問題提起2 多国間植民地問題としてのクルド紛争(
シンポジウム 民族紛争の現在 : 日本から考える)
著者 松枝 到
雑誌名 東西南北
巻 1999
ページ 24‑31
発行年 1999‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003658/
多国間植民地問題としてのクルド紛争
松枝到 シンポジウムO民族紛争の現在l日本から考えるO問題提起2
和光大学の松枝と申します︒
東西交渉史とご紹介いただきましたが︑本来︑大学院
などで学んでいたのは西洋の美術です︒西洋の美術とア
ジアとの関係というようなことをやっておりまして︑そ
の関係でアジアにも大変深い関心を持っていました︒で
すから︑民族問題については素人といいますか︑専門的
な研究をしているわけではありません︒
さて︑クルドの人びと︑もしくはクルドの人びとの国
をあらわす﹁クルディスタン﹂という土地があります︒
ここに大雑把な地図がありますが︑幾らか網がかかった
ようなところがクルディスタンと呼ばれている地域です︒
百科事典などを見ますと︑トルコ︑イラク︑イラン︑
この三国にまたがる地域に住んでいる部族もしくは民族
と呼ばれるのがクルドという人びとですが︑実はもつと 本学人間関係学部教授
広く︑さまざまなところに住んでいます︒トルコにもっ
とも多く居住していますけれども︑シリア︑イラク︑イ
ラン︑それからずっと飛んでイランの北方からトルクメ
ニスタン︑それから︑下のほうに降りますとバルチスタ
ンと書いてありまして︑イランの南部からパキスタンに
かけてもクルドの人びとが見られます︒
このクルドの人びとに私がなぜ関心を抱いたかといい
ますと︑たとえば︑トルコにヴァン湖という湖がありま
す︒ここら辺は有名な絨毯の産地︑あるいは特殊な猫の
産地ですが︑このあたりに大変古くからの週跡がありま
す︒有名なのは︑たとえばウラルトゥーという古代の国
がありましたし︑また︑紀元前後に展開したコンマゲネ
という王国がありまして︑一○年ほど前に私たち和光大
学のグループでそのコンマゲネ遺跡を訪ねたことがあり まつえだいたる 一九五三年生まれ和光大学人 間関係学部人間関係学科教授 専攻・アジア文化︑東西交渉史 トルコ︑パキスタンなどの考古 学遺跡を調査するとともに︑ア ジアの文化史を講じている著 書に﹁アジア言遊記﹂大修館書 店などがある
, " 一
るわけですが︑そこに行きたいと思ったわけです︒ ここから少し山に上がったあたりに古代都市の遺跡があ ます︒トルコ東部のディヤルバクルという都市があり︑
ところが︑日本で調べてみると︑そこにアプローチで
きるのかどうかよくわからない︒それではとりあえずト
ルコに行ってみようと︑イスタンブールへ行きまして︑
イスタンブールで︑昔コンマゲネと言われていたあたり
を訪問したいと言ったら︑どこの旅行社へ行ってもそれ
はやめなさいと言われました︒なぜやめなければいけな
いのかと聞くと︑クルドがいるからだと︒クルドとは言
わないで︑山賊がいると言いました︒つまり一○年前は
クルドという名前を言うことさえ禁じられていました︒
トルコの側から言えば﹁山岳トルコ人﹂︑もしくは
﹁山に住むいなかの人﹂というような名前でしか︑クル
臺宰
序
ドの人びとのことは語れなかったわけです︒ですから︑
山賊︑盗賊︑強盗︑そういった言葉の同義語として語ら
れていたわけです︒
それで私も︑そういえばそういうものを読んだことが
あるなということをいくつか思い出しました︒一九世紀
から二○世紀にかけて書かれたさまざまな中東冒険物語
の中に︑たびたびクルド族は出てきます︒そして彼らは
何をするかというと︑剣を振り回し︑銃を撃ち︑とにか
く人びとを襲う連中︑ならず者︑やくざというように描
かれていました︒
それでも︑とにかく行ってしまおうというので行きま
した︒シリア国境のすぐ北にあたるガズィアンテップと
いう町からディヤルバクルのほうまで上がりまして︑そ
こら辺で︑はたしてコンマゲネヘ行けるだろうかと︑ま
た旅行社へ行って聞きました︒するとそこの人は﹁行け
るに決まっているじゃないか︒大変楽しいところである﹂
と言います︒それで︑﹁クルド族がいるんじゃないの?﹂
と聞いたら︑﹁それはいる︑おれもクルド族だ﹂と言う
のです︒﹁おまえはどこから来たのか﹂﹁イスタンブール
から来た﹂﹁イスタンブール?あそこはだめだ︒危険
だ︒トルコ人ばっかりだ﹂︵笑い︶というような話をし
ていました︒それは何でだろうと思ったんです︒
そのとき一緒に旅をした前田耕作先生︑村山和之先生
がきょうおられますから︑後でいろいろ補足していただ
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きたいと思いますが︑そのことで私はクルドという人び
とに大変興味をひかれました︒
そして︑日本に帰って︑簡単なクルディスタン訪問記
を書こうと思って資料を調べ始めると︑ほとんどありま
せん︒旅行記の中の断片︑あるいは︑たとえば外務省の
旅行禁止区域の説明︑そういったものにしかクルディス
タンに関する記述は見当たりませんでした︒おそらく似
たような状況が今も続いていると思いますが︑私たちが
出会ったクルド人はそれとはずいぶん印象が違ったとい
うことがあります︒
調べると言っても︑ごく限られた研究書しかありませ
んので︑海外の研究書などを見てみました︒そこでよく
わかったのは︑たとえばフランスにはクルドロジー︑つ
まりクルド学︑クルド人研究︑クルド論といったような
名前で呼ばれる一連の研究書があります︒あるいは︑フ
ランスのオリエント言語研究所で最初にクルド語が教え
られた︑最初にクルド語の講座というものがフランス人
に向けて開かれたのは一○○年近く前のことでした︒そ
れなのになぜ我々はクルド人のことを知らなかったのか
ということで︑大変関心を持ちました︒
あらためて地図をごらんいただければわかりますよう
に︑クルディスタンと呼ばれている地域は幾つもの国に
またがっています︒幾つもの国にまたがっていながら︑
固有の領土を一つも持っていない︒一センチ四方も持つ ていないということが大変な問題です︒
たとえばアフガニスタンの問題についてなら内戦と言
えることが︑クルディスタンの問題については︑トルコ
の内戦であり︑イランの内戦であり︑イラクの内戦であ
り︑シリアの内戦であり︑ソ連の内戦であるというよう
な形でしか表現できません︒クルドの人びとは常に排除
される側に立っている︑内在する異邦人であるというと
ころが難しい問題だ︑というわけです︒
私としては現状について話そうと思ったのですが︑そ
ういう次第ですから︑さまざまな国から国情にしたがっ
て異なる見方をした︑極めて錯綜した情報が入って来て
いる︒ここ一○年間の情報はどうも信用できないという
こともあります︒つまり複数の情報を突き合わせて︑正
しいことかどうか裏が取れないということもあって︑簡
単な年表を書いてみましたが︑これも一九九二年までで
とめるしかありませんでした︒ともかく︑実にいろいろ
な事件が起きています︒各国との確執があり︑自治権の
承認を取り付けたり破棄されたり︑そういう細かな闘争
が延々と続けられているということがわかります︒
では︑クルドというのはいつごろから知られているの
かを︑問わなければなりません︒
私は︑クルドの問題というのは︑一つは歴史的問題と
して考えたいと思っています︒現在のクルド族の先祖か
どうか︑はっきりとわかりませんが︑おおよそ紀元前二
○○○年ごろからその名が伝わっている︑極めて古い民
族の名です︒クルドと思われる名を記した資料があって︑
しかも彼らはすでに差別されていたことがわかります︒
たとえば彼らは︑﹁カルダカ﹂︵シュメール碑文︶であ
るとか︑﹁クルティエ﹂︵アッシリア︶であるとか︑﹁カ
ルドウコイ﹂︵ギリシア︶であるとか︑さまざまな名前
で呼ばれていました︒そして具体的に書かれた資料とし
ては︑まさにヘロドトスから︑クセノポーンなどのギリ
シア資料にもそれらしき名前がずっと続いております︒
そして︑その中にさまざまな伝説が四○○○年の昔か
ら伝えられています︒たとえば奴隷の子孫であったとか︑
悪魔の末窟であるとか︑何かしらよからぬことをした結
果分離された民族であるとか︑そういう話です︒あるい
は古代ギリシアの説話で︑﹁悪質きわまる盗賊﹂とか
﹁ソロモン王の一勇娃に向かう途上で悪魔どもに強姦され
た四○○人の乙女の子孫﹂とか言われたり︑そういう話
が満ち満ちております︒
カール・マイの小説﹃秘境クルディスターンを抜けて﹂
︵エンデルレ書店︶などもそうですが︑クルド人をめぐ
るこうしたある種の先入観︑悪口の連続がどうして生ま
れたのか︒これはまさにクルド人が絶え間なく国を持ち
得なかった︑帰属する空間を確保できなかったというこ
とに問題があるのだろう︒それと同時に︑そうした漠然
たる空間の中で絶えず自分たちの民族ではない王朝︑自
図1クルデイスタンイスマル・ベシチク「クルデイスタン一多国間植民地」柘植書房より作成
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分たちの民族とはかかわりのない国家︑イデオロギー︑
宗教︑さまざまなものに取り囲まれながら︑四○○○年
の間︑民族の文化︑言語︑風習︑そういったものをなぜ
保ち得たのか︒国家がなくても民族というものが持続す
るとすれば︑これほど強烈な例もないだろうということ
で︑大変関心を抱いたわけです︒
現実には︑クルドの人びと︑少なくともクルド族であ
ろうと思われる人びとの中で︑小さな部族王朝はともか
くも︑はっきりと強大な国家をつくった人が一人だけお
ります︒一二ハ九年から一二五○年にかけて活躍した︑
サラディンというイスラームの英雄です︒正式には匿一農
篁︲ロョという名前を持っていますが︑西欧にはサラディ
ンの名で知られるこの人がファーティマ朝を倒して︑ア
イューブ朝という王朝を建てました︒この人がクルド出
身の人物です︒
そして彼は何をなしたのか︒キリスト教十字軍を打ち
倒したことで大変有名なイスラームの英雄です︒イスラ
ームの人だったらだれでもがサラディンのようになりた
いと思う人です︒そしてまた︑実は十字軍のほうでもサ
ラディンについては大変尊敬の念を抱いていた︒ダンテ
の﹁神曲﹂の中に︑一人だけ異教徒ながら尊敬をもって
語られている人物がいます︒それがサラディンです︒サ
ラディンは川のほとりで悲しげに血の川を見ている︒そ
うすると血の川の中でもがきながら沈んでいる男がいる︒ ダンテがあれはだれですかと聞くと︑あれはムハンマド だという話がありますが︑それでもサラディンは英雄だ った︒西でも東でも英雄だった男です︒これがクルド人 にとっての最高の誇りなんです︒
私が最初に短い旅行記を書いたときには︑まだクルド
人の名は知られていませんでした︒皆さんがお知りにな
ったのはたぶん湾岸戦争のときですねc何百回︑何千回
にも及ぶ反乱︑あるいはクルドが自分の国家を獲得しよ
うというさまざまの試みの中でも︑湾岸戦争は最大の試
みの一つだったのですが︑イラクのフセイン大統領によ
って弾圧され︑毒ガスあるいは化学兵器によって大量の
クルド人が殺された事件があります︒
一九八七年五月七日︑イラク軍によるクルドヘの化学
兵器の使用が初めて確認されましたが︑サリンが使われ
たという説もありまして︑大量の人びとが亡くなってい
ます︒そのときにクルドという名前が初めて世界をめぐ
って︑そのとき日本にも知られたということになります︒
しかし逆に言うと︑それまでは知られていなかったとい
うことでもあって︑また今や徐々に忘れられつつあるか
もしれません︒そのレベルでも︑やはり国家があるのか
ないのか︑ここが微妙です︒
クルド人は大きく三つの言語グループをつくっていま
す︒ザザ方言︑クルマンディー語︑クルディー語といっ
た言語グループです︒
紀元前一○○○年から七︑八世紀ごろまでは︑クルド
人の大半はゾロアスター教徒であったろうと考えられて
いますが︑その後︑アラブの侵入によって急速にイスラ
ーム化していって︑現在はほぼスンナ派のイスラーム教
徒です︒イスラーム教徒ですけれども︑クルドのイスラ
ーム教徒は︑大変不思議な風習を持っています︒
一つは徹底した一夫一妻︑つまり一人の夫は一人の妻
しか婆らないという旧来の習慣があります︒
それから︑もう一つは︑たとえば兄がいて︑兄嫁がい
る︑その兄が死んでしまうと︑弟はほかにどんな恋人が
いようと︑その兄嫁と結婚しなければいけない︒そうい
西部クルディスタンの衣装
一