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カ 頭 び 置 近 字 * * * 付 付 ご 末 尾 移 キ 底 自 筆 具 暦 巻 明 稿 具 暦 分 便 宜 小 寅 甲 壬 辰 小 干 支 干 支 加 ク 字 考 説 明 示 ケ 付 新 訂 増 系 便 宜 世 コ 検 付 ゴ シ ッ ク 体 使 用 村 田 志 訳 宸 続 群 完 成 分

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全文

(1)

『花園天皇日記

(花園院宸記)

』正和二年正月記

訓読と注釈

花園天皇日記研究会編

例   言 一、 本 稿 は、 花 園 天 皇( 永 仁 五 年〔 一 二 九 七 〕 ~ 貞 和 四 年・ 正 平 三 年〔 一 三 四 八 〕 。 以 下、 花 園 と 略 す ) の 日 記 で あ る 『 花 園 天 皇 日 記 ( 花 園 院 宸 記 ) 』 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 正 月 記 の 本 文 に つ い て 、 訓 読 ・ 注 釈 を 加 え た も の で あ る 。 一、本文校訂の基準・形式は以下の通りである。 ア   村 田 正 志 校 訂『 史 料 纂 集 花 園 天 皇 宸 記 』 第 一( 続 群 書 類 従 完 成 会、 一 九 八 二 年 ) の 鉛 印 を、 宮 内 庁 書 陵 部 編『花園院宸記』巻六(思文閣出版、一九九四年)の自筆原本複製および釈文と対照して訂正した。ただし、 史料纂集の鉛印を是とすべき箇所はこれを残した。 イ   字体は、原則として常用漢字を用いた。 ウ   私意を以て句点(。 ) ・読点(、 ) ・並列点(・) ・返り点を付し、くりかえし記号は「々」を以て示した。 エ   塗抹による判読不能の文字は、■記号を以て示し、抹消された文字は、左傍に 〻 記号を付した。また文字の 上に重ねて別の文字を書いた箇所は、後に書かれた文字の右傍に傍点を付し、訂正前の文字を左傍の〔   〕 記号の中に × を冠して注した。 オ   原本において、挿入記号を以て文字を補った部分は、挿入記号を用いず本文に入れ込んだ。

(2)

カ   頭書および裏書は、その位置にもっとも近い本文の文字に*記号(裏書は**記号)を付し、日付ごとに本 文の末尾に移した。 キ   底本とする自筆原本は、正和二年具注暦(上下二巻、間明き三行)に記入したものであるが、本稿では日記 の 本 文 を 具 注 暦 よ り 分 か ち、 便 宜 上 本 文 に は〔 正 月 小 建 甲 寅 〕 〔 一 日、 壬 辰、 〕 の よ う に、 月 と そ の 大 小・ 干 支、 日とその干支を加えた。 ク   文字に関わる注は〔   〕記号、参考・説明にわたる注は(   )記号を以て示した。 ケ   一 部 の 人 名 に 付 し た 注 は 、 新 訂 増 補 国 史 大 系 『 公 卿 補 任 』 を 参 照 し 、 便 宜 上 、 後 世 の 家 名 を 記 し た も の が あ る 。 コ   記事を検出しやすくするため、日付については、ゴシック体を使用した。 一、 訓 読 は、 村 田 正 志『 和 訳 花 園 天 皇 宸 記 』 第 一( 続 群 書 類 従 完 成 会、 一 九 九 八 年 ) を 参 照 し、 異 見 の あ る 部 分 は 適宜これを改めた。また、内容に応じて改行を行った。 一、注釈には、 『古事類苑』 、和田英松註解・所功校訂『新訂 建 武 年 中 行 事 註 解 』 ( 講 談 社 学 術 文 庫 、 一 九 八 九 年 。 初 版 一 九 三 〇 年 ) を 始 め と し て、 『 岩 波 仏 教 辞 典 』 、 『 角 川 古 語 大 辞 典 』 、 『 鎌 倉・ 室 町 人 名 事 典 』 、 『 国 史 大 辞 典 』 、 『国書人名辞典』 、 『大漢和辞典』 、 『日本国語大辞典』 、 『日本史大事典』 、 『日本仏教人名辞典』 、 『平安時代史事典』 、 『有識故実大辞典』などを参照したが、一々の記載は省略した。 一、 注 釈 に 示 し た 史 料 は、 以 下 の も の に 拠 っ た( 五 十 音 順 ) 。 一 部 の 叢 書( 史 料 纂 集・ 新 訂 増 補 国 史 大 系・ 新 訂 増 補 故実叢書・神道大系・新日本古典文学大系・増補史料大成・続神道大系・大日本古記録・日本古典文学大系)に 収められた史料や漢籍・仏書については記載を省略した。 ・『園太暦』→岩橋小弥太・斎木一馬校訂『園太暦』一(続群書類従完成会、一九七〇年。初版一九三六年) ・『王沢不渇抄』→国文学研究資料館編『真福寺善本叢刊一二 漢文学資料集』 (臨川書店、二〇〇〇年) ・『 御 手 印 遺 告 』 →『 宸 翰 英 華 』 六 二、 『 鎌 倉 遺 文 』 三 七 — 八 七 七 九。 赤 松 俊 秀 解 説『 国 宝 後 宇 多 天 皇 宸 翰 御手印遺告』 (複製本、大塚巧芸社、一九七二年)も参照。

(3)

・『 海 蔵 和 尚 紀 年 録 』 → 続 群 書 類 従 伝 部。 龍 谷 大 学 大 宮 図 書 館 所 蔵 享 保 十 一 年 退 耕 庵 加 点 版 本( 〔 請 求 記 号 〕 二九六.五/三二四W)も参照。 ・『河海抄』→玉上琢彌編、石田穣二・山本利達校訂『紫明抄 河海抄』 (角川書店、一九六八年) ・『華頂要略』→天台宗全書 ・『吉口伝』→続群書類従雑部 ・『禁秘抄』→群書類従雑部 ・『公事根源』→関根正直『修正公事根源新釈』 (第一書房、一九八六年。初出一九二五年~一九二七年) 。京都 大学附属図書館所蔵平松文庫本( 〔請求記号〕四/ク/一)も参照。 ・『建武年中行事』→和田英松註解・所功校訂『新訂 建武年中行事註解』 (前掲) ・『御質抄』→続群書類従釈家部 ・『御侍読次第』→京都大学附属図書館所蔵清家文庫本( 〔請求記号〕一 —六九/コ/一貴) ・『金剛寺文書』→『大日本古文書 金剛寺文書』九八、 『鎌倉遺文』二七 —二一〇三二 ・『座主宣下記』→国立公文書館所蔵内閣文庫本『押小路文書』七四( 〔請求番号〕古〇一一 —〇二八四) ・『三節会次第』→群書類従公事部 ・『社務補任記』→須磨千頴「賀茂別雷神社「社務補任記」 」 ( 『賀茂文化研究』二、一九九三年) ・『叙位除目執筆抄』→宮内庁書陵部所蔵三条西本( 〔函号〕四一五 —二七〇) ・『常楽記』→群書類従雑部。阪本龍門文庫所蔵本( 〔善本書目番号〕二一三)も参照。 ・『真言付法血脈 仁和寺 』→武内孝善「東寺観智院金剛蔵本『真言付法血脈 仁和寺 』 」 ( 『高野山大学密教文化研究所 紀要』六、一九九三年) ・『神木御動 坐 〔 座 〕 度々大乱類聚』→国立公文書館所蔵内閣文庫本( 〔請求番号〕古〇二三 —〇三八一) ・『井蛙抄』→『歌論歌学集成』一〇(三弥井書店、一九九九年)

(4)

・『夕拝備急至要抄』→群書類従公事部 ・『仙洞御灌頂記』→歴代残闕日記一六 ・『塵袋』→大西晴隆・木村紀子校注『塵袋』全二巻(平凡社東洋文庫、二〇〇四年) ・『東寺長者補任』→続々群書類従史伝部。湯浅吉美「観智院に蔵する『東寺長者補任』の異本について」 ( 『成 田山仏教研究所紀要』二三、二〇〇〇年)も参照。 ・『 東 寺 百 合 文 書 』 ろ 函 三 →『 大 日 本 古 文 書 東 寺 文 書 』 一 — 函 三・ 『 鎌 倉 遺 文 』 三 二 — 四 七 七 二、 同 な 函 二 〇 →『 鎌 倉 遺 文 』 三 三 — 二 五 六 二 九、 同 ゐ 函 一 一 → 早 稲 田 大 学 大 学 院 中 世 史 ゼ ミ「 『 鎌 倉 遺 文 』 所 収「 東 寺 文書白河本」の校訂(7) 」三五一( 『鎌倉遺文研究』七、二〇〇一年) ・『 東 寺 本 天 台 座 主 記 』 →『 東 寺 文 書 』 乙 号 外 五 — 〇 五( 京 都 府 立 総 合 資 料 館 架 蔵 写 真 帳、 〔 資 料 番 号 〕 中 複 製S〇〇一) ・『日中行事』→和田英松註解・所功校訂『新訂 建武年中行事註解』 (前掲) ・『女院御出家部類記』→宮内庁書陵部所蔵伏見宮本( 〔函号〕伏 —六〇九) ・『 仁 和 寺 諸 院 家 記( 恵 山 書 写 本 ) 』 → 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 編『 仁 和 寺 史 料 寺 誌 編 一 』 ( 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所、一九六四年) ・『年中行事絵巻』→日本絵巻大成 ・『後称念院装束抄』→群書類従装束部 ・『 日 吉 社 叡 山 行 幸 記 』 → 川 端 善 明「 日 吉 社 叡 山 行 幸 記 」 ( 岡 見 正 雄 博 士 還 暦 記 念 刊 行 会 編『 室 町 ご こ ろ 』 角 川 書店、一九七八年) ・『 伏 見 院 御 落 飾 記( 岡 本 関 白 記 ) 』 → 続 群 書 類 従 釈 家 部。 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 蔵 本( 〔 請 求 記 号 〕 四 一 七 三 — 一二八)も参照。 ・『冬定卿記』→歴代残闕日記一五

(5)

・『本朝伝法灌頂師資相承血脈』→『大日本古文書 醍醐寺文書』一 —二七九 ・『松屋筆記』→国書刊行会叢書 ・『門葉記』→大正新脩大蔵経図像部 ・『濫觴抄』→群書類従雑部。京都大学附属図書館所蔵菊亭文庫本( 〔請求記号〕菊/ラ/三)も参照。 一、注釈に頻出する典拠の表示には、以下の略号を用いた。 『 花 園 天 皇 日 記 』 =『 花 園 』 、 『 尊 卑 分 脈 』 ( 新 訂 増 補 国 史 大 系 ) ○ 巻 △ 頁 =『 尊 卑 』 ○ — △、 『 公 卿 補 任 』 =『 公 補』 、 『建武年中行事』=『建武』 一、本稿の内容は、二〇〇五年四月よりほぼ毎月一回、花園大学国際禅学研究所において開催している本研究会の輪 読 の 成 果 を 踏 ま え た も の で あ る。 本 文 校 訂・ 訓 読 の 担 当 は 坂 口 太 郎、 注 釈 の 担 当 は、 正 月 一 日・ 六 日・ 七 日・ 十二日条が長村祥知、八日・九日条が村山識、十三日条が芳澤元、十四日条が金正文、十五日・十六日条が坂口、 二十八日・二十九日条が花田卓司である。各担当の原稿を数度の検討会において十分に吟味し、坂口・長村が内 容を調整した。 一、本研究会の運営や本稿の発表にあたっては、花園大学国際禅学研究所副所長芳澤勝弘氏、同研究所研究員冨増健 太郎氏より格別のご高配を賜った。また、龍谷大学文学部客員教授藤本孝一氏、楊岐寺住職真壁道鑑師よりも優 渥なるご支援をいただいた。記して深甚の謝意を表する。

(端裏 書)

和二年上」

正月

小建

甲 寅

(6)

辰、

降。

刻、

浴。

辰刻、

 

装束了出

清凉殿

。今日、依

雨儀

御装束、軒廊装

之。

(中御門)

朝臣候

裾。

(藤原)

朝臣候

御剣

。儀、如

例。戌刻、供

御薬

、如

例。

(土御門雅長)

々、

殿

〔儀〕

例。

但施

御簾

。近仗不

(土御門雅長)

云、未

宜陽殿兀子

之以前可

召云々。是家之様云々。

     

内弁昇殿

間、

夜、

殿

殿

日、

拝、

例。

× 一

〔 〔   日〕

、自

吉日

之。

【訓読】   天陰り雨降る。卯の刻、沐浴す。辰の刻、装束了りて清凉殿に出づ。今日、雨儀たるに依り、四方拝の御 装束、軒廊にこれを装ふ。冬定朝臣裾に候す。俊言朝臣御剣に候す。儀、例の如し。   戌の刻、御薬を供すること、例の如し。   春宮権大夫遅参に依り、節会丑の刻に及ぶ。丑の刻、予南殿に出づるの 義 〔儀〕 、例の如し。ただし御簾を施す。 近 仗 警 蹕 せ ず。 ま た 内 弁 云 は く、 い ま だ 宜 陽 殿 の 兀 子 に 着 せ ざ る の 以 前 に 召 す べ し と 云 々。 こ れ 家 の 様 と 云々。 はなはだ以て不審の事なり。 内弁昇殿の間、予内に入り装束を改め直衣を着す。   この夜、別殿に幸す。卯の刻に及び本殿に還る。   今日、毎日の拝、例の如し。念誦においては、吉日よりこれを始むべし。 太以不審事也。 春宮権大夫 〻〻〻〻〻 所申也 〻〻〻

(7)

【注釈】 装束   屋、庭、また道具などを装飾すること。 雨   雨雪の時に行う儀礼。晴天の際の晴儀に対し ていう。雨儀の際は晴儀よりも次第を簡略にし、 それに伴う装束舖設が行われた。 四 方 ほう 拝 はい   正月元日寅の刻に天皇が清涼殿東庭に出御 し、 属 星 ( 北 斗 七 星 の 中 で 生 年 に 当 た る 星 ) ・ 天 地・ 四方・山陵を拝して年災を払い宝祚長久を祈る儀。 冬定朝臣 中 御 門 冬 定 。初 名 冬 氏 。弘 安 五 年 ( 一 二 八 二 ) ~ 建 武 四 年 ( 一 三 三 七 ) 。 こ の と き 蔵 人 頭・ 右 兵 衛 督。 三 十 二 歳。 『 尊 卑 』 一 — 五 四。 『 公 補 』 正 和 二~建武四。父は権中納言宗冬。   弘 安 八 年 ( 一 二 八 五 ) 十 二 月、 叙 爵。 乾 元 二 年 ( 一 三 〇 三 ) 正 月、 蔵 人。 延 慶 三 年 ( 一 三 一 〇 ) 十 月、 正 四 位 上。 同 年 十 二 月、 左 大 弁。 正 和 元 年 ( 一 三 一 二 ) 十 月、 蔵 人 頭・ 右 兵 衛 督。 同 二 年 八 月、非参議従三位。同年十一月、参議。元亨三年 (一三二三) 五月、 「被止出仕。依関東事雑 役 〔説カ〕 」 ( 『公 補 』 同 年 条 ) 。 同 年 六 月、 参 議 を 辞 す。 正 中 二 年 ( 一 三 二 五 ) 十 二 月、 還 任。 嘉 暦 三 年 ( 一 三 二 八 ) 三 月、 権 中 納 言。 元 弘 元 年 ( 一 三 三 一 ) 二 月、 治 部卿。同年八月、正二位。正慶二年・元弘三年五 月、詔により元の如く治部卿となる。これらの他、 大蔵卿・宮内卿にも補任されている。日記に『冬 定卿記』がある。 候 裾 きょ 蔵人頭としての行動 ( 『江次第』 ) 。裾は、束帯 着用のとき、背部にひく下襲のすそ。本来、裾は わずかに地に着くほどの長さであったが、次第に 後方に長く引くようになった。強装束の発生以降 は、下襲本体と裾とは分離するが、天皇は古様の 下襲と裾とが一つの「続きの下襲」を用いた。   天 皇 の 御 裾 の 取 様 に つ い て は、 『 吉 口 伝 』 正 中 三 年 ( 一 三 二 六 ) 三 月 二 日 条〔 御 裾 取 様 事 〕 に 見 える。 俊言朝臣 藤 原 俊 言。 初 名 俊 実。?~ 正 中 二 年

(8)

( 一 三 二 五 ) 。 こ の と き 蔵 人 頭・ 右 中 将。 『 尊 卑 』 一 —二九八。 『公補』正和二~文保元。父は為言。 のちに伯父為雄の養子となり、さらに父の従弟京 極為兼の養子となる。   正 応 元 年 ( 一 二 八 八 ) 十 一 月、 叙 爵、 同 四 年 二 月、 侍 従。 永 仁 七 年 ( 一 二 九 九 ) 正 月、 正 五 位 下。 同 年 六 月、 左 少 将。 正 安 三 年 ( 一 三 〇 一 ) 十 一 月、 備 中 守 ( 大 嘗 会 国 司 ) を 兼 ね る。 乾 元 二 年 (一三〇三) 閏四月、 右中将。延慶元年 (一三〇八) 九 月、 内 蔵 頭。 同 年 十 月、 正 四 位 下。 応 長 元 年 ( 一 三 一 一 ) 閏 六 月、 花 園 の 蔵 人 頭 と な り、 同 年 十 月 に 右 中 将 を 兼 ね る。 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 九 月、 参議。同年十一月、従三位に昇るが、翌月に辞官。   俊言の最初の養父為雄は亀山院に近侍し、嘉元 三年 (一三〇五) 九月の亀山死去に殉じて出家した。 やがて俊言は為兼の養子になり、その後継者とし て「 京 極 前 宰 相 」 と 号 す が ( 『 公 衡 公 記 』 正 和 四 年 四 月 二 十 四 日 条 ) 、 和 歌 に は 秀 で な か っ た よ う で あ る。正和五年、為兼の失脚に連座し、幕府の上奏 に よ っ て 処 罰 を 受 け る。 翌 文 保 元 年 ( 一 三 一 七 ) に 出 家。 正 中 二 年 ( 一 三 二 五 ) 十 月 に 死 去 し た ( 『常楽記』 ) 。小川剛生 「京極為兼と公家政権」 ( 『文 学 』 四 — 六、 二 〇 〇 三 年 ) 、 井 上 宗 雄『 京 極 為 兼 』 ( 吉 川弘文館、二〇〇六年、二三九~二四二頁) 参照。   『 花 園 』 に は、 蔵 人 頭 や 次 将 と し て 花 園 に 奉 仕 する姿が頻出する。 候御剣 近 衛 中 将 と し て の 行 動 ( 『 江 次 第 』 ・ 『 建 武 』 ) 。 御剣は昼御座の御剣のこと。天皇の護身のため、 内裏清涼殿の昼御座に備え置かれた剣。 供 御 みく 薬 すり 元日から三日間、清涼殿において天皇に御 薬を供する儀式。一献に屠蘇、二献に白散、三献 に度嶂散を献ずる ( 『江次第』 ・ 『建武』 ) 。 春 とうぐうごんのだいぶ 宮権大夫 土御門雅長。弘安十年 (一二八七) ~ 正 和 五 年 ( 一 三 一 六 ) 。 こ の と き 権 大 納 言。 春 宮 は 尊 治 親 王 ( の ち の 後 醍 醐 天 皇 ) 。 二 十 七 歳。 『 尊 卑 』 三 —五一一。 『公補』永仁六~正和五。父は雅房。

(9)

母は左中将時経女。   正 応 二 年 ( 一 二 八 九 ) 正 月、 同 四 年 三 月、 と も に 大 宮 院 の 御 給 に よ り 昇 叙。 同 六 年 正 月、 永 仁 二 年 ( 一 二 九 四 ) 正 月、 後 宇 多 院 の 御 給 に よ り 昇 叙。同三年三月、右中将。同四年四月、春宮権亮 を兼ねる。同六年四月、非参議従三位。乾元元年 (一三〇二) 九月、 参議。嘉元元年 (一三〇三) 八月、 権 中 納 言。 徳 治 二 年 ( 一 三 〇 七 ) 十 二 月、 中 宮 権 大 夫 を 兼 ね る。 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) 九 月、 春 宮 権大夫に遷りこれを兼ねる。同年十二月、正二位。 正和元年 (一三一二) 四月、権大納言。 節会 元 がんじつのせちえ 日節会 のこと。元日に天皇が群臣に宴を賜 う儀式。儀式の次第は、内弁が陣座に着いた後、 外 任 奏、 つ い で 諸 司 奏 ( 御 暦 奏・ 氷 様 奏・ 腹 赤 奏 ) を 奏 上 す る。 天 皇 が 南 殿 ( 紫 宸 殿 ) に 出 御 の の ち、 群臣は南庭に列立。内弁の合図によって一同昇殿 し、謝座、謝酒、拝礼。そののち饗につき、三献 の儀がある。一献で吉野国栖の歌舞、二献で御酒 勅使、三献で立楽が行われる。次に内記・外記が 宣命文と参列者の名簿を進上し、天皇に奏覧する。 宣命使が宣命を読み、群臣は殿を下り、一同、禄 を賜って拝舞、天皇還御となる。中田武司『元日 節会 研究と資料』 (おうふう、一九九四年) 参照。   こ の 年 は 神 木 在 京 ( 正 月 七 日 条 の 注 釈 参 照 ) の た め、元日節会の「国栖笛・立楽等」が停止された ( 『園太暦』康永四年〔一三四五〕四月七日条) 。 施御簾 神 木・ 神 輿 在 京 時 の 元 日 節 会 は 簾 を 垂 ら す 事 例 が 多 い。 弘 安 五 年 ( 一 二 八 二 ) 、 永 仁 三 年 (一二九五) 、 同四年、 同五年、 乾元二年 (一三〇三) 、 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) 、 同 三 年 の 事 例 参 照。 中 田 武 司『 元 日 節 会 研 究 と 資 料 』 ( 前 掲 ) に 各 年 の 史 料 が掲載されている。 近 きんじょう 仗 「こんじょう」とも。近衛次将 (中・少将) を 指す。 警 けいひつ 蹕 天皇の出入の時などに、下を向いて、 「お お」 「しし」などと言い、先払いをすること。

(10)

内 ないべん 弁 節会など宮廷内における重要儀式に際し、内 裏承明門内において、式の進行を主導する官人。 参会する大臣のうち上首の者がこれに当たったが ( 『 江 次 第 鈔 』 ) 、 大 臣 不 参 の 時 は 納 言 が 行 っ た ( 『 西 宮記』 ) 。この日は土御門雅長がつとめた。 兀 ご っ し 子 「ごし」とも。腰掛の一種。長方形の板の四 辺に脚をつけたもの。朝儀列席の官人が使用する。 内弁云 、 未着宜陽殿兀子之以前可召云々 。 是家之様 云々 。 太以不審事也 『 建 武 』 に よ る と、 諸 司 奏 → 主上、南殿に出御→主上、御帳内の椅子に着く→ 近仗警蹕→内弁、陣の座を立ち、宜陽殿の兀子に 着く→掌侍、召の由を仰す→内弁、南殿に昇殿着 座 → 開 門、 と い う 次 第 と な っ て い る ( 『 江 次 第 』 ・ 『 三 節 会 次 第 』 も 参 照 ) 。 本 日 条 の 召 と 着 座 の 故 実 に ついては未詳。この日、近仗警蹕が無かったこと と関係するか。花園は、土御門雅長の発言につい て不審を抱いており、正月七日条・十二日条にも 関係記事がある。 幸別殿 別殿行幸のこと。別殿とは、内裏や貴族の 邸宅において、中心的な殿舎に対して離れた場所 に 建 て ら れ た り、 予 備 的 に 設 け ら れ た り し た 殿 舎。 内 裏 で は 清 涼 殿 を 本 殿 と し、 天 皇 が 方 違 の た め に 内 裏 の 他 の 諸 殿 舎 に 行 幸 し た。 『 徒 然 草 』 一 七 八 段 お よ び 安 良 岡 康 作『 徒 然 草 全 注 釈 下 』 補注一二九 (角川書店、一九六八年) 参照。 毎日拝 天皇が毎朝、清涼殿の石灰壇で、神宮・内 侍所などを拝する儀 ( 『禁秘抄』 上 〔恒例毎日次第〕 ・ 『日中行事』 ) 。 念 ねんじゅ 誦   「ねんず」とも。仏語 (梵語 japa の訳) 。仏の 加護を祈り、経文や仏の名号または真言などを口 に唱えること。密教では、念は心、誦は口のはた らきであるが、広く身・口・意にわたる三密の行 と 解 す る。 念 仏 誦 経。 『 花 園 』 で は こ の 日 が 初 見。 正月六日条の注釈参照。

(11)

二日

、癸巳、

〕晴。戌刻、供

御薬

、如

例。

【訓読】   晴る。戌の刻、御薬を供すること、例の如し。 【注釈】 供御薬 正月一日条の注釈参照。

三日

、甲午、

〕晴。未刻、供

御薬

、如

例。

【訓読】   晴る。未の刻、御薬を供すること、例の如し。 【注釈】 供御薬   正月一日条の注釈参照。

四日

、乙未、

五日

、丙申、

(12)

酉、

晴。

日、

日、

恒。

闕。神事時許止

×

〔 〔   ■〕

事幷労外更々不

闕、毎日奉仕也。

【訓読】   晴る。今日、吉日たるに依り念誦を始む。今日より毎日、恒の如し。これ去ぬる年七月より毎日闕かず。 神事の時ばかりこれを止む。神事幷に労の外は更々闕かず、毎日奉仕するなり。 【注釈】 念誦   正月一日条の注釈参照。 是自去年七月毎日不闕 。 神事時許止之 。 神事幷労外 更々不闕 、 毎日奉仕也 花 園 の 念 誦 は、 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 正 月 一 日 条 以 後、 度 々 見 え、 こ の 年 正 月だけでも一・六・八・十五・十八・二十八の各 日条に所見する。   花 園 は、 幼 年 か ら 毎 月 六 斎 の 念 誦 ( 『 花 園 』 正 和 二 年 正 月 八 日 条 ) 、 正 和 元 年 七 月 か ら 毎 日 の 念 誦 を つ と め て い る ( 『 花 園 』 に は 正 和 元 年 六 月 六 日 ~ 八 月 十 九 日 の 記 事 が な い の で 詳 細 は 不 明 ) 。 ま た、 二 間 に お い て も 念 誦 を つ と め た ( 『 花 園 』 正 和 二 年 三 月 十 三 日 条・ 同 十 八 日 条・ 同 二 十 三 日 条・ 同 二 十 八 日 条・ 五 月 八 日 条・ 同 十 四 日 条・ 同 十 五 日 条 裏 書・ 同 二 十 六 日 条・ 六 月 二 十 八 日 条・ 十 二 月 十 三 日 条・ 同 三 年 二 月 二 十 四 日 条・ 三 月 二 十 二 日 条・ 同 六 年 正 月 十 四 日条・文保元年〔一三一七〕四月二十七日条) 。   これらの念誦は、神事や病のさいは止められた が ( 『 花 園 』 正 和 二 年 正 月 八 日 条・ 四 月 九 日 条 ) 、 花 園 は神事中の仏事を憚らず、念誦を行うこともあっ た ( 『 花 園 』 正 和 二 年 三 月 一 日 条 ) 。 念 誦 の 増 加 と 軌 を一にして、花園は、正和元年八月十五日から、 毎月十五日と晦日に『梵網経』の奉読を行ってい

(13)

七日

*  

。今日節会、入

夜始。依

神木事

、態入

夜也。内弁

(土御門雅長)

宮権

大夫也。

殿

(藤原)

云、

夜、

云、

時、

殿

々。

事、

(藤原 俊 言)

〔僻〕

也。

殿

後、

×

〔 〔   ■〕

之後可

々。

兀子

以前非

召云々。所詮早速可

召之由、申

之歟。

**

〔儀〕

例。

栖・

也。

×

〔 〔   ■〕 レ

帳中座

、於

簾中

物之

。御装束、如

 

(*頭書)

私進止

哉。

 

(** 裏 書)

七日

(菅原)

卿始候

読書

漢書二。

る。これについては、正月十五日条・同二十九日 条の注釈参照。   なお、順徳天皇の『禁秘抄』上〔仏事次第〕に、 「 殊 御 願 日 々、 可 有 御 精 進。 凡 六 斎 日・ 十 八 日・ 御本命日、必可有御精進。他所善事等、又同不可 有 懈 怠。 臨 時 事、 可 隨 御 意 事 也 」 と あ り、 『 禁 秘 抄』下〔御祈〕に「御読経二間」とある。

(14)

【注釈】 節会   白 あおうまのせちえ 馬節会 を指す。正月七日に天皇が紫宸殿に 出御し、群臣に賜宴し、左右馬寮の引く白馬を見 る 儀 式。 中 田 武 司『 白 馬 節 会 研 究 と 資 料 』 ( お う ふう、一九九〇年) 参照。 神木事 神木とは大和春日社において春日大明神の 神 体 で あ る 鏡 を 榊 ( 賢 木 ) に 斎 い つ け た も の。 南 都嗷訴の際にしばしば奉戴された。京では神木の 動座や入洛があると廃朝となり、藤原氏氏人は謹 慎した。   こ こ で は 正 和 元 年 ( 一 三 一 二 ) 八 月 二 十 五 日 ( 『 花 園 』 ・ 『 続 史 愚 抄 』 ) 以 来 の 春 日 神 木 在 京 の こ と を 指 す。 神 木 帰 座 は 同 二 年 八 月 十 六 日 ( 『 花 園 』 ) 。 応 長 元 年 ( 一 三 一 一 ) 六 月 頃 か ら 興 福 寺 と 多武峰の騒動が史料上に表れていた。事件の経過 【訓読】   晴る。今日の節会、夜に入り始む。神木の事に依り、わざと夜に入るなり。内弁春宮権大夫なり。 俊言語り申して云はく、今夜、内弁申して云はく、元日節会の時、いまだ宜陽殿の兀子に着せざる以前に召 すべしと云々。この事、職事の 辟 〔僻〕 案なり。宜陽殿の兀子に着すの後、三息の後に召すべしと云々。兀子に着 す以前に召すべきにあらずと云々。所詮早速召すべきの由、これを申すか。   今夜の 義 〔儀〕 、例の如し。ただし国栖・立楽を止むるなり。また予帳中の座に出でず、簾中においてこれを見 物す。御装束、先日の如し。   (頭書) 内 弁 の申状、はなはだ然るべからざるか。内侍召すの後、三息の後に漸く座すなり。しかるに思ひ違ひ てかくの如く申すか。召の遅速、内弁あに私の進止たらんや。 」   ( 裏 書) 七日 、在輔卿始めて読書に候す。 漢書二。 」

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は 黒 田 智「 勝 軍 地 蔵 と「 日 輪 御 影 」 」 ( 同『 中 世 肖 像 の 文 化 史 』 ぺ り か ん 社、 二 〇 〇 七 年、 三 五 二 頁。 初 出 二 〇 〇 四 年 ) 参 照。 黒 田 氏 の 挙 げ る 史 料 の ほ か、 『神木御動 坐 〔 座 〕 度々大乱類聚』にも関係記事あり。   花園は「南都衆徒、為抑留神木帰 坐 〔 座 〕 、閇籠社頭 幷 金 堂 云 々。 …… 於 今 者、 帰 坐 〔 座 〕 無其期歟。驚歎 之 外 無 他 心。 是 併 依 朕 不 徳 者 歟。 可 恐 々 々」 ( 『 花 園 』 正 和 元 年 十 二 月 三 日 条 ) と 心 中 を 吐 露 し て い る。 神木在京による行事の停止・省略は本日条以外に も多く確認できる。 春宮権大夫   土御門雅長。権大納言。正月一日条の 注釈参照。 俊言   蔵人頭・右中将。正月一日条の注釈参照。 今夜 、 内弁申云……   正月一日条の注釈参照。 此事 、 職事 辟 〔僻〕 案也   藤原俊言が「今から言うことは 自 分 ( 職 事 = 蔵 人 頭 ) の か た よ っ た 考 え に す ぎ ま せんが、宜陽殿の……」と謙遜表現を用いたこと を、花園が直接話法として日記に記している。 国   白馬節会における国栖奏を指す。大和国吉野 先住の国栖人が、大嘗祭や諸節会に参賀し、贄を 奉じ歌笛を奏する儀をいう。院政期頃には官人が 国栖奏を代勤した。 立 たち 楽 がく   雅楽で、楽人が立ったままで管楽器を主体と した器楽を奏すること。立歌。 予不出帳中座 『 園 太 暦 』 康 永 四 年 ( 一 三 四 五 ) 正 月 七日条に、神木在洛時の先例として「正和 三 〔二〕 年   元日出御   七日無出御   十六日出御」と見える。 内 な い し 侍   後宮十二司の一つ内侍司の職員である女房。 尚 侍・ 典 侍・ 掌 侍 の 総 称 で あ る が、 平 安 中 期 以 後 は、 掌 侍 が 主 に 内 侍 司 の 職 掌 を 担 っ た こ と か ら、もっぱら掌侍を指すようになった。花園に仕 えた内侍については、松薗斉「中世女房の基礎的 研 究 」 ( 『 愛 知 学 院 大 学 文 学 部 紀 要 』 三 四、 二 〇 〇 四 年、 一九〜二〇頁) に一覧がある。 在輔卿 菅 原 在 輔。 初 名 在 行。 宝 治 元 年 ( 一 二 四 七 ) ~ 元 応 二 年 ( 一 三 二 〇 ) 。 花 園 の 侍 読。 こ の と き 式

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部 大 輔。 六 十 七 歳。 『 尊 卑 』 四 — 〇。 『 公 補 』 正 安二~元応二。父は在公。   『 御 侍 読 次 第 』 〔 菅 儒 侍 読 臣 之 年 譜 〕 に、 「 後 二 条院 正安三年正月廿六日、侍読。……/花園院 延慶三年二月十五日、加侍読。于時従二位行式部 大輔。/後醍醐院文保二年三月廿七日、被仰侍読。 ……」 (/ は 改 行 ) と あ る よ う に、 後 二 条・ 花 園・ 後醍醐三代の侍読を歴任し、これ以前に邦治親王 ( の ち の 後 二 条 ) の 東 宮 学 士 を つ と め た。 正 応 元 年 ( 一 二 八 八 ) 十 二 月、 大 学 頭。 同 三 年 二 月、 文 章 博 士。 正 安 二 年 ( 一 三 〇 〇 ) 、 非 参 議 従 三 位。 嘉 元 元 年 ( 一 三 〇 三 ) 六 月、 刑 部 卿。 同 年 十 二 月、 式 部 大 輔。 徳 治 二 年 ( 一 三 〇 七 ) 正 月、 正 三 位。 延 慶 二年 (一三〇九) 九月、 従二位。 正和五年 (一三一六) 十一月、正二位。以上の経歴は、永井晋『式部省 補 任 』 ( 八 木 書 店 、 二 〇 〇 八 年 、 三 一 九 ~ 三 二 〇 頁 ) 参 照。   『 文 選 』 の 造 詣 深 く、 後 二 条 天 皇 や 虎 関 師 錬 に そ の 秘 説 を 講 じ た こ と が、 『 海 蔵 和 尚 紀 年 録 』 永 仁 二 年 ( 一 二 九 四 ) 条 な ど に 見 え る。 同 書 に「 蓋 在輔為時名儒」とある。菅原家の文選学における 在輔の位置については、住吉朋彦「本邦中世菅家 文 選 学 事 捃 拾 」 ( 『 日 本 歴 史 』 六 五 二、 二 〇 〇 二 年 ) に 詳しい。   『 花 園 』 に は、 侍 読 と し て 花 園 の 漢 籍 講 読 や 連 句の場に候している記事が多い。 漢書二   中国の歴史書。全百巻、のち百二十巻。後 漢の班固著。高祖から平帝までの前漢の史実を紀 伝 体 で 記 す。 本 紀 二 は「 恵 帝 紀 」 ( 恵 帝 劉 盈 ) 。 『 花 園 』 に お け る『 漢 書 』 の 所 見 は、 本 日 条 以 外 で は、元亨四年 (一三二四) 九月十九日条裏書 (後醍 醐 の 討 幕 計 画 が 六 波 羅 に 発 覚 し た 際 に「 漢 書 魏 相 伝 曰 ……」 と あ る ) 、 正 中 元 年 ( 一 三 二 四 ) 十 二 月 晦 日 条 ( 「 今 年 所 学 目 録 」 に 記 載 ) 、 同 二 年 十 二 月 三 十 日 条 ( 同 上 ) 、 元 弘 二 年 ( 一 三 三 二 ) 四 月 十 七 日 条 で ある。

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亥、

進。

事。

× 一

〔 〔   六〕

斎、

事・

、念誦不

之。

【訓読】   精進。これ毎月の事なり。およそ予幼年より毎月の六斎は、神事・病等の外、念誦これを闕かず。 【注釈】   一方、 『後漢書』の所見は、 応長元年 (一三一一) 四 月 二 十 日 条「 読 後 漢 書   紀 一 光 武 記 〔 紀 〕 」 、 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) * 二 月 九 日 条「 在 輔 卿 候 読 書 漢 〔後〕 漢書 第八、 」 、 * 同 十 二 日 条、 五 月 六 日 条 頭 書「 …… 後 漢 書 九 巻 読 了 」 、 七 月 二 日 条「 後 漢 書 十 読 之 」 、 * 十 一 月 三 日 条「 後 漢 書 第 十 読 了 」 、 正 中 元 年 十 二 月 晦 日 条 ( 「 今 年 所 学 目 録 」 の「 外 書 」 に 記 載 ) 、 正 慶 元 年 ( 一 三 三 二 ) 六 月 十 七 日 条 で あ り、 応 長・ 正 和 年 間 の記事には全て菅原在輔の祗候が確認できる。   以上の所見事例を勘案すると、本日条の講読漢 籍は『後漢書』の可能性がある (同書の本紀二は、 「 顕 宗 孝 明 帝 紀 」 〔 明 帝 劉 荘 〕 ) 。 な お、 所 見 事 例 の 検 出には酒井茂幸 「 『花園天皇宸記』 書名索引」 ( 『研 究と資料』五四、 二〇〇五年) を参照し、挙げられて いない事例には *を付した。 特 に 身 を 慎 み、 持 戒 清 浄 で あ る べ き 六 ヶ 日 を 指 す。 一 般 的 に は 八 日・ 十 四 日 ( 十 三 日 ) ・ 十 五 日 ( 十 四 日 ) ・ 二 十 三 日・ 二 十 九 日 ( 二 十 八 日 ) ・ 三 十 精 しょうじん 進 仏語 (梵語 vı ¯rya の訳) 。期間を定めて、言語 ・飲食を戒め、不浄を避けて潔斎する仏道修行。 六斎 六 ろく 斎 さい 日 にち のこと。仏教において、一ヶ月の内、

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子、

晴。

也。

(北畠)

日、

〔密〕

句。

(菅原)

候。

(藤原)

臣始候

読書

文選   第九。

又俊範朝臣献

十首題

。雲峯冬賦

之。如法密儀也。不

披講

也。

【訓読】   晴る。政始なり。上卿権中納言親房。   また今日、 蜜 〔密〕 々の連句なり。在輔卿已下祗候す。俊範朝臣始めて読書に候す。 文選   第九。   また俊範朝臣十首の題を献ず。雲峯の冬これを賦す。如法密儀なり。披講に及ぶべからざるなり。 【注釈】 レニヨリテ、ツヽシムデ功徳ヲ修シ、八戒ヲタモ ツベキナリ」と『大智度論』を引き、六斎日に精 進すべき理由が述べられている。   『 花 園 』 正 和 二 年 正 月 に お け る 六 斎 日 の 精 進・ 念誦の記事は、本日条及び十五・十八・二十八の 各日条に見える。 念誦   正月一日・六日条の注釈参照。 日 (二十九日) (括弧内は小月の場合) 。早く 『雑令』 に「凡月六斎日、公私皆断殺生」とされ、死刑の 執 行 が 避 け ら れ る な ど、 公 私 と も に 殺 生 を 避 け 精 進 す べ き 日 と さ れ、 『 日 中 行 事 』 に も「 六 斎 日 には、かならず御精進あるべし」とされている。 『 塵 袋 』 第 一「 六 斎 八 王 」 に「 六 斎 日 ヲ バ、 智 度 論ニ、悪鬼、人ノ命ヲ奪不吉ノ日也ト釈セリ。コ 政 まつりごとはじめ 始 外記庁の政始のこと。外記は、詔書を制作 し、先例を上申することを役とする。その外記の 詰める政庁を外記庁と言い、外記庁において行わ れる公卿聴政を外記政と言うが、その年始を「政

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始」という。   外 記 政 は 平 安 中 期 に は 衰 退 す る が、 『 公 事 根 源』 〔正月 外記政始〕に「外記ハ恒例・臨時ノ政 事ヲトリ 行 〔フ脱カ〕 官 ナルニヨテ、正月ニハ、マツ当年ノ 政ヲ行始ル心チ也」とされるように、政始のみは 年 中 行 事 と し て 後 々 も 行 わ れ た。 日 は、 『 建 武 』 に「九日なるべけれど、此頃は日を撰びてあり」 とあり、もとは正月九日に行われたが、次第に御 斎会の後、吉日を選んで行われるようになった。 例 え ば、 正 和 三 年 ( 一 三 一 四 ) は 十 三 日 に 行 わ れ ている ( 『花園』同日条) 。 上 しょうけい 卿   朝廷での政務や儀式を奉行する公卿。 権中納言親房 北 畠 親 房。 永 仁 元 年 ( 一 二 九 三 ) ~ 正 平 九 年・ 文 和 三 年 ( 一 三 五 四 ) 。 二 十 一 歳。 『 尊 卑 』 四 — 一 七。 『 公 補 』 延 慶 元 ~ 元 徳 二。 父 は 師重。母は入道左少将隆重女。   延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) 十 一 月、 非 参 議・ 従 三 位。 同三年三月、正三位、十二月、参議。翌応長元年 七月、左兵衛督に任ぜられ、検非違使別当を兼ね る。同年十二月、 権中納言。正和元年 (一三一二) 八月、従二位。同四年、祖父師親没し服喪、権中 納 言 を 辞 す。 同 五 年 正 月、 正 二 位。 後 醍 醐 天 皇 即 位 の 文 保 二 年 ( 一 三 一 八 ) 十 二 月 に 還 任。 元 応 元 年 ( 一 三 一 九 ) 八 月、 中 納 言。 翌 年 十 月、 淳 和 院 別 当。 元 亨 二 年 ( 一 三 二 二 ) 四 月、 父 の 服 喪 の 後、右衛門督、検非違使別当を兼ねる。翌三年正 月、権大納言。同年五月、奨学院別当。正中元年 ( 一 三 二 四 ) 四 月、 大 納 言。 元 徳 二 年 ( 一 三 三 〇 ) 九月、後醍醐より養育を任されていた世良親王の 逝去により出家。法名宗玄、晩年に覚空に改める。   鎌 倉 幕 府 滅 亡 後、 建 武 政 権 に お い て 重 き を な し、 義 良 親 王 ( の ち の 後 村 上 天 皇 ) を 奉 じ て 子 顕 家 と と も に 陸 奥・ 多 賀 国 府 へ 下 向。 足 利 尊 氏 の 離 反 後 は、 主 に 奥 州・ 東 国 で 南 朝 の た め に 奮 闘 し た。 延 元 元 年・ 建 武 三 年 ( 一 三 三 六 ) 、 従 一 位。 親 房の東国経営は成功を収めず、興国五年・康永三

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年 ( 一 三 四 四 ) 、 常 陸 よ り 吉 野 に 還 っ た。 ま も な く 准大臣宣下。以後、後村上を補佐。南朝が京都を 回復した正平一統のさい、准三宮宣下。正平九年 四 月 十 七 日 に 賀 名 生 で 薨 じ る ( 『 常 楽 記 』 ) 。 『 職 原 抄』 ・ 『神皇正統記』など多数の著作がある。   南 朝 の 忠 臣 と し て よ く 知 ら れ る が、 現 任 公 卿 期 の 前 半 は 花 園 の 治 世 に 当 り、 本 日 条 の よ う に 上 卿 な ど を 多 く 務 め て い る。 当 時 の 親 房 の 事 跡 に つ い て は、 久 保 田 収「 北 畠 親 房 公 年 譜 」 ( 平 泉 澄 監 修『 増 補 北 畠 親 房 公 の 研 究 』 皇 學 館 大 学 出 版 部、 一 九 七 五 年。 初 版 一 九 五 四 年 ) 、 我 妻 建 治「 北 畠 親 房 の 前 半 生 」 ( 同『 神 皇 正 統 記 論 考 』 吉 川 弘 文 館、 一九八一年。初出一九七三年) に詳しい。 連 れん 句 「聯句」とも。連歌のように、複数の作者が 同一の場で五言、又は七言の漢詩句を継いでゆく 詩形態。平安期から鎌倉期にかけて、貴族の古記 録に多く見える連句は、漢詩文制作のための修練 と い う 性 格 が 強 く、 花 園 も 後 に 量 仁 親 王 ( の ち の 光 厳 天 皇 ) の「 稽 古 」 の た め「 百 日 連 句 」 を 行 わ せ て い る ( 『 花 園 』 元 亨 元 年〔 一 三 二 一 〕 八 月 二 十 二 日条) 。同時期の完全な作例は残存しないが、 『江 談 抄 』 第 六 に 七 言 一 聯、 五 言 十 三 聯 が 残 さ れ、 『 王 沢 不 渇 抄 』 に も 作 例 と 関 連 記 述 が あ る。 連 句 に つ い て は、 能 勢 朝 次『 聯 句 と 連 歌 』 ( 『 能 勢 朝 次 著 作 集 七 連 歌 研 究 』 思 文 閣 出 版 、 一 九 八 二 年 。 初 版 一九五〇年) に詳しい。   正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 中 の『 花 園 』 で は、 本 日 条 の ほ か、 二 月 九 日 ~ 十 五 日、 三 月 十 七 日・ 二 十 三 日・ 三 十 日、 四 月 二 十 日・ 二 十 八 日、 五 月 三 日・ 六 日 ~ 十 日・ 十 七 日・ 二 十 七 日、 六 月 三 日・ 十 三 日・ 二 十 五 日、 七 月 二 十 二 日、 八 月 三 日・ 六 日、 九 月 六 日・ 九 日、 十 月 十 一 日・ 十 六 日 の 各 日 条 に 連 句 が 行 わ れ た こ と が 見 え て い る。 本 日 条 の よ う に 読 書 や 談 義 の 際 や、 詩 会 と共に行われることが多い。 在輔卿   正月七日条の注釈参照。

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俊範朝臣   藤原俊範。初名伊範、清範。?~嘉暦二 年 ( 一 三 二 七 ) 。 こ の と き 刑 部 卿。 花 園 の 東 宮 学 士、 侍 読。 『 尊 卑 』 二 — 四 六 九。 『 公 補 』 正 和 五 ~ 嘉 暦 二。父は明範。   正応二年 (一二八七) 二月、 学問料。同四年五月、 文章得業生。正安元年 (一二九九) 十二月、 大内記。 嘉元元年 (一三〇二) 八月、 東宮学士。同二年八月、 東宮権大進。延慶二年 (一三〇九) 十二月、 大蔵卿。 応 長 元 年 ( 一 三 一 一 ) 七 月、 内 御 書 所 別 当。 同 年 八月、刑部卿。同二年二月、正四位下。正和元年 ( 一 三 一 二 ) 十 月、 右 京 大 夫。 同 五 年 正 月、 非 参 議 従 三 位。 正 中 元 年 ( 一 三 二 四 ) 正 月、 正 三 位。 以 上 の 経 歴 は、 永 井 晋『 式 部 省 補 任 』 ( 正 月 七 日 条 の 注釈前掲、四五九~四六〇頁) 参照。   『 花 園 』 で は、 応 長 元 年 六 月 十 三 日、 詩 会 の 題 者となっているが、漢籍講読に参じたのは本日条 が初見。以後、漢籍講読や詩会、連句の場にたび た び 参 じ て お り、 『 花 園 』 正 和 二 年 十 月 二 日 条 に は、花園に『文選』第十を授け終えたことが見え る。 文 選 第 九   文 選 』 は 中 国 の 詩 文 集。 原 三 十 巻。 梁 の昭明太子蕭統の撰。周末から梁初までに作られ た詩文約八百篇を収める。隋唐以来その影響は大 き く、 唐 代 の 李 善 注 本 ( 六 十 巻 ) な ど 多 く の 注 釈 書 が 作 ら れ た。 第 九 は「 賦 」 の 内「 論 文 」 ・ 「 音 楽」を収める。   日 本 に も 早 く に 渡 来、 尊 重 さ れ、 聖 徳 太 子 の 『 十 七 条 憲 法 』 に そ の 影 響 が う か が え る。 奈 良・ 平安期の文芸に果たした役割も大きく、漢詩文は も ち ろ ん こ と、 『 枕 草 子 』 一 九 七 段 に も「 文 は 文 集。文選、新賦」と『白氏文集』とともに挙げら れている。鎌倉期においては、文芸への影響は比 較的弱まるが、貴族層の基礎教養として重んじら れ、後宇多院による大覚寺僧への『御手印遺告』 にも、童子の学習すべき一書として見えている。   『 花 園 』 に お け る『 文 選 』 の 所 見 記 事 は、 本 日

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条 の 他、 * 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 十 月 二 日 条「 俊 範 朝 臣 授 文 選 第 十 了 」 、 元 亨 三 年 ( 一 三 二 三 ) 十 二 月 二 十 九 日 条「 此 間 見 文 選 与 宇 治 左 府 記 」 、 * 同 四 年 正 月 三 日 条「 今 日 見 文 選 ・ 宇 治 左 府 記 等 」 、 同 四 日 条「 読 注 文 選 一 巻 余 」 、 同 五 日 条「 読 注 文 選 之 次 ……」 、 * 同 六 日 条「 今 日 見 文 選 」 、 正 中 元 年 (一三二四) 十二月三十日条 「凡所読経書目録」 の「 外 書 」 に「 文 選 」 と 見 え る ( 酒 井 茂 幸「 『 花 園 天 皇 宸 記 』 書 名 索 引 」 〔 正 月 七 日 条 の 注 釈 前 掲 〕 を 参 照 し、 挙 げ ら れ て い な い 事 例 に は * を 付 し た ) 。 特 に、 元 亨 四 年 正 月 五 日 条 で は、 班 彪 ( 叔 皮 ) の「 王 命 論」についての疑問を記しており注目される。 十首題   連句の後に行われた詩会の題。 雲峯冬   花園が賦した詩の題。先の「十首題」のう ちの一つ。 如 にょほう 法 密儀 「如法」の原義は、定められた法・法式 通りにすること。のちに、文字通り、まったく、 ちょうど、などの意味を持つ副詞的な用法が生じ た。 と く に、 鎌 倉 時 代 に 入 る と、 形 容 動 詞 や 形 容詞を修飾する用例が現れ、たいそう、ひどく、 すっかり、などの意味の副詞として用いられるよ うになる。その他にも、いつものとおり、型どお りのさま、尋常、などの意味もある。   本日条の「如法密儀」の意味は捉えにくいが、 『 花 園 』 正 和 三 年 ( 一 三 一 四 ) 閏 三 月 十 六 日 条 に、 「 密 々 詠 和 哥。 神 輿・ 神 木 等 御 在 京 之 間、 如 法 密々為練習也」とある用例が参考となる。ここで は、八幡神輿・春日神木の在京を憚ってひそかに 練 習 の た め 和 歌 を 詠 じ て お り、 「 如 法 」 は、 ま っ たく、の意味がふさわしい。本日条の詩会も、春 日神木の在京中に行われたものであり、したがっ て、 「 如 法 密 儀 」 は、 「 ( 神 木 在 京 を 憚 っ て ) ま っ た く密儀に」と理解するのが適当であろう。   な お、 「 如 法 」 の 意 味・ 用 法 に つ い て は、 小 山 田与清『松屋筆記』九一 —四下〔如法・如法者〕 、 斎 木 一 馬「 記 録 語 の 例 解 」 ( 『 斎 木 一 馬 著 作 集 一 古

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十日

、辛丑、

〕晴。

【訓読】   晴る。

十一日

、壬寅、

〕晴。

【訓読】   晴る。

(鷹司冬平)

談。

々。

×

〔 〔   間〕

(土御門)

卿事、相尋之処、

記 録 の 研 究 上 』 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 九 年、 三 〇 一 頁 。 初 出 一 九 七 〇 年 ) 、 原 卓 志「 「 如 法 」 の 意 味・ 用 法 について」 ( 『訓点語と訓点資料』 一〇八、二〇〇二年) 、 堀 畑 正 臣「 『 明 月 記 』 に 見 え る「 記 録 語 」 ( そ の 二 ) 」 ( 『 明 月 記 研 究 』 八、 二 〇 〇 三 年、 二 一 一 〜 二 一 二 頁) 参照。 披 講 こう   詩会、歌会などにおいて、提出された詩及び 和 歌 を 講 師 等 が 読 み 上 げ る こ と。 詩 の 披 講 に つ い て は、 青 柳 隆 志「 詩 披 講 考 」 ( 『 東 京 成 徳 国 文 』 二六、 二〇〇三年) に詳しい。

(24)

召者、自

上所

召也。何自計

遅速

哉云々。実以於

召者、不

雅意

歟。

【訓読】   天晴る。関白参り雑談す。その次いで内弁の事云々す。物語の次いで、先日の雅長卿の事、相尋ぬるのと ころ、召においては、上より召さるる所なり。何ぞ自ら遅速を計らんやと云々。実に以て召においては、雅 意に任すべからざるか。 【注釈】 関白 鷹 司 冬 平。 建 治 元 年 ( 一 二 七 五 ) ~ 嘉 暦 二 年 ( 一 三 二 七 ) 。 三 十 九 歳。 『 尊 卑 』 一 — 七 八。 『 公 補』弘安八~嘉暦二。父は関白基忠。母は権中納 言近衛経平女。叔父兼忠の猶子となる。   弘 安 七 年 ( 一 二 八 四 ) 二 月、 叙 爵、 禁 色 勅 許。 同年三月、右少将、六月、右中将。同八年三月、 非 参 議 従 三 位。 同 九 年 正 月、 正 三 位。 正 応 元 年 ( 一 二 八 八 ) 十 一 月、 権 中 納 言、 従 二 位。 同 二 年 四 月、春宮権大夫を兼ねる。同三年正月、正二位。 同年十一月、 権大納言。永仁六年 (一二九八) 五月、 左 大 将 を 兼 ね る。 正 安 元 年 ( 一 二 九 九 ) 四 月、 内 大臣。同三年正月、 従一位。乾元元年 (一三〇二) 十 一 月、 右 大 臣。 嘉 元 三 年 ( 一 三 〇 五 ) 閏 十 二 月、 左 大 臣。 徳 治 元 年 ( 一 三 〇 六 ) 十 二 月、 皇 太 子 傅 を 兼 ね る。 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) 十 一 月、 摂 政・ 氏長者。同三年十二月、花園の元服加冠のため、 太政大臣となる。同四年三月、関白。その後さら に、関白・氏長者に二度就いたが、在職中の嘉暦 二 年 正 月 十 八 日 ( 十 九 日 と も ) に 没 す ( 『 常 楽 記 』 ) 。 後 称 ( 照 ) 念 院 摂 政 と 号 す。 以 上 の 経 歴 は、 川 玲 子・ 詫 間 直 樹・ 米 田 雄 介『 新 摂 関 家 伝 第 一 』 ( 続 群 書 類 従 完 成 会、 一 九 九 六 年、 一 三 五 〜 一 三 九 頁 )

(25)

×

〔 〔   未〕

許、

×

〔 〔   或謂之紫雲云々〕

〔 レ

変異歟。後聞、

**

異云々。然而次日雨降之間消云々。今日、精進。毎月事也。依

虚空蔵縁日

也。

       

所謂暈也。

 

(** 裏 書)

後日

聞、変異云々。

者、

々。

×

〔 〔   明〕

日雨降之間、即消歟。大底変異、三日之中、大風・

大雨等之時非

変云々。

【訓読】   晴る。申の刻ばかり、日の辺りの雲に虹の如きもの有り。しかれどもまた虹にあらず、また雲にあらず。 参照。   伏見院の信任篤く、伏見は後伏見院に対し「向 後勅撰あらば、永福門院と 鷹 (冬平) 司 前関白とに可被申 合」と述べたことが『井蛙抄』六に見える。日記 に『 冬 平 公 記 ( 後 称 念 院 関 白 記 ) 』 、 著 書 に『 後 称 念院装束抄』がある。 雑 ぞうたん 談   とりとめのない話。世間話。雑話。 其次内弁事云々   正月一日条の注釈参照。 雅長卿   土御門雅長。正月一日条の注釈参照。 雅   我意。自分の考えを押し通そうとする心。わ が ま ま。 佐 藤 喜 代 治『 日 本 の 漢 語 』 ( 角 川 書 店、 一九七九年、二七一~二七三頁) 参照。

(26)

虹   白気、赤気、蜺などとも表記される。古来虹が 出現した際には、その吉凶が陰陽寮において卜定 された。禁中で虹が立った際には奉幣・読経・物 忌合が行われる一方、虹が出現した場所に市を設 ける民間習俗もあった。 変異   不吉の予兆とされる異常現象。怪異、災異。 その範疇は日蝕・月蝕・流星などの天文変異をは じめ、地震・噴火などの自然災害や、冬季和暖な ど時令上の異変、殿舎・陵墓の鳴動、虹立、諸社 の神事違例など多岐にわたる。変異が発生すると、 天下兵乱、大臣逆謀、百姓不安などを惹起すると 考えられた。これは天文変異を王政の不徳のあら われとみる中国の天人相関説や、護国仏典の災異 説から影響をうけた。日本では神祇官・陰陽寮の 二つを軸に変異奏上の諸類型が整備された。   天文変異を発見した際、陰陽寮で変異の具体的 状況とその吉凶を勘録した奏書が密封され、天皇 に 奏 上 す る。 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 十 月 七 日 の 天 文変異の奏上では、封の上に関白近衛家平が自身 の片名「家」の字を書いている。同月九日には、 陰陽頭の安倍長親が、蔵人の藤原永広を介して奏 上 し て い る ( 以 上『 花 園 』 ) 。 少 し 後 に は 前 天 文 博 士 で あ る 土 御 門 泰 世 が 変 異 勘 文 を 奏 上 し て い る ( 『 花 園 』 元 亨 四 年〔 一 三 二 四 〕 十 月 十 五 日 条・ 正 中 二 変異か。後に聞く、変異と云々。しかれども次の日に雨降るの間消ゆと云々。   今日、精進す。毎月の事なり。虚空蔵の縁日に依るなり。   ( 裏 書) 後日聞く、変異と云々。いはゆる暈也。 た だ し 三 日 の 中 に 雨 降 ら ば、 別 事 無 し と 云 々。 し か れ ど も 翌 日 雨 降 る の 間、 す な は ち 消 ゆ る か。 大 底 の 変異、三日の中に、大風・大雨等の時は変にあらずと云々。 」 【注釈】

(27)

年〔一三二五〕十一月六日条・同年十二月十六日条) 。 次日雨降之間消云々 宝 治 二 年 ( 一 二 四 八 ) 閏 十 二 月 十 六 日 、 「 重 暈 」 が 発 生 し た 際、 天 文 博 士 安 倍 晴 嗣がこれを「白虹」と判断するが、その他の者は これを否定し、翌日の降雨により変が消えた事例 がある ( 『岡屋関白記』 ) 。   また、この時の「延応日暈之時沙汰文書等、進 院 」 と い う 記 事 に 関 し て、 『 百 練 抄 』 延 応 元 年 ( 一 二 三 九 ) 二 月 十 一 日 条 に「 今 日 巳 時 有 暈。 司 天 輩或奏文暈之由、或申白虹之由」と関係記事がみ られる。同じく『吾妻鏡』同年三月五日条による と、 天 文 密 奏 の 内 容 が「 重 暈 」 「 交 暈 」 「 白 虹 貫 日」と一致せず、大蔵卿菅原為長は『後漢書』を 引き、これを「暈即虹也。大略白虹」と判じて勘 状を進めている。 精進   正月八日条の注釈参照。 虚 空 くう 蔵 ぞう   虚空蔵菩薩。無量の智恵と福徳を衆生に与 え救済する菩薩。胎蔵界曼荼羅では虚空蔵院の主 尊にあたり、右手に智慧をあらわす剣、左手に福 徳をあらわす宝珠の蓮華をもつ。真言密教では記 憶力に関わる自然智に利益があるとされ、求聞持 法の本尊とされる。   花園は、幼少期より毎月十三日の虚空蔵縁日に 精進を行っていた ( 『花園』正和二年四月十三日条) 。 縁 えんにち 日   有縁の日、結縁の日の略称。人々が特定の神 仏に参詣して縁を結べば格別の霊験があるといわ れる日。月の特定の日を神仏に配することが平安 末期ごろからみられ、縁日詣の信仰風俗が起こり、 寺社参詣の発達と共に門前に市が立つなど、室町 期以降普及した。 暈 かさ   白虹とも称す。日月の周辺に発生する淡光の雲 気。気象学でいう大気光学現象の一種、ハロー現 象。太陽の周囲にできるものは日暈、月の周囲に できるものは月暈とよぶ。雲を形成する氷晶がプ リズムとなり、日光・月光がそこを通りぬける際 に屈折することで発生する。古代中国では、燕国

(28)

十四日

×

〔 〔   晴〕

雨降。加持香水之儀、如

例。但今年不

御斎会

之間、無

内論義事

只加持香水許也。阿闍梨能助僧正也。又同人今夜初参

二間

也。

【訓読】   陰り雨降る。加持香水の儀、例の如し。ただし今年は御斎会を行はれざるの間、内論義の事無し。ただ加 持香水ばかりなり。阿闍梨能助僧正なり。また同人今夜初めて二間に参るなり。 【注釈】 加 香 こう 水 ずい   密教で、修法の時に浄めに注ぐ香水を、 前もって浄化し、神聖なものとするための祈り。 ま た、 そ の 香 水。 こ こ で は、 後 七 日 御 修 法 ( 宮 中 真 言 院 で 正 月 八 日 か ら 七 日 間、 玉 体 安 穏 の た め に 行 な う 修 法 ) に お い て 加 持 し た 香 水 を、 結 願 の 後 に 内 裏 清 涼 殿 に 運 ん で 机 上 に 備 え、 大 阿 闍 梨 ( 東 寺 長 太子丹の股肱である荊軻が、始皇帝暗殺を企てた 際、白虹が日輪を貫き、暗殺成功を確信させたと い う、 『 史 記 』 鄒 陽 列 伝 の 故 事 が 有 名。 日 本 で も 『平家物語』 ・ 『平治物語』などに、 『史記』の影響 が み ら れ る。 『 民 経 記 』 建 長 元 年 ( 一 二 四 九 ) 三 月 十八日条も「白虹事」を伝え、閑院内裏炎上とあ わせ、建長改元の一因をなした。   な お、 本 文 の「 又 非 雲 」 と い う 部 分、 当 初 は「 或 謂 之 紫 雲 云 々」 と 書 か れ た。 こ れ は 紫 雲 が 往 生 の 際 の 奇 瑞 で あ る こ と か ら 訂 正 さ れ た と 思 わ れ る。 紫 雲 に つ い て は、 千 々 和 到「 仕 草 と 作 法 」 ( 『 日 本 の 社 会 史 八 生 活 感 覚 と 社 会 』 岩 波 書 店、 一九八七年) 参照。

(29)

者 ) が 五 宝 五 鈷・ 水 精 念 珠 を 持 ち つ つ 散 杖 を 以 て 玉体に灌ぎ加持する儀式をいう ( 『御質抄』末・ 『建 武 』 ) 。 そ の 様 子 は『 年 中 行 事 絵 巻 』 に 描 か れ て い る。この時の加持香水は、能助が勤めた。 御 斎 さい 会 「みさいえ」とも。正月八日より十四日ま で の 七 日 間、 大 極 殿 ( の ち に は 清 涼 殿 ) で 国 家 護 持・五穀成就の祈願をした法会。南京三会の一つ。 衆僧を召して斎食を設け、金光明最勝王経を講じ さ せ た ( 『 西 宮 記 』 ・ 『 江 次 第 』 ・ 『 建 武 』 ) 。 奈 良 時 代 中 期に始まり、平安時代には重要な儀式となったが、 室 町 時 代 に と だ え た。 そ の 様 子 は『 年 中 行 事 絵 巻』に描かれている。御斎講とも称される。   「真言院後七日御修法請僧交名并裏書続紙」 ( 『東 寺 百 合 文 書 』 ろ 函 三 ) に よ る と、 御 斎 会 の 中 止 は 神 木在京によるものであった。神木在京によって御 斎会が停止された例としては、これ以前に弘安五 年 ( 一 二 八 二 ) ・ 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) が あ る ( 『 師 守 記 』 暦 応 三 年〔 一 三 四 〇 〕 正 月 十 三 日 条 所 引「 大 外 記中原師右請文」 ) 。 内 うち 論 ろん 義 「ないろんぎ」とも。殿上の内論義のこと。 内 は 内 裏 を 意 味 す る。 御 斎 会 の 結 願 の 日 で あ る 十四日、諸宗の学僧の中から問者と講師を撰んで、 『 金 光 明 最 勝 王 経 』 の 論 難 問 答 を 行 い、 天 皇 が そ れ を 傍 聴 し た。 弘 仁 四 年 ( 八 一 三 ) 正 月 に 行 わ れ た の が 最 初 で、 以 後 恒 例 の 行 事 と な っ た ( 『 濫 觴 抄』下) 。殿上論義とも称された。 能助僧正 弘 安 元 年 ( 一 二 七 八 ) ~ 元 亨 四 年 ( 一 三 二 四 ) 真言僧 (広沢流) 。このとき法印僧正・東寺一長者。 三 十 六 歳。 『 尊 卑 』 一 — 八 〇。 父 は 徳 大 寺 入 道 太政大臣公孝。仁和寺御室性仁法親王の付法 ( 『真 言 付 法 法 脈 仁 和 寺 』 ・ 『 本 朝 伝 法 灌 頂 師 資 相 承 血 脈 』 ) 。 仁 和寺菩提院院主であるが、院の管領は真光院僧正 禅助により沙汰されていた。   正 応 五 年 ( 一 二 九 二 ) 二 月、 法 眼。 永 仁 二 年 ( 一 二 九 四 ) 正 月、 権 少 僧 都。 同 六 年 四 月、 権 大 僧 都。 正 安 二 年 ( 一 三 〇 〇 ) 九 月、 法 印。 嘉 元 三 年

(30)

( 一 三 〇 五 ) 三 月、 権 僧 正。 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八 ) 正 月、 東 寺 四 長 者 に 加 任、 延 慶 二 年 ( 一 三 〇 九 ) 九 月、 僧 正。 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 正 月、 東 寺 一 長 者 ( 寺 務 ) ・ 法 務 に 任 ぜ ら れ、 花 園 の 護 持 僧 に なる。同年四月、大僧正。六月に辞す。同四年十 月、 寺 務 を 辞 す。 元 亨 四 年 五 月 二 日 ( 三 日 と も ) に 入 滅。 以 上 の 経 歴 は、 『 東 寺 長 者 補 任 』 ・ 『 仁 和 寺 諸 院 家 記 ( 恵 山 書 写 本 ) 』 上〔 菩 提 院 〕 に よ る。 な お、 『 門 葉 記 』 五 三〔 長 日 如 意 輪 法 五・ 護 持 僧 補任〕は、花園の護持僧に能助の名を欠く。   能助は、仁和寺宮庁の房官として活動し、とく に、正安四年四月十日に仁和寺入道親王庁から河 内 金 剛 寺 に 下 さ れ た 下 文 に 署 名 し て い る ( 「 仁 和 寺 入 道 性 仁 親 王 庁 下 文 」 〔 『 金 剛 寺 文 書 』 〕 ) 。 延 慶 四 年 の広義門院の御産御祈のさい、御室寛性法親王は、 真光院禅助に対して、祈祷の人員に漏れた能助を 推 薦 し て い る ( 『 広 義 門 院 御 産 愚 記( 公 衡 公 記 ) 』 延 慶 四 年 二 月 二 十 三 日 条 所 載「 寛 性 法 親 王 書 状 」 ) 。 ま た、 東 寺 長 者 と し て の 活 動 も 確 認 で き る ( 「 後 伏 見 上 皇 院 宣 」 〔 正 和 四 年 五 月 二 十 日 付、 『 東 寺 百 合 文 書 』 ゐ 函 一 一 〕 ・ 「 東 寺 長 者 能 助 挙 状 案 」 〔 同 年 十 月 二 日 付、 『 東 寺百合文書』な函二〇〕など) 。   能助は、正月六日に東寺一長者に任ぜられ、護 持僧の宣下を受けた。能助はこれについて「国家 之忠勤、門跡之眉目也」という感懐を漏らしてい る。能助は、八日より後七日御修法を始行し、結 願の十四日に二条富小路内裏において、花園に加 持香水を奉仕した。神木在京のため、綱所を召し 具さず東寺の寺官のみを引き連れただけであり、 「 毎 事 存 省 略 之 儀 」 ず る 状 況 で あ っ た と い う ( 真 言 院 後 七 日 御 修 法 請 僧 交 名 并 裏 書 続 紙 」 〔 『 東 寺 百 合 文 書』ろ函三〕 ) 。 阿 闍 じゃ 梨   仏語 ( 梵語 a¯ca ¯rya の訳 )。弟子を教授し、 その軌範となる高徳の師の意。小乗・大乗・密教 などで種々の別がある。ここでは後七日御修法の 導師を勤める大阿闍梨を指す。

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