人間と人工環境の相互作用の諸側面 (1) : 物理・
心理・文化
その他のタイトル Multiple Aspects of Human Artificial
Environment Interactions (1) : Matter, Mind, and Culture
著者 雨宮 俊彦
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 25
号 3
ページ 43‑81
発行年 1994‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00022548
関西大学『社会学部紀要』第2
5
巻第3
号,1 9 9 4 , p p . 4 3 ‑ 8 1 ISSN 0 2 8 7 ‑ 6 8 1 7
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)
一物理・心理・文化ー一 雨 宮 俊 彦
Multiple Aspects of Human A r t i f i c i a l Environment I n t e r a c t i o n s ( 1 ) : Matter, Mind and Culture
Toshihiko AMEMIYA
Abstract
As an introduction to t h i s and f o l l o w i n g papers, m u l t i p l e aspects of human environment i n t e r a c t i o n s a n d s e v e r a l study f i e l d s on t h i s s u b j e c t matter, such a s psychology, architecture a n d geography and so o n , are analyzed, by c o n s i d e r i n g t h e r e l a t i o n s among t h e three b a s i c l e v e l s of existence:i,e. matter, m i n d a n d c u l t u r e . I n t h i s paper, the author c r i t i c a l l y r e v i e w s t h e p s y c h o l o g i c a l stu~ies a n d some related architec‑
t u r a l s t u d i e s on human e n v i r o n m e n t : i n t e r a c t i o n s . The author m a i n t a i n s that・today's mainstream p s y c h o l o g i c a l method, w h i c h s e e k s to discern the u n i d i r e c t i o n a l f u n c t i o n a l r e l a t i o n s f . r o m e n v i ronmenta L / o r g a n i s m i c i n d e ‑ p e 1 1 d e n t variables to mental dependent v a r i a b l e s are outdated, a s shown i n s t u d i e s of c o g n i t i v e d i s t a n c e ̲ a n d personal s p a c e . I n the f i n a l part of t h i s paper, the author proposed a s c h e m a t i c frame.for human environment i n t e r a c t i o n s t u d i e s , w h i c h c a n g o beyond t h e l i m i t a t i o n s of today's u n i d i r e c t i o n a l f u n c t i o n a l s t u d i e s . The author m a i n t a i n s that, t h i s f r a m e c a n incorporate t h e ・ f r u i t s o f p r e v i o u s p s y c h o l o g i c a l s t u d i e s , and make the c u l t u r a l factors .ac~essible to psychology i n an i n t r i n s i c manner.
Key Words: A t r i f i c i a l E n v i r o n m e n t , Environment D e s i g n , G e s t a l t P s y c h o l o g y , P r a g n a n z , E c o l o g i c a l P s y c h o l o g y , A f f o r d a n c e , C o g n i t i v e Map, V i s t a , P e r c e p t u a l C y c l e , Environmental P s y c h o l o g y , P r o x e m i c s , P e r s o n a l S p a c e , T e r r i t o r i a l i t y , Schema
抄 録
今回と次回以降の論文の導入として,物理・心理・文化の三レベル間の関連から,人間と人工環境 の相互作用の多面性が分析され,これにかかわる諸分野の研究の位置づけがなされた。心理学,建築 学,地理学などの分野である。今回の論文では,著者は,心理学における,人間と人工環境の相互作 用にかんする諸研究を,関連する建築学における知見も参照しながら,批判的に検討した。著者は,
現在の心理学において主流となっている,心理的な変数を目的変数,環境変数や有機体変数を説明変 数として,両者の関数関係をもとめるというタイプの研究方法が,収穫逓減の状態にいたっているこ とを,認知距離や個体空間の研究のいきづまりなどの指摘をつうじて,主張した。論文の最後では,
現在の心理学における一方向的な関数関係の追求をこえて,人間と人工環境の相互作用を研究するた めの枠組みのアイデアが提案されている。著者によると,これは,生態学的心理学,環境心理学など のこれまでの成果を包括し,さらに,文化的要因の役割も位置づけうるものである。
キーワード:人工環境,環境デザイン,ゲシュタルト心理学,プレグナンツ,生態学的心理学,アフ オーダンス,認知地図, ヴィスタ, 知覚循環, 環境心理学, プロクセミクス, 個体空 間,領域性,図式
関西大学『社会学部紀要』第25巻第 3号
目 次 序.人間と人工環境の相互作用の多面性
1. 心理学的接近 (1) ゲシュタルト心理学 (2)生態学的接近 (3)環境心理学 (4) 相互作用と文化
2 .
建築と文化(1) モダニズム再考 (2)姿勢と最観
(3)都市の解読とデザイン (4)人工環境の文化的変異
3 .
環境の意味と解釈 (1) 現象学的人文地理学 (2)環境経験の諸相 (3) 記号としての環境 (4) 意味と文化の力学4 .
環境デザインの方法(1) デザインの問題と方法 (2) アレグザンダーの位置 (3)パタン・ランゲージ
(4) アレグザンダーの可能性と限界 終.人間工学から文化人間工学へ
序 . 人 間 と 人 工 環 境 の 相 互 作 用 の 多 面 性
人間の動物としての特異性は,生得的な生物装備だけによらず,種々の文化装置もふくめて,環 境に適応していることである。文化装置の基本的な要素としては,道具と記号があげられるだろ
う。刃物やハンマー,望遠鏡などの道具は,人間の生物的機能を拡張して,環境にはたらきかけ ることを可能にする。言葉や絵,数字などの記号は,コミュニケーションと認知の媒体となり,
世代をこえて発展する知識と問題解決能力の形成を可能にする。道具と記号を文化装置の基本的 な要素とすると,クレーンや計算機などの機械は,両者の複合物として位置づけられる%
道 具 , 記 号 , 機 械 と い っ た 人 工 物 が , 文 化 装 置 の 要 素 と な り , 人 間 の 集 団 と こ れ ら の 複 合 が 人 間の環境への適応能力のフロントを形成する。 この適応は集団的なので, われわれは, 台 所 用 1)一般には,機械は道具に動力が付加されたものとかんがえられている。しかし,動力の付加は,歯車や 電気配線などの内部機構の付加をともなう。そして,エネルギー論的観点からではなく,人間とのかか わりという観点からは,内部機構の付加のほうが重要である。なぜなら,内部機構の付加は,外からは 直接的に把握できない内部状態と,内部状態や作業状態の表示記号とスウィッチ, レバーなどの操作記 号をもたらすからである。これによって,道具による作業と機械による作業は,まった<性質のことな ったものになる。たとえば,ハンマーで釘をうつばあい,手のうつ動作はハンマーをつうじてそのまま 釘にったえられ,釘の状態も直接に把握される。これにたいし,釘打ち機をつかう場合,スウィッチを おす動作と釘打ち機から釘への打撃には直接的な関係はなく,スウィッチとこれをおす動作は釘打ちの 作業にたいし一種の任意的な記号となっている。釘打ち機の場合,釘の状態は通常は直接に把握される が,場合によっては,きちっと打ち込めたかどうか,機械の状態表示の記号による場合もある。このよ うに,ひとことに機械といっても,電気鉛筆けずりのように動作だけが記号化されている場合やビデオ デッキのように動作も状態のモニターも記号化されている場合など,記号化の程度と記号の種類はさま ざまだが
(Rasmussen 1 9 8 6 ) ,
機械を, 人間と系をなして対象にはたらきかけるという点で道具と共 通で(Herig1 9 3 4 ,
雨宮19 8 8 ) ,
これに,動力と内部機構,人間にとっては記号が加わった,道具と記 号の複合物として位置づけることができるだろう。‑ 44‑
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
具,文具,新聞記事,時刻表,天気図,ビデオ,自動車などに接し,これらをつかいこなす必要 にはせまられるが,ふつうは,大工道具や手術道具を手にすることなく,また,電車のダイアグ ラムや機械の図面,発電プラントや工場の機械群などに,頭をなやますこともない。人間の集団 に専門家が存在する度合いにおうじて,日常的に接する人工物と専門的に接する人工物はことな る。道具や機械の場合には極端にことなるし,記号についてもかなりことなる。
人間は, 道具, 記号, 機械といった人工物を媒介として, 集団的に適応能力を形成している が , 同 時 に 環 境 自 体 も 人 工 的 に つ く り か え て い る 丸 環 境 を つ く り か え る と い う 点 で は , 蟻 や 蜂 などの昆虫の巣,鳥の巣, ビーバーのダムなど,他の動物でも,つくりかえた環境を拠点に生活 している場合は多いし, なかにはずいぶん巧妙な例もある(ルドフスキー
1 9 7 7 ,
長谷川1 9 8 1 )
。 しかし,他の動物の建築活動が遣伝的にきめられた定型的で局所的なものなのにたいし,人間の 建築活動は時代と地域でかわる多種多様なものであり,また,住居から都市,地域の景銀と,地 球の表面をつくりかえるほどの広範囲にわたっている丸建築家や都市計画家,土木技師などは,人工環境を形成する専門家である。しかし,これらの 専門家は,人工環境を形成するための記号,道具,機械をつかいこなす専門家であって,人工環 境と接する専門家ではない。住居,街路,公共建築,ハイウェイなど, 日常生活のなかで,だれ もが人工環境に接する。人工環境の経験では専門家としろうとの区別はない。(工場や潜水艦,
飛行機のコックビットなどの人工環境は,専門家だけの経験する場だろうが,これは,そこで使 用される機械や記号,道具に由来する専門性である。)
ひとりひとりの人間についてみると,人間と人工物との相互作用において,人工環境との相互 作用は,記号,道具,機械などとの相互作用にくらべて,より基盤的なのかもしれない。道具,
機械などとの相互作用は,そのひとの生物的装備と一体になって,何ができるかの能力の上限を 規定するが,素手でできることも相当おおい。記号は脳という生物装備に内部化され,人間の行 動自体を変容してしまっている度合いがつよいが,乳児や失語症のひとをかんがえてみればわか
2)人工物を人間とのかかわりから分類すると,椅子,寝具や住居などの環境系の人工物,道具や機械など
の操作系の人工物,言語や絵などの記号系の人工物の三つの系統に大別される。環境系の人工物は,自 然環境にかわって人工的に環境を形成する。操作系の人工物は,人間と系をなし,人間の生物的機能を こえてある作業をすることを可能にする。記号系の人工物は, コミュニケーションと認知の乗り物にな る(雨宮1 9 9 0 a ,b )
。この人工物の三系統は, 環境デザイン,プロダクトデザイン,記号デザインとい ぅ,デザインの三領域にほぼ対応する。3)人間のかかわる環境が,おおかれすくなかれ,人間によって手をくわえられているという事実をふまえ
て, 本論文では, 人工環境という言葉をひろいややルーズな意味でもちいる。(都市だけが人工ではな い。 よく自然の風最といわれる田園風景なども, 自然のいとなみと人間のいとなみとの共同産物であ る。 また, 今日では, 自然のままにのこされている環境も, あえて人工の手をくわえないという意味 で, 人工環境の枠のなかにあるともいえるだろう。)また, 本論文の主題は人間と人工環境の関係であり
, 環境における純粋に物理的な物質とエネルギーのながれや他の生物種との関係などの生態学的問 題,環境にかかわる経済的問題などは,直接にはあつかわない。
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関西大学『社会学部紀要』第25巻第3号
るように,人間の活動には言葉や絵などの記号なしにとらえられる側面もすくなくはない。これ にたいし,人工環境は,道具,機械,記号のような生物装備の拡張や付加ではなく,自然環境の うえにかさなって,人間の活動そのものを規定している。
たとえば,毎日の生活をかんがえてみよう。ベッドでめざめる。洗面所で顔をあらい,歯をみ がく。 トイレで用をたす。台所で食事をとる。マンションの階段をおりる。通勤路をある<。電 車にのる。オフィス街をある<。廊下で同僚と顔をあわす。事務室で書類を作成し,電話をかけ る。食堂で食事をする。映画館にいく。等々。これらは,ベッド, 洗面所, トイレ, 台所, 階 段,通動路,電車,オフィス街,廊下,食堂,映画館といった,特定の人工環境とむすびついた 活動である。ここであげた活動のうち,みづくろいや食事,仕事など以外の活動はとくに道具や 機械を必要としないし,記号的意識が介入しない活動の側面もだいぶあるだろう。
ひとにより,また,地域や時代で人間の活動バターンはことなる。これにおうじて,活動の場 となる人工環境もことなってくる。人間の活動がある種の人工環境を要求するのだが,もう一方 では,人工環境が人間の活動を規定するともいえる。人間の活動と人工環境は,わかちがたくむ すびついている。
アメリカの建築家で人工環境デザインの方法論者,クリストファー・アレグザンダーはこうい っている。
「ある町の典型的な要素をちょっと列記するだけで,そこの住民の生き方が分かる。
ロサンゼルスで思いつくのは高速道路, ドライプイン,郊外,空港,ガソリンスクンド,ショ ッビングセンクー,プール,ハンバーグ屋,駐車場,海岸,広告看板,スーパー,一家族用の独 立住宅,前庭, 交通信号……。 ヨーロッパの中世都市で思い浮かべるのは教会, 市場, 町の広 湯町にめぐらされた城壁,曲がり<ねった狭い街路や小路,壁つづきの長屋,大家族住宅,屋 上,路地,かじ屋,居酒屋……。
いずれの場合も,ただ要素を列記したにすぎないが,強力なイメージを喚起する。各要素とも 単なる用済みの建築や建物ではなく,それにまつわるあらゆる生活を連想させる。各要素の名称 を見るだけで,そこでの人びとの行動,これらの要素をもつ環境での人びとの生活が想像できる
し,想起できるのである。」 ( A l e x a n d e r , C . 1 9 7 9 p p . 6 0 ‑ 6 1 ) 人間と道具や記号,機械との相互作用による活動は,他の動物には萌芽的にしか存在しない,
人工物によって媒介された高次の活動だけにおもにかかわる。これにたいし,人間と人工環境の 相互作用による活動は,他の動物と同じレベルのなわばり行動から環境の象徴的意味づけまで,
よりひろい範囲のレベルにわたる。そして,アレグザンダーの言うように,環境をデザインする ことは,活動をデザインすることにもなる 4) 。 したがって,環境デザインのためには,人間と環 境の相互作用と人間活動の多面性をふまえなくてはならない。
ここで,人工環境と人間のかかわりの多面性をみるために,フランスのジャパノロジストで人文 地理学者のオギュスタン・ベルクの「都市のコスモロジー」(オギュスクン・ベルク 1 9 9 3 ) で展開さ
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人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
れている議論にそくして,都市の意味がなにから構成されるかをかんがえてみることにしよう。
南こうせつとかぐや姫による
1 9 7 3
年のヒット曲「神田川」をしっているだろうか。「あなたは もう忘れたかしら(……)/窓の下には神田川/三畳ー間のちいさな下宿(……)/若かったあの頃/何 も怖くはなかった」という曲である。この曲で,6 0
年代の東京の青春を祐彿とさせるひともいる だろう。神田川,下宿,風呂屋,こうした6 0
年代の東京の舞台装置のなかで,学生運動やフォー クソングなどといったある歴史の時期が,青春という人生の時期とともに呼び覚まされる。ここ での想起は,個人的なものであるとともに,集団的なものでもある。6 0
年代のなんらかの記憶を もっているひともいるだろうが,想起はメディアによる表象の網の目をつうじた集団的な側面を ももっており,6 0
年代をまったく経験したことのないひとが,想起するということもありうる。また,神田川,下宿,風呂屋といった舞台装置は,物質的存在であると同時に,特定の精神的な 内容をたくする媒体でもある。さらに,神田川は,下宿,風呂屋といった人工にたいしては,自 然にちかいだろうが,もともと江戸時代につくられた人工の運河であり,そうした歴史的由来を しらないにしても,歴史をつうじて形成されてきた種々の集団的表象をつなぎとめる場となって きており,「神田川」の曲もそうした表象として,神田川の意味にくみこまれていくだろう。
以上のように, 「神田川」という曲をつうじてうかがえる都市の意味は, 個人的なものと集団 的なもの,物質的なものと精神的なもの,感覚的なものと理性的なもの,現在と過去,自然的な ものと文化的なもの,などといったさまざまな極の間にまたがって存在する。これらの極のどち らかに限定してしまったら,都市の意味をとりにがすことになる。
4)
もちろん,これは環境が活動を決定するという単純な環境決定論などではない。環境なしの活動がない ように,活動なしの環境もなく,両者が相互規定,あるいは相互浸透しているというにすぎない。本文 中の引用の箇所につづいて, アレグザンダーはこういっている。「これは, 空間が出来事を作り出した り,出来事の原因が空間だという意味ではない。たとえば,現代の町でいえば,コンクリート歩道とい う空間のパタンが,そこでの人間行動を「生起する」訳ではない。実際はもっと込み入っている。歩道 にいる人間は,あくまで自分の文化の枠内でその空間を歩道と認識し,文化の一部として歩道のパタン を記憶する。この記憶されたパタンが行動を生起するのであって,コンクリートや壁や縁石の純粋な空 間的局面が原因となる訳ではないのである。当然,これは文化が異なれば,歩道に対する見方も異なる ということである。つまり,ことなるパタンを記憶していれば,結果として歩道で異なる行動をとるこ とになる。たとえば,ニューヨークの歩道はおもに歩いたり,人を押し分けたり,敏速に移動するため の場所である。ところがジャマイカやインドの歩道は,おもに座り込んだり,話し込んだり,場合によ っては音楽を奏でたり,おまけに眠ったりする場所である。この二つの歩道を同一物と解釈するのは正 しくないのである。それは, 空間とそこでの出来事のパタンは分離できないという意味にしかすぎな い。それぞれの歩道は単一のシステムであり,そのシステムには,コンクリートの形状を定義する幾何 学的な関係の領域と同時に,それに関わる人間活動と出来事の領域が含まれている。したがって,ボン ペイの歩道の用途が睡眠や駐車であり,ニューヨークのそれが歩行のみだと分かれば……用途の異なる 二つを単一の歩道パタンとして解釈するわけにはいかなくなる。ボンペイの歩道(空間+出来事)は一 つのパタンであり,ニューヨークの歩道(空間+出来事)はもう一つのパタンである。つまり,この二 つはまったく別のパタンである。」( A l e x a n d e r ,C . 1 9 7 9 , p . 6 1 )
‑ 4 7 ‑
関西大学「社会学部紀要』第25巻第3号
たとえば,記号論における都市論は,都市の物質的側面を無視するというあやまりをおかして いる。以下,すこしながくなるが,ベルクの批判をひいてみよう。
「記号論は本質的にテキストの研究から派生した学問分野であり,意味の問題をテキストの実 践の産物であるメカニズムに還元してしまう傾向があった。だからこそ7 0 年代には, 「都市はテ キストである」と言い切ったり,都市についての「グラマトロジー」を語ったりすることができ たのである。
ところでテキストが都市でないように,都市はテキストではない。そして都市の意味が形成さ れるのは,都市固有のやり方に基づいてのことであり,テキストのやりかたで形成されるのでは ない。テキストにおいては,蝉はわれわれの眼が読み取る単語を通じてしか鳴かないが,お茶の 水では,われわれの耳のなかで,物理的に空気と鼓膜を震動させて鳴くのである。同様に聖橋を 写真で見るのと,真夏の午後,昌平坂を上りながら橋の影を肌で感じるのは,異なった別のもの である。こうしたことは,おそらく,テクストによって,あるいはイメージによって「表象」できる。
しかし都市においては,それらはまず何よりも「現存」しているのである。テクストは,紙と インクの貧弱な現存を別にすると, 表象にすぎない。一方で都市, これは現存という性格を備 ぇ,かつ無限に豊かなヴァラエティーを持っている。そしてこれに,都市を現存させるすべての
もの一ー事物,人々,記号……一の限りなく豊富で多様な表象が結び付いている。
都市の意味は,こうした現存と表象のすべてで形成されている。昌平坂という場所の意味は,
われわれが心身ともに浸っている現存(たとえば夏にこの坂を上って,汗をかくこと)であると 同時に,その現存によって喚起されるすべての表象であり,両者は分かち難く結び付いている。
儒教に親しんでいる者ならば, たとえば湯島聖堂の塀に沿って歩きながら, 「昌平」という地名 が孔子の生まれた魯の国の昌平郷にちなむ「見立て」であることを思い起こすかもしれない。そ しておそらく古代中国に思いを馳せると,湯島聖堂の塀の夏の太陽の照り返しは,よりしのぎや すくなるかもしれない……。このように現存と表象は,場合に応じてお互いに強めあったり弱め あったりしてして,たえず干渉しあうのである。」(オギュスクン・ベルク 1 9 9 3 p p . 2 1 ‑ 2 2 )
記号論とはちょうど反対に,技術主導の都市計画やモダニズムの都市計画・建築は,都市の物 質的・現存的側面のみをみて,精神的・歴史的側面を無視するというあやまりをおかしている。
「ヴェネチィアのような博物館=都市が魅力を持つのは,その形態が真の歴史を持っていて,
そこにはまさに都市性が,すなわち単なる物質的な形態を超える何かが備わっているからにほか ならない。物質的な形態は,それだけでは単なるオプジェにすぎない。一方,都市性とは,何ら かの意味(おもむき)にしたがって,そのような形態を主体に結び付ける関係である。そしてこ の意味はオプジェのように作り出せるものではない。それなのに二十世紀において,わたしたち の社会は急速な都市化にともなう需要に応じるべく,都市の形態を大量生産方式で,オプジェと して生産する必要に迫られている。現代都市の都市性の喪失は,主としてそのような事態の結果 とかんがえられるのである。
‑48‑
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
ひとことで言えば,都市性は,自動車を製造するように作れるものではないということである。
技術を制御するようには,都市を制御することはできない。ところが都市性は技術と無縁ではな い。管理するには,植木鉢で植物をそだてるのにやや似たノウハウが要求される。そして各々の 植物にはそれに応じた世話が必要とされるのと同様に,都市性は各々の場合に固有のやり方で管 理する必要がある。その際.都市の人間と事物を結び付ける関係の,微妙な.たえず変化するバ ランスを保つのが重要であることは言うまでもない。」(オギュスタン・ベルク 1 9 9 3p p . 2 6 ‑ 2 7 ) この技術主導の都市計画やモダニズムの都市計画・建築のあやまりは,記号論における都市論 のあやまりにくらべて,深刻である。なぜなら,こちらのあやまりは,記号論における都市論の あやまりのように,無益な知的遊戯として無視できず.実際の建築活動をつうじて現実の都市の ありかたに直結しているからである。
都市の意味ということで.ベルクの議論は,やや表象にかたよっているかもしれない。また.
議論を伝統的なフランス哲学の二項図式とその止揚に集約してしまうようなところも気になる。
(ベルクの環境論の批判的検討は, 3 . の環境の意味と解釈でおこなう。)しかし.ベルクの都市の 意味についての議論は.都市の意味が,都市にかかわる人間経験の多様な側面とそれらの相互関 係によることはしめしており,これは,都市だけではなく,住居などをふくむ人工環境一般が人 間にとってもつ意味にもそのまま拡張できるだろう。
以上のように,人間と人工環境の相互作用の問題が,少々やっかいでおもしろいのは,この相 互作用では人間特性の基本的なレベルから高次なレベルまでが関係し,生活のありかたのデザイ
ンや解釈とうらはらの関係にあり,また,人工環境の意味が単一のレベルの相互作用に還元でき ないからである。人工環境は,低次から高次までの人間特性と多面的な活動がまじわり.これら が,つなぎとめられる場となっており.ここから人工環境の意味が発生する。
人間と人工環境の相互作用については,心理学,人間工学,建築学,都市計画,土木工学,地 理学,哲学,記号論.など.さまざまな分野で, 1 9 6 0 年代以降,膨大な研究と出版がなされ,人 間と人工環境の相互作用の理解の基礎となる知識を提供してきている。しかし,人間と人工環境 のかかわりの問題の核心が,単一のレベルの相互作用に還元できないとしたら,専門化され.細 分化された現在の研究のありかたでは,人工環境の問題を十分にとらえられないところもでてく る。これは.実証的な論文の蓄積により知識の発展をはかる通常科学の体裁にたいするこだわり のつよい,心理学や人間工学における環境研究においては,とくにいえるような気がする。これ にたいし,建築学,都市計画,土木工学,地理学のなかには,人間と環境のかかわりについて.
より包括的な接近をおこなう研究者もいる。(筆者の専門が, 心理学と人間工学なので. あまり なじみのないこれらの領域の知識に興味をもってしまうという,バイアスもあるのかもしれない が 。 )
おそら<. 人間の知のいとなみの性質上,人間と人工環境のかかわりのような,多面的で複雑
な問題.各要素がネットワーク的に重合して関連して形成される問題,をそのままに把握するこ
関西大学『社会学部紀要』第25巻第 3号
とはできないのだろう。(この問題にもっとも自覚的にとりくんで, 環境デザインの方法論を確 立したのが, アレグザンダーである。)どこかに知識を集約するように方向づけないと, 論文や 本としての知識の表現はとりとめなくなってしまうし,探求も発散してしまう。
どこに知識を集約するかは,どんな研究の方法をとるかと関連していて,相互に制約しあって いる。そこで,とりあえず,どこに知識を集約するかで,人間と人工環境のかかわりにかんする 種々の接近を位置づけることができる。このために,非常に図式的になるが,物理,心理,文化 の三要素
5 )
とその相互関連のどこに知識を集約しようとするかで,人間と人工環境のかかわりに かんする様々な接近を分類すると,図1‑1から図1‑4のようになる。図1‑1は,ゲシュタルト心理学や生態学的心理学,環境心理学などの心理学的接近である。こ れまで主流となってきた心理学的接近では,人間と環境の相互作用にかんして,物理的な刺激条 件にたいする心理的な反応の関数関係としての心理法則に集約しようとする傾向がつよい。実験 や調査の手法により,非常に精密な実証的研究がなされるが,環境は刺激条件としてのみとらえ られ,環境が人間によって形成されてきたものだという事実は,視野の外におかれがちである。
5)
これは,ボパーによる, 物質の世界I ,
心の世界1 1 ,
文化の世界I l I
の, 三世界論におおよそ対応する( P o p p e r , 1 9 7 6 )
。ここで,人間の身体そのものは,物質あるいは物理のレベルになる。また,ボパーの かんがえでは,物質と文化は心をつうじてのみ相互作用し,直接には相互作用しないが,ここでは,哲 学的な存在論ではなく,知識のあつかいかたを問題としているので,心理のしくに言及せずに,物質の 形態から文化差をうんぬんするような場合,心理を経由せず,物理と文化の関連に焦点があてられたと かんがえる。人間と環境の相互作用の領域では,場所のアイデンテイティーにかんして, レルフがここでの物理,
心理,文化の三分類に,ややにたような厳論をしている。「ここで重要なのは,物質的要素,人間活動,
そして意味の三者が, どのような仕方でつねに関連しているかということである。メルロ=ボンティー が規定した物理的,活動的,心理的という行動の要素と同じく,それらは一つの共通した構造を形づく る一連の論理を構成しているのではないだろうか。物質的要素と人間活動とが互いに結びつくと,動物 でいえば「機能環」の中の地点にたとえられるようなものが生まれる。物質的要素と意味は, 自然景観 や都市景観の直接的で感情移入的な経験のなかで結びつく。また活動と意味は,物質的要素にはほとん ど関連しないたくさんの社会的行為や共通の歴史のなかで結びつく。これらの論理はみなある場所にお いて関連づけられ,その融合がその場所のアイデンテイティーを構成する。物質的要素,人間活動,そ して意味は,場所のアイデンテイティーの生きた材料であり,この三者間の論理的な結びつきが,すな わちアイデンテイティーの基本的な関係構造なのだ。」
( R e l p h ,1 9 7 6 , p . 8 7 )
いずれにせよ,人間が関連する問題をあっかうときには,ポパーが提唱しているような三つのレベル かそれに相当するようなレベルとそれらの間の関連をおさえることは,最低限,必要になってくるよう だ。
ここでの,物理,心理,文化の三分類は,人間と人工環境の相互作用の多面性をふまえ種々の研究を 位置づけるためのとりあえずのものであり,ボパーのような哲学的存在論ではなく,また, レルフのよ うな特定の問題を分析するための概念枠組みでもない。とくに,文化とはいったいなにか,心理や物理 とどう関係しているのか,意味とはどうちがうのかといった問題は,そう単純ではない。ここでとりあ えず文化とおいたものが,物理や心理との関連で,具体的にどのような内容をもっているかは,本論文 での議論をつうじてあきらかにしていきたいとおもう。
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
環境そのものの物理的構造やその文化とのかかわりについては,つっこんだ分析はなされない。
わたしの意見では,これは,相互作用の解明という点からみたとき,現在の心理学が不十分な点 である。一方,心理学ならではといえるのは図
1‑1の心理の部分の,動機づけや性格,認知スタ イルなど,人間と環境の相互作用において周辺的とみられる心理学要因が,人間と環境の相互作 用にどう影響するかの研究である。
図 1 ‑ 2 は,建築学,都市計画,土木工学,人間工学などの接近で,とりあえず建築学的接近と 総称しておくことにする。建築学的接近では, 具体的な建築物のデザインやそのための指針な ど,知見を物理的な回答に集約しようとする。このなかで,人間工学は直接にデザインにかかわ らず,人間特性との関連でのデザインの指針のみを提供する。このため,人間工学における研究 方法は,心理学とおなじく,実験,調査,測定にもとづくせまい意味で実証的なものである。身 体計測など身体と環境の適合にかんする物理的次元が研究の対象になるという点では,人間工学 は心理学とはことなるが,文化的要因がほとんど研究の範囲にはいってこないという点では共通 している。おそらくこれは,研究方法の制約によるものだろう。一方,具体的な建築物のデザイ ンにかかわる建築学,都市計画,土木工学などの領域では,人間と人工環境のかかわりにかんす る研究は,はるかに雑多である。規範理論の開陳や心理学や人間工学と同じような実証的研究な どのかたわらで,建築実践の結果の臨床的フィードバックやさまざまな地域や時代の人工環境の つっこんだ分析や解釈などもなされる。臨床的フィードバックや人工環境の分析・解釈のなかに は,きわめて質のたかい研究もあり,これらは,人工環境と文化,心理のかかわりにかんするわ
図
1‑1心理学的接近 図
1‑2建築学的接近
図 1 ‑ 3 人文地理学的接近 図 1 ‑ 4 システム論的接近
関西大学「社会学部紀要」第
25巻第
3号れわれの知識をふかめてくれる。しかし,これらの研究では,知識の集約の焦点は,あくまで,
物理的な人工環境のデザインにおかれる。
図 1 ‑ 3 は,人文地理学における接近である。地理学はフンボルトの超学的な野心とともにうま れた分野で,人文地理学では,比較的スケールのおおきなところを中心に地表のすべての人工環 境と人間とのかかわりを理解しようとする。建築学的接近とことなり,地表をどうつくりかえる かといった実践的課題はもたず,もっぱら解釈に専念する。このため,人工環境の物理的形態に ついては建築学的接近より無頓着だし,心理法則についても心理学の精密さはもたずかなりアバ ウトだが,人間と人工環境のかかわりの文化的多様性は,ときに歴史的なそれもふくめて,視野 にはいってくる。とくに,最近のあたらしい傾向としては,現象学と人文地理学が結合し,人間 の環境経験における場所性や風土の問題が,たんなる哲学的思弁としてではなく,地理的,歴史 的多様性の認識をふまえて,探求されている。こうした,人文地理学と現象学,それに,現象学 とはやや対立するところのある記号論における環境研究を,図 1 ‑ 3 の接近にふくめることができ るだろう。
図 1 ‑ 4 は,カリフォルニアの環境構造センクーの,クリストファー・アレグザンダーの接近で ある。アレグザンダーは,都市デザインから,住居の建築まで,人工環境デザインの領域におい て,これまでのところ,もっとも明晰で包括的な理論を提供している 6 ) 。 アレグザンダーは実際 に , いくつもの建築プロジェクトにかかわっているので,建築物の物理的側面にはつよい。 ま た,人間と人工環境のかかわりについて,心理学的な根拠を,デザインの問題に関連づける手腕 も見事である。文化的側面については,近代建築への嫌悪のあまりか,これと伝統的建築のコン トラストをつよく意識しすぎて,また,実践家という立場からか,伝統的な人工環境における文 化的多様性の把握は不十分なようにおもえる。アレグザンダーの広範な著作が首尾一貫した印象 をあたえるのは,これらが,つねにデザイン方法論に集約されているからだろう。アレグザンダ ーにおいては,心理学や文化の知識は人工環境デザインの方法にどう寄与するかという点からの み収集される。また,建築実践も人工環境デザインの方法をためす場としているきらいがある。
以下,本論文では,おもに,心理学的接近における諸研究を対象に,人間と人工環境の相互作 用における物理的側面と心理的側面の関係にかんする研究の成果を検討する。そして,これに文 化的側面がどのように関係しうるのかを議論する。次回以降の論文では,本論文で把握した人間 と人工環境の相互作用の多面性をふまえ,建築学的接近,人文地理学的接近,人工環境デザイン
6) アレグザンダーの理論的スタンスには,フランスの人類学者レヴィ・ストロースとおなじく,イギリス
の生物学者ダーシー・トンプソンによる「成長と形について」にインスパイアされた, 自然の自生的秩
序をめでる構造主義者というところがある。こういう理論的スタンスを,理屈っぽすぎるとか,人間に
おける生物と文化の基本的断絶に気づいていない調和志向だとか,批判するひともいる。しかし,筆者
のスタンスにもこれにちかいところがあるので(雨宮, 1 9 8 7 ) , 筆者のアレグザンダー評価は, あまく
なりがちかもしれない。
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
の方法論を順に検討する。ここでは,人間と人工環境の相互作用における文化的側面の問題,人 工環境の意味の解釈とデザインの問題が,より具体的に議論されるだろう。著者自身の接近が,
どこに知識を集約しようとし,どんな方法論をもちいるようとするかについては,一連の論文の 最後でのぺる。
1. 心理学的接近
人間と空間の関係を基本的なところからかんがえると,まず,感覚・運動的に把握される空間 の側面と対人的な相互作用の場としての空間の側面のふたつが区別できる 。
感覚・運動的に把握される空間の側面は,さらに二次元対象としての絵画的空間,三次元対象 としての彫刻的空間, それに, 三次元のかこむ空間としての建築的空間に分類することができ る。 これらはそれぞれ, イギリスの建築家エルノ・ゴールドフィンガーのいう, 絵画的, 彫 塑
絵 画 的
•2 次元(平坦)
●静的
●外部から意識的に 認識される
彫 塑 的
•3 次元(凸状)
●実体映像的
0
外部から意識的に 認識される空 間 的
•3 次元(凹状)
●運動的
0
内部から潜在; r t
.識的 に認識される図
2
感覚。運動的空間の三分類7)感覚・運動的相互作用環と社会的相互作用環の二種類の基本的相互作用ではさむことが,人間にとって
のリアリティーの基盤であることを,ここで確認しておきたい。空間が人間にとって基本的なのは,空 間が感覚・運動的相互作用環によって形成され,社会的相互作用環の場となるように,空間において,人間の二種類の基本的相互作用が接合されているからである。(電子メディアなどによる社会的相互作 用も,仮想的な空間性を前提するものに発展する傾向があるのは,人間のリアリティーにおける空間の 基本性をしめすものだろう。)言語の意味作用は,
J o i n t A t t e n t i o n ( T o m a s e l l o , M. 1 9 8 8 )
や感覚・運動図式の投射
( J o h n s o n ,M. 1 9 8 8 )
に, また, 道具使用は感覚・運動的相互作用環の媒介的延長に(雨宮,
1 9 8 8 ) ,
それぞれ基盤をもつので,言語や道具などの関係するより高次な相互作用は,二種類の 基本的相互作用の延長上に位置づけることができる。この延長のモメントとなるのが大脳左右半球の分 化がもたらした, 左半球による生成性と右半球の文脈把握である( C o o k ,N . D . 1 9 8 0 , C o r b a l l i s , M.
C . 1 9 9 1 )
。なお,本論文で適当につかいわけてつかっている,空間,環境,場所などの言葉の意味とつ かいかたについては,3 .
の環境の現象学的研究のところで検討することにする。‑ 5 3 ‑
関西大学『社会学部紀要』第
2 5
巻第3
号的,空間的の三種類の空間に相当する(小林 1 9 9 1 ) 。
1 9 2 0 年代以来, ゲシュタルト心理学が, おもな研究対象としてきたのは対象としての二次元 的,三次元的空間だった。「どれほど雑な人間でも, 自分では気づかないが, 少なくとも秩序を 愛する眼だけはもっている。」 ( M e t z g e r ,W. 1 9 5 3 . p . 5 4 ) という,メッツガーの言葉に端的に しめされるように,ゲシュタルト心理学者達は,人間の眼がとらえる空間の秩序を,対象として の空間について解明する基礎を築いた。 ゲシュタルト心理学者達が刺激場と P e r c e p t の細心な 吟味にもとづく実験現象学的方法によってあきらかにした,図と地や,形態や運動知覚における 場のダイナミズムなどは,今日の知覚研究の出発点となるものだった。しかし,ゲシュタルト心 理学者達が理論的な背景とした電磁気学における場の理論は,今日の情報処理モデルの前段階の 比喩にとどまっている。部分の総和をこえた全体的な形態質や心理物理同型論など,秩序の直感 としては魅力的なところがあるが,説明理論としてかんがえれば,「主観主義の霧の中へ消えてい った」 ( M a r r ,D . 1 9 8 2 . p . 8 ) といわれてもしかたない。結局,ゲシュタルト心理学における知 覚研究は,その実験現象学的方法は現在の知覚心理学に継承され,その説明理論にかんしては,
マーに代表されるような今日の計算論的な知覚理論の前段階ということになるだろう。しかし,
ゲシュクルト心理学には,機械論的に説明できない形態質,よい形態の法則,心理物理同型論な ど,たんなるパターン認知理論というのをこえた秩序への感覚,ある種の過剰さがあって,秩序 感覚にかんする将来の研究の出発点として,今日でも参照されるべき価値をもっているとおもう。
ゲシュクルト心理学は,その絵画的,彫刻的秩序指向のゆえか,バウハウスなどの近代主義的 な建築・運動にも影響をあたえている 8) 。 2 . でよりくわしくのべるが,ゲシュタルト心理学の影 響をうけた,近代建築や都市が,絵画的,彫刻的には見事かもしれなくとも,人間のすむ場所と しては適していなかったのは, なにも, ゲシュタルト心理学のせいというわけではないけれど も,ゲシュクルト心理学の学問的な制約と符合するなりゆきではあったといえるかもしれない。
観察者をかこむ空間が,移動する観察者との関連で研究されるようになったのは,ギプソンに よる生態学的接近いらいのことである ( G i b s o n , J . J . 1 9 5 0 , 1 9 6 6 , 1 9 7 9 ) 。ギプソンが開始した 人間と空間のかかわりへの生態学的接近は,現在も発展中の運動である(ギプソンとその影響下 8) バウハウスは, 1 9 2 7 年にワルター・グロヒ°ウスによって創設された。教授陣には,パウル・クレーやジ ョセフ・アルバースなどの画家もいた。これらの画家は,ゲシュタルト心理学に自分たちの美学の正当 化の根拠をみいだし,また,ゲシュタルト心理学によって影響をうけた。ゲシュタルト心理学の影響を うけた,視覚言語などのバウハウスのカリキュラムは,ナチズムによるバウハウスの教師たちの亡命も あって,合衆国をはじめとして,世界各国の建築教育に影響をあたえることになった。 ( L a n g , J . 1 9 8 7 ,
p p . 3 3 ‑ 3 4 . )近代建築のもう一方の中心人物, ル・コルビジェは, レジェなどに影響をうけた画家・彫 刻家でもあり,自分の創造性の中心を絵画にあるとのべていた(多木・八束, 1 9 8 8 , p p . 1 8 ‑ 2 8 ) 。彼の 建築が住むための家というより彫刻,彼の計画した都市が生活の場というよりキリコ風の彫刻の森みた いなものになったのも,彼の興味の中心が絵画的,彫刻的な対象としての空間にあり,行動や社会関係 の場としての空間の側面を軽視していたことによるのだろう。この意味で,ル・コルビジェもゲシュタ ルト心理学の影響をうけたバウ・ハウスとおなじかたよりのもとにあったといえる。
‑ 54‑
人間と人工環境の相互作用の諸側面(1)(雨宮)
にある研究者たちをギプソン学派と総称することにする)。最初は空間知覚のみを研究対象とし ていたが,現在は,運動制御や認知などへも研究領域を拡張しつつある。
ギプソン学派による生態学的接近の基本的特徴として,表面主義 ( S u r f a c i s m ) と相互作用主 義をあげることができるだろう。
表面主義というのは,わたしの命名だが,空間知覚などの研究において面とその配置にあくま でこだわろうとする姿勢である。(わたしの印象では, ここには, ギプソンが航空機における空 間知覚の問題にとりくんで空間知覚のグラウンド理論におもいいたったことや,芝居を趣味とし てやってきてレイアウトや表現などの表面に注意がいきがちだった,などの個人的なバイアスが はたらいているようなきがする(辻 1 9 7 2 , R e e d , E . S . 1 9 8 8 ) 。明確に銀察できる表面が提供して いる情報にこだわることは,空間知覚だけではなく,運動制御や認知などの研究においても,ギ プソン学派の目印となっている。これは,これまでのところ認知心理学において主流となってき ている表象主義にたいするアンチテーゼとして,ギプソン学派の独自な貢献を可能にしている方 法論的な立場である(雨宮 1 9 8 9 ) 。
しかし,ギプソンは,内的過程への言及にすら抵抗し,情報は処理するのではなくビック・アッ プするだけだとか,この表面主義を研究の方法論的な立場としてではなく,心理学理論として主 張してしまう。わたしのかんがえでは,マーが指摘するように,ギプソンは計算論的課題の定式 化というマーのとなえる計算理論の最初のレベルの研究にみずから寄与していながら,その課題 をどう解くかという情報処理と計算の問題を理解できなかったのだとおもう ( M a r r , D . 1 9 8 2 ) 。 ギプソンのいう,高次の不変項のビックアップという言葉だけでは,説明にはならない。ギプソ ンの時代のコンビュータ・ビジョンの研究は,なにが刺激となるか,計算論的課題が何であるの かについて,おそろしく粗雑だったのはたしかで,ギプソンの研究は,その洗練に貢献した。し かし,ギプソンは,マーのいう第ニレベルの計算のソフトウェア的手順と第三レベルのハードウ ェア的実装をごっちゃにして,あとのはなしは心理学には関係ないとかんがえたのだろうか。い ずれにせよ,計算論との関係で,洗練されたおおくの知覚実験がなされつつある現在では,ギプ
ソンの主張の誤りは明白だとおもう。
ギブソンの後継者達も,ニューラル・ネットワークは心理学研究には関係ないだとか ( M e i j e r ,
0 , G . and R o t h , K . 1 9 8 7 における Reed の発言),パターン認知はともかくレイアウト知覚は
直接的であやまらず計算によっているのではないだとか ( N e i s s e r , U . 1 9 9 1 ) , などなど, ギプ
ソンの過激な主張を継承している。たしかに, ナイサーのいうように ( N e i s s e r , U . 1 9 9 1 ) ,
マー自身の研究は,静止した観察者からの対象のパターン認知にとどまり,移動する観察者によ
るレイアウト知覚はあつかっていない。しかし,これは計算論的アプローチそのものの限界では
ない。アービップなどは移動する観察者によるレイアウト知覚の問題を計算論的に研究している
( A r b i b , M. 1 9 8 9 における MATCH ァルゴリズム)。だから,計算論的アプローチにはこれが
できないとか拒否しようとしたり,内的過程を無視しようとしたりするのは(ギプソン学派の人
関西大学『社会学部紀要』第25巻第3号
はなぜかこうしたところまで, ギプソンに操をたてたいみたいなのだが),内的過程をかっこに いれるというギプソン学派の方法論的な立場自体の有効性はあきらかなのだから,無益なことだ ろうとおもう。
ギプソン学派の相互作用主義は, 移動する観察者と包囲光配列の O p t i c a lFlow P a t t e r n , ア クティプタッチにおける探索,アフォーダンス ( A f f o r d a n c e ) , など, 有機体と環境のダイナミ ックな相互関連をとらえるための概念にあらわれている。これが,ギプソン学派の方法論的表面 主義とあいまって, あいまいになりがちな相互作用解明のための重要な手がかりを提供してい る。しかし,有機体と環境の相互作用を十分に解明するためには,有機体内部の過程についての なんらかの言及も必要となる。それをさけているため,キプソンによるアフォーダンス議論には,
おもしろい観察や洞察もおおいが, ところどころ禅問答みたいになってしまっている ( G i b s o n ,
J , J . 1 9 7 9 , 1 9 8 2 ) 。図式という,有機体内部の過程をもとりこんで,相互作用主義のモデルを提 出したのが,ナイサーによる知覚循環説である ( N e i s s e r , U . 1 9 7 6 ) 。 これは, 相互作用をモデ ル化するための重要なこころみであるが,ギプソン学派の表面主義と抵触するところがあるため か,その後ほとんど発展させられていない。わたしのかんがえでは,相互作用モデルの発展は心 理学に文化の問題を内在的に位置づけることにつながり,心理学の将来のために重要である。以 下 ,
1.では,相互作用モデルの発展のために,若干のスケッチをおこなおうと思う。
ギプソン学派の仕事は,ゲシュクルト心理学とはことなって,まだ,建築やデザインに直接の 影響をあたえていない。しかし,その可能性はおおきいだろう。ギプソン自身が,おそらく過去 のゲシュタルト心理学による近代建築への影響を意識しながら,ギプソン学派の仕事が,建築や デザインにたいしてもつだろう意義を指摘している。
「ここにデザインの新しい理論の可能性がある。われわれは環境の中の面と物質を加工して,
それらがアフォードするものを変える。よい形そのもの・抽象的な形・数学的に優雅な形・審美 的に快い形をつくるためではない。………建築家は自分のデザインする配置の中での移動と行動 のアフォーダンスに注意を向ける必要がある。建物の中で方向がわかるというのは,自分の欲し いものをどこに行けば手に入れられるかを知っていることである。このことは街においても迷路 においても同じである。人は自分のめざす面が, 最終的な展望 ( V i s t a ) の中に含まれるまで次 々と展望を拡げなければならない。近代建築の中では,このアフォーダンスの知覚が必要以上に むずかしくされている。建築家が訓練の初めに受ける「基本的デザイン」の課程は間違っている とわたしは思う。画家にとって「形」の理解が必要だと思われるのと同様に,建築家にとっても 必要だという仮定に基づいて,そこでは製図法が教えられる。しかしわたしの意見ではこれまで
「形」を理解した人はいない。この言葉の使用は混乱を招くだけだ。建築家に関係のあるのは面 の配置である。」 ( G i b s o n , J , J . 1 9 8 2 p p . 6 3 7 ‑ 6 3 8 . )
建築学の教科書では, すでにギブソン学派の仕事をとりいれつつあるものもある ( L a n g , J .
1 9 8 7 ) が,まだごく一部のようだ。ギプソン学派の仕事が建築やデザインにたいしてもつ潜在的
人間と人工環境の相互作用の器側面(1)(雨宮)
な意義と現実のずれの原因は,ひとつには,ギプソン学派の仕事が,まだ新しいからだろう。も うひとつの原因として,ギプソン学派の心理学者の研究が基礎的すぎて,現実の建築やデザイン の仕事との距離がおおきすぎるという事情もあるだろう。この点で樋口
( 1 9 7 5 )
などの景観工学 の研究者達の仕事は,ギプソン学派の分析的な枠組みも援用しながら,実際のデザインの問題に アプローチしたものとして興味ふかい。移動する観察者との関係での環境の面の配列の分析とい っても,実際の都市や景観などの構造は,かなり複雑で,その分析のためにはときに歴史的な知 見の補助線も必要になる。心理学者の天瀬( 1 9 9 4 )
は,認知地図研究において,環境のいれこ構 造の分析の必要を指摘しているが,ある部分これにこたえるような知見は景観工学や都市デザインの領域で蓄積されつつある。心理学者が基礎で,建築やデザインの研究者がそれを応用すると いうのではなく,たがいに,学びあうことが必要だろうとおもう。
環境心理学という研究領域は,公民権運動,ェコロジー運動,近代建築批判などの時代の知的 雰囲気を背景に
1 9 6 0
年代のアメリカで成立した(Sommer,
R. 19 8 7 )
。環境心理学の普及におお きな役割をはたした初期の論集( P r o s h a n s k y ,H,M. I t t e l s o n . W.H. and R i v l i n , L , G . 1 9 7 0 ,
日本語訳は197475
年)をみてみると,掲載されている論文は,心理学者の論文にまじって,人 類学者のホールによるプロクセミクスの論文や建築家のリンチの都市のイメージ論やアレグザン ダーのデザイン論,それに社会学者の論文など,心理学をこえて,かなりひろい範囲にわたって いる。本論文でみていくように,6 0
年代,7 0
年代ののちも,建築やデザインなどの領域では,こ の領域の研究は継承,発展されていくわけだが,これらは,今日の環境心理学の外にでてしまう ようだ。1 9 6 0
年代のリンチやホールなどの研究が言及されるにとどまる。また,1 9 7 0
年代後半以 降のギプソン学派の仕事も,環境心理学の研究領域には,関係がふかいはずだが,環境心理学で 言及されることはほとんどない9)
。9)
基本的には,1 9 6 0
年代に形成され,その後,社会心理学的な専門化がすすんだ環境心理学と,7 0
年代後 半以降に発展したギプソン学派がすれちがったということだろう。このすれちがいは,認知地図という ような,ギプソン学派と環境心理学の双方で研究がなされているテーマについてみてみると,両者のア プロ_チのちがいをしめしていておもしろい。ギプソン学派の心理学者は,内的な表象によって空間行 動を説明するというやりかたをさけて,実際の環境におけるヴィスタの連鎖や,それが潜在的な高次の 不変項として直接に特定している情報の役割を重視する。ときには,定位図式としての認知地図というかんがえ
( N e i s s e r ,U . 1 9 7 6 )
すら, 内的な過程への言及ということで批判される(天瀬,1 9 9 3 )
。こ れにたいし,環境心理学の心理学者は,あっさりと内的な表象としての認知地図を前提とし,それが,個人の場所への動機づけなどの個体変数によってどう影響をうけるかだとか,認知地図の各部分がどん な印象とむすびついているか,などを問題にする
( C a n t e r , D . 1 9 7 7 )
。両者のちがいは, 基本的には,矛盾というより,研究の焦点としているレベルのちがいだろう。ギブソン学派のほうが,より基本的な レベルの問題に焦点をあわせており,ギプツン学派の表面主義は,より単純な説明の可能性をもとめる という意味で有効だろう。しかし,結局のところ,水掛け論や無限後退の危険はあるにせよ,なんらか の内的な過程を考慮にいれることなしに人間の空間行動や空間認知を説明することはできない。一方,
内的な表象あるいは心理的な過程を自明とするアプローチは,現在の心理学における一方向的な関数主 義的な方法論とむすびつくと,これを目的変数として物象化してしまうことになりがちである。環境心