韓国の民主化運動とキリスト教(
2)
―朴正煕時代―
倉 持 和 雄
2 朴正煕時代における民主化運動とキリスト教1
(1)軍事クーデターによる朴正煕政権の登場
1960年の4・19学生革命後、李承晩時代に野党であった民主党が政権につ いた。民主党はもともと保守的政治家たちから成っており、政権党になって からも彼らは内部の権力争いに明け暮れた。新憲法(第二共和国憲法)では 元首として大統領を置いたが、内閣責任制をとり、実権は首相(国務総理)
が握った。大統領には尹潽善、首相に張勉が就任した。こうした権力ポスト の配分も民主党内の旧派と新派の内部抗争のいわば妥協の産物であった。民 主党政権は「無賃乗車」と評されたが、それは学生が主導した革命的な政権 転覆に乗じて政権を掌握できたからにほかならない2。
学生革命直後の社会変革的雰囲気と保守的政治家による旧態依然の政治状 況は、韓国政治社会に混迷をもたらした。のちに軍事クーデターで権力を奪 取した朴正煕は、民主党の張勉政権を無能で混乱だけをもたらした、とこき おろした。しかし、学生革命後のこの時期は、「1948年に政府が樹立されて
1 本稿は「韓国の民主化運動とキリスト教」と題する論考の一部であり、前稿「韓 国民主化運動とキリスト教(1)―李承晩時代―」(『東京女子大学紀要論集』第 67巻第2号、2017年3月)の続稿である。論考の課題は前稿に示したが、本稿 の読者の便宜のために示せば、第一は韓国のキリスト教の民主化運動への関わり の実態を時期ごとに明らかにし(歴史的事実関係)、第二は韓国の民主化運動に おけるキリスト教の関わりの意義(民主化運動からの視点)を考察し、第三は韓 国のキリスト教において民主化運動への関わりをどう位置づけ、どう評価するの かという問題(キリスト教からの視点)、以上の三点である。
2 康俊晩『韓国現代史散策1960年代編1巻』(人物と思想社、2004年)[韓国語]、
59ページ。
以来、最も自由で民主主義が活性化した時期であった。」と評価されるよう な時期であった3。朴正煕の軍事クーデターは、活性化していた自由と民主主 義、それは未熟であったにしても、それを押しつぶしてしまったのである。
朴正煕はなぜクーデターを起こしたのか?それを考えるのにクーデター勢 力が掲げた「革命公約」がまずは手掛かりとなる4。革命公約として、①国是 としての反共、②国連・友邦国との紐帯強化など国際協調、③腐敗・旧悪の 一掃、④飢餓的な民生苦解決のための経済再建、⑤統一のための実力培養、
⑥課業達成後の民政移管と本務復帰の6項目を掲げていた5。「革命公約」は クーデターを合理化するためのある種の建前である。彼らが危険を冒してあ えてクーデターを敢行したのは、人事の停滞=進級の遅れへの不満があった との見解がある6。これも否定はできないだろうが、だからといって「革命公 約」に掲げられた事項がまったくかたちだけのスローガンだということもで きないだろう。ここにはこの時期の韓国社会の否定的現実が反映されてお り、これを打開しようとするクーデター勢力の衷情が示されていると考える のはひいき目であろうか。
客観的に見ると、この時期の韓国は、朝鮮戦争後、まだ10年にもならず、
3 徐仲錫『韓国現代史60年』(明石書店、2008年)、63ページ。
4 革命公約の条項については、『大韓民国史年表1 1948.8〜1967.12』(国史編纂委員 会、2008年)、589ページを参照。
5「革命公約」のなかで②と⑥の二つは、明らかに米国を意識した項目だといえる。
クーデターの成功には米国の支持が不可欠であった。このためクーデターに対す る米国の反発を和らげ、米国の不安を拭うことが必要だったのである。実際、米 国はクーデターに対して最初、否定的であり、クーデター勢力を鎮圧することさ えも考えた。しかし、張勉首相が行方をくらましてしまったこと、尹潽善大統領 が米国の鎮圧方針に同意せず、むしろクーデターを容認したこと、こうして時間 の経過と共に米国もやむなく容認せざるを得なくなったのである(5・16軍事 クーデターの詳細な経緯は趙甲濟『漢江の夜明け 朴正煕少将はなぜ立ち上がっ たのか? 趙甲濟現代史のはなし5・16革命実録』、趙甲濟ドットコム、2011年
[韓国語]を参照されたい)。
6 クーデターの中心勢力であった陸士5期と8期は軍内の人事面でもっとも不遇 をかこっていた。彼らはその不満を募らせてクーデターを謀議し、遂に決行した というのである。これについては、徐仲錫前掲『韓国現代史60年』、76ページ や康俊晩『韓国現代史散策1960年代編2巻』(人物と思想社、2004年)[韓国語]、
66〜70ページを参照。
南北は厳しい緊張関係にあり、対北意識は非常に過敏であった。戦争後、米 国の援助で経済復興を遂げつつあったとはいえ、まだ余りにも惨めな経済水 準であった。政治的には学生革命後、民主主義がうまく機能せず、旧来の政 治家たちが政争に終始して現実課題に対処できないでいた。つまり、①安保 面では南北関係の緊張、②経済面では絶対的な貧困、③政治面では政党政治 の混乱と不安定、こうした現状があり、これを打開しなければならないとい うクーデター勢力の主張、それ自体は説得的であった。
ではクーデターに対する人々の反応はどうだったのか?とくにキリスト者 がどうだったかに注目したい。
先走って結論を言えば、このように整理できる。まず①クーデター直後、
どちらかというとクーデター勢力に期待を寄せる、肯定的な反応が多くあ り、②クーデター勢力が実際に権力を行使しはじめると支持派と反対派に分 かれていった。ただし、支持派といっても積極的な支持、協力者と消極的な 現状肯定、黙認の立場の者、反対派といっても批判を公言する者とたんに反 発や反感を抱く者というように多様であったと考えられる。これらの点をす こし検証していこう。
5・16クーデターが起こった当時、ソウル大学宗教学科講師であった池明 観は当時の状況について「大学生のあいだにははじめの頃は、クーデターに 期待を寄せる空気があった。何よりも軍人たちは今までの腐敗した政権とは 違って清廉潔白であると宣伝していた。そういう中で原書講読の時間などに ニーバーを引用しながら私はよく軍事政権を批判した。」と書いている7。こ こからソウル大の学生たちが軍事政権に期待していた様子が窺える。一方、
キリスト者である池明観自身はクーデター直後から軍事政権に批判的であっ
7 池明観『境界線を超える旅』(岩波書店、2005年)、86ページ。また別の著書
『韓国現代史と教会史』(新教出版社、1975年)ではこんなふうに記録している。
「そんな講義をしたら学生の中から反発が出てきて、『善意の独裁は許さなければ ならない』とか言うのです。私は、『見ろ、これからあんな権力は腐敗してゆく から』と言ったのですが、一年位すると、どうも私の予言が当たったといわれる ようになった経験を持っています。」(270ページ。)
たことが分かる。それは彼の5年間の軍隊生活の経験から引き出された結 論であった8。
この池明観を後日、『思想界』の編集主幹として招き、辛辣な朴正煕政権 批判を繰り広げた『思想界』主催者の張俊河もキリスト者であるが、彼は意 外にもクーデター直後、このクーデターに期待を寄せていた9。張俊河は、
5・16軍事クーデター直後の『思想界』1961年6月号の巻頭言に「5・16革命 と民族の進路」と題してこう述べている10。
(前略)4・19革命が立憲政治と自由を奪取するための民主革命であった ならば、5・16革命は腐敗と無能と無秩序と共産主義の策動を打破し、
国家の進路を正そうとする民族主義的軍事革命である。従って5・16革 命はわれわれが育成し、開花させようとする民主主義の理念に照らして 見る時には不幸なことであり、残念なことであると言わざるを得ない が、危急な民族的現実から見る時には不可避なことである。(中略)革 命公約が暗々裏に明らかにしているように、無能で姑息的な執権党と政 府が遂行できなかった4・19革命の課業を新しい革命勢力が遂行すると いう点でわれわれは5・16革命の積極的な意義を求めなければいけな い。(中略)5・16軍事革命でわれわれは、過去の放縦、無秩序、惰性、
便宜主義の古い殻から自己脱皮していっさいの旧悪の根を引き抜き、新
8 池明観は1950年6月の朝鮮戦争勃発後、軍に徴発されてから1955年7月まで 軍隊生活を経験する。このときの経験について池明観は、前掲『境界線を超える 旅』49〜77ページで、高級将校たちの不正・腐敗ぶりを目撃したことに言及し ている。こうした体験を通じて池明観は「徳(virtue)を伴わない力(power)
は暴力(violence)に過ぎないというニーバーのことばを引用しながら、クーデ
ター勢力はすでに暴力をむき出しにしているではないかと批判した」(同、86〜 87ページ)のであった。
9 キリスト者としての張俊河についてであるが、池明観氏によるとこの当時、彼 は教会生活をしていなかったとのことである。それは既存の教会に対し厳しい 批判意識があったからだそうである。張俊河氏は自らに対して厳しい、清廉な生 活行動を維持し続けた、彼こそ真にプロテスタントだと池明観氏は評していた
(2017年3月17日談話)。
10『思想界』第9巻第6号(1961年6月号)、34〜35ページ。なおこの巻頭言に張 俊河の署名はないが、彼が書いた文章に違いない。
しい民族的活路を開拓する契機を準備しなければならない。(中略)こ こにわれわれは革命政権が緻密な科学的計画を、燃えるような実践力を もってすべての課題を解決していくことを切に期待すると同時に同胞た ちの自覚ある支持を改めて要請してやまないところである。(後略)
この一文を検討してみると、張俊河の「革命政権」(クーデター勢力)へ の期待というのは、4・19以後、民主党政権が無能力なために遂行できな かった4・19の革命課業を彼らが遂行してくれるのではないか、そういう期 待からであった。引用文で省略したが、クーデター直後、軍事政権が即座に 実施したいくつかの事業(不良徒党の粛清、不正蓄財者の処理、農村高利債 の整理、国土建設事業など)について「刮目すべき出発」を見せていると評 価している。ただし、これもまた引用文で省略したが、最後の段落で「権力 の乱用」を戒め、公約通りにすみやかに「斬新で良心的な政治人に政権を移 譲し」「本来の任務に復帰」することを求めている11。そういう意味では条件 付のクーデター支持であった。翌7月号の「緊急を要する革命課業の完遂と 民主政治への復帰」と題した巻頭言でも、まだ「革命政権」(クーデター勢 力)への期待を滲ませている12。そうした期待は、1961年7月、クーデター
11 金明培はこの最後の段落部分を強調して張俊河がクーデター直後から憂慮を表明 していたと主張しているが(金明培『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化 運動と人権運動を中心に1960〜1987』(ブックコリア、2009年)[韓国語]、71〜 72ページ)、これは事実認識として誤っていると考える。巻頭言の全体の主旨、
そして本稿の本文で述べたようにクーデター勢力と米国大使館との仲介をするな どの行動からしても張俊河は、クーデター直後、軍事政権に期待していたといえ
12『思想界』る。 1961年7月号の巻頭言ではクーデター後の二ヶ月を「革命政権は初期 の混乱をいち早く収拾し、革命課業遂行の原則と具体的対策を樹立することに果 敢であり、目前の不正と腐敗、社会悪を掃討することでもまた迅速であった。」
と肯定的に評価している。もちろん、究極目標が民主主義への復帰(未完の4・ 19革命の完遂)を訴え、そのための迅速な課業を訴えているが、けっしてクー デター勢力を否定するという論調ではない。なおこの同じ7月号には咸錫憲の 論説「5・16をどのようにみるか?」が掲載されているが、この論説は軍事クー デターに期待を寄せるという論調ではない。民衆が自由にもの言えない雰囲気、
民衆の立場でこそ真の革命であるという主張、隠喩を用いていて直截な語り口で はないが、武力(「刀」)をもっての「革命」に対して批判的である。しばらくし て、張俊河も咸錫憲と思いを同じくしていくのである。
勢力と米国大使館関係者とのパーティを主催したことにも現れている13。 クーデター勢力にとっては米国からの確固とした支持が必要であったが、張 俊河はクーデター勢力が切望する米国の支持を得るための仲介役を進んで 担ったのである。
米国との仲介役という点でいえば、張俊河以上にクーデター勢力への明確 な支持を表明して米国政府に働きかけたのもキリスト者達であった。韓景職 永楽教会牧師、金活蘭梨花女子大総長など著名なキリスト教指導者たちは、
わざわざ渡米して米国政府にクーデター支持を訴えたのである14。このよう にキリスト者の多数は、クーデター直後、クーデター勢力への期待感をもっ ていたことが窺われる。
韓国基督教聯合会(のちに韓国基督教教会協議会に改編)は1961年5月 29日に「政党政治人の多くの友人に送る公開書簡」という声明書を発表し た。それはクーデターを全面的に支持したものではないが、前政権の不正と 腐敗から国家再建のため軍部がやむを得ずとった措置としてクーデターを是 認した15。
しかし、その後、多くのキリスト者が抱いた期待は裏切られていく。軍事 政権による権力の乱用が見られるようになり、公約に反して政権を掌握し続 けようとすることが明らかになると、当初、期待を持ち、支持した人々の中 から朴正煕政権を批判する人々が出てくるのである。
1963年12月、朴正煕は結局、大統領となった。民政移管にあたって大統 領選挙への不出馬をたびたび表明してはそのたびに翻意し、ついに「斬新で
13 このパーティには米国大使バーガーと国家再建最高会議議長張都暎が参加した が、朴正煕は参加しなかった(徐仲錫『現代韓国朝鮮の悲劇の指導者たち 分 断・統一時代の思想と行動』、明石書店、2007年、297〜298ページ参照)。
14 金明培、前掲『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心 に1960〜1987』、71ページおよび韓国キリスト教歴史学会編『韓国キリスト教の 歴史III 解放以後20世紀末まで』(韓国基督教歴史研究所、2009年)、236ペー
15 ジ。金明培前掲『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心に 1960〜1987』、70ページ。
良心的な政治人にいつでも政権を移譲し、われわれ本分の任務に復帰する」
という公約を反故にした。こうして軍服を脱いだだけの軍人による政権が継 続することになった。もちろん憲法があり、選挙があり、反対政党の存在も あった。しかし朴正煕政権は自らの反対者と自らに反対する活動を強権的に 抑圧していく、非民主主義的性格を強めていくことになっていくのである。
こうしたなかで朴正煕政権下の民主化運動が展開していった。
(2)朴正煕政権下の民主化運動とキリスト教 1)概観
朴正煕政権下の民主化運動は、非民主主義的政治運営に反対の声をあげる 者を抑圧し、人権蹂躙をもあえてする政権に対する闘争であり、それだけに 非常に困難な闘争であった。本稿は、この民主化運動についてキリスト教の 関わりに焦点をあてながら見ていきたい16。
朴正煕政権の時代は、1972年10月17日のいわゆる維新クーデター以前 と以後の時期に大きく二分できる17。ここでは前者を維新体制以前の時期、
後者を維新体制の時期と呼ぶことにしよう。民主化運動も維新体制以前と以 後では性格が異なった。維新体制以前にはまがりなりにも民主主義的要件を 整えた憲法が存在していたので、その憲法を前提にした民主化運動であっ た。しかし維新体制における民主化運動は維新憲法が民主主義的要件を欠い ていたので、維新体制そのものに対する闘い、つまり最終的には維新憲法の 撤廃を目的とした闘いであった。
16 朴正煕政権時代の政治状況や民主化運動の事実関係について、本稿は以下の文献 を参照した。民主化運動記念事業会研究所編『韓国民主化運動1 第1共和国か ら第3共和国まで』[韓国語](トルベギ、2008年)、民主化運動記念事業会研究 所編『韓国民主化運動2 維新体制期』[韓国語](トルベギ、2009年)、チョン・
ヘジュ『維新憲法反対運動』[韓国語](民主化運動記念事業会、2006年)これら 文献に依拠したごく一般的な事実関係の場合には一々注記しない。ただし、一般 的でないと考えられること、これらからの引用や見解の場合には注記する。
17 維新体制は、1972年10月17日、朴正煕が特別宣言を発して、戒厳令を布き、
国会解散、現行憲法停止を命ずるという違憲的、超法規的措置によりはじまっ た。このためこれは一種のクーデターと言えるものである。
朴正煕時代の民主化運動でまた看過することができないのは人権運動の側 面である。その一つは、朴正煕時代が韓国の産業化の時代、都市化の時代で あり、それに伴って労働問題、都市貧民問題が顕在化し、労働現場や生活現 場における労働者や貧民の人権無視に対する運動が民主化運動の課題となっ たのである18。もう一つは、民主化運動に対する弾圧強化の過程で現れてき た人権侵害に対する運動である。これら人権問題は維新体制以前からはじまっ た問題であったが、より深刻になるのはやはり維新体制の時代であった。
さて上に述べた二つの時期の民主化運動の大きなイシューは、維新体制以 前の時期にあっては三選改憲反対運動、維新体制の時期にあっては反維新運 動、人権擁護運動であったといえる。そこで以下、これらについて、やや立 ち入ってみていきたいと思う。ただ、その前に朴正煕政権時代に特徴的な抑 圧体制の装置と手法について整理しておこう。
第一に、抑圧装置の法的枠組である。抑圧のために適用された主たる法律 は、従来から存在した国家保安法、そして軍事クーデター直後、新たに制定 した反共法(1961年7月)であった。後者は、いっさいの共産主義に加担 する行為を禁止した。反共を国是とした軍事政権なので、ある意味では当然 の法律であったともいえる。維新体制になると維新憲法そのものがより上位 の抑圧の法的装置として機能した。維新憲法のもとで権力の暴走を牽制する 立法、司法はほとんど機能できなくなった。維新憲法は大統領にこれまで以 上の強力な権限を与えたが、加えて大統領が意のままに発動できる緊急措置 の権限をも与えた。こうした法的枠組によって「合法」の装いをもった抑圧 を可能にした。
第二に、抑圧装置において、それを担う中核機関として中央情報部が創設
(1961年6月)された。中央情報部はたんなる情報機関ではなかった。国家 安保に関わる内外の情報収集はもちろんであるが、自ら捜査権を有し、膨大
18 ただし本稿では人権問題の分野における民主化運動の実際について詳しく述べる ことができなかった。これについては他日を期したい。
な機関員を抱え、朴正煕政権維持のための工作機関でもあった。このほか警 察の治安本部、軍における保安司令部などが抑圧機関として機能した。この ような抑圧機関は韓国社会のなかで監視の目を光らせた。それらの存在自体 が国民を萎縮させ、国民の自由な発言や行動を制約した。維新体制の時期に なると裁判所は権力に従属する存在となり、国民を法的に保護する機能をほ とんど果たせなくなった。
第三に、抑圧の手法であるが、情報機関および治安機関の捜査により国家 保安法、反共法の「事犯」を捜査して立件するといった「通常」の方法とは 別に、国家保安法、反共法の「事件」を作り出すという手法がしばしばとら れた。「事件」の捏造である。「通常」の事件でも捜査過程で過酷な拷問が多 用されたが、捏造事件では拷問による自白−北朝鮮や共産主義と関連がある との自白−が強要された。自白こそが事件成立の唯一の根拠であったから、
拷問は必須の手段となった。そして、こうした捏造事件をあたかもほんもの の事件であるかのように社会に喧伝した。そうすることによって国民の間に 北朝鮮および共産主義に対する脅威と危機感を醸成しようとしたのである。
その場合にはメディアが利用されたが、そのためにもメディアの統制が必須 であった。「自由な報道」が許されないという条件のなかで抑圧装置はより 効果的に機能したのである。さらに抑圧の手法として特筆すべきは、大統領 権限により戒厳令、衛戍令、緊急措置(維新体制の時期)といった強硬手段 を頻発したことである。
以上の抑圧体制は維新体制において頂点に達した。朴正煕時代の民主化運 動はこの過酷な抑圧体制によって何度も押しつぶされそうになりながらも屈 することなく、粘り強く、抗い続けたのであった。
2)三選改憲反対運動
1963年、軍服を脱いで大統領選に辛勝した朴正煕は、1967年の大統領選 にも勝利した。当時の憲法に従えば、朴正煕にとってこれが最後の任期にな るはずであった。当時の憲法で大統領の任期は4年、重任は一回限りと
なっていて三選を許していなかったからである。しかし再選を果たした朴正 煕はすでに執権延長の野心を抱いていた。彼が何故、そうした野心を抱いた のか、あえて彼に同情的な立場で推し量れば、こういえるだろうか。この時 期は激しい日韓会談反対運動を押し切って日韓条約の締結を果たしたばかり であった。日韓会談妥結の成果として得た日本からの資金による経済開発は 自らの手で完成させたい、そうして5・16時に公約した「絶望と飢餓線上で あえぐ民生苦」を解決したい、そうした思いがあったのかもしれない19。た だ、その後、維新クーデターを敢行し、永久執権をもくろんだ朴正煕の行動 からすると権力そのものへの執着心があったことは否定しがたい。ともあ れ、朴正煕政権は再選後、三選を可能にするための改憲(三選改憲)に向け て動き出すのである。
1967年5月に再選を果たした朴正煕にとって三選のためにまず必要なこ とは改憲に必要な国会議席の確保であった。その国会議員選挙が1967年6 月8日に実施されたが、このとき李承晩時代を彷彿とさせる不正選挙が繰り 広げられた。与党共和党はこれによって三選改憲に必要な議席数を確保し た。選挙後、野党新民党と学生たちが中心となって不正選挙に対する抗議運 動が展開された。とくに大学生たちは不正選挙直後の6月9日から連日、
各大学で糾弾集会を開き、デモを繰り広げた。キリスト教関係では6月15
〜17日に延世大学キリスト学生会員たちの断食救国祈祷会、7月4日、ソ ウル市内の神学大学代表たちの糾弾声明などがあった20。政府は休校令の発 動によって押さえ込もうとしたが、これに抗して不正選挙糾弾闘争はしばら
19 朴正煕が4・19学生革命を彷彿とさせる日韓会談反対闘争を戒厳令まで布いて押 し切った、その最大の理由は、日本から請求権・経済協力資金(無償3億ドル・ 有償2億ドル)はじめ日本からの資金を呼び込むことであった。それによって経 済開発に弾みをつけることであった。またそうすることで軍事クーデターによる 政権奪取という政権正当性への疑義を払拭し、政権の正当性を獲得しようとする ことであった。朴正煕による日韓会談妥結について拙稿「戦後日韓関係の変遷と その特徴」(『横浜市立大学論叢・人文科学系列』第59巻第3号、2008年3月)
の149〜152ページを参照されたい。
20 民主化運動記念事業会研究所編、前掲『韓国民主化運動1 第1共和国から第3 共和国まで』の504ページおよび507ページ。
く継続した。しかし、夏休みを経て二学期に入ると運動は沈静化し、11月 末には野党新民党も国会に復帰して、不正選挙は既成事実化してしまった。
改憲必要議席数を確保した共和党による三選改憲の具体的動きは1969年 が明けてからはじまった21。こうした動きが起きると野党新民党はもちろん、
各界で反対運動が湧き起こった。反対運動の中心勢力はやはり学生たちで あった。特筆すべきは在野と野党新民党とで組織とした「三選改憲反対汎国 民闘争委員会」が1969年7月17日に結成されたが、これをキリスト者が 主導したことである。すなわち、韓国神学大学元学長の金在俊牧師がこの闘 争委員会の委員長となり三選改憲反対運動を牽引した22。この闘争委員会に はほかにも多数のキリスト教指導者たちが参加した。また、彼らはキリスト 者独自の「塩光会」をも組織して三選改憲闘争を展開した。金在俊牧師は 1969年8月15日に「全国の信仰同志のみなさん」という声明書で三選改憲 反対を呼びかけた23。
広範囲で激烈な反対運動にもかかわらず、1969年9月14日午前2時半、
与党共和党は本会議場ではなく、第三別館で改憲案を抜き打ち成立させた。
21 与党共和党内部には金鍾泌系列の三選改憲反対派がいたが、1968年5月の国民 福祉会事件を契機に金鍾泌系列の共和党議員が排除され、金鍾泌自身も政界引退 を宣言するに至った。こうして共和党は1968年後半、金鍾泌系列共和党議員を 排除し、三選改憲に向けた党内整備がほぼ整った。国民福祉会事件は三選改憲反 対の共和党議員を排除するために捏造された事件だと言われている(詳しくは、
「国民福祉事件: 朴正煕と金鍾泌の愛憎関係」[韓国語]、康俊晩『韓国現代史散策 1960年代3巻』、人物と思想社、2004年、214〜221ページを参照されたい)。
22 朴炯圭の回顧によれば、1969年の夏頃、彼が編集長として働いていた『基督教 思想』の事務室を金在俊牧師が訪ねてきて『基督教思想』が三選改憲問題のただ 中で何もしなくていいのか、とけしかけられたエピソードを語っている(朴炯圭
『路上の信仰 韓国民主化闘争を闘った一牧師の回想』、新教出版、2012年、143
〜145ページ)。その結果、『基督教思想』は実質、三選改憲反対の内容になった 特集を1969年8月号として発行した(同、145ページ)。
23 金明培前掲『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心に 1960〜1987』、92〜93ページ。この金在俊牧師の呼びかけに対して、1969年9月 2日、保守的キリスト教指導者たちは、「純真で善良な多くの聖徒達の良心に混 乱」を引き起こすと批判、宗教は改憲問題に対して中立を守らなければならない と主張する「改憲問題と良心の自由宣言」を発表した。しかし、彼らはその3日 後の9月5日、「改憲に対する我々の立場」という声明書を発表して改憲支持を 明らかにした(同書、93〜94ページ)。
この強行採決に対しても翌15日から大学生を中心に糾弾運動が展開され た。しかし、改憲案と同時に通過した国民投票法によって学生たちの抗議行 動は違法化されてしまった。というのは、この法が改憲賛反の運動を選挙管 理委員会に申告した政党などの演説会にしか認めず、それ以外のいっさいの 活動を禁止したためである。こうして自由な改憲反対運動が封殺されたなか で、10月17日に国民投票が行われ、77.1%の投票率、65.1%の賛成で三選 改憲は確定した24。
2)反維新運動
三選が可能となり、1971年の大統領選挙に出馬した朴正煕は、選挙遊説 で「もう一度だけ選んでくれたら自分は政権を退く、自分にとって最後の大 統領選挙である」と訴えた。この必死の訴え、現政権の強み、そして金力を 動員して朴正煕は三選を果たした。最後の大統領選出馬だという朴正煕の訴 え、しかし、それは本心でなかった。対立候補の金大中が遊説で、「もしこ のたびの大統領選挙を逃せば、朴正煕の永久執権になろう」と予言したが、
それは的中した25。三選はしたが、現行憲法上、朴正煕の四選はもはやあり えなかった。そこで朴正煕は執権を維持するために現行憲法体制を解体し、
民主的選挙によらない、しかし、民主的装いを備えたしくみを作り出すので ある。それが維新体制である。維新体制はこうした朴正煕の権力維持への執 着によって実現した。まるで李承晩時代をまた見ているかのようであった。
ただ、維新体制の成立には以下のような国内外の要因が後押ししていたと考 えられる。
第一は、過去10年間の朴正煕政権のもとで成長した既得権益層の存在で ある。詩人金芝河が「五賊」と呼んだ人々である。すなわち、「財閥」、「国
24 民主化運動記念事業会研究所編、前掲『韓国民主化運動1 第1共和国から第3 共和国まで』の538ページ
25 本文で指摘した朴正煕および金大中の1971年大統領選の遊説内容は、https://
www.youtube.com/watch?v=FL8Z3yODYQoで聴くことができる。
会議員」、「高級公務員」、「将星(高級軍人−筆者)」、「長官・次官」たちで ある26。彼らは朴正煕政権の存続を切に願っていた。彼らは数的に少数だが、
韓国社会で大きな社会的影響力を行使できる存在であった。
第二は、1960年代末から維新クーデターに至る時期の韓国をめぐる国際 関係の情勢である。1968年は北朝鮮工作員の大統領官邸襲撃未遂事件、東 海岸浸透事件があった。1969年、ニクソン米大統領が登場し、いわゆるニ クソンドクトリンによって東アジアでの米国関与削減が謳われ、その一環で 1971年、在韓米軍2万名が削減された。さらに1972年、突然のニクソン訪 中が東アジアの冷戦構造に変動を与えた。その影響で朝鮮半島でも朝鮮戦争 後、はじめての南北対話が行われた。これは南北間の緊張緩和を期待させる ものであったが、他方で南北接触を通じて韓国は北朝鮮の強固な権力の実情 を知り、自らの内部統制強化の必要性を感じることになった。また、この時 期、ベトナム戦争は共産勢力が優勢となり、これに連動して北朝鮮が攻勢を 強めるのではないかとの危機感を強めた。これらのことは、韓国における強 力な政権の必要性を迫るものであり、それは朴正煕政権延長にとって有利に 作用した。朴正煕自身もこれらを維新体制樹立の口実としたのである。
さて維新憲法が、三権分立をかたちだけのものとし、大統領に絶大な権限 を付与したことについてはすでに述べた。これまで大統領選挙は国民の直接 選挙によっていたが、維新憲法では大統領選出のために翼賛的な統一主体国 民会議を創設し、国民はその代議員を選挙するという間接選挙方式に変え た。大統領の任期は6年とし、重任の制限はなかった。国会は存続したが、
三分の一の議席は大統領推薦の統一主体国民会議代議員から選ばれ、残り三 分の二は中選挙区制の国民選挙によるものとした。中選挙区制のため与党は 各選挙区で少なくとも一議席の確保が可能であった。つまり国会では統一主 体国民会議代議員と与党共和党議員を合わせ、ほぼ三分の二の議席を確保す
26「五賊」と題する譚詩は、1970年6月、『思想界』と新民党機関誌『民主戦線』に 掲載され、「五賊」の腐敗と専横を痛烈に批判した(チョン・ヘジュ、前掲『維 新憲法反対運動』、24ページ)。
ることができたのである。維新体制は、かたちだけ民主主義の装いを整えて いたが、実質は朴正煕を大統領として確実に選出し、そこで成立した朴正煕 政権を強固に支えるための仕組みに過ぎなかった27。
維新体制後、これに異を唱える声はキリスト教界から起こったが、当局は 過敏に対応した。1972年12月、維新憲法を批判した基督教長老会全州南門 教会の殷明基牧師が徹夜祈祷会の場で連行されるという事件が起きた。その 後、殷明基牧師は布告令違反で有罪判決(懲役8カ月、執行猶予2年)を 受けた28。年が明けて起こった最初の反維新運動もキリスト教界が震源地で あった。のちに南山復活節連合礼拝事件と呼ばれることになった事件であ る。1973年4月22日、プロテスタント各教派が一同に会する復活節の早朝 礼拝が南山野外音楽堂で開催された。ソウル市内から数万もの信徒たちが集 まった。礼拝を終えて帰る信徒たちに何名かの青年たちが維新体制を暗に批 判するビラを配ったが、ほとんど目立つこともなく大騒ぎにもならなかっ た。当日はただそれだけで終わってしまった。しかし、約二ヶ月後、これに 関わった牧師、学生たちがつぎつぎに検挙され、しかも「内乱陰謀罪」とし て起訴される大事件に発展した29。この事件は当初、キリスト教界に大きな 衝撃を与えたが、すぐに拘束者たちへの支援、国内外のキリスト者たちの民
27 1975年4月11日、ソウル大学農科大学畜産科学生金相眞が維新糾弾集会で良心 宣言文を朗読したうえで抗議の割腹自決をした。この良心宣言文のなかで彼は
「合法を装った維新憲法のすべての不条理と悪を告発する。」と指摘しているがま さに維新体制の本質を突いている。彼の宣言朗読の肉声はhttps://www.youtube.
com/watch?v=F87APbMEvqYで聴くことができる。
28 金明培前掲『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心に 1960〜1987』、128〜129ページ。
29 南山復活節連合礼拝事件は、基督教長老会ソウル第一教会の朴炯圭牧師が同教会 の権皓景伝道師と相談し、韓国基督学生会総連盟(KSCF)の学生たちと共に実 行を計画したものである。当初は礼拝後、学生たちが壇上に垂れ幕やプラカード を掲げる計画であった。しかし、会場周辺でものものしい警察の警備に怖じ気づ き、わずかの数のビラを献金箱に入れたり、帰路の信徒に配ったりするだけで終 わった。計画した朴炯圭にしてみれば、「失敗に終わった」「何の成果もなく終 わった」に過ぎなかった。しかし本文で述べたように後日、「内乱陰謀罪」に問 われる大事件に発展したのである。南山復活節連合礼拝事件の発端、経過、顛末 については当事者であった朴炯圭の回顧録、前掲『路上の信仰 韓国民主化闘争 を闘った一牧師の回想』の198〜216ページを参照されたい。
主化運動への連帯を産む結果となった。朴正煕政権は、「内乱陰謀罪」とい うおどろおどろしい罪状を掲げて恐怖を与え、これによって反維新運動を早 期につぶそうとしたが、むしろ逆効果となった。余りにも理不尽な弾圧をす る朴正煕政権は海外から批判的に注視される結果を産んだ。一方、キリスト 教界は内外のネットワークを通じて、拘束者に対する支援の輪を拡げるとと もに反維新の連帯をも拡げていったのである。
キリスト者が先導した反維新運動に刺激され、民主化運動では常に中心勢 力であったが、しばし沈黙していた学生たちも立ち上がった。1973年10月 2日、ソウル大文理学部の学生たちが反維新デモを敢行した。これが嚆矢と なって全国の各大学でつぎつぎに反維新デモが続いた。これに在野の民主主 義陣営は11月、学生デモを支持する声明を発表して呼応し、12月に憲法改 正100万人請願運動を開始した。この在野の民主主義陣営には多数のキリ スト者が加わった。
このように維新体制がはじまって一年が経過した時点で、反維新運動は、
権力側の威圧的な対応にもかかわらず、むしろますます勢いを強める様相で あった。業を煮やした朴正煕はついに伝家の宝刀を抜いた。1974年1月8 日、緊急措置1号を布告した。緊急措置1号は維新憲法に対するいっさい の批判と論議を禁止するという布告であった30。
ところが学生たちはひるまなかった。1974年3月、新学期がはじまると、
より組織的な反維新運動に動き出した。これまで大学ごとの個別的で散発的 であった運動を連携しようという準備が密かに進められた。これを主導した のもキリスト者の学生たちであった31。ところが学生たちの連携ができあが
30 緊急措置1号違反で憲法改正100万人請願運動を主導した張俊河、白基完をは じめ改憲請願運動に関連した多くのキリスト者も連行、拘束された(金明培前掲
『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心に1960〜1987』、
136ページ)。この緊急措置1号に対する抵抗に即刻立ち上がったのも都市産業 宣教会に属する少壮のキリスト教牧師たちであった(同、136〜137ページ)。
31 学生運動のなかでキリスト教を通じた全国的ネットワークを持つ韓国基督学生会 総連盟(KSCF)が全国各大学の連携の役割で中心になるのは当然であったとチョ ウ・ビョンホ氏は論じている(チョウ・ビョンホ『韓国キリスト青年学生運動
る前に、当局に察知され、3月29日、主導学生たちが大挙、連行されてし まった。そして1974年4月3日、政府は全国民主青年学生総連盟(民青学 連)という不法団体が、人民革命党(人革党)という不純勢力の背後操作の もと、人民革命を企図したと発表して、緊急措置4号を発布した32。いわゆ る民青学連事件、人革党事件である。民青学連事件では1,204名が検挙さ れ、うち253名が軍法会議に送致、55名が起訴された33。民青学連事件では 韓国基督学生会総連盟(KSCF)の幹部など26名が投獄され、KSCFは壊滅 的打撃を受けることになった34。この民青学連事件および人革党事件はいず れも捏造事件であり、取り調べ過程で過酷な拷問が行われたことがこんにち 明らかになっている35。
民青学連事件で多数のキリスト者が起訴され、裁判がはじまると家族を中 心として救命のための祈祷会が毎週定期的に開かれるようになった。木曜祈 祷会といわれるこの祈祷会には、キリスト教徒、非キリスト教徒に関係なく 民青学連事件、人革党事件の関連者家族と支援者が集まるようになった。そ れは祈祷会でありながら、民主化運動陣営の情報交換の場となり、反維新運 動の連帯を強める場ともなったのである。祈祷会は1976年3月1日の民主 救国宣言事件後に金曜祈祷会に変わったが、キリスト者を中心とした民主化 100年史散策』[韓国語]、地に書かれた文字、2005年、118ページ)。なお民青学 連事件について、学生たちから支援を要請された朴炯圭が詳細を回顧録に記して いる。このことのために朴炯圭も民青学連事件に連座することになった。この事 情も含め民青学連事件の発端、経過、顛末については朴炯圭前掲『路上の信仰韓 国民主化闘争を闘った一牧師の回想』、218〜254ページがたいへん参考になる。
32 緊急措置4号は、①民青学連関連の活動を禁止、②集会、デモ、籠城の禁止、③デ モ主導者に最高死刑、緊急措置違反者の学校の廃校を可能、④地方長官要請で学 内への兵力出動可能などを内容とするものであった(チョン・ヘジュ、前掲『維 新憲法反対運動』、50ページ)。
33 同上、51ページ。
34 チョウ・ビョンホ、前掲『韓国キリスト青年学生運動100年史散策』、113ペー
35 ジ。民青学連事件について2009年9月に無罪、人革党事件については2013年11月に 無罪の判決がそれぞれ出された。これらの事件において拷問、捏造が行われたこ とは国家情報院(中央情報部の後身)が明らかにしている(国家情報院『過去と 対話 未来の省察−国情院「真実委」報告書・総論I』、2007年、124〜125ペー ジ)。
運動の象徴的集会として続けられた36。キリスト教の祈祷会という場である ため当局も簡単に手出しすることができなかった。また裁判の場も民主化闘 争として意義が大きかった。被告たちは、拘束者の家族や支援者が傍聴し、
海外のメディアが注目するなかで、維新体制の不正義、非人権性を訴える陳 述をしたからである37。裁判が維新体制の非民主性を暴露する場になったの である。
民青学連・人革党事件が契機となり、1974年の秋以降、学生たちのデモ、
宗教人・知識人・文学人の声明などが続き、反維新運動の連合組織として 11月27日、「民主回復国民会議」が各界人士の参加で発足した。この時期、
特記すべき出来事は、政府による報道規制、言論抑圧に対して、言論人が立 ち上がったことである。1974年10月24日、東亜日報などの記者たちが
「自由言論実践宣言」を発表して政府の言論統制に抵抗した。これに対して 政府は新聞社への弾圧を開始した。その代表例が東亜日報に対する弾圧事件 である。企業に圧力をかけて東亜日報に広告を掲載させないようにした。そ の結果、東亜日報は広告収入の道を断たれた。一時は広告面を白紙のまま出 さざるを得なかった東亜日報を支援したのは一般人の個人広告であった。こ の支援活動においても多くのキリスト者が参加した38。しかし東亜日報は政 府の弾圧に屈し、結局、「自由言論実践宣言」に参加した記者たちを解雇し
36 維新体制の時期、日本基督教団宣教師の身分でソウルに滞在していた澤正彦牧師 が『ソウルからの手紙 韓国教会のなかで』(草風館、1984年)で木曜祈祷会の 様子を伝えてくれている。澤正彦の義妹の金潤氏(当時、西江大学生)が民青学 連事件で有罪判決を受けたため特別の思いをもって記録している。とくに第14 信(1975年1〜3月)に金潤氏が釈放されるまでの木曜祈祷会の様子を詳しく書 いている。
37 ムン・ユギョン『1970年代キリスト教民主化運動研究―発生背景と特性を中心 として―』[韓国語](延世大学校大学院社会学科修士論文、1984年)、49ページ。
池明観はこう述べている。「法廷も政治闘争の場であった。そこには感動的な精 神的高揚があった。被告は強権体制を攻撃し、権力の下僕に堕落した法廷を告発 し、傍聴人たちは大いにこれを支援した。」(池明観『韓国民主化への道』、岩波書 店、1995年、91ページ。)
38 東亜日報支援のため白紙広告を埋めたキリスト者の個人広告について、澤正彦が その実例をいくつも紹介してくれている(澤正彦、前掲『ソウルからの手紙 韓 国教会のなかで』、242〜247ページ)。
てしまった。
朴正煕政権は反維新運動の高揚に対抗しようと、維新憲法の賛反を問う国 民投票を実施した。1975年2月12日に実施された国民投票で80%の投票 率で73.1%の賛成を得た朴正煕は意を強くして緊急措置1、4号を解除し、
この措置の違反者として有罪判決を受け、投獄されていた者たちのほとんど を釈放した。しかし、人革党事件関連者は釈放されず、彼らには1975年4 月8日、大法院(日本の最高裁)で最終判決が下された。このうち死刑判決 の8名には、翌4月9日早朝、死刑が執行された。このあまりにも異例な 措置は韓国社会のみならず、国際社会にも大きな衝撃を与えた。
朴正煕政権は、反維新運動に対してあくまで強硬な弾圧で臨む姿勢を鮮明 にした。1975年5月13日、緊急措置9号の布告である。緊急措置9号は
「緊急措置の総合完全版」と評されるほどに、ごくごく些細な維新憲法反対 の行為をも許さず、そうした行為の疑いがある者を令状無しで拘束でき、さ らにそうした行為を厳罰に処することを可能にする措置であった39。緊急措 置9号時代と呼ばれる暗黒の時代を迎えた。
しかし、学生たちはこの強硬姿勢にもひるまなかった。1975年5月22 日、ソウル大生千名以上がデモを挙行した40。しかし、このデモで拘束され た学生たちは除籍処分を受け、ソウル大総長は責任を取って辞任し、効果的 に鎮圧できなかった責任で南部警察署長が更迭されるなど、政権側も徹底し た強硬姿勢で対応した。こうした事態の結果、学生のデモは1976年後半ま で一時、沈滞化してしまった41。
39 例えば、維新批判の内容の文書を所持することすら禁止され、違反者が所属する 学校に違反者の除籍を命令することができ、休校措置も主務大臣の裁量でできる という内容を含んでいたし、維新反対運動について報道することも禁止された
(チョン・ヘジュ、前掲『維新憲法反対運動』、68ページ)。
40 このデモは、注27で紹介したソウル大農科大学生金相眞の追慕集会であった。
金相眞の割腹自決は、人革党関連者の死刑執行の衝撃が契機になっていたが、金 相眞の自決は緊急措置9号の過酷な弾圧にも屈しない、反維新運動継続の原動 力になったのである。
41 チョン・ヘジュ、前掲『維新憲法反対運動』、69〜70ページ。
学生に代わって行動を起こしたのは在野の政治家、宗教家であり、その中 心はキリスト者達であった。1976年3月1日、明洞聖堂の三一節記念ミサ で「民主救国宣言」を発表した。関係者は緊急措置9号違反とされ、牧師や 神父など聖職者や多数のキリスト者が拘束された。しかし、これに対して拘 束者家族協議会が結成され、基督教教会協議会(KNCC)は人権委員会を組 織して、以前の木曜祈祷会を継承する金曜祈祷会を主催した。こうした活動 は民主化運動陣営の連帯を強め、1977年12月に「韓国人権運動協議会」、
1978年7月に「民主主義国民連合」の発足につながった。「民主主義国民連 合」は、1979年3月に「民主主義と民族統一のための国民連合」に発展継 承された42。このように徹底した強硬弾圧の緊急措置9号時代においてむし ろ民主化運動・人権運動の組織化が進み、反維新を鮮明にした幾多の声明が 毎年のように発表された43。学生たちも1977年秋以降、再び反維新の集会、
デモを断続的に繰り広げた44。一方、維新政府も弾圧の手を緩めなかった。
維新体制は余りにも強固であるかのように見えた。この強固な維新体制を 揺るがしたのは労働争議であった。1978年の東一紡織の争議であり、1979 年のYH貿易の争議であった。この争議を主導したのは、若い女性労働者 達であった。彼女たちは非常に劣悪な労働条件に置かれた労働者達であっ た。この女性労働者達を支援をしたのは、都市産業宣教会の少壮牧師たちで あった45。
42 金明培前掲『解放後韓国キリスト教社会運動史 民主化運動と人権運動を中心に 1960〜1987』、141〜147ページ。
43 例えば、「民主救国憲章」(1977年3月22日)、カトリック正義具現全国司祭団の
「7・7宣言」(1977年7月7日)、「韓国労働人権憲章」(1977年12月23日)、「3・1 民主宣言」(1978年3月1日)、東亜日報および朝鮮日報の両自由言論守護闘争委 員会の「民主・民族言論宣言」(1977年12月30日)などが挙げられる(チョ ン・ヘジュ、前掲『維新憲法反対運動』、73〜78ページ)。
44 チョン・ヘジュ、前掲『維新憲法反対運動』、83〜86ページ。
45 都市産業宣教会は1960年代半ば、一部、プロテスタント教派が産業化に伴う都 市労働者の増加に対応して労働者を教会へと導き入れる伝道を目的とした都市産 業伝道会の発足にはじまった。当初は伝道に集中したが、労働現実に直面して労 働条件の改善、労働者の人権擁護に取り組んでいくことになった。また世界教会 協議会(WCC)における「神の宣教」論の登場と相俟って組織名称も都市産業
YH貿易争議は経営主の一方的な会社閉鎖に対する抗議として起こった。
YH貿易の女性労働者たちは、都市産業宣教会の支援を受け、また維新体制 との対決姿勢を鮮明にした野党新民党総裁金泳三の協力を得て新民党の党舎 に籠城して争議の社会問題化を図った。しかし朴正煕政権は彼女たちに仮借 のない弾圧を加え、そればかりか金泳三に対しても強硬に臨んだ。金泳三の 新民党総裁職、さらには国会議員職の剥奪を強行したのである。このことが 金泳三の地元釜山における大衆的な抗議行動を引き起こし、隣接する馬山に も飛び火した。1979年10月16〜20日の釜馬民衆抗争である。この抗争を めぐる権力内部の意見対立が発端となって朴正煕殺害事件が起こり46、朴正 煕の死によって朴正煕政権は終わった。4・19学生革命のように民主化運動 の力そのものによって維新体制を終わらせることはできなかった。しかし、
過酷な弾圧にも屈することがなかった反維新の闘いが朴正煕政権の終結に影 響を与えたことは間違いない。
(3)考察
1)民主化運動の視点から見たキリスト教界の関わり
さて、これまで朴正煕時代の民主化運動におけるキリスト教の関わりの実 態を見てきて分かるように、民主化運動からの視点から考えたとき、この時 期はキリスト教界が民主化運動において主導的役割を担ったということが言 える。といっても、キリスト教界の民主化運動は、維新体制以前において、
宣教会と改称した。1971年には超教派的な首都圏都市宣教委員会を組織した。
都市産業宣教会については民主化運動記念事業会研究所編、前掲『韓国民主化運 動2 維新体制期』、372〜376ページを参照。また女性労働者の実態と都市産業 宣教会との出会いによって彼女たちが意識化されていく姿について宋孝順『ソウ ルへの道―韓国女子労働者の現場手記―』(教文館、1983年)が参考になる。
46 1979年10月26日、朴正煕大統領、金桂元秘書室長、金載圭中央情報部長、車 智澈警護室長による酒宴の席で反維新勢力に対する徹底的な強攻策を主張する車 智澈とこれに加担した朴正煕を強攻策に懐疑的な金載圭が銃撃した。この事件 は、その背景に金載圭と車智澈の葛藤関係があったが、釜馬民衆抗争を契機に反 維新運動への対応の対立が直接の原因になっていると言える(徐仲錫、前掲『韓 国現代史60年』、130ページ)。
まだ個人的であり、散発的な関与であり、主導力も大きくなかった。しか し、維新体制になると、組織的で、持続的な関与へと発展し、中心的な勢力 となって民主化運動を主導した。
4・19学生革命において民主化運動を主導したのは学生であり、その中心 勢力も学生であった。朴正煕時代においても学生は民主化運動の中心的な勢 力であったが、この学生運動においてもキリスト学生とその学生運動組織が 先導的役割を果たした。本稿ではじゅうぶんに述べることができなかった労 働運動、都市貧民運動、農民運動、人権擁護運動といった分野においてもキ リスト教界の組織が運動を主導した。
前稿で見た李承晩時代、キリスト教界は非民主的な李承晩政権とほぼ一体 となっていた。このときと比べると非常に大きな変化があったということが できる。では、なぜ、朴正煕時代にキリスト教界が民主化運動を主導するこ とになったのか、また、どのようにしてそれが可能であったのか、この点を 考察しておこう。
第一に、なぜ、キリスト教界が民主化運動を主導することになったのか、
という問題であるが、それは逆にキリスト教界以外の主体が、なぜ、主導で きなかったのかという問題でもある。後者からいえば、国会での野党の活動 に限界があった。与党が強硬な国会運営をしたり、朴正熙政権の野党工作が 功を奏したりということがあったし、維新体制時代にはそもそも国会が機能 麻痺の状況に置かれてしまった。反共国家のもとで社会主義や共産主義の組 織が許されなかったのはいうまでもないが、問題は朴政権が、民主化運動な ど反政府的活動の背景に共産主義があるとみなしたり、そのように捏造した りする危険性が常にあったということである。こうした状況ではそもそも社 会運動のための組織化が困難であった。
しかし、キリスト教界はそうした危険性が相対的に小さかった。前稿で見 たように韓国キリスト教の反共主義的性格は明らかであったから政権がキリ スト教界の民主化運動を共産主義と結びつけることには無理があった。つま り反共主義国家の韓国においてキリスト教界は他の主体に比較して反政府的
運動を比較的自由にできる条件が担保されていたといえる。とはいえ、キリ スト教界以外の主体にとって条件が困難だからといって、それだけでキリス ト教界が民主化運動を主導するということにはならない。やはりキリスト教 界が民主化運動に主体的に取り組もうとした内発的な要因があったからであ る。
それは何か?それは李承晩時代にキリスト教界が政権と一体となって、政 権の不正・腐敗を黙認してしまったことに対する反省、キリスト教的ことば で表現すれば罪責である。この反省=罪責の故に、李承晩時代と同様、独裁 的で非民主的な権力による不正・腐敗、人権蹂躙が行われる現実を目の当た りにしたとき、これを黙認することができないと考え、立ち上がったのであ る。そしてそれを後押ししたのが、この時期に世界的に台頭した「神の宣 教」論という神学的裏付けであった47。
第二に、しかし、弾圧を強行する朴正煕政権においてキリスト教界が民主 化運動をどのようにして主導し続けることができたのだろうか、という問題 である。これについて考えられる一つは主体的要因である。民主化運動を 担ったキリスト者、とりわけ主導したキリスト者はこれを彼らの信仰にもと づいて実践したということが関係している。信仰的決断による内発的な行動 であるが故に、その行動を抑えつけようとする外的な力(ある場合には肉体 的な苦痛を伴う拷問など)に屈することなく、打ち克つことができた48。も う一つは組織的要因である。彼らの闘いは孤立無援の闘いではなかった。同 じ信仰、同じ志を持つキリスト者が組織的に連携して取り組んだ闘いであっ
47 民主化運動の神学的裏付けについて本稿では詳しく述べられなかった。これにつ いては民主化運動記念事業会研究所編、前掲『韓国民主化運動2 維新体制期』、
398〜407ページをとりあえず参照されたい。
48 朴炯圭は、民青学連事件のとき、学生たちが法廷で堂々と闘っている様子を記録 している。「私は、学生が法廷で堂々と闘っているのを聴いて知っていた。死刑 を求刑されても『光栄である』(金秉坤)と言ったというので驚いた。花咲く年頃 の若者が死を目の前にしてこのようなことが言えるとは!」(朴炯圭、前掲『路上 の信仰 韓国民主化闘争を闘った一牧師の回想』、233ページ)。過酷な弾圧のな かで彼らを支えたのは信仰の力だといえる。