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演 劇 文 化 の 研 究 の 研 究 会 において 宮 廷 劇 と 民 間 劇 の 類 似 金 華 婺 劇 調 査 から と 題 する 報 告 をされている(2) この 調 査 には 研 究 協 力 者 として 明 代 浙 江 の 社 会 史 を 研 究 する 要 木 佳 美 さんにもご 参 加

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婺劇観劇記 ―2012年2月・浙江省遂昌

松家 裕子 はじめに 訪ねた土地の道ゆく人々が何を感じ、何を考えているのか、見ているだけではわからな い。話をしてみるのはもちろんよい方法だ。しかし、短い時間では、話を聞くことのでき る人数も、その内容もおのずと限られる。このとき、土地の人々が楽しむ文学がたくさん のことを教えてくれる。歌やお芝居(や映画・ドラマ)も含む、広い意味でいう文学であ る。 中国の人々にとって、演劇がどれほど重要なものでありつづけてきたかは、何回言って も言いすぎることはない。お芝居を、経済的に余った部分を使って、趣味で見に行くもの だと思っていると、このことは実感しにくいかもしれない。しかし、中国では、演劇はも っと(精神的に)さし迫った必要があって見、聴くものだった。それは、文字を知らない 人、一生を同じ土地ですごす人に「今、ここ」ではない世界をありありと描いてみせ、ま た、神と人、人と人がつながるための大事なよすがにもなった。中国には、地域ごとに異 なる名前のついた多くの種類の伝統劇(1)がある。中国文化史における演劇の重要性は、 このことからもよくわかるであろう。外国人の目や耳に同じに見え、聴こえても、それら は地域によって用いられる言語(方言)が違い、発祥や成立の事情によって音楽や演目・ 内容がそれぞれに違う。同じ地域に数種類の伝統劇が併存していることも多い。 伝統劇といっても、20世紀に生まれた新しい劇種もあれば、明代あるいはそれ以前に 淵源をもつといわれる古い劇種もある。ここに報告する婺劇(ぶげき、Wu4ju4)は後者 に属する。婺劇は、浙江省中部の中核都市である金華を中心に、浙江省の中・西部から江 西省東部にかけて行われてきた。浙江省は中国において演劇がもっとも早く発達した場所 のひとつとされる。婺劇は浙江の内陸部、山間で展開して、原型をよく留める(「活化石」) とも言われる。地方劇の中でも、婺劇にたいする学術上の関心は高い。 わたしは、中国民間の歌謡やうたと語りによる芸能をおもな研究対象としており、これ らと密接なかかわりをもつ伝統劇にも関心を払ってきた。二年前、同じ『アジア観光学年 報』第12号に「評劇観劇記」を発表した。これは首都北京の大劇場における、有名劇団 の公演であった。それにたいし、今回は浙江省山間農村の村の行事としてのお芝居で、同 じ「観劇」の語を用いるのは適当でないかもしれない。これを「観劇記」としたのは、今 回の調査では時間と状況が許さず、村の人々や劇団の人たちに聞き取り調査をほとんど行 えなかったこと、現地の人々とともに芝居を楽しむことを基本姿勢として「観劇記」をシ リーズにしたいという希望があること、のふたつが理由である。 この調査は、富山大学の磯部祐子さんの主導で行ってきた民間芸能にかかわる調査のひ とつである。今回は、2月28日から3月2日にかけて、浙江省金華市を拠点に調査をし た。この婺劇は、2012年2月29日、浙江省麗水市遂昌県妙高鎮二都街村で見た。金 華市内ではうたと語りによる芸能「金華道情」の調査を行なったが、これについては別の 機会に報告する。いつもと同じように、中国側協力者との事前・事後の連絡、調査の準備 など、すべて磯部さんが行われた。この報告をわたしが書くことに同意してくださったこ ともあわせ、磯部さんに感謝したい。なお、磯部さんはこの調査にもとづいて、「清朝宮廷 - 100 -

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演劇文化の研究」の研究会において、「宮廷劇と民間劇の類似 ―金華婺劇調査から―」と 題する報告をされている(2)。この調査には、研究協力者として、明代浙江の社会史を研 究する要木佳美さんにもご参加いただいた。中国側では、黄霊庚教授をはじめ、浙江師範 大学の先生方にお世話になった。とりわけ李聖東教授は、金華から1泊2日で出かけたこ の婺劇の調査に同行し、協力を惜しまれなかった。また、金華市芸術研究所所長の包華升 先生は、多くの婺劇の資料を提供してくださった。これらの先生方をはじめ、この文章に かかわるすべての人たちに、感謝の意を表したい。 婺劇について 婺劇はもと「金華戯」と呼ばれていた。1949年、中華人民共和国成立の年に、金華 の古名「婺州」にちなみ、「婺劇」という、いわば雅名が公式に採用された。 婺劇は、先にも述べたように淵源が古く、中国演劇史の研究においても重要な劇種のひ とつとされる。淵源が古いといっても、その流れはひとつではなく、いくつかの系統の音 楽が合流して成立している。「高腔(こうこう、gao1qiang1)」、「昆曲(こんきょく、 kun1qu3)」、「乱弾(らんだん、luan4tan2)」、「徽戯(きぎ、hui1xi4)」、「灘簧(たんこ う、tan1huang2)」そして「時調(じちょう、shi3diao4)」つまり当時の流行歌がこれに あたる(3)。ここに言う合流とは、融合してすっかりひとつのものができ上がったという 意味ではない。婺劇の演目は、現在も上記の系統によって分類がなされている。婺劇は、 この地方の伝統劇の総称と言われることもある。 「高腔」は、元の時代に始まり、明代に一世を風靡した「弋陽腔(よくようこう、 yi4yang2qiang1)」という劇種から生まれた。弋陽腔はかなり広い地域にひろがったため、 中国各地に高腔系の地方劇がある。高腔の大きな特徴は、打楽器のみを用いること、合唱 がつくこと、である。高腔は、婺劇の源流のうち、もっとも古いものであると考えられる。 「昆腔」は、明代に生まれた「昆山腔」から出た。現存の地方劇「昆劇」は昆山腔の直 系の子孫で、その古さによって世界無形文化遺産に指定されている。昆劇は笛を主要な楽 器とし、優雅さ、優美さが身上である。しかし、婺劇の昆腔は早い時期にこれらの特徴を 失ったという。 「乱弾」は清代に生まれた。清代、昆劇は「雅部」と呼ばれ、それ以外の演劇は「花部」 と呼ばれた。乱弾はこの花部と深くかかわっていたもので、昆劇の優雅さと対照的なエネ ルギッシュなイメージである。 「徽戯」は、徽州(安徽省)から出たのでこの名がある。徽戯は京劇の源流のひとつで もある。この地域の演劇が広く影響を与えたのは、徽州・歙県が、山西商人とともに中国 の商人の代名詞ともなってきた新安商人の出身地であったことが原因である。 「灘簧」は清末、浙江で生まれた小規模な演劇である。婺劇のよく知られた演目のひと つに、この灘簧系の「僧尼会」(または「僧尼相会」)がある。若い僧と若い尼とが出会い、 思いを交わし、ともに還俗して結ばれるという単純なストーリーをもつ。短い喜劇で、ふ たりのかけあいや動作が見どころである。わたしは、1987年(月日は失念)、留学中の 上海で地方劇の連続公演があったとき、この婺劇「僧尼会」の上演を見た。いっしょに見 ていた古典演劇の研究者である上海大学の彭飛先生が、この公演を高く評価しておられた ことが印象に残っている。 - 101 -

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観劇まで 2月29日(水)、午前中に金華市内で「金華道情」の調査を行い、13:00に浙江師 範大学内のホテルを出発。黄先生らが手配してくださった車に乗って、同じ浙江省の麗水 市遂昌県へ向かった。一行は李先生、運転手の胡波平さん、磯部さん、要木さん、そして 松家の5人である。高速道路が整備され、また車が少ないので、時折、滑走路を走ってい るかのように感じることがある。浙江山中は緑したたる風景がつづき、山が早春の雨にけ ぶっている。李先生は北方の河南省から金華に移られて日が浅いためか、詩を研究対象に されているためか、あるいはその両方か、詩画の中にいるかのような景色をしきりに嘆賞 されている。遂昌に近づくと、道の両側に美しい家屋が並びだす。別荘だよと李先生が教 えてくださった。 遂昌は、明代、『牡丹亭還魂記』などを書いて、中国屈指の劇作家となった湯顕祖(とう けんそ、1550~1616)が知県を務めた場所として知られている。ちなみに、湯顕 祖とシェイクスピア(1564~1616)とは同年に没している。遂昌に行くことがで きたこと、その地で婺劇の上演を見ることができたこと、しかも村の一種の奉納芝居とい う古い形態の上演であったことは、たいへんうれしいことであった。 14:30、遂昌の市街地、すなわち、むかしの県城に着いた。目的地である「婺劇団」 を探す。運転手さんと李先生は、車の中から、あるいは車を降りて、尋ねられる。「消防署 (「消防大隊」)」の近くだというので、その所在地を問う。ところが、数人に尋ねても、返 ってくるのは「消防署の場所なんか聞いてどうするのだ」などということばだけで、必要 な回答が得られない。街がこころなしか荒んでいるように見える。運転手さんと李先生に よれば、近くに金鉱があるのだという。それと関係があるのかもしれない。現地のタクシ ーの運転手さんに尋ねて、ようやく場所がわかった。消防署は町の北のはずれにあり、そ の向かい、目的地の「二都街」は婺劇団の所在地ではなく、今日の公演が行われる妙高鎮 「二都街村」のことだった。 ここで、ことばのことを書いておかなくてはならない。この日の午前中、金華道情の聞 き取り調査で情報提供者となってくださった張根芳さんが、とくに我々の注意を促して、 こう言われた。金華では、ふつうの人たち(「老百姓lao3bai3xing4」)も普通話(公用中 国語)を話すことができるよ、街で試してみるといい。遂昌も事情は同じだった。山に隔 てられ、地区ごとの方言の差異が大きいために、公用中国語が浸透しているのだろうか。 あるいは、山間ではあるが、金華にしろ、遂昌にしろ、このあたりの町は古くから交通の 要衝であり、人の出入りが多いからだろうか。あるいは他に理由があるのだろうか。金華 のハム(「火腿 huo3tui3」)が全中国文化圏で有名になったのも、味だけが理由ではない のかもしれない。 教えられたとおり、やがて龍麗高速道路の高架が見えた。走ってきた平昌路を右すなわ ち東方向に折れ、ようやく芝居が行われる村の会堂に着いた。 会堂のとなりに、「華泰実業公司」の大きな工場があった。後日インターネットで調べる と、紙箱、紙製品の工場だった(4)。 広い道路を隔てた向かいに、新しい団地が見える。遂昌から郊外に抜けてすぐのこの地、 田畑が道路や建物にかわってまだ日が浅いのだろう。このあと劇団の団長さんにうかがっ てわかったことだが、この日の芝居は、村の人たちがこの団地で暮らせるようになったこ - 102 -

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道具・衣裳箱(「戯箱」) 会場となった二都街村の会堂(北側より) 会堂内 とを祝うためのものなのだった。中国政府は、低中所得者世帯向けの住宅(「保障性住宅」) の建設に力を入れている(5)。 村の会堂の前には、劇団用のバス や車が止まり、露店の屋根用のシー トも貼られていた。 会堂は新しくなく、古くもない。 中央奥が舞台、左手隅に楽屋がある。 平土間には、木製の長椅子多数と、 不足を補うためほうぼうから持ち寄 られたらしきさまざまな椅子が、い っぱいに並べられている。衣裳・道 具箱(「戯箱」)がいくつか置いてあ り、その表示によって、今日公演を 行う劇団が「浦江県婺劇団」である ことを知る。浙江師範 大学の黄先生が浦江の 人なので、つてをたど ってこの劇団と連絡を してくださったのだろ うか。 歩き回っていた人が 団長さんだとわかり、 少し話をうかがった。 林紅陽さん、今年45 歳(中国ではふつう数 え年を用いる)である。 団長を務めてすでに20余年と言われる。母親も母方の祖父もみな役者だった、自分も「老 生(らおしょん、lao3sheng1、成熟した男性役)」の役者だ、ということだったが、この 日は出演されなかった。夫人も劇団のメ ンバーだそうだ。今回、この場所では、 5夜連続の公演を行う。 巡業先の農村で出会ったので「ドサ回 り」の印象があったが、劇団のパンフレ ットをいただくと、A3厚紙二つ折り、 カラーのりっぱなものであった。それに よれば、浦江県婺劇団は1983年の創 設(6)。劇団員の全国レベルの受賞もあ り、中国中央テレビ局(「中央電視台」) にも登場した。浦江市の共産党委員会や - 103 -

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お化粧をする役者さんたち 市政府がバックアップしており、外国製の音響機器など最新の設備を備えている。最終面 の上演演目一覧には、「正本(物語り性のある長い演目)」26、「加演(縁起ものや立ち回 りなど短い演目)」24が挙がっていた。これは、公演の「施主」、すなわちお金を出す人 (たち)が注文(リクエスト)するためのメニューでもある。 このとき時間は16:00前後、開演予定の18:30まで2時間以上あったが、客席 にはすでに人がいた。やさしい顔をしたおばあさん。年齢は75歳で、80歳の夫君が少 し離れたところに座っておられる。芝居好きの仲間(「戯友」)からこの公演のことを聞き、 遂昌の市街地からかけつけた、という。帰宅の方法を心配して尋ねたら、息子さんが車で 迎えに来られるという。おばあさんは言われた。ここはいい。こうしてよそから来て椅子 にすわっていても、だれも文句を言わない。街中ならこうはいかない。いなかに行くと人 が親切だ。もっといなかに行くと、もっと親切だ。あちこち芝居を見に出かけているが、 「(人は)いなかに行けば行くほどよくなる(「越郷下越好」)」。 会場の外では、食事の準備もされていた。劇団のメンバー用だったのだろう。団長さん が、我々も食べるよう促してくださった。けれども、李先生と運転手さんが、まず宿を探 し、食事はそこでしようと言われ、いったん会場を離れた。 李先生と運転手さんは、二都街村に近い「春風魚頭」という名の自称「休閑酒店(リゾ ートホテル)」を選択された。日本の中途半端な郊外にあるホテルを想起して心配したが、 何も特別なことはなかった。設備が予想をはるかに越えて整っていた。 神さまと演劇 17:00、ふたたび会場に着く。会堂のあちこちで、役者さんたちが着替えや化粧を している。みな年齢が若く、ほとんどが20代であるように見えた。うかつだったのは、 役者さんの名まえを尋 ね忘れたことだ。録画 した上演時の電光掲示 板の表示、「浦江県婺劇 団」のインターネット 検索結果、いずれから も名まえが分からない。 会堂の入口のところ だけが2階建になって いるので、上がってみ た。屋内だがテントが 張られ、中にふとんを 敷いて2人の人が寝ていた。劇団の人たちであろう。この日はかなり寒く、巡業の苦労を 思った。 そこからホール方向へ口があったので出てみた。狭いテラスがホールに張りだしていた。 見れば、壁面に関羽が描かれている。どんなときでも(実写のテレビドラマでさえ)赤い 顔をしている関羽が白面であるのが不思議だが、「青龍偃月刀」を持ち、おなじみの関平・ 周倉が左右に控えているから、関羽であることは間違いがない。その前に線香と蠟燭が供 - 104 -

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関羽(中央)・周倉(左)・関平(右) えられている。神さまである関羽たちは通例どおり南面し、北向きの舞台と向かい合って いる。 ホールからこの壁画は見えな い。隠れているようにもみえる。 が、ここに関公さまがおわしま すことは、村人みなが知ってい ることだろう。供された蠟燭に は火がついていた。中国では共 産党政府のもと、民間信仰は「迷 信」とされて、蔑視あるいは危 険視されてきた。歴史をさかの ぼれば、民間信仰によって王朝 がひっくり返ったことも、一度 や二度ではなく、共産党でなく とも、政権は民間信仰をあまり 好まない。改革開放の時代になって緩和され、地域により、場所により、かなりオープン になっているところもあるが、人々はまだまだ安心していない。この壁画は、確かにある が見えにくい民間信仰の実態を、よく物語っているように思われる。 壁画の関羽はこの会堂で演じられるすべてのお芝居を見物することになるが、この日の 主賓は関羽ではなく、「社公」であった。社公は社の神、人々にもっとも近い、村の氏神さ まのようなものである。 17:30、神迎えが始まった。村長の鮑万林さんがドラをたたき、別の同年輩の男性 が線香を持ち、歩いて社公の祠に向かう。同行する村人はいない。ついて行ったのは我々 3人だけであった。祠は会堂の裏手にある。表の道を回り、3分ほどで着いた。祠のすぐ 南を、前述のように、龍麗高速道路が走っている。 この祠はなぜか北面していた。間口3mほどの小さな祠で、社公はその中央に祀られて いる。像はなく、壁に「航川坦正」と墨書された紙が貼られているのがご神体(のかわり) である。が、紙が破れてこの四文字しかわからない。向かって左の「航川坦福徳土地公公 之神」は、紙が破れておらず、フルネームがわかる。これは土地神である。向かって右に は、観音菩薩と財神がいた。いずれも市販の像である。西側の壁には、この祠の建造の収 支を記した紙が貼られていた。立ち退き料(高速道路建設にともなうものか)10000 元、村民の寄付6600元、計16600元が投じられた。この紙も破れていて時期がわ からない。だが、これだけのお金をかけたのだ。信仰がないはずはなかった。 神迎え役の男性が爆竹を鳴らし、蠟燭と線香に火をつけ、神さまを拝する。供えものを 置く台の上に酒杯6つと皿3枚が置かれていたが、これは空のままで終わった。 点火した線香を持ち、同じようにドラを鳴らして会堂まで戻る。会堂に着いたとき、ま た爆竹が鳴った。神さまを迎え入れることを示す儀式や行動は、これ以外には見られなか った。2人の男性は、2階への階段をのぼって行った。お芝居が始まってしまわないか、 そちらに気を取られ、線香の行く先を突きとめなかったのは失敗だった。しかし、ほかに 階上にはそれらしい場所がなかったから、社公は関羽とともにお芝居を見たのだろう。 - 105 -

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閙花台 芝居の前に ―「閙花台」 会堂内は、人でぎっしり埋まっ ている。1列に約20人、15~ 20列あったので、立ち見の人も 合わせ、450人前後がつめかけ ていただろう。雨模様の冷え込む 夜だったが、村のお芝居にふさわ しい、祝祭的な雰囲気が醸成され ていた。街の劇場での地方劇の公 演にはあまり見られない若い人や 子どもの姿も見える。 中国の伝統劇はすべて歌劇であ って、通常、上演のさい、字幕に よって歌詞が示される。費用、運搬、管理の負担や、中国における識字の状況などを考え ると、少し不思議な気がするが、この公演でも、赤字の華やかな電光掲示板が舞台両側に 設置されていた。この電光掲示板が上演前にも動いているのを、この日はじめて見た。今 日の芝居のためにだれがいくら出資したか、それが順に表示されていたのである。1人1 00元が多かったが、最 高1000元(約130 00円)出した人もいた。 18:30、チャルメ ラの音が響き、「閙花台 (にぎやかし、 nao4hua1tai2)」が始ま った。これは5分間あま りの楽団による合奏で、 楽団の技量の披露である とともに、開始の合図に もなっている。舞台の上 では、蝶の舞いなど、華やかな衣装をまとった女性たちの群舞がくりひろげられた。照明 器具がありったけの力を発揮していた。最後は男性たちによる立ち回りで締めくくられた。 中国の伝統劇の楽団の定位置は舞台の上手袖だが、この日は、場所がなかったのか、平 土間の右奥に陣取っていた。人数は7人。「司鼓」すなわち指揮役の太鼓奏者が、一段高い ところに座っている。ドラ、シンバル、二胡、揚琴が各1人。あとの2人はそれぞれ、二 胡とチャルメラ、キーボードとチャルメラを兼任している。打楽器は種類が多く、2人が さまざまな楽器を持ち替えるが、その中には西洋式の小太鼓もあった。キーボードも現代 のものである。公演をとおして、弦楽器のかげが薄く、打楽器と管楽器がよく響いていた。 これは、婺劇の特徴の表われである。 客席の様子。天井の隙間の奥に壁画がある - 106 -

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神々が天官大帝の前に勢ぞろい。「众唱」は合唱の意 吉祥劇 芝居の最初の出しものは、「文武八仙」であった。これは物語り性がなく、神さまが次々 登場し、祝福を授ける縁起ものの吉祥劇である。 まず8人の女性が群舞する。次いで玉皇大帝の配下の日直の神(「値日功曹」)である催 贛(さいかん、Cui1Gan4)が登場して、長い「起覇(きは、qi3ba4)」を見せる。起覇 は、立ち回り役が登場したときに行い、一定の様式にしたがって、身体の動きの美しさや 力強さを顕示するものである。催贛は男性だが、女性が扮している。そして「玉帝(玉皇 大帝)の命により、八仙の神々を招来せん」とうたう。 このあと神々が順に登場する。「八仙」といえば、呂洞賓、鉄拐李、漢鍾離、張果老、曹 国舅、何仙姑、韓湘子、藍采和の八人の組み合わせがもっともよく知られている。しかし、 ここに言う八仙はこれではなく、八人の神さま程度の意味である。 まず、魁星の神が現われる。異形で、動物風の面をつけている。魁星は文神、すなわち 学問の神さまであるが、ここでは格上の文神である文曲星にしたがって馬方を務め、露払 いとして登場している。「文曲星」と字幕には示されていたが、文昌帝君のことで、もっと もよく知られた文神である。 次いで、武神で ある武曲星が登場 する。「武曲星」は 「文曲星」に対す る神であるが、と くに他の名が当て られることはない。 露払いは孫悟空が 務める。棒術を披 露する。 関公(関羽)が これにつづいて登 場する。壁画の関羽像と相対していることになる。最後に天官大帝が現われ、「上元一品賜 福天官紫微大帝」と名のって玉座に座る。本来は、玉皇大帝が座るはずであるが、なぜだ か不明である。神々と女性たちが、天官の前に勢ぞろいし、「群臣は戦いをおさめ 階(き ざはし)の前 にぎやかに談笑する(衆群臣平息干戈、鬧哄哄階前談笑)」と、寿ぎのこと ばを合唱する。 このあと魁星が舞台に残り、「神童生まれて将来は、科挙の試験に首席で合格(「産生麒 麟児、得中状元郎」)」などとめでたい文句を唱えて、滑稽な踊りを見せる。 ひきつづき白面、黒面の二神が交替で登場する。白面はたれ気味の目で穏やかな面持ち、 黒面はギョロ目の憤怒の相で、お多福と鬼を想起させる。近くにいた男性に尋ねところ、 天官と財神だということだった。天官は「風と雨とは時宜を得て、国は泰平、民は平安(風 調雨順、国泰民安)」という、おきまりの吉祥句を記した掛け軸を示す。財神は馬蹄型の銀 貨(「元宝」)を持ち、舞台上を激しく動き回る。このとき村人であろう、平服の人が舞台 に出て、供物を捧げた。 - 107 -

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金華の古書店で見つけた婺劇の手書き台本 財神につづいて美しい女性が登場した。となりの男性によれば観音菩薩である。少し前 から舞台の端に姿を見せていた村長の鮑万林さんが、ご祝儀(「紅包hong2bao1」)とおぼ しき赤い袋を観音菩薩に渡した。観音菩薩はしばらく舞いを舞ってから、新たに表れた若 い男性とともに、客席に菓子(チョコレート)を撒いた。 この「文武八仙」の上演時間はおよそ40分であった。 のちに金華で浙江婺劇団による「文武八仙」のDVD(浙江音像出版社)を入手した。 役者ではない人が舞台に上がったこと以外、この日の公演と大きな内容の違いは認められ なかった。また、後日、金華の古書店で見つけた婺劇の手書き台本(後述)についても、 歌詞・セリフなど大きく異なるところはなかった。定番の上演であったのだと考えられる。 演劇は、親しく上演に接して はじめてわかることが多くある。 「文武八仙」のような演目は、 とくにそうであろう。金華の古 書店で見つけた婺劇の手書き台 本に、「文武八仙」が含まれてい た。40分の芝居も、台本にす れば3ページ半しかない。その 上、歌詞は、先に挙げたような 祈りと祝福のことばばかりで退 屈だ。しかし、舞台を見れば、 音楽あり、異形あり、滑稽な動 きあり、でとてもおもしろい。 音楽は、打楽器とチャルメラだけで、弦の音は少なくとも聴こえてはこなかった。後半、 魁星の踊り以降は、管楽器の音もやみ、打楽器だけになった。打楽器だけでも、リズムが とても魅力的だ。最後にお菓子が撒かれて会場が盛り上がったことは、言うまでもない。 この吉祥劇のあと、村長の鮑万林さんが再び舞台に登場し、1分にも足りなかったが。 演説をした。客席のざわつきとなまりのためによく聴きとれなかったが、「長いあいだ、こ の村で芝居が途絶えていた!」(だが、今や)「新しく家ができた!」と、ときにこぶしを 出して言っておられた。 立ち回り劇 次に演じられたのは「泗洲城」であった。これは、京劇でもよく知られた演目である。 『京劇劇目初探』(7)によって、あらすじを示す。 泗洲(ししゅう)虹橋(こうきょう)の水神、水母娘娘(shui3mu3 niang2niang、「娘 娘」は女神に用いられる敬称)が烏延玉という男を見初めた。水母娘娘は人間に姿を変え、 烏延玉を水の世界に引き入れる。烏延玉は、水母娘娘が胸に宝珠を掛けているのを見て欲 しがり、水母娘娘はこれを与える。烏延玉は、すると、水母娘娘を酒に酔わせ、宝珠を持 って人間界に逃げ戻る。怒った水母娘娘は、泗洲全域を水に浸す。これを知った観音菩薩 は、配下の神々を遣わして水母娘娘と戦わせるが、だれも水母娘娘にはかなわない。とう とう自ら出馬して、水母娘娘を捕えたのだった。 - 108 -

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この日の上演は、観音菩薩が登場して、孫悟空に水母娘娘退治を命じるところから始ま り、観音菩薩の出馬を待たず、孫悟空が水母娘娘を退治して終わった。音楽は、打楽器が ほぼ鳴りどおしであった。すなわち、全篇、孫悟空とその配下、水母娘娘とその配下、双 方の闘いに終始し、立ち回りと舞いを見せる演目であった。 途中、右どなりに座っていた男性が、年齢を尋ねてきた。傅金平さん、55歳で、金鉱 で働いている。年齢を尋ねたのは、話のきっかけだったらしい。傅さんの話では、むかし、 遂昌にも婺劇団があったが、つぶれてしまったという。今は遂昌には愛好家の劇団がある だけだ。自分もそれに参加している。今年80歳の母親は、花旦(ホアタン、hua1dan4) の役者だった。「あのトンボは力が弱い(「没力mei2li4」)」など、批評も聞かせていただ き、勉強になった(8)。 主要長篇劇 最後に主要演目が登場した。「情義状元(じょうぎじょうげん、qing2yi4zhuang4yuan2)」 と題されていたが、京劇などで、「香羅帯」の名で知られている出しものである(9)。開始 時にすでに20:00をすぎていた。 この日演じられたあらすじは次のとおりであった。 第1場 貧しい書生、陸世科が雪の中を行き倒れている。そこに、武挙人(武術方面の 科挙の地方試験に合格した人)である唐通が通りかかり、これを助けて、息子の住みこみ の家庭教師に招く。陸世科は男性であるが、演じているのは女性である。 第2場 唐通の家。唐通の妻の林慧娘、あまり賢くない息子の唐芝、そして小間使いがい る。遊び人の林慧娘の従弟(道化役)が金の無心に来ている。さて、唐通は杭州の友人に 会いに行くことにするが、林慧娘が陸世科をあまりにほめるので、ふたりの仲を疑う。息 子の唐芝は、唐通が不在のあいだそのふとんを先生である陸世科に着てもらおうと、陸世 科の部屋までこれを届ける。 第3場 夜、陸世科は体調の不良を感じて早めに休む。そこへ帰宅した唐通が訪ねて来 る。みれば、陸世科の机の上に妻の帯(「香羅帯」)がある。唐芝がふとんを持ってきたと きに誤って落としたのだが、唐通はふたりへの疑念をますます強くする。 第4場 唐通は妻の林慧娘を問いただし、知らないという妻を、しらを切っているのだ と思って、激しく叱責する。 第5場 夜更けであるが、林慧娘は唐通に言われるまま、陸世科の部屋の前まで行き、 扉の外から、開けてくださいと言う。陸世科は拒絶するが、唐通はなおも林慧娘に「帯を 差し上げましたのに」と言わせる。と、林慧娘はその場から逃げ出し、自ら命を絶とうと する。小間使いと唐通がこれを追う。陸世科は書置きを残し、唐家を出る。 第6場 唐通は妻の自殺を止め、潔白を知って謝るが、林慧娘は許さず、出家すると言 いだす。唐通と息子の唐芝は思いとどまるよう嘆願するが、林慧娘の決心は固い。そこで 帯の話になり、唐芝が「ぼくが持って行ったんだ」と言って、疑いがすっかり晴れる。し かし、陸世科はすでに家を出ていた。 第7場 唐通は武挙の試験を受けるために家を離れ、野宿をする。身に妻の帯をまとっ て眠っているところへ強盗がやって来る。取っ組み合いになり、唐通は強盗を殺してしま う。 - 109 -

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第 8 場 岡 っ 引 き (「地保」。道化役)が 帯を持って登場。遺体 が見つかりそれを調べ に来たのだ。 第9場 林慧娘の従 弟が、またも金の無心 のために唐家にやって くる。渋る林慧娘にま とわりついているとこ ろに、岡っ引きがやっ て来て、ふたりの仲を疑う。岡っ引きから、遺体のそばにこの帯が落ちていた、と聞かさ れ、林慧娘は夫が殺されたものと嘆き悲しむ。一方、従弟は喜び、林慧娘におれと結婚し ようと言い出す。岡っ引きはそこでこの帯を証拠として、林慧娘と従弟を唐通殺害の罪で 捕える。ふたりは、裁きの場に引きずり出される。この場面は、ふたりの道化の掛けあい、 また悲痛な林慧娘と道化たちとの対比がみものである。林慧娘の拷問の場面で、舞台を撮 影する人が複数いた。 第10場 裁きの場面。唐家を出てから、科挙を受けて首席合格(「状元」)し、堂々た る役人となった陸世科が登場する。陸世科は林慧娘を淫婦だと思っているので、冤罪であ るとは思いもよらず、斬首を命じる。この間、唐通は武挙の試験に状元で合格していた。 唐芝、そして小間使いが林慧娘に面会に来るが、3人はまだ唐通の合格を知らず、悲嘆に くれている。 陸世科が執行を促すところへ、唐通が登場。唐通が殺されていなかったことが判明する。 また、陸世科は、むかしの帯のこと、林慧娘の誘惑のこと、すべてのいきさつを知り、団 円となる。 上演時間は約2時間、終演は22:30前後だった。途中、少しずつ人が減り始め、最 後には、おそらく3分の1くらいになっていた。夫婦の団円を確認できたところで、たく さんの人が席を立った。終演まであと数分だったのだが、時間が遅かったからだろう。い ろいろ教えてくださった傅さんは、明日も仕事だから、と21:00ごろ帰って行かれた。 演技の質は高かった。役者さんがみな若く、声もとおって、はつらつとした上演だった。 終演後も、わたしは気分が高揚していた。かつらや衣装をすでにとっておられたが、主要 3役の役者さんにたちに声をかけ、団長さんもいっしょに写真を撮ってもらった。林慧娘 を演じたのは、河南省からやってきた人だということだった。地元で生まれ育たなくても、 地方劇をうたうことができる。これはこの日はじめて知ったことであった。婺劇がこの地 方で自然発生的に生まれたものではなく、最初から他の地方の劇種とかかわりあって生ま れたことによるのだと考えられるが、正確なことをいうためには、今後の研究に俟たねば ならない。 ビデオカメラは中国の農村部ではまだそれほど普及していない。三脚を立てて撮影して いると、たいていは新聞社か放送局か、と尋ねられる。この日も何度かそのように尋ねら れた。芝居がおわり村の会堂を出るわたしに、うしろからこう声をかける人もいた。「今日 大団円(左から小間使い・唐芝・林慧娘・唐通・陸世科) - 110 -

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撮った動画、ネットに上げるのかい」。答えはもちろんNOであるが、村芝居とインターネ ット、意表を突かれる思いだった。 しかし、どこから来たのか、何をしに来たのか、敵意や警戒心をもって誰何されること は、一度もなかった。何も言わずに紅茶のペットボトルを差し出してくれた人(男性)も いて、不思議な気がした。劇団の団長さんは、お茶卵(「茶葉蛋」)を袋に入れて、たくさ んくださった。傅さんと逆の左どなりに座る男性に、話の行きがかりで日本から来たと知 らせたら、「今年、日本は大雪らしいな、たいへんだろう」と見舞いのことばが返ってきた。 会堂は壁と屋根はあるが、かなりオープンな空間である。気温はかなり下がっていた。 もちろん暖房は一切ない。暖かさのもとは、舞台の照明を除けば、人間だけであった。 おわりに 金華にもどってから、婺劇の資料をたくさん入手することができた。 ひとつは、金華市芸術研究所を訪問したことによる。短時間だったが、ここで、所長の 包華升さんが、『中国婺劇史』をはじめ、多くの資料を譲ってくださった。包さんは婺劇の 役者であり、また研究にも打ち込んでいる人である。現在、日本の中国関係書籍取扱い書 店で購入できる、婺劇の数少ない書物のひとつ『浙江婺劇手写孤本劇目集』(中国戯劇出 版社、2010年)は、包さんの編著になる書である。この本もいただいた。 もうひとつは、先にも触れた、金華の古書店で、手書きの婺劇の台本5冊を見つけたこ とである。旧城内、古子城地区のふつうの古書店で、ほんの数冊置いてあった和とじ本(「線 装本」)がこれだった。墨書だけのもの、墨書とペン書きの混じるもの、両方がある。一部 だが、工尺譜(楽譜の一種)も付いている。うち2冊に、それぞれ民国34年(1945) と民国35年(1946)の年代が記されている。次回、包先生にお目にかかったとき、 お見せする必要がありそうだ。 その土地の人が楽しんでいる文学が、その土地の人が感じていること、考えていること を、よく教えてくれるとはじめに述べた。文字の力は大きい。その土地に行かなくても、 話をきくほどの時間をかけなくても、文字によってたくさんのことを知ることができる。 一方で、文字をつうじてわかることには限界がある。台本だけを読んで、「文武八仙」の 魅力を理解することはむずかしい。この演目に社公が登場しないことは、その場にいると あまり気にならないが、文字をとおすと矛盾に見えることだろう。「情義状元」を読んで、 この演目が、団地の新築への感謝と招福のために、社公を招き、奉納芝居として、この記 録に述べたように上演されることを想像することは不可能であるし、だいいち、実地に見 ないでそのようなことを言っても、だれにも相手にされない。依代である紙が破れた社公 と、壁に描かれた顔の白い関公への信仰についても、「ある」「ない」の二分法で解決しよ うとすると、実態を見失うことになる。文字を過信すると、あることをないことにしてし まい、局部的には正しくとも全体を見誤ってしまうことがある。 そうはいっても、調査の報告もまた、文字で記すほか方法がない。読んで行って、行っ て読んで、文献研究と実地調査の世界を、謙虚さをもって往還しつづける必要があるのだ ろう。 村の芝居といえば、中国の文学に親しむ人の多くは魯迅のことを言う。短篇小説集『吶 - 111 -

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喊』に「社戯(竹内好の訳は「宮芝居」」を思い出すからである。「社戯」はもちろん思い 出せるほうがいい。けれども、あたりまえだが、村の芝居は魯迅だけのものではない。こ の短篇の背後に、数知れない人たちの村芝居の経験がある。この文章が、その一端を知ら せるものになっていることを願っている。 注 (1)「伝統劇」は、ここでは、西洋の影響を受けて生まれたセリフを中心とする劇を「現 代劇」と呼ぶのに対していう。 (2)科学研究費特別推進研究「清朝宮廷演劇文化の研究」第12回研究会、2012年 4月12日(土)。 (3)金華市芸術研究所編著『中国婺劇史』中国戯劇出版社、2006年参照。包華升先 生が提供してくださったこの書物が、目下、婺劇についてもっともまとまった参考文献で あろう。また、『中国大百科全書』戲曲曲芸巻(中国大百科全書出版社、1983年)、譚 偉・盧笑鴻執筆「婺劇」の項、『中国戲曲劇種大辞典』(上海辞書出版社、1995年)、譚 偉執筆「婺劇」の項も参照。 (4)「中国経済普査企業名録」→「名録集」による。 http://pucha.mingluji.com/%E9%81%82%E6%98%8C%E5%8D%8E%E6%B3%B0%E5% AE%9E%E4%B8%9A%E6%9C%89%E9%99%90%E5%85%AC%E5%8F%B8 (5)劉家敏「見直し進む中国の住宅政策」(みずほ総合研究所、みずほインサイト、アジ ア) http://www.mizuhocbk.co.jp/fin_info/overseas/cndb/report/mizuhori/pdf/R208-0082-XF-0105.pdf、閻和平「中国における住宅保障制度と住宅政策の展開」大阪商業大学論集 5(1), 2009年5月参照。 (6)「浦江論壇」サイト http://www.pjbbs.com/forum.php に、2010年4月19日付 で「大多数の浦江人はもとの浦江県婺劇団の解散を悔しく残念に思っていることと信じま す」という文が見られる。役者さんも楽器奏者も若い人ばかりなのは、このためだろうか。 劇団の歴史は単純なものではないことがうかがわれる。 (7)陶君起編著『京劇劇目初探』増訂本(中国戯劇出版社、1980年)、398ページ。 (8)専業の俳優を母にもち、自身も心得のある傅さんは、あるいは、遂昌にプロの婺劇 団がないことについてある思いがあり、わざわざわたしに説明をされたのかもしれない。 (9)『京劇劇目初探』(前掲)339ページ、『京劇劇目辞典』(中国戯劇出版社、198 9年)946~947ページ、『中国劇目辞典』(河北教育出版社、1997年)457ペ ージ参照。これらによれば、京劇「香羅帯」は、梆子(bang1zi)系の劇の演目「三疑計」 を改作して成ったもので、1927年に初演されたという。時代は明末である。京劇では、 唐通ははじめから守備という官位にあって、武挙及第の話は出てこない。これは、めでた さを添えるために、婺劇で加えられたものと考えられる。地付きの劇種は、京劇よりも、 ご祝儀としての性格、いわばおめでたさがより要求されるからであろう。 この報告は、2012年度科学研究費・基盤研究(C)「中国唱導文藝研究 -浙江にお ける実態調査-」(代表者:松家裕子)の成果の一部である。 - 112 -

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