一九〇七年八月三一日、ペテルスブルク――ある重要な協 約がイギリス・ロシア両国間で調印された。イランにおける 勢力範囲を画定し、アフガニスタンは英領、チベットは相互 不干渉としたこの協約は「英露協商」と呼ばれ、すでに締結 されていた露仏同盟・英仏協商とあわせて三国協商を成立さ せた。この英・仏・露三国協商と独・墺・伊三国同盟との対 立が、第一次世界大戦の基本的構図であることは誰でも知っ ているであろう。 ところで、イギリスは英露協商の前年に清朝との間で「西 蔵に関する条約」を締結していた。チベットにおける清の宗 主権と他国の干渉排除を約したこの条約なくして、英露協商 は成立し得なかった。 ロシア側はチベット譲歩の代償として、 モンゴルにおける権益を狙っていた。イギリス側の思惑はい
中亜探検両巨人の交流と
楼蘭「李柏文書」の発見
石見
清裕
Book Review A5判 456頁 勉誠出版 [本体 6500円 + 税] うまでもなく英領インドの守りにあり、そのためにチベット を緩衝地帯にしようとしたのである。イギリスがチベットか ら手を引く姿勢を見せたことが一つの要因となって、積年の ライバル、 ロシアは歩み寄った。今から一一〇年前の世界は、 このように緊張した情勢にあった。 スウェーデンの著名な地理学者・探検家で、楼蘭遺跡の発 見や 『さまよえる湖』 の著書として知られるスヴェン ・ ヘディ ンがチベット調査に乗り出したのは、まさに「西蔵に関する 条約」締結の直後であった。彼のチベット入りをイギリスが 認めるはずはない。ヘディンは新疆に行くと見せかけて英領 カレーを出発し、 チベット潜入を敢行したのであった。 ヘディ ン最大の業績といえるトランス・ヒマラヤ山脈発見は、この ときのことである。 白須淨眞編大
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内 陸 ア ジ ア 探 検 と 国 際 政 治 社 会ただし、 清朝の護照 (パスポート) を取得できなかったヘディ ンは窮地に陥り、護照発行の交渉を日本の京都、西本願寺の 大谷光瑞に依頼した。光瑞が北京政府と交渉したのは、英露 が チ ベ ッ ト 中 立 を 条 件 に 協 商 を 模 索 し て い る 真 最 中 で あ っ た。 中 央 ア ジ ア 探 険 で 知 ら れ る ヘ デ ィ ン と 光 瑞 の 両 巨 人 は、 こうして国際政治の水面下で接触したのである。 本書は、ここから始まる。まず、各章の題名と執筆者を掲 げ よ う ( 副 題 は 省 略 ) 。 下 手 な 紹 介 よ り も、 そ れ が 本 書 を 知 る いちばんの早道である。 〈総論〉 「光瑞とヘディンの国際政治社会」 (白須淨眞) 〈第一部〉光瑞とヘディンの交流とヘディンの来日 第一章 「光瑞とヘディンの交流」 (金子民雄) 第二章 「ヘディ ン の 日 本 招 聘 」 ( 白 須 ) 第 三 章「 ヘ デ ィ ン 来 日 と 日 本 政 府 及 び日本の諸機関の対応」 (安部弘敏) 第四章 「ヘディンの来日」 ( 高 本 康 子 ) 第 五 章「 ヘ デ ィ ン の 西 本 願 寺 訪 問 と そ の 記 録 写 真」 (白須) 第六章「ヘディンの見た西本願寺」 (菅澤茂) 〈第二部〉大谷探検隊の楼蘭調査と「李柏文書」 第一章「第二次大谷探検隊 ・ 橘瑞超の楼蘭調査とその波紋」 ( 金 子 ) 第 二 章「 西 域 長 史 文 書 と し て の﹃ 李 柏 文 書 ﹄」 ( 荒 川 正晴) 〈第三部〉関係資料の紹介と解説 資 料 一「 大 谷 光 瑞 が ヘ デ ィ ン に 宛 て た 電 報 と 書 簡 の 紹 介 」 ( 金 子・ 白 須 ) 二「 明 治 天 皇 の ヘ デ ィ ン﹃ 謁 見 ﹄ と﹃ 勲 一 等 瑞宝章﹄ 叙勲決定に係わる日本政府 (内閣) と関係各省の記録」 ( 白 須 ) 三「 ヘ デ ィ ン 歓 迎 に 対 す る ス ウ ェ ー デ ン 国 王 か ら の 関係者叙勲に係わる外務省と日本政府 (内閣) の記録」 (白須) 四 「アルマ著 “ Mein ・Bruder ・Sven ” が語るヘディンの来日」 ( 安 部 ) 五「 ﹃ 教 海 一 瀾 ﹄ 掲 載 の ヘ デ ィ ン の 西 本 願 寺 訪 問 の 記 録 」 ( 大 田 黒 綾 奈 ) 六「 ﹃ 中 外 日 報 ﹄ 掲 載 の ヘ デ ィ ン の 日 本 訪 問 の 記 録 」 ( 門 司 尚 之 ) 七「 橘 瑞 超 の 楼 蘭 調 査 に 関 す る ス タインの記録」 (金子) 〈 付 篇 〉 参 考 資 料 参 一「 大 谷 探 検 隊・ 大 谷 光 瑞 に 係 わ っ た外務官僚たち」 (江間さやか) 参二 「増訂橘瑞超略年譜」 (金 子) 第一部は、ヘディンの来日にスポットをあてる。 ヘディンが清朝の護照発行の手伝いを、全く交流のない人 間 に 頼 る は ず が な い。 大 谷 光 瑞 と ヘ デ ィ ン は、 少 な く と も 一 九 〇 四 年 三 月 よ り 文 通 が あ っ た。 き っ か け の 一 つ は、 ヘ ディンの第一回探検記“ Through ・Asia ” (﹃アジア横断﹄ ) の日 本語訳のようである ( 第一章 ) 。ヘディンはチベットから戻る
と、母国へは帰らずにその足で日本に向かった。日本滞在は 一九〇八年一一月~一二月のこと。この招聘は、表向きには 東京地学協会の主導によるとされるが、実は光瑞の招聘に地 学 協 会 と 外 務 省 が 相 乗 り し た と い う の が 実 情 だ と い う ( 第 二 章 ) 。 そ の ヘ デ ィ ン に 対 し て、 日 本 の「 官 」 側 の 対 応 を 追 っ たのが第三章。小村寿太郎はじめ諸機関の歓迎ぶりは、イギ リスの不信を買うこととなった。来日に対する新聞報道など の、いわば「民」側の対応を分析したのが第四章。ヘディン が 日 本 各 地 で 行 っ た 講 演 の 報 道 は、 「 海 外 雄 飛 」 に 向 か お う とする日本人の大陸イメージにチベットを組み込む役割を果 たしたという。 ところで、ヘディンの西本願寺訪問の際に撮影された一一 人が写る記念写真を見たことのある人は多いであろう。前列 右から二人目に光瑞が座り、左から二人目に和服姿のヘディ ンが座る、 あの写真である (本書カバー、 本体裏表紙にも使用) 。 あれほど有名な写真なのだから、写っている一一人が誰なの か、 私 は と っ く に 確 定 さ れ て い る の だ と ば か り 思 っ て い た。 ところがそうではないようで、 第五章は前列右端を九条紝子、 後列を左から薗田宗恵・大谷尊宝・大谷尊由・藤枝沢通・梅 上尊融・堀賢雄に比定。第六章は西本願寺の構造を分析。ヘ ディンが宿泊した三夜荘は門主の私邸、招き入れられた鴻之 間上段は門主以外は上がれない。したがって、光瑞はヘディ ンを特別の待遇で迎えたことになる。 第二部は、橘瑞超の楼蘭調査と李柏文書の史料的性格を取 り上げる。 橘瑞超が砂漠の中でなぜピンポイントで楼蘭遺跡に行きつ け た の か。 そ れ は、 ヘ デ ィ ン が 光 瑞 に「 東 経 九 〇 度、 北 緯 四 一 度 」 と い う ポ イ ン ト を 教 え た か ら で あ る。 そ の 地 点 を、 京 都 の 光 瑞 は ト ゥ ル フ ァ ン の 瑞 超 に 暗 号 電 報 ( 巻 頭 図 版 2) で知らせたのであった。その結果が、 瑞超による李柏文書 (巻 頭図版1) の発見につながった。 ところが、その発見場所が、ヘディンのいう楼蘭、すなわ ち オ ー レ ル・ ス タ イ ン ( 英 ) の い う L A 遺 跡 な の か、 そ の 南 方約五〇キロにあるスタインのいうLK遺跡なのかをめぐっ て、議論がおこった。そして森鹿三氏の提唱以来、LKが有 力視されていた。それに対して、かつて片山章雄氏は、当時 の『大阪毎日新聞』 『国民新聞』 『地学雑誌』に載った橘瑞超 の通信文・調査記・講演録などを調べて、LA説を提唱され た ( 片 山「 李 柏 文 書 の 出 土 地 」、 栗 原 益 男 先 生 古 稀 記 念 論 集『 中 国 古 代 の 法 と 社 会 』 汲 古 書 院、 一 九 八 八 年 ) 。 本 書 第 二 部 第 一 章 で 金子民雄氏は、橘瑞超のご子息照嶺氏が生前の父の認識を記 した金子氏宛て私信 (二〇九頁に写真) と、ハンガリー科学ア
カデミーで見つかった一九一〇年にロンドンでスタインと大 谷 光 瑞・ 橘 瑞 超 と が 面 談 し た 際 に ス タ イ ン が 取 っ た メ モ ( 第 三 部 資 料 七 ) な ど を 根 拠 と し て、 あ ら た め て L A 説 を 提 唱 さ れた。もはやLA説は動かないのではあるまいか。 そ の 李 柏 文 書 ( 前 涼 の 西 域 長 史 李 柏 の 書 簡 二 通、 龍 谷 大 学 大 宮 図 書 館 蔵 ) は、 こ れ ま で 書 簡 の 草 稿 で あ っ て、 李 柏 の 自 筆 に 対しても疑問視されていた。 第二章の荒川論文は、 トゥルファ ン文書や唐代の致書文書の書式などと比較し、李柏文書は西 域長史から西域諸国の王に宛てた公文書であり、西域長史府 の門下主簿・録事掾が作成して長史府に保管された原案であ るとする。 第三部は、関連資料の紹介と録文の提示。対応する章は見 当がつくであろう。多くに写真が付されており、極めて貴重 である。これらの資料群はいずれもおもしろく読むことがで きる。特に資料七には驚くほかはない。この第三部と参考資 料一を担当された安部・大田黒・門司・江間諸氏は、広島大 学の白須ゼミに所属され、授業での成果を踏まえているとい う。 献 身 的 な 努 力 に、 心 よ り 敬 意 を 表 し た い。 な お、 些 細 な こ と で は あ る が、 資 料 二 は「 ヘ デ ィ ン の 明 治 天 皇﹃ 謁 見 ﹄ ……」というべきではなかったか。 本 書 の 編 者 白 須 淨 眞 氏 は、 す で に『 大 谷 探 検 隊 と そ の 時 代』 (勉誠出版、 二〇〇二年) 、『大谷光瑞と国際政治社会』 (同、 二 〇 一 一 年 ) 、『 大 谷 探 検 隊 研 究 の 新 た な 地 平 』 ( 同、 二 〇 一 二 年 ) な ど の 専 著 を 刊 行 さ れ て い る。 か つ て 私 は、 迂 闊 に も 大 谷 隊 は 私 的 な 調 査 隊 だ と 思 っ て い た。 仮 に 各 国 の 探 検 家 が、
国家主導による調査ではなく学問研究のために私人として赴 いたものだとしても、それが国際政治に搦めとられない訳は なかった。世は帝国主義の時代であり、グレート・ゲームの 時代なのである。大谷探検隊をそうした国際政治の場に置い て相対化したのは、まさに白須氏の業績である。 そうした国際情勢下におけるチベット問題がスヴェン・ヘ ディンと大谷光瑞を結びつけ、それが橘瑞超の李柏文書発見 を生みだした。この点に焦点を絞ったことが本書の緊張感と 一貫性を保ち、読者に劇的な印象を与えることに成功してい る。 そのうえ、関係資料の多くがこの一冊に収められ、しかも 写真が付されて読者が目の当たりにすることのできる意義は 極めて大きい。今後、長く参照されることは間違いない。 同時に本書第二部は、李柏文書研究に新たな議論をまきお こすであろう。 本書には、興味深いエピソードが随所にちりばめられてい る。印象に残ったその一つ。楼蘭調査の後にカルカッタに到 着 し た 橘 瑞 超 は、 当 地 で 言 語 学 者 デ ニ ソ ン・ ロ ス ( 英 ) に 収 集 品 を 見 せ、 そ の 情 報 は ロ ス か ら 欧 州 の 専 門 家 に 知 ら さ れ た。 そ れ に 対 し て フ ォ ン・ ル・ コ ッ ク ( 独 ) は、 「 日 本 人 は 文 書 の 解 明 を あ な た ( ロ ス ) に ま か せ て ほ し い、 彼 ら が 学 問 の十分な素養をもっているとは思えない」旨の返信を送った ( 二 〇 二 頁 ) 。 ま た ス タ イ ン は、 先 述 ロ ン ド ン で の 橘 瑞 超 と 面 談の折、楼蘭での文書群の出土状況を執拗なまでに問いただ したという。ヨーロッパ人の東洋人蔑視感や発掘競争におけ る嫉妬心があったであろうが、それだけではなく、当時の西 洋の考古学から見れば大谷隊の学問的水準は低く見えたので あろう (二四頁) 。こういう資料を取り上げる点に、大谷探検 隊を客観視しようとする本書の態度の一端がうかがえるので ある。 (いわみ・きよひろ 早稲田大学)