国語教育 にお ける 「 言語主体 」 とは何 か
一言語過程説批判 と 「語 る主体」の復権一後 藤 恒 允
Qu' es t ‑ c equel e( s uj e tl i ngui s t i que〉
damsl ' e ns ei gne me ntdel al anguenat i onal e?
‑Lar を ha bi l i t a t i o nd u〈 s u j e tpa r l a n
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Th u ne yo s hiGo t o
は じめ に
言語活動 はい うまで もな く人間 に特有 の現 象で あって, 言語 は, それ を成立 させ る人間す なわ ち 言語 主体 な しには考 え られ ない。国語教育 とは, 学習者 を良 き言語主体 として育 て るための組織 的 で計画的 な活動 といえる。 しか し,一見わか りき った よ うに感 じられ る 「言語主体」 とはい ったい 何 なのかO その規定 の しか たが匡語教育 の理論 化 や実践の あ り様 その もの に強 く反映 され る以上, 国語教育 に携 わ る者 は 「言語主体」 の概 念 を一 人 ひ と り, 明 らかに してい く必要 が あろ う。
国語教育 では これ まで統覚 作 用の主体 が 「言語 一 主体」 と考 え られて きた. そ こでは人間 と世 界 と
t が主観‑客観 の関係で捉 え られ, 人間は世 界の外 に立 ち,世 界 を対 象化 して客 観的 に認識す る存在 1 となる。逆 に世 界の側か らみ る と, それ は人間の ' 主観 によって捉 え られ構成 され た限 りでの世 界で
!一 あって,全 く受動 的 な立場 におかれ る。 しか も, t 人間 も認識主観 に よって対 象化 され る限 り,「も
の」 とな り客体化 され る。
「言語 主体」 を統覚 作用の主体 とす る立場 に立 1 っ限 り,言語 とは,主観が統覚 した表 象や概 念に
† か誓 言至芸妄語誓 去諾 霊 議 を鮮 明 に打 ち出 したのが, 時枝 誠記 氏の言喜吾過程説お よびそ れに基づ く国語教育論 であ った。時枝 氏の理論 は, 本居宣長や鈴 木娘 とい った 日本 の学 問的伝統 を受 け継 ぎ,「世 界定立」を主題 とした初期 の フ ッサー
ル理論 に よって補 強 された もので あ る。 時枝 氏の 理論 は, また,言語主体 を「言語 を行為 す る主体」
として捉 え, 言語 を 「言語主体 の実践的行為 ,活 動(1)」 と規定 した点 に特色が あ った。時枝 氏は, この立場 か らソシュー ル を中心 とす る近代言語学 を,「言語 を以 て音声 と意味 との結合 で あ る とす る 構 成主義 的言語 観」と批判 し, そ こで は,「言語 を 主体 と離 れた客体 的存在
( 2
)」 として しか扱 って い ない と批判 したので あ る。一方,こ うした考 え方 に対立す るのが,「語 る主 体」 の復権 を主張す る立場 で あ る。 これ は, 時枝 氏が誤読 す るこ とに よって批判 の対 象 とした, 当 の ソシュー ルに よって提 唱 され た もので あ り, ソ シュー ル と精神 的類縁性 の あ る メル ロ ・ボ ンテ ィ の現 象学 に よって強調 され た もので あ る。 この立 場 は,時枝理論 と次 の点で根 本的 な違 い をみせ る。
第一 は, 人間 と世 界 との関係把握 が違 ってい る こ とで あ る。す なわ ち,両者の関係 を,主観 (主 体 )と客観 (客体 )との対立 とす る考 えを清算 し,
自他 が互 いに構成 しつつ構 成 されつつ あ る世 界 内 存在 とす る考 えへ転換 した点で あ る。この転換 は, 時枝理論 が依 った, 当の フ ッサー ル 自身 によって な された もので あった。 人間 にお ける 自他 の関係 につ いて いえば, われわれは,共 同主観化 された 意識 であ る。 時枝 氏は, フ ッサー ルの この転換 に 遂 に論 及す るこ とが なか ったO
第二 は,言語 を共 同主観化 され た ものの典 型 と 捉 える視 点で ある。 ソシュー ルの い うラングは ま さに共同主観化 された言語体系の こ とにはか な ら
‑ 1 0‑
ない。 われわれは, 自らの存在 に先立 って既 に制 度化 されてい るラングの中に生 まれ, それ に拘束 され る。 しか し,最 も肝心 な点 は, われ われ は ラ ングに拘束 されつつパ ロー ルにお いて, ラングを 変形 し産 出 し,新 しい認識 の地平 を開 いてい る存 在 であ るこ とを自覚 す こ とで ある。 ラング とパ ロ ールの この無 限の弁証 法的関係 をつ くり出 して い る存在で あるこ とを確認す るこ とで あ る。「語 る主 体」 とは こ うした存在 をい うので あ る。 時枝 氏か ら 「主体 を無視 した ラング主義」者 と批判 された ソシュール こそ,実 は それ を一生批判 し続 けた人 間だ ったので ある
( 3)
O ソシュー ル と時枝 氏 との間 には この他 に も,意味や価値 な どをめ ぐる重要 な 対立点 があ る。以上 の よ うに研 究者や教 師が言語 をどの よ うに 捉 えるか,言語 とかかわ る人間 をどの よ うに捉 え るかは,学習者の現実認識 その もの に反映 され, 影響 を与 える。
本稿 の 目的 は,時枝理論 に典 型化 されてい る「言 語主体 」観 を再検討 し, それ を超 えて, 国語教育 に 「語 る主体 」 としての 「言語主体」 の復権 を提 唱す る ところにあ る。
このため, 本稿 では次 の よ うな順 序で論 を進 め るこ とにす る。
1 時枝理 論 にお ける 「言語主体」観
2
時枝氏 の 「言語主体 」観 お よび国語教育論 の検討3
ソシュー ルの学説 お よび メル ロ ・ボ ンテ ィ の現 象学 による,「語 る主体 」につ いての考察4 3
の国語教 育論へ の通用 につ いて5
「言語行動 主体 」 をキー ワー ドとす る田近 淘‑ 氏の 国語教育理論 の検討こ うした方 法 は,次の よ うな時枝 氏の ソシュー ル批判が もってい る欠陥 を明 らか に し, 本稿 の論 点 を鮮 明 に させ るこ とになろ う。
言語理論 の対 象 を,表現理解以前 の資材 的言 語 に求 め る構 成的言語観の立場 にお いては, 言語主体 の概 念は,言語学 の埼外 の もので あ る。言語 を分析 して も, そ こか らは,言語主 体 を取 り出す こ とは出来 ないので ある。話手
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は,言語 を使 用す る者 として, 或 いは言語 に働 きか け る者 としての み, 言喜吾に関係 を持つ だけで あ るO ソシュー ルは,資材的言語 ラングの成立 に関与す る話 手, 聞手 の作用 を重視 した。 しか し, このやうに して成立 した資材 的言語 は, もはや個 々 の話 手聞手の作用 とは,独 立 した存在 で ある と考 えた
( 4)
0しか し, ソシュールは 「言語 主体 の概 念」を 「埼 外」 にお いて,本 当にパ ロー ルの言語学 を説 か な か ったのか。
ラ ンプ
時枝 氏が ソシュー ルの言語 を 「概 念 と聴覚 映像 との結合」 した 「心的実在体 」 で ある と捉 えた点 は まだ許 され る。 しか し, ソシュー ルは, ラング をあたか も 「個 人の外 に実在 す る様 に考 え」て 「も の」化 し, これ を研究対 象 としたのだ ろ うか。
む しろ時枝 氏 が遂 に触 れ る こ との で きなか っ た, ラングの形相性,差 異的価値体 系 としての言 語 を考察 して, そ こか ら 「語 る主体 」 の意義 を捉 A, それ を国語教育 に 自覚 的 に適 用す るこ とが必 要 で あ る と,筆者 は考 えるので あ る。
1. 時枝理論 におけ る 「言語主体 」観
時枝 氏の言語過程説 は次 の二つの ポイン トか ら 成 る
( 5)
0① 言語素材 の表現 の段 階 としての表 象,概 念, 音声,文字
②
かか る主体 の過程 的発展 を促 す処 の原動 力 で あ る主体 の価値 意識 及び技術い ま, 時枝 氏の上記の分 類 に従 い, これ ら と言 語主体 との関係 につ いて考察 しなが ら論 を進 め る
こ とに したい。
① 表象2概念 2音 声 ・文字
言語過程 説が文字通 り 「過程 説」 で あ るのは, 概 念が聴覚 映像 に 「連合」 す る 「継起 的過程」 こ そ言語行為 の本質 だ, と規定 した点 で あ る。 た と えば早春 の一 日,散 歩 に出 た とき,私 が妻 に 「も う梅 が咲 いた よ」 と言 った場合, 私 はその場 の情 景 を概 念化 し,次 に これ を声 に出 して妻 に伝 える のだ とす る。 これが表現 にお け る,概 念 ‑聴覚映 像 の連合 作用で あ る と時枝 氏は考 える。 一方,秦 は私 の声 を聞 いてその情景 を確 認 し, その言葉 を 発 した私 の感情 を理解 す る。 これ は理解 にお ける 聴覚 映像 ‑概 念化 ‑ コノテー シ ョンの理解 とい う 過程 で あ る。私 と妻 との間の意思伝達 は, その過 程 が全 て 「主体 的 な活動」 で あるけれ ど も, 強 い て分 節すれば三つ の主体 的 な活動 が働 いてい るこ
とにな る。
第一 は,話 し手 の概 念化 作用で ある。
秋田大学教育学部教育研究所 研究所報第
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号1 9 89 年 3 月
時桟 氏は, これ を現 象学 の志 向作用 (ノエ シス)一志 向対象 (ノエマ)の図式 を とり入れて説 明 し た。つ ま り, 時枝 氏は,言吉吾を成立 させ る条件 と して主体,場面,素材 の三つ を考 え,言語 は,堤 面の中で捉 えた素材 を主体 の判断や, 感情等 で統 隻 (総括)した とき,意味 を発生 させ る と考 える。
時枝 氏は この図式 を統括 の法則 として捉 え,主体 の統覚 作用 をあ らわす言葉 を 「辞」 とし,事物や その表象,概 念 をあ らわす言葉 を 「詞」 とし,詞 と辞 を入子型の関係 で捉 えた。詞辞論 は さまざま な問題が ある とは いえ, 言語 と主体 の関係 とい う 新 しい視点 を導入 し,従来の品詞論 に よる分 類 を 越 え よ うとした点 には意義 が認 め られ よ う。
第二は,先 に述べ た,話 し手 と聞 き手の双方 に お ける概 念 と聴覚 映像 の連合作 用で ある。
第三は,解釈 ない し理解 にお ける「主体 的立場」
であ る。時枝 氏に とって,言語 を通 して理解 の対 象 となるのは,志 向対 象 となる事物 で もその表象 や概 念で もな く,素材 に対 す る把握 の仕方 その も のであった。時枝 氏 に とって解釈 ない し理解 には, 話 し手の立場 をわが立場 として, この 「素材 に対 す る把握 の仕方 その もの」 を追体験 す る 「主体 的 立場」 が必要 であ った。 この点 が,後述す るよ う に, 時枝 氏の読解指導論 の特色 ともな り限界 とも なる素地 をな した。
②
主体の価値 意鼓 および技術ソシュー ルの学説では, ある言 語記号 の「価値」
とは,形相 としての ラングにお いて,他 の辞項 と の差 異的対 立 に よって決 まる もので あった。 時枝 氏は こ うした 「価値」を,「観察的立場」による見 方 だ として否定 し,「価値 は専 ら言語 の主体 的意識 として存在す」べ きだ と主張す る。 た とえば,敬 語 の選 び万, 標準語 の使 い方, 言語 の美的表現 な ど 「表現 に対 す る話手 自身の持 つ価値意識
( 6)
」 の 有無が問題 だ とす る。 また, この 「価値 あ る行為 を実現」す るのが 「技 術」 であ った。 時枝理論 で は,価値 と技術は 「言語 の成立 に とっては言語主 体 の機能 として不 可 欠の条件」で あ り,
「言語 の生 命」で あった。 時枝 氏の価値 お よび技術の考察 も, 言語生活 に とって有効 な一面 を もっ こ とは否定できないO
以上の よ うに,心的過程,価値意識や技術 とい った点 か ら見 た 「言語 主体 」 の さまざまな機能論 は, 国語教育 に有効 に働 く面 を もっていた。 しか
し, それ らが理論 的 に真 に整合性 を もってい るの か,再検討す る必要 が あろ う。 この点 につ いて, 以上 の論述 に従 い次 節 で考 察す る。
2
時枝氏 の 「言 語主体 」観 および国語教育論 の検 討第一 に,時枝 氏が言語過程 説 の成立論拠 とした 連合 作用論 は
,2 0
世 紀 に入 って心理 学で は概 に否 定 された理論 で あ り,少 な くともこの点 か らいえ ば言語過程説 は崩壊 して いた。 す なわ ち,時枝 氏 が健忘性 失語症 の例 をあげて説明す るよ うには, 語詞 映像 と連合 す る言語 中枢 が大脳 中に局在 は し ていない こ とが明 らか に され たので あ る。 したが って,先程 の例 で,「もう梅 が咲 いた よ」とい う言 葉 を聞 いた とき,妻 は, その語詞映像 か ら 「継起 的」 にそれ に適合 した概 念 を喚起 した とす る考 え は否定 され るQ 人間 は条件 反射 的 に語詞 映像 か ら 概 念 を喚起 す る機械 的 な存在 で もな く, また, い か な る言語 も概 念 を媒 介せ ず に喚 起 され るこ とは ない。一方,表現 とい う言語行為 にお いて, まず 「も う梅 が咲 いた」 とい う概 念が あ って それ を 「継起 的」 に語詞映像 に連合 す るので もない。 言葉 は概 念作 用 (思惟 ) に付 随 し, それ を覆 うための単 な
る外面 的 な標 識 なので はない。
ソシュー ルや メル ロ ・ボ ンテ ィが共通 して批判 したのは, こ うした連合 (経験)主義や 主知 主義 の立場 で あった。 メル ロ ・ボンテ ィは,経験 主義 や主知 主義 にお ける言葉 と意味 との分離 につ いて 次の よ うに批判す る。
第一 の考 え方 〔経験論〕 で は, われ われ は意 味的 な もの としての語 の手前の ところに とど まって い るの にたい して, 第二 の考 え方 〔主 知 主義〕 で は, われわれはそれ を跳 び越 えた 彼方へ行 って しまって い る。 また, 第一 の考 え方 では,語 る者 は誰 もいない こ とにな るの にたい して, 第二の考 え方 で は, た しか に主 体 は存在す るけれ ども, しか しそれ は語 る主 体 で はな くて思惟 す る主体 なの だ。 だか ら言 葉 その もの に関す るか ぎ りで は, 主知主義 も 経験論 とほ とん ど異 な る ところはないのであ って,経験論 とお な じ く, 自動運動 な しには す まされ ない(7)0
言語 とは, 人間 の所作 の一つ なの だ。 人間の所
作 には,意味 が その 中に見分 けが た く住 まい,表 現 としての所作 とその意味 とは分離 で きない。言 語 とは表現 と意味 との一体 化 した もので あって, 思惟 が身体 となった ものの こ とで あ る。言葉 とは,
「対象 または思惟 を指示 す る一つ の仕方」な どでは な く,「それ 自体,この思惟 の感情 的世 界へ の現 前」
にほか な らない。
門前真一氏は, 言語過程 説か らひ きだせ るの は
「言語 は内容 の ない主体 の作 用で あ る
( 8
)」とい う結 論 で しか ない と言 って い る。言語過程説 では, 言 葉 と意味 とは分離 され,言語行為 は まさに 「自動 運動」‑ ロボ ッ トの動 きにな る危険性 を学 んで い たので ある。 第二 に,統覚 作用 その ものが再 検討 されねば な らない。時枝 氏は, 江戸時代 の国学者鈴木服の言語 四種 論 に示唆 を得 て, 言語 の 「過程」の差 異 に注 目し, 名詞 ・動詞 ・形容詞 な ど概 念過程 を含む もの と, 助詞 ・助 動詞 な どの概 念過程 を含 まない もの に二 分 した。そ して,これ を哲学 的 に裏づ け るため に,
山内得 立 氏の 『現 象学叙説』 を介 して, フ ッサー ルの現 象学 を援用 した。 しか し, 山内氏が そ こで 紹介 して いるのは,「世 界定立」を主題 とす る初期 フ ッサー ルの思想で あ った。時枝 氏が統覚作 用 を 説明す るのに用いた ノエ シス ・ノエマの図式 はそ の時点 では有効 で あったo Lか し, フ ッサー ルが 晩年 に主題 としたのは,「世 界内存在」 で あった。
そこでの主体 は, もはや世 界か ら超越 し自らの主 観 に よって世 界 を意味づ け るよ うな超越論 的主観 性 で は ない。世 界 はそれ に先 立 ってすで に構 成 さ れてお り,主体 はそ こに内属 し,世 界の意味 は, 多 くの主観 に よる共 同主観 に よって構 成 され る も の となる。主体 と対象 との関係 につ いて も, 主体
(主観 )‑客体 (客 観 )の対 立的図式 を清算 し,互 いに構 成 しつつ構 成 され る可逆 的 な交 叉の 中で意 味づ け合 う存 在 とな る。 この こ とにつ い て メル ロ ・ボンテ ィは 『知覚 の現 象学 』で次 の よ うに述 べ て い る。
現 象学世 界 とは, 何 か純粋 存在 とい った よ う な もので はな くて,私 の諸経験 の交 叉点 で, また私の経験 と他者 との交 叉点 で, それ らの 諸経験 のか らみ合 いに よってあ らわれて くる 墓墜 なので あ る。 ‑‑・現 象学的世 界 とは,先 行 してい るはずの或 る存在 の顕在化 で はな く て, 存在 の創設 で あ り,哲学 とは,先行 して い るはずの或 る真理 の 反映 ではな くて,芸術
とお な じ く真理 の実現 なの だ
( 9)
。ボ ンテ ィの この言葉 は, 国語教育 に も多 くの示 唆 を与 える。 た とえば, 谷 川俊太郎 が小 学校低 学 年 向 けに書 いた 「い しっころ」 は,一見幼稚 で あ るけれ ど も,意味 生成 の秘 密 を創作 と鑑 賞の両面 か ら見事 に物語 ってい るので あ る。
い しっころ 谷川 俊太郎 い しっころ い しっころ
じめんの うえの い しっころ いつか ら そ こにい るんだ い い しっころ い しっころ ひ とにふ まれ た い しっころ ち ょっ とお こって い るみ たい い しっころ い しっころ あめ に うたれ て い しっころ いつ もとちが う あお いいろ い しっころ い しっころ おなかの したは あったか い む しの あか ちゃん うまれて る い しっころ い しっころ そ らをみ あげ る い しっころ な まえを うけて あげ よ うか
(
『どきん』理論 社)谷 JIlは この詩 の指導 につ いて,「僕 は,極端 に言 えば,一個の石 ころを地球 とい う遊 星 を含め た宇 宙の生成 の歴 史み たい な もの を何かバ ックグラン ドとして,子 ど もた ちがつ か んで欲 しい。 その方 向に,先生が あ る促 しを して欲 しい と基 本的 には 思 ったんです(10)」 と述べ て い る。 谷川に とって, この一個 の石 は,宇宙 の生成 につ なが る背景 を も つ存在で あ り, 他者 (ひ と ・あめ ・む し) と交 叉 しなが ら他者 を意味づ け他 者 を生成 の状 態 におい て捉 えよ うとす る存在者 とな って い る。 そ して詩 の なかの子 ど もは,一個 の石へ の呼 びか けの極 み に, これ に命 名 しよ うとしてい る。真 の命名 作用 ととは,言葉 の網 の 目に よって,連続す るカオス としての現 実 か ら もの を不 連 続 体 と して取 り出 し, それ を一 つ の存在 た らしめ る営 み にはか な ら ない。 谷 川は読 者で あ る子 ど もた ちに, そ うした
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月 意味 での真の命名者 になるこ とを欲 しているのであ り, また子 ど もたちがそれに よって ものの存在 とはなにかにつ いて認識す るこ とに眼 を開かれ る こ とを願 ってい るので ある。
一個の石 は 多 くの他者 と, また, この詩の中の 子 どもは石 とい う他者 との経験のか らみ合 いの中 にあ り, まさに互 いの 「存在の創設」 している。
また,読者 としての子 どもは この 「い しっころ」
とい うテ クス トとの経験のか らみ合 いの中で,石 とい う他者 と互 いの 「存在 を創設」 し合 う。 この 詩 は, そ うした他者 との生 きた交流が幾層 に も綴 り込 まれたポ リフ ォニー となるように仕組 まれて いるのである。
これは, テ クス トの読み につ いて も同 じこ とが いえるO テ クス トを読む こ とは,読者 に先 だって 存在 しているはずの主題 とか意図 を 「顕在化」す るこ とで もな く, その シンタグマ軸 の展開 を分析 し,構造化 して主題 を論証す るこ とで よしとす る ので もないO読解 を踏 まえそれ を超 えるこ と, 谷 川の ことば を借 りれば,学習者 をある新 しい認識 の地平‑ 「促す」 こ とこそ, テ クス トの読 みの指 導 なのである。
第三 に,以上 の こ とは,解釈や理解 にお ける「主 体的主場」 に も反省 を迫 ることになろ う0
時枝氏は,言語研究の態度 として
,
「観察的立場 は,常 に主体 的立場 を前提 とす るこ とによっての み可能 とされ る」 とい う命題 を立てた。つ ま り, ある言葉 を客観的 な研究対象 とす る場合 に, それ が使 われた言語行為 の場 にひ きもどして, それ を 使 った人の立場 に立 ち, それ を追体験す る段階 を 経て, その追体験 を観察対象 とすべ きだ とい うの である。言語行為 その もの を研究対象 とす る時枝 氏の立場 にすれば, この命題 は必須の こ とであろ う。 しか し, その趣 旨は理解 で きる として も, は た して 「追体験」が可能 なのか, その場 その場で 無限の差異 を示す言語行為が真 に研究対象 となる のか検討の余地 が あろ う。筆者 がその こ と以上 に 問題視 したいの は,この命題 が,読解 における「読 者の立場」にその まま反映 されているこ とであ る。読む といふ こ とは,表現 の媒材である文字 を 手懸 りとして, それに よって構成 された文章 を通 して,作者 あるいは筆者の思想,立場 を 分 らうとす るこ とであ る。 このや うな作業 に は,先ず何 よ りも, 己 を虚 し くして,相手 を 理解 しよ うとす る寛容 の態度 と,正 しく読む
には どのや うな方法 に よるべ きか といふ,坐 徒 自身の読み方 に対す る批判的精神 を必要 と す る。 それは,伝達 を成立 させ,正 しい理解 を成就 させ よ うとす る精神 である。 ここに批 判的精神 といふのは,読 まれた,表現者 の思 想内容 につ いての批判ではな く,読む といふ 自己の行為 に対す る批判で ある(ll)0
確 か に
,
「教材 に盛 られた思 想 を正 し く理 解す る」 こ とが読みの前提 であ り,正 し く読むための 方法 を教 えるこ とが必要である。 しか し,次 の よ うな疑問が この文章 には投 げか けられないか,正 しさ とはいったい何 なのか。 それは「己を虚 し く」して相手 を寛容 に受容す るこ とによって可能 にな るのか, また, 自分が正 しく読 んでいるか を批判 す る もう一人の 自分, 自分 を越 えている自分 とは 何 なのか。表現者の思想内容 につ いての批判 は,
「批判的精神」に入 らないのか。要す るに, あるべ き読 み を目指 して 自分 を反省 しその欠如 を補完 し ようとす る態度は主体 的であるけれ ども, それが
「己 を虚 し くして」表現者の思想内容 と符合す るた めの努 力で ある としたな ら,没主体 的である とい うしか ない。 ボンティが批判 した 「自動運動
」一
思惟 な き伝達 が ここに も見 られは しまいか。
また,正 しい読 みの方法 として提 唱 した 「た ど り読 み」 だけが,真 に 「文章 の基本的性質」 に即 した読み なのか。つ ま り,文章 は 「時間的継起的 に展開す る」のだか ら,「読む といふ こ とは,文章 の冒頭 あるいは書 出 しか ら,順次,読み下 し,読 み進 めて行 く」 よ うな,単調 で,没主体 的 な営み であるのだろ うか。継起す る主章展開に随伴 して 現れ る,論理や で きご との因果律 を追 うこ とは, 読書 の一面の真理 で しかないのではないかO
た とえば,前 田愛氏は
,
『草枕』論 を軸 に,
淑石 が小説 における因果論的時間に抗す る努 力 もした こ とを論 じている。「小説の筋 をは じめか ら終 わ り まで追 うこ とになず んで い る那 美 さん に た い し て,画工 が提示 しようとした, 時間の流れ を自由 に切 断 し,停止 させ る読 み方は,まざれ もな く『読 書のユー トピア』を志 向 してい る(12)」たので あるO『草枕』は, 時間 を無化 し空間的展開 を試み よ うと した軟石 の実験小説で あった。また,この小説で, 画工 は メレデ ィスの 『ビーチャムの生涯』 を那美 さんに語 り聞かせ ているが,「開 いた所 をいい加減 に読 む」画工 の方法 を通 して
,
軟石 は 「原のテ ク ス トには還元で きない もうひ とつの メタテ クス ト‑ 1 4‑
をつ くりだ したので ある」。時枝 氏の「た ど り読 み」
とい うテ クス ト内の 閉 じられ た読 み とは別 に, そ のテ クス トに織 り込 め られた さまざまな他 の テ ク ス トに,読む時間の直線的 な流 れ を切 断 して, 自 由 に思 い を駆せ る開 か れ た読 み も必 要 なの で あ る。
また, ソシュー ル は晩年 になって, テ クス トの 中に潜在す る もう一 つ のテ クス トを考察す るアナ グラムの研究 に着手 した。 われ われ は,文 章 に顕 在す るシンタグマ軸 の直線的 な展開 だ け を追 うの ではな く,文章 の非連続性,可逆性 を も追 わなけ れば な らない。
さ らに,継起 的に展開す る文章 をた どるこ とは, 必ず し も読書 の心理 過程 が直線的 に進 む こ とを意 味す るのではない。読 者 は 自らの視 点 に よって作 品内世 界 を自由 に前進後退 し
,
「空所」を埋 め なが ら,一貫性 の あるイ メー ジを形成 してい くので あ る。文 章の継起的展 開 は,読書 心理 その もの を全 て拘束す るこ とな どあ りえない。 これ らを混 同 し てはな らない。時枝 氏は 「た ど り読 み」の方法 に よって,読解 こそ言語 的 コンテ クス トに従 って直線的 に論理 展 開 を追 うこ とだ とい う考 えが 助 長 され た とす れ ば,読 みの方法論 を狭 く限定 して しまった こ とに なる。
第四 に,時枝 氏の い う 「価値 意識」や 「技術
」
の再検討 が あげ られ よ う。
確 か に,時枝 氏のロ昌えた言語表現 に対 す る価値 意識や 目的意識 は, 言語生活 に とって重要 な意味 を もってい る。時枝 氏の国語教育論 は,西 尾実 氏 とは違 った意味 で の言語生活論 で あ り, この こ と の意義 は銘記 され て よい。 ただ, ソシュー ル にお ける 「価値」を 「語 と語 との関係」 と捉 え, 「単 に 物 の対 立関係 といふ点のみ見て, これ を言語 に適 開 して価値 を論 じた こ とは皮相 の見て あ るこ とを 免れ ない(1
3
H とした批判が妥 当か ど うか検討 され ねば な らない。そ もそ も, 時枝 氏の ソシュー ル学説 の誤解 には 次の よ うな屈折 した経過が あ る。
一つ は, 『一般 言語学講義 』その ものが, ソシュ ー ル 自身の言説 を忠実 に反映 した もので はな く, 講義録 を編纂 したバ イイや セ シェに よってゆがめ られて い るこ とで あ るo この′酎 二関 しては
,1 9 5 0
年代以降,受講者 の講義録や ソシュ‑ ル 自身の遺 稿が発 見され, ソシュー ルの思 想 その ものが明 らか に されつつ あ る。 わが国で は,丸 山圭三郎 氏 に よる精級 な本文批評 に基づ くソシュー ル思想 の解 明が進 め られてい る。 国語教育 にお いて も,‑ た びは丸 山氏の業績 を受容 し, ソシュー ル を再検討 してい くこ とが望 まれ よう。
二つ は,小林英夫 氏 に よる 日本語‑ の翻訳 の限 界で あるO ソシュー ルの用語 の概 念 と,翻 訳 した 日本語 の概 念の ズ レが,丸 山氏 に よって精査 され てい る。
三つ は, 時枝 氏が小林 氏の翻 訳 に寄 りかか り, 日本語 の概 念 に よって ソシュー ルの学説 を理解 し よ うとした こ とで あ る。時枝 氏の著書 には, 用語 の概 念の誤用や, ソシュー ルの学説 の体 系 にたい す る無理解 な ど, 無数 にあげ られ る。
た とえば,服部 四郎 氏が指摘 す るよ うに
( 1 4 ) ,une e nt i t ephys c hi que
を小林 英夫 氏の 「心的実在体 」とす る訳語 に従 うこ とはいい として も
, 「
『実在体』
とい う日本語 の単語 に よって 日本語 的 に考察 」し, ラ ングをあたか も自然的有機体 と同 じ く人間 に対 す る とソシュー ルが とらえた と理解 す るの は, 時 枝 氏の誤解 で あった とい え る
ce nt i t e
は, この場 令,実在 す る 「物 」を意味 す るので はな く, 「本質 体」 の 意 味 で あ り, 関 係 態 と して の シー ニ ュ( s i g ne)
で ある。時枝 氏は, こ うした誤解 の うえに立 って, ソシ ュー ル こそ「人間の精神 中に座 を 占め て る自然物」
としての ラン グを 「単位 」 としなか ら, 言語現 象 の全般 を説明 した と捉 えた。そ して
,
「全 く自然科 学 に於 ける原子論 の考方 を模 した」 ソシュー ルの 学 説 に対抗 して言語過程 説 を立 て,概 念 と聴覚 映 像 を適合 す るこ とに, 人間の主体 的 な活動 が あ る と唱 え, ソシュー ル学説 で失 われ た 「人間 を取 り 戻 さ う(1机 としたので あ った。しか し,「自然物 」・「単位
」
・「原子論」 (ア トミズム) は全 て ソシュー ルの否 定 した ところで あ る。 「ソシュー ルの理 論 は, その根本 に於 いて, 言語 の 自然科 学的客体 化 の所産で あ」 る とす る時枝 氏の批判 は, それ こそ「根本」的 に修正 されねば な らないo ソシュ‑ ルは パ ロー ル を説 く前提 として,パ ロー ル と弁証 法的 関係 を もって わか ちが た く結 びつ いて い るラ ン グ を論 じたので あ り, その こ とを通 して, 言語 と人 間 との関係 を根本的 に考 え よ うとしたので ある。
さて,「価値 」論 は ソシュー ル学説 の全体 系 にか かわ り
,
「語 る主体 」 に も触 れ る重要事項 で あ る。しか し, ここでは, ソシュー ルの 「価値 」 を 「形
‑ 1 5‑
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号1 989 年 3 月
相( f or me)で あ り関係 ( r appor t )で ある(
16
)J とす る簡単 な記述 に とどめて後述 す るこ とに し, ち う一つの 「技術」 につ いて問題 とす るこ とに した
い 。
言語 の習得 につ いて, 時枝 氏 は ソシュー ル と方 法 を異 にす る とい うO ソシュ‑ ルが ラングを脳 中 に 「貯蔵」す るこ とを言語取得 で あ る とす るの に 対 し, 時枝 氏 は,聴覚 映像 と概 念 との 「連合 の習 慣 を獲得 す る こ と」,連合 の 「保持」こそ言語 習得 だ と考 える。
時枝 氏の言語習得論 が前述 の 「言葉づ か い」 の よ うに,価値 意識 と結 びつ いて言語 生活 に生か さ 礼, それが 「技術」 に具体 化 され る限 りでは有益 で あった。
しか し, この連合理論 を国語教育 に適 用 した と き, 技術偏重 として現場 に受 け入れ られ る危険性 が あった。
もちろん, 時枝 氏の 「国語教 育 は言語技術 の教 育で ある」 とい う主張 には二つ の前提 が あ るこ と は認めねば な らない。
一つは, 国語教 育の歴 史か らの視点 で あ る。時 枝 氏 によれば,戦前 ・戦後 の国語教育 が, 国粋主 義 か ら民主主義‑ の変化 が あったけれ ど も, それ らはいずれ も 「国語教 育 を,何 等かの思 想感化の 手段 と考 えて ゐる思想」で あ るこ とに変 わ りはな い とす る。時枝 氏 は, こ うしたあ らゆ る思想 (内 杏) に埋 没す るこ とか ら国語教 育 を隔て よ うとす るので あ る。 また,戦後の経験主義 の教 育が,坐 活経験 とい う教育 内容 を重視す るあ ま り, 明確 な 方法 を欠いた けれ ども, この こ とに対す る時枝 氏 の批判意識 i)あった。
二つ は,い うところの技術 を,「思想 内容 の伝達 にお ける技術 」で ある として, 内容 と形式 (技術) の対 立 を克服 しよ うとした こ とで あ る。
こ うした前提 を考 えて も, 時枝 氏の国語教 育論 はなお検討 の余地 が あ った0時枝 氏 はママ ,「国語教育 の 目標 の一つ に, 内容 主義 ,勧化主義 を持 って来 た こ とは, その根 拠 は, 言語構 成観 にあ る と見 る こ とが出来 る(1
7
)」と言 い, ソシュー ル に対抗 して, 技術 を内容 よ り優先 しよ うとした。 そ して,次の よ うな 目標論 を生む至 った とき問題 を生 ず るこ と にな った。国語教育 の 目標 は, その (知 識情報 の獲得 ) に至 るた め の 手段 方 法 を問題 にす るの で あ る。 ‑‑‑国語教育 の 目的 は,獲得 され る知識
や思 想 にあ るのではな く, それ を獲得 す る手 段 方法即 ち読 み方,聞 き方 に あるので あ る(18)O 言語 は意味 と分 か ちが た く結 びつ いてい るので ある。 どんな作 品で もよいか らその教 え万 さえ し っか りしていれば, 内容 な どは二義 的 に考 えて も よい,読 み方や書 き方 の技術 の訓練 が大事 だ, と い う考 えは許 され ない。発達段 階 に応 じて深 い認 識や 思考や 感情 を喚起す る教材 を与 えるこ とが国 語教育 で は殊更 に重要 なので あ る。
また, 言語 習得 に関連 して い えば, ラングの規 範性 につ いて も, 時枝 氏 とソシュー ルの間 に意見 の違 いが あ るこ とを筆者 は注 目 したい。
時枝 氏は
,
「ソシュール言語学 のや うに,同一社 会 にお け る平均化 された ラン グの存在 を前提 とし て出発 す るこ とは,言語研 究の最 も重要 な問題 を 回避 した こ とにな る(19り とその楽観的 な態度 を批 判 してい る。 時枝 氏 に とっては平均 化 され た ラン グを形成す るこ とのむずか しさに関心が あったO この ため, 日本語 とい う言語 の 「一様性 と恒 常性 とを護持 しよ うとす るのが, 国語教育 の任務 で あ る伽)」 と主張 す るので あ る。確 かに,国語教 育 で は 日本語 の文 法や語葉体 系 な どの規範性 を習得 さ せ るこ とが必要 で あるo Lか し, それは十分 条件 なので はない。 人間は, 自分 のつ くりあげた構造 に縛 られてお り, そ こか らいか に して 自由 にな り うるか,つ ま り制 度化 され た ラ ングの拘束 か らパ ロー ル にお いていか に 自由 にな りラングを革新 し て い くか とい うもう一つの課題 が, 国語教 育で も 問われねば な らないランプ。「
『言』パ ロー ルの言語学 と『言語』の言語学 とを対 立 させ るCzl)」のが ソシュ‑
の考 え方 だ と批判す る時枝 氏 には,革新 と制 度化 を繰 り返 しなが ら弁証 法的 に展 開す るパ ロー ル と ラン グ との関係 が見 えてい なか ったのであ る。 そ れは ひ と り時枝 氏の限 界では な く, 時枝 氏 を含む 時代 の限界で もあ った。
3.
「語 る主体 」 につ いてわれ われの思考 と言葉 とは どの よ うな関係 にあ るの だ ろ うか。 あるいは, その思考 が体系化 され た文化 と, 言葉 は どん な関係 を もつ のだ ろ うか。
こ うした疑 問 に とらわれ る とき, われ われ は解決 の糸 口をつかむ ため に, た とえば次 の よ うな理論 を思 い浮かべ るだ ろ う。
一つ は ウオー フ な どの人類 学 ・言語学 の発 想で
ある。
ウオー フはア メ ))カの士語 を実証 的 に研究す る こ とに よって, 人間の思考 は, 習慣 的 に用 い る共 同体 の言語構 造 に深 く影響 されてい るこ とを明 ら か に したC そ して西 イン ド ・ヨー ロ ッパ語族 の母 国語 だけが 自然 を分割 す る絶対 の視 点 なので はな く, 言語構造 の数 だ け概 念の体 系が 多様 にあ るこ とを説 いた。
人間はあ る共 同体 の言語構造 の中 に生 み落 とさ れ, それ と一体 化 した 自然分割 法や概 念の体 系 を フ ィル ター として,現 実世 界 を見ている。 日常生 活ではその こ とが意識化 され ないが全 く異質 の言 語体 系 と比較 した とき,驚 くべ きその差 異が示 さ れ る。 た とえば, ホ ピ語 には西 洋世 界 にお けるよ うな時間の概 念は ない。 「私 は五 日間滞在 した」と 言 う代わ りに 「私 は五 日目に出発 した」 と言 うの で ある。 ホ ピ語 には継 起す る時間 をこの ように集 合体 として扱 う概 念 もな く,「相や法 とい う形式 に よって,瞬間 ・継続 ・反復の区別や伝達文 中の出 来事 の実際の連 続性(22)J を示す ので あ るO
ウオー フの学説 には, その方法 をめ ぐって 多 く の批判 も寄せ られてい るが(23), 人間の思考が共 同 体 の言語構造 に大 き く支配 されてい る とい う発想 は首肯 され る点が 多い。言語 が現実認識や伝達 の
「付随的手段 」なのではな く,現実 を認識 す る眼 そ の もの になるこ とを示唆す るので あ る。現 象学的 にい えば, われわれはいったん ラング とい う共 同 主観性 の 中に生 きる こ とに よ って認 識 力 を獲得 し,他者 との コ ミュニ ケー シ ョン もお こなえるよ うになるので あ る。
しか し, 人間は制 度化 した言語 に よって認識 の フ レ一一ム をはめ られ, それ にひたす ら従 うだ けの 存在 であ るだ ろ うか。 ここか ら次 に, ジンメルの
「生の弁証 法
」
「文 化の悲劇」 を問題 にせ ねばな ら ない(24)。世 代の間 を永遠 に流 れてゆ く生 は,みずか らの 力に よって,科学 ・文学 ・宗教 な どの文 化的形象 を生みだす。 しか し, これ らは人間のつ くった も ので あ りなが ら制 度化 され る と,遂 には人間 を拘 束す るよ うにな る。 けれ ど も,生 は また, 自ら と 対立 し自らを超越 させ る もの を内在 させ なが ら,
自らを絶 えず 更新 して い くもので あ る。制 度化 と 革新 とい う対 立 を内蔵 しなが ら自己 を超越す る と
ころに, 生の本質 が あ り文化の本質が あ る。
この こ とは,共 同体 の文化 と相 同的 な関係 にあ
る言語 につ いて もい える。規範 としての ラングは, その 中に生み落 とされ た個 人 を制 度 となって拘束 す る。 しか し,個 人は, そのパ ロー ル において, ラングを更新 す る。 それが共 同主観性 とな って沈 殿す る・‑‑。 こ うした相矛盾す る ものが相互依 存 しなが ら,弁証 法的 に限 りな く展開す る ところに 言語 の本質が あ るOパ ロー ル とは,言語構 造 の な 中 にあってその 自己超 越 をひ きお こ して い く, 創 造的 な発 生源 とい って もよい。 ソシュー ルは二つ のパ ロー ル を区別 した。(1)ランガー ジュ を実現す るための一般 的 な諸能 力の使 用 (発声作用 な ど)。
( 2 )
個 人の思想 に基づ いた, ラング とい うコー ドの 個 人的行使 で ある。後者 こそ本来的パ ロー ル なの で あ る。 この こ とにつ いて, 丸 山圭三郎 氏は次の よ うに述べ る。ここではパ ロールが既成 の ラングの意味 体系 を前提 とし, この絶対 的 と言 って もいい ほ どの規制 の下 にあ りなが ら,主体 が真 の表 現 作用 を行 うこ とに よっては じめて そ こに コ トバ の創造的止揚 がみ られ る。 この弁証 法的 発展の図式の 中に こそ,本 来的 ソシュー ルの パ ロー ルの意味 が見出 され, の ちに メル ロ二 ボンテ ィが提 起す る ≪語 られたパ ロー ル≫ か ら ≪語 るパ ロー ル≫‑ の示唆が読 み とれ るの で ある(25)0
それで は,パ ロー ルが ラングを更新 して い く「創 造的止揚」の メカニ ズムは, ど うな って いるのだ ろ うか。 この こ とを考察す るため に,丸 山圭三郎 氏の業績 に依 りつつ, ソシュー ルの学説 につ いて 見て い くこ とにす る。
た とえば, ここに, 月, はか な し,夢,蛸壷, 夏 とい うシー ニ ュ (言語記号) が あった とす る。
(I) まず, 言語 の 中には差 異 しか ない とい う原 理 を
,
「夏」とい うシー ニ ュ を と りあげて考 えてみ よ う。 日本 人は, 四季 が裁然 と分 かれ てい るかの よ うな錯覚 を もつ。 しか し,兼好 も冬の 中に春 が 既 に きざして い る と言 うよ うに, 自然 は切 れ 目な く続 いている。 人間 は この連 続す る時間 を四つ に 切 断 し, それ らの間 に関係 の網 の 目を二次的 につ くりあげた。 四季 の名 は, その二次 的 な関係 の網 の 目をあ らわす記号 で あ る。人間が樹 立す る事物 間の杵 は,事物 に先 立 っ て存在 し,事 物 を決定す る働 きをなす。他 の 場所 にお いて は事物 す なわ ち, 与 え られ た対 象が存在 し, つ いで それ をさ まざまな視 点か
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ら観察す るこ とがで きる。此処 にお いては, それが正 しいにせ よ誤 ってい るにせ よ, まず 在 る ものは視点 だ けで あ って, 人間は この視 点 によって二次的 に事物 を創造す る。 (‑ ‑・) いか なる事物 も, いか なる対 象 も,一瞬 た り とも即 日には与 え られ ていないCZ6)O
「夏」 とい う時間の単位 が この 「視点」 に先立 って実体 的 にあったのではない。 それ は, 人間の
「視点」に よって創造 され た関係 をあ らわす ところ の一つの記号 であった。
しか も,将棋 が,駒 同志 の関係 に よって成 り立 つ世 界であるよ うに,「夏」 は,春 ・秋 ・冬‑‑ と いった他 の辞項 との差 異に よって成立 してい る。
「‑ ‑言語 の 中 には実 定 的 な辞項 を もた ない差 異 しか ない。‑・・・厳密 に言 うと, シーニ ュが在 るの ではな くて,シーニ ュ間の差 異が あるだ けで あ る。
・・・‑(27)」。
さらにいえば,将棋 の駒 の場合,木でで きてい よ うが紙 でで きてい よ うが材質 が問題 で な く,駒 の間の 目に見 えない関係性 が問題 で あった。 その よ うにシーニ ュ 「夏」 も, その シニ フ イエや シニ フ イア ンの実質が問題 ではな く, フ ォルム (形相) が間者 で あった。
また さらにいえば,将棋 の歩や 王将 といった駒 の名称 も,駒の関係性 をそ っ くり他 の名称 に移行 して も勝 負で きるよ うに,夏 とい う時間 とシー 二 ュ 「夏」 の シニ フ イエ ・シニ フ イア ンの実質面 と は何の有縁性 もない。す なわ ち悪意的で ある。「最 後 に到達 す る原理 は, シー ニ ュの悪意性 とい う基 本原理 である」。しか も,「シーニ ュに一つの機能, 一つの価値 を与 えるこ とがで きるのは, シーニ ュ 間の差異だけであ る。 もしシー ニ ュが悪意的 で な か った ら, ラングの 中に差 異 しか ない とはいえな い(28)J のであ ったo この悪意性 と示差性 との相 関 関係 こそ,後述 の 「パ ロー ル に よるラング変革」
を可能 にす る鍵 で あった。
この よ うに,言語記号 の本質 とは, 未分節 の連 続体 であ るモ ノを,「視点」によって分解 し非連 続 体 として関係秩序 を与 えて コ ト化 す る ところに示 差性,悪意性 を特性 としてい る。 ソシュー ルの説 いた この言語記号 の本質 は,全 ての文化 的記号 に 通底す る ものであ り, それゆ えに ソシュー ルは記 号学 の淵源 とな りえたので ある。
( Ⅰ Ⅰ
) さて, 月, はか な し,夢,蛸壷, 夏 とい う 孤立 した シー ニ ュは, しか し, この ままつ ないでも何 の メ ッセー ジ も発 しないO それでは芭蕉 の 蛸 壷 や は か な さ 夢 を 夏 の 月 とい う句で は, どの よ うに して各 シーニ ュがつ な がれ, それ らの関係 か らどの よ うな意味 が発 生す るのか。
この句 は 「明石 夜泊」 の詞書 を もって 『笈の小
文
』の終末 におかれ,
『猿 蓑』に も取 られ てい る芭 蕉の 自信作 で あった。 この句 は,単 なる 「月光 美 の情景」 を描 写 したので はな く,蛸 に対 す る 「哀 憐 同情」 の念 を も表現 し(29),底 に芭蕉 の人生観 を もに じませ て い る。 それが どの よ うに して生成す るのか, 言語学的 に考 察 してみ よ う。ソシュー ルは言 う。「我 々が語 るの は,連辞 によ ってのみで あ る。その メカニ ズムは,恐 ら く,我 々 が連辞の型 を頭脳 の中に持 って いて, それ らの型 を用 い る時 に連合語群 を介入 させ て いるので ある
・‑‑伽)」 と。芭蕉 の場合 は い うまで もな く,五七 五 の定形 によ りつつ 「蛸壷や はか な さ夢 を」 の上 五 中七 と,座 五 の 「夏の 月」 との関係 の空間 に意 味 を生成 させ る。上五 の 「や」 は形成上 の切 れ字 で 「蛸壷」を 「はか な き夢」につ なげ る。次 の 「は か な さ」 は 「夢」 を修飾 しなが ら,座五 とも匂 い 合 う。 したが って 中七 の 「を」 は,述語 の省略 を 想定 させ る脱化法で あ り, その言 い き しに よって
「蛸壷」 と 「夏の 月」二つ の イ メー ジを結 びつ け, はか なさ とい う類似性, 風雅 と滑稽 との対比 とい った錯雑 した情緒の融合 をはか ってい る。 この句 にお ける連辞 (サ ンタグマ)の型 とは, おお よそ こ うした こ とをい うので あろ う。
ラングの記号学 的関係 とは しか し,連辞 関係 だ け を言 うのでは ない。 ソシュー ルは前言 に続 けて 次の よ うに言 う。「それ ぞれの連合群 の内部 で何 を 変 えれ ば単位 を差 異化 し得 るか とい うこ とを, 我 々は知 ってい る。だか ら,連辞 が作 り出 され る 瞬 間 には連合群 が介 入 して い るので あって,連合 群 な しに は連 辞 は形 成 され な い と言 え るの で あ
る」 と。
た とえば座五 「夏の 月」 の場合 で あ る。猿 錐宛 書簡 では 「あか しよ りす まに帰 りて泊 まる」 とあ り, 貞享5年4月20日の夜 に芭蕉 は明石 に泊 まっ ていない。 そ こに彼の虚構 が働 いて い る。す なわ ち, この句 に うたわれて い る情景 は,芭蕉が見 た 情景 をその ままに写 しとったイ コン的再現 なので は な く, まさに芭蕉 に よって構 成 された二次 的体 系 なのだ。連辞 お よび連合 もすべ て この体 系化 と