特性を踏まえたモデル化により理論分析を行っている。第4章で は解析ソフト Stata を用いて実証分析を行い、DID 分析により政策導入の効果につい て明らかにしている。第5章では、第4章の実証分析で得られた結果を基に、緊急輸送 道路沿道の地価ポイントにおいて便益と費用を比較するシミュレーションを行い、補助 制度が効率的かどうか分析を行っている。第6章では、以上の分析結果を踏まえ、緊急 輸送道路沿道建築物の耐震化への補助制度に関する考察と政策インプリケーションお よび今後の課題について述べている。
第2章 阪神・淡路大震災での教訓と東京都の耐震化政策
2.1 阪神・淡路大震災での被害と教訓 1995 年に発生した阪神・淡路大震災では、死者 6,434 人、負傷者 43,792 人1という 甚大な人的被害を被った。この死者のうち8 割以上は家屋の倒壊や家具の転倒などによ る家屋内での窒息死・圧死であった。また、死因の12.2%が焼死・全身やけどであり2、 生きてはいるものの瓦礫の中から動けず救助の手もまわらないことから、燃え広がる火 災に飲み込まれて焼死するという痛ましい事例も多く発生した。これには救助人員のマ ンパワー不足など様々な要因があるが、建物倒壊により道路が閉塞して車両の移動に大 きな支障が生じたことも原因の一つである。幅員の広い幹線道路であっても、たとえ1 棟でも建物が道路を塞いでしまうと警察や消防、救急用車両の通行の妨げになり活動の 支障になる。図1は神戸市内の「柏井ビル」の倒壊状況である。このビルは神戸市中心 部のJR 三ノ宮駅前にあり、震災発生当初は傾斜するに留まったものの震災翌日の余震 により完全に倒壊し、前面道路である県道30 号線(通称フラワーロード、六甲山山麓 から港湾方面に至る重要な幹線道路)を塞いでしまった。この道路閉塞により車両の通 行を妨げたため、後に車両通行ができるよう建築物をくり抜く措置が講じられた。 1 平成18 年 5 月 19 日消防庁確定 2 兵庫県監察医務室調べこのような建築物倒壊による道路閉塞は被災地の各所で発生した。福島、小谷(2005) によれば、阪神・淡路大震災における道路閉塞状況について、調査対象1,711 区間のう ち 30.5%にあたる 521 区間で何らかの被害が生じ、車両と歩行者両方とも通行不可能 になった区間も 145 区間あったとしている。この原因の一つが沿道建築物の耐震性不 足であり、阪神・淡路大震災で倒壊した建物の多くは旧耐震基準3の建物で、新耐震基 準で設計された建築物への被害は比較的尐なかったとされている4。そのため、旧耐震 基準の建築物の耐震性を高めることは喫緊の課題である。 2.2 東京都における緊急輸送道路沿道建築物の耐震化政策 阪神・淡路大震災で被害を受けた地域より、さらに人口や建築物が集積し都市化が著 しく進展した東京において市街地の建築物が倒壊して道路を閉塞させた場合、広範囲へ の深刻な影響が危惧される。そのため、東京都では緊急輸送道路(図2)の機能確保を 喫緊の課題と位置づけ、「建築物の耐震改修の促進に関する法律」(通称「耐震改修促進 法」)に基づき「東京都耐震改修促進計画」を策定し、その中で緊急輸送道路沿道建築 物の耐震化を定めている。その政策のもと、耐震診断や改修設計、改修工事への補助、 建物所有者への説明会や戸別訪問などを実施している。 図1 柏井ビル倒壊の状況(出典:毎日新聞ホームページ、墨田区ホームページ) 図2 緊急輸送道路指定状況(出典:東京都ホームページ) 3 1981 年に建築基準法における耐震基準が強化され、それ以前の建築物を「旧耐震基準」と呼び 区別することが多い。 4 『東京の決断』http://www.taishin.metro.tokyo.jp/pdf/dl_016.pdf
本政策における耐震化の対象は、旧耐震設計(1981 年)以前に建てられた建築物で あり、それに加え前面道路を塞ぐおそれのある高さ以上のもの、法的に問題のないもの などの条件を課している。この対象建築物について、Is 値5という耐震性を示す指標が 0.6 以上となることを目標としており、耐震診断の結果 Is 値が不足していれば耐震性を 備えるよう改修工事や除却、建替えを行うこととなる。 耐震化に関する計画は、「耐震改修促進法」にて策定が義務付けられている「耐震改 修促進計画」に基づき各自治体が位置づけている。耐震診断や改修設計、改修工事等に 対する助成制度もその計画に含まれることから、区市町村の政策によって建物所有者に 対する補助率も異なっている。(表1参照) なお、東京都は2011 年 3 月 18 日に「東京における緊急輸送道路沿道建築物の耐震 化を推進する条例」を公布し、緊急輸送道路(総延長約2,000km)のうち特に沿道の 耐震化を推進する必要がある道路を「特定緊急輸送道路」(総延長約 1,000km)とし て指定し、この沿道の建築物については補助率を引き上げる代わりに耐震診断を義務化 することとした。条例公布以降の時点の地価公示は現時点でまだ公表されていないため、 本論文の実証分析では特定緊急輸送道路と一般緊急輸送道路との分類は行わない。 表1 東京 23 区における緊急輸送道路沿道建築物への補助割合(筆者調べ) ・ 上限割合を示したものであり、建物用途など条件によってはこれよりも低い場合がある ・ このほか市部においても八王子市、武蔵野市、町田市などで補助制度を設けている 診断 設計 改修 診断 設計 改修 千代田区 10/10 10/10 5/6 10/10 750万円 2/3 左記はマンションの場合 中央区 10/10 2/3 2/3 10/10 10/10 2/3 一般は住宅系の場合 港区 10/10 5/6 5/6 2/3 2/3 2/3 新宿区 10/10 5/6 5/6 2/3 2/3 2/3 文京区 10/10 5/6 5/6 2/10 1/2 1/2 台東区 10/10 2/3 2/3 1/2 1/2 1/2 墨田区 10/10 1/2 1/3 2/3 1/2 1/3 江東区 10/10 5/6 5/6 2/3 2/3 2/3 品川区 10/10 2/3 2/3 10/10 2/3 2/3 目黒区 10/10 1/3 1/3 1/2 30% 大田区 10/10 5/6 5/6 4/5 2/3 2/3 世田谷区 10/10 5/6 5/6 2/3 2/3 2/3 渋谷区 10/10 H24から H24から 1/2 一般は住宅系等の場合 中野区 10/10 H24から H24から 10/10 (1㎡当たり単価) (1㎡当たり単価) 杉並区 10/10 5/6 1/2 1/2 1/2 一般は戸建住宅・分譲マンションの場合 豊島区 10/10 H24から H24から 2/3 1/3 北区 10/10 5/6 5/6 4/5 2/3 2/3 荒川区 10/10 2/3 2/3 2/3 2/3 2/3 板橋区 10/10 1/3 5/6 4/5 1/3 2/3 練馬区 10/10 5/6 3/4 2/3 2/3 1/2 足立区 10/10 5/6 5/6 1/2 1/2 1/2 葛飾区 10/10 H24から H24から 1/2 1/2 1/2 一般は木造住宅の場合 江戸川区 10/10 5/6 5/6 4/5 2/3 2/3 特定緊急輸送道路 一般緊急輸送道路 備考 5 一般財団法人日本耐震診断協会ホームページによると、Is 値とは次の通り。 「Is 値とは構造耐震指標のことをいい、地震力に対する建物の強度、靱性(じんせい:変形能力、 粘り強さ)を考慮し、建築物の階ごとに算出する」 http://www.taishin-jsda.jp/is.html
また、2011 年 3 月 11 日に発生した東日本 大震災を契機に、首都圏直下地震や東海地震に ついての報道も多くなされている。マグニチュ ード7 クラスの首都直下地震が今後 30 年のう ち 70%の確率で発生すると推定6されている こともあり、緊急輸送道路の耐震化はまさに喫 緊の課題で都民の関心も非常に高くなってい る。平成21 年調査ではあるものの、図3の通 り都民に対するアンケートにおいても都が優 先して耐震化を促すべきものに対して緊急輸 送道路沿道建築物が上位 3 位に入るなど、都 民の要望も強くなっている。 都民の意識が高まっているこの機会を捉えて、着実な耐震化の推進が求められている。 2.3 問題意識 緊急輸送道路沿道建築物の耐震化の推進により、沿道建築物の耐震性が向上し、安全 性が確保されることとなる。当然ながら、建物内の人々は建築物自体の耐震化により安 全性が高まる。さらに、消防や警察、自衛隊等は前面道路である緊急輸送道路を利用し ての救助活動等が想定されることから、他の道路沿道建築物と比較して緊急輸送道路沿 道建築物内の人々は救助されやすい性質を持つものと考えられる。また、阪神・淡路大 震災の際には消防等の公的機関だけではなく、地域レベルなどで自助的な救助活動も機 能したが、そのような地域の活動においても緊急輸送道路の役割は大きいものと思われ る。救助の優先度は各機関、組織により異なると想定されるが、どのような活動におい ても、緊急輸送道路沿道の建物内の人々はその他の地域の人々と比較して救助される確 率が高くなるものと思われる。そのため、耐震化により土地の立地について正の外部性 が受けられることから、沿道の地価が上昇することが予想される。 一方で、前節で述べたとおり本制度には耐震診断や改修等に対して補助制度が設けら れている。補助制度は各区市町村によって異なるが、補助率が高い場合や地価上昇額が 大きくなった場合、所有者の負担額を超えて過大な補助を受ける可能性があると考えら れる。さらに、緊急輸送道路だけでなく、その道路から一定程度離れた地点においても 近隣までは安全性の高い道路を利用できるため、緊急輸送道路沿道の耐震化の恩恵をあ る程度受けられることになる。そのため、緊急輸送道路の近隣範囲(図4参照)でも地 価上昇が発生する可能性があり、それらの所有者は耐震化に対するコストなしに恩恵を 受けることになる。近隣への影響を明らかにした結果この仮説が正しければ、耐震化政 策は広い範囲に影響があるため沿道所有者だけの問題ではないことを広く都民にアピ ールでき、沿道の所有者に対する意識付けを高める効果も発生する。 図3 都政モニター調査結果 (平成 21 年 10 月調査) 出典「緊急輸送道路沿道建築物の耐震化促進に 向けた新たな規制誘導策の基本的な考え方」 6 首都直下地震対策-内閣府防災情報のページ http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku_syuto/syuto_top.html
図5 緊急輸送道路沿道建築物耐震化における 費用、便益、補助の関係を示した理論的モデル また、緊急輸送道路沿道の所有者は、費用が便益を上回った場合は耐震へのインセン ティブが働かず耐震化が進まないため、そのギャップを埋めるために補助が必要となる。 もし近隣範囲にも正の外部性が及ぶのであれば、受益者負担の考え方に基づき近隣範囲 に対する費用の一部負担も考えられる。以上の観点から、近隣範囲についても外部性の 分析を行っていく。 なお、緊急輸送道路沿道建築物の耐震化事 業の実績については表2の通りであり、実績 はあまり上がっていない。仮説通り緊急輸送 道路沿道の土地の価値が上がるのであれば、 資産価値を重視する分譲マンションの区分所 有者などに対して、耐震化の実施により資産 価値が上がることを根拠に耐震化を促すことができるものと考える。
第3章 耐震化補助制度に関する理論分析
耐震化について、耐震改修の割合と 限界便益の関係をモデル化したものを 図5に示す。緊急輸送道路は沿道に 1 棟でも耐震性が不十分な建物があり、 震災時にその建物が道路を塞ぐと道路 の役割を果たさないという特殊性があ り、理論分析にあたってはこの特殊性 を考慮する必要がある。そのため、沿 道建築物の耐震割合とそれに伴う限界 便益については比例的に漸増するもの ではなく、一定の耐震化割合(100%) を満たす点 x1に至るまでは便益がゼロであり、x1に達したときに一定の便益が得られ 表2 耐震化促進事業の実績 出典「緊急輸送道路沿道建築物の耐震化促進に 向けた新たな規制誘導策の基本的な考え方」 図4 緊急輸送道路と沿道・近隣範囲の考え方 X:耐震改修の割合 X1 P1 (私的)限界便益 (社会的)限界便益 耐震化総費用 P 補助金合計 P* ピグー補助金 O A Bるものと考えられる。 耐震化総費用と私的限界便益(建物所有者個人でみた地価上昇)との間に差があり、 その費用の方が大きい場合、建物所有者に対する補助等の対応が必要となる。限界便益 が得られるような耐震改修の割合を x1とすると、その点における耐震化費用と限界便 益の差 AB が効率的な補助割合である。そして、三角形 OAB が全体の補助額となり、 実際の耐震化補助制度における補助率とを照らし合わせることで、効率的な補助割合か どうか比較分析を行うことができる。また、図5には地域全体で見た社会的な限界便益 についても示した。範囲が広い分、私的な限界費用よりも同じ耐震割合に対する便益は 大きくなる。耐震化総費用よりも社会的な便益が小さい場合、費用便益の考え方では政 策実施に至らないため、社会的な便益の方が大きいという仮説のもと分析を進めていく。
第4章 耐震化補助制度に関する実証分析
本章では、緊急輸送道路沿道耐震化の政策導入が沿道や近隣範囲の地価に与える影響 について実証分析を行う。 4.1 分析の考え方 実証にあたっては、ヘドニック・アプローチをもとに推計式を構築する。ヘドニック・ アプローチは、その土地の環境条件の違いがどのように地価の違いに反映されているか を観察しそれを基に環境の価値の推定を行うものであり、地価に対する環境特性の貢献 度について回帰分析を用いて計測することによって行われる7。本論文でも、緊急輸送 道路沿道の価値を推定するため、その影響が地価に反映されていると考え、ヘドニッ ク・アプローチによる分析を行う。 また、緊急輸送道路沿道の耐震化政策導入による効果については、緊急輸送道路沿道 地点および近隣地点を対象としたDID分析を用いて検証する。DID分析は、緊急輸 送道路沿道もしくは近隣の地点について、政策導入以外の効果がすべて同一とみなして その影響を分析する手法である。DID分析を用いることにより、年度間の地価の違い (好景気の際の地価上昇など)といった政策導入と無関係の要因の影響や、緊急輸送道 路沿道の地点がもともと持つ固有の性質などを除外して分析を行うことが可能となる。 本論文では、政策導入後の年次についてダミー変数を設定し、緊急輸送道路沿道あるい は近隣地点のダミー変数との交差項によりその影響を評価していく。 4.2 耐震化が与える外部性についての実証分析 4.2.1 分析方法 分析に当たっては、2006 年から 2011 年の 6 年間を対象としてデータ収集を行い、 解析ソフトとしてStata を用いた。政策導入後ダミーについては 2008 年以降を導入後 7 金本(1989)に詳しい。として変数を設定8したほか、東京都内の地価公示データ等から変数を設定し、次の推 計式にて推計を行った。 【推計式】 Ln P = β0 +β1DF +β2DS +β3DT * DF +β4DT * DS +β5DH * DF +β6DH * DS + Σγi Xi + ε (1)被説明変数 Ln P 本論文では、緊急輸送道路沿道の耐震化政策が地価に与える影響を明らかにすること を目的としている。耐震化の効果は建物自体だけではなく、道路との位置関係が大きく 影響することから土地にも帰属すると考え、地価(公示地価)を被説明変数とし対数を 取った。 (2)説明変数 地価を被説明変数としていることから、地価公示データに含まれる情報を主に説明変 数としている。さらに、下記ダミー変数を設けて交差項により影響を見ることとした。 ① 緊急輸送道路沿道ダミー DF 当該地価公示ポイントが緊急輸送道路 に面しているか(今回の政策の対象とな る地点か)を確定させる必要がある。し かし、その情報は公にはなっていないた め、一定の考え方を設けて決定すること が必要であった。そこでGISを活用し、 緊急輸送道路のデータと地価公示のデー タを重ね合わせ、緊急輸送道路から一定の範囲に該当する場合「1」、それ以外の場合 「0」を取るダミー変数を設定した。ここでは一定の範囲を「緊急輸送道路から 30m 以内」とし、その考え方について図6に示す。 ② 緊急輸送道路近隣ダミー DS 緊急輸送道路沿道ではなくとも、一定の近隣範囲で政策の影響を受けると仮定する。 その範囲については明示されるものではないため、定義が必要である。そのため、今回 の分析ではこのダミー変数を50m刻みで設定しその範囲を変えて DID 分析を行ってお り、その結果最も決定係数の高いものを近隣範囲と定義した。その結果については表3 の通りである。 近隣範囲 30m~ ~100m ~150m ~200m ~250m 決定係数 0.92690 0.92700 0.92690 0.92680 修正済み決定係数 0.92630 0.92640 0.92630 0.92620 表3 近隣範囲による決定係数の違い 表3に示す結果より、最も決定数の高い緊急輸送道路から30m~150mの範囲を外部 性が及ぶ近隣範囲とし、その範囲に該当する地点で「1」、それ以外は「0」をとるダミ 図6 緊急輸送道路沿道範囲の考え方 8 本政策を含む「東京都耐震改修促進計画」が公表されたのは2007 年 3 月であるが、 地価公示は1 月 1 日を基準日としていることから、翌年の 2008 年からを政策導入の時期とした。
ー変数とした。 ③ 政策導入後ダミーDT × 緊急輸送道路沿道ダミーDF 緊急輸送道路沿道を道路中心線から 30mと設定したことから、その範囲内における 耐震化政策の影響を推計するため、当該交差項を設定した。 ④ 政策導入後ダミーDT × 緊急輸送道路近隣ダミーDS 緊急輸送道路の影響が生じる範囲を道路中心線から 30m~150m と設定したことか ら、③と同様にその範囲内の影響を推計するため、当該交差項を設定した。 Xiはその他の変数で地価ポイントの立地等の特性を示すものであり、地積、最寄駅か らの距離、容積率、前面道路幅員、ターミナル駅からの時間距離9、倒壊危険度、延焼 危険度、総合危険度10、年度ダミー、現況住宅ダミー、低層住居専用地域ダミー、行政 区市町村ダミー、鉄道沿線ダミー11、現況住宅ダミーDH×緊急輸送道路沿道ダミーDF (交差項)、現況用途住宅ダミーDH×緊急輸送道路近隣ダミーDS(交差項)を用いた。 これらの設定変数について、表4に詳細説明および出典を示す。 表4 DID 分析で採用した変数 9 「大都市交通センサス」(国交省)における首都圏の乗降客数5 位までの駅をターミナル駅とし、 最寄駅からこれらの駅までの乗車時間のうち最小値を変数とした。 10 東京都が地震等に対して町丁目単位で公表している地域危険度。山鹿ら(2002)は、地価に有意に 影響を与えるとしている。 11 最寄駅が乗り入れている路線についてダミー変数を設定したが、複数路線の場合、 「大都市交通センサス」(国交省)にて利用者の多い路線を採用した。 変数 単位 説明 出典 地価 P[Ln] 【被説明変数】 円/㎡ 対数 地価公示データ(国交省) 地積 ㎡ 土地の面積 〃 最寄駅からの距離 m 地価ポイントから最寄駅までの実測距離 〃 容積率 % 指定容積率 〃 前面道路幅員 m 接道道路の幅員 〃 ターミナル駅からの時間距離 分 主要5駅(東京、新宿、池袋、渋谷、品川)からの乗車時間の最小値 (平日午前8時半ターミナル駅着と条件指定して検索) ジョルダン乗換案内 倒壊危険度 - 倒壊リスクを示す指標(5段階) 東京都HP 延焼危険度 - 延焼リスクを示す指標(5段階) 〃 総合危険度 - 総合的な地域危険度を示す指標(5段階) 〃 年度ダミー - 2006~2010年のうち該当年度で1を取るダミー変数(ベース:2011年度) 地価公示データ(国交省) 現況住宅ダミー - 利用現況に住宅が含まれる場合1を取るダミー変数 〃 低層住居専用地域ダミー - 用途地域が低層住居専用地域の場合1を取るダミー変数 〃 行政区市町村ダミー - 該当する区市町村で1を取るダミー変数(ベース:江戸川区) 〃 鉄道沿線ダミー - 最寄駅の沿線が該当路線の場合1を取るダミー変数(ベース:埼京線) 大都市交通センサス(国交省) ①緊急輸送道路沿道ダミー - 地価ポイントが緊急輸送道路から30m以内の場合1を取るダミー変数 GISにより集計 ②緊急輸送道路近隣ダミー - 地価ポイントが緊急輸送道路から30~150mの場合1を取るダミー変数 〃 政策導入後ダミー×① - 2008年(政策導入)以降で1を取るダミー変数と①の交差項 -政策導入後ダミー×② - 2008年(政策導入)以降で1を取るダミー変数と②の交差項 -現況住宅ダミー×① - 現況住宅ダミーと①の交差項 -現況住宅ダミー×② - 現況住宅ダミーと②の交差項
-また、各説明変数の基本統計量について、表5に示す。 表5 DID 分析 基本統計量 4.2.2 分析結果 DID 分析の推計結果を表6に示す。 ***,**,*はそれぞれ有意水準 1,5,10%で統計的に有意であることを示す 表6 DID 分析 推計結果 変数 観測数 平均 標準偏差 最小値 最大値 地価Ln 17318 12.9338 0.9419 10.119 17.479 地積 17318 308.0606 1704.1470 47 126956 最寄駅からの距離 17318 879.3247 939.1871 0 10000 容積率 17318 259.9838 195.0479 0 1300 前面道路幅員 17318 9.5740 9.0031 2 50 ターミナル駅からの時間距離 17318 26.5659 19.4739 0 107 倒壊危険度 17318 1.8513 0.9421 0 5 延焼危険度 17318 1.9440 1.0130 0 5 総合危険度 17318 1.8912 0.9867 0 5 年度ダミー (省略) 現況住宅ダミー 17318 0.8364 0.3699 0 1 低層住居専用地域ダミー 17318 0.3700 0.4828 0 1 行政区市町村ダミー (省略) 鉄道沿線ダミー (省略) ①緊急輸送道路沿道ダミー 17318 0.1409 0.3479 0 1 ②緊急輸送道路近隣ダミー 17318 0.3335 0.4715 0 1 政策導入後ダミー×① 17318 0.0915 0.2883 0 1 政策導入後ダミー×② 17318 0.2136 0.4099 0 1 現況住宅ダミー×① 17318 0.0799 0.2712 0 1 現況住宅ダミー×② 17318 0.2699 0.4439 0 1 変数 係数 標準誤差 t値 地積 0.00002 0.000002 9.01 *** 最寄駅からの距離 -0.00017 0.000003 -57.23 *** 容積率 0.00220 0.000025 89.37 *** 前面道路幅員 0.01174 0.000369 31.77 *** ターミナル駅からの時間距離 -0.01198 0.000534 -22.44 *** 倒壊危険度 -0.03613 0.004852 -7.45 *** 延焼危険度 -0.00406 0.004322 -0.94 総合危険度 -0.00210 0.005787 -0.36 年度ダミー (省略) 現況住宅ダミー 0.02053 0.011059 1.86 * 低層住居専用地域ダミー 0.20419 0.006256 32.64 *** 行政区市町村ダミー (省略) 鉄道沿線ダミー (省略) ①緊急輸送道路沿道ダミー -0.03216 0.015997 -2.01 ** ②緊急輸送道路近隣ダミー 0.00329 0.014286 0.23 政策導入後ダミー×① 0.06086 0.012206 4.99 *** 政策導入後ダミー×② 0.02407 0.008971 2.68 *** 現況住宅ダミー×① -0.23618 0.01525 -15.49 *** 現況住宅ダミー×② -0.05085 0.013886 -3.66 *** 定数項 12.57014 0.041338 304.08 ***
緊急輸送道路沿道ダミーDF については5%水準で係数が-0.03216、緊急輸送道路 近隣ダミーDS については10%の水準でも有意とならなかったことから、緊急輸送道 路沿道もしくは近隣範囲に位置することだけでは正の外部性が生じなかった。しかし、 政策導入後ダミーDT と緊急輸送道路沿道ダミーDF、近隣ダミーDS との交差項で見る と、沿道ダミーとの交差項は係数0.06086、近隣ダミーとの交差項は係数 0.02407 とな り、いずれも正の影響が1%水準で統計的に有意に示された。また、緊急輸送道路に面 する沿道の方が近隣範囲よりも交差項の係数が大きくなったことから、道路からの距離 が近い方が道路沿道の安全性が高まることに対する正の外部性を強く受けることが明 らかとなった。 なお、現況用途に住宅を含む地点(現況住宅ダミーDH が「1」の地点)で見ると、 現況住宅ダミーDH と緊急輸送道路沿道ダミーDF あるいは近隣ダミーDS との交差項 について、沿道ダミーとの交差項では-0.23618、近隣ダミーとの交差項では-0.05085 の係数となっており、負の係数で1%水準で有意となっている。その理由として次のよ うに考察する。高速道路や国道や都道の多くが緊急輸送道路に指定されているが、それ らは重要な幹線道路であり平時においても物流の要であることから交通量も多く、バス やトラックなどの大型車両の通行も多いことが予想される。そのため、住宅系の用途に おいては、車両による騒音、振動、排気などの影響を強く受けている可能性がある。し かし、緊急輸送道路には高速道路、国道、都道だけでなく、区道や市道に多い狭幅員の 道路など多様な道路が指定されていることから、住宅系用途に対するマイナスの影響は 緊急輸送道路自体の影響なのか、それとも広幅員道路の騒音等の影響なのか、区別して 観察することは困難である。
第5章 実際の緊急輸送道路沿道地点におけるシミュレーション
本章では、前章における推計結果を利用し、費用便益分析の考え方を基にして、社会 的費用および社会的便益についてのシミュレーションを行う。 5.1 シミュレーションの考え方 地価公示ポイントが緊急輸送道路沿道に当たる地点について、地価上昇を便益、耐震 にかかるコストを費用としてシミュレーションを行っていく。 緊急輸送道路沿道の地価公示ポイントとして三鷹市上連雀2-4-4(三鷹駅から 430m)地点を選んだ。この地点の直近 2011 年の地価は㎡当たり 829,000 円であり、 これは今回実証分析を行ったデータにおける地価の平均価格(810,000 円/㎡)に 2011 年単価で最も近く、かつ周辺の区画が整形であることから選定した。また、緊急輸送道 路近隣範囲の影響を評価するため、緊急輸送道路から150m 程度離れた地点(三鷹市上 連雀2-14-15、三鷹駅から600m)を近隣範囲を代表する地価ポイントとして選定し、この地点の地価は407,000 円/㎡である。これらの位置関係を図7に示す。 図7 シミュレーション対象地点 5.2 一定の広範囲における分析 本節では広い範囲の外部性を分析するた め、社会的費用、社会的便益について検討を 行う。図8の範囲①を沿道範囲(耐震化の必 要がある範囲)、範囲②を近隣範囲とする。 範囲①の土地総面積は約5,500 ㎡、範囲②の 土地総面積は約18,300 ㎡である。 4.2.2 で検証した分析結果を基に、これら の地域における地価上昇効果を計算する。政 策導入後ダミーと緊急輸送道路沿道ダミー、 近隣ダミーとの交差項の係数は各々0.06086、 と 0.02407 であったがこれらは地価に対す る変化率を示すものであるため、次のように地価に対する影響を求めることができる。 (沿道範囲) 5,500 ㎡ × 829,000 × 0.061 = 278,130,000 円 (1) (近隣範囲) 18,300 ㎡ × 407,000 × 0.024 = 178,754,000 円 (2) (1)、(2)より、沿道範囲、近隣範囲を合わせた地価上昇は次式の通りである。 278,130,000 円 + 178,754,000 円 = 456,884,000 円 (3) 一方、建物の耐震化に対する費用計算を行う。耐震化の必要が生じるのは沿道範囲の みである。この範囲について、指定容積率は500%と定められているが、道路や隣地の 斜線制限等が生じることを踏まえ、利用容積率を400%と仮定する。 沿道範囲の建物の総床面積は次式の通りである。 5,500 ㎡ × 400/100 = 22,000 ㎡ (4) うち、旧耐震設計建物の割合を1/3 12とすると、耐震化の必要が生じる建物総床面積 は次式の通りである。 22,000 ㎡ × 1/3 = 7,300 ㎡ (5) 【沿道地点の都市計画制限等】 ・ 商業地域 ・ 建蔽率 80% ・ 容積率 500% ・ 絶対高さ制限 最高 35m 図8 沿道および近隣範囲 12 下記調査より旧耐震割合を 1/3 としている。 「株式会社マンションデータサービス」(2006 年 1 月発表)『1 都 3 県のマンションのうち戸数ベー スで32%が旧耐震設計』http://mansiondata.co.jp/main/100.html 「オフィスジャパンネット」(2011 年 6 月発表)『東京都市部のオフィスのうち 32%が旧耐震』
ここで、東京都の定める耐震基準額(補助額の決定の際に用いられる㎡当たり単価) が、耐震診断および耐震設計は2,000 円/㎡、耐震改修は 47,300 円/㎡であることを ふまえると、耐震にかかるコストは次のように計算できる。 (耐震診断費用) 7,300 ㎡ × 2,000 円/㎡ = 14,600,000 円 (6) (改修設計費用) 7,300 ㎡ × 2,000 円/㎡ = 14,600,000 円 (7) (改修工事費用) 7,300 ㎡ × 47,300 円/㎡ = 345,290,000 円 (8) (6),(7),(8)より、沿道範囲の耐震化総費用は次式の通りである。 14,600,000 + 14,600,000 + 345,290,000 = 374,490,000 円 (9) 以上より、沿道範囲のみ費用と便益を比較すると、次のように便益が費用を下回る。 278,130,000 円(便益:地価上昇) < 374,490,000 円(費用:耐震化費用) 一方、沿道範囲に加えて近隣範囲も合わせて便益を推定した場合、次のように費用 を便益が上回る。 456,884,000 円(便益:地価上昇) > 374,490,000 円(費用:耐震化費用) このことから、近隣範囲も合わせて検討すると社会的便益を費用が上回るため政策と しては成立するが、沿道範囲のみで見た場合は便益が下回るため、沿道の建物所有者の 耐震に対するインセンティブが働かず、耐震化が進まない恐れがあることが分かった。 また、近隣範囲を合わせて便益を考えた場合でも、費用負担は沿道建物所有者のみであ り、費用負担なしに緊急輸送道路沿道の安全性に関する便益を得ている近隣住民が、耐 震化された沿道(=公共財)にフリーライドしている可能性がある。 5.3 所有者個人レベルにおける分析 前節に続き、本節では所有者個人レベルでの分析を行う。ここでは土地1㎡当たりの 費用および便益で評価を行うこととする。なお、本論文では土地に帰属する便益のみを 対象としており、建物の耐震性向上や家賃への反映など建物に帰属する便益は評価して いない。そのため、便益計算はやや過小になっている可能性がある。 5.3.1 耐震化に対する東京都の補助制度 東京都の補助制度は、平成23年に創設された特定緊急輸送道路と一般の緊急輸送道 路とで補助率が異なる。また、区市町村独自の補助制度の有無によっても補助率が異な るが、改修設計および改修工事に対する補助制度について図9に示す。 図9 耐震化に対する東京都の補助制度(改修設計・改修工事)
また、耐震診断については、一般緊急輸送道路では区市町村によって補助割合が異な るが、特定緊急輸送道路の場合は全ての区市町村において原則補助率を 10/10(床面 積10,000 ㎡まで)としている。今回分析対象とした地価公示ポイントが面する緊急輸 送道路の場合、緊急輸送道路の中でも優先度の高い特定緊急輸送道路に指定されており、 この場合の補助率は下記の通りである。 【耐震診断】 補助率10/10(床面積 10,000 ㎡まで) 【改修設計】・【改修工事】 補助率5/6(床面積 5,000 ㎡まで・区市の制度がある場合) 補助率1/3(床面積 5,000 ㎡まで・区市の制度がない場合) 実際、三鷹市においては市の独自制度がないため補助率は1/3 となっているものと思 われるが、ここでは比較を行うため補助率5/6 と 1/3 の両方の場合、および補助率が 0 の場合、各々について分析を行う。なお、補助率は建物規模が大きくなる場合、一定の 面積以上の部分に対して補助率が下がる可能性があるが、一律に最も補助率の高い 5000 ㎡までの場合と仮定し分析を行う。 5.3.2 地価上昇額 便益である地価上昇額については、地価に係数を乗じると次式の通りである。 829,000 円/㎡ × 0.061 = 50,600 円/㎡ (10) 5.3.3 補助率が 0 の場合の負担額 耐震化に伴う建物1 ㎡当たりの負担額に関する東京都の基準額は、5.2 節で触れたと おり以下の通りである。 耐震診断 : 2,000 円/㎡ 改修設計 : 2,000 円/㎡ 改修工事 : 47,300 円/㎡ これらを合わせると建物1 ㎡当たりの耐震化負担額が計算できる。 2,000 円/㎡ + 2,000 円/㎡ + 47,300 円/㎡ = 51,300 円/㎡ (11) (11)より、建物 1 ㎡当たり 51,300 円の負担が発生することが分かる。これを土地 1 ㎡当たりに換算すると、5.2 節と同様に指定容積率が 500%であることから利用容積 率400%と仮定すると、下記の通りとなる。 51,300 円/㎡ × 400/100 = 205,200 円/㎡ (12) (10),(12)を比較すると、便益を費用が大幅に上回る。 50,600 円/㎡(便益:地価上昇) < 205,200 円/㎡(費用:耐震化費用) このことから、耐震化の推進に当たっては建物所有者のインセンティブを促すため適 切な補助等の対応が必要であることが明らかとなった。
5.3.4 補助率が 1/3 の場合の負担額 この場合、耐震診断は所有者負担なし、改修設計と改修工事の補助率が1/3 であるこ とから、容積率を考慮すると土地1 ㎡当たり次の負担が所有者に生じる。 (2,000 円/㎡ + 47,300 円/㎡)× 2/3 × 400/100 = 131,500 円/㎡ (13) (10),(13)より 50,600 円/㎡(便益:地価上昇)< 131,500 円/㎡(費用:耐震化 費用)となり、補助率が0 の場合と同様に便益を費用が上回ることから、適切な補助等 の対応が必要であることが分かった。 5.3.5 補助率が 5/6 の場合の負担額 この場合、耐震診断は所有者負担なし、改修設計と改修工事の補助率が5/6 であるこ とから、容積率を考慮すると土地1 ㎡当たり次の負担が所有者に生じる。 (2,000 円/㎡ + 47,300 円/㎡)× 1/6 × 400/100 = 32,900 円/㎡ (14) (10),(14)より 50,600 円/㎡(便益:地価上昇)> 32,900 円/㎡(費用:耐震化費 用)となり、補助率を5/6 に引き上げると便益が費用を上回ることが明らかとなった。 5.4 シミュレーションの結果を踏まえた理論分析 前節の検討をふまえると、補助率が1/3 の場合は費用が便益を上回り、補助率が 5/6 の場合は逆に便益が費用を上回っている。この結果を理論分析のモデルに当てはめると、 図10 のようになる。 図 10 分析を踏まえた理論分析モデル この図より、今回検討を行った地価公示ポイントにおいては補助率1/3 と 5/6 の間に 効率的な補助金割合があることが明らかとなった。 X:耐震改修の割合
P
1 (私的)限界便益 (社会的)限界便益 耐震化総費用P
補助率1/3の場合 =補助が尐ない 効率的な ピグー補助金割合 補助率5/6の場合 =補助が多いP
*X
1 O第6章 まとめ
6.1 考察および政策的インプリケーション 以上の分析より、緊急輸送道路沿道の耐震化が正の外部性を周辺に与えることが明ら かとなったことから、政策の策定に当たっては沿道の所有者、近隣の所有者各々に対し て与える外部性を制度設計へと反映させることが必要と考えられる。 また、今回の分析から得られた結果から、緊急輸送道路沿道の耐震化に関して次の通 り政策提言を行う。 補助率によっては耐震化の負担額を地価上昇額が過剰に上回る(下回る)可能性があ ることから、効率的な補助になるようそのバランスに配慮する必要がある。また、地域 によって耐震化から生じる外部性には差があり、その地域の用途地域、容積率や建蔽率、 地価等の条件の違いについても外部性に大きく作用する。そのため、補助率の策定に当 たっては、地域性に応じてヘドニック・アプローチ等を活用しながら、地域ごとにきめ 細かな補助金の制度設計を行うべきである。 補助が過小である場合、今回の分析事例のように所有者の便益を費用が上回る可能性 がある。その際、そのギャップの埋め方については補助率の引き上げだけではなく、近 隣にも正の外部性が及んでいることを踏まえ、受益者負担の観点から耐震化で恩恵を受 ける一定の範囲にも負担を課す制度も検討すべきである。(これは所得の再分配、財源 負担調整の考え方で、経済学的には同じである。)なお、その場合新たに負担金を徴収 するのでは近隣住民の抵抗感も強いものと思われるため、例えば固定資産税へ上乗せを 行うなど、徴収に伴う取引費用のなるべく小さい方法を採用することが望ましい。 また、万が一1 棟でも耐震化を行わないと緊急輸送道路の目的を果たさず、費やした 社会的費用が無駄になるおそれがある。前章で示した理論分析モデルでは費やした社会 的費用は耐震化に対する建物所有者の費用負担と補助金の合計であり、耐震化総費用曲 線の下にある三角形がその総費用にあたる。その総費用を考えると、1 棟残ることでぎ りぎり便益が発生しないと社会的費用がほとんど無駄になってしまう。そのため、その ような状況では除却命令など行政としての強制力の発動も必要ではないかと思われる。 強制力の発動にも当然コストが必要であるが、その強制力の費用と費やした社会的費用 を比較すれば、強制力のコストの方が小さいことは明らかである。 なお、2.3 節で触れたとおり、本政策に対する実績はまだそれほど上がっていない。 それにも関わらず地価が上昇しているのは、本政策の導入により耐震化が進むことを織 り込んで市場が反応しているものと考えられる。しかし、耐震化が進まない場合は、本 政策が本当に実効力を持つのか、東京都の政策は具現化するのかという点で都民からの 信用性が低下し、地価上昇が起こらなくなる可能性が高い。このため、政策当局である 東京都は、耐震化の実施により住民にとっても便益を生むとの説明を行うことなどによ り耐震化の促進を行い、本政策に対する信用性を高める努力が必要である。6.2 今後の課題 今回は、耐震化に与える影響が地価に反映されると仮定して分析を行った。しかし、 耐震化によって受けられる便益は土地に帰属するものだけではない。当然、建物自体の 耐震性が高まることでその建物価値が上昇するはずであるが、今回は建物に帰属する便 益を評価しておらず、適切な評価手法が望まれる。 また、賃貸マンションやオフィスの場合は、耐震化によりテナントに対する賃料に影 響が生じる可能性もある。緊急輸送道路が賃料に与える影響については、賃貸マンショ ンやオフィスのデータについて過去の資料が乏しいことなど制約があり検証ができな かった。今後、データを揃えることにより検証を行っていく必要があるものと考える。 さらに、地価上昇が生じると固定資産税にも反映されるため、所有者の負担が増える 可能性がある。土地を売却せず所有し続ける場合、税の負担がネックとなってくるがそ れを踏まえた場合のシミュレーションを行うことにより、所有者のインセンティブをよ り適切に評価できるものと考える。
参考文献
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