印度學佛敎學硏究第66巻第2号 平成30年3月 (187) ― 788 ―
非認識論証因における否定対象と認識対象について
道 元 大 成
1.問題の所在
ダルマキールティ(ca. 600–660)は,推理における三種類の論証因の内の非認識 論証因(anupalabdhihetu)に関して,否定対象の非認識とは,相対否定(paryudāsa) によって,否定対象とは別なものの認識を指示するものであると言う.また非認 識論証因においては,認識と存在性とが等置されるため,否定対象の非認識と は,否定対象の非存在を意味する1).従って,例えば壺が認識されない時,その 「壺の非認識」は,「壺の非存在」,「壺とは別な場所の認識」,「壺とは別な場所の 存在」を示すものとなり,これら四要素の全てが同じ論証因となる. さて,そのような認識対象である場所の表現は,Hetubindu(以下,HB)では, 「壺と結合していない本体を有する」や「否定対象とは別である(anya)」,「単独 である(kevala)」などといった限定を付された形で説明される.その場合の場所 に対する記述は,それぞれどのような意味合いを持つのかをアルチャタ(ca. 710– 770)のHetubinduṭīkā(以下,HBṬ)を中心に検討する. 2.「壺と結合していない本体を有する」場所に対する二種の表現
まず以下で,HBṬ における,「壺と結合していな本体を有する」という限定に 関して,二通りの解釈があることを確認する. 実に,壺と結合していない(asaṃsṛṣṭa)本体を有するこの場所は,二種類である.[第一が] 壺を有するが,それ(壺)から排除された本体を持つという点で,それ(壺)とは別な[場 所]である.また,[第二が]壺に対する保持者となっていない単独な[場所]である.そ れ(壺)を欠いたものとしてのそれ(場所)を直接知覚によって把握する場合に,[場所が] 壺とは別であることと壺を欠くこととがまさに把握されるのである.従って,諸実在物の非 混合(asaṃkara)の立証のためではなく2),「ここにこれがない」という目的で[非存在に関 する行為(abhāvavyavahāra)のために],別な認識手段(推理)が求められるべきである3).(188) 非認識論証因における否定対象と認識対象について(道 元) ― 787 ― ここでは,壺と結合していない場所に関して二通りの表現が示される.第一 が,壺とは「別な」場所,第二が,「単独な」場所である.そして,場所を把握 する際には,場所が壺とは別であること(anyatva),及び単独である場所が示唆す る壺を欠くこと(viraha)という二様のあり方が,壺と結合していない本体を有す る場所として把握されるのである.尚,場所が壺を欠いているということは,換 言すれば壺の非存在となるが,それは推理によって導出される立証されるべき属 性(sādhyadharma)ではない.壺の非存在は場所と同様,論証因に区分されるもの であって,その際の立証されるべき属性とは,「壺が存在しない」という言語表 現などを意味する非存在に関する行為(abhāvavyavahāra)である. では,場所が,壺とは「別である」と論じられ,一方で「単独である」と主張 される場合の「壺と結合していない本体を有する」という限定は,それぞれどの ような意味の下で述べられたものなのかを比較検討する. 3.
「別である」という表現について
まず第一の,壺とは別な場所という表現を,一つの認識手段の働き(ekapramāṇavyāpāra) という観点から検討する.一つの認識手段の働きとは,あるもの(X)の措定(pariccheda)と,それ以外のもの(non-X)の排除(vyavaccheda)が同時になされる作
用を意味する.更にそのXとnon-Xで全ての存在が包摂され,Xとnon-X以外 の第三の種類がないという排中律で示すということも一つの認識手段の作用とさ れる4).そしてアルチャタは,一つの認識手段の働きによってXとnon-Xとに分 立された両群が,互いに結合していないということを以下のように結論づける. 従って,以上のように,一つの認識手段を根拠とする[実在物の]非混合性(asāṃkarya) の立証を説明して結論づけるために[以下のように]述べる.従って,以上のように[即 ち]上述の論理によって,個々に限定された自体を有するあるものの認識から,その知覚 されているものに関する,それとは別なもの[即ち]それと同等の能力を性質とするか, 或いはそれとは相反したもの[即ち]それの性質を欠いたもの,それ自体からの排除[即 ち]区分(pṛthakkaraṇa)がある.何故ならば,その認識されているものが,認識されてい ない自性とは別な本体として顕現するからである5). アルチャタは,Xを措定し,non-Xを排除する際のnon-Xの排除に「区分」と いう表現を充てている.この際のXはnon-Xとは区別された別なものであるか ら,Xとnon-Xという両群は論理的側面で結合関係にないことになる.また, non-Xに包摂された特定のものYも当然,Xとは結合していないという結論に帰
(189) 非認識論証因における否定対象と認識対象について(道 元) ― 786 ― 着する.従って,ここでの非結合とは,論理的側面から言及されたものと解釈で きる. 4.
「単独である」という表現について
次に第二の,場所が「単独である」という表現について検討する. [否定対象とは]別なものの存在の成立そのものによって,それ(壺など)の非存在が成立 する.何故ならば,それ(場所)とは別なもの(壺など)と結合していない本体を有する, 単独なそれ(場所)がそうであること(否定対象の欠如を本体とすること)を確立させる 認識手段(直接知覚)のみに基いて別なもの(壺)の排除が成立するからである6). ここでの「結合していない本体を有する」という表現について,アルチャタは 「自体を欠いている」と注釈する7).存在している場所が壺の存在を欠くという場 合,存在している場所と存在していない壺とは,その存在性の観点では結合して いないということになる.つまり,これは,先の論理的な非結合と異なり,一方 が存在し,他方が存在しないという点を述べたものである8).従って,場所の存 在は,その存在性の観点で結びついていない壺の非存在を指示するものである. また「単独な」という限定詞が付与される場所を直接知覚することによって, 別なものの排除がなされるが,ここでの排除はHBṬ では「非存在」と注釈され ている9).これも同様に,論理的側面での非結合という意味で用いられる場合の 排除が「区分」という意味で解釈されていたのに対し,「単独な」という限定詞 が用いられる場合には,存在論的側面から論じられたものといえる. 5.結論
以上のように,アルチャタは,非認識論証因において「壺と結合していない本 体を有する」場所が認識される際には,壺と論理的側面で結合していない「別で あること」と,また存在論的側面で結合していない「壺を欠くこと」という二様 のあり方でもって把握されると解釈していたといえる.以上のアルチャタの解釈 を基にして,HB中に見られるそれぞれの「壺と結合していない本体を有する」 という限定を再解釈出来るか否か,つまり,この限定が論理的側面での非結合 か,存在論的側面での非結合か,或いは両側面での非結合を意味するものである のかは今後の検討課題とする.(190) 非認識論証因における否定対象と認識対象について(道 元) ― 785 ― 1)HB 26, 3–7. 2)クマーリラは,非存在という認識手段(abhāvapramāṇa)によって実在物の非混合が認 識結果として把握されると主張する(ŚV abhāvapariccheda 2ab).また,注釈によれば, abhāvapramāṇaの認識結果とは,非存在であり,実在物の非混合とは,その非存在を指 すと解釈される.ŚVV 409, 16–19, NR 336, 8f., Kāśikā 194, 16–18. 3)HBṬ 180, 9–14. Cf. also HBṬĀ 392, 6–19. 4)HB 32, 5–7.Cf. 斉藤[1993: 69–70],渡辺[2002: 67–68],桂[1988: 74]. 5)HBṬ 199, 9–13 ad. HB 32, 13. 6)HB 28, 2–4. 7)HBṬ 179, 12–14. Cf. Kellner [1998: 41f.],計良[1994: 39]. 8)同様の解釈はHBṬ 176, 19–177, 4からも推測出来る.クマーリラは存在と非存在の両者 は区別された別なものであり,同一基体に,存在の部分と非存在の部分が等価なものと して両立することはありえないと主張する.それに対して,アルチャタは,非存在は存 在とは結合しないものであり,あるものの存在が他と「結合していない本体を有する」 場合,他方の非存在を示すものであると主張する.尚,HB 27, 4f., HBṬ 175, 10–19, HBṬĀ 390, 26f., ŚV abhāvapariccheda 18–20, 道元[2017]も参照のこと. 9) HBṬ 180, 5–9. 〈略号表〉
HB: Dharmakīrti's Hetubindu. Ed. Ernst Steinkellner. Beijing: China Tibetology Publishing House;
Vienna: Austrian Academy of Sciences Press, 2016. HBṬ: Hetubinduṭīkā of Bhatta Arcata with
the Sub-Commentary Entitled Āloka of Druveka Miśra. Ed. Sukhlalji Sanghavi and Shri Jinavijayaji.
Gaekwad s Oriental Series, no. 113. Baroda: Oriental Institute, 1949. HBṬĀ: see HBṬ.
Kāśikā: Mīmāṃsaślokavārttikaṃ: Sucaritamiśrapraṇitayā Kāśikākhyayā Ṭīkayā Sametam. Part III. Ed.
V. A. Ramasvami Shastri. Trivandrum: University of Travancore, 1943. NR: Ślokavārttika of Śrī Kumārila Bhaṭṭa: With the Commentary Nyāyaratnākara of Śrī Pārthasārathi Miśra. Ed. Svāmī
Dvārikādā Śāstrī. Varanasi: Tara Publications, 1978. ŚV: See Kāśikā, NR, and ŚVV. ŚVV: Ślokavārtikavyākhyā Tātparyaṭīkā of Uṃveka Bhaṭṭa. Ed. S. K. Ramanatha Sastri. Madras:
Uni-versity of Madras, 1940.
〈参考文献〉
Kellner, Birgit. 1998. Studies on Non-Cognition (anupalabdhi) in the Logico-epistemological School of Buddhism. PhD diss., Hiroshima University. 桂紹隆 1988 「ジュニャーナシュ リーミトラのアポーハ論」『仏教学セミナー』48: 69–81. 計良龍成 1994 「paryudāsaと prasajya-pratiṣedha―非知覚因におけるその両者の無区別性について―」『インド哲学仏 教学研究』2: 36–52. 道元大成 2017 「非認識論証因における存在・非存在の関係性」 『仏教文化研究所紀要』17: 97–120. 斉藤仙邦 1993 「HetubinduにおけるAnupalabdhiにつ
いて―anyabhāvaとtadabhāva―」『仏教文化』30: 65–77. 渡辺俊和 2002 「Dharmakīrti の非認識論―相反関係を中心に―」『南都仏教』81: 54–80.
〈キーワード〉 非認識論証因,アルチャタ,asaṃsṛṣṭa