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こぺる No.206(2010)

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訪日(毎月1回25日尭行)ISSN 0919 4剖3

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2010

NO. 206

ひろば⑩ 無限に広がる世界一点字 大山口博子 自分史のこころみ⑦ 自分のいまを見つめる 町田宏美 いのちを生きる⑨ 三年ぶりの卒業式 長 谷川洋子 記憶の旅から明日へー写真と文 小 林 茂

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年度『こぺる

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会計報告 乙べる刊行会

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写真左文一小林茂

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渡良瀬川をさかのぼって足尾にたどり着いた。見渡すかぎりゴツゴツとした 赤肌をさらした山々が続いていた。全身を冷気が通り抜けた。 古河鉱業・足尾銅山精錬所と裸のill々(昭和48年、 1973年) 郷里、新潟から逃げ出すように、私は京都の大学に進学した。砲丸投げを続けた。「し かし、このままでいいのだろうか」と思い始めたとき、古本屋で1惜の本を見つけた。田 中正造と足尾鉱毒事件の本だった。 1週間後、地図を片手に、ヒッチハイクの旅に出た。 高度経済成長のひずみが公害を!と

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み出した時代だった。 や,,司h ,,'-はら こんせさ 遊水i也主伝て演された谷昂村。初夏の洋一原に残る村の痕跡。若き荒畑寒守色 『谷中村滅 亡史jに憤怒をもって刻まれている。山々から流れ出る銅やカドミウム。肥沃なJI]から寿 の川へ。作物も人間も枯渇したの農民と政府との激突。「明治」という天皇による中央集 権。常国強兵、殖産興業、列強との戦争。手にさわる感触のように「明治jと今の「日本」 がつながった。 宇井純は「公害は現地から」と言った。真実だと思った。何回も通った。占河財閥と対 持する農民たち。生活の深部に入り込んだ写真家。私の人生は少しずつ変谷していったO この18歳の旅は、私自身の出発であった。動機は何だったろう。洪水の中、仮小犀に住 み続けた谷

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残留氏。その姿に、田中正造は「無知の村人を保護する」視点から、「生死 L V をともにする」姿勢へ、根本的に変わったという。白髪と深い徴。柔和な顔。鋭い眼先。

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ひろば⑩ はじめに

無限に広がる世界

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点字

大山口博子︵津点訳友の会・津市在住︶ 二

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九年は、世界の点字史上記念すべき年でした。 六点式点字を考案したフランスのルイ・ブライユの生誕 二百年、そして日本点訳の父、石川倉次の生誕百五十年 の 年 に あ た り ま す 。 パリ盲学校に在籍していた十四歳のルイ・ブライユが、 それまでの軍隊用夜間文字を、十一一点から六点に改良す るという画期的な方式で現在の点字にしたといわれます。 六点の組み合わせは全部で六十三とおりあり、これで世 界各国の言語のみならず、難解な数学、物理、化学記号、 楽譜、さらに日本では二点を加えることによって漢字ま でも表わすことができるのです。 世界に目を向けると、現在はパソコン点訳の普及もあ り、音楽家をはじめ、国会議員、大学教授、医者、弁護 士、通訳、プログラマー、キャスターなど、視覚しよう がい者の職業選択の幅は格段に広がりました。点字の発 明がなかったら、本人の意志がどんなに強く、どんなに 努力を重ねても、これらの職業に就くことは難しかった でしょう。その意味でブライユの功績には計り知れない も の が あ り ま す 。 点字楽譜とのであい 私が楽譜点訳を始めるきっかけになったのは、 九 }\ こぺる 一年、チェコのプラハで聞かれた国際ピアノコンクール はやしなあふみ で、視覚しようがい者の林直史さんが入賞したという 1

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新聞記事でした。 彼は、家族や同級生が片手分の演奏ごとに録音したも つ な のを記憶し、音符を頭の中で組み立て、一小節ずつ繋い でいったのです。そのようにピアノに向かうまで、晴眼 者の何倍もの時間とエネルギーを費やしていること、そ して、そうした作業を行う協力者を強く望んでいること などが書かれていました。 彼は私の学んだ音楽大学の後輩でもあるので、何か力 になれることはないか、もし点字で楽譜を表現する方法 があるなら是非習得して、楽譜作成のお手伝いをしたい と思い、津市の福祉課を訪ねました。社会福祉協議会か ら紹介された方は榊原達夫という全盲のお琴の先生でし た 。 当時、楽譜点訳者は日本国内に数人しかおらず、音楽 を志す視覚しようがい者はレコードを聴いて、自分で点 字楽譜に起こしたり、海外に点訳を依頼したり、外国の 点字図書館から借りたりして、独力で数カ月もかけて調 そ う 達するほかありませんでした。榊原先生も、筆曲者宮城 道雄の自筆楽譜を一点一点写譜して、お弟子さんに教え て い ま し た 。 その時から榊原先生に就いて私の楽譜点訳修行が始ま りました。今思うと、点字楽譜に精通した盲人が日本に そう多く、なかった時代、私の傍にそのような方が住んで いて、親しく教えを請うことができたことは、本当に幸 運でした。この偶然には感謝したい気持ちです。 点字楽譜のしくみ 点字は一マス内に縦三点二列を並べた六点の組み合わ せで表わします。なぜこれが一番合理的なのかは、ブラ イユの点字配列表を読み解くことで理解できます。そし て彼がいかに効率的に楽譜を翻訳することに重点を置い て構想したかも想像できると思います。 す み じ 晴眼者が読む﹁墨字楽譜﹂には、ピアノ、声楽曲を始 め、各楽器のパ l ト譜、オーケストラ譜、ギタ l 譜 、 琴・尺八などの邦楽譜、現代音楽譜、世界各地の民族音 楽譜など多くありますが、殆ど共通の表現をします。た とい墨宇楽譜が理解できなくとも、点字楽譜を読むこと でメロディを知ることができるのです。視覚しようがい 者にとって点字楽譜は唯一の世界共通の言語と言えるか もしれません。

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一 ・ J ろ 0 γ ・ 1 お 9 ブライユの六十三点字配列表 ト H − h り 8 ” ” 一 E れ 7 ” ト − f え 6 ト こ e ら 5 日 一 d る 4 H 二 c h 円 ノ 3 ト ・ − b い 2

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イ〉 叶 一 ト や 4 5 6 右の図は﹁ブライユの六十三点字配列表﹂を凸面で表 わしたもので、ーから 6 までの点を、左の行の上から下

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3 、次いで右の行に移って、 4

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6 と読 ん で い き ま す 。 点字楽譜は上回点の組み合わせで音階名を、下二点で リズムを表わし、一列目の d から j までをドからシにあ てています。同時にこれは八分音符をも表わします。 楽譜の点字記号は五百近くあり、中には同形異義もあ って楽器により読み分けなければなりません。もちろん ー ・. . 六十三とおりだけでは間に合わない ので、前のマスの右の三点と次のマ スの左の三点を組み合わせたり、二 つ以上のマスで一つの記号を表わし ン ー ・ − フ 一 ・

. た り も し ま す 。 縦三一点の組み合わせは七通りです が、これを音符の前や後に付けるこ とで様々な表現が可能です。己アノ の両端に挟まれた鍵盤の音域は七オ クターブ、これはほぼすべての楽器 の音域を表わすことができるので、 4

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6 点の組み合わせ七通りの いずれかを音符に前置することで、どこの高さの音かす ぐに分かります。又、 1

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3 点の組み合わせを後置 することで指使いを示し、数を表わす符号を前置して弦 楽器の弦番号を表わすことができます。打楽器のような リズムだけを表わす場合の六種類の音符︵全、一一分、四 分、八分、十六分、三十一一分音符︶、また別の前置符を 付ければ二音の繰り返しゃ一音連打の省略形も表わすこ と が で き ま す 。 こべる

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点 訳 者 の 悩 み 楽譜翻訳をする上で悩むことが多くあります。依頼者 の能力に差があることもその一つです。どういう楽譜が 依頼者の読譜にかける時間を最小限にし、晴眼者と同じ スタートラインに早く立って、演奏建築という作業に入 ってもらえるかです。一方的に提供すればこのように悩 む必要はないのですが、ひとたび依頼者の要望を知ると、 できるだけ読みやすい楽譜を作成したいという想いが私 わ たち点訳者にも湧いてきます。 依頼者の年齢ゃ、読譜経験歴、理解力・記憶力までを 推測し、それまでの習慣やレイアウトの好み、邦楽の場 合は関東式、関西式など流派を伺い、オーダーメイドの 楽譜を作成していきます。和音の記載方法においても、 ヴァイオリンのように弓の運びから最低音を基準に度数 わ か を重ねて書くことを希望する人、反対に主旋律が解るよ う最高音を基準に書くことを希望する人など、それぞれ の要望に一理あるのでどれが正しいと決めつけることは で き ま せ ん 。 ここ数年、点訳のルール統一の動きがあります。確か

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に大まかな統一は必要だとは思いますが、これから学ぶ 人たちは別として、長年慣れ親しんだ読譜スタイルの変 更は、利用者にどれだけ迷惑なことかしれません。今さ ら変えられない利用者にとって、読譜環境を狭める行為 をできるだけ避けるためにも、前述したような細かな部 分でのサポートがボランティアとして必要と考えていま す 。 もう一つの大きな悩みは翻訳の限界に達した時、点訳 者の主観をどの程度入れて良いかということです。晴眼 者は、初めて手にした楽譜を見る時、よく﹁譜面ヅラを 読む﹂と表現します。初めに最後までざっと日を通して、 由の骨組みを理解し、ある程度演奏設計を立てて、イ メージをつくり、肉付けしていきます。しかし、視覚し ふかん ょうがい者は楽譜をそのように傭搬することができませ ん。点字楽譜は、面ではなく線として組み立てて立体化 含 合 していくのです。面から感じるいわゆる﹁間﹂や﹁流 れ﹂は、どうしても理論的な説明に変えて表さなくては なりません。晴眼者には、そこに盛られた作曲者の細か な意図を読み取ることが可能でも、しようがい者には難 しい。それをどう表わしたら伝えられるか点訳者は悩む わ け で す 。 一 八 九

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年にブライユの配列表をもとにして作り、一 ょ う 一 の ち に 揃 音 を 加 え て 完 成 さ せ た も の で す 。 一 アルファベットのように一列目の初めから順番に﹁あ一 いうえおかきくけこ・:﹂とあてることはしませんでした。一 たくさんの情報が詰まっている楽譜は視覚しようがい 者にとっても必要不可欠なものですので、なおさら点訳 者の主観を挟まず正確に伝えることが重要になってきま す 。 日本の五十音文字 日本の五十音文字は、 東京盲学校の教師だった石川倉 次 が 、 度 立 、

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母 音 だ け 、 あるいは子音と母音を合わせて一字に 表わす日本独自の音節文字︵仮名︶を、その規則性を生 か し て 、 た 。 何とか六点の中に表わせないものかと考えまし 一列目の最初の三個まで 1 ・ 2 ・ 4 点を既に使ってい るため、その組み合わせ七通りに母音を収め、残りの 3 ・ 5 ・ 6 点の七通りの組み合わせの中に﹁かさたなは ま﹂を置き、﹁ゃゅよ﹂は六列目、ら行音は一列目の母 音の列に置いてあります。句点、疑問符、感嘆符は五列 こべる 5

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濁音・半濁音等は七列日で表わしています。 アルファベットや日本の五十音は文字数が少ないので 比較的無理なくこの六十三個の中に収まっています。 日本語の点字文には、ほぼ文節単位による﹁分かち書 き﹂を適用させます。自立語の中の長い複合語は、意味 のまとまりや、拍数を判断の基準に分割します。 目 で 、 例その点について、石川倉次氏は間違いなくこのよ うに述べている。 ソノ口テンニ口ツイテ、口イシカワロクラジ口シワロ マチガイ口ナク口コノヨ

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ニ 口 ノ ベ テ 口 イ ル 。 ︵ 口 は マ ス 空 け 部 分 ︶ このように正確に意味を伝えるために一定のル l ル に 従って分かち書きを行うのです。 点図ソフト﹁工

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デ ル ﹂ 昨年のヘレンケラ

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・ サ リ パ ン 賞 に 、 点図作成ソフ ト・エ!デル︵﹁絵出る﹂ ふじのとしひろ の高校教諭、藤野稔寛さんが選ばれました。 の も じ り ︶ を 考 案 し た 、 徳島 それまで点 図は省略するか立体コピーを使用し、一枚、ずつ手書きで一 作成していました。それが、ェ l デルソフトの使用によ一 って、パソコン上、マウスで自由に作図ができ、大量コ一 ピ l も可能になり、点訳者にとって必要不可欠なソフト一 として重宝されています。私も幾何学や地図、人体解剖一 図 に 至 る ま で 、 フ ル に 活 用 さ せ て 頂 き ま し た 。 一 また、現在では図をスキャナ

l

にかけるとそのまま点一 図に変換できるけ円 Z 同﹀というソフトもでき、点訳者一 は複雑な図を数枚に分けたり、点字の解説を挿入する作一 業 だ け で 済 む よ う に な り ま し た 。 一 一九九四年に、一般中学校への通学を希望する女子生一 徒さんがいました。私たちのグループがその教材作成の− お手伝いを始めて十五年になります。彼女が高校、大学、一 大学院へと進む中で、私たち点訳者も一緒に勉強し、成一 長 さ せ て も ら い ま し た 。 あ り が た い こ と で す 。 − 物は観察する角度によって形が変わります。晴眼者が一 よく目にする斜め上から見た図を触っても、視覚しよう一 がい者にとって何のことかわかりません。数学に限らず、一 み ↑ 初めて﹁観る﹂物体は、上下、四方から見た時の展開図− を書き、それを触って頭の中で組み立ててもらいました。一 国語はやはり漢字に苦労しました。いずれワ

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セッサーを使う環境になった時に、漢字変換の誤りを少 なくするため、視覚しようがい者用の漢字辞典を作成し ました。一つの漢字について、できるだけ多くの熟語や 例文を載せ、イメージを掴んでもらいました。現在は、 原本をスキャナ

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で読み、テキストに変換し、自動的に 点字変換ができるソフトもできています。 英語の点訳ソフトもできました。英語には

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、 の 山 口 は の な ど の よ う な 一 マ ス 略 語 、 即 日 門 日 目 00 ロ を 即 日 ロ と 表わす縮語、単語の一部に使われる岳巾咽百∞などを仮名 のホ、ユと書く一マス略字、岳山﹃を 5 の点+仏と表わす 頭字略字、白 O ロ を 4 、 6 の 点 十 回 と 表 わ す 末 字 略 宇 佐 一 寸 あります。まだまだル l ルはありますが速読を助けるた めに最小限の字数になるよう工夫されています。 例 ︵ ペ o c ︶︵当日︶官︵ 0 円 ︶ 昨 日 戸 ︵ 匹 。 ︶ 自 己 片 山 − ︵ 己 戸 巾 ︶

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・ ︵ ︶ で 固 ま れ た 部 分 を 略 字 や 縮 字 に し ま す 。 ︵ 日

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︶ ︵ 手 巾 ︶ − 巾 の 門 戸 HH 巾 彼女が進級するにつれて学習内容も高度になり、医学 や情報工学の図や表の説明は、点訳者が理解できている か否かが大きく影響しますので、一緒に勉強していかな 。 ロ くてはなりません。呼び名ひとつとっても固有名調はも− とより、身体部分の呼び方、たとえば﹁頭蓋骨﹂などは、一 ズガイコツかトウガイコツか、普段何気なく使っている一 言葉もよく調べ、内容によって使い分けもします。一 点訳者はあくまでも案内者です。時として上から教え一 与える立場になりがちですが、利用者と同じ歩幅で共に− 歩むことの重要性も、この十五年間身にしみて感じてき一 土 品 1 レ れ ∼ 。 一 現在彼女は社会福祉士として勤務しながら、将来は小一 中学校で子供たちの心理カウンセラーとして社会に貢献一 したいという目的を持って、精神保健福祉士の資格取得一 の た め に 日 夜 努 力 し て い ま す 一 自 動 楽 譜 点 訳 ソ フ ト の 開 発 一 ここ数年、世界では色々な自動楽譜点訳ソフトが開発一 されました。アメリカのの 00 門 司 巾 己 や ド イ ツ の り 田 口 喜 久 一 そして日本では回日己

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肘が代表的なソフトです。− 墨字楽譜をスキャナ l で読み取り、ィ l フロンティアの一 ﹁フィナーレ﹂、河合の﹁スコアメーカー﹂などの電子楽一 譜に取り込んで呂口白の

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何で点字楽譜に変 換するものです。殆どの点字記号に対応済みですが、ス キャナーや電子楽譜ソフトの向上も不可欠なので、メー カーに理解を求めながら日々更新しています。 楽譜点訳ボランティアの充実していない国々の視覚し ようがい者にとって、自宅に居ながらにして即座に点字 楽譜が手に入るという観点から、大いに利用できるもの と期待しております。 おわりに この二十年ほどの問、国内には楽譜点訳者も含め、 様々な専門技術を持った点訳グループができ、﹁早く正 確に﹂をモットーに毎日活動しています。また、点字受 験に対応する大学などの教育機関も増えてきており、視 覚しようがい者を取り巻く教育環境も改善されてきまし た。しかし、日本はまだまだ障害を持たない人々の意識 改革は遅れていて、社会で発せられる何気ない一言に傷 付くしようがい者がいることも事実です。お互いの違い を理解し、受け入れる成熟した日本になるまでまだ時聞 がかかるかもしれませんが、いつか、本当の意味での心 のバリアフリ l の時代が来ることを願っています。 最後に、洋楽譜の点訳者がいなかった時代、一曲一曲 手打ちで点字楽譜を作成した、ヴアイオリニス卜和澱戟 ト 4 F J U 語さんのお母様、また視覚・聴覚しようがい者のコミュ ニケーション手段として、世界で初めて指点字を世に広 ふ ︿ し ま さ と し められた、東京大学教授、福島智さんのお母様、いず れも我が子への深い愛情と血のにじむような努力の末の 栄光だと思います。それとともに、障害克服のためとは いえ、未聞の地に踏み入り、同じ境遇の方々の道筋を照 らす光になった生き方を見て、なんと幸せな人生を歩ま うらや れたことだろうと、子を持つ同じ母親として羨ましく 思いさえするのです。 このような方々の暖かい手を経ながら、これからも点 字の可能性は、形を変えて無限に広がっていくことでし ト 也 、 つ ノ 。 ︵ 二 OO 九 年 十 二 月 ︶

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自分史のところみ⑦

自分のいまを見つめる

町田宏美︵阪神医療生協職員 伊 丹 市 在 住 ︶ 自 分 と 向 き 合 ﹄ つ 誰にも思い出したくない過去、恥ずかしい過去、忘れ たい過去があり、なかなか自らを見つめなおす機会を持 ちにくいのではないかと思います。私にとってはわずか 二九年の歴史とはいえ、度々振り返る機会があったにも かかわらず、そこから目をそむけて生きてきました。こ こ何年かの聞で子どもも授かり仕事も続ける中で、﹁何 でこんな生き方をしてるんやろう﹂と思ったとき、これ までに培った生きるための意志のようなものが大きく影 響しているのではと考えるようになりました。それに、 私の祖父母や両親に関わる歴史からも影響を受けている ことも自分なりに理解するようになってきました。 私は今、医療生協で仕事をしながら、大学院での研究 生活を送っています。研究生活は四年を過ぎ、サボりな がら、休みながらなので一向に進みません。﹁高いお金 を払って忙しい中、なんで勉強するん?﹂とよく聞かれ ますが、私にとっては、自分と向き合うための手段とし て学び続けることを選んでいます。 私は今の仕事に就くまで、人の優しさを偽善だと思い 拒絶していました。﹁共感﹂の出来ない人間だったのか もしれないですし、﹁共感﹂することを恐れて避けてい たのかもしれません。 部落問題のこと 母親は被差別部落で生まれ育ちました。私が小学校高 学年の頃の授業で、地区の歴史を先生が話されたことが あ り ま す 。 ﹁

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は変わった地名がついています。そこ には、昔のえた・ひにんと呼ばれる人たちが暮らしてい て:・﹂と。えた・ひにんが汚らわしい人々でいかに怖い かを伝えられました。この先生はクリスチャンであり、 私が反抗期で反発を繰り返していたときにも根気良く自 宅訪問をしてくれ、個人授業や音楽を通して信じ続けて くれた、今でも交流のある先生です。当然、その授業を 聞いて以来、その地区にみんなで遊びに行くと、友達の 中でも話題になります。﹁ここは怖いねんで﹂と。そし て、その地域のあらゆる物を差別一色で見ていくように な る の で す 。 その地区が祖父母の暮らす家のある地区だという事実 こベる 9

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あぜん がショックで、子ども心に唖然とした記憶が今でも残っ ています。とても衝撃的だったのは、母親に思い切って 聞いたとき、凍りついたような表情で黙って涙を流した ことです。、それ以来今日まで我が家には触れてはいけな いタブーがあるような感じがします。 母親の妹弟が結婚差別や就職差別を受けていたのもわ かっていました。母親の妹が精神的に病み自殺未遂を繰 り返していた当時、一

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代だった私は不登校、自宅で母 親と叔母と三人で過ごすこともありました。その叔母が 命を絶ってしまい、葬儀などが済んだ夜、初めて父親か ら﹁おかあさんの生まれたとこはな、昔被差別部落とい って差別されてたとこなんや﹂と明かされました。﹁知 っていたよ﹂と返答し、それから初めて父親と被差別部 落について話し合い、向き合ったのです。 父親は﹁なんで命を絶つなんてことをしたんや。どん つ ら なに辛くても命は絶ったらあかん﹂と、すでにいない叔 母に問いかけながら涙を流しました。当時、私も人間不 信で誰をも拒否していた頃だったので、母親やその家族 が色々な差別を受けてきたこと、また亡くなった叔母の 子ども達三人が小学生で、差別と闘いながら生きている という話を聞いても、どうしても共感できず、一緒に一慌 を流すことができなかったのです。 その地区の近くに住んでいた私は、そこが﹁特殊な地一 区﹂で、そこの子ども達が夜集まって何やら会合を持つ一 ており、村の人間だといえば市営住宅や保育園へ特別に− う わ さ 入れてもらえるといった噂を聞いて影響を受けていました。一 差別する側がいるために、差別される側がある。だか− ら差別される側は全て被害者なのだから、差別を許さな一 いためにみんなで団結して闘わなくてはならない。この E ような﹁側﹂を両極に置いて対立させた父親の話にも違− 和感を抱いたのです。﹁差別はしたらいけないし差別に一 負けたらあかん﹂という正論を口にする父親に、いまで一 もよくわからない怒りがこみ上げてきました。そして、一 ﹁部落差別なんでもう今の時代はない。そうやって部落一 民だということで部落の人聞が夜集まったり、親や先生一 が部落の子を集めて教育していることが逆に差別をつく一 ってるんじゃない?﹂と思わず口にしたのです。被差別一 部落について語り合う中で、差別される側の行動に口出一 しするとはどういうことか、部落民のとってきた行動に一 異論を唱えてしまったことに自分自身への怖さを覚える一 と同時に、父親からは﹁なんてひどいことをいう子だ。一 おばちゃんやみんな頑張ってるのに、差別される側の人一 し か 聞の気持ちがわからないのか﹂と叱られました。それで一 も、差別する側・される側の理論が納得いかなかったこ四

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とを今でも覚えています。 父方の祖父母は母親が被差別部落出身であるため、父 親を勘当したと聞いています。祖父母が同じ市内に住ん でいることを知ったのは一

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代を過ぎてからです。その 後祖父が亡くなり祖母だけになってからは、関係も良好 になってきましたが、それでも祖母は最後まで、母親は 娘より良くしてくれるけど部落民だから同居はできない し世話にもなれないといっていました。母親はずっとそ れを感じながら肩身の狭い思いをしていたようです。 私は、被差別部落についてあえて口にしたことがあり ません。ただ、家族が抱えてきた思いを忘れて生きたく はないという気持ちがあります。今、一歳半になった息 子が毎日その地区にある保育園に元気に通っています。 部落内でのおじちゃん、おばちゃんと呼べる人たちとの 人間関係の中で、私も少しでも両親や祖父母達の生きて きた歴史を知り、子どもと共にその関係性を通じて地域 の中で育っていきたいです。 あ ら た め て 一

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代を振り返る 私は、小・中学校の半分近くが不登校で、せっかく入 学した高校も退学し、アルバイト以外の社会との接触を 拒否していました。何に向かって生きていけばいいのか わからなかったのではないかと今になって思います。 ﹁何で生きなあかんのやろ?﹂と思いながらも死ぬなん て考えもつかず、目的がなかったのです。ですが、周り はそんな状態を許してくれるわけがありません。生きる ことを考える余裕が与えられないまま、教育委員会のカ ウンセリングや精神科病院などを転々とする時期が何年 かありました。レールから外れた人生を送ろうとする子 はみんな問題があると思われていたのでしょう。 ただ、同じ頃にハンセン病療養所のドキュメント番組 を見て、どうしても﹁お年寄りの介護をしたい、精神的 に病んだ人のケアをしたい﹂と思うようになりました。 そのためには高校は行かず大検︵大学受験資格検定︶を 受けて看護学校に行こうと考えました。ですが、私は当 時、身体の不調を抱えていました。それも当然だと今に なって思いますが、一日の生活すらまともに送れないの に社会生活を送るなんて無理だと判断し、社会復帰をす るために色々準備をしました。 準備をしながら考えていたのが、本当に看護がしたい のかということです。看護が何なのかわからない中、あ れこれと考え、私は、何かしてあげられるなんてとんで もないと思っていたので、まず、自分の日々の生活が何 とか送れるようになったら、人に寄り添える仕事ができ こべる 11

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たらいいなと思うようになりました。人を拒絶しながら も、どこかで人間として社会で生活していきたいという 欲求が私にもあったのかもしれません。﹁人に寄り添い たい﹂と思っている自分の本心に気づき、﹁私ももしか したら普通に生きていけるのかもしれない﹂という希望 が見えてきました。 そこで、杜会福祉の道と出会い現在に至っています。 病気ではないけれども、社会生活を営む中で、その時々 に困難を抱えることもあります。ですが、そればかりで はないですし、そのしんどい状態が続いている中でも、 決して絶望するものではありません。大検を全科目受か るのに三年かかりました。試験会場で過ごすことすらで きない心身状態だったからです。大学受験も一年目は受 けに行きましたが、ある心身症状が出たため受験できず、 二年目にしてようやく受験、合格できたのです。 ある女性との出会い その合格までの一年の聞に、一人の女性との出会いが あります。知り合いからの紹介で出会った知的障がいの ある女性との関わりです。私自身が人を拒絶していた頃 だったので、一緒に外出なんてとんでもないと最初は考 えていました。その女性は自閉症であったためコミユニ ケ l シヨンがなかなか取れませんでしたが、回数を重ね一 る毎に、ある時お互い日を見て挨拶を交わしていること一 あ い さ つ 一 に気づいたのです。当時私は挨拶すらまともに交わさな一 い生活を送っていました。交わさないというよりも交わ一 せなかったといった方が良いのかもしれませんが、その− 女性との交流を通して、信頼し合えていると実感できる− 機 会 が も て た の で す 。 一 彼女との出会いがなければ、福祉の道で、しっかり人− と関係を築きながら生きていくことは到底できなかった一 のではないかと今になって思います。人を避けて拒絶し一 て生きる人生もありますが、素直に人を受け入れ、人に一 本当の優しさを与えられる人生もあるのだなということ一 を 教 え て も ら い ま し た 。 一 その後、大学を何とか四年で卒業し、社会人としての一 一歩を今勤める医療生協でスタートさせ、現在七年目を一 迎えます。﹁協同の実践﹂を理念として大きく掲げてい一 る法人で働く中で、生活を送る上で色々な価値観や境遇一 の人がいることを知りました。 私は社会福祉を学んで実践しようとする中で、﹁支援一 するための福祉﹂は、個人的にあまり好きではありませ− ん。ですが、協同組合というシステムを通じてであれば、一 様々な境遇に置かれた人聞が、生かし生かされながら主回

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体的に地域社会で生活を送っていくことを、自分自身も 含め協同実践することが可能なのではないかと考えてい ま す 。 ﹁ 差 別 ﹂ か ら ﹁ 共 感 ﹂ へ 今感じているのは、被差別部落の人びとが歴史の中で 差別を受けてきた事実から目を背けてはいけないという ことです。部落差別は表面的にはなくなったかのように 見え、過去に置き去りにする方が幸せなのかもしれませ ん。ですが、その歴史によって生かされている現実を抜 きに自分を見つめることはできないですし、事実を知り、 生きていく力にしなければと思います。 差別を助長させるようなことは許されませんが、誰も が差別する側・される側に立たされる可能性があります。 差別は、あらゆる身近なところにあり、それが自分に近 づいてきたときに初めて思わぬ行動を取ってしまうので す。差別をする人聞が全てにおいて最低な人間ではない ですし、誰もがふとしたときに、差別はいけないとわか っていても思わずとってしまう言動が﹁差別﹂を生み出 し助長させているのではないでしょうか。それをなくす には、差別はいけないというだけではなく、自分も他人 も受け入れられる心のゆとりが大切です。そのゆとりが なく、﹁先に先に、上を上を﹂というふうにしか考えら一 れないとき、目の前の人の抱える苦しきゃ問題には共感一 することができないのです。自分しか見えていないとい− う の は こ の よ う な 状 態 な の か も し れ ま せ ん 。 一 部落差別以外にもマイノリティに対する差別があり、一 それらを非難・批判するだけの、あるいは他人事として一 傍観するだけの立場に、誰も立つてはいけないのです。− 生きていく中で共感しながら生き合える関係を、少なく︼ と も 地 域 社 会 で 築 い て い け た ら と 思 い ま す 。 一 また、病気や障害を治療することや差別問題も含めて、一 完全に課題を解決することだけに価値をおくのではなく一 て、そのような流れの中で他者を受け入れながら共に生一 活を送っていく日常を大切にしていくことが、難しいで一 す が 必 要 だ と 思 い ま す 。 一 ﹁共感﹂は、一方通行のぶつかり合いでは生まれませ一 ん。部落問題を始め対立と闘争の歴史が様々な運動にあ一 ったのだと思いますが、人は接して関わってみて、初め一 て心が打ち解け交流が始まると、私は今思います。一 とりとめのない文章にお付き合い下さりありがとうご一 ざいました。このような機会がなければ、自分と向き合一 うことなどもっと先延ばししていたのではないかと思い、一 機 会 を 与 え て く だ さ っ た こ と に 感 謝 い た し ま す 。 一 こベる 13

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いのちを生きる⑪ z’"

三年ぶりの卒業式

長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 一 一 月 二 六 日 元気な六年生の授業も大詰めを迎える。校長がいわゆ る成績簿﹁あゆみ﹂に検印するので、六年生の分は三月 の最初の週末に担任へ渡さねばならない。少し早い店じ まいになるのだが、そのわりには﹁授業数確保﹂がうる さく言われたり、新しい学習指導要領の移行措置のため に冬休み明けから三ヶ月間に理科の単元が三つ入ってい たり。どうも文科省や教育委員会の言動には統一性・一 貫性がない︵たとえば移行措置のため六年生は二月に は や ﹁月﹂の学習をした。インフルエンザが流行っているの に、しかも一年中で一番寒い夜に月の観察をさせる文科 省の気が知れない︶。大急ぎで授業を進めなければなら なかった。一方、子どもたちは卒業を前に浮き足立ち、 ﹁あっ﹂とわかるものがあった。一

K

は自信がなかったのだ。私もヤキがまわったのか、気一 がつくのが遅すぎた。六年の授業も終わりにさしかかり、一 クラスが解体し始めた所もあった。 環境問題の

DVD

を観ていたときだ。地球温暖化で北 ひ ん し エサ不足でシロクマの子どもが瀕死の状 極 の 氷 が 溶 け 、 態 に な っ て い る 。 みんなシ

l

ンと映像を見つめている中 でひとり笑っている生徒がいた。

K

だ 。 以 前 、 私の病を 笑 っ た 子 だ 。 そ の 瞬 間 、 やっと心に余裕ができたのか。皮肉なものだ、 子どもに も 気 の 毒 だ っ た 。 もう一つ気づいたことがある。職員室でこのクラスの 担任に話をしようと何気なく近づくと、彼女はかすかに 身を縮ませた。彼女は、すっきりとした身を縮ませるこ とのない強いひとだと思っていた。この半年間、彼女と 話が通じなかったことも悩みのひとつだったが、悩みは 氷解した。私が彼女に相談したことを彼女はすべてク あ ふ レ

l

ムととらえていたのではないか。元気が溢れ出る子 どもたちのクラス経営をぎりぎりがんばる中で、まわり の教師らの、何とか彼女の力になればと発せられた言葉 すべてがクレームに聞こえたのかもしれない。長い休職

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でカンが鈍ったにちがいない。 授業が終わり、卒業式の練習が始まった。六年生が体 育館の入り口で待機しているときや、休み時間に追いか けっこをしているついでに、

K

がふらりと私の前に現れ る。とりとめのないことを少し話して、またふらっと出 ていく

O

K

には何も話しでいないのに、

K

は私の気持ち の変化をとらえたのだろうか。子どもはひとの想いを敏 感にとらえる秘密のアンテナを持っているの、だろうか。 そんなことを考えながら、敏感な子どもたち一六

O

人 余りを教える仕事の重さを今さらながら思い知る。 三月一九日 この日は私にとっても節目の日だ。九月一日の職場復 帰以来、今年の卒業式には絶対参ノ加しようと願っていた。 式に参加するのは三年ぶりになる。 子どもたちは、誇らしげに、あるいは恥ずかしそうに 思い思いの服装で入場してきた。一月頃から﹁もう服、 決めた?﹂と聞き合っていた。﹁子ども服は高いんとち がうの?﹂ときくと、﹁

N

店で買ったら安いから、みん な

N

で買ってるんよ﹂と女子が教えてくれた。 考えに考え抜いた服装で彼らは登場した。ボルサリ

l

ノの帽子をかぶったり、エクステ︵付け毛︶をした男子 もいる。アフリカ系の編み込みを決めた女子もいる。長 身の上、高く髪を結い上げているのに小学生らしいミニ ほほえ スカートをはいている姿は微笑ましい。﹁サッカーをが んばる﹂と宣言した子どもたちは、サッカーチ

l

ム の ジ ャ

l

ジで参加した。自分の意思を表わせるし、経済的で いいなと思った。もちろん今年も﹁定番の普段着﹂をパ シッと着て参ノ加した子どもも大勢いる。昔多かったブレ ザー姿は激減していた。 ま ゆ ﹁卒業式にふさわしくない﹂と眉をひそめる方々もい らっしゃるだろうが、私はこれでもいいなと思う。ピジ ユアルで感覚的に育つだ世代が一生懸命考えて自分の門 出に選んだ服装なのだ。服装の多様さ、明るさに救われ る 思 い が す る 。 まだまだ就職は先だけど、多難な時代に人生最初の船 出をする子どもたちに、明るく元気に、苦難を乗り越え て生きてほしいと願わずにはいられない。 こベる 15

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2009

年度『こぺる

J

会計報告

一般会計収支計算書 自2009年2月1日 至2010年1月31日 科 自 金 額 購 読 料 3,220,900 基金および寄付金 217,400 受 取 利 息 3,884 誌 代 売 上 32,988 通 信 費 176 郵 (N便0定10)額貯金解約 600,000 当年度収入合計 4,075,348 前年度繰越金 1,479,380 収 入 合 計 5,554,728 編 集 費 1,847,250 印刷・製本代 1,481,385 通信交通費 853,291 原 稿 料 858,600 消 耗 品 費 28,900 新I 費 7,620 振込手数料 75,695 残高証明手数料 1,130 支 出 合 計 5,153,871 当年度収支差額 .A.l,078,523 次期繰越収支差額 400,857 区 分 資産の部 資 負債の部 負 財 産 目 録 2010年 1月31日現在 項 目 [現現金預金金] 普通預金 京都陣支中央店信用金庫 西 No.0555464 京出都町銀支行店 No.483979 郵出便町貯郵便金局 No.20195771 郵便振替貯金 No.01010-7-6141 定額貯金出町郵便局(2件) [記号番号14490-2019577111,14) 産 f口" 計 預かり金 債 1口;. 差 引 正 味 財 産 一般会計 10,427 697 487 76,998 312,248 1,500,000 1,900,857 360

1,900,497 2009年 度 会 計 監 査 報 告 金銭出納帳、預金通帳、郵便振込等、監査いたしましたと ころ、金銭の処理、帳票の処理が確かにされていることを認 めましたので、ここに報告いたします。 2010年3月15日 こベる刊行会 代 表 藤 田 敬 一 殿 会計監査松田園広@

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鴨水記 マ 三 月 二 十 七 日 ︵ 土 ︶ 午 後 、 京 都 で ﹁ 人 間と差別﹂研究会︵士口岡千代美さんに よる﹁いのちいっぱい学びたい﹂

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年 ロ月号の補足と討論︶のあと、こぺる 刊行会の総会を開きました。総会とい っ て も 集 ま っ た 者 が ﹁ 編 集 報 告 ﹂ と ﹁ 会 計監査報告﹂を受けて少し議論するだ けの簡単なものです。しかし今年はそ うもいかない事情がありましてね。と いうのは、阿昨社から﹁﹃こぺる﹄刊 行にかかわる業務を辞退したい。つい ては遅くとも二 O 一一年一月末日まで に業務の引継ぎを完了してほしい﹂と の申し入れがあったからです。 マさてどうするか。年間赤字額と基金 残高をながめつつ、自らの今後の生き 方なども考えて、わたしが出した結論 は 、 ﹁ 業 務 の 一 切 を 岐 阜 で 引 き 受 け る ﹂ というものでした。岐阜には、友人の 戸田二郎さんが営む﹁戸田写植﹂があ り、しかも旧太平天国社のメンバーも 健在です。彼らが協力してくれれば、 なんとかやっていけるのではないか。 そう考えて、みんなで出かけた=一河湾 ひ ま が に浮かぶ日間賀島への一泊旅行︵総勢 六人。三月二十一日・二十二日︶の際 に相談したところ内諾をえました。総 会では異論は出ず。九月末をめどに業 務 を 岐 阜 に 移 し ま す 。 マ﹃同和はこわい考﹄は、太平天国社 発行の﹃天国?っしん﹄に連載したも のがもとになっています。当初は、戸 田さんのところから自費出版するつも りでした。それが途中で阿昨社発行に なったという経緯があります。つまり 岐阜は、わたしが﹃こわい考﹄にいた る思索を深めた土地、それらをまとめ て発表する場を提供し、公刊の段取り までしてくれた友人がいる土地なので す。そこへ﹃こぺる﹄がやってくる。 阿件社に編集費の名目で支払ってき た年間百八十万円の業務委託費がなく なるわけで、その分、刊行経費の節減 が期待できます。八百余部の定期購読 料に加えて寄付金や基金を送ってくだ さる方もあり、資金的には二、三年は もちそうです。そして何よりも読者の みなさんからのお便りに励まされまし た。もうひと踏ん張りしますので、ご 支援くださいますようお願いします。 マ今号﹁自分史のこころみ﹂の町田宏 美さんは、一月二十四日︵土︶、兵庫 県尼崎市・特別養護老人ホlム﹁園田 そ の 苑﹂のボランティアグループ園に七年 ぶりに招かれて講演したときに出会っ た方です。﹁緊張しながら一番前の席 に着きましたが、とても心が解放され た楽しい時間を過ごせました L 。これ は、わたしの講演をお聞きになった人 びとの感想とお便りをまとめた冊子に 掲載された町田さんの丈章の一節です。 そこには大事なことが書かれてあり、 ぜひ﹁こぺる﹄に寄稿してほしいとお 願いしました。氏名・職業・住所を明 記してという注文をこころよく受け入 れてくださり、こうして掲載できて、 ほ ん と に う れ し い 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町739阿件社 干602-0017 Tel. 075 414-8951 Fax. 075-414-8952 E-mail: koperu@par口dn.ne.jp http://wwwl.odn.ne.jp/aunsha 定価300円(税込)年間40CD円郵便振替010107 6141 - ~o"2'. 第206号 ー〆’、〈之矛 2010年5月25日発行

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六 号 二 O 一 O 年五月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第三種郵便物 認 可 定価 三 百円 ﹁ ﹄ 事 協 骨 − − H 1 ι 川耳﹄ ︺ 阿昨社 発売 阿昨社 干602-0017京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9Tel 075-414-8951 F田 075-414-8952 定価840円 1987年6月20日第1刷発行・2003年第8刷

参照

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