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こぺる No.230(2012)

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NO

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230

『こぺるj終刊に寄せて① 誌名「こぺる」誕生秘話 山本尚友 『こぺるj終刊に寄せて② こぺる刊行会 自由にものが言える孤高の小冊子 小 津 覚 尼崎だより@ 定点支援・継続支援・永続友好を目指す 中村大蔵 四日市から⑫ 介護の常識をくずす −「かいご学会」に参加して 坂倉加代子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小 林 茂

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写 真 と 文 一 小 林 茂 「 金 大 中 氏 を 救 え 」 の デ モ 行 進 。 前 列 右 か ら 飯 沼 二 郎 、 日 高 六 郎 さ ん ら 。 (1980"f9月21日。京都河原町)

1979年10月、韓国のff主強大統領暗殺。 12月、主~!i~蜘;Zヶデターにより全韓国軍を掌握。 80

年4月、市民・学生の民主化運動激化。ら月、戒厳令。~天司ら逮捕。光州事件。 8丹、金大中に 死刑判決。日本国内でも韓国の民主化運動に呼応する運動が展開。 1980年9月、 「金大中氏らの 死刑l・重刑に抗議する京都集会」が三条YMCAで|淵かれ、河原町をデモ行進。その後も四条河原 町の高島屋前で断続的にハンガーストライキが決行された。 そのときの横断幕に筆議直君の完全釈放をかちとろうとある。同志社大学から韓同へ留学中、 政治犯として拘束された学生である。私は救援のスライドを作る仕事のために韓国に渡った。厳 寒の2月。早朝の刑務所。面会を希望した年老いた父親と兄弟の目の前を鉄格子の移送車が走り 去った。

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﹃ こ ぺ る ﹄ 終 刊 に 寄 せ て ①

誌名

誕生秘話

山本尚友︵熊本学園大学・ 熊 本 市 在 住 ︶ ﹃こぺる﹄の前身は、師岡佑行民主幹の京都部落史研 究 所 の 所 報 と し て 刊 行 さ れ て い た ﹃ 京 都 部 落 史 研 究 所 報 ﹄ であった ︵ 一 九 七 八 年 一 月 創 刊 ︶ 。 月一回の刊行で B 4 用紙にタイプ印刷し、これを二つ折りしたものを二枚重 ねて八頁だてとした簡便なもので、 ﹃ 京 都 の 部 落 史 ﹄ 編さん事業の進捗状況を編さん担当者および支援者に報 告するのを目的としていた。史料調査の報告記事とあわ せて、京都を中心とした被差別部落史の研究論文が毎号 掲載され、地味ではあるが充実した誌面ではなかったか と 思 う ﹃所報﹄を﹃こぺる﹄と誌名変更したのは一九八三年 六 月 で ︵ 廃 刊 は 一 九 九 二 年 五 月 ︶ 、 そ の 事 情 に つ い て は 、 の 七 七

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人に達している。所報は従来のまま一 で は 、 余 り に 専 門 的 す ぎ て 、 な じ め な い 。 そ こ で 思 い 切 っ て、本号から題号も﹃乙ぺる﹄と改め、部落問題を核心一 としながらも、話題をそこに限定せず、広く現に私ども一 が生きている時代を様々な角度と形において把えること一 を ね ら い と ﹂ す る と し て い た ︵ 要 旨 ︶ 。

リ ニ

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アルの準備にいつからとりかかったか記憶に一 はないが、よく覚えているのは﹃こぺる﹄と誌名を決め一 た時のことである。﹃所報﹄では余りに堅いということ一 で、改題することは早くから決まっていたが、なかなか一 良い誌名が浮かばない。ではということで、当時研究所一 で働いていた、師岡所長をはじめとする常勤職員三名と一 ア ル バ イ ト の 三 名 な ど で 相 談 を は じ め た 。 私は新しい誌名は、これまでの部落問題の雑誌にはな一 かったものをと考えていたので、若い人に好きな言葉を一 出してもらい、そこから決めようということになった。 ﹁ た ま ね ぎ ﹂ ﹁ そ ら ﹂ ﹁ え ぷ ろ ん ﹂ 。 私 は ﹁ 赤 い と う が ら し ﹂ 一 それまで若者のやりとりを一 1 改題第一号に﹁新しい草袋に﹂と題して師岡氏が的確に 述 べ ら れ て い る 。 ﹁ 研 究 所 は 会 員 制 度 の 充 実 を は か り 、 四 月 末 現 在 、 こぺる が い い か な 考 え て い た 時 に 、

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楽しそうに聞いていた師岡氏が、 ﹁ 吉 野 源 三 郎 の 書 い た も の の 中 に 、 コペル君というのがあったね﹂と突然言わ れ た 。 ﹁ コ ペ ル 君 ﹂ とは、戦後、月刊誌﹃世界﹄ の編集 長をつとめた吉野が、日中戦争開始の一九三七年︵昭和 十 二 ︶ に著した﹃君たちはどう生きるか﹄ ︵ 現 在 、 岩 波 文 庫 に 収 録 ︶ の な か に 登 場 す る 、 旧制中学に通う主人公 の あ だ 名 で あ っ た 。 ﹁コペルニクス的転回なんて言われませんか﹂とだれ か が 茶 々 を 入 れ て 、 ま た 別 の 案 へ と 話 は 移 っ て い っ た が 、 これというタイトルはなかなか出なかった。私は柔らか い名前にこだわりすぎかなと反省し、 ﹁ こ ぺ る ﹂ は 音 が はっきりしていて良いのではないかと思い始めていた。 他にも﹁こぺる﹂を推す人がいて、最後の最後で急転直 下﹃こぺる﹄に決まった。音で選んだ名前であり、 ペルニクス的転回﹂とかいう当然予想される連想を避け る た め 、 片 仮 名 で は な く 平 仮 名 で い こ う と い う こ と に な っ た。こういう経緯で決まった﹃こぺる﹄だが、改題当初 はどういう意味かとしきりに聞かれることになったのは い う ま で も な い 。 一 方 、 リ ニ ュ 1 アルにあたってどのくらいのボリュ l 一一寸

ムにするか悩んだ。当時は同和事業の全盛時代で、地方一 自治体が同和問題関係の刊行物を湯水のように印刷して一 いる時代であった。当然、各地の研究所の刊行物も厚い一 ものが多かったが、私には中身の薄いものに思えた。そ一 の項、﹃フォーカス﹄というそれまでになかった写真週一 刊誌が発刊されたばかりで、それまでの週刊誌と比べる一 と非常に薄く、紙面の大半が写真のため文字が少なく、 す ぐ に 読 め て し ま う 印 象 で あ っ た 。 一 まだ情報社会という言葉はなかった。印刷媒体が中心一 で、明らかに情報過多の社会が姿を現しつつあった。こ一 ういう時代には、むしろ情報量が少ないことが意味を持一 つ の で は な い か と い う 直 感 で 、 B 6 判 型 で 本 文 十 六 頁 、 アート紙の表紙に毎号異なる絵の一部を載せ、本文の見一 聞 き の 頁 で 絵 の 全 体 像 を 紹 介 す る と い う ス タ イ ル が 決 ま っ た。届いたその日に読みされる分量というのがコンセプ一 ト で あ っ た 。 し か し 、 ﹃所報﹄時代のメイン論文が中心というので は 、 内 容 が さ み し く な る の で 、 メイン論文︵六

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八 頁 ︶ にコラム連載でそれを補うことにした。このようにして 京 都 部 落 史 研 究 所 版 ﹃ こ ぺ る ﹄ は ス タ ー ト し た の だ っ た 。

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﹃ こ ぺ る ﹄ 終 刊 に 寄 せ て ②

自由にものが言える

孤高の小冊子

小 揮 覚 ︵ 横 浜 市 在 住 ・ 地 方 公 務 員 ︶ ﹃ こ ぺ る ﹄ に 出 会 っ た の は 十 年 ほ ど 前 の こ と で あ る 。 きっかけは、私が教育委員会の研修責任者として着任し、 研修企画の中で を扱わねばならなくなったこと ﹁ 人 権 ﹂ に 始 ま る 。 それまでの私にとって人権研修とはもっぱら﹁受ける 側 ﹂ の そ れ で あ り 、 ﹁ 人 権 な ん て 面 倒 く さ い ﹂ 、 ﹁ 人 権 な ん て 仕 事 に 役 立 た な い ﹂ 、 ﹁ 仕 事 が 忙 し い 時 期 な の に 人 権 研 修 な ん て ﹂ 、 ﹁自分は差別なんでするひどい人閉じゃな い ﹂ 、 ﹁人権問題なんでよくわかっている﹂などと内心で は思いながら、会場の後ろの方に座って研修を受けてい た 。 今 か ら 考 え る と 、 と ん で も な い 人 間 だ っ た と 思 う 。 し か し 、 いざ人権研修を企画する立場に立つと、これ どこそこの人権講師の話は﹁ためになる﹂と聞けば、遠一 くてもその人の講演を聞きに行った。それでもなぜか心一 にすっと入ってこない。いろいろともがく中で少しずつ一 ﹁ こ れ は ﹂ と 思 え る 人 た ち と 出 会 え る よ う に な っ て き た 。 ぜひ会ってお話を聞きたいと思い立ち、東京の清瀬市一 にあるハンセン病療養所・多磨全生園に伺い、回復者の一 平沢保治さんと出会って話をお聞きした。平沢さんは、 足が不自由にもかかわらず、横浜まで来てくださった。 性同一性障害が人権問題の中で取り上げることが少な一 かった頃、世田谷区議会議員の上川あやさんのところへ、 ﹁ぜひお話を聞かせて欲しい﹂と伺ったこともあり、現一 在でもメ

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ルのやり取りをさせていただいている。 そのように自分の中で人権と格闘している時期に出会つ たのが、﹃こぺる﹄であった。インターネットで人権に一 ついて調べている時、たまたま藤田さんの H P に 行 き 当 一 ﹃ こ ぺ る ﹄ も 含 め H P 内に書かれている様々な文一 が大変であった。当たり前である。真正面から ﹁ 人 権 ﹂ と向き合ったことがなかったために、 そのつけが溜まっ ていたのである。手当たり次第に人権関係の本を読み、 こベる た り 、 章を読ませてもらった。読んでいるうちに、 ﹁ こ れ だ ! ﹂ 3

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と 思 っ て し ま っ た の で あ る 。 ﹁人は差別する側と差別される側の二項対立の関係で はない。差別する人間も差別されることもあれば、差別 されている人間も差別してしまうこともある﹂。このフ

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ズに、今まで肺に落ちなかった﹁人権﹂に対する疑 聞が、ぱっと晴れたような気がした。矢も盾もたまらず、 藤田さんに電話し、岐阜まで押しかけて行った。後で、 藤田さんとご一緒した際に改めてお聞きすると、 ﹁ 突 然 連絡をしてきで、横浜から一方的に岐阜まで会いにくる というから、なんとけったいなやっちゃなあと思ったよ﹂ とおっしゃっていた。これが私と藤田さん、 ﹃ こ ぺ る ﹄ と の 出 会 い の 始 ま り で あ る 。 ﹃こぺる﹄から教えられたことはたくさんある。人権 と言っても様々な切り口があり、様々な見方があること に も 気 づ か さ れ た 。 私 も 、 人権問題として取り上げられ ることが少なかった食肉処理業務に携わる仲間たちにつ いて、書評を含め三度ばかり寄稿させていただいた。 なぜ﹃こぺる﹄を読んで、﹁これだ!﹂と思ってしまっ た の か 。 今 、 振 り 返 れ ば 、 どの団体にも属さず、どの団体の意見も代表せず、ど一 お も ね こにも阿らず、ただ愚直に人権について自由に考え、白一 由にものが言える場を提供する孤高の小冊子。私には一 ﹃ こ ぺ る ﹄ が そ ん な 存 在 だ と 思 え た か ら で あ っ た 。 ﹁ 人 権 問 題 は 二 項 対 立 で は な い ﹂ と い う の も ﹃ こ ぺ る ﹄ 一 から学んだことだが、藤田さんがよくおっしゃる、﹁ま一 ず自分から始める﹂ということも大きな教えだったと思一 う。﹁人権を他人事としない﹂、﹁評論家的に第三者の立一 場で人権を語らない﹂、﹁自分はどうなのか。自分はどう一 考えるのか。自分はどう行動するのか﹂。人権を考える一 とき、必ず自分に問いかけている。 私も人権研修の場で話すことが多くなってきたが、そ一 の際、﹁私は人権について見識がある人間ではなく、昔一 は一番後ろに座って人権研修を聞いていた人間です﹂と一 正直に話している。そんな自分が、今では﹁人権を考え一 ることは、とても大切だと思っています﹂と話している。 ﹃こぺる﹄の終刊は、とても残念なことだが、その精一 神を少しでも後輩たちに伝えていくのが私の務めだと今一 位 置 に あ る の で は な い か と 思 う 。 その理由は﹃こべる﹄の立ちは思っている。

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尼 崎 だ よ り @ 尼 崎 市 在 住 ︶

定点支援・継続支援・永

続友好を目指す

やっと一年経った。だが早かった。この三月は十一日 を挟んで二田現地へ足を運んだ。震災以来、十六回目の 訪問となる現地で質問されたのは、 ﹁ 阪 神 の 時 、 一 周 年 は ど う 過 ご し た か ﹂ と い う こ と だ っ た 。 ﹁ こ と さ ら な こ とをした覚えがない﹂と答えたものの、 その実、なんの 記 憶 も な い 。 その頃は毎日欠かさず、担当する仮設住宅に足を運ん で い た 。 し か も 、 その仮設住宅群は尼崎市最大規模の 九 六 戸 で あ っ た が 、 一周年に当たる開・ー・臼当日に何 をしたか、当時の事務ダイアリーを聞いてみても何の記 載もない。気仙沼では﹁マスコミは絵になるものを追い か け る か ら 、 それに振り回されないように﹂とだけ強調 年から同じタイプのダイアリーを用いているのだが、九一 五年のものなんかブックケ 1 スが破れ、僅かに原型をと⋮ どめているくらいに酷使されている。 3 ・日後の三月二十日から二十二日までの十七回目の⋮ 訪問は、先の質問をした仮設住宅サポートセンター職員一 が気になっていたこともあったが、被災地訪問一年間の一 締めくくりとして、その日の朝にわかに思い立ち、周り一 の者が呆気に取られているのを横目に園田苑を飛び出し一 た 。 一 さ わ う ち 一 岩手県旧沢内村の導きで被災地へ 昨年三月二十九日が、被災地への初訪問だった。気持一 は ゃ ちほ逸るも、現地での車の手配は不可能だった。現地か一 年とが際立ってボロボロである。園田苑開設準備の八六 した。あらためて、ダイアリーを見返すと、九五年と九六 らは﹁勝手に来い!身体を横たえる場所くらいはある﹂ との厳しい返事。東北地方のレンタカーは一台たりとも こ"る 入手不能の状況だった。思いついたのが岩手西和賀町に ある特養・光寿苑だった。早速電話して車の拝借を頼ん 5

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だが、現地での救援活動でそれどころではないと言う。 そこで斡旋されたのは光寿苑と取引をしている同町の嗣 佐藤自動車だったが、佐藤自動車所有のレンタ

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も 出払っており、社長専用車を提供された。それが何と 昔前の高級車、三菱のデボネア。私もそうだが、車に関 心のない人にはそれがどんなシロモノか、実物を見るま で分からないだろう。この車で被災地に行こうものなら 石が飛んで来るのではないかと思うほど重厚な黒塗りの 車である。惜しげもなく貸す方も貸す方なら、平気で借 り る 方 も 借 り る 方 で あ る 。 しかも予備のガソリンタンク も セ ッ ト さ れ て い た 。 こんな無理を聞いてくれるのは、光寿苑との取引があ るだけのことではないと容易に察しがつく。光寿苑理事 長が太田祖電さんであることが決定的である。太田さん は知る人ぞ知る、沢内村の元村長である。沢内村と言え ば、冬は積雪二メートルを優に越す豪雪地。乳幼児死亡 率日本一の村だった。そして貧困が追い討ちをかける。 かつては日本のチベットと差別された地でもある。 まさお だが、故深沢昆雄村長時代︵一九五七

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六 五 年 ︶ 、 六 十五歳以上の医療費無料化を国に先駆けて実施し ︵ 六

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れている﹁地域包括医療計画﹂を、この時期すでに策定一 し て い た 。 一 太田さんは、深沢村長時代に教育長を務めその後村長一 になり、七三年から九三年までの二十年の長期にわたっ て深沢村政を継承発展させた人である。ちなみに名前の一 祖電は、沢内村に電気が灯った年に生まれたことに由来一 する。太田さんは今年で満九十歳となる。その太田さん一 が現役時代の八九年十一月と九三年三月の二回、それぞ一 れ﹁生命をまもる﹂﹁命を守る村政を引き受けて

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二 十 一 年の歩みを振り返る

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﹂と題して園田苑で講演してくだ一 さつた。八九年は園田苑開設の翌年である。 ハンセン病療養所長島愛生園を通じて沢内村へ 太田さんを紹介してくれたのは故藤井善さんである。 藤井さんとの出会いは園田苑開設前年の八七年二月だっ た。所は国立ハンセン病療養所長島愛生園。この年は園⋮ 年 ︶ 、 乳 児 と 六 十 歳 以 上 の 医 療 費 無 料 化 を 行 い ︵ 六 一 年 ︶ 、 その翌年には全国初の乳幼児死亡率ゼロを達成したこと で有名になった村である。今となっては当たり前に言わ

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田苑開設準備で超多忙な時期であった。増える借金に慎 悩しながら、欝々とした気持がどこかで心の安らぎを求 めていた。そんな時、愛生園の浄土真宗西本願寺会館で 藤井さんと出会った。何の関わりもなかった団体にもぐ り込んでの訪問であった。藤井さんは寺の出身で、 そ の 時すでに愛生固にある真宗同朋会の導師であった。この 年七回も長島を訪れるとは思いもよらなかったが、 そ の 中で私は深く藤井さんに傾倒していった。 八九年九月、藤井さんを園田苑にお呼びして講演会を 聞 い た 。 ﹁命の尊さ﹂が演題だった。その頃、藤井さん はハンセン病の語り部として名が知られるようになって いた。苑に一泊された藤井さんとの取りとめもない会話 から、私が沢内村に触れたようだ。藤井さんが﹁村長の 太田祖電さんとは大学が同窓で親友だ﹂と語った。それ を耳にするや﹁太田祖電さんをぜひ苑にお呼びしたい。 紹介してほしい﹂と強く懇願した。そしてその年の十 月、念願かなって太田さんが尼崎にやってきた。 時 は 移 り 、 九 一 年 九 月 、 台 風 一 過 の 沢 内 村 を 訪 問 し た 。 その時、遠く奥羽山脈を眺めながら、太田さんが独り言 の よ う に 暗 い た 。 ﹁ 藤 井 善 の 本 名 は 伊 那 教 勝 、 だ ﹂ と 。 藤井さん二度目の来苑は、 ご本名をなのる|ふるさ とに帰ること﹂伊那教勝︵藤井善

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としての講演会一 であった。九一年十月のことである。藤井善さんから太一 回祖電さんを紹介され、太田祖電さんから伊那教勝さん一 を紹介された。そして太田祖電さんが被災地への足の便一 宜を図ってくれた。続く人と人との関わりである。 四月からの被災地訪問は佐藤自動車がトヨタのタウン一 エ

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スを長期に貸し出してくれたおかげで、現地での活一 動が思う存分に出来ることになった。初期は車を仙台一 空港に置きつ放しにしていたのを、仙台空港がほぼ復旧一 するにつけ、駐車場の有料制も元に戻ったので、無料駐一 車が出来る花巻空港に中継基地を移した。被災地を縦横一 に走るタウンエ

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スはさながら水陸両用車となった。気一 仙沼の海水没地区では水しぶきならぬ泥しぶきを上げて 走 り 回 っ た 。 一 回 の 走 行 距 離 が 千 キ ロ を 越 し た こ と も あ っ た 。 ﹁万里の防波堤﹂と称された岩手県宮古市田老地区で は 、 遂 に 瓦 醸 の 中 の ね じ 釘 を 踏 ん で パ ン ク し て し ま っ た 。 こぺる 無 謀 な 運 転 で 車 内 の 至 る 所 が 破 損 し 、 ボ デ ィ ー も 傷 つ き 、 そ の つ ど 佐 藤 自 動 車 に 連 絡 す る も 、 社 長 は ﹁ い い で す よ 。 一

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い い で す よ ﹂ と 言 う ば か り 。 冬に向かう十一月にはタイヤを冬用スタットレスに替 えたが、四駆ではないタウンエ

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スでは積雪の坂を上れ ない。汗だくになって難を逃れた。それを聞いた現地の 人 か ら ﹁ 怖 い こ と 、 よ く や る よ ﹂ と 笑 わ れ た 。 再び沢内村に 花巻に中継基地を移してから、飛行機待ちの短い時間 を利用して空港周辺を探索した。花巻が ﹁ ハ ナ パ ッ ケ ﹂ なるアイヌ語に因ることを知って嬉しくなった。また、 宮揮賢治に避遁する、思わぬ旅にもなったことは大きな 収 穫 だ っ た 。 とおの 雪が降りしきる中、その日になって宿を取った遠野の ユースホステルのベアレント︵夫︶が、生まれも育ちも 尼崎だったことには驚くよりも不思議さを感じた。ペア レ ン ト も 彼 の 地 に 魅 せ ら れ た 一 人 だ っ た 。 三月二十二日、車を佐藤自動車に返す前に、どうして も見ておきたいものがあった。それまでの訪問で通りす お お は さ ま がりに見つけた碑である。花巻市大迫町亀ヶ森にある。 その横には苔むした一 小 さ な 自 然 石 の 墓 。 切 牛 覚 十 郎 の 墓 と の 標 識 も 立 つ 。 銘 々 一 碑によると﹁切牛覚十郎は盛岡藩士で知行地の百姓で肝一 いりであった。宝暦、天明、天保と打ち続く大飢鐘が続一 き 農 民 の 貧 窮 は 頂 点 に 達 し 死 者 が 続 出 し た ﹂ 。 ﹁ 再 三 に 渡 つ 一 て代官所へ年貢減免の嘆願もしたが取り上げられなかっ た﹂。遠野街道ぞい﹁五村の約四千人の農民が決起し、 一 撲 を 起 こ し た ﹂ 。 ﹁ む し ろ 旗 を 立 て 天 保 七 年 十 一 月 十 九 一 日夕、盛岡に向けて行進を開始し翌二十日夕﹂出迎えの一 侍と橋上で対崎。聞き届けるとの口約束で一撲は退散し一 たが、藩はこれを無視し一撲の扇動者九人を捕らえ、 木多沢で天保八年十月に打首一 ﹁ 他 の 八 人 は 沢 内 な 一 ﹁ 平 成 十 六 年 十 一 月 建 立 亀 林 会 ﹂ 。 ﹁ 覚 十 郎 は 首 謀 者 と し て 獄 門 に 処 せ ら れ た ﹂ と あ る 。 その次の文言に引き寄せられた。 どに追放処分された﹂。沢内村は古くから流刑の地でも あ っ た の だ 。 ﹁ 沢 内 ﹂ から始まった被災地訪問が一年を 経 て ﹁ 沢 内 ﹂ に 戻 っ て き た 。

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津波を逃げ切った牛の世話するフミコさん 気 仙 招 を 離 れ る 三 月 二 十 一 日 、 海 辺 の 牛 小 屋 を 見 に 行 つ た。そこの牛は津波でいったん流されたが、高台を目指 し 自 力 で 、 泳 い で 難 を 逃 れ 、 そのあたりでは話題を呼んだ 牛 だ っ た 。 そ の 後 、 子 牛 を 産 ん だ 。 その親子の面倒をみていたフミコさん ︵ 八 十 五 歳 ︶ を 牛 小 屋 に 訪 ね た 。 牛にワラをやっていたフミコさんは、人なっこい笑顔 を見せて牛の自慢をする。仮設に付設されている高齢者 を見守るサポートセンター職員が同行したが、その人た ちが交わす会話は、地元の言葉で、私にはなかなかわか らない。それでもひときわ大きく鳴く牛に﹁水が欲しい の だ ﹂ と フ ミ コ さ ん が 言 う 。 センターの職員が井戸から 水 を 汲 み 上 げ て 来 た 。 それをバケツに入れ替えてやると 牛はうまそうに一気に飲んだ。子牛も擦り寄ってくる。 ウンコだらけの牛だけど、目はとても優しい。この親 子をいとおしげに世話をするフミコさんの所作を見て、 を思い出して、ほのぼのとした雰囲気に浸った。 土と挨の着いた野良着姿のフミコさんをセンター職員一 とともに、近くの屋台食堂﹁メリ

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ランド﹂へ誘う。メ一 リ

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ランドは気仙招から南三陸に向かう国道必号線沿い にある、もともとはソフトクリーム屋さんである。震災⋮ 後いち早く営業を再開した店の一つであり、それを機に一 ラーメンも商うことになった。店の女将とその嫁とで切一 り盛りしている感じのいい店である。気仙沼を移動中に一 よく車を止めて、そこで昼ごはんを食べたから、もう顔⋮ なじみである。だが、それまでとはがらりと違った顔合一 わせで現われたものだから、店の女将は﹁あんたたち、 ど う い う 関 係 ? ﹂ と い ぶ か る 。 こ の 地 の 人 で あ る セ ン タ ー 一 職員は﹁こういう関係﹂とさらりと流す。 食事を終えて仮設住宅までフミコさんを送り届けた。 しばらくして車を走らせているとフミコさんが、食後に一 食 べ た の で あ ろ う 、 り ん ご の 芯 と 僅 か ば か り の 度 を ビ ニ

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一 ヒョコヒョコと農道を歩いている。聞け一 韓 国 で 大 ヒ ッ ト し た 、 老 夫 婦 と 農 耕 牛 と の 物 語 ﹃ 牛 の 鈴 ﹄ こぺる ル 袋 に 入 れ て 、 ば牛にやるのだと言う。国道を横断して海辺まで行くに 9

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は、浅い痴呆もあるフミコさんにとっては危険である。 同 乗 を 勧 め 、 また牛小屋まで行った。津波で残った切れ 端を掻き集めた牛小屋の入り口は、少し強い風でも吹け ば飛ばされそうなちゃちな作りである。 四月二日、センターの職員から電話が入った。フミコ さ ん が ﹁ 仮 設 で 死 ん で い た ﹂ と。息子は出勤時の朝、ま だ 寝 て い る と ば か り に 思 っ て い た よ う だ 。 検 視 の 結 果 、 早朝のクモ膜下出血が死因だった。今もフミコさんの人 な っ こ い 笑 顔 が 忘 れ ら れ な い 。 気仙沼に深く恋をしてしまった私 時には月に三回も往復した被災地行きは、これから月 一回程度になるだろう。仮設住宅への定期的訪問とそこ のサポートセンター職員を激励できれば幸いだと思って ひ ん し ゅ く ” 聾 盛 を 買 いる。私のボランティア活動のモットーは、 わない程度に押しかける“自由間違さを発揮することで あり、ボランティアとは、神︵天︶ の恵みに自ら応える 自己解放の営みである。現場に入り、 そこで何が起こっ てのみ、来るべき巨大災害に備えることができると確信一 している。その聞を縫って東北にアイヌの足跡を辿り、 沢内村の歴史をもっと知り、気仙沼に深く恋をしたい。 震災なかりせば考えなかったことの何と多いことか。 震災なかりせば出会わなかった人の何と多いことか。そ一 のことに感謝しながら、これからの東北行きに励みたい。 幸いにも宮城と兵庫とは災害時に相互協力関係を結び、 その中で尼崎は気仙沼と協力関係を結んでいる。行政が一 上からの仕組みと思惑とで限定された期間、協力関係を一 有するのは当然だろうが、一定期間を過ぎれば手を引く一 ことになる。私たちは市民のレベルで定点支援、継続支一 援、そして永続友好を目指したい。 まだまだ残された課題は多い。広域大災害で平成の大一 合併が落とした陰と光。被災地に向けて発信されたハン一 セン病療養所自治会からの、被災者受け入れが一向に進一 キキシワカリ/ソシテワスレズ﹂関わり続けることによっ ているのかを﹁ジブンヲカンジヨウニ入レズニ/ヨクミ ま な い こ と な ど 、 そ の 解 明 は こ れ か ら の 課 題 で あ る 。 ︵ 二

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一 二 年 四 月 ︶

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四 日 市 か ら ⑧

介護の常識をくずす

ー ﹁ か い ご 学 会 ﹂ に 参 加 し て

NPO 法人 四 日 市 男 女 共 同 参 画 研 究 所 ︶ この三月、西宮市で聞かれた﹁かいご学会﹂に参加し た 。 H か い ご H の H か N は 介 護 、 H い ρ は 医 療 、

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はご近所のことだと書かれた案内を読み、行きたくなっ た 丸ちゃんと呼ばれ親しまれている西宮に住む女性とそ の仲間たちが学会の実行部隊。今年の初め、丸ちゃんに 会った時、﹁なんで私が学会と思うでしょ。学会と付け ると関西学院大学が会場を貸してくれますんや﹂と笑っ てみせる。﹁メチヤクチヤ楽しい学会ですよ。来て!来 て!﹂と誘う。初対面なのに。丸ちゃんの体の中には、 世の中を変えるマグマがたぎっている。私は丸ちゃんに 会 う た め 学 会 に 参 加 し た の だ 。 つ ど い の 場 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ の こ と 丸 ち ゃ ん は 西 宮 で 、 NPO 法人﹁まじくる介護つどい一 の 場 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ ﹂ を 開 設 し て い る 。 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ 一 のことは雲母書房から本も出ているし、昨年度の﹃厚生⋮ 労 働 白 書 ﹄ に も 紹 介 さ れ て い る 。 H ま じ く る H は 丸 ち ゃ ⋮ んの造語。いろんな人が混ざり合い、語り合い、しゃべ くり合うの意味だとか。二

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四 年 に オ ー プ ン し て い る 。 長かった家族の介護から解放された丸ちゃんは﹁介護一 する人には、いつでも駆けこんで相談でき、温かい食事一 を共にしながら話し合える場が必要だ﹂と、この﹁つど一 い の 場 ﹂ を 作 る 。 介 護 者 の た め に 準 備 し た ﹁ つ ど い の 場 ﹂ 一 は、今や介護する人、される人ばかりか、介護職、医療一 関係者、行政の人、大学教授や学生、ご近所さん、賛同一 者など、いろんな人たちが集まり、立場を越えて語り合一 え る 場 に な っ て い る 。 ﹁こんなに多職種の人が集まるって、スゴイことです一 ね﹂と言うと、﹁食べ物で釣ってますんや﹂と返す。丸一 ちゃんの料理はプロ級らしい。﹁認知症など一般のデイ一 サービスに馴染まない人や介護保険対象外の人が介護者一 と一緒に集まっていて、普通の家の感覚で自由に過ごし一 ている﹂という﹃さくらちゃん﹄の紹介は丸ちゃんのふ一 こぺる 11

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く よ か な 笑 顔 が 保 障 し て い る 。 ﹁ つ ど い の 場 ﹂ は 集 う だ け で な く ︿ お で か け タ イ ﹀ 、 ︿ 学 び タ イ ﹀ 、 ︿ 見 守 り タ イ ﹀ の 三 つ の タ イ 活 動 も 行 う 。 ﹁お年寄りも建物の中に閉じ龍ってばかりいては息が 詰まってきますね。天気のいい日はご本人も介護する人 も H お出かけ H しましょ﹂﹁不安?外に出れば何とかな りますわ﹂と、近所のスーパー、映画館、河川敷、日帰 り温泉旅行は言うに及ばず、毎年北海道旅行まで楽しん で い る 。 ﹁いろんな所へ出かけると、みんなの表情がいいんで す 。 い い 顔 に な る ん で す わ 。 ﹂ ﹁ お 年 寄 り が 、 ど ん ど ん 出 か け る こ と が 、 H 街の心 H を 変 え て い く と 思 う ん で す わ 。 ﹂ ︿ 学 び タ イ ﹀ 活 動 の 中 身 を 見 る と 、 誤 帳 ・ 胃 ろ う 造 設 ・ 口腔ケア・食事介護などの﹁ケアのスキルアップ﹂や ﹁ 力 の い ら な い 介 護 術 ﹂ ﹁ 理 想 の 高 齢 者 施 設 ﹂ な ど 、 身 近 なにある切実なテ

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マが揃っている。講師には、丸ちゃ んが自分の眼で確かめ納得した人しか呼ばないらしい。 ︿見守りタイ﹀は西宮市のモデル事業。介護する人が リフレッシュしたい時や、用事があって外出したい時、 また介護が必要な一人暮らしの人などに、時間単位で見 守りゃ話し相手になる事業。﹁市の見守りは介護者支援 事業で介護者が同居の家庭にしか行けないのですが、 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ は で は ニ

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ズがあれば、どなたでも O 一 K ﹂。市の見守りと﹃さくらちゃん﹄の見守りが並行し一 ているところが強みなのだ。﹁実際に現場へ行って相手一 と触れ合うことで次が見えてくる。ニーズの掘り起こし一 になるんですわ﹂。訪問した一人の女性の希望を叶える一 ために﹃さくらちゃん﹄で歌声喫茶を臨時オープンした一 こともあるそうだ。丸ちゃんは実行の人である。 ﹁ か い ご 学 会 ﹂ で 学 ん だ こ と 一 学 会 を 一 口 で 表 現 す れ ば 、 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ の 拡 大 だ 。 関西学院大学の入り口やキャンパスの要所要所に﹁絶一 対迷わせません﹂と言わんばかりに大勢の案内係が配置一 されていた。丸ちゃんが方向音痴だからにちがいないと一 思いながら、方向音痴の私の心が落ち着いていく。 大学の一番広い教室を全国から集まった老若男女が埋一 めていた。前列に、介護者と一緒の車椅子に乗った認知一 症らしき老女も参加している。この光景に驚いた自分を一 戒める。ここは頭でっかちの学会ではないことをプログ一 ラ ム が 始 ま る 前 に 雰 囲 気 が 教 え て く れ た 。 プログラムの第一部は、介護︿しかられて、 か し こ く

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が テ

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マ。コーディネータ l は NHK 福祉ネット ワークでよく知られた三好春樹さん。パネリストに堺市 や広島市で宅老所を聞いている若者二人と三人の介護家 族 が 並 ん で い る の が 新 鮮 だ っ た 。 介護家族の女性からの﹁デイサービスで夫がケガをし ているので﹃どうしたん﹄と聞くと、﹃見ていないので わ か り ま せ ん ﹄ と 施 設 の 職 員 さ ん に 言 わ れ ま し た ﹂ と か 、 ﹁ 特 養 ホ l ムで、外に出たがる主人を止めようとした職 員の手を払ったそうです。それを暴力と言われ、ホーム を出されました﹂などの声をもとにした話が次元を越え ず に 繰 り 広 げ ら れ て い く 。 ﹁施設では事故やヒヤリハットは避けられないが、ヒ ヤリとしない職員がいるのは問題だ﹂﹁いつケガをした のかわからなくても、いつ気が付いたかは、はっきりす る必要がある﹂﹁介護者は老人から見れば権力者、暴力 者﹂﹁施設は事故を隠したり、ごまかしてはダメ。熱心 さ、率直さ、正直さがあればこじれない﹂などなど。施 設が悪いとか家族が悪いとか、悪者探しをするのではな く、声を徹底的に介護する側の問題として捉え考え合う ので、どうしょうもない問題が解決したように、聞く者 の 心 の 中 で 浄 化 さ れ て い く の だ っ た 。 介護者家族が﹁有料老人ホ l ムのトイレにパジャマが な る ﹀ 収納されているの、いやなんです﹂と言えば、﹁効率を一 考えてやってしまうのですね。トイレに置くのはいやだ一 という日本人の感覚を受け入れないとね。介護は文化で一 す よ ﹂ と 三 好 さ ん 。 三好さんが最後に言った﹁専門家は人体に興味を持つ一 が、生活や運命には関心がない。自の前のお年寄りの運一 命 に 関 心 を 持 っ て ほ し い ﹂ と の メ ッ セ ー ジ が 胸 に 響 い た 。 第二部のテ

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マは医療︿あれこれ知って、かしこくな一 る﹀。登壇者はドクター二人とライター、そしてここに一 も 介 護 家 族 が 二 人 い た 。 丸ちゃんが長尾ちゃんと呼ぶドクターはこ十四時間在一 宅医療を営んでいる。もう一人の松本医師は認知症専門一 の精神科医。講師紹介欄にある著書﹃喜怒哀楽でわかる⋮ 認知症のこころ﹄︵中央法規︶、﹃認知症を生きる思い一 出は薄れても希望の日々は消えない﹄︵昭和堂︶のタイ⋮ ト ル に 信 頼 感 や 興 味 が 湧 い た 。 一 話題は薬が中心になる。松本医師は非薬物療法を大事一 に し て い る そ う だ 。 一 介護家族の西村さんが印象に残った。彼女は夫を在宅一 で看病して二十一年、自分も七十歳を過ぎたという。 ﹃ さ く ら ち ゃ ん ﹄ の 常 連 さ ん 。 ﹁ 夫 は 荒 れ る の で 、 薬 を 飲 一 む の だ っ た ら 預 か る と い う 施 設 。 で も 家 で 薬 を 必 要 と 思 つ こ"'る 13

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たことはない﹂とキツパリ。私は夫の在宅看護を二年間 でギブアップしそうだつた感覚を思い出しながら彼女の 強さ、くやしさを思い、この発言に含まれている意味や 問 題 に 頭 を 巡 ら せ た 。 もう一人の家族、認知症の母を介護している有岡さん が﹁母は忘れていっていいんじゃないかと思う。感情は 豊かんです。枯れるが知く逝けばいい﹂と発言する。客 席の最前列で、そのお母さんが、第一部に登場した若者 二人に固まれて幸せそうに顔を高揚させ、何やら話をし て い る 声 が 会 場 に 聞 こ え て き た 。 第三部のテ

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マは、ご近所︵まじくって、かしこくな る﹀。愛知県長久手市長の吉田一平さんがゲストで、長 尾 ち ゃ ん と 丸 ち ゃ ん が 聞 き 手 。 吉田さんは ρ 時間に追われない国 H H 先生とか専門家 が誘導しない国 H 、名づけて H ゴジカラ村 H の元理事長 だ。雑木林の中にある﹃コジカラ村﹄には、温泉とかパー もある老人施設や、カリキュラムのないボ l ッ と し た 幼 稚園、誰でもいつでも預けることができる託児所、多世 代 交 流 住 宅 な ど ユ ニ ー ク な 施 設 が 作 ら れ て い る 。 ア ス フ ァ ルトで舗装されていない小道がそれらを繋ぐ。私も何度 か訪れた。雑木林の中の古民家で老人と子どもが遊ぶ、 時間が止まったような情景を思い出す。 その吉田さんが最近、市長になった。市長の仕事は一 ﹁まだようわからん﹂らしい。正直な人だ。力みが微塵⋮ も見られない。小学校区に H たまり場 N を作ると声を弾⋮ ま せ る 。 ﹁ 役 所 が 作 る の で は な く 、 市 民 み ん な で 作 っ て 、 オープニングの時には知り合いになっているように﹂ ﹁ふらっと立ち寄れる所、誰でも行ける所にする。今ま一 で は 目 的 が あ る 所 へ 目 的 の あ る 人 が 集 ま っ て い た け ど ね ﹂ 一 ﹁ 役 所 に 文 句 を 言 っ た り 、 お 金 で 役 所 を 使 う 社 会 は ダ メ ﹂ ﹁役所は何もしない。自分たちで解決してもらう。一緒一 に苦労すると隣の人が寝込んだらのぞくでしょう﹂と一 平さん。丸ちゃんが二平さんは市長になっても変わら一 ないね﹂と聞に入る。私は共感しながらも市職員たちの一 動 揺 を 想 像 し て い た 。 一 ﹁地域はわずらわしいもの。でもそのわずらわしいも一 のを宝物にするような町づくりをしたい﹂と吉田流で締一 め く く る 。 一 朝 十 時 か ら 夕 方 五 時 ま で 、 ぎ っ し り 詰 ま っ た ス ケ ジ ュ l 一 ルが、うなづいている聞に終わってしまった。重いテ

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一 マなのに最後まで好奇心を失わず、目を輝かせて向かっ てこられたのは、壇上の人たちが立ち話をしているよう一 に 、 自 然 で 飾 ら な い 言 葉 で 本 音 を 語 っ て い た か ら だ ろ う 。 いつの間にか客席と一体になっていて疲れなかった。

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そ の 後 懇 親 会 で 私 た ち は ま じ く っ た 。 家に戻り新聞を広げてみると、また孤立死・孤独死の ニュース。﹃さくらちゃん﹄のようなまじくる場が、一 平さんの計画にある小学校区に存在していたならと考え る 。 まだ学会の余韻が残るある日、八十三歳になる二人の 女性に﹁まじくる場﹂の話をした。二人は私の年上の友 人 で 、 共 に ひ と り 暮 ら し 。 R さんは時々、手料理の夕食 に 誘 っ て く れ 、 K さんは私がとっていない日本経済新聞 と 読 売 新 聞 の 切 り 抜 き を 一 週 間 分 ま と め て 届 け て く れ る 。 そのお返しに私は病院や買い物に付き合ったり、お布団 干 し に 行 く 。 R さんは﹁ご近所付き合いはごめんだわ。ほっといて という感じ。﹃まじくる場﹄なんでできても絶対行かな い わ ﹂ と 言 い 切 り 、 K さんからは﹁子どもは遠くにいて アテにならんから、ご近所が一番。ご近所があってひと り で 暮 ら せ ま す 。 ﹃ ま じ く る 場 ﹄ は 子 ど も に も よ ろ し い 。 あ ん た 、 い い 勉 強 し て き ま し た な あ 。 作 っ て ち ょ う だ い ﹂ と返ってきた。全く違った二人の反応を面白く思ったも の の 、 現 実 の 厳 し さ に 引 き 戻 さ れ た 。 介護のキーワードは﹁生活と人間関係﹂ ﹁かいご学会﹂以来、会場で買った本を毎日読んでい一 る。三好春樹﹃老人介護常識の誤り﹄﹃老人介護|じ一 いさん、ばあさんの愛し方﹄︵共に新潮文庫︶は門外漢一 の 私 に も 手 に 取 る よ う に よ く わ か る 本 。 三好さんは全国で行われている受身的な﹁介護教室﹂ を批判する。画一的で、一人ひとりの多様なニ

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ズ に 応 一 えていないと言うのである。﹁介護の時代が要求してい一 るのは生活と人間関係を大切にする新しい方法論だ。一 人ひとりのそれまでの生活をどれだけ知っているかが最一 大の武器になる。老人を大切にするとは老人の生活習慣一 を大切にすることであり、布団で寝ていた人には施設で一 も布団で、ベッドを使っていた人には同じベッドにとい うこと。そして現在の状況を変えるときには必ず老人の 了解をとること。たとえ理解できなくても、自分を大事一 にしようとしているか、それとも邪魔者扱いをしている一 かは、むしろ呆けている人の方が敏感に感じているはず一 だ﹂﹁ご飯を食べるようになって元気になったら、ふつ一 うの生活に戻そうなんて考えは逆で、ふつうの生活をす一 るからご飯が欲しくなり元気になるのです﹂と書いてあ一 る 。 読 み 進 む 分 だ け 、 私 の 中 の 介 護 の 常 識 が く ず れ て い っ た 。 ⋮ こ"'る 15

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﹃ 生 き 方 と し て の 宅 老 所 l 起業する若者たち﹄︵筒井 書房︶では、﹁かいご学会﹂でパネリストを務めた若者 たちが自ら起業した宅老所を紹介している。トラックの 運転手、自衛隊員、パチンコ店の店長などの職歴の持ち 主である彼らが﹁介護は資格でするものじゃない﹂﹁大 きな施設で働いたけど動物園みたいで辞めた﹂﹁手を握 ることや身体をさすることしかできないけれど﹂﹁時間 という観念が、ばかばかしくなってきました﹂﹁僕は人 生ではじめて真面目に勉強した﹂など、介護の世界のコ トバでないコトパが光る。専門家の存在が私の心の中で 薄 れ て い っ た 。 認知症の人と一緒にいる若者が﹁百年前は認知症とい う言葉はないから認知症の人はいませんでした。素のま ま出会って僕と君のような感じでいいんじゃないか﹂と 言う。これら若者の哲学と体力がこれからの H 介護 N を 変 え て い く に ち が い な い と 確 信 す る 。 もう一冊、本屋で目に飛び込んできたのが、垣谷美雨 ﹃ 七 十 歳 死 亡 法 案 、 可 決 ﹄ ︵ 幻 冬 舎 ︶ 。 七 十 歳 に な っ た ら 安楽死する法案が可決され、二年後の四月一日に施行さ れる社会が背景。姑の介護に疲れた専業主婦の一家が抱 える物語に、法案に対する国民の声がからみ、社会、家 族、個人のあり方に具体的な問題が提起される構成の小 説。ショック療法であろう、廃案になることは言うまで一 もない。小説の中で二人の若い介護職が﹁介護の資格つ て本来は最難関であるべきじゃないか。ヘルパーには寛一 大であること、老人に対しては礼儀正しいこと、医学知一 識、理学療法知識、臨機応変の行動が求められる﹂﹁物一 言わぬ相手の気持を汲み取ることもね﹂﹁それなのに低一 賃金﹂と話し合う場面がある。﹁かいご学会﹂では介護一 職の待遇の話は出なかったことを思い出した。﹁あっぱ一 れ ﹂ な の か 、 ﹁ 物 足 り な い ﹂ の か 迷 っ た 。 ﹁かいご学会﹂の会場は電車を四回乗り換えて最寄り⋮ の駅から徒歩十八分という不便な所。娘が﹁着いた時に一 は疲れているわ。お休みだから子どもと一緒に行き︵往一 路︶だけ送るは﹂と言ってくれる。地図では想像できな一 かったが、坂道のある住宅街で、わかりにくい場所だっ た 。 ﹁ 返 り は 駅 ま で タ ク シ ー を 呼 ん だ 方 が い い よ 。 夜 、 だ ⋮ か ら ね ﹂ と 娘 た ち は 返 っ て い っ た 。 ⋮ ところが、お昼頃、孫から﹁心配だから、夜まで待っ ている。終わり頃、メールして﹂と連絡が届く。助かっ一 たという安堵と、これなら私の老後は安泰かもしれない一 と い う 安 堵 が 重 な っ て 、 ち ょ っ ぴ り 幸 せ な 気 分 に な っ た 。

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こぺる刊行会2011年度会計報告 (2011/3/1∼2012/2/29) 3,041,605 274,002 98 3 ,315,705 95,320 15,000 1,260,000 863,638 436 918 52,750 75,885 458,000 主~旦よ L':,.58,194 収 入 購読料・一部売り 寄金 受取利息 支 出 編集費 通信費 印刷費 発送業務委託費 郵送費 消耗品費 払込手数料 原稿料 濃水飛山記 マ ﹁ 編 集 、 発 送 、 ご 苦 労 様 で す 。 ﹃ こ ぺる﹄は、歴史的役割を終えた、と いうことでしょうか﹂︵京都市 T さんて﹃こぺる﹄に歴史的使命など ありません。ただ京都部落史研究所 から所報﹃こぺる﹄の廃刊を告げら れたとき、即座に復刊を決めただけ のこと。わたしは誌名にふさわしく ﹁差別と人間﹂にかかわる発想・理 論・思想の枠組みの﹁コペルニクス 的転回﹂を目指してきましたが、い 6,624 15 846 273,429 575,494 L盟主盟旦 3,371,393 監 査 報 告 通帳等を監査したところ、金銭の処理、 帳票の処理が正確にされていることを認め ましたので報告いたします。 20012年3月31日 会計監査 資産(2012/2/29現在) 現金 十六銀行正木支店普通口座 ゅうちょ銀行普通口座 ゅうちょ銀行振替口座 ゅうちょ銀行定額(3件) 収支決算 かんせん、部落解放同盟は相変わら ず﹁差別糾弾と行政闘争﹂路線を堅 持していて、これでは﹁対話の新た な構築﹂などとても無理だとの思い を強く抱くようになりました。しか し、わたしはどうも勘違いをしてい たようです。読者のなかには﹁人間 観・生き合い方観・生き方観﹂を考 える素材として﹃こぺる﹄を受けと めてくださる方がたくさんおられた のですね。不明を恥じます。 マ﹁夫は認知症になり、もう読めな

くなりました。それでも、届くと机 上に枕元にこぺるを広げています。 私も時々こっそり読ませてもらって います。小さいけれどとっても大切 な冊子です。ありがたいことだと思 っています。今まで通り夫の名で届 けて下さい﹂︵久留米市日さん︶。 このような読者がおられることを肝 に 銘 じ 、 編 集 に 努 め ま す 。 マ ﹁ 藤 田 さ ん の ” 両 側 か ら 超 え る “ は 長い長い間、私の人との関わりの中 で打ち寄せる波のように絶えず響い ていました。最初に目にした時タイ トルにドキツとしたのです。でも、 読んで行くうちに人間の現実って哀 しいなと感じ、そしてこの人︵藤田 さんのことです︶は本気で関わって いると思ったのです。出会いが引き 起こす別の次元へのまなざしを頂い たのです。この感謝をご本人に伝え ることができる日を頂けるとは。こ れも意表をつく方のなさり方かもし れません﹂︵北アイルランド M さ んて﹃同和はこわい考﹄出版三十五 年目にいただいた感想文。﹁ありが た い ﹂ の 一 語 に 尽 き ま す 。 藤 田 敬 一 ︵ ロ ・ 4 ・ 9 記 ︶ 松田園広 発行者こベる刊行会(代表藤田敬一) 発行所 岐阜市西改田字川向 187 4 勝目敬一方 〒5011161 Tel.&Fax. 058 239 5348 E mailk fuJ1ta睦h6dion.nejp 印刷・発送 戸田写植(干叩1-603.1 岐庫品笠松町円城寺田8-1 Te凶日3'8-1864) 定価300円 年 間 購 読 料4000円 郵便振替 01010 7 6141 銀行振替十六銀行正木支店 乙ベる刊行会代表i盛田敬一名義 普通口座 1418253 - o, 空 第230号 ー〆I、二九ヨ 2012年5月25日発行

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二 三 十 号 二 O 一 二 年 五 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 一 二 年 五 月 二 十 七 日 第 三 稜 郵 便 物 認 可 定価 三百円

参照

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