(毎月 1回お日発行)ISSN曲19-4副3
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2006
NO. 158
部落のいまを考える⑩ある大
学
入
試
の
設
問をめ
ぐって
野 町 均
最近読んだ本から⑪こべる刊行会
過去を記憶する意味ー化製
業
の軌跡を追う
一中島久恵著『モノになる動物のからだー骨・血・筋・臓器の利用史j恩 智 理
ある光景⑬歴史を学ぶ女性たち
重
信陽
子
ひろば⑩いのち
一生き合う②
部落のいまを考え る ⑩ 均 ︵ 高 校 教 員 ︶
ある大学入試の設問をめぐって
野
町
本 誌 百 二 十 五 日 方 ︵2003
年 8 月︶に掲載されている 畑中敏之﹁部落史は墓標となるかl
﹁ 人 権 ﹂ 看 板 の 氾 濫 する下で﹂に松山大学人文学部の日本史入試問題の設聞 が 検 討 さ れ て い る 。 これに先だって畑中氏は同年六月、筆者が当時勤務し ていた高知県立高岡高校の全校生徒を対象とする人権教 育講演会でこの設聞を採り上げた。レジュメには設問と これを問題視する団体の主張を併せて記載したうえで、 しかし、よい問題とはいえないにしても、歴史の事実を 隠すことが問題の解決になるはずがないという自身の基 本 的 見 解 を 述 べ ら れ て い た 。 レジュメにある設問とそれへの批判は以下のとおりで あ る 。 幕府は農民や町人の下位に一定の政治的意図をもって あらたな身分を定め、それぞれに蔑称を与えた。これら の う ち ︵ 1 ︶皮革製造を生業としつつ死牛馬の処理や刑 役をしいられた人々と︵2
︶物乞い・遊芸をしながら村 や町の番人や清掃に従事させられた人々は何と呼ばれた か 、 そ れ ぞ れ 記 せ 。解放学習を行っている学生が、この設問を目の当たり にし、どんな思いで鉛筆を持ったと思いますか。以後の 設聞が、冷静に解答できたと考えられますか ︵ ﹁ う ず し お 会 ﹂ の ﹁ 公 開 質 問 状 ﹂ よ り ︶ 。 その後、大学側は、愛媛県同和教育協議会の﹁被差別 地区出身の受験者がいた場合の配慮に欠ける﹂との提起 に対し、﹁差別語への認識と配慮が足りなかった。受験 生が心を痛めることになり深く反省している﹂として謝 罪したという。現代の社会常識︵あるいは伝統的思考範 型というべきか︶に基づく政治決着というべきであろう。 このかんの経緯については畑中前掲文に詳しい。
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ところで事態の処理が﹁現代の社会常識に基づく政治 決着﹂に基づいてなされたとしても、この問題に接した 個人の思索は別物であり、ましてやその決着が個人の多 様な意見を押さえ込むものであってはならないのは当然 であろう。学校はもとより社会がこの多様性を認め合う 度合を減じれば減じるほど窮屈で開放性のない世の中に なる危険度は高まる。さいわいにして畑中氏の講演後、 全校生徒が書いた感想文を読むと、大学入試という関心 度の高いトピックとあいまって多様性に富むものであっ たのはよろこばしかった。そのなかからいくつかの意見 を 示 し て お こ う 。 ①あの入試問題を差別とする批判に対しては、ぼくは それは歴史の中の事実なのだから仕方がないことだと思 い ま す 。 ②いちばん気になったのは大学の入試問題に差別があ ったということでした。全然知らなかった出来事です。 だけど、えた、非人を答えさせる問題が差別だとは私は 思いませんが、大学の入試問題をつくる人も部落問題に ついて少しは理解してやったほうが、こんな問題になら ないし、次から気をつけていってほしいと思います。 ③まず考えたのは入試問題のこと。でもそんなたいし たことゃないと思う。このことを重大な差別問題という のなら学校で教える授業をしなければよい。学校の授業 で教えられたことを確かめるのが入試なんだから、それがいけないというのなら教えることをもっと検討しなく て は い け な い 。 ④あの問題はたしかに学生によっては冷静に答えられ ない。それなのに出題している。それがわからないこと に び っ く り す る 。 ⑤歴史を隠すということについて、隠してどうするん だろうと思った。えた、ひにんという言葉を隠しても部 落差別は何も解決しないのにと思った。嫌な思いをする だろうから隠す、隠すから部落は悪い印象で見られる ::悪循環だなあと思った。人それぞれ感じ方や考え方 がちがうから部落問題ってすごく難しい問題だなあと思 い ま し た 。 ⑥あの入試問題は差別だと言っている人々がいたけど、 私はそうではないと思います。だって日本史で習うこと です。私は﹁それが差別﹂と言っている人々が部落の 人々を差別しているかもしれないとも思いました。 ⑦部落問題というのは部落出身であることを隠したり、 江戸時代の身分用語を隠したりしてこそこそ生きること じゃなくて、そういう問題に立ち向かっていくことだと 思 い ま し た 。 ③カミングアウトするのは勇気がいるけど、隠して隠 してずっと隠していくから、差別が残っていくのだと思 う。ポジティヴな前向き志向の生き方を求めることが大 切だと思う。差別はこれからも私たち人類が向き合って いかないといけない問題だと思う。 ⑨きょうの話を聞いて部落のことを考え直すよいきっ かけになった。中学校の時は、こういうことが差別だか らいけないのだという勉強のしかただったから、こうい うことが、ダメなのかという考え方しかなかった。だけど きょうの話を聞いていると、人の考え方によって差別へ の捉え方がちがう。だからあれが差別で、これが差別じ ゃないという単純なことではないと思った。だからもっ と考えていく必要があるんだと思った。 3 以下は、畑中氏の講演と生徒の感想文を承けて、 期の終業式でのわたしの話である。
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︵前略︶今学期、わたしにとって印象深かったことのひとつに人権教育の講演会がありました。講師は立命館 大学教授の畑中敏之さん。いろんな問題を投げかけてく れましたが、そのなかで松山大学の入試問題が採り上げ ら れ ま し た 。 畑中さんは、よい設問とはいえないと断ったうえで、 しかム歴史の事実を隠す予﹂とは問題の解決にはならない と主張されました。それではきみたちの判断はどうだつ たのでしょう。講演のあと書いていただいた感想文、全 員のぶんを読ませていただきました。 きみたちみんなの感想文を読み終えての感想をひとこ とで言えば﹁感心﹂したとなります。誇張すれば﹁感 動﹂になります。けつこう多くの人が自分の頭で考えて、 判断して、自分の言葉で表現している点に感心し、感動 を 覚 え ま し た 。 松山大学の入試問題の是非については、万人共通の解 答はないでしょう。人それぞれのなかで考えて自分なり の解答を持つ以外にない。どうしても決着をつけなくて はならないというのなら政治の場で多数決を採るという 方法はあるのですが、それにしたって多数が個人にとっ て﹁真実﹂であるわけではありません。 自分なりに考えて、そうして他人の考えと比較してみ る。結論が違っていたら、その考えには反対するけれど も、相手が一所懸命考えたことについては尊重してやる。 おたがいがこうした態度を身につけるなかで人権の尊重 や差別問題の克服は進んでゆくのではないかとわたしは 思っています。ほんの少しでもよいから、立ち止まって、 自分なりに考えてみることがたいせつだと思うのです。 世の中には、問題によって万人共通の解答がある場合 もあれば、自分なりに考えて、自分の解答を見つけなく てはならない問題もけつこうあります。感想文の多くに は自分なりの解答を見つけてみようという姿勢がありま した。人権の問題だけではなく、そうした姿勢こそが人 聞の成長をもたらすはずです。 すっきりした解答がないのはまだるっこしい、こんな 問題を考えるのはややこしいし、さほど意味があるとは 思えないとの意見もありました。よくわかります。でも、 何事もすべてにすっきりした解答があって、それが上か ら示され、人はその解答に沿って行動しておればよいと いった社会、言い換えますと個人が考える余地がまった くない社会ははたしてよい世の中なのでしょうか。
自由主義、民主主義はまだるっこしい、手間ひまのか かる一面をもっています。ただしそれは個人の考える力、 判断する力を尊重するあらわれでもあります。感想文を 前 に し て 、 いま何をすればよいのか、何をしてはいけな いかなどそれぞれの生活をとりまくさまざまな問題をほ んのすこしでも考えてみる、そのことのたいせっさをあ らためて感じています。
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最近、講演の依頼を受けると、高校生に対しても社会 人に対しても同様にこの話題を採り上げる。社会人を対 象にした場合に限ると、すごく考えさせられた、受験者 の﹁痛み﹂という情緒的な反応は一見わかりやすいがじ つはいろいろな問題を含んでいると思うといった反応が あるいっぽう、こんな出題をなぜ明確に批判しないのか し つ げ ん といった叱言をいただくこともある。それに対しては時 聞が許せば六十年代にオランダで行われた麻薬教育につ いての事例を紹介している。︵宮台真司、尾木直樹﹁学 校を救済せよ﹄学陽書房︶ これは高校生を三グループに分けて、麻薬に関する情 報を違うやり方で伝達してみる実験。A
﹁理由なき説教﹂とにかく麻薬はダメだ、ゃっち ゃいけないと繰り返し教え込んだグループB
﹁ い け な い ﹂ という前提でなぜいけないのかとい う 身 体 的 、 社会的な理由を説明したグループC
麻薬がいいか悪いかという判断はいっさい伝えな い で 、 麻薬に関する資料を配って、 いいか悪いかをデイ ベl
トさせたグループ この一二つの集団について、杜会人になってからの追跡 調査をすると、もっとも麻薬をやった割合が官向かったの はA
、次に多かったのがB
、いちばん少なかったのがC
で あ っ た 。 この事例はあるいは偶然の結果かもしれないが、わた みずから考える度合の高い教育方法が所期 し は や は り 、 の効果をもたらしていると考える。それはまた、自身の 同和教育を振り返っての、生徒たちにこの契機をもたら しえなかった反省でもある。﹁現代の社会常識に基づく 政治決着﹂の観点からは、設問を擁護する①や③の意見 よりも②や④のほうが望ましいということになるのだろうが、人権教育は決着を図った人たちの政治的な力を増 強するために推進しているわけではない。設問を擁護す るにせよ、批判するにせよ、自説と他者の意見について 真撃に考える態度こそが人権教育の基盤になければなら ない。終業式での話がそのことを示すものとなっている な ら ば さ い わ い で あ る 。
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わたし自身はこの入試問題とその決着の付け方を﹁現 代の社会常識に基づく政治決着﹂と評した。いますこし 感情を込めて申せば、大学は覚悟を決めて江戸時代の身 分制について発問するというのであったならすぐさま反 省したりせず議論を尽くしただろう、こうした大学の姿 勢と教育行政、人権教育運動団体、部落解放運動など関 係機関の現状からすれば、このような手打ちにならざる をえないのだろう。こんなかたちで一件落着してよかっ たと考える人はよっぽどおめでたい人なのであろう。 わたしが不満をもっ最大の理由は、出発点となった設 問に対する批判の観点がおかしいと考えるからである。 ﹁解放学習を行っている学生が、この設問を目の当たり にし、どんな思いで鉛筆を持ったと思いますか﹂とある のだが、解放学習は江戸時代の身分制用語を前にしてう な ろたえたり傷を祇めあったりするためのものではなく、 解放学習を行っているからこそ、単に身分制用語を知つ ているかどうかの設問だけでなく、せっかくこのことを 尋ねるのだったら、たとえば幕府の被差別民に対する支 配統制はどのようなものであったか、といったことがら についても問うてほしいというふうになってゆくのがま っ と う な 方 向 で は な い か 。 解放学習の成果としてこの種の設問に対しても﹁冷静 に解答﹂でき、事態の分析や要求もできるようでなくし てなんのための学習なのであろうか。感想文⑥に﹁だっ て日本史で習うことです。私は﹁それが差別﹄と言って いる人々が部落の人々を差別しているかもしれないとも 思いました﹂とあるが、これを書いた生徒は、解放学習 を行っている生徒を、身分制用語に敏感 H 冷静さを失っ てまともに解答もできないという図式に押しとどめよう とする態度になんか変だと感じたのではないか。 畑中氏は﹁﹃被差別地区出身の受験者﹄が ﹃ 心 を 痛 める ﹄ と す る の は 、 そ れ は ﹃ 械 多 ﹄ ﹃ 非 人 ﹄ ︵ で あ る こ と ︶ をマイナスの認識で捉えたうえでそれを子孫ということ で自己と同一化させている﹂﹁この認識こそが部落差別 を正当化する口実と裏腹の関係﹂と述べている。﹁械多﹂ ﹁非人﹂の子孫を前提にする部落問題のあり方こそ畑中 氏が﹃部落史の終わり﹄で力を込めて批判したことがら であった。とはいってもいっぽうに﹁械多﹂﹁非人﹂の 子孫と認識して生きている人々︵なかには先祖とのつな がりを実証できる人もいよう︶がいるのもまた現実であ る。何を以て忘れ去りがたいとするかは人それぞれで、 いつまでも太平洋戦争にこだわっている必要はないと考 える人のいるいっぽうで、戦争体験のない孫、曾孫の代 になっても活動をつづける遺族会のような団体もある。 意識的に地縁血縁を前提にしたアイデンティティ、自己 認識はやめろといっても人によっては無理なはなしにな ろうし、ましてや特定の血統であるという主張に政治的、 経済的利害が絡んでくるとなれば畑中氏の主張の有効性 がどれほどのものになるのか疑問とせざるをえない。 どのようなアイデンティティを抱いているとしても、 身分制用語に触れると冷静さを失ってしまうといったや わな人間像ではなく、まさにその反対の方向のコ
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ス を 構想できないかとわたしは思う。丸山真男は﹁憲法第九 条をめぐる若干の考察﹂において﹁自衛隊がすでにある という点に問題があるのではなくて、どうするかという 方向づけに問題がある﹂と述べている。ここのところを 手がかりにしていえば、﹁部落民﹂であるとのアイデン ティティのよしあしではなく、今回のような設問に接し た際﹁以後の設聞が、冷静に解答﹂できないようなアイ デンティティのあり方が批判されなくてはならない。解 放学習に期待するとすれば、設聞が不十分と考えるなら、 より深化した問い、あるべき設問とはどのようなものな のかといった方向で事態をとらえる力である。そうした 観点からアイデンティティの質および方向づけが検討さ れなくてはならないのではないか。最近読んだ本から⑪ 因 山 知 日 理 ︵ 高 校 教 員 ︶
過去を記憶する意味
化製業の軌跡を追う
中 島 久 恵 著 ﹃ モ ノ に な る 動 物 の か ら だ ー骨・血・筋・臓器の利用史﹄ 今から三一十年以上前、私がまだ小学生だったとき、私 が住んでいた大阪近郊のベッドタウンでも近所の農家で はまだ牛が飼われていた。当時牛肉は日常的に食べるも のでは必ずしもなく、安価な羊肉や鯨肉を食べることが むしろ多かった。﹁牛肉﹂という言葉を大人たちが口に する時、﹁おいしいけれどなかなか食べられない﹂とい うような独特なニュアンスを伴っていたことを今でもか す か に 覚 え て い る 。 それ以降牛肉を食べる機会は確実に増えていったが、 それとちょうど反比例するような形で牛をじかに見る機 会は減っていった︵私が牛を見た近所の農家も、牛小屋 をつぶしてアパートにした︶。肉や牛乳という形以外で 牛に接する機会は事実上ほとんどなくなってしまったと い っ て よ い 程 だ っ た 。 それだけに中島久恵さんのこの本を読んで、まず驚か されたのは、日本の近代社会において人間と午との問の つながりが並々ならぬ深さを持っていたことである。自 分の全く知らないところで、牛は様々な形で活用されて いたのだ。そしてそのつながりは、少なくとも日本に関 する限り、前近代社会においてよりも、近代社会におい てより深まったとさえ言えるのではないか。というのは、 江戸期において、牛肉を食べることが一般的でなかった のはもちろんのことだが、農耕用の牛もその死体は不浄 だとして必ずしも有効活用されていなかったからだ︵本 書一六二ページ、以下ページ数は全て本書から︶。 周知の通り、明治以降一八七一年の太政官布告で死牛 馬処理権が自由化されるとともに、肉食が次第に普及す るにつれ、屠場が各地に成立し、死牛馬の処理が大きく 問題になってきた。それを新たに担当することになった のが化製業者たちだった。近代産業を興すために無駄な ものを出さず残らず活用したいと考え、西欧の先進技術 に学ぶと共に自らも様々な工夫を凝らした化製業者たち のエピソードはこの本では随所に見られる。使命感に燃えながらも、作業に伴う悪臭だけでなく周囲の偏見とも 闘わなければならなかった彼ら︵例えば骨粉から肥料を 開発しその普及に努めた多木久米次郎、三三
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三 四 ベl
ジ︶のことを私は初めて知り、粛然とした気持ちにさせ ら れ た 。 彼らの創意工夫は全く驚くほどで、牛の死体は様々な ものに利用された。詳しくは本書に譲るが、主だったと ころを挙げておくと、肥料、飼料、磁器︵いわゆるボー ンチャイナで、きれいに焼くための二度焼きの手法は停 電がきっかけで偶然発見されたという︶、製糖のための 燃料、潤滑油、軟膏の基剤やポマード、化粧品クリーム、 代用醤油︵血液から作られた︶、テニスラケットのガッ ト、皮をなめすための材料︵その原料となるのはBSE
の危険部位でもある脳である︶、代用心臓弁、医薬品 ︵ イ ン シ ュ リ ン も も と は 牛 の 醇 臓 か ら 抽 出 さ れ て い た ︶ 、 チーズ製造のための酵素︵牛の胃から取る︶などである。 ぼ う こ う ひ ょ う の う 印象的だったのは牛や豚の腸脱が以前は氷嚢用とし て家庭でも広く用いられていたこと ︵ 七 五 ! 七 九 ベl
で、いわゆる合成素材が開発される以前の生活では 動物から作られた製品が当たり前のものとして受け入れ ジ ︶ られていたことに改めて気付かされる。そういった製品 を生産するのに人知れず寄与していたのが化製業者たち だったのだから、彼らは日本の近代社会になくてはなら ない存在だったし、それを支える重要な成員でもあった と 言 え る 。 もう一つ私に興味深かったのは、内臓食にまつわる話 であるこ一一0
ページ以降︶。明治以降肉食は一般的に なったものの内臓を食べることは避けられ、貧困者が内 臓を食していたことは当時の文献でも﹁露骨な蔑視を伴 っ て ﹂ ︵ 一 一 ヱ ハ ベl
ジ︶描かれているに過ぎない。﹁食肉 A d 関係者の間でも、内臓は食用可能な商品として関心の持 外におかれており、ほとんどの場合、屑肉同様に処分さ のだから、﹁大昔から部落の人が れ た ﹂ ︵ 一 二 五 ペ ー ジ ︶ 食べていたんじゃない。五、六十年前のわりあい最近の こ と だ ﹂ ︵ あ る 部 落 の 古 老 の 言 葉 、 うことになる。部落とモツのつながりも比較的新しいも 一 一 一 九 ペ ー ジ ︶ と い の な の だ 。 在日朝鮮人社会が内臓食の習慣を広めるのに果たした 役割も小さくなかった︵一五一ページ︶が、中島さんは ﹁数次にわたる焼き鳥ブl
ムと、食生活の栄養学的改善の 推 進 ﹂ ︵ 一 四
0
ページ︶にも注意している。その結果、 焼き肉屋で牛の内臓を食べるのが普通のことになった現 在の状況が生まれてきているわけだ。だから﹁従来の生 活習慣や価値観に基づく忌避感も、利用目的の明確化、 安定供給、適当な宣伝などの条件によって、その価値が 認められれば一定程度払拭されていく﹂︵六四ページ︶ とも言える。肉食、特に内臓食はその成功例と言えよう。 逆に失敗じた例として、獣血の利用が挙げられている。 これについても何らかの活用法を求めて、様々な試みが なされたのだが︵先ほども代用醤油の例を挙げた︶、日 本では大きな成功を収めることができず、一九七五年の 段階で、獣血から加工された乾血が海外から輸入されて いる︵六六ページ︶という結果に終わってしまった。 さて牛と人間との聞の関係が再び大きく変わり始める のは、戦後になってからである。中島さんの説明に従え ニううんき ば、まず一九五0
年代以降耕転機が普及したことにより、 農耕用の牛の価値は減じることになった ︵ 一 六 五 ペl
ジ︶。更にセルロイドに始まりプラスチックやナイロン で一つの完成の域に達した合成素材が天然素材を徐々に 駆逐していく。前述のような食文化の変化により食肉産 業は隆盛を極めるが、その一方で、社会問題への関心の 高まりと共に化製業者は一九六0
年代頃からその悪臭が 問題視され、厳しい規制が課せられたために零細業者は 淘汰され、機械化し規模の大きな業者だけが生き残って いく︵一六七ページ︶。もはや化製業は一個人の﹁ひら め き と 工 夫 ﹂ ︵ 八 一 一 一 ペ ー ジ ︶ に 頼 っ て い る だ け で は 成 り 立たない仕事になってしまった。 二OO
一年九月に日本で発生が確認されたBSE
海綿状脳症︶が食肉産業だけでなく化製業にも大きな打 撃を与えたことは言うまでもない。これは単に屠殺され る牛の数が減ったために、処理できる畜産副生物の量も 少なくなったというにとどまらない。その原因と考えら れている肉骨粉を製造していたのが他ならぬ化製業者だ ったからである︵一六一ページ︶。﹁こうした事態の到来 が充分予測できたはずにも関わらず回避できなかった﹂ ︵一七四ページ︶ことを残念に思うのは中島さん一人だ けではないだろう。この出来事は一つの時代が終わって しまったことを象徴しているようにも感じられる。 もちろん、中島さんが単に過去を懐かしんだり、理想 化しているということは全くない。例えば四日市で一九五
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年代に始まった乾血の生産について、中島さんは次 の よ う に 述 べ て い る 。 原料となる血液は無料で、肥料用乾血は骨粉よりキ ロあたり単価は高かったが、手間や経費、歩留を考 えると、さしたる儲けにはならなかった。 年頃、担当者の高齢化により途絶えた。 一 九 七O
それ以外にも現場の労働者の苦労については本の各所 で 述 べ ら れ て い る 。 にも拘わらず、私はこの本を読んで、 罵について著者は一種哀惜の念を抱いているのではない かという感触を抱いた。そして、哀惜の念を抱くことは 単なる感傷でもないだろう。苦労した時代であったとし 一 つ の 時 代 の 終 ても、過去を記憶し、思い出すということには何か意味 があるのかも知れない。いや、むしろ苦労した時代だっ たからこそ、過去は追憶するに足りるとも言える。その 気持ちがこのように包括的で詳細な著作となって結実し たのではないか。私にはそんなふうに思われる。中国語 にも﹁痛定思痛﹂︵痛み定まりて痛みを思う、痛みが治 まった後に痛みのことを回想する︶ と い う 成 語 が あ る 。 ただ私たちはここでそのまま立ち止まっているわけに も行かない。中島さん自身これからの取り組みゃ可能性 について触れている︵なお漢語大詞典という中国語の辞 書によれば、先の﹁痛定思痛﹂という成語にも﹁教訓を 汲み取り、将来に備えるというニュアンス﹂が含まれて い る と い う ︶ 0 化製業者のしてきたことは﹁廃棄物ゼロ ︵ ゼ ロ ・ エ ミ ッ シ ョ ン ︶ の先駆的な取り組み﹂︵一七四 ページ︶だとして再評価しつつ、﹁これまで培ってきた 動物体利用の技術と思想を共通の財産に、今後の進む道 を見極めたいものだ﹂︵一七五ページ︶という前向きな 言葉で本書は締めくくられている。時代がいくら進もう とも、問題というものがこの世から消え去ることはない。 そしてそれに取り組もうとする人間もまた、 い な く な る ことは決してない。そんなことを中島さんのこの著作は 再確認させてくれたように思う。 ︵ 批 評 社 、 二 OO 五 年 一 一 月 、 二 四 OO 円 + 税 ︶ある光景⑬
歴史を学ぶ女性たち
重信陽子︵大阪府熊取町在住︶ また﹁泉州の古文書をよむ会﹂のお話、趣味的で申し 訳ありません。講師の先生方によると、古文書系サーク ルとしては私たちの会は女性の比率が高いとか、半数近 くが女性です。最高齢の八十数歳のA
さんを囲んで、開 始一時間前から予習に余念がないのも女性たちです。ど うしてA
さんの周囲に人が集まるのかというと、彼女が 最もくずし字を読めて完壁にノlk
を作っているからで す。不明な漢字や用語については、辞書や事典にあたっ て必ず下調べをする模範生で、いやな顔ひとつせず、親 切にみなさんに教えていらっしゃいます。また、近隣の 市町での歴史講座や講演会にも顔を出し、どん欲なまで に活発に勉強を続けておられます。 ある時、熊取町の人権教育講座の講師陣に当会の顧問 の先生が入っていることを知った私は、会員の何人かに 参加をよびかけました。すると、﹁えl
、人権て同和や ろ、同和は苦手や﹂、反応は全く芳しくありませんでし た 。 し か し 、A
さんは﹁先生のお話やったら聴きにいこ う﹂と、その講座を受講され﹁来月の話はおもしろそう やで﹂などと、ずいぶん楽しそうでした。そしてその年 の秋頃、満面の笑みで私に一冊の本をさし出されました。 ﹁ こ の 本 、 図 書 館 で 見 つ け て ん ﹂ o それは網野善彦さんの ﹃日本歴史の中の被差別民﹂でした。私も以前に借りた ことのある本だったので﹁これは読みやすいですよ﹂と 言いなが句、網野さんの他の著作をいくつか紹介しまし た。私は平静を装っていましたが、実はこの時、ほんと う にA
さんに感服していたのでした。私は、当会で年輩 者と接する時に長幼の序を重んじることを心がけている つもりですが、頭のどこかで、﹁頭がカタイな﹂とか ﹁それは古いやろう﹂などと考えていたに違いないので す 。A
さんは人権教育講座を受けられて、この問題につ いてもっと深く知りたいと思い、図書館に通われたので しょう。そしてようやく、自分の興味・関心のありよう に合致する一冊に出会って、そのうれしさをだれかに言 いたかったのに違いありません。それでまっ先に私に伝 えて下さったのだと思います。偏見をもたずに、きちん としたことを知りたい、学びたい、ただそれだけ、とい う純粋で素直で聞かれた心にふれて、私も﹁初心に立ち 返るべし﹂と、思いを新たにしたのでした。あ る 時 、
A
さんは小さな身体を杖で支えながら、リュ ックにいっぱいの本をつめて例会にやって来ました。そ れも数回に及、びました。蔵書を会員に引き取ってもらう ためだといいます。録りためたというビデオも分けるか らというので、その目録を見せていただきましたが、文 化遺産関係を網羅したそれは、退職後のA
さんの学習の 歴史ともいうべきものでした。﹁私もな、もう平均寿命 まで生かせてもろうた。そやからいつお迎えが来てもえ えように、身を軽うしとかなあかんねん﹂。﹁そんなこと 言わんと﹂というような表面的なお愛想をきっぱり拒否 する、背すじの伸びた潔さでした。その気持ちに応える べく、私は民俗伝承シリーズのビデオを十数巻いただく こ と に し ま し た 。A
さんの、学習に対する熱心さはいったい何に由来す るものなのか、一度、ご本人にたずねたことがあります。 ﹁私はな、戦前に女学校に行かせてもろうたから、一所 懸命勉強したで。国史もようやった。そやけど戦後にな って、あれはみんな間違いでした、て言われてみ。目の 前まっ暗になって、全身くにゃくにやになってしもて立 ってられへん気した。自分を全部否定されたんと同じゃ。 自分の回の歴史を知らんというのは、地に足がつかんと いうか、何ともいえん不安なもんなんやで。それで、も うこんな遅なってしもうたけどな、今からでもな﹂。い つも柔和なA
さんですが、この時ばかりは怒気を含み、 よほど悔しかったのでしょう、少し身体が震えているよ うに見えました。私は彼女の中にそんな深い思いがある なんて、想像もしていませんでした。しかし、その、も う悔しい思いはしたくないという気持ちがあるからこそ、 様々な機会を見つけては、心を聞き自分の目で見て取捨 していくという学習を続けていらっしゃるのでしょう。 戦後民主主義教育で育った私たちだって﹁正しい歴史﹂ を教えられてきたわけではない、でもそれをA
さんには 言うまい。少なくとも、彼女のような根こそぎの喪失感 は体験していないのだから。それより、彼女の姿勢に学 ぶことの方が、彼女の悔しさに少しでも寄りそうことに つ な が る の で は な い か 。 ある日、史料の印刷のためにずいぶん早くに公民館に 入 る と 、A
さ ん た ち 一 一l
二 一 人 の 女 性 が 中 で 昼 食 を と っ て いました。﹁土曜日やろ、孫もおるし昼はインスタント に決まってるんよ、この歳でそんなんかなわんからおに ぎ り 作 つ て な ﹂o
A
さんたちがいつも一時間前から来て いたのは、どうやら熱心さゆえだけではなかったようで。 それぞれに歴史に対する思いがあるように、それぞれに 家庭の事情もあるようです。ひろば⑩
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生き合う②
杉山光洋︵名古屋市在住︶ 平成六年︵一九九四︶の五月のある夜、妻が突然腹痛 を訴える。以前から胆石を患っており、この夜も、しば らくすれば治まるからといわれ様子をうかがっていたが、 一向に治まりそうになく、ますます痛みが増してくるよ うであり、あわてて救急車を呼び救急病院へ駆け付けた。 応急措置をして貰い何とか治まったが、お医者さんから 一度詳しく診て貰った方がよいといわれる。 一 一l
三日して、行きつけの小さな病院で診察して貰っ たところ、今のうちに手術をして胆石を取り除いた方が よ い と 、N
病院を紹介される。これが、その後の悲劇の 始まりだとは、その当時は思いもよらなかった。N
病院での診察の結果、やはり手術をすることとなる。 胆石の手術は開腹せずに簡単にでき、一週間程で退院で きた。ところが、胆石の手術の際、組織の一部を採って 調べたところ胆のう癌の疑いが見つかり、再度入院して 検査を受けることとなる。検査の結果、胆のう癌が明ら かとなり手術をすることになり、ベッドが空くまで待た さ れ る 。 当時、我が家は、八八歳になる母親、流通関係の会社 に勤める娘、大学卒業後地元の商社に勤め始めた息子と の五人暮らしであった。問題は母親である。足腰がすっ かり弱って自活できる状態ではなく、妻が全面的に介護 をしていたので、その妻が長期間入院するとなると母親 の介護をどうするかという課題が生じたのである。思案 の結果、老健に預けることとして何とか入所先を見つけ 出した。今思えば、これが家庭の崩壊の始まりとなった よ う だ 。 七月には、勤め先の人事異動があり、藤田敬一さんと の出会いがあった同和問題・人権問題を担当する部署か ら古巣の事業部門に異動する。 九月早々妻が入院、中旬には胆のう癌の手術が施され た。手術は無事に終わったが、術後の癒着が芳しくなく 入院が続く。主治医からは、心配する必要はなくしばら くすれば退院できると説明される。新しいポジションは宴席の機会が多かったが、二次会 は断つてなるべく病院に顔を出すようにした。 一
O
月に入り、自分自身の腹部に違和感を感じ行き付 けのお医者さんに診て貰ったところ、肝臓が腫れている。 直ぐ精密検査を受ける必要があるといわれ、妻が入院し ている病院への紹介状を書いてくれる。N
病院で診察を 受けたところ、入院して詳しく検査する必要があるとい 一週間ほどベッドが空くのを待って一O
月下旬に わ れ 、 入院する。しばらくの期間、妻と同じ病院に入院するハ メになった。こんなところまで夫唱婦随でもあるまいに と 苦 笑 い し た 。 一一月初旬に妻は退院した。自分に対する検査は長引 き最終的に﹁肝腫蕩﹂と判定され、手術をすることとな 一一一月初旬、八時間にわたる手術が行われ、肝臓 っ た 。 の 七 割 が 摘 出 さ れ た 。 術後の経過は順調で一O
日程過ぎた。ところが、その 時点でMRs
ーという院内感染に握っていることが判明 した。この症状は、高熱を発し、眠吐をもよおし、苦痛 に襲われるというやっかいなもので、高貴薬が効かず、 術後の回復を妨げる危険なものである。その後の入院生 しれつ 活は病苦との蛾烈な戦いであった。 病院は、他の患者への感染を恐れてであろうか、徹底 した隔離体制が敷かれ、何となく冷たい扱われ方をして ひ が いるように感じたのは、僻みであったのだろうか。 食べ物も飲み物も喉を通らず、二ヶ月にわたって点滴 のみで生命をつなぐ日々が続いた。退院直後から妻が自 分のつらさを顧みず、献身的に付き添ってくれなければ、 長く厳しい闘病生活には耐え得られなかったであろう。 苦痛に満ちた闘病生活ではあったが、この間に幾つか の心に残る出会い、ふれあいがあった。そして、これら がその後の自分の価値観、人生観に大きな影響を及ぼし ているような気がする。 どんなにつらく厳しい状況の中でも、暖かく見守り、 支えてくれる人がいるということがいかにすばらしいこ とであるか。人は一人では生きていけない、寄り添い、 支え合い、励まし合い、助け合うことで生きる喜びを感 じるのではなかろうか。翌年の三月に退院するまでの間 に、そんなことを教えて貰ったような気がする。2
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年度『こぺるj
会計報告
一般会計収支計算書 自2005年2月1日 至2006年1月31日 科 目 金 額 購 読 料 3,365,868 基金および寄付金 258,600 受 取 利 息 286,032 誌 代 売 上 39,370 通 信 費 120 郵便定額貯金満期解約(恥.7,8) 1,050,000 郵便定額貯金解約(No.21) 500,000 借 受 金 2,000 当年度収入合計 5,501,990 前年度繰越金 813,445 収入合計 6,315,435 編 集 費 1,837,141 印刷・製本代 1,535,390 通信交通費 805,512 原 稿 料 377,680 消 耗 品 費 32,965 雑 費 20,492 振込手数料 50,455 返 金 2,000 郵便定額貯金 1,000,000 支 出 合 計 5,661,635 当年度収支差額 ム159,645 次期繰越収支差額 653,800 区 分 資産の部 資 負債の部 負 財 産 目 録 2006年1月31日現在 項 目 現金預金 現 金 普通預金 京西都陣中央店信用金庫 支 No.0555464 京出都町銀支行店 No.483979 郵出便町貯郵便金局 No.20195771 郵便振替貯金 No.01010-7-6141 定額貯金出町郵便局( 7件) 産 ぷE、コ》 計 未払い金 債 l口'" 計 差 引 正 味 財 産 一般会計 3,305 4,923 28,192 144,841 472,539 5,000,000 5,653,800。
。
5,653,800 2005年 度 会 計 監 査 報 告 金銭出納帳、預金通帳、郵便振込等、監査いたしましたと ころ、金銭の処理、帳票の処理が確かにされていることを認 めましたので、ここに報告いたします。 2006年3月15日 こぺる刊行会 代 表 藤 田 敬 一 殿 会計監査松田園広@鴨水記 マ読者からのお便り
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﹁国号の対談、地域の状況を重ね合 わせながらワクワクして読みました。 今までので﹂ぺる﹄もすべて私の大切 な教科書になっています。ムラを変え ることはできていませんけど、私が変 わってきています。夫が定年で収入が なくなり、キユウキユウでカンパまで 出せなくてすみません。ごかんべんを : ・ ﹂ ︵ 三 重K
さ ん ︶O
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さんとは加年 来のお付き合い。﹃こぺる﹄が少しで もお役に立ててうれしい。K
さん、カ ンパのことは気にしないで!O
﹁ 3 月号の中村さんとの対談で、 ﹃宇治市のあるところ﹄ではなく地名 や場所を明示することによって、お互 いのふるさとを誇り合うことができる と思います。楽しい誌面になってきま したが、たまには理論的な話も読みた くなりました。宜しく﹂︵京都T
さ ん︶。河原の地名をあげることは対談 の大前提。他のどこでもなく河原の町 づくりがテーマなんですから。地名を 名乗るとは﹁部落問題にたじろがず、 向き合って、引き受ける﹂思想の表わ れです。河原にはその思想が根づいて いるということでしょうね。O
﹁町号の対談、とても興味深く拝見 しました。特に学校の生徒同土で﹃お 前、部落出身か﹄と聞いたことから、 学校や行政があたふたして対応してい たというお話には、行政職員の私とし ては身につまされるものがありました。 もし自分が当事者であったとしても、 そうせざるを得なかったかもしれませ ん。ああいう発言があれば、前後の状 況はともかく、﹁人権問題﹄として人 権関係部署に報告する対象になったで しょうし、団体への連絡もせざるをえ なかったかもしれません。今の役所の 部落問題への対応の仕方は、どこも似 たようなものではないでしょうか。や はりこういう問題は、地元の団体の考 え方に左右されてしまうものだと思い ます。中村さんは、役所がそんなこと を気にするのはおかしいと指摘されて いましたが、厳しい糾弾会等を経て、 あ つ も の ニ な ま す ﹃藁に懲りて贈を吹く﹄ようになっ ている役所としては﹁さもありなん﹄ という感じです。こうした﹃硬直化﹄ した関係が、部落問題解決の取り組み を本来のあり方とは違ったものにして きたのではと思う次第です﹂︵S
さ ん ︶ 。 せっかく感想を寄せてくださったのに、 県名を伏せ、お名前をイニシアルにし なければならぬのはつらい。しかし、 こうしないと自治体に勤める人からの お便りが載せられないのです。﹁両側 の壁﹂はいまなお厚いということです。 マ日下、例年通り春季読書月間中。誰 にも気がねせず、誰にも文句をいわせ ない読書の醍醐味が味わえるのは、無 職渡世のおかげかな。岐阜大を退職し て 4 年、充実の春です。 マ前号、片岡健さんの丈章中、日頁 下段の﹁銘々﹂は﹁命名﹂のまちがい。 訂 正 し ま す 。 ︵ 藤 田 敬 ご涙がとめどなく出てくる。心が熱くなる。 ふっとふきだしてしまう。冷や汗が出る。 障害をもっ子ともたない子の育て方に違いがあるのか? 親・保護者の愛情とまわりの理解さえあれば、子どもは育つ。人間だもの!
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.四六判・並製・192買・定価(本体1800円+税) ISBN 4-900590-77-0 にんげんっていうものは 親と子の記録 人気者の宗ちゃん/長かったあの日/支えてくれた人キ/心臓の手術/保 育所で・学校で/イギリスのスペシャルスクールで/将来への期待 お母さんたちのコテコテトーク〈座談会〉 子どもが生まれてきたときのこと/父親の存在/学校で/教育制度につい て/将来のこと 一 五 八 号 二 OO 六 年 五 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ お父さんたちのほろ酔いトーク〈座談会〉 クローパーの会の発足、入会のころの思い出/病院の対応/子どもの就学 /子どもの将来 働く暁子と健 現在の状況/一般貌労にどのように結びついたか/子育てのうえで気をつ けてきたこと/兄弟姉妹との関係/父親の役割/健康管理について/就労 と自立のための制度とこれからの課題 ダウン症の子どもと共に歩むく〉手記 三番目の孫・稼君大村錬/美優ちゃんとともに小林俊代子/長かっ たあの一年 安 困 層 子/みんなちがって、みんないい糸賀みすづ/娘 の成長を願って歩んだこの十余年藤民子/千尋の足跡廻千恵美/ 『五 体不満足』を読んで谷井玲名/ダウン症の弟をもって藤原佑佳/娘 と歩く山身阪上 正方 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種郵 便 物 認 可 ※こべる会員の方は送料サービス 〒602・0017京都市上京区衣棚通上御霊前下ル土木ノ下町73-9TEL (075)414-8951 FAX (075)414-8952 E-Mail:[email protected]