地震リスクと地震保険
堀 田 一 吉
■アブストラクト
地震リスクには,他のリスクと比較してさまざまな特性があり,そのため に保険困難な要素が多い。これを克服するために,空間的リスクに加えて,
時間的リスクを大幅に取り込むことで,リスク分散を実現しようとする。し かしこれは,保険原理の観点からは,重大な問題を含んでいる。そこで,本 稿では,非常に特異な性質を有する地震保険について,保険原理に照らしな がら,構造的特徴ならびに限界について考察しながら,官民役割分担のあり 方について論じる。とりわけ,地震保険に見られる逆選択現象の本質を捉え つつ,その対処策として採用されている地域別料率について,過度の採用は 水平的不公平を増大させる恐れがあることから,むしろ,耐震構造に対する ウェイトを高めた料率設定を行うことが,契約者間の公平性に照らして望ま しいことを主張する。
■キーワード
地震保険,逆選択,官民役割論
1.地震リスクの特性と地震保険
われわれは,日常生活において,多くのリスクに脅かされて生活している。
個人は,その多様なリスクに対して,その性質を捉えて独自の対処策を講じ ている。こうした中で,地震大国といわれる国土で生活を営む日本国民にと って,地震災害に対する備えは避けられない問題である。日本は,世界有数
/平成20年1月16日原稿受領。
の活火山を有していることから,地震が起こりやすく,さらに四方を海に囲 まれているために,津波被害も受けやすい。それゆえに,日本国民は,地震 に対する潜在的な恐怖感を持っている。
地震リスクには,他のリスクと比較して,いくつかの特性が見られる。そ こでまず,はじめに地震リスクの特性を整理してみる。
⑴発生予測が困難であること 地震科学の発展により,地震発生メカニズ ムはかなり解明されてきてはいるものの,その発生時期を正確に予測す るまでには至っていない。政府の地震研究調査推進本部が公表した 全 国を概観した地震動予測地図2007年版 では,今後30年以内に震度6弱 以上の揺れが発生する確率が詳細に示されている。これを見ると,確か に緊張感が高まっていることが分かる 。しかし,30年以内という時間 的スケールは,実感がわきにくく,発生予測としては不確実性の領域を 出ない。
⑵被害が局所的に発生すること 経験的にみると,同じ自然災害である台 風リスクと比較してみると,局所的に被害が及ぶことが多い 。風水害 は,台風の進行進路によっては,被害が広域に及ぶ可能性があり,その 結果,巨大な損害をもたらすことが多い。これに対して,地震災害は,
発生地点を事前に予測することができないけれども,被害は,比較的局 所的かつ集中的に発生する傾向が強い。
⑶巨大な損害をもたらす可能性があること わが国では,小規模なものを 含めれば,年間に2000回近い地震が発生しているが,実際に被害をもた らす地震はごく少ない。しかし,いったん発生すると巨大な損害をもた らす可能性が大きい 。われわれは,過去にいくつもの悲惨な地震災害
1)
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:www. jishin. go. jp
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2) 黒木(2003),pp.202‑203。3) 中央防災会議によると,首都直下地震による経済被害想定額は,最大で,
112兆円(発生時刻18時,風速15
m
/s
)という巨額な損害になるという。また,建物全壊棟数約85万棟,死者数約11000人,負傷者数約21万人という人的・物的 被害が見積もられている。(纐纈(2006))
を目の当たりにしてきたことから,地震に対する恐怖感は非常に大きい ものである。
⑷損害額は,複合的要因により大きく変動すること 地震の発生が直ちに 損害をもたらすとは限らない。地震被害は,建築構造,発生する時間帯,
周囲の環境,気象条件,地震の発生形態など,さまざまな要因が複合的 に影響を及ぼすことで,損害が拡大する可能性を有している。最大予想 損害についても,その条件設定によって,その数字も大きく変動する。
⑸発生抑止はできないが,損害緩和は可能であること 地震発生を予測す ることはできるとしても,発生を抑止することは不可能である。しかし,
地震に備えて,防災活動を行うことは可能である。防災活動により,損 害規模は大きく軽減することができることから,耐震対策の重要性が強 く唱えられている。
⑹リスクの認知度に個人差が大きいこと 地震リスクに対する認知度は,
個人差が非常に大きい。個人によっては,危険度を低く見積もる場合が あり,その認知度に応じて地震対策に対する行動はまったく異なる。
Slovic(1992)は,認知されたリスクこそが真のリスクであり,科学的な リスクあるいは客観的なリスクなどは実際には存在しないとする 。地 震リスクについて考えると,個人は,各自の主観的なリスクに従って,
地震リスクの大きさを判断して対応策としての行動をする。
市民生活を脅かす地震リスクに対しては,人々は,当然ながら,その不安 から解放されたいと願う。こうしたリスクに対しては,保険が対応すること
4)
Slovic
(1992), pp.
122‑124. 瀬尾(2005),pp.78‑81. Slovic
(1992)は,さまざ ま存在するリスクを, 未知のリスク(unknown risk) と 恐ろしいリスク(
dread risk) の2つのファクターで捉えている。未知のリスクとは,観察が
できず,危険に晒されている本人がリスクの程度を認識していないものである。
他方,恐ろしいリスクとは,抑制が困難で,損害が甚大に及ぶ可能性のあるリ スクである。①未知であり,かつ恐ろしいリスク,②未知ではあるが,あまり 恐ろしくないリスク,③未知でも恐ろしくもないリスク,④未知でないが,恐 ろしいリスク,の4つのカテゴリーに分類した。
が考えられる。ところが,保険システムとして,地震リスクを引き受けるこ とには多大な困難を伴う。第1には,制度設計を行う上で,信頼できる統計 が入手できない。第2に,巨大損害に対する及ぶ可能性があることから,地 震保険のキャパシティが乏しい。そして,第3に,地域性が大きいことから,
逆選択が生じやすい。これらの要因により,理論的には,保険制度を創設す ることは難しいリスクであると考えられる。
わが国の地震保険は,1964年に発生した新潟地震を一つのきっかけとして 誕生した 。制度発足の趣旨は地震等による被災者の生活の安定に寄与する ことにあり,当初より地震災害に対して完全補償を目的としていない 。地 震保険が創設されて以後,しばらくの間は, 保険の制度的仕組みからみて 内容のある保険可能化の対象となりえない として,保険会社も積極的な 引き受けを行ってこなかった。そこで,地震リスクについては,火災保険に 付帯する形で引き受けられ,単独リスクとしては,取り扱われていない 。
5) 現行地震保険制度の特徴を整理すると,①火災保険の特約として地震単独リ スクを対象としている②補償内容および保険料率体系は全社一律である,③リ スクを反映した保険料率スキームとなっている,④付保割合の制限(30%〜50
%)ならびに総支払限度額(5兆円)あり,⑤個社単独で引き受けられる部分 はなく,業界共通プールに再保険される,⑥ノーロスノープロフィットの原則 として,剰余金は危険準備金として積み立てられる,⑦政府による超過額再保 険で引き受けられる,ことである。
6) 商品説明書の項目は,保険契約の概要,保険加入者の権利・義務,保険契約 の主な保障内容,保険金支払いに関する注意事項,保険契約に関連する注意事 項,その他の消費者保護に関する事項である。
7) 岩崎(1973),p.93。ここでは,損害保険業界が,消極的であったにもかかわ らず,制度創設に合意した理由は,保険国営論を阻止するためであり,まさに 地震保険は政治的妥協の産物であったという,興味深い見解を述べている。
8) 日本のほか,アメリカ,台湾などでは,地震リスクを単独リスクとしてカバ ーしている。これに対して,スペイン,フランス,イギリス,ドイツ,ニュー ジーランドなどの国々では,オールリスク的に,地震リスクを含めてほとんど の自然災害をカバーしている。織田(2007)を参照。ただし,日本でも,JA 共済における建物更生共済では,基本保障の中に,地震リスクが取り入れられ ている。
本稿では,保険原理から改めて地震保険の構造ならびに固有性について再 考察することを目的とする。次節では,地震保険の構造的特徴をリスク分散 の観点から分析する。そのうえで,地震保険をめぐって問題とされる逆選択 現象の本質について考察する。そして,料率設定において,地域別要素を加 えることの功罪について論及する。最後に,地震保険をめぐる官民の役割分 担の考え方について提示する。
2.地震保険の限界と問題点
保険の歴史を振り返ってみると,海上危険におけるリスクに対処するため の方策が駆使されてきた事実を見ることができる。金融保険業者にとって,
そのほとんどが未知なリスクであり,また,当時としては巨額なリスクであ り,引き受け困難なものであったが,積極的に危険引き受けを行ってきた 。 一 つ は,古 代 ギ リ シ ア 時 代 以 来,長 い 間 行 わ れ て い た 冒 険 貸 借
(bottomry)がある。これは,商人(船主または荷主)が航海に際し,金融 業者から資金の融通を受け,もし船舶や積荷が航海の途中で海難に遭遇し,
全損となったときには返済を免れ,無事に目的地に到達して貿易の成果を上 げたとき多額の利子と元金を支払うという貸借制度である。
もう一つは,ロイズなどのようにシンジケートを形成して,リスク引き受 け者数を増やして,広くリスクを分散することである。ロイズは,個人のリ スク引き受け者の自由自在に構成することでさまざまなリスクにも臨機応変 な対応をし,その信頼を今の時代にまで受け継いでいる。
そして,現代は,これらの保険における歴史的遺産を継承する中で,新た なリスク処理手法を考案し始めている。保険デリバティブやリスクの証券化 など,代替的リスク移転(ART)は,1990年代の巨大な自然災害の発生の 結果,再保険市場がハード化したことを契機に開発され普及したものである。
災害リスクを分散化する仕組みとして,保険市場と金融市場の融合を図るこ とで,災害リスクを分散化する手法である。しかし,わが国が有する地震リ
9)
Jaffee and Russell
(1997)pp.207‑208.
スクを効果的に吸収できるほどの状況にはない 。
さて,保険成立が困難な状況であるにもかかわらず,国民の不安材料であ る地震リスクに対処したいという期待に応えて,さまざまな工夫を凝らして 創設された制度が地震保険である。前節取り上げた3つの問題に対して,そ れぞれ可能な範囲の対処策が講じられている。第1の統計上の信頼性につい ては,近年の料率改定により,過去の地震データに基づいた予測値に加えて,
最新の地震工学の研究成果を取り込んだものが取り入れられているが,完全 なものとはいえない 。地震予知という面では,正確な情報を提供する段階 には至っていないという。第2に,巨大な損害に対処するためには,政府に よる再保険が活用されている。通常,再保険は,①保険事業の安定化,②異 常損害に対するプロテクションの確保,③引き受けキャパシティの拡大,を 図るために,損害保険を中心に広く活用されている手法である。しかし,国 外での再保険市場が安定的に確保できないことから,政府関与により,安定 的な地震保険の供給を可能としている。第3に地域性の問題に基づく逆選択 については,地域別のリスク度を反映させた保険料率を設定することで対処 している 。逆選択ならびに地域別料率には,それぞれ理論的に議論すべき ことがあるので,次節においてさらに論及する。
10)
Swiss Reの資料によると,CAT
ボンドの発行額は,2004年が39.88億ドル,2005年が50.73億ドルになっている。その市場規模は,徐々に浸透しつつある とはいうものの,再保険市場の規模と比較すると,まだ期待されるほどの規模 に到達していないのが現状である。したがって,国内での引き受け体制のみな らず,地震リスクを引き受けるための海外再保険市場の整備育成を図ることも,
重要な政策課題となる。
11) 平成19年10月より,地震モデルを歴史地震から,政府の地震調査研究推進本 部が公表した今後の被害をもたらす可能性のあるものとして想定した約73万震 源モデルをもとに,収支が均衡するように制度設計に変更している。
12) 日本やアメリカでは, 地域 構造 建築年数 などがリスク区分要素と して採用されているが,ニュージーランド,台湾,スイス,スペインなどでは,
保険金額 に対する一律の料率が適用されるスキームとなっている。織田 (2007)を参照。
しかし,保険原理からみるとき,地震保険には大きな問題が存在する。保 険は,リスクを媒介にして,支払保険料と受取保険金(の期待値)を等しく することで,公正な保険取引が成立する。これが給付反対給付均等の原則で あり,この原則を中核とする保険原理である。その結果,保険契約者(被保 険者)が保有するリスクは,公正なコストを支払うことで,保険会社に移転 されることになる。ところが,地震リスクにおいて,公正な保険取引をどう 考えるかは非常に難しい。その理由は,地震リスクの捉え方が,他の保険と は,大きく異なるからである。
一般的に,保険会社が引き受ける保険リスクは,多数の被保険者のうち,
誰に対して,どれほどの損害規模が発生するかの不確実なリスクである 空 間的リスク すなわち 事故発生リスク と,いつ保険事故が起こるかどう かが不確実なリスクとしての 時間リスク の2つからなっていると考えら れる。最も基本的かつ理想的な保険は,空間的リスク分散によってリスク処 理がなされるものである。すなわち,一定時間内に同質リスクによって形成 される保険集団の間で,事前に確率計算に基づいた公正な保険料を集めて,
保険事故に遭遇した被保険者(保険契約者)に保険金が支払われる。
どの時点で加入しようとも,損害の期待値に見合った保険料を負担してい るとすれば,こうした公平性の問題は発生しない。そして,保険原理は,こ の考え方に従うものである。この意味で,地震リスクは,他のリスクと比較 して発生頻度が少ないために,保険料算定のためのデータが極端に少ない。
そのために,大数の法則が働くほどの地域横断的なリスク分散は確保できな い。そこで,大幅な時間的要素を取り入れて,時間的リスク分散を加えるこ とにより,保険制度が成り立つように仕組まれている。しかも,その時間的 要素が,他の保険と比較しても超長期的な範囲を視野に入れたものとなって いる。ここで,時間的リスク分散を加味する場合に,どの程度の時間的幅を 対象にするかが問題である。
自動車保険のような単年度の保険期間において,多数の保険契約がある場 合には,時間的リスクはあまり考慮する必要がなく,保険期間ごとに,集め
た保険料を事故にあった契約者に保険金として配分することで,保険制度は 成り立つことになる。ところが,地震保険については,大数の法則が働きに くいことを補うために,単年度では把握できない保険リスクを,対象期間を 超長期にすることで,テータをプールして,時間的分散を応用して何とか保 険数理に乗せているのである。
ここにおいて重要な問題は,保険集団の構成が同一であるかどうかという ことである。保険集団が,同じ構成員によって形成されているのであれば,
空間的なリスク分散を補完するために,時間的要素を加味することで,保険 契約者間の公平性は保たれる。しかし,保険集団が時間とともに変化してい くとすれば,個別の契約者間の公平性は維持できなくなる。公平性の維持は 困難になる。保険加入の時期が自由であれば,いつの時点で保険加入したか によって,保険の効用が異なるからである。したがって,時間的要素を過度 に多く取り入れることは,公正な保険取引が成立しえないことになる。ここ が地震保険の矛盾であると同時に,保険の成立を困難にさせる要因である。
3.地震保険における逆選択現象とその本質
地震保険が成立困難とされるもう一つの理由として,しばしば指摘される のが,逆選択が発生しやすいことがある 。逆選択とは,被保険者のリスク 度に関して,被保険者(保険契約者)と保険者との間で,前者が情報優位,
後者が情報劣位にあることで,低リスク者が保険集団から脱落し,逆に高リ スク者の保険加入が多くなる現象をいう。その結果,保険集団における高リ スク者の占有率が過度に高まり,保険市場の成立が困難に至るものである 。 逆選択は,保険契約者からみると経済合理的な行動である。リスクに対して 適正な保険料率が設定されていなければ,低リスク者にとっては割高な保険
13) 例えば,岩崎(1973),高尾(1997), 金子(2001)など。
14) 保険市場の安定性を損なう現象として,逆選択の他にモラルハザードがある。
しかし,地震保険の場合には,故意に損害を発生させたり,損害を拡大させた りすることは不可能であるから,モラルハザードは,地震災害発生後に損害拡 大義務を怠るなど限定的な形でしか発生しない。
料負担を強いられることから保険加入を忌避するのに対して,高リスク者に とっては割安な保険料負担で保険に加入できるから,積極的に保険加入をし ようとするのである。
地震保険の世帯加入率の推移(図表1)をみると,人々の地震に対する認 識が強く反映していることが分かる。地震保険創設当初は,多くの関心の高 さが見られたものの,その後は,大きな地震が起きなかったこともあって,
しばらく低下傾向にあった 。しかし,1995年の阪神淡路大震災以降は,反 転して急速に普及が見られる。この背景には,人々の地震に対する認識の高 まりと,同時に,補償内容の大幅な改善,さらには,保険業界の普及促進に 向けての積極的な活動が反映している。
地震保険に見られる加入行動は,人々の地震に対する意識の変化を率直に 反映しているものであって,通常の逆選択現象とは異なるものである。地震 リスクについては,保険者も保険契約者も同程度の情報量を有しているので あって,情報非対称の状態にあるとはいえない。図表2は,過去6年間にお ける世帯加入率の変動を示したものである。全体として,加入増加傾向にあ るが,地域により大きな差異が見られる。ただし,この表からは,必ずしも,
危険度の高いとされる等地の地域の加入率が高いわけではない。むしろ,増 加率の大きい地域は,主に,最近,地震を経験した地域が中心であり,地震 リスクに対する認識は必ずしも安定していない。地震保険においても,逆選 択が生じやすいことが保険成立を困難にさせる大きな要因である。地震災害 の発生率の情報に関して,被保険者と保険者の間に,情報の偏在がどの程度 見られるかという点で,一般保険との異なる部分がある。
保険加入の選択に関しては,発生確率に関する情報が判断基準となる。理 論的には,発生確率から計算された危険率を基礎に,保険料が算出される。
15) 1977(昭和52)年に一時的に増加したのは,地震保険を付帯できる保険種目 を拡大し,新たに,住宅火災保険・団地保険・普通火災保険,簡易火災保険,
火災相互保険,満期戻し長期保険の家計分野保険に付帯できるようになったこ とが反映されている。
しかし,地震災害の場合には,確率に対する捉え方に大きな偏差が存在する。
通常,個人の保険加入行動は,個々人が保有する主観的確率と,経験的情 報から得られる客観的確率の相対関係の中で判断されると考えられる。理論 的には,主観的確率が客観的確率と一致した場合に,最も効率的かつ最適な 状態が実現されると考えられる。しかし,両者にギャップが生じた場合に,
保険需要に対する反応に違いが出るだろう。
主観的確率が客観的確率よりも高い場合には,保険加入を選択するが,過 剰需要になることも考えられる。逆に,主観的確率が客観的確率より低い場 合には,保険加入に消極的にならざるを得ない。この場合,保険者は,消費 者に対して情報を提供することで,認知させ,保険勧誘に結びつけることに なる。
つまり,地震のように発生確率自体が曖昧なリスクに対する人々の行動は,
出所)日本地震再保険株式会社資料より作成。
図表1 地震保険世帯加入率の推移(制度創設以来)
経済合理性よりも,災害に対する心理面や人々の経験則などが大きく影響す るのである。近年,注目を浴びつつある行動経済学におけるプロスペクト理 論によれば,人は利益が出ている局面と,損が出ている局面では,リスクに 対する捉え方が変わると理解する 。つまり,利益(または損失)の増加量 に対するプラス(またはマイナス)の価値の増加量は,次第に小さくなる感 応度逓減が見られることを主張する。確かに,株などの金融商品の売買にお いては,そうした行動は合理的な説明ができるだろう。しかし,地震保険の 購入行動を決めるとなる地震リスクに関する情報が曖昧なために,意思決定 に影響を及ぼす情報が少なすぎる。そのために,賭けごとのような行動は取 られにくい。したがって,地震保険における保険加入行動においても,共通 した心理行動が見られるわけではない。
理論的には,保険会社として逆選択現象を抑止するためにとりうる方策と
16) 友野(2006)の第4章を参照されたい。
注)都道府県名の添え字は,地域別料率等級を示す。(制度改正前)
出所)日本地震再保険株式会社資料より作成
図表2 都道府県別の地震保険加入率の増加率(2002‑2007)
して,強制加入とすることも考えられる。しかし,強制保険化するには,地 震保険の持つ社会的性格を考慮しなければならない 。私保険でありながら 強制加入となっている保険としては,自賠責保険がある。自賠責保険は,第 一義的には被保険者(=保険契約者)自身の賠償責任を担保する保険である が,社会的機能としては,第三者である被害者救済のための保険である。自 賠責保険の強制加入は,社会政策的観点から,その効果を最大化するための 方策である。これに対して,地震保険は,あくまでも自分の財産保全のため の保険であり,したがって,財産保全の方策として,国家が国民に保険を付 けるように強要することは,やはり越権と言わざるを得ない。
政策的には国民に対して,保険加入を推進しているのであって,逆選択を 問題視するべきではない。上述したように地震保険には,一般の保険とは異 なる特性を有しているにもかかわらず,保険に加入しようとする行為は経済 合理的であるから,加入を抑制する必要はないだろう。むしろ問題とすべき は,逆選択現象を抑止するという観点ではなくて,任意保険である地震保険 において,契約者間の公平性をいかに図るべきかである。言い換えれば,地 震発生のリスクを測定して,保険料率に反映させることが,どこまで社会政 策的に認められるかが問題となるのである。
4.地震保険における地域別料率の問題点
地震保険の料率体系において,最も特徴的なのは,地域別料率を大きな規 模で採用されていることである。平成19年10月に,大幅な料率改正が実施さ れたが,そこでの地域別料率の格差指数を見ると,同一条件のもとで,1等 地と4等地との間では,依然として3倍強(非木造で3.38倍,木造で3.13 倍)と大きな格差が設けられている (図表3を参照)。
17) 地震保険に関しては,関東大震災直後から,その必要性が論議されていた。
そこでは,地震保険を国営保険として創設するべきことが指摘されている。国 会並びに日本保険学会での議論については,簡易保険局(1927)を参照されたい。
18) 平成19年改正により,等地が大幅に入れ替えられて,最高料率である4等地
わが国の地震保険は,危険度の差異を考慮した料率スキームを採用してい るが,その中で,地域別料率については,保険原理に関わるかなり固有の問 題が存在している。
地域別料率は,地域ごとに発生するコストの差異を保険料に反映させるた めの方策であり,保険者としては合理的なものといえる。しかし,加入者間 の公平性の観点からみると,地域性の多くが,個人責任に帰するばかりでは なく,むしろ防災政策なとは行政責任による部分が大きい。したがって,地 域特性に関係するリスクを直接的に保険料に反映させることの不公平感は残 り続ける。
火災保険においても,地域別の料率表が適用されている。ただし,火災保 険の場合には,再調達価額に対する新築費単価の地域格差が反映されている もので,火災発生率の地域性に対して適用されるものではない。その規模も かなり小規模にとどまっている。つまり,物価水準の地域格差を考慮するこ とで,再築するにあたって実質的補償価値の維持を図ることを目的として導 入されている。これに対して,地震保険では,地震発生率を直接的に反映さ せた料率設定になっており,明らかに,火災保険とは考え方が異なる。
私保険として地震保険を運営している限り,契約者間の公平性を一定程度 まで維持することは不可欠であり,そのためには,リスク細分化が必要とな る。リスク細分化をすることは,保険数理的公平性を改善し保険原理に接近 させることになるが,完全にリスク対応ができない限り水平的不公平を増大 させる可能性があることに注意しなければならない 。保険料率設定に関し て,保険契約者が被る不公平性には,垂直的不公平と水平的不公平がある。
垂直的不公平は,垂直的不公平とは,危険度が異なるにもかかわらず,同じ 保険料が課されることによる不公平を示す。これに対して,水平的不公平と
が3都県から9都県に増えている。ただし,一部では,弾力的な軽減料率が適 用されて,激変緩和措置が講じられている。
19) 地域別料率についてのより詳細な考察は,堀田(2003)の第1章ならびに第 7章を参照されたい。
は,同じ危険度でありながら,異なる保険料が課されることによる不公平性 である。
リスク細分化により,異なる危険度の契約者の間では,垂直的不公平は一 貫して改善されることになる。しかし,新たに設定された保険区分によって,
同じ危険度でありながら,異なる保険料を設定されてしまう水平的不公平は むしろ拡大する恐れがある。
これを解消するためには,究極的には,個別保険料を追求することが必要 となる。しかし,同時に,どのような料率区分を採用するかは,保険政策的 な重要な課題であり,その採用方法により,保険制度全体に大きな影響を与 える。実際には,地域をさらに細分化していくことは,実務的にも煩雑なだ けでなく,それを公正に適用するだけの確かな科学的根拠は十分でないだろ う。
例えば,同じ地域に属することで,同一の保険料が設定されながら,地質 構造が異なり,危険度に差異がある場合には,逆に不公平を拡大させること になる。中途半端な細分化は,水平的不公平をむしろ増大させる可能性もあ る。これを軽減するためには,徹底して地形や環境などを料率に反映させる べきである。しかし,そのことは,結果的に,危険度の高い地域を排除する ような行為であり,広く保険を普及させるという政策目的と両立できないだ ろう。その意味では,地域別料率は,過度に強化させてはならないという結 論に至る。
そこで,やはり重要な方向性は,地域別料率を最小限に抑えた上で,耐震 性など建築構造を中心に,料率体系をより傾斜的に再編することである。制 度改正により,免震建築物割引や耐震診断割引などを採用して,耐震構造に 対する保険料ウェイトをつけようとしていることは全面的に支持するが,地 域別料率の規模が大きいことは,保険普及にとって望ましくないと思われる。
ただし,耐震対策が重要であるとしても,実際には,個人に対して,耐震 改修を求めることは難しい問題である。個人により年齢や経済状況,そして 地震リスクへの認識などに大きな相違があるために,耐震改修の必要性の認
識に大きな隔たりがある。またそうした状況の中では,保険料設定によって 耐震化へのインセンティブを期待することも難しいだろう。したがって,政 策として,耐震基準を強化することだけでなく,耐震基準以前の建物に対し て,改修への補助を考える必要もある 。
5.地震保険をめぐる官民役割論
わが国の地震保険制度は,創設されてから既に,40年を超えた。この間,
幾度か大きな地震災害を経験し多くの被災者を生み出したが,地震保険の観 点からすれば,深刻な財政的影響を受けてこなかった。それは,地震保険と しての機能を十分に果たしてこなかったという見方もできるだろう。その理
20) 建築物の大半を占める住宅の耐震化の状況について,総数約4700万戸のうち,
約25%に相当する約1150万戸の耐震性が不足すると推計されている。( 防災白 書 平成19年版)
出所)損害保険料率算出機構より
図表3 都道府県別の地震保険料率
由は,地震保険の普及率が低かったことだけでなく,補償内容そのものの未 熟さがあった。
一方で,地震保険の引き受けキャパシティは確実に増大している。政府と 民間で蓄えてきた危険準備金も,毎年,着実に増え続けて,いまや約2兆円 に達している。この間,政府準備金から支出された事例は,阪神淡路大震災 の1度にすぎず,これ以外は,すべて民間の地震保険プールで処理されてき た。したがって,過去の事例の範囲では,民間保険会社だけで十分に対応可 能であったということである 。
この準備金は,将来予想されている巨大地震の発生時の保険金支払いのた めに,国民的に蓄えている基金である。この基金規模は,確かに予想最大損 害(9兆円)と照らし合わせれば,必ずしも十分ではなく,さらに積み立て ていく必要がある。しかし,任意加入である地震保険制度において,改めて 契約者間の公平性を考えると,そこに一つの大きな問題が浮かび上がってこ ざるを得ない。保険金の期待値が保険料と一致している限り,実際に保険金 を受け取るかどうかは問題でない。保険料の大部分が将来のための積立金で あるとすれば,加入期間により不公平感が生じかねない。つまり,長期間に わたって蓄積される危険準備金は,現在の契約者の損害補償を目的とするだ けでなく,将来の契約者のための世代を越えて準備金であり,ここにおいて,
地震保険には,世代間の所得再分配が発生していることが見て取れる。した がって,地震保険を考える上で,確かに長期的な時間軸を取り入れて制度の 安定性を図る意図は理解できるものの,それは,契約者間の合意形成が暗黙 の前提となることを注意すべきである。
こうした中で,地震保険について官民役割分担のあり方をいま一度見直す
21) 阪神淡路大震災での保険金支払総額は,783億円であったのに対して,台風 による支払保険金は,1991年の台風19号での5679億円を始めとして,8例が 1000億円を超えている。つまり,これまででは,地震災害は保険事業に大して 影響を及ぼしていない。なお,現在の世帯加入率を前提に,阪神淡路大震災が 現時点で発生したことを想定したシミュレーションでは,保険金支払額予想額 は約3800億円程度に達するという推計もされている。
べきである。その基本的考え方は,民間ができる部分は,可能な限り民間に 委ねるという方針である。
第1に,地震保険を一般の損害保険に接近させる方策を講ずることで,民 間保険会社だけでの担保される範囲を明確にし,他方,政府関与を巨大災害 だけに限定することである 。具体的には,民間保険が引き受ける保険設計 を,期間をできるだけ短くして収支が均衡できる時間的範囲に限るように制 度設計をしなおすことである。それにより,保険としての補償範囲を拡充す ることが可能になり,通常の保険として引き受けられる。
一方で,民間保険会社には,自由裁量を一定程度認めることも必要である。
地震保険を民間保険の自由競争に委ねた場合には,保険会社は危険選択に力 を入れざるを得ない。自由競争の導入は,保険市場に新たなイノベーション
(革新)をもたらすと期待できる。ただし,地震保険においては,地震リス クの発生に関する統計データの蓄積や信頼性に問題がある場合には,過当競 争に陥りやすいことから慎重さを要する。過度に料率引き下げ競争が行われ ることで,いざ大きな地震が発生した場合に,保険会社の支払い余力が不足 し,地震保険が機能しないという事態も起こりうるからである。したがって,
競争原理による効率性を図るためには,補償限度額を限定することが必要で ある。このことは,政府が果たすべき役割が,民間の保険市場では及ばない 範囲に限定させることを意味するものとなる 。
第2に,政府は,損害緩和のための防災的施策に集中する必要がある。一 般的に,一般国民にとって,損害緩和(ミティゲーション)への関心は低い。
その理由として,一般国民が,①自然災害リスクを誤認し過小評価をしてい ること,②短視眼的な行動をとりやすいこと,③借入制約に直面していて費
22) 黒木(2003),pp.233‑237。
23) 近年,一部の保険会社から,一般の地震保険の上乗せ補償としての地震保険 が開発販売され始めている。地震の危険度や地震が起きた時に予想される被害 の大きさなどをもとに保険料が決定されている。
用の調達が困難であること,などがある 。さらには,社会全体としてみる と,自らの建物の災害が引き起こす波及的な災害について関心を持たない。
これらは,新たな社会的費用をもたらすものであり,それは,結果的に国民 負担の増加として跳ね返ることになる 。あわせて,被災者に対する経済的 支援だけでなく,精神的ケアについても,政府が担うべき部分は大きい。損 害緩和によるリスク引き下げは,民間保険による保険可能性を拡大すること である。保険料率も低くなり,保険料負担が軽減され普及が拡大する。防災 活動に精進することが,経済インセンティブにつながることを個人に意識さ せるような仕組みを保険制度を通じて奨励すべきである 。
第3に,地震保険をどの程度まで普及させるかについての政策的判断が重 要である。任意加入である民間保険に任せる場合には,高リスクに対する利 用可能性(availability)の確保が問題となる。仮に,引き受けるとしても,
保険料が高すぎて事実上利用が制限される可能性もある。そこで,できるだ け多くの国民に地震保険の加入を促すべきであるとすれば,保険市場への政 策的介入が行われることになる。その場合の方法も,種々考えられるが,最 も効果的なのが料率規制である。政府が関与する方法としては,高リスク者 が排除される場合に,保険料控除などを通じて保険加入を支援する政策も考 えられる。任意市場で引き受けられない高リスクは,残余市場(residual
market)を創設し,政府による行政介入を受けて引き受けられるほかはな
い。市場原理が徹底されているアメリカにおいても,自動車保険や洪水保険 において,政府介入を通じて,高リスク者に対する保険供給が行われている という事実がある 。
24) 斎藤(2005),p.99。
25)
Kunreuther
(1974,p.298)も,危険緩和(hazard mitigation)こそが,政府 国家のもっとも重要な役割となることを強調する。26)
Kunreuther
(1992), p.
314.27) アメリカの全米洪水保険(National Flood Insurance Program:NFIP)は,
一般のホームオーナーズ保険ではカバーされない洪水による災害に特化した保 険制度で,まず自治体がNFIPに加入し,連邦緊急事態管理局(Federal
さらに,地震保険を政策保険として考えるならば,経済格差との関係にお いて,保険料水準の設定にも注意を払わなければならない。地震保険料が高 すぎると,保険加入者が限られて,保険としての機能を果たさない可能性が ある。また地震発生の結果,保険加入者とそうでない者との間に,新たな経 済格差を生み出す原因となりかねない。したがって,保険料水準についても,
自力で加入できるような状況を作り出すための政策的関与の正当化されるだ ろう。保険料負担能力がないために,地震保険に加入しない(できない)層 が,実際には,地震災害の危険地帯に住んでいる例は少なくない。保険料を 高くすれば,加入者が継続購入せず,加入者が減ってしまい,そのために保 険が機能しないことになる。
国民の生命財産を守ることが政府にとっての究極的な使命であるとしても,
各人が可能な限り自らを守る姿勢が前提になければならない。地震保険をめ ぐっても,まずは,個人の自己責任を最大限発揮させた上で,政府が支援す るという考え方が基本とされるべきである。
(筆者は慶應義塾大学教授)
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