はじめに
2007(平成19)年10月14日にJR東日本創立 20周年記念の主要事業のひとつとして,さいた ま市大宮区(旧大宮市)の大成地区に開館した鉄 道博物館(鉄博)は,公益財団法人東日本鉄道文 化財団が運営するJR東日本の企業博物館である。
同博物館はつぎのように「鉄道」「歴史」「教育」
をコンセプトとし,延床面積2万8,200平方メー トルに及ぶ国内最大級の鉄道博物館となってい る(1)。
鉄道博物館;日本および世界の鉄道にかか わる遺産・資料に加え,国鉄改革やJR東日 本に関する資料を体系的に保存し,調査・研 究を行う。
歴史博物館;鉄道システムの変遷を,車両 などの展示物を柱に,それぞれの時代背景な どをまじえながら,産業史として物語る。
教育博物館;鉄道の原理・仕組みと最新
(将来構想を含む)の鉄道技術について,子 どもたちが,模型やシミュレーション,遊戯 器具などを活用しながら,体験的に学習する ことができる。
鉄道博物館のオープン当日には9,400人の入館 者があり,ピーク時には入館待ちで400人の行列 ができた。開館1か月間で約24万人,1日平均 約8,000人の入館者があった。その後も入館者は 順調に増加し,2008年3月31日に100万人,同 年11月10日に200万人,2009年10月19日に 300万人,2010年12月11日に400万人をこえ,
開館から5年半ほど経った2012年4月2日には
500万人を突破した。
鉄道博物館は,初代「0系」新幹線をはじめと する日本の鉄道史を代表する車両の実物展示,運 転シミュレーターなどの体験型展示を試みるほか,
定期的に企画展示を実施していて人気を集めてい る。女性の入館者も多く,「鉄子」と呼ばれる女 性の鉄道ファンも急増し,ある種の社会現象をつ くりだした。また財団法人「埼玉りそな産業協力 財団」は,2009年12月21日に鉄道博物館の埼 玉県経済に及ぼす波及効果が年間約112億円にの ぼるという試算を発表した(2)。
しかし,この鉄道博物館が誕生するまでには旧 大宮市の粘り強い誘致活動があった。そこで,こ こでは鉄道博物館の開館にいたるまでの経緯をあ きらかにし,同博物館への期待を述べることにし たい。
1 .旧鉄道博物館の開館
日本における鉄道博物館の歴史は,1911(明治 44)年にまでさかのぼることができる。この年の 5月4日,「調査の政治家」「科学の政治家」とし て知られる鉄道院の初代総裁後藤新平の指示で鉄 道院に鉄道博物館掛がおかれ,資料の収集を開始 した。1913(大正2)年5月の鉄道院官制改正と ともに鉄道博物館掛は廃止され,以後は官房研究 所が博物館掛の事業を継承し,収集された資料の 管理と事務を担うことになった。
1921年10月14日,鉄道開業50周年を記念し て鉄道博物館が東京駅北口に開館した(3)。開館当 初は仮設施設(限定公開)という取り扱いであっ たが,相当の来館者があったようである。1923
特集寄稿
鉄道博物館への期待
老 川 慶 喜
年9月の関東大震災によって多くの資料を焼失し たが,鉄道省は鉄道博物館の復興に努め,1925 年4月3日からふたたび開館した。以来,精力的 に資料を収集し,31年には「陳列参考品」が約1 万点に達し,「本館では鉄道に関する諸般の変遷 発達の歴史的資料の蒐集に努めてゐるが,一方又 鉄道に関する最新科学の威力を示す参考品の陳列 にも不断の努力を払って居り,その延坪数も二十 室千五百坪に及び,これを車輛・交通・電気・信 号・土木・物理化学・貨物関係の七部門に類別し て陳列」し,「鉄道に関する一般知識の涵養には 絶好の場所」と評価されるまでになった。
鉄道博物館の展示物の「誇りの一つ」は,東海 道線の箱根の急勾配線で1913年ころまで使用さ れていた「マレー機関車」であった。機関車だけ の重さが72トンで, 博物館の展示物としては
「世界最大のもの」といわれていた。10馬力の電 動機で動輪とピストンを動かし,切り開いて内部 の構造がみえるようにしてあったので,関係動作 が一目でわかる。この機関車は大宮工場で組み立 てられ,そのまま東京駅まで列車に連結して運搬 され,市内電車の邪魔をしないように真夜中の 12時30分から朝の5時にかけて道一つ隔てた博 物館に運び込まれたということである。
このほか鉄道博物館は,日本最初の第一機関車,
明治天皇の最初のお召し列車,歴史的な客車・貨 車なども所蔵していたが,スペースの関係で陳列 はしていなかった。また「色々の模型や機械類が 電気空気の動力又は手動で動かして見る様になつ て」いた。というのは,「百聞は一見に如かず,
科学の偉大なる効果を公衆に見せるには,何と云 ふても実物教育が一番捷径」と考えていたからで ある。
こうして鉄道博物館では,「動的参考品の陳列 に不断の努力を払ひ,交通機関の実物教育及研究 の一助」としてきた。そのため入場者もいちじる しく増加し,「以前には毎日の入場者百人前後で あつたが,現在(1931年…引用者)では約六倍 の六百人程に」なった。
2 .万世橋への移転と交通博物館
その後鉄道博物館は手狭となったため,神田須 田町の万世橋駅の旧駅舎跡の敷地に新館が建設さ れ,1936(昭和11)年4月25日に移転した。そ して1943年11月1日に万世橋駅が休止(事実上 の廃止)となると,建物は鉄道博物館専用となっ た。また,当初は鉄道省(のち運輸通信省)の直 営であったが,1946年1月25日から財団法人日 本交通公社に運営を委託し,日本交通文化会館と 改称された。さらに1948年9月1日には交通博 物館とふたたび改称され,1971年からは財団法 人交通文化振興財団の運営に移管された。1987 年4月の国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道会社
(JR東日本)に継承されたが,運営は引き続き交 通文化振興財団に委託されていた。
旧鉄道博物館時代には鉄道資料のみを収集して いたが,交通博物館になると鉄道以外の航空機,
自動車,船など,交通全般の資料を収集し展示す るようになった。また実物や模型を多用し,入館 者みずからが動かして学べる展示手法を採用して いた。
こうして交通博物館の施設や展示は充実していっ たが,一方で入館者の数にかげりがみえてきたこ とも事実であった。1981年度の入館者数は71万 8,318人であったが,82年度65万6,361人,83 年度58万9,333人,84年度53万173人と漸減し,
85年度には50万人を割り込み48万7,360人となっ た(4)。
3 .旧大宮市の交通博物館誘致活動
旧大宮市が交通博物館を誘致しようという構想 をもつようになったのは,1982年の東北・上越 両新幹線開業のころからであった。旧大宮市は,
1982年1月14日に当時の国鉄総裁高木文雄あて に,また同年8月12日には東京北鉄道管理局長 あてに,同市内への鉄道博物館の建設を要望した。
そして,1985年には交通博物館を「第2次大宮 市総合振興計画中期5ヵ年計画」のなかに位置づ 社会科学論集 第140号
けた。
さらに大宮市では,1986年3月,鉄道文化を 中心とした「交通博物館基本構想」を策定し,交 通博物館の建設候補地としてニューシャトル大成 駅を中心にした新幹線高架下およびその周辺のオー プンスペース5haについて検討を進め,国鉄に 対し交通博物館の建設,誘導を積極的に働きかけ はじめた。旧大宮市は,鉄道とともに発展してき た「鉄道の街」で,鉄道工場も隣接していたので,
交通博物館が立地するのに最適の場所であり,将 来のまちづくりにも役立つと考えたのである。
また交通博物館は,当時構想されていた「埼玉 中枢都市圏」(さいたま YOU AndIプラン)に ふさわしい文化施設とも考えられていた。1986 年2月,国鉄から「交通博物館の移転問題は,昭 和62年4月以降東日本旅客鉄道で検討する」と いう方針案が出されると,同年6月に埼玉県政策 会議は交通博物館の誘導を87年度の重要要望事 項にすることを決定し,9月には埼玉県と大宮市 が交通博物館誘導に関する覚書を締結した(5)。
旧大宮市では,関係機関に働きかけて交通博物 館誘導のための要望活動を展開し,1984,85年度 に交通博物館の移転・整備のための基本調査を実 施し,87年3月に「交通博物館誘導準備委員会」
を設置した。同委員会は,「鉄道の街として発展 してきた歴史を有し,全国有数の交通結節点でも ある大宮市に,交通博物館を誘導することについ て,必要な事項を協議する」(6)ことを目的とし,
委員は老川慶喜(関東学園大学),野中振作(国 鉄大宮工場長),井澤正一(大宮商工会議所専務 理事),金子善次郎(埼玉県企画財政部長),石原 猛男(同ユーアンドアイプラン推進室長),大山 昭夫(大宮市助役),新藤享弘(同秘書企画室長,
のちの大宮市長)の7名で,老川が委員長に就任 した。最初の委員会は1987年3月30日に開催さ れた。以後,交通博物館誘導準備員会は,毎年国 内各地の鉄道,自動車,海運など交通に関する博 物館や資料館を視察するとともに,「JRおおみや 鉄道ふれあいフェア」などのイベントにも積極的 に参加し,あるべき交通博物館像を検討するとと もに交通博物館誘導の機運を盛り上げていった。
旧国鉄は1987年4月1日の分割民営化によっ て解体され,貨物鉄道1社とJR東日本をはじめ とする6社の旅客鉄道会社が誕生した。当時の埼 玉県知事畑和と大宮市長馬橋隆二は,1988年3 月23日に連名でJR東日本の社長住田正二にあ てて鉄道博物館建設の「要望書」を提出した。そ こでは,鉄道博物館の建設を要望する理由がつぎ のように述べられている(7)。
さて,現在,埼玉県では,県における中枢と なるべく高次の都市機能を集積し,首都機能の 一翼を担う自立都市圏の形成に向け,大宮市・
浦和市・上尾市・与野市・伊奈町の四市一町と 共に協力して「さいたま YOU AndIプラン」
の目標の一つであります ・新しい埼玉文化の創 造・のなかで,大宮市における交通博物館の建 設を位置づけ,その実現に向け努力していると ころであります。
ご承知のとおり,明治十八年,大宮駅の開設 に伴い鉄道のまちとして開けた大宮市は,大正 十二年我が国唯一の鉄道参考陳列所(鉄道博物 館的)が開設されて広く市民に開放されており ましたが,国鉄側の諸般の理由から現在の交通 博物館に統合されたと仄聞いたしております。
鉄道と強い関わりをもちながら発展を続ける 大宮市にとって,鉄道の歴史を知り,未来の交 通体系を考える場としての鉄道博物館は是非と も必要な施設であると考えております。
このように,当時鉄道博物館の誘致・建設は,
埼玉県が推進する「さいたま YOU AndIプラ ン」の一環に位置づけられていたのである。
交通博物館誘導準備委員会と大宮市は,1990 年3月24日に「交通博物館シンポジウム 交 通博物館を考える 」を,大宮市民会館小ホー ル(現在の「さいたま市民会館おおみや」)で開 催した。このシンポジウムは,「「鉄道を中心とし た交通博物館」の施設内容,資料収集,展示方法 等についての諸問題を,さまざまな角度から検討 することにより,交通博物館の将来像を提起」す ることを課題としていた(8)。
シンポジウムは,第1部と第2部からなり,第 1部では原田勝正(和光大学),鄭チョン在ゼチョン貞(韓国放 送通信大学),ミー汝ルーチャン成(中国社会科学院経済研究 所)の3氏が,それぞれ「鉄道を通じてみた日本 と東アジア」,「韓国における鉄道の現状と未来」,
「中国の鉄道 過去と現在 」という基調講 演を行った。第2部では,青木栄一(東京学芸大 学)がコーディネーターとなり,松澤正二(前交 通博物館長),久保敏(鉄道友の会理事),湯沢威
(学習院大学),青木真美(運輸調査局)をパネリ ストに迎えて「鉄道と交通博物館」というテーマ でシンポジウムが行われ,フロアの参加者からの 発言も含めて充実した議論が行われた。交通博物 館誘導準備委員会はこのシンポジウムの議論を踏 まえ,1991年3月に『交通博物館の実現に向け て』を刊行した。同書には,老川,松澤,久保,
青木,星らの誘導準備委員会の委員によるあるべ き交通博物館に関する提言と,「交通博物館シン ポジウム」での議論が収録されている。
旧大宮市では1997年度に「交通博物館想定地 現況調査」を実施し,交通博物館の移転先として 想定される場所を特定し,立地の可能性を探った
(大宮市 『交通博物館想定地現況調査報告書』
1998年3月)。そして,1999年3月には『交通博 物館の諸条件に関する調査報告書』を作成し,交 通博物館移転再整備のための計画や条件を整理し,
再整備のための基本方針や管理運営方針などを検 討した。
当時,大宮市以外にも交通博物館を誘致しよう としていた市がいくつかあったが,幸いなことに 大宮市では市民の理解もあり,途中国鉄の分割民 営化によるJR東日本の成立,浦和,与野,大宮 の3市合併によるさいたま市の誕生など大きな環 境変化があったが,誘致活動はさいたま市に引き 継がれていった。
大宮市は,2000(平成12)年7月30日に大宮 ソニックシティ国際会議室でシンポジウム「大宮 と鉄道 魅力ある鉄道のまちをめざして」を開 催した。大宮市は,2000年11月3日に市制施行 60周年を迎えるのであるが,2001年5月の「さ いたま市」の誕生にともなって「大宮市」はなく
なることになっていた。鉄道とともに発展してき た大宮市の姿を新市にも引き継ごうというのが,
シンポジウム開催の趣旨であった。
第1部では,老川慶喜(立教大学)が基調講演
「鉄道の発展と大宮」を行い,1883(明治16)年 3月の大宮駅開業以降,鉄道が大宮市の産業,経 済,文化およびまちづくりに及ぼした影響を振り 返った。第2部では,老川をコーディネーターに,
阿部智行(大宮商工会議所専務理事),青木栄一
(駿河台大学),野村路子(作家),松沢昭二(元 交通博物館副館長),安岡路洋(大宮市文化財専 門委員会委員長)の5氏が,大宮市が構想を練っ ている「鉄道博物館」について意見を交換した。
野村は,さいたま市が誕生しても「浦和,大宮,
与野三市が独自には育んできた歴史や文化を忘れ てはならない」として,大宮市の鉄道文化を新市 に引き継ぐことの重要性を強調した。また,青木 は「収集,展示,研究の3機能をもつ総合的な博 物館で,世界一のレベルをめざすべきだ」と独自 の鉄道博物館像を述べた(9)。なお大宮市は,この 年に鉄道博物館の候補地をJR東日本大宮工場隣 接地の10haとし,検討を開始した。また,大宮 市議会議員28名による「鉄道博物館建設促進議 員連盟」が発足した。
交通博物館誘導準備委員会の所期の目的は,
2004年2月に交通博物館のさいたま市への移転 が正式に決定され,一応達成された。そこで,同 年5月に名称を「鉄道博物館整備促進検討委員会」
と改称して,さいたま市にとって望ましい鉄道博 物館についてさまざまな角度から検討し,2004 年9月に鉄道博物館整備に関する「提案書」を作 成し,JR東日本に提出した。整備促進検討委員 会は,これまでと同様に毎年5月に開催される
「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」にも参加した。
そして,2007年10月14日に鉄道博物館が旧大 宮市内に開館すると「鉄道博物館開館記念事業 inさいたま」に参加し,翌2008年3月6日に最 後の委員会を開催した。
社会科学論集 第140号
4 .鉄道博物館の開館
冒頭で述べたように,JR東日本は2007年10 月14日,同社の設立20周年を記念してさいたま 市大宮区に鉄道博物館を開設した。鉄道博物館と 東日本鉄道文化財団が発行した『鉄道博物館』に よれば,鉄道博物館は「2006(平成18)年5月 に閉館致しました東京・神田の交通博物館に代わ り」開館したと説明されているが,これは厳密に いうと正しくない。万世橋にあった交通博物館が 単に移転したというのではなく,交通文化振興財 団が運営する同館は開館85周年,万世橋へ移転 後70周年にあたる2006年5月14日に閉館とな り,新たにJR東日本文化財団が運営する鉄道博 物館が開館したとみなければならない。
交通博物館の建物は1936年に建設されており,
現行の建築基準法が定める耐震基準に適合してい ないだけでなく,エレベーターなどのバリアフリー 設備の整備も遅れていた。そこでJR東日本は,
2003年4月に同社総務部内に「交通博物館プロ ジェクト」を設置し,移転や拡大を視野に入れた 交通博物館の抜本的改革について検討をはじめた。
まず,現行箇所での建て替えについては敷地が狭 隘で本線との連絡もできないので実物展示車両の 拡充が難しいと考え,交通博物館の建て替えにつ いては早々に断念し,移転を前提とした施設の拡 充を検討することにした。移転先についてはいく つかの候補地を検討したが,①地元自治体が協力 的であること,②JR東日本の工場施設が隣接し ていて博物館活動のバックアップが可能であるこ と,③首都圏近郊の比較的便利な立地条件で広大 な敷地が確保でき,将来的に用地の拡張も十分に できること,などの諸条件を勘案して大宮駅北方 のJR東日本の所有地を活用することになった。
ここは,さいたま市(旧大宮市)交通博物館誘導 準備委員会が主張してきたところと一致しており,
JR東日本も「さいたま市は,大宮市時代から交 通博物館の移転誘致に積極的であった」と,同委 員会の活動を評価していた。
おわりに
アーカイブズ機能の充実に向けて
さいたま市大宮区の鉄道博物館は開館以来人気 を博し,現在でもなお多くの来館者がある。鉄道 博物館は開館後定期的にさまざまな企画展示を試 み,そのつど興味深い展示図録を刊行している。
また繰り返し入館すればわかることであるが,常 設展示も小規模な修正はたえず行われている。こ うした努力が鉄道博物館の人気を保っているもの と思われる。
鉄道の母国イギリスではヨークに国立鉄道博物 館がある。イギリスの4大鉄道会社のひとつロン ドン・アンド・ノースイースタン鉄道(LNER) が1925年に同社の車両基地があったヨークに,
引退後の蒸気機関車や客車,鉄道関連用具などを 展示する博物館を開館した。その後,1975年に ロンドンのイギリス鉄道博物館のコレクションを 統合し,ヨーク国立鉄道博物館となったのである。
日本では国立の鉄道博物館を設立しようという 動きはない。それどころか,JR各社はそれぞれ が鉄道博物館を所有し競い合っているかのようで ある。現在,JR各社が所有する鉄道博物館とし ては,JR東日本の鉄道博物館以外にJR西日本 の交通科学館(大阪市,1962年開館)・梅小路蒸 気機関車館(京都市,1972年開館),JR九州の 九州鉄道記念館(北九州市,2003年開館),JR 東海のリニア・鉄道館(名古屋市,2011年開館)
などがある。そしてJR西日本は,2016年にJR 京都駅近くの梅小路公園内にJR東日本の鉄道博 物館の規模を上回る鉄道博物館を開設するという 計画を発表した(10)。老朽化が目立ってきた同社の 交通科学館を梅小路蒸気機関車の隣接地に移し,
約3万1,000平方メートルの展示面積を有する鉄 道博物館を開設するというのである。
JR各社が鉄道博物館を開設し充実させていく ことは,それ自体としては歓迎すべきことである。
しかし,一方ではJR各社の博物館が連携してい くことがいま求められているのではないだろうか。
2022年には日本の鉄道開業150年を迎えるので,
150年の日本の鉄道の歴史をどう総括するのかと いう観点からも,各社の博物館が連携をはかるこ とが必要のように思われる。鉄道博物館にはJR 各社の企業博物館のネットワーク作りに是非尽力 していただきたい。
また鉄道博物館の活動をみると,3つのコンセ プトのなかで述べられている「調査・研究」がや や弱いとの印象をぬぐいえない。もちろん鉄道博 物館は,昨年度から『鉄博』なる小冊子を発刊し,
学芸員の方たちの玉稿が掲載されており,調査・
研究にも力を注いでいることはよくわかる。その ことをふまえた上で,さらに鉄道博物館の充実の ために若干の提言をして結びとしたい。
鉄道博物館はJR東日本の企業博物館であるが,
一方では旧国鉄の資料を継承している。鉄道博物 館が所蔵している資料は公開されており,その意 味では鉄道博物館は三井文庫や三菱史料館と同じ く日本の代表的な企業アーカイブズなのである。
しかし,調査・研究なども含めて総合的にみると,
アーカイブズとしての活動は必ずしも活発ではな い。また,文書資料の収集活動にも現状ではそれ ほど熱心に取り組んでいるようには思われない。
営業活動を停止したローカル鉄道などで大量の経 営文書や,長らく鉄道にかかわる仕事をされてき て亡くなられた方たちが収集された貴重な資料な どが残されている。鉄道博物館には,是非こうし た資料を収集し保存していただきたい。公開まで は望まないが(もちろん将来的には公開してほし い),少なくとも保存はしていただきたい。そう でないと,貴重な資料が失われてしまう恐れがあ る。
日本の国内には多くの鉄道にかかわる博物館が
あるが,「鉄道博物館」と名のっているのはJR 東日本の博物館のみである。その意味で,同博物 館は企業博物館であるとはいえ日本を代表する鉄 道博物館としての自負があるものと思われる。そ の自負に期待するところは大きい。
(1)『鉄道博物館』鉄道博物館,財団法人東日本鉄 道文化財団,2007年,3頁。
(2) 埼玉りそな産業協力財団 ・NewsRelease・
No.46202,2009年12月21日。
(3) 以下の叙述は,松縄信太「我が鉄道博物館」
(『科学知識』第11巻第11号,1931年11月,38 42頁)による。
(4) 交通博物館 『交通博物館概要』1986年度版
(1985年度),12頁。なお,その後も交通博物館 の入場者数は減りつづけ,1996年度に40万人台 を切って37万7,047人となったが,ほぼ30人万 人台で下げ止まり,1999年度の入場者数は35万 3,570人,2004年度のそれは34万6,900人であっ た。
(5)「大宮市交通博物館構想に関する背景」(第1回 交通博物館誘導準備委員会配布資料)。
(6)「交通博物館誘導準備委員会設置要綱」第1条
(第1回交通博物館誘導準備委員会配布資料),
1987年3月30日。
(7) 畑和・馬橋隆二「要望書 鉄道博物館の建設に ついて」1988年3月23日。
(8) 大宮市・交通博物館誘導準備委員会「夢をのせ て 交通博物館シンポジウム」1990年3月24日。
(9)「新市へ引き継ごう「鉄道のまち」大宮 識者 を招き市内でシンポ」(『埼玉新聞』2000年8月1 日),「鉄道博物館などテーマにシンポ 大宮」
(『毎日新聞』2000年8月1日)。
(10)「京都に国内最大級の鉄道博物館 16年開業」
(『日本経済新聞』2013年5月13日)。
社会科学論集 第140号
《注》