曾子と礼
著者 末永 高康
雑誌名 鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編
巻 60
ページ 1‑21
別言語のタイトル Zongzi and ""li""
URL http://hdl.handle.net/10232/8793
曾子と礼
末
万え
古同
康
( 二O
O八
年一
O月
三
O日
受理 )
なぜ︑﹁曾子と札﹂なのか︒﹁曾子﹂と﹁札﹂というような通常結び
つけて語られることのないものを結びつけて語ろうとするならば︑ま
ず︑ それ を語 るこ との 弁明 がな され なけ れば なら ない
︒
論者は以前︑新出土資料の﹃内礼﹄の出現を受けて︑﹃大戴札記﹄の
曾子 立事 篇以 下の 十篇 (以 下︑ これ を﹃ 曾子
﹄と 呼び
︑そ の引 用に おい ては 篇 名の
﹁曾 子三 手を 省略 する )を 再検 討し たこ とが ある
*1
今 0
本の
﹃曾 子﹄
は何らかの﹁曾子語録﹂に由来すると考えられるが︑なかでも︑いく
つかの短章を並べた冒頭に﹁曾子日﹂を冠して全体を曾子言としてい
る諸笛ヤ│立事︑本孝︑立孝︑制言の諸篇は後人の加工の度合いが少
なく
︑曾 子そ の人 の思 想を うか がう 資料 たり 得る
︒特 に︑ 立事 篇の
﹁君 子﹂
について述べた短章などは︑内容的にも文体的にも﹃論語﹄の伝える
曾子 言と 一致 し︑ 曾子 その 人の 言葉 を今 に伝 えて いる 可能 性が 高い
︒と
︑
おおよそこのようなことを論じたのであるが︑その際︑注目したこと
の一 つに
︑立 事篇 で君 子と 札と の関 係が 強調 され ない とい
︑
Z R
がある
︒
鹿児島大学教育学部准教授
? 手
立事篇には﹁札﹂字がこか所しか現れない︒この篇の主題が﹁君子﹂
であり︑かっ︑その内容が基本的に﹃論語﹄に見える孔子思想の祖述
であ るこ とを 回仔 つ時
︑﹁ 札﹂ への 言及 の少 なさ は︑ この 篇を 特徴 づけ る もの の一 つで ある と言 える
︒他 方︑
﹁論 語に 見え る曾 子﹂ につ いて は︑
﹁微
細な礼﹂が﹁さほど重視され﹂ないという渡遺卓氏の分析があるし*2︑
孔子後学について︑﹁孔子の教えの﹂﹁形式的方面を力説して札を尊重
した﹂子夏・子併の派に対し︑その﹁精神的な方面を強調した﹂のが
曾子の派であるとの理解は︑思想史の﹁常識﹂でもある
*3 0
君子と札
との関係が強調されないというのは︑必ずしも曾子との関係を証する
もの では ない が︑ その 関係 を暗 示す るも ので ある とは 言え よう
︒そ こで
︑
立事篇の曾子言を曾子その人に帰する傍証の一つとしてこのことを用
いた ので ある が︑ その 時か ら気 にな って いる こと があ った
︒
立事篇で﹁札﹂字に言及するこ例のうちの一つは﹁君子人の歓を絶
たず
︑人 の札 を尺 ミさ ず﹂ (第 十八 章
*4)
であ る︒ この
﹁札
﹂字 の用 例が
︑
たとえば記竪巴の﹁君子博く文を学びて︑之を約するに札を以てす﹂
(薙
也篇
*5)のように君子と礼との関係を不可分に語るようなものでな
いこ とは 見や すい
︒が
︑こ こと の重 複匂 が﹃ 札記
﹄曲 札上 篇に
﹁君 子︑ 人の 歓を 氏︑ くさ ず︑ 人の 忠を 掲く さず
﹂と 見え てい るの であ る︒ また
︑
いみな完全な重複とは言えなくても︑﹁君子︑人の固に入りでは︑其の韓を称
きかひ
せず
︑其 の禁 を犯 さず
﹂( 第一 干章 )と 曲札 上篇 の﹁ 寛に 入り て禁 を問 ひ︑
国に入りて俗を間ひ︑門に入りて詳を問ふ﹂などは内容的に重なって
いる︒曲札篇は﹁微細な札﹂を記したものと言えようから︑これらの
重複は立事篇がまた﹁微細な札﹂との関係を有していることを意味し
よう︒とすると︑単に﹁礼﹂字への言及に注目するだけで︑君子と札
との関係が強調されていないと決めつけることはできないのではない
か︒ この よう な疑 いが 頭を もた げて くる ので ある
︒
2
曲礼 比一 属と の重 複は 立事 篇以 外の 篇に も及 んで いる
︒事 父母 篇首 章の
﹁若 夫坐 如戸
︑立 如斉
﹂( 読み は下 文参 照) との 同文 が曲 札上 篇一 に見 えて いる のを 始め とし て︑ 本孝 篇第 二章 の﹁ 孝子 高き に登 らず
︑危 きを 履ま ず* 6︑
そし
荷くも笑はず︑有くも誓らず︑陰に命ぜず︑臨みて指ささず︒故に
尤の中に在らず﹂と曲札上篇﹁人子たる者︑・:高きに登らず︑深きに臨
まず
︑有 くも 砦ら ず︑ 有く も笑 はず
︒孝 子聞 に服 せず
︑危 きに 登ら ざる は︑ 親を 辱む るを 憧る れば なり
︒:
・城 に登 りて 指さ さず
︑城 上に て呼 ばず
﹂︑
あ だ と も
制言 上位 一一 騎第 七章 の﹁ 父母 の躍 は︑ 与に 生を 同じ くせ ずし 以下 と曲 礼上 篇
の﹁父の離は︑与共に天を戴かず﹂以下の類似はよく知られている︒ま
た︑制言下篇首章﹁君子禁を犯して人の境に入らず︑郊に及びて禁を問
ひ命 を請 ふ* 7﹂ も︑ 先に 引い た由 礼上 篇の
﹁寛 に入 りて 禁を 問ひ
︑:
・﹂ と内 容的 に重 なる
︒
この重複には﹃内札﹂の例も加えてよいであろう︒﹃内札﹄もまた何
らかの﹁曾子語録﹂に由来すると想定されるが:︑﹁内札﹄で事父母篇
むす首章と重なる部分に続く﹁孝子︑父母疾あれば︑冠は結ばず︑行くに
刻せず︑草立せず︑庶詰せず:﹂は曲札上篇の﹁父母疾有れば︑冠者
︿L け つ こ と ば お こ た
櫛ら ず︑ 行く に掬 せず
︑一 三一 口惰 らず
﹂と 重な って いる
︒さ らに
︑由 札篇
以外でも立孝篇首章の﹁故に父と言はば︑子を畜ふを言ふ﹂以下も類似
句が
﹃儀 礼﹄ 士相 見札 に見 える こと を慮 競が つと に指 摘し てい て︑
﹃曾 子﹂
や﹃内礼﹄に材料を提供した﹁曾子語録﹂には︑どうやら﹃儀礼﹄や曲
札篇といった﹁微細な礼﹂にかかわる文献と重︑なる記述が多かったよう
なの
であ
る︒
第
6 0
巻( 2 0 0 9 )
人文・社会科学編鹿児島大学教育学部研究紀要
これら曲札篇等との重複が意味するところは何か︒立事篇等を曾子そ
の人 の思 想を うか が︑ つ資 料と 見な そう とす るな らば
︑こ の問 題に つい て
改めて考えてみる必要が出てくることになろう︒曾子と礼との問題を考
える に至 る端 緒は ここ にあ る︒
この曲札篇等との重複以外にも﹃曾子﹄は﹁礼﹂への言及に関して一
つの特徴を有している︒上にも少し触れたように︑﹃曾子﹄に対する現
時点
での
論者
の立
場は
︑立
事︑
本孝
︑立
孝︑
制言
の諸
比一
属︑
それ
から
﹃内
礼﹄
の出現によって由来の古いことが明らかになった事父母篇首章あたりは
(以
下︑
これ
らの
諸篇
をつ
げ事
篇等
﹂と
呼ぶ
)︑
曾子
その
人の
思想
をう
かが
う資
料たり得ると見なす立場であるから︑この部分に限るとして︑﹁札﹂へ
の言 及に 明ら かな 偏り があ るの であ る︒ 立事 比一 墨寸 は内 容的 に︑ 君子 を主 題と する 立事
︑制 言の 篇と
︑孝 を主 題
とする他篇に区分される︒この区分は非常に明確で︑整官においてはほ
ぼ章ごとに﹁孝﹂字が現れるのに対して︑八刀量的に圧倒的に多い
前者*凶において﹁孝﹂字が現れるのは制言篇首章の一か所に限られる︒
この
﹁孝
﹂字 の分 布と
﹁札
﹂字 の分 布が ほぼ 重な るの であ る︒ 立事 篇で
﹁礼
﹂
字がこか所しか見えないことは上に述べたが︑制言篇も﹁孝﹂字の見え
る上篇首章を除けば︑他に一か所見えるだけである︒それに対して孝が
︑
主題とされると︑﹁君子の孝を立つるや︑其れ忠を之れ用ひ︑礼を之れ貴ぶ
﹂(
立孝
篇首
章)
︑﹁
力を
尽ミ
して
礼有
り︑
・:
孝と
謂ふ
べし
﹂(
同篇
第二
章)
のように︑孝と不可分な形で札が語られるようになる︒そして︑曲札篇
等との重複に関しても︑孝を主題とする部分の方がその重複が目立つの
であ
る︒
これが﹁論証巴あたりでは逆の印象を与えられることになる︒上に引
いた
﹁博 学約 礼﹂ や衛 霊公 篇の
﹁君 子は 義以 て質 と為 し︑ 礼以 て之 を行 ふ﹂ を指 摘す るま でも なく
︑﹃ 論語
﹄に おい て君 子と 礼は 不可 分で ある
︒他 方︑
為政篇で孟艶子の孝への聞いに関連して﹁生きては之に事ふるに札を以
てし︑死しては之を葬るに札を以てし︑之を祭るに札を以てす﹂と言わ
れているから︑孝もまた札と不可分とされてはいるが︑﹃論証巴中で孝
と礼とが結び付けられているのはこの一か所に過ぎない︒﹃論一詰﹄にお
末永曾子と礼
いて孝と礼との関係は君子と礼との関係ほどに強調されていないので
ある︒それが立事篇等においては︑これがちょうど逆転したような形
になっている︒曾子言はなぜこのような特徴を持っているのか︒これ
は問うに値する問題ではないであろうか︒
このように︑曾子と札との関係を問題にしていくならば︑次に視野
に入ってくるのは﹃札記﹄の諸篇である︒しばしば子器等に反駁され
ているとはいえ︑檀弓篇でもっとも多く登場している弟子が曾子であ
るのはよく知られている目︒檀弓篇の個々のエピソードは必ずしも
史実を反映していないであろうが︑そのエピソード全体が示すこと︑
すなわち︑七十子の時代︑札の細部の規定については権威ある文献が
いまだ存在せず︑弟子たちは自らの実践においてその規定の細部を埋
めていかなければならなかったこと︒それゆえ弟子の聞で礼の細部の
規定についての意見の相違が存在したこと︒また︑その意見の相違を
めぐって弟子たちの聞で討論が行われていたこと︒そして︑弟子たち
の札の実践や討論の結果が︑孫弟子たちにとっては札の細部の規定と
して機能したこと︑等々までを疑うことはできないと思われる︒檀弓
篇に残された曾子のエピソードが︑たとえ曾子の言動をそのままに伝
えるものではなかったとしても︑曾子が他の弟子と同様︑札に対して
強い関心を持ち︑自ら礼を実践することによって後進に範を示してい
たことを疑うべき積極的な理由はない︒曾子の思想から礼への関心を
抜き去ることはできないように思われるのである︒
﹃札記﹄の中で更に興味を引くのは︑いわゆる完走﹂について曾子
と孔子が問答する曾子問篇である︒この篇が秦・漢の擬託であるかは
別と して
︑そ こに 見え る開 答が 後世 の擬 託で ある とい うの は︑ おそ らく
︑
これまでの研究が明らかにしている通りであろう品︒だが︑これが
後世の擬託であるにせよ︑なぜ︑これらの問答において曾子が問答の
3
主たる相手として選ばれたのかは問題となる︒﹃孝経﹄における問答相
手が曾子であるように︑それが仮託であるにせよ︑通常はそれにふさ
わしいとされる人物が選ばれるからである︒とすると︑少なくとも曾
子問篇の編者の目には︑﹁変礼﹂についての聞いを発するにふさわしい
人物として曾子が映っていたことになる︒ここには﹁虚像﹂が含まれ
てはいようが︑そのように理解されるだけの素地は曾子自身のうちに
あっ たと 考え るべ きで あろ う︒
同じことは︑﹃曾子﹄の天円篇についても言える︒﹃准荷子﹄との重
複からこの篇の成立を漢代以後に押し下げるような見解品が妥当で
あるかは別として︑これが後世の擬託であることはほぼ動かないであ
ろう︒しかし︑天地陰陽との関係で礼を説くこの篇が︑曾子に仮託さ
れていることの意味は︑曾子問篇と同様に間われなければならない︒
曾子問篇や天円篇は︑曾子の礼思想をそのまま示すものとは一言えない
が︑曾子と礼との関係の深さを暗示するものであるとは言える︒資料
の制 限か ら明 らか にで きる こと は限 られ はす るも のの
︑﹁ 企画 子と 札﹂ に
ついて︑一度は問うてみる必要があるのではないかと思われるのであ
る︒では︑どこから問うていくか︒やはり︑曲礼篇等との重複から見
てい くの がよ いで あろ う︒
さて︑通常︑二つの文献に重複がある場合︑両者の先後関係が問題
とされる︒ただ︑曲礼篇のような礼を規定した文献と︑立事篇等のよ
うな語録との重複の場合︑単に文献成立の先後を論ずるだけでは︑十
分でないことがある︒次の事父母篇首章の例で示そう︒
4
若夫坐如
p w
立如斉︑弗訊不
z z R
言必斉色︑此成人之善者也︑未
得震人子之道也︒
か た し ろ も の い み
坐る 場合 には 記り の戸 のよ うに 端正 に坐 り︑ 立つ 場合 には 斎の 時の よう に 端正 に立 ち︑ (目 上の 人か ら) 尋ね られ なけ れば (自 分か ら) 話を する こと な は
こ せと ず
は
成空
会 5
歪:で で : d t
ふ
t
る
1
1
,...仁会
3~こ
伝 件
管 理
ト なき 面
れ 持
る ちも:で
の 合 で え
あ るっ と
人 よつ
の つ 第60巻 (2009)
子の 道と して は適 切と は言 い難 い︒
傍線部が曲札篇と重複する部分である︒この語り方からして︑傍線部
を含む前回句が事父母篇に先立つことは明らかである︒ならば︑曲札止一属
が事父母篇に先だって成立していたかというと必ずしもそうとは言えな
い︒朱喜⁝や院元が主張するように︑曲礼篇が事父母篇を利用している可
能性が高いのである目︒事父母篇が曲礼篇の文章を引くのにもかかわ
らず︑曲礼篇は事父母篇を利用している︒この一見すると矛盾している
ような事態が生ずるのは︑曲札篇が﹁記された札﹂だからである︒札の
規定の場合︑まずは行われ(あるいは行うべきとされ)︑語られ︑そして記
される︒﹁記された礼﹂としての曲礼篇が成立していなくても︑そこに
記された礼への言及はなされ得るわけである︒ここでの関心は︑曾子言
の内に曲礼的な礼の規定があることの意味にあるから︑文献としての曲
礼篇と立事篇等との成立の先後はさしあたって問題とならない︒もっと
も︑立事篇等が﹁記された礼﹂としての曲礼篇を利用していることが立
証され︑それが曾子その人と無関係であることが一不されるのであれ
ば品︑立事比一属生寸を曾子その人の思想をうかがう資料たり得ると見なす
という本論の立場は崩れ去ることになるが︑その可能性は低いであろう
というのが現時点での論者の考えである品︒
そこで︑立事篇等が曾子思想をうかがう資料たり得るという前提で話
を進めるとして︑では︑なぜそこに記録された曾子言の内には曲礼的な
人文・社会科学編 鹿児島大学教育学部研究紀要
札の規定が少なからず含まれているのか︒このことを考えるためには﹁曲
礼的︑な礼の規{亙についてもう少し明確にしておく必要があろう︒否︑
重複しているのは︑曲礼篇だけではなく﹃儀礼﹄とも重複しているから︑
これも含めて考えなければならない︒まずは﹁儀礼﹄との重複から見て
いきたい︒この重複部分は﹃内札﹄にも見えているから︑それもあわせ
示し てお く︒
︻士 相見 札} 輿君 言︑ 言使 臣︒ 輿大 夫言
︑言 事君
︒輿 老者 言︑ 言使 弟子
︒輿 幼者 壬一 口︑ 言孝 弟於 父兄
︒血 ハ衆 吾一 円二 一一 口* げ慈 祥︒ 奥居 官者 言︑ 一言 忠信 也︒ 君主 と話 をす る* 同時 には
︑臣 下を 使う こと につ いて 話す
︒大 夫と 話を する 時に は︑ 君主 にお 仕え する こと につ いて 話す
︒老 人と 話を する 時に は︑ 年少 者を 使う こと につ いて 話す
︒幼 い者 と話 をす る時 には
︑父 兄に 対し て孝 悌で ある こと につ いて 話す
︒民 衆と 話を する 時は
︑い つく しみ や善 良さ につ いて 話す
︒官 位に つい てい る者 と話 をす る時 には
︑忠 信に つい て話 す︒
︻立
孝︼
故奥 父言
︑言 畜子
︒奥 子言
︑言 孝父
︒奥 兄言
︑言 順弟
︒輿 弟一 言︑ 言承 兄︒ 輿君 ヨ一 円一 言使 臣︒ 輿臣
‑一 円言 事君
︒ だか ら父 であ る人 と話 をす る時 は︑ 子を 養育 する こと につ いて 話し
︑子 であ る人 と話 をす る時 は︑ 父に 孝行 する こと につ いて 話し
︑兄 であ る人 と話 をす る時 は︑ 弟を 教え 導く こと につ いて 話し
︑弟 であ る人 と話 をす る時 は︑ 兄の 一言 うこ とを 聞く こと につ いて 話し
︑君 主で ある 人と 話を する 時は
︑臣 下を 使 うこ とに つい て話 し︑ 臣下 であ る人 と話 をす る時 は︑ 君主 にお 仕え する こと
につ
いて
豆吋
す︒
︻内
礼︼
︿故
﹀日
︑輿 君言
︑ニ 一一 口使 臣︒ 輿臣 言︑ 言事 君︒ 輿父 言︑ 言畜 子︒ 輿子 言︑ 言孝 父︒ 輿兄 言︑ 一一
=口 慈弟
︒奥 弟吾 一円 壬一 口承 兄︒ 反此 乱也
︒( 訳は 省略 )
末 永 曾 子 と 礼
立孝篇が父子から語り出すのに対して︑士相見礼と﹃内札﹄が君臣か
ら語り出すという相違が目を引くが︑ここでは問題にしない品︒札
の規 定の 性格 とし て問 題と しな けれ ばな らな いの は︑ この 文章 が﹃ 儀礼
﹂
の﹁経﹂の中では異質なものであるという点である︒今本の土相見礼
には
﹁記
﹂は 付け られ てい ない が︑ 上の 文章 など 儀式 の次 第を 示し た﹁ 経﹂ の部 分の よう には 見え ない
︒ど う見 ても
﹁記
﹂的 なの であ る︒ もっ とも
︑
この部分を含む土相見札の後半部は︑すでに張爾岐︑盛世佐によって
﹁記﹂の丈であると見なされているのであるが品︑そのように見なす
のであれば︑﹃儀礼﹄における﹁経﹂と﹁記﹂の性格付けがまずなされ
なけ れば なら ない であ ろう
︒ 田中 利明 氏は
︑武 威漢 簡﹁ 儀礼
﹄に おい ては 燕札 以外 の篇 に﹁ 経﹂ と﹁ 記﹂ の区 別が 無い こと を手 がか りに して
︑今 本の
﹁経
﹂﹁ 記﹂ の区 分と は一 応独 立に
︑﹁ 経﹂ を﹁ 始終 一貫 した 儀式 の次 第を 写し た部 分﹂ とし
︑﹁ 記﹂ を﹁ 直接 的な 記﹂ と﹁ 間接 的な 記﹂ に区 分さ れて いる
*n o
﹁直
接的
な記
﹂
とは︑士昏札の﹁記﹂にまとめられている様々な口上などがその代表
例で
︑﹁ (経 にお いて )言 わな くて もわ かっ てい るの で省 略さ れた もの
︑
口で伝えられることになっているから︑経の中に組み入れることをし
なか った もの
﹂︑ すな わち
︑﹁ 経﹂ には 組み 込ま れて いな いが
︑﹁ 経﹂ の
一貫した儀式を行う上で欠くことのできないことがらを記載した部分
である︒また﹁間接的な記﹂とは︑それ以外の︑それが無くても﹁経﹂
の儀式を行う上で支障のないことがらを記載した部分である︒この区
分は︑今本の区分より合理的であると思われるので︑これを用いたい
(よ って
︑以 下で 用い る﹁ 経﹂
﹁記
﹂は 特に
﹁今 本の
﹂と 断ら ない 限り 回中 氏の それ
となる)︒この区分に従えば士相見札の﹁士見子大夫﹂以下は﹁記﹂と
見なし得る︒ただ︑ここでの分析のためには︑この﹁間接的な記﹂を
さし あた って さら に二 分し てお く必 要が あろ う︒
士相 見札 の﹁ 士見 子大 土人
﹂以 下︑
﹁凡 燕見 君﹂ の手 前ま では
︑士 が大
夫に見える札︑嘗て大夫の臣であった士が大夫に見える札︑大夫が相
互に見える札等々が略説される︒この部分は︑確かに田中氏が言われ
るように︑士相見札の﹁経﹂たる︑士が相互に見える儀式の次第とは
直接関係しない︒しかし︑内容的にはどちらかと言えば﹁経﹂的なの
である︒この部分が土相見札の﹁経﹂に比して簡略であるのは︑儀節
の詳細については﹁経﹂を参照し得るとして︑士相見の場合と異なる
部分だけが抜き出されて記されているからに過ぎない︒たとえば︑大
夫が 相互 に見 える 札を 記す 部分 など は︑ 土の 場合 と﹁ 撃﹂ (面 会の 際の 贈
り物)が異なることを示すだけであるが︑その末尾に﹁(他は)士相見
の札の如し﹂と付け加えられていて︑士相見札の﹁経﹂を合わせ見れ
ばこの儀礼が行えるようになっている︒これはちょうど﹁経﹂におい
ても似たような儀式が繰り返される時には﹁納吉には︑属を用ひ︑納采
の札の如くにす︒納慨には︑玄縛の束吊と儒皮とをもてし︑納吉の札
の如 くに す﹂ (士 昏礼 )の よう に︑ その 相違 点だ けを 記し て﹁ (他
O
の如し﹂と省略して記されるのに等しい︒メインの﹁経﹂との関係 は)O
においては﹁間接的な記﹂であっても︑あくまで儀式の次第を示すこ
とに 主眼 があ るの であ る︒
ここと類似したものに︑田中氏が﹁現在法律用語として使われてい
る所語附則というものに当る﹂とされる部分がある︒士昏札の今本の
﹁経﹂の末尾に﹁若し勇姑既に残すれば﹂云々と付け足された部分など
がその例で︑﹁経﹂においては想定されていない事態において︑どのよ
うに儀式を進行していくかが記された部分である
2 0
これも︑メイ
ンの﹁経﹂とは直接関係しない﹁間接的な記﹂と見なし得るが︑その
内容 はや はり
﹁経
﹂的 であ る︒
それに対して︑上に引いた立孝篇との重複部分は︑もはや儀式の次
6
第を記すことに主眼が置かれていない︒相手によって何を語るべきかが
規定されているのであって︑それを語る際の儀礼的なやりとりの次第が
記さ れる わけ では ない
︒こ こに つづ く部 分も
︑ 凡輿 大人 言︑ 始視 面︑ 中視 抱︑ 卒視 面︑ 母改
︒衆 章右 是︒ 若父
︑則 遊目
︑
母上於面︑母下於帯︒若不言︑立則視足︑坐則視膝︒
凡そ大人
(U
天子または諸侯・卿・大夫など)と言︑つのには︑始めは顔を見
第
6 0
巻( 2 ∞ 9 )
て︑中頃は抱(襟の合わさっている所)を見て︑終わりにも顔を見て︑(そ
の委怒を)改めてはならぬ︒民衆と話すのにもこのようにする︒父と話すの
であれば︑目を動かすのはよいが︑顔より視線を上げてはならず︑帯より視
線を下げてもならない︒話をしない場合は︑(相手が)立てばその足を見て︑
人文・社会科学編
坐ればその膝を見る︒
といった︑視線の置き方を説いたもので︑儀式の次第からは一応独立し
ている︒これもまた札の規定ではあろうが︑﹁経﹂とはあきらかに性格
を殊にする︒ならば︑同じく﹁間譲的な記﹂であっても︑これを﹁経﹂
の附則的なものと︑それ以外とに分けて考えるのが便利であろう︒そこ
こころえで︑ここでは前者を﹁附則﹂︑後者を﹁心得﹂と呼ぶことにしたい︒士
相見の札H
﹁ 経
Lに対して︑大夫相見の札等を﹁附塑と呼ぶのは適切
な言葉使いとは言い難いが︑これを﹁もし(士ではなく)大夫同士であ
る場 合﹂ とと らえ るな らば
︑土 馬町 礼の
﹁も し男 姑が 既に 亡く なっ てい る
場合﹂等々とパラレルに考えることができるであろう︒ともかくもメイ
ンの﹁経﹂とは異なる状況化で遂行される儀式の次第を意識して記され
たのが﹁附型である︒また︑童話﹁心得﹂というのもあまり適切な
言葉ではないが︑他に適当な言い方が見あたらないのでこれを用いる︒
﹃曾子﹄と重複する部分は︑話す││士相見札の文脈ではこの﹁話す﹂
は﹁進言する﹂の意味になるが︑話す内容についての心得︑それに続く
部分は︑視線の置き方についての心得と言ってよい︒これにつづく部分
鹿児島大学教育学部研究紀要
も 凡侍 坐於 君子
︑君 子欠 伸︑ 間日 之早 曇︑ 以食 具告
︑改 居︑ 則請 退可 也︒ 夜侍 坐︑ 問夜
︑膳 輩︑ 請退 可也
︒
凡そ君子に侍坐するに際しては︑もし君子が欠伸をして︑日の傾きかげんを
たずねできたり︑食事が具わったかなどと言つできたり︑居住まいを改めた
ならば︑退出を請うてもかまわない︒夜に侍坐するに際しては︑時間をたず
ねできたり︑輩(眠気覚ましの辛い野菜)を食べたりするならば︑退出を請
うてもかまわない︒
であ るか ら︑ 君子 に侍 坐す る際 の心 得と 言え る︒
さて︑かように﹁間接的な記﹂を﹁附型と﹁心得﹂に区八主ヲるのは
他でもない︑この﹁心得﹂の部分が曲札篇の規定に似ると考えるからで
ある︒上に引いた視線の置き方についての心得は︑曲札下にも
凡視
︑上 於面 則敷
︑下 於帯 則憂
︑傾 則姦
︒
およそ視線については︑(相手の)顔より上におけば倣慢に見え︑帯より下
におけば憂いがあるように見え︑頭をかしげて見ればよからぬ思いを抱いて
いる よう に見 える
*お
O
と見えているし︑君子に侍坐する場合の心得は由札上に
侍坐於君子︑君子欠伸︑撰杖層︑視日蚤莫︑侍坐者請出失︒
君子に侍坐するに際して︑もし君子が欠伸をして︑杖や履き物を弄んだり︑
日の傾きかげんをたずねできたりしたならば︑侍坐する者は退出を請う︒
と見えている品︒これらは直接の引用関係を想定し得るほどによく似
ているのであるが︑より広く︑﹁儀礼﹂の﹁心得﹂の部分と曲札篇の規
定との類似を言うのであれば︑曲札篇の規定の性格がその篇に即して語
られ なけ れば なら ない
*お
o
目を 曲札 篇に 転じ よう
︒
末永.曾子と礼
さて︑今本の曲礼篇には実にさまざまな内容の文章が含まれている
が︑大きく分けて三種類の文章が混在していると言える︒第一は︑札
の総論とも言うべき文章で︑ほほ曲札篇の最初の部分に集中してい
る*加︒﹁夫れ礼なる者は︑親疏を定め︑嫌疑を決し︑同異を別ち︑是
非を 明ら かに する 所以 なり
﹂な どが その 典型 で︑ 個別 の礼 に関 わら ない
︒
第二は︑由礼の中心たる個別の礼の規定で︑短いものを一つ挙げれば︑
﹁大 夫士
︑君 門を 出入 する に︑ 既( 門の 中央 の杭 )の 右に 由り
︑駅 乞践 まず
﹂
のようなもの︒第三は﹁人生れて十年を幼と日ふ︒学ぶ︒二十を弱と
日ふ
︒冠 す︒ 三十 を壮 と日 ふ︒ 室有 り︒
・:
﹂︑
﹁天 子死 する を崩 と日 ひ︑
諸侯を亮と日ひ︑大夫を卒と日ひ︑士を不維と日ひ︑庶人を死と日ふ﹂
のように呼称を定義的に述べることを中心としたもので︑曲札篇の後
半部 に比 較的 集中 して 見え てい る︒ この 部分 につ いて は︑ 王夢 鴎な どは
︑
﹃白虎通﹂所引の﹃別名記﹄の文章に類似することから︑そのような書
物から引き抜かれたと推定するが芸︑この部分は曾子言と重複しな
いか ら︑ ここ での 霊察 から 外し てよ い︒
﹃儀 礼﹄ の﹁ 心得
﹂や 曾子 言と の関 係で
︑さ しあ たっ て考 える べき は︑ 第二 の部 分で ある
︒
この部分もまた雑多な内容を含み︑その全体としての性格を見定め
るのは容易ではないものの︑﹃儀礼﹄の﹁経﹂や﹁直接的な記﹂との違
いを見ることによって︑その札の規定としての性格をある程度あぶり
出すことができる︒まずは︑両者がともによく似た規定を記している
部分 を見 てみ たい
︒﹃ 儀礼
﹄の 郷射 礼の
﹁経
﹂に 次の よう な規 定が ある
︒ 有司 左執 謝︑ 右執 古而 授弓
︑遂 授矢
︒
ゆ づ 治
有司
が左
手に
謝を
執り
︑右
手に
弦を
執っ
て(
一一
一絹
に)
弓を
授け
︑ひ
きつ
づ
いて
矢を
授け
る︒
弓を射る者
(H
三耕)に有司が弓矢を授け与える場面である︒この傍線
部と ほぼ 閉じ 文章 が曲 礼上 では 次の よう な形 で見 えて いる
︒ 凡遺 人弓 者︑ 張弓 尚筋
︑弛 弓尚 角︑ 右手 執籍
︑左 手承 謝︒ 凡そ 人に 弓を 手渡 す場 合は
︑弦 の張 って ある 弓は 弦を 上に して 持ち
︑弦 の
やはず
緩め てあ る弓 は弓 背を 上に して 持ち
︑右 手で 筈を つか み︑ 左手 を粥 に当 て
る。
右手で持つ位置が若干異なるようであるが︑それは措くとして︑ここ
で注意すべきは﹃儀礼﹄の﹁経﹂においては︑傍線部の記述は必ずし
も必要とされない︑ということである︒これは︑直後の﹁授矢﹂にお
いて は︑
﹁授 弓﹂ の傍 線部 に相 当す る記 述が 無い こと から わか る︒ ここ
で﹁経﹂がまず記すべきは︑この場面において有司が弓を授け︑引き
続いて矢を授けるということであって︑どのような形で弓を持ち︑ど
のような形で矢を持つかはさしあたって問題とならない︒傍線部の記
述などは﹁直接的な記﹂の方にまわしてしまっても十分に﹁経﹂とし
て通用する︒実際︑たとえば三絹が弓・失を西階の西から取ることを
記述するに当たっては︑今本の﹁経﹂ではただ﹁乗矢
(H
四本 の矢 )を
あ わ さ し は さ
兼せ挟む﹂とだけ記し︑その矢をどのように差し挟むかについては次
の﹁ 記﹂ (﹁ 直接 的な 一直 )の 方に 譲っ てい るの であ る︒ 凡挟 矢︑ 於二 指之 問︑ 横之
︒( 郷射 礼﹁ 記﹂ :・ 今本 の﹁ 芭)
凡そ
矢を
さし
挟む
場合
には
︑二
指(
と三
指の
)の
聞に
さし
挟ん
で︑
これ
を(
弦
?
に対
して
)横
にす
る︒
この例にならうならば︑郷射札の﹁左執謝︑右執弦﹂も︑これを﹁記﹂
とし て独 立さ せて
︑ 凡授 弓︑ 左執 謝︑ 右執 弦︒
と記すことは可能である︒このような動作についての説明は︑そもそ
も﹃ 儀礼
﹄の 中で はそ
︑っ 名
Jいとは言えないのだが︑それが︑どのよう
8
な場合に﹁経﹂において行われ︑どのような場合に﹁記﹂にまわされる
のか ぶ型 告に はそ の区 別の 付け 方が よく 分か らな い︒ ただ
︑﹃ 儀礼
﹄の
﹁経
﹂
は儀式を構成する動作の次第を一不すことに重点があるから︑個々の動作
についての説明が﹁経﹂の中になければならない必然性はない︒このよ
うな部分は︑どちらかと言えば﹁記﹂的なのである︒そして︑上の例か
ら知られるように︑このような動作を規定した部分が独立させられると︑
曲札篇の規定に似てくるのである︒
もう一例を挙げよう︒曲礼上篇に
主人先登︑客従之︑拾級緊足︑連歩以上︒
主人
がま
ず(
階を
)登
りは
じめ
︑客
はそ
れに
従っ
て登
りは
じめ
る︒
第60巻 (2009)
一段
登っ
人文・社会科学編
ては
両足
を且
叩え
︑一
歩ご
とに
これ
を繰
り返
して
登る
︒
とある︒この前半部に相当する表現は︑﹃儀礼﹄の今本の﹁経﹂に
主人 升一 等︑ 賓升
︒( 郷射 礼)
主人
が一
段を
上る
と︑
賓が
登り
始め
る︒
と見えているが︑後半部の傍線を引いた部分に相当する部分は﹃儀礼﹂
には見あたらない︒﹃儀礼﹄においては︑主人が階を登るという動作と︑
賓客が階を登るという動作がどのようなタイミングで行われて儀式が進
行していくかが記されるだけであって︑その動作がどのような仕方でな
されるかは詳述されない︒この部分は出札篇の規定の方にゆだねられる
ような形になっているのである︒
これらの例においては︑﹃儀礼﹄で動作を説明する﹁直接的な記﹂に
相当するものが独立せられて曲札篇一の規定となったかのように見える︒
曲札篇の規定には︑あるいはそのような形で作られた部分もあるのかも
知れない
3 0
しかし︑札を規定する発想において︑﹃儀礼﹂の﹁直接
的な記﹂と曲礼篇とでは︑その根底から異なっていることが見落とされ
てはならないであろう︒その相違が端的に表れているのは︑両者におけ
鹿児島大学教育学部研究紀要
る禁止表現の頻度の違いにおいてである︒
曲札においては禁止辞が実によく用いられている︒食の場面における
規定などその典型で︑
母捧飯︑母放飯︑母流歌︑母時食︑母蓄骨︑母反魚肉︑母投典狗骨︑
母国獲︑母揚飯︑飯黍母以箸︑母腿葉︑母禁葉︑母刺歯︑母歌臨︒
飯を
まる
めて
取っ
ては
なら
ない
︒飯
を入
賞り
食べ
ては
なら
ない
︒汁
を流
し込
ん では なら ない
︒舌 打ち して 食べ ては なら ない
︒骨 を蓄 つて はな らな い︒ 魚や 肉の 食い さし を( 血に )も どし ては なら ない
︒( 食事 中に )犬 に骨 を投 げ与
えて
はな
らな
い︒
料理
を狙
って
取っ
ては
なら
ない
︒飯
をか
き混
︑ぜ
てさ
まし
て
あつもの
はな らな い︒ 黍の 飯を 箸で 取っ ては なら ない
︒葵 を噛 まず に呑 み込 んで はな らな い︒ 美を 自分 で味 加減 して はな らな い︒ 歯を ほじ って はな らな い︒ 酪を
すす
り食
べて
はな
らな
い︒
とほとんど禁止辞が連続しているような部分もある︒﹁曾子﹂と重複す
る﹁人子たる者︑・:高きに登らず︑深きに臨まず︑:・﹂なども表面的に
は否定辞であるが︑実質的に禁止を示すものと見てよい︒曲札にはこの
ような禁止の表現が目立つのである︒他方︑﹃儀礼﹄の﹁経﹂や﹁直接
むすめ的な記﹂には禁止辞はほとんど見られない︒﹁父︑女を送るとき︑之に
命じて日く︑之を戒め之を敬みて︑夙夜命に違ふこと母れ﹂(士昏礼﹁直
接的な記﹂)のような口上のなかに現れるものを除けば︑皆無と言ってよ
い*目︒否定辞も同様で︑﹁祭ること賓の札の如くにすれども︑旨きこ
とを 告げ ず﹂ (郷 飲酒 礼) のよ うに
︑繰 り返 され る儀 式を 省略 して 記し て﹁ 全
体としては
OO
のようにするが︑××はしない﹂としたものか︑﹁主人︑賓の服の如くにし︑門外に迎へて再拝す︒賓大口拝せずして︑揖して入る﹂
(士 昏礼 )の よう に︑ 一般 的に はそ うす るこ と( ここ では
﹁答 奔﹂ )が 予想 さ
れる場面で特にそうしないことに注意を促すようなものが大半で品︑
﹁
OO
しないし︑××しない﹂と否定辞が連続することはない︒曾子と礼
なぜこうなるかと言えば︑他でもない︑禁止辞や否定辞によって特
定の 動作 や行 為を 指定 する こと がで きな いか らで ある
︒﹁
OO
しな
いし
︑
××しない﹂といくら否定辞を重ねても︑それだけでは一つの﹁ムム
せよ﹂を導くことはできない︒﹃儀礼﹄の﹁経﹂や﹁直接的な記﹂の場
合︑儀式を構成する一連の動作や行為を指定することに主眼を置くか
ら︑そこに禁止辞や否定辞が現れないのである︒
禁止辞は動作や行為を指定しない︒ならば︑曲札に頻出する禁止辞
が何を意味しているかと言えば︑これは︑ある動作や行為を行う際の
留意点
(H
心得)に他ならない︒上の例においては︑食べるという行為
を行うに際して何をしてはならないのか︑その心得るべき点が緩々述
べられているのである︒そして︑曲札の規定の主眼はこの心得を一不す
ことにあって︑動作や行為を示すことに無い︒これは︑土相見札で君
子に侍坐する場合の﹁心得﹂を記した部分と重なる次の例からも明ら
かで
あろ
う︒
9 末永
侍坐於君子︑君子欠仲︑撰杖層︑視日蚤莫︑侍坐者請出実︒侍坐
於君子︑君子問更端︑則起而封︒侍坐於君子︑若有告者日少間願
有復 也︑ 則左 右扉 而待
︒
(一文目は既出)君子に侍坐するに際して︑君子が話題を改めたならば︑立
ち上がって答える︒君子に侍坐するに際して︑もし﹁少しの問︑申し上げ
たいことがございます﹂と申し出る者がいたならば︑左右に退いて待つ︒
ここで規定されているのは︑﹁君子に侍坐する﹂という行為それ自体で
はない︒その行為を行うに際して遭遇するであろういくつかの場面に
おいて︑それぞれ適切なふるまいが示されているに過ぎない︒文章の
形はともかくとして︑内容的には﹁君子に侍坐するに際して︑
00
の場面 にお いて は︑
×× する もの と心 得よ
﹂と い︑
?も のな ので ある
︒
これを上に引いた郷射札の﹁直接的な記﹂の﹁凡挟矢︑於二指之間﹂ と比べてみたい︒単に失を挟むと指定するだけでは︑五本ある指のどこの指の聞に挟むのか暖昧であるから︑ここでは︑﹁二指(と三指)の聞に挟む﹂とそれを明確に指定するのである︒したがって︑この場面における﹁失を挟む﹂こととは︑﹁矢を二指の聞に挟む﹂ことに他ならない︒ここでは﹁凡扶失﹂は﹁(扶矢)於二指之間﹂と完全にイコールで結ぼれている︒動作や行為が指定されるということは︑このイコールが成り立つということなのである︒それに対して︑上の﹁侍坐於君子
﹂に おい ては
﹁君 子欠 伸﹂ 以下 とは 決し てイ コー ルで は結 ばれ 得な い︒ あく まで 心得 が一 本さ れて いる だけ であ るか ら︑
﹁君 子欠 伸﹂ 以下 は君 子
に侍坐する行為の全体を覆い得ないのである
2 0
この イコ ール の関 係は
︑﹃ 儀礼
﹄の
﹁経
﹂に もそ のま まあ ては まる
︒﹃ 儀 礼﹄ の各
﹁経
﹂の 冒頭 は﹁ 土冠 札﹂
︑﹁ (土 )昏 札﹂
︑﹁ 士相 見之 札﹂
︑﹁ 郷 飲酒 之札
﹂︑
﹁郷 射之 札﹂ 等々 で始 まっ てい るが
︑こ の冒 頭部 と﹁ 経﹂ (田 中氏 の言 つ﹁ 経﹂ )の 残り の部 分と は完 全に イコ ール で結 ぼれ てい る︒
﹁士
喪札﹂と言えば﹁経﹂のそれ以下に記された行為をその次第に順って
行う こと に他 なら ない ので ある
︒そ れに 対し て曲 札止 一属 では 同じ 喪札 が 語ら れる にし ても 次の よう な形 にな る︒
居喪之種︑段婿不形︑視聴不衰︑升降不由昨階︑出入不首門陸︒
服喪の礼では︑痩せても骨が目立つほどにはならず︑目や耳の力をそこな
うほどにはならず︑(堂への)昇降には主人の用いる階段を用いず︑({永を)
出入りするのに門の真ん中を通らない︒
﹁段椿不形﹂以下が実現されることが︑すなわち﹁居喪の礼﹂であるわ
けではない︒ここでは喪に服すという場での心得が記されているに過
ぎない︒先に引いた﹁凡遺人弓者﹂など︑一見すると︑弓を遺るとい
う行為それ自体が説明されているように見えるが︑これも心得として
示されたものが︑たまたま﹃儀礼﹄のブ記﹂のような文章になっただ
l けであろう︒﹃儀礼﹄が札を行為として直接に規定するのに対し︑曲礼ハ リ
はある場(場合︑場面︑状況等)における心得として礼を規定するので
ある
したがって︑たとえば武内氏にならって︑曲礼篇の規定を﹁ある一定 ︒
の行為に対する札主﹂のように理解してしまうと︑往々︑いかなる行
為に対する札であるのかよくわからない規定に出くわすことになる︒た
とえ
ば︑
遭先 生於 道︑ 趨而 進︑ 正立 挟手
︒
年長者に道で出会った場合︑小走りで進み出で︑正しく立って扶手の礼をす
第60巻 (2009)
る。
人文・社会科学編 鹿児島大学教育学部研究紀要
この規定に対し︑﹁年長者と道で出会うという行為に対する札﹂
とは強弁できないであろう︒そのような場における心得を記したものと
考え るべ きで ある
︒﹃ 内札
﹄と 重複 する
﹁父 母疾 有れ ば︑ 冠者 櫛ら ず︑
・:
﹂
なども同様である︒曲礼篇で直接に規定されているのは︑﹁ある一定の
行為
﹂が いか に為 され るか では ない
︒
さて︑これで﹁曲礼的な札の規{亙をある程度明確化して語ることが
でき る︒ すな わち
︑あ る場 にお ける 心得 とし て礼 を規 定す るも の︑ であ る︒
ただ︑札の規定であるから︑その心得にはある程度の具体性は要求され
るこ とに なる
︒そ れは
︑﹁
OO
をせよ﹂あるいは﹁××をするな﹂という形で語られ︑単に﹁うやまえ﹂とか﹁つつしめ﹂と具体性を欠いた形
で語 られ るこ とは 基本 的に ない
*日
oこのような形で﹁曲礼的な礼の規
{亙を考えるのであれば︑﹃儀礼﹄の﹁心得﹂の部分も︑同様の規定と
して あっ かい 得る
︒立 孝篇 と重 なる
﹁奥 君壬 一円 喜一 口使 臣﹂ など はや や具 体
性に欠けるものの︑君主に進言する場における心得として︑﹁曲礼的な
礼の 規{ 亙に 含め てよ いで あろ う︒ この よう に﹁ 曲礼 的な 礼の 規{ 亙が 性格 付け られ るな らば
︑立 事比 一屑 等
であ る
に由礼的な札の規定が見える一応の理由を考えることができる︒が︑そ
こに進む前に︑曾子間篇について簡単に触れておきたい︒曲礼篇と﹁儀
礼﹄の﹁直接的な記﹂が表面上類似した部分を持ちながらも︑その札を
規定する発想において異なっていたように︑曾子問篇は﹃儀礼﹄の﹁附型
と表面上類似しつつも︑その問題意識を殊にしているからである︒この
違いをおさえるならば︑この篇においてなぜ曾子がその主要な問答相手
とし て選
︑ば れて いる のか につ いて もあ る程 度は 推測 する こと がで きる
︒ 四
﹃儀礼﹄の﹁附型とは︑﹁経﹂の想定とは異なる状況における札の次
第を記した部分であった︒これは﹁経﹂にとって例外的な状況をあっか
うとはいえ︑あらかじめ確定された状況に過ぎない︒たとえば︑士昏礼
に﹁勇姑の没している場合﹂の﹁附型が記されているが︑これは婚儀
に先立ってその状況が確定している場合に儀式の次第がどうなるかを示
したものであって︑婚儀の最中に突然︑男姑が亡くなるというような︑
予測不可能な突発的な事態に対応するしかたが規定されているわけでは
ない︒他方︑曾子問篇が問題とするものの多くは︑この不測の事態への
対処 にか かわ る︒ 婚礼 であ れば
︑た とえ ば︑ 次の よう
︑な 場合 であ る︒
曾子問日︑昏曜既納幣︑有吉日︑女之父母死︑則如之何ι
曾子が問うて言︑っ︒婚礼について︑すでに結納して期日も決めたのに︑新婦
側の父母が(急に)亡くなったら︑どうするのでしょうか︒
このような事態があり得ることはあらかじめ想定できるから︑このよう
な聞いも発し得るのであるが︑婚礼の儀式を行う者よりすれば︑結納の
後に女性側の父母が亡くなるというのは予測不可能な突発的な事態であ
ろ ︑ っ ︒ 末 永 曾 子 と 礼
このような不測の事態への対処は︑﹃儀礼﹄の﹁経﹂や﹁附型には
全く記されていない︒もし記されるとすれば﹁心得﹂においてである︒
すでに引いたように︑士相見札の﹁心得﹂の部分においては︑﹁君子に
侍坐する﹂に際して︑もし﹁君子欠伸すれば﹂いかに対処すべきかが
記されていた︒﹃儀礼﹄の﹁経﹂の中では﹁君子に侍坐するの札﹂が
規定されているわけではないが︑もしこれが規定されていたとしても︑
そのなかには﹁君子欠伸すれば﹂云々といった︑儀式の進行を撹乱す
るような不確定要素への対処のしかたは含まれていないであろう︒﹃儀
礼﹄の﹁経﹂においては︑その儀式がいかに単調であろうとも︑その
儀式に厭きて欠伸をするような人物はどこにも描かれていないからで
ある︒儀式に定められたのとは異なる対応をして︑その儀式の進行を
撹乱するような人物や︑その儀式の進行を妨げる不測の事態は︑﹁経﹂
や﹁附型においてはまったく想定されないのである︒
とすると︑曾子問篇の文章それ自体は﹃儀礼﹄の﹁附型に近いも
のが多いのではあるが︑この不測の事態への対処を問題とするという
点に
おい
て︑
その
間題
音意
︑山
山識
のあ
り方
は﹁
ウ︑
心心
得﹂
や曲
札篇
の方
に接
近し
てい
ると
吾一
選ば れて いる ので ある
︒ ここ で︑ この 不測 の事 態に 対処 でき る者 とは
︑札 を単 に﹃ 儀礼
﹄の
﹁経
﹂
のような形で頭と体に記憶して︑それを遵守する者ではない︒礼には
︑ ︑ ︑ ︑
直接規定されていない事態であるにもかからず︑札にかなったふるま
いができなければならないのであるから︑規定された札を単に記憶し
て遵守するだけでは対処できない︒これに対処できる者は︑札にかなっ
たふるまいとは何かを理解するものでなければならない︒
ちなみに︑この﹁かなう﹂が聞い得るということは︑札にとって本
11
質的である︒﹃儀礼﹄の﹁経﹂の規定など限りなくマニュアルに近いも
のに見えるが︑それでもこれがマニュアルと異なるのは︑そこに﹁か
なう﹂が問える点にあろう︒マニュアルの場合は︑それに合致してい
るか否かが問えるだけであって︑言葉遣いとしては﹁マニュアルにか
なった﹂という言い回しは可能であっても︑これは﹁マニュアルに合
致した﹂というのとかわらない︒だから︑マニュアルに規定のないも
のについては︑それがマニュアルに合致しているともいないとも言え
ない以上︑﹁マニュアルにかなっている﹂とは言い得ない︒札の場合︑
この﹁かなう﹂が聞い得るのは︑札の規定のうちには何らかの法則性
や理念を読み込ことが可能であり︑その法則性や理念とのかかわりに
おいて﹁かなう﹂が問い得るからであるが︑この﹁かなう﹂とより深
く結びついているのは曲礼的な規定の方である︒
﹃儀礼﹄の﹁経﹂のように札が規定されている場にあっては︑その札
を遂行する者は札にかなうか否かを意識する必要はほとんどない︒そ
こに規定されていることをその次第に従って行うことが札なのである
から︑マニュアルと同じで︑それに合致しているか否かを意識する必
要は あっ ても
︑﹁ かな う﹂ を意 識す る︑ 必要 はな い︒ 儀式 の進 行を さま た
げる不測の事態に出会って︑そこではじめて﹁かなう﹂を意識する必
要が出てくるのである︒それに対して︑由礼的に札が規定されている
場においては︑常に何が札にかなったふるまいであるのかが間われな
ければならない︒というよりも︑曲礼的な礼の規定自体が︑ある場に
おいて何が礼にかなっているのかについての︑一つの解答を与えたも
のと見なし得ょう︒たとえば︑食するという場において︑札にかなっ
た行 為の 一つ とし て﹁ 母捧 飯︑ 母放 飯﹂ 等々 が規 定さ れて いる ので ある
︒
この場合︑これらの規定は食するという場における札をすべて列挙し
たものではないから︑この礼に従うものは︑単にこの定められた規定
12
を守るように心がけるだけではなく︑そこに明確な形で規定されていな
いふるまいにおいても︑それが札にかなうか否かを意識しなければなら
ないことになる︒曲礼的な礼の規定は︑その行為全体を定めるような規
定ではないが故に︑かえって人に礼にかなうことを強く意識させるので
ある
︒
第60巻 (2009)
いかにすれば人は礼にかなうふるまいができるのか︒﹁かなう﹂
と言えるためには︑それが礼の内にある法則性や理念に合していること
が一 不さ れな けれ ばな らな いか ら︑
﹁か なう
﹂ふ るま いが でき るた めに は︑
札の内にある法則性や理念について何ほどか知っていなければならな
い︒たとえ理念とい︑ユ両みには届かなくとも︑少なくとも︑それに関連
する札がなぜそのように定められているかについて知っていなければな
らないであろう︒曾子の次の言葉においては︑このような意味で﹁知る﹂
の語 が用 いら れて いる
︒ 君子既撃之︑患其不博也︒既博之︑患其不習也︒既習之︑患 其不
*
知 M
也︒ 既知 之︑ 患其 不能 行也
︒( 立事 篇第 四章 )
君子はすでに学問の道に入ったならば︑まだ広く学んでいないことを憂う︒
では
︑
人文・社会科学編 鹿児島大学教育学部研究紀要
すでに広く学んだならば︑それに四民熟していないことを憂う︒すでに習熟し
たならば︑(どうして︑そうふるまわなければならないかという︑その道理を)
知らないことを憂う︒すでに(その道理)を知ったならば︑それを(現実に
おいて適宜に)実行できないことを憂う︒
まずは札の規定を博く学び︑それに習熟する品︒礼の規定が直接に及
ぶ場においては︑﹁学びて時に之を習う﹂︑これで十分にそれを﹁行う﹂
ことができるはずである︒ここに﹁知る﹂がはさまっているのは︑その
礼が規定される所以を知り︑そのことによって札の規定が直接に及ばな
い場においても︑札にかなった﹁行い﹂ができなければならないと考え
るからであろう品︒不測の事態に対して礼にかなう形で対処できるよ うな人は︑礼の規定の所以を知り︑その規定の及ばないところにその法則性や理念を及ぼすことのできる人でなければならない︒曾子はまさにそのような人たらんとしているのである︒
曾子間篇で曾子が主たる問答相手に選ばれているのも︑その編者が曾
子をこのような人物としてイメージしていたからであろう︒単に礼を遵
守する者ではなく︑札にかなうことを求める者として曾子がイメージさ
れていたからこそ︑この篇の主たる発問者として彼が選ばれているので
ある︒この篇の問答の内容が主として喪礼にかかわり︑喪礼は孝と密接
に結びつくから曾子が選ばれたという要因もあるではあろうが︑檀弓篇
の数々のエピソードからもうかがえるように︑喪礼に強い関心を示した
とされる弟子は曾子に限ら︑ない︒そもそも︑﹃儀礼﹄の喪服伝などは子
夏に結びつけられているのであるから︑単に喪札にかかわる問答である
というだけでは︑曾子が選択される積極的な理由とはなり得ない︒不測
の事態における礼にかなったふるまいを問うというのが︑曾子の札に対
する態度と何ほどか合致すると観念されたからこそ︑彼が選ばれている
と考 える べき であ ろう
︒
どうやら︑少し曾子間篇の方に深入りし過ぎたようである︒話をもう
一度
︑立 事篇 等に もど そう
︒ 五
まず︑立事篇等に﹁曲礼的な礼の規{疋﹂が見えることについて︒
﹁君 子﹂ を主 題と する 立事
︑制 言篇
︑﹁ 孝﹂ を主 題と する 他の 諸篇 一は
︑
それぞれ﹁君子﹂︑﹁孝子﹂がいかなる存在であるのかを述べることを中
心と して いる
︒そ の述 べ方 は︑ これ を抽 象的 に定 義す るの でも なく
︑逆 に︑
末永.曾子と礼
彼らが行うべき行為を羅列するのでもなく︑いわば心得の形でこれを
示している︒立事︑制言篇の場合は君子たらんとする者の心得︑他篇
の場合は孝子としての心得である︒立事篇を例にとれば︑その﹁君子
終身 此を 守る こと 恒恒 たり
﹂( 第五 章)
︑﹁ 君子 終身 此を 守る こと 憎樺 たり
﹂
(第六章)︑﹁君子終身此を守ること勿勿たり﹂(第七室︑﹁君子終身此を
守ること戦戦たり﹂(第九章)などの表現に︑これが君子たらんとする
者の生涯守るべき心得を語ったものであることがはっきり読み取れる
であろう︒﹁酷酒を噌み︑謡歌を好み︑巷遊して郷居
(H
倍)
なる
者︑
吾︑
需に望む無きのみ﹂(第二十九章)のように︑﹁君子﹂の語の見えないも
のも︑君子たらんとする者の戒め││これもまた心得の一っと言える
ーーが語られていると見てよい︒﹁之を怒らせては其の悟まざるを観る︒
之を喜ばせては其の軽からざるを観る﹂(壁一干七章)云々と観人の法を
述べた部分*幻のように︑心得とは言い難いものも若干含まれてはい
るが︑立事篇等が全体として君子または孝子の心得を記したものであ
ることは動かないであろう︒この心得は︑特に君子の心得の場合︑﹁君
子其 の悪 を攻 め︑ 其の 過ち を求 め︑ :・
﹂( 立事 篇草 早)
︑﹁ 君子 日を 愛み て
以て学び︑時に及びて以て行ふ︑・:﹂(同篇第二章)のように︑特定の場
に限定されない︑その生のあり方全般にかかわるようなものが大半を
占めているが︑時に︑ある場に限定された心得として記されたり︑比
較的具体的な形でその心得が記されることがある︒このようなものが
曲札篇等と重なってくるようなのである︒﹁君子人の国に入りでは︑其
の詳を称せず︑:・﹂(立事篇第二十章)が曲礼と内容的に重複するのは︑
これが﹁他国に入る場合﹂とその場が限定的であるからであり︑﹁孝子
高きに登らず︑危きを履まず︑:・﹂(本孝篇第二章)が由札と重複するの
も︑その禁止事項が具体的に示されているからであろう︒
ただ︑これらを曾子が札の規定であると考えていたかどうかは明ら
13
かではない︒曾子はそれを﹁札﹂であると明言していないからである︒
もっとも︑先に触れたように事父母篇首章の﹁割対出制円14
叫矧
剤︑
弗訊 不号 一円 言必 斉色
﹂( 傍線 部が 曲礼 篇と の重 複部 )な どは 何か しら 札の 規
定に相当するものとして意識されていた可能性が高いから︑他の重複
部分についても︑当時︑札の規定として語られていたものを︑曾子が
取り込んで語っている可能性は十分にある︒ではあるが︑それはあく
まで君子や孝子の心得の一部として語られているのである︒曲礼篇と
は異なり︑札を記録することに意がおかれているわけではない︒それ
が曾子の考える君子や孝子の心得としてふさわしかったから︑たまた
ま取り込まれていると考えるべきであろう︒
他方︑君子や孝子の心得を語る際に︑曾子がどのようなものを﹁札﹂
と呼んでいたのかが分かるのは︑立事篇の次の部分である︒
少稿不弟罵︑恥也︒壮稿無徳罵︑辱也︒老稿無櫨駕︑罪也
0 (第
三十
四章
) 壮 年 年 少 に の な 持 つ に
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われ
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は罪
深い
こと
だ︒
この最後の部分から︑老年ともなれば他者から﹁無礼﹂と言われない
のが通常の状態であることが知れるから︑それほど実現困難なものが
イメージされているわけでないことがわかる︒曾子問篇で問題とされ
るような高度な判断をともなう札などは︑普通の人にとっては適札と
も非礼とも判断がつきかねるから︑そのようなものはここには含まれ
ない︒ここでイメージされているのは︑その社会で普通に成長したも
のであれば身につけているほどのものとしての札である︒立事篇等に
おいては基本的にこのレベルにおける礼を指すものとして﹁札﹂の語
が用いられているのである︒曲札篇と重なる﹁君子︑人の歓を絶たず︑