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マルクス剰余価値論に関する一考察

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(1)

マルクス剰余価値論に関する一考察

その他のタイトル Marx's Theory of Surplus Value

著者 杉原 四郎

雑誌名 關西大學經済論集

巻 2

号 3

ページ 24‑58

発行年 1952‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15856

(2)

女のように結論される︒ 章 ︶ に

お い

て ︑

6 5 ( 2 )  

マルクス経済学の﹁核心﹂であり﹁土台石﹂である剰余価値の理論は︑すでに﹃経済学・哲学草稿﹄︵一八四四年︶

(8 ) 

﹁疎外された努働﹂という表現で最初の理論的成形を得ているが︑それが完成したかたちで体系的に

展開されるのは︑いうまでもなく﹃資本論﹄においてであり︑とくにその第一巻︵初版一八六七年︶の第

1

一 篇

貨 幣

の資本への転化(第四章)•第三篇絶対的剰余価値の生産(第五ー九章)•第四篇相対的剰余価値の生産(第十ー十―――

( 4 )  

•第五篇絶対的および相対的剰余価値の生産(第十四ー十六章)の四篇は、剰余価値論そのものの「核心」乃

至﹁土台石﹂ともいわるべきものである

0

すなわち彎この部分は︑ G ー W ー

G ' ( G

+  . 6

. G ) という査中の一般的

範式の定立をもつてはじまり︑

i i (

) I

凜 m 旺讀麟声 I

1 1 i l i ( 5

丘 虹

m )

という剰余価値率の正しい

0 0 0  

範式の定立をもつておわるのであるが︑前者に関聯して現象的に︑△ G すなわち﹁最初の価値以上の超過分﹂に名

︑ ︑

. ︑

( 5 )

づけられた剰余価値という概念は、後者に関聯して「すべて剰余価値は、それが後にいたつて利澗•利子・地代・

0 0 0

︑︑︑︑︑︑︑,︑︑

0 6 )

等々の如何なる特殊的姿態に結晶しようとも︑実体的に見れば不払努働時間の物象化である﹂と規定され︑かくて

﹁資本の自己増殖の酪密なるものは︑これを解いて見れば︑資本が他人の或る一定分量の

マルクス剰餘債値論に闊する一考察

一 四

(3)

( 8 )  

ところで︑われわれは︑この資本主義の秘密を解明するマルクスの分析過程がそれによって行われているところ

の方法の独自の性格にまず注目しよう︒マルクスによれば︑経済的諸形態の分析に際しては︑﹁抽象力﹂が顕微鏡

( 9 )  

や化学的試薬にとつて代るのだが︑その場合つねに﹁主体が︑社会が︑前提としてつねに表象にうかべられていな

( 10 )  

ければならない﹂︒このことは︑

基礎をもつものであることを意味ずる

0

と こ

ろ で

﹁物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係﹂なのだが︑

は︑資本と賃努働との関係が生産様式の全性格を決定し︑資本家と賃努働者が﹁この生産様式そのものの主要代理

(11) 

者﹂となつている

0

資本ー賃努働という関係が︑ここでは︑他のすべての諸関係に順位と影響をあたえている﹁一 ︑︑︑︑︑︑︑ 般的照明﹂であるとともに︑一切の運動の根元である矛盾をはらんでいる基本的対立関係である︒﹁近代的社会の経

( 5 )   ( 6 )   ( 7 )  

( 4 )  

( 3 )  

( 1

マルクス剰余価値論に関する一考察︵杉原︶二五

マルクスの研究対象たる資本制生産様式で 一般に︑社会の﹁現実的な土台﹂を形成するのはその社会の

)

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

L7 )

不払努働を自由に処分するといふことである﹂

1番最後の文章である︒

F .   E n g e l s   " 

V o r w o r t   z u

z m  

w e i t e n   B a n d   v o n   , , d a s   K a p i t a l "

M   .   , E . ︐

L .  , 

I n s t i t u t

 

1 1  

A u

s g a Q

I   " 

s .  

4 "長谷部訳﹃賽本論﹄

︵甘 評版

5

1

=頁

(2))I ニン「マルクス主義の三つの源泉と一――つの構成部分」大塚訳『カール•マルク

k

』-―二頁

杉原﹁労働の自已疎外とその止揚﹂︵﹁関西大学経済論集﹂第一巻第二号︶参照︒

これは第二版︵一八七︱︱ー年︶以後のドイツ語版およびそれに従っているインステイテュート版の篇別構成である︒

M a r x

  " 

D a s   K a p i t a l ,  

B d .  

I ,  

S.

器長谷部訳︑前褐版︵以下単に訳と略称︶

2

︑九頁

i b i d .  

 

s .  

559 "

3

︑四四

0

頁 ︑

0

点 は 筆 者 傍 点 は 原 文 イ ク リ ッ ク

e 百 n d a

"これは第十六章の︑したがつてまた第ニー第式篤全体にどつての︑

マルクスの方法が︑単なる形式的な抽象的演繹的方法ではなくて︑歴史的実在に

(4)

マルクス網余価値論に関する一考察︵杉原︶

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︑ 済的運動法則を暴露すること﹂を窮極の目的とするマルクスは︑したがつて︑この関係をまず他の諸関係からきり

はなしさらにそれを典型的なかたちにまで純化

11

理想化し︑よって以てその本質を徹底的に究明するというために

こそ︑抽象のメスをふるわなければならなかった︒﹃資本論﹄第一巻全体がそうでもあるが︑とりわけさきにのベ ︑︑︑︑̀︑︑︑︑︑

e 12 )

た第ニー五篇の部分は︑このような意味において抽象化された資本と賃努働との生産関係の分析なのである︒マル

クスの剰余価値論の基本性格を正しく理解するためには︑この点の確認が第一に必要である︒

( 8 )

その論理過程の簡単なあとづけを︑私は前稿﹁必要労働と剰余労働﹂︵﹃関西大学人文科学論集﹄第一︳一号︶のその1で行っ

た︒

( 9 )  

Ma

rx

  " D

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  Ka p

i ta l

,  

翌 .

IS

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"訳

1 ︑

1︱二頁

( 1 0 )  M

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1 1 A g

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S.

23

7.

  ﹃マルクス・エンゲルス選集﹄補巻

3

二七九頁

1 1

)

Ma

rx

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Da

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Bd•国's.

93

6  "

1 1

五 ︱

1 0

( 1 2 )

スウイージーが︑﹁第一巻でもきわだった特徴となっている具体的ならびに歴史的材料の豊富さを指摘し︑これこそ事 実においては︑マルクスが抽象的であるといわれるのとまさに逆ではないか︑と問う﹂ひとに対してつぎのように答えて いるのは正しい︒﹁こうした考えは︑重要な点を逸している︒社会科学における抽象の正しい目的は︑現実の世界からのが れることでばなく︑集約的な検討のために︑現実の世界のある局面を分離することである︒だからわれわれが︑高い水準 の抽象を行っているというとき︑われわれは相対的に少数の現実の局面を扱っていることを意味する︒少数の局面である からといつて︑その局面が︑歴史的検討や事実による例示をゆるさないなどということを意味するものでないことは︑強 調しておかねばならぬ

0

かんたんな照合によっても︑マルクスが第一巻のなかで使っている旭大な量の事実的材料は︑直 接 的 に 査

l

労働関係にかんするものであり︑そして例証的ないしは歴史的性質のものであることを示すに十分である︒

ゆえに︑このことは︑第一巻が高い水準の抽象をもつて終始しているという命題を確認しこそすれ︑それに矛盾するもの

二六

(5)

二七

ではない︒﹂

Pa

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M.   Sw

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  " 

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p . 1

8  

"

中 村 金 治 訳 二 三 頁

資本と賃勢働との基本関係を分析するために︑ われわれは︑﹁貨幣所有者および努働力所有者と一緒に⁝

. .

.  

流通 ︑ ︑ ︑ ︑ ︑

( 13 )

界を見捨てて、右の両者の後について…•••隠された生産の場所に這入つて行く」のだが、その前に、上にのべたよ

うな正しい方法にしたがつて︑ われわれがその後についてゆく両者——それは第三篇以下で主役を演ずる「登場人

物﹂であるーーのいわば資格審査がおこなわれなければならない︒まず第四章第二節﹁一般的範式の諸矛盾がのベ

( 1 4 )  

るように﹁査本の形成は︑諸商品価格の諸商品価値からの脊離からしては説明されえない﹂から︑この脊離に直接

︑ ︑

︑ ︑

間接に依存するところの﹁資本の卑近な・且つ謂はば大洪水前的な・諸姿態が︑商業資本および高利資本が︑さし

( 1 6 )  

あたり全く顧庶されずにおかれる﹂︒このような流通過程における等価交換の前提ならびに諸資本間における産業

( " )  

﹁決して単なる科学上の手続きではない﹂のであって︑それは︑資本制生産様式の現実の発

展傾向ならびにそれにもとづく独自の門的編成と完全に一致する︒すなわち︑いわゆる﹁本来的マニュファクチュ

ア期﹂を通じて漸次成長してきた産業資本は産業革命期を経て︑地主︑滴人資本および利子生み資本を自己に従属せ

しめることができるようになり︑かくて産業資本を主軸とする再生産過程が確立されるのである︒したがつて︑い

C 1 7 ) ( 1 8 )  

まなお﹁商人査本が資本一般の形顎である﹂とか︑﹁利子生み資本をもつて資本の基本形態だ﹂とか考えるのは︑

( 19 )

2 0

)  

﹁産業査本がまだ完全に発展していない諸国﹂︑すなわち﹁イギリスまたはアメリカにおいてでなく大陸において﹂

である

0

そのイギリスでも︑ ﹁産業資本の完全支配は︑やっと穀物関税の廃止・等々いらい︑イギリスの滴人資本

(2

1)

 

により︑また金融貴族によつて承認された﹂のであり︑それ以前においては︑産業資本そのものがなお前期的性格

マ ク

ル ス

剰 余

価 値

論 に

関 す

る 一

考 察

︵ 杉

原 ︶

資本の基本的定位は︑

(6)

的産業資本の人格的にない手でなければならない︒ 二版︵一八九二年︶序文にのぺているように︑ 証 ﹂

マ ル

K

余 価

値 論

に 関

す る

一 考

察 ︵

杉 原

である︒そこでは︑実際上ヽ エンゲルスの﹃イギリスにおける努働階級の状態﹄

﹁生産過程そのもので直接的に行われる本源的搾取﹂とならんで流通過程で行われる

﹁副次的搾取﹂も顕著であり重要な意味をもつていた︵就中﹁大都市﹂の項をみよ︶︒そしてこれがエンゲルスの

分析自体をも制約しており︑われわれは努働者階級の状態の叙述が︑

からはじまるのみならずそれに力点がおかれているのに︑﹃状態﹄では消費過程︵﹁大都市﹂︶からはじまるの

みならずそれに力点がおかれているーこの﹁作業場の外での︑努働者の状態︑すなわち彼の栄養状態および住宅状

態﹂については﹃資本論﹄は第七編資本の蓄積過程第二十三章資本制蓄積の一般的法則において︑その法則の・﹁例

a 22 )  

︵第五節︶としてとりあっかつている'│ーという対照的差異に気づくのである︒ェンゲルス自身﹃状態﹄の第

﹁資本主囃的生産が発達すればするほど︑この資本主義的生産が︑

(28) 

それの初期の諸段階の特徴である詐欺やごまかしのこまかしい手だてとますます両立しなくなる﹂

0

われわれがそ

の後にしたがつて工場の中に入つてゆくところの﹁貨幣所有者﹂は︑このような前期的性格を完全に払拭した典型

( 1 3 )

M a r x   " 

D a s   K a p i t a l ︱

翌 .

I .  

s .   1 8 4  

" 訳

2 ︑

六 ︱

︱ 一

( 1 4 )

1 6 )  

D a s s e l b e   " 

s .  

174 "同四四頁

( 1 5 )

D a

 

s s e l b e ・

"  

s .   1 7 1

  "

同 一

︳ 一

八 ー

九 頁

( 1 7 )

2 1

)   M a r x   " 

D a s   K a p i t

一 a l

翌 .

日 s . 3 5 9 .  

9︑三六二頁マルクスは︑ここで︑キーセルバッハ﹃中世における世界

︑ ︑

商業の経過﹄やモムゼン﹃ローマ史﹄を例にあげて︑ドイツの歴史家の流通主義的俗見を批判している︒

( 1 8 )

︵ 1

9 )  

D a s s e l b e

  " 

s .   6 5 7

 

"訳

10五五三頁︑マルクスは︑ここで︑サンシモン主義者やプル

I

F ン

を 引

合 い

に 出

し て

︑ フ

を多分に有していたことは︑

﹃資本論﹄では生産過程︵第八章﹁努働日﹄ ︵一八四五年︶によっても明らか

一 八

(7)

一 九

︑︑

︑ ランスの小市民的社会主義者の︑信用を過大蔵する幻想を批判している︒

( 2 0 )

D a

 

s s e l b e  

"  

s .  

7

"

1

1 ‑

︱ ︳ 四

C T

'

一頁

(22)

﹃ マ

J Vクス・エンゲル

K選集﹄捕巻

2

の解説はのべている︑﹁いま本書をすこしく注意するならば︑競争があり︑プルジョ ア ジ ー

︑ プ ロ レ ク リ ア ー ト が あ る が

︑ 査 本 主 義 が 欠 け て い る

︒ こ の こ と は

︑ 理 論 的 に は プ ロ レ ク リ ア ー ト の 革 命 性 を

﹁自己疎外﹂に︑﹁非人間性﹂にみとめて︑その歴史的任務をおうものと規定しない点にあらわれている︒

. . . .

. .  

﹃査

本論

﹄ は︑労働者階級の.状態の叙述をするのに︑まず継対的剰余債値に関連して労働日からはじめているが︑エンゲルスの本書 では︑人口の集中︑都市における住居状態がまずあらわれている

0

吾々はこうした叙述の形式にもフォイエルパッぐ的共 産主義の残滓を感じるのである︒すなわち︑プロレクリアートの﹁自己疎外﹂︑﹁非人間化﹂に革命性をみとめるという︑

当時の彼の考えかたを﹂︒同書五

1

三頁

( 2 3 )

同書四八二頁︒

つぎにこれと対峙する﹁労働力所有者﹄について見よう︵第四章第三節努働力の購買と販売︶

0

貨幣所有者がそれの

G 5 )

使用価値そのものが価値の源泉であるという独自の性質を有するところの﹁努働力﹂という商品を﹁市場に見出す

(25)︑︑︑

ためには︑種々の條件が充たされておらねばならぬ﹂のだが︑そのための本質的條件は︑努働力の所有者が︑人格

の自立を制約する一切の身分的束縛から自由であると共に︑自分の努働力の実現に必要な一切の物象からも自由で

( 26 )  

あるということ︑これである°けだし︑彼が努働力を商品として販売することは︑前者の自由によつてのみ可能と

なり︑後者の自由によってのみ必要となるのであるから

0

ところでこのような條件もまた︑単に資本と賃努働との

関係を純粋なかたちで分析するために必要な論理的前提だけではなく︑資本主義の発展がもたらすところの社会関

係の単純似に照応する

0

努働力の完全な商品化は︑その所有者が一方では︑搾取の対象たるべき努働力以外に絞奪

` ヽ ヽ

の対象たるべき何物をも有しなくなると共に︵小生産者的性格からの脱却︶︑他方では不当な搾取に対して甘受乃至

マルクス剰余価値論に関する一考察︵杉原︶

(8)

マルクス剰余価値論に関する一考察︵杉原︶

は絶望的反抗という態度をとることなく商品の購買者の当然の権利として価値法則の貫徹を主張するにいたる︵農

( 28 )  

奴的・浮浪人的性格からの脱却︶とき︑はじめて実硯するであろう

0

叉その時においてのみ︑

るため﹂の仮定︑すなわち努働力についても︑その価値ーそれは単に肉体的に必要かくべからざる生活手段の価

(29) 

値だけではなく︑その上に﹁一の歴史的および道徳的な要素を含んでいる﹂ーー'に価格が一致することおよび﹁努

ヽ ヽ ヽ

(30)

慟者の所有者がその販売上同時に何時でも直ちに約定の︵原則上価値通りの︶価格を受取るもの﹂とすることが︑

客観的基礎をもつにいたるであろう

0

そして実際上のその時期は︑当然にさきにのべた産業資本の確立のそれとほ

a )  

ぽ期を一にする︒すなわち︑後にくわしく見るように︑努働市場における﹁天賦人権﹂は︑ ﹃譲渡すべからざる人

︑ ︑

権﹄の華麗な目録の代りに︑

. . . . . .  

︵十時間法という︶法律によつて制限された労働日という節度ある大憲章が現わ

( 32 )  

れる﹂ことによって︑ともかくもその現実的支柱を獲得するのだが︑その十時間法が一応成立するのは︑産業資本

G33) 

の制覇を確立した穀物関税廃止の直後のことである︒

( 2

4 )

2 5

)

Ma

rx

  " 

Da

s  K

a pi t

a l,  

翌 .

I .  

s .  

174 "訳

2

( 26 )

 

Da

ss

el

be

  " 

s .  

176 "訳

2

0

︵切︶﹁吾々の時代すなわちプルジョアジーの時代の特徴は︑階級対立を単純にしたことである︒全社会は︑ますます敵対す る二大陣営に︑たがいに直接に対立する二大階級に分裂しつつある︒すなわちプルジョアジーとプロレクリアートに﹂︒

﹃共産党宣言﹄︵

J Vクス・エンゲルス選集迄第二巻四九

0

ー一頁︶︒なお﹃安本論﹄第一巻註二竺一および註︱︱

J O

六を参照︒

( 2 8 )

十九世紀初期の反査本`主義的思惹においては︑搾取

( ex p

l oi t

a ti o

n ) と牧奪

( ex p

r op r

i at i

o n)

との区別︑前者の中でも生 産過程における直接的搾取と流源過程を通じての間接的搾取との区別︑その前者の中でも債値法則にもとづく近代的搾取 とそれに反した原生的搾瑕との区別が十分行われず︑近代的搾取の本質が明確につかまれなかったのであるが︑これは当 時における階級分化の不徹底性︑とくに貨労働者階級の末成熟に照応するものである︒

四六頁

﹁関係を純粋に理解す

(9)

(29) 

Ma

rx

.  D

as

  Ka p

i ta l

B d .  

,  

I ・ s .

1 7

 

9 . 

18

1  2

、五四•五七頁。労働力の債値におけるこの歴史的逍穂的要素の認識 "訳

は︑重農学派←古典学派←マルクス経済学と進むにつれて強くなり

( c f .

M•

Do

bb

  " 

Wa

ge

s,

  p. 1

0 3 

ff.)︑マルクス経済学

においても、前期よりも後期の方がより明確となる(『哲学の貧困』に対するエンゲルスの註ー〖マルク

K•

エンゲルス選

集﹄第一巻下二九六頁ー参照︶が︑この点も亦労働者階級の現実における成熟の度合を反映するものであろう︒

( 3 0 )

M 

ar

x  " 

Da

s  K

a pi t

a l,  

翌 .

I .  

s .  

1器

"訳

2

︑六

0

︑ 傍 点 お よ び

︶ 内 は 筆 者

( 3 1 )  D a

s se l

b e,  

S.

 1

84

  "六

四頁

( 3 2 )  D a

s se l

b e,  

SS

3 16 ‑ , 7"

‑=二九ー三一頁︒この第四章・の終りの叙述と第八章の終りの叙述との形式的・内容的な前後照

応に注意せよ

0

︵認︶﹁一八四六ー四七年は︑イ妾リスの経済史において時代を劃するものである

0

穀物法が院止され︑棉花その他の原料に

対する輪入税が徹廃され、自由貿易が立法上の導きの星だと宣言された!…•,•他方において同じこれらの年には、チャー

チスト運動と十時間運動とがその頂点に逹した︒それらの運動は︑復讐せんと息まくトーリ党において同盟層を見出した︒

⁝自由貿易等の熱狂的な反抗にも拘はらず︑かの長いあいだ追求された十時間法案が議会を通過した﹂

Ma

rx" 

Da

s  K

a p i t

a l ,  

翌 .

I .  

s .  

2 9 6 :  

2

︑二八九頁︒

のような方法的操作によって純粋化された資本と賃努働との間の生産関係の論狸的分析が︑

'

︐ ヽ

(84)

以上われわれは第一︳︳篇以後の生産過程において主役を演ずべき﹁登場人物﹂について︑第二篇があらかじめ論理的

︑︑,.︑

Gg

)

に厳重な性格規定を行っていることを知った︒﹁貨殖の秘密﹂を真に暴露するためには︑単に分析を流通過程から

G36) 

生産過程に移行することが必要であるだけではなくて︑その移行が﹁商品交換の法則はちつとも侵害されていない﹂

ヽ ヽ ヽ

(87)

ような仕方で︑すなわち︑等価交換という﹁流通の媒介によって﹂なされなければならぬ°けだし︑そうすること

︑ ,

によってはじめて︑典型的な資本制生産過程がとりあげられうるのであるから

0

かくて第三篇以降においては︑こ

︑︑

﹁資本制生産を典型的

マルクス剰余価値論に関する一考察︵杉原︶

(10)

マルクを剰余価値論に関する1考察︵杉原︶

に代表しており︑そして︵そのことの︱つの具体的あらわれとして︶ひとり当面の諸対象に関する公けの継続的な

( 88 )  

統計を有する﹂ィギリスの豊富な資料を謳使ながら進行することになるのである︒

註 ( 3

4 )

3 5 ) M a r x   "

g  

K a p i t a l ,   思

. I .

s .  

1撃

"訳

2

︑六五・六四頁︒

︵ 翌

(37)

D a s 習 l 汀 s . 2 0 3 .  

2

1011• 眠

1 0 1 1

1

3 )

D a s s e l b e

S

,  

2 4 8

  2

"訳1

九五頁︑︵︶内は筆者︒

第三篇﹁絶対的剰余価値の生産﹂は︑第一篇で獲得された﹁努働の二重性﹂という基本的観点に立ち︑第二篇で

規定された資本と賃努働との純粋化という論理的前提にもとづいて︑いよいよ資本制生産過程をとりあげる

0

そ れ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑,︑︑︑

(8

9)

は先ず﹁努働過程と価値増殖過程との統一﹂として把握され︵第五章︶︑すすんでそれは新価値の附加と旧諸価値

( 4 0 )  

の維持との両過程の統一として規定され

d

第六章︶︑さらに前者は努働力価値の再生産過程ー 1 そこで支出される

努働が﹁必要努働﹂と名づけられるーー!とそれを超えて量的に延長される﹁努働過程の第二期﹂.ーーそこで支出さ

a )

︑︑︑︑︑︑︑︑ れる努働が剰余価値の源泉たる剰余努慟に外ならないーーとに区分される︵第七章︶

0

ところで﹁必要努働と剰余努 ︑︑︑︑︑︑ 働との合計は︑努働者が彼の努働力の填補価値と剰余価値とを生産する時間は︑彼の努働時間の絶対的大いさを︑

242) 

ー努働日を︑形成する﹂︵第七章の結語︶のだが︑その﹁努働日は︑不変量ではなくて可変量である

0

なるほ

どその二つの部分の一方は︑努働者自身の絶えざる再生産のために必要とされる努働時間によって規定されている

が︑しかしその全体の大いさは︑剰余努働の長さあるいは継続と共に変動する︒だから努働日は︑規定されうるも 二

= 

(11)

マルクK絹余価値論に関する一考察︵杉原︶ 643) 

のではあるが︑しかしそれ自体では規定されていない﹂︒この可変的な努働日に関して︑

︑ ︑

︑ ︑

一方では二十四時間という

G"

︶ 

一自然日の最大限界から﹁それなくしては努働力が絶対に再び役に立ちえないところの僅かの休息時間を塗引﹂い

︑ ︑

︑ ︑

たところまで剰余努働時間を延長しようとする資本家と︑他方では肉体的諸欲望を充たすための時間以上に﹁梢神的

および社会的な諸欲望ーー土それらの範囲および数は一般的な文化状態によつて規定されているーを充たすため﹂

e 45 )  

の時間を留保しようとする労働者との︑真向から対立する二つの要求が提出される︒しかもひとしく﹁商品交換の

︑ ︑

C46)

︑ ︑

︑ ︑

法則を楯にとつて﹂︑この剰余価値の形成過程という資本主義にとつて決定的に重要な舞台に︑かの第二篇で性格

づけられた貨幣所有者と努働力所有者とが登場して︑それぞれの権利を主張し合うのだが︑この場面︵第八章﹁労働

C47) 

日﹂第一節﹁努働日の限良巳︶こそ︑リアザノフが﹁﹃資本論﹄中の最も目ざましい部分の一っ﹂とよんだ箇所である︒

( 3 9 )

M a r x

  " 

D a s   K a p i t a l ,  

J

I . s•只6沢2、

10 八頁

( 4 0 )  

D a s s e l b e ,  

S.

2

"訳 209 

11

五頁

( 4 1 )  

D a s s l b e ,  

S S .  

224 ,

5"

2

1一四ー六頁

(4

2)

 

D a s s e l b e .  

S

2 3 8  

"

2

︑一七︱︱︱ー四頁︒この文章は︑これまでの﹁全研究をいわば総括する﹂ものであり︑﹁これに

よって吾々は︑労働日の問題に︑即ち必要労働時間および剰余労働時間へのその分割︑労働日のための斗争の歴史等に︑

びったりと近づく」(ローゼンベルク『査本論註解』直井・淡共訳第 1 巻―――――九•一一九一頁)

( 4 3 )

D a

 

s s e l b e

松︸

.樟

9ー

‑ 4 0

"

2

1七七頁

( 4 4 ) b   a s s e l b e

S

,  

S.  

2 7 5

"訳

 

2 .

︳一

四九

(4

5)

 

D a

s s e l b e ,  

S.  

2 4 0

  2

1七八頁︑より具体的にいえば︑それは︑﹁人間的教養や︑精神的発展や︑社会的諸職分の遂"訳︑

行や︑社交や︑肉体的および精紳的な諸生命力の自由な活動や︑のための時間﹂である

( D a s s e l b e . s .  

275 

"

2

︑二四

九頁

(12)

D a s s e l b e ,  

S

2 4 1

 

"訳

2

︑一八

0

リアザノフ﹃マルクスーェンゲルK俸﹄盆を造社版全集第1

巻︶八七三頁

まず︑﹁出来るだけ多量の剰余努働を吸収せんとする︹ただ︱つの︺生活衝動﹂を有する資本は︑その人格化として

C 4 8 ) C 4 9 )

︑ .

の資本家の口を通じて大のようにのべる

0

わたくしは︑努働力という商品をそれの日価値どおりで買った︒したが

︑ ︑

︑ ︑

二労働日中の努働力の使用価値はわたくしに属するのであり︑他のすべての購買者と同じように︑彼の商品

の使用価値からできるかぎり大きな効用を打出そうと試みるのは当然の権利である

0

努働力は︑社会に慣行的な

強度をもつて支出されなくてはならないし︑原料や努働手段の目的に反した消費が行われてはならぬことはもとよ

品 ︶

りであるが︑量的には︑二十四時間のうち﹁絶対的に疲猥せる有機体の蘇生のために無くてはならぬだけの時間﹂

以外の時間は当然わたくしのものである

0

もし努働者が︑わたくしの自由に処分できる時間を自分自身のために消

︑ ︑

︑ ︑

G51)

費するならば︑彼はわたくしのものを盗むわけである

0

わたくしは﹁盗まれることを欲しない﹂

( 4 8 )

賽本家は賽本の人格化であり︑﹁彼の魂は賓本の魂である﹂が︵

M a r x .

"  

D a s   K a p i t a l ,   B b .  

I,

241訳2︑一七九頁︶

この点については︑第一版への序文中の注意

( D a s s e l b

・ s .   e :

8 "訳

1

︑一

1六ー七頁︶参照

( 4 9 )

  D a s s e l b e

;   翌 .

I .  

s s .   2 0 4

‑ 5  

"訳

2 ︑

1 0

式頁

(50) 

D a s s e l ぽ

" s .  

2 5 0

2

︑二五

0

( 5 1 )  

D a s s e l b e   " 

S . 2 0

4 .  

2

1 0

五頁カウッキーはこのような査本の意志を端的に物語るものとして︑﹃査本論解翫﹄でつ ぎのような例をあげている︒﹁英国の某石坑で坑逍発火の早すぎたため︑一坑夫が無残にも空中に投げとばされたが︑思 いがけなく無事に大地へ戻つて末た

0

所が給料支払の時になって︑糧主は此坑夫が空中にいた時間を無労働と見傲して︑

それだけ賃銀の中から差引いたということである﹂︵岩波文庫︑

1二三頁︶︒まことに典型的な査本家の面目躍如たるもの

がある!

つ て

(46) 

( 4 7 )

  マルクス剰余価値論に関する

1考察︵杉原︶

(13)

これに対する努働者の側の主張はこうである︒﹁お前と俺とは︑市場では︑商品交換の法則というただーつの法

則を知つているだけだ︒そして商品の消費は︑それを譲渡する販売者には属しないで︑それを手に入れる購買者に

属する︒だから︑俺の日々の努働力の使用はお前に属する︒だが

. . . . . .  

俺の努働力の利用とそれの掠奪とは︑全く異

なった事柄である

0

平均的努働者が合理的な努働量のもとで生きうる平均的期間を三十年だとすれば︑お前が日々

俺に支払うところの俺の努働力の価値は︑それの総価値の刹気ぶ

6

すなわち

1 J s o

である︒だが︑もしお前が︑俺の

努働力を十年間で消費するならば︑お前は俺に︑毎日︑それの総価値の渕別の代りに

i I r

を支払ひ︑かくして︑そ

れの日価値の三分の一を支払うだけであり︑従つて︑俺の商品の価値の三分の二を毎日俺から盗むのである︒;

. .

.  

̀  

それは⁝・・商品交換の法則に反する︒だから俺は︑標準的な長さの努働日を要求する・・・・・・けだし俺は︑他のどの販

2 52 >

 

売者とも同じように︑俺の商品の価値を要求するのだから﹂°かくて︑努働力という商品の取引をめぐつて︑その購

買者たる資本家の要求と︑その販売者たる努働者の要求とは︑形式的には︑共に等価交換の原則による同等の権

利にもとづいて主張されながら︑内容的には︑努働日の長さに関して全く対立する

0

ところで﹁同等な権利と権利

̀

̀

との間では強力

( G e w a l t )

が裁決する︒かくて︑資本制生産の歴史において︑努働日の標準化は︑努働日の諸限度

̀

をめぐる斗争ーーー総資本家すなわち資本家階級と総努働者すなわち努働者階級との間の︑一の斗争'ーーとして現わ

(68) 

れ る

註 ﹂

( 5 2 )

M a

r x

  " 

D a

s   K

a p i t

a l ,   翌

. I .

s s .   2 4 1  

1  2.

 訳

2

︑ 一

八 一

ー 一

= 頁

︒ マ

ル ク

ス は

︑ 彼

自 身

こ こ

に 註

記 し

て い

る よ

う に

︑ こ

の 対

話 を

か C

に あ

た つ

て ︑

一 八

0 年

前 後

に 行

わ れ

た ロ

F

ン の

建 築

労 働

者 の

大 ス

ト ラ

イ キ

中 に

労 働

者 の

印 刷

し た

宣 憾

用 ︒

ハ ン

フ レ

ッ ト

を と

こ ろ

ど こ

ろ 殆

ん ど

そ の

4

用 し

て い

る °

建 築

労 働

者 が

当 時

の イ

ギ リ

ス 労

働 運

動 の

1

に 立

つ た

事 憬

に つ

い て

は ︑

リ ア

ザ ノ

フ 前

褐 書

︵ 八

七 ニ

ー =

= 頁

︶ を

参 照

マ ル

ク を

囀 余

価 値

論 に

関 す

る 一

考 察

Q

原 ︶

一 五

(14)

註︵

団︶

うるが故でもあるといわなければならない︒

マ ル

ク ス

囀 余

価 値

論 に

関 す

1

察 ︵

杉 原

お よ

び 査

本 に

よ る

こ の

剰 余

労 働

﹁努働日﹂が単に具体的な事実の叙述に富むから読み易

( 5 3 )  

M a r

x   " 

D a s .   K a p i t a l

B e l . ,  

I .  

S.

 

2 4 3

訳 2

︑ 一

八 三

頁 ︒

な お

こ の

文 章

中 の

G "

w a i t

を 長

谷 部

訳 は

﹁ 暴

力 ﹂

と 訳

し て

い る

が ここでは高畠•河上釈にしたがつて「強力」とした

0

けだし、「暴力」とい

5

日本語は、「残虚椒まる・・・・・・助産婦」とし

て ︑

賽 本

の 本

源 的

蓄 積

過 程

で 大

き な

役 割

を 演

ず る

﹁ 征

服 や

圧 制

や 強

盗 殺

人 ﹂

な ど

の み

を 聯

想 さ

せ る

き ら

い が

あ る

か ら

剰余努働は剰余価値の唯一の源泉であb剰余努働の時間的延長

l l

﹁絶対的剰余価値﹂の生産は︑剰余価値の基本

( 64 )  

的形成過程 l 資本主義制度の H 訳的基礎である︒資本と賃努働との間の生産関係はこの過程においては﹁極めて簡

単に﹂︑すなわちその本質どおりに端的に現象す涵

6

マルクスがこの間の事情をつづいて︵第八章の第ニー七節︶

主としてイギリス賽本主義の発展過程における豊富な事例に即して互細に叙述しているのは︑方法論的には︑研究

さるべき問題の性質ーーすなわち︑努働日の大きさは抽象的一般的法則からは規定されえないという性質ー│その

266) 

ものがこのような帰納的記述的方法を必要としているからであるが︑それと同時に︑ここでとりあっかわれる問題

(67) 

の領域において︑考 H 年主義的生産関係の特色が最も明瞭に把握されうるが故でもあろう︒まことに︑﹁内乱により﹂

標準努働日が漸次短縮され︑その適用範囲が漸次拡大されてゆくところの﹁一八︳︱‑三年から一八六四年に至るイギ

G 58 )  

リスの工場立法の歴史以上に︑資本の精神をよく性格づけるものは何もない!﹂のであb︑﹁こうした雰囲気では ︑︑'︐︑ヽヽ

( 59 )

剰余努働による剰余価値の形成は何らの秘密でもない﹂のである︒マルクスが経済学の初心者に対して﹃資本論﹄

( 6 0 )  

をまず﹁努働日﹂からよみはじめることをすすめるのも︑

いということの故だけではなくて︑その事実を読むことによってわれわれが資本主義的搾取の本質にただちに迫り

﹁ 労

働 者

が 彼

の 労

働 力

の 債

値 に

対 す

る 等

債 の

み を

生 産

し た

点 を

超 え

て の

労 働

日 の

延 長

H ^

 

(15)

時期にあたる

0

すなわち第一期は︑

一 七

の取得ー│これは絶対的氣余債値の生産である︒それは査本主蓑制度の一般的某礎をなし︑また相対的剰余債値の生産の

出発点をなしている︒﹂

M a r x

;  D

a s   K a p i t a l

̀   

B d .  

I .  

S.

 

5 3 4  

" 訳

3

︑==九二頁︒相対的剰余債値の生産も紹対的網余債値

の生産とむすびつかざるをえない所以については︑第四篇相対的剰余債値の生産第十三章機械と大工業

( b

}労働日の延長

における叙述を参照

( 5 5 )

﹁査本をさしあたり直接的生産過程においてー剰余労働の汲出者としてー考察するならば︑この関係はまだ極めて簡単 である︒現実的関聯はこの過程の担い手たる賓本家たちそのものに迫つてきて︑まだ彼等に意識されでいる°労働日の限

界をめぐる激しい戦はこのことを適切に証明する﹂︒

D a s s e l b e , B d .  

J.

. S

 

1

"

1 1

︑四1九頁

( 5 6 )

ロー ゼン ベル ク︒ 前掲 書一

︱︱

︱︱ ーニ 頁参 照

(57) 

M a r x   "

g  

K a p i t a l ,

B d .    

I︑

s .

3 0 

9.

 

2

︑三一五頁

( 5 8 )

D a

 

s s e l b e  

S.

 

2 9 1 .  

2

︑二八一頁

(5

9)

 

D a s s e l b e .  

S

2

51 . 

2

︑二

0 1

( 6 0 )

マルクスのクーゲルマン宛の1八六土年十一月一ー工十日付の手紙︵これは研究所版﹃賓本論﹄第一巻附録

( s .

8 . 3 1

) . ! l

. : l !

{ 録 さ

れている︶参照︒﹁奥様には﹃労働日﹄に関する部分︑﹃協業・分業・機械﹄に関する部分︑これに次いでは︑﹃本末的蓄

積﹄に関する部分が︑最初に読む可き処だとお話し下さい﹂︵改造社版全集第二十一巻六二頁︶︒なお﹁労働日﹂.の章を

マルクス自身いかに重要蔵していたかに関しては︑一八六六年二月廿

H

付︑および六月二十七日付︵二蓮共︶のマルク

K

のエンゲルK苑の手紙が参照さるべきである︒

ところでマルクスが資本の精神を最もよく性格づけるものであるとした一八一︱︱︱︱一年から六四年にかけての時代

は︑努働日をめぐる階級斗争において︑ ィギリス資本主義史上︑本源的資本蓄積期および産業革命期に次ぐ第一︳一の ︑︑︑︑︑︑︑︑︑

G3

)

・︑︑︑︑︑︑︑ ﹁封建的搾取への転化﹂の基本的前提たる人民大衆の暴力的収.奪過程ならび

に︑独立小生産者でもなければ浮浪者の怠惰な貧民でもない﹁はたらく貧民﹂の大量的創出過程を通じて︑資本関

マルクK

剰余価値論に関する一考察

G杉

原︶

(16)

マルクK剰余価値論に関する一考察︵.杉原︶

係が強制的に創出されてゆく途上にあるが︑その場合生産過程においては︑資本の技術的組成は量的にも尚低く質

u6 8)  

的にも熟錬努働の手工的技能に決定的に依存しているために︑努働の資本への包摂はいまだ﹁形式的﹂にとどま

Gg

Ul

り︑﹁胎芽状態﹂にある資本は﹁経済的諸関係の強力だけによって﹂は︑﹁努働力の一週間分の価値を支払うこと

I

︑ ︑

︑ ︑

(66)

によって︵工業︶努働者:;

. .

 

のまる一週間を占領することには︑まだ成功していなかった﹂

0

か く て ﹁ 新 興 プ ル ジ ョ

` ヽ

. ヽ ヽ

アジーは︑努賃を﹃調節﹄するーーすなわち貨殖に適合する制限内におしこめるーーために︑また努働日を延長し且

.G 67 )

つ努働者そのものを標準的な従属程度において維持するために︑国家的暴力を必要とし︑且つ利用する﹂︒しかも

﹁絶えず努働者の不従順︹すなわちその技術的心理的初期性ーー引用者︺と斗争﹂しなければならない当時の﹁資本

の諸要求は︑資本がその成年期に不承不承でいやいや為さねばならぬ諸譲歩と比較して見ると︑まった<控えめに

G6 8)

̀

見える﹂︒しかるに︑﹁資本が努働日をその標準的な最大限界まで︑次いではこの限界を越えて十二時間という自然

日の限界まで延長するために数批紀を要したのち︑今度は︑十八批紀の最後の三分の一期間における大工業の誕生

( 6 9 )

︑ ︑

( 70 )

以来︑雪崩のように力強く且つ無際限な突進が起った﹂°すなわち﹁努働者そのものから独立せる客観的な骨格﹂と

しての機械体系の成立︑それにもとづく資本の有機的組成の高度化とこれに伴ふ相対的過剰人口の絶えざる生産は

( 7 1 1

^ 7 2 )  

マ=一ュフアクチュア期の資本が求めてやまなかった﹁秩序﹂を︑いいかえれば努働の資本への﹁実在的包摂﹂をもたら

a g  

した︒マニュフアクチュア期には﹁まだ例外的である﹂児童努働の大規模且つヘロデ王的搾取に集中的に表現され

ているこの時代の原生的労働関係の具体的実状については︑さきにあげたェンゲルスの﹃状態﹄にくわしく︑﹃資本

論﹄もその参照を求めているのであるが︑この状態に対して立ち上った努働者の反抗によってィギリスの議会が一

Gm ) 

八 0 二年から==︱‑年までに通過させた五個の努働法も﹁純粋に名目上のものたるにとどまった﹂°資本のこの﹁飲め

三八

(17)

な ら

な い

一 九 一

八一

︱︱

︱︱

一年

の工

場法

制定によってであるが︑重要なことは︑第二篇で規定されたような典型的近代的な資本と賃努働との間に努働日を

( 1 8 )  

めぐる本格的な斗争が開始されるのは︑むしろこれ以後においてであるということ︑さきに利用した資本に対する

てのイギリス努働者階級の歴 努働者の主張は︑このような斗争が︱つの頂点に達する五十年代から六十年代にかけ

( 7 9 )  

史的体験に根ざしたものであるということであり︑さらにすすんでいえば︑このような歴史的社会的体験の意義を

正当に評価してこれを理論化しようとする問題意識こそ︑古典派的努働価値説からマルクス的剰余価値説への発展

過程における決定的モメントの︱つではなかったか︑ということである︒この点は節をあらためて詳論しなければ

註(61)

M a r x   " 

D a s   K a p i t a l ,   B d .  

I .  

S.

 

7 5 4

  4

︑三

0

"訳

九頁

( 6 2 )   D a s s e l ぽ ︑ s .

759 "

4

︱︱

︱︱

九頁

(63)

7 2 )   D a s s e l b E

s .

5 3 5 .  

3

︑三九ニー=一頁

(64)

6 5 )

6 8

)   D a s s e l b e ,  

S .  28

2

︑二六ニー三頁"訳

(66) 

D a s s e l b e

S

,  

.2 86

 "

2

︒︱

︱‑

^九

( 6 7 )   D a 器 e i b e ,

s .  

"訳

4

︑三五三頁

( 6 9 )   D a s s e l b e ,  

S ,  

2 9 1 .  

2

︑二七八頁

(70)

7 1 )  

D a s s e l b e

S

,  

S.

 

3 8 6 ‑ ‑ 7

3

11五ー六頁

(73) 

D a s s e l ‑ b e .  

S.

 

2 8 5  

" 訳

2

︑二六九頁

( 7 4 )   D a s s

e l ぽ

s .

797 "訳

4

︑三九一頁

(75)

7 6 )

7 7

)   D a s s e l b e .  

S

291 "訳

2

︑二七九・ニ七八・ニ八1

マ ル

K

余 価

値 論

に 関

す る

1考察︵杉原︶ G76) 

や歌えの底抜け騒ぎ﹂が一段落をつげるのは︑

G"

︶ 

﹁近代的産業にとつて標準努働日がはじまる﹂

(18)

剰余価値論に関するマルクスの古典派経済学批判の要点を︑﹃資本論﹄第一巻を完成の直後に=ンゲルスに送っ

た二つの手紙の中で︑彼自身がつぎのようにのべている︒すなわち︑一八六七年八月二十四日付の手紙には︑﹁私

の著書での最も良きもの﹂の一っとして︑﹁剰余価値を利潤︑利子︑池代等としてのその特殊形態から狭立してと

りあつかつていること﹂をあげ︑﹁古典派経済学におけるその特殊形態のとりあつかひーー士

I

典派はそれを普遍形

G

皿︶

態と始終混同しているーー︑は︑全くごたまぜ

( e i n e O l l a   P o t r i d a )

だ﹂と書かれており︑翌六八年一月八日付の手

紙には︑著書の﹁三つの根本的に新しい要素﹂の一っとして︑﹁地代︑利潤︑利子という確定した形態をとつてい

る剰余価値の特殊部分を︑あらかじめ与えられたものとして論じているところの︑一切の従前の経済学とは反対に

これらすべてがまだ分離していない︑いわば分離の過程にある剰余価値の普遍形態が私によってはじめてとりあっ

( 81 )  

かわれていること﹂があげられているのである︒ところで剰余価値一般の認識にとつて決定的に重要なことは︑ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑̀︑︑︑︑︑

a8 2)

﹁剰余価値を単なる剰余努働時間の凝結として・:

. .

.  

把握すること﹂であり︑さらにその剰余努働時間の分彙は決して

固定的なものではなく︑努資の力関係に応じて変動するものであるということを認識することである︒このような

認識を前提としてはじめて本稿のはじめにも引用した剰余価値率の正しい範式を確立することができる︒しかるに

I I I I

澄 ぎ 耳

I 声

I

j

沖舟罷苺ご

J

いう派生的範式︵二︶を考えるのであるが︑﹁努働

凜 睾

l H

併 熙 蓉 甫 齊 器 併 罷 蓉

古典学派はこれに対して

日を不変量として取扱う︹古典湿学派的方法は範式(‑︱)の適用によって確立された︑けだしここでは︑剰余労働が

( 7 8 )  

(7

9)

 

第八章第六節の叙述を参照

( 5

を参照

2 )

マルクK

剰余価値論に関する一考察

Q

原 ︶

四〇

(19)

この手紙は研究所版﹃資本論.一第一版の附録に牧録されている︵

s .

0)0改造社版邦訳全集第十九巻一二八九頁

M a r x

‑ E n g e l

s   , 

G e s a m t a u s g a b e ,

  ` 

d r i t t e   A b t e i l u n g .   B d .   I V .  

S.  6 .  邦訳全集第二十巻︱二頁︒古典祇の剰余債値論に対

するマルクスの立場からの総括的批判を︑彼は﹃絹余債値学説史﹄︵カウッキー版︶第三巻第七章﹁利潤︑利子︑俗流経済学﹂第

七節﹁古典派経済学と俗流経済学﹂の中で行っているが︑その中でも︑古典祇的な剰余債値のとりあっかいの意義と限界と を︑その方法論的某本性格ー単なる分析的方法であって︑歴史的︑発生的方法ではないというーにかかわらしめて規定し

ている筒所は重要である︒

V g l . M a r x .   T h e o r i e n   i i b e r   d e n   M e h r w e r t ,   h e r a u s g e g e b e n   v o n K•  

K a u t s k y .

B d .    

: n : .  

T e i l  

: n : .   s s .   5 7 1

2

. 邦沢全集第十

1

五六

︱︱

︱ー

四頁

( 8 2 )   M a r x   " 

D a s   K a p i t a l ,   B d .  

I .   S.  2 25 . 

訳2

、一四六頁。マルクスはここで「諸々の経済的社会構造を—たとえば奴隷制

の社会を賃労働の社会からー区別するものは︑以てこの剰余労働が直接的生産者・労働者から絞り瑕られるところの形態 に他ならぬのである﹂とのべているが︑この文章は︑マルクスの剰余債値論が古典派のそれのように単なる分析的方法に も と づ い て い る

︵ 前 註 参 照

︶ の で は な く て 歴 史 的 展 望 を も つ て い る こ と を 端 的 に 表 現 し て い る

︒ こ の 点 に つ い て は

︑ 杉 原

﹁必要労働と剰余労働﹂︵関大﹃人文科学論集﹄第一I

一号︶ーとくに﹁その二﹂ーを参照︒マルク

K

がこのような見地からへ

( 8 0 )

(8

1)

 

つねに或る与えられた大いさの努働日と比較されるからである

0

価値生産物の分配が専ら念頭におかれる場合も同

様である

0

すでに或る価値生生物において対象化されている努働日は︑つねに︑与えられた限界の二労働

H

で あ

G8 3)  

る﹂°努働日を固定的と考えることが古典派にとつて致命的とされていることはさきに引用した手紙のうちの後者の

中で﹁労働時間による価値規定がリカード自身においてのように﹃不確定﹄であるかぎり︑それは人々をおじけ

̀

(s

ha

ky

)

させない︒だが努働日とその変化とに正確に結びつけられるやいなや︑人々にとつて全く不愉快なあた らしい炎がもえ上る﹂とのべられていることでもあきらかであるが︑﹁古典経済学の完成者﹂たるリカードにつ

いてのこの点に関するマルクスの批判の要点をたどるならば次のごとくである︒

マルクス剰余価値論に関する一考察︵杉原︶

(20)

マルク竺剰余価値論に関する一考察︵杉原︶

ーゲル的世界史観を完全にードイツ・イデオロ妾ーの時代とくらべて一そう徹底的にー克服して独自の他界史を展開して ゆくのは︑剰余債値論の形成過程たる五十年代であることは注目すべきである︒この点については石母田正﹁世界史成立

の前提﹂

(

H歴史と民族の発見﹄所牧︶参照

( 8 3 )   D a s s e l b e .  

S . 

557訳

3

︑四三三頁︒フラン

K

語版︵およびカウッキー版︶では︑﹁瑚余労働の概念は︑プルジョア綽済

、!ll:flJ~~蓉 学 に お い て は 明 白 に は 表 現 さ れ て い な い

﹂ と い う 理 由 で ー

│ 1 が括弧に入れられている︒マルクスは別の所で﹁プル 呻 室 I I l ジョア経済学者は剰余債値の起源に関する喧しい問題を余りに深く研究することは極めて危険だという︑正しい本能をも つていた﹂ことを指摘している︒

D a s s e l b ≪

"

s .   •

5 4 1 .  

3

︑四

0

式頁

( 8 4 )

( 8 1

)を参照︒傍点は引用者のもの︒

( 8 5 )   M a r x .  

u r   K r i t i k   d e r   p o l i t i s c h e n   O k o n o m i e ,   b e s o r g t   v o m a   M r x   ,  E n g e l s   ,  L e n i n   I n s t i t u t .  

S.

49  "﹃マルクス・エン

ゲ ル ス 選 集

﹄ 補

価値論においては、「価鉱かたいがの分析に注意をすつかり奪われ•••…プルジョア的生産様式〔を〕

3

五五頁

. .

.  

藍吏的に性

G86) 

格づけ︹る︺・・・価値形態の・:独自性を看過する﹂のに照応して︑剰余価値論においては︑

源のことは決して意に介しない︒彼は剰余価値をば︑彼の見るところでは社会的生産の自然的形態たる資本制生産

様式に内在する一事象のように取扱つている︒彼が努働の生産性について語る場合に彼がそのうちに求めるもの

( 8 7 )  

は︑剰余価値の定在の原因ではなくて︑剰余価値の大いさを規定する原因にすぎない︒﹂すなわちリカードは﹁いつ

も資本家と努働者との間に分配される完成生産物を前提しその分配董の生産力の変化による相対的変動を問題とす

るにとどまり︑その分配を導き出すところの・:

. .

.  

媒介的過程︹いいかえれば分配関係の基礎にある生産関係そのも

の︺を考察しなかった

] 0

なるほどリカードは資本家と努働者との間の分配関係を︑﹁実際上剰余価値の真の理論の

(89) 

ことなれる表現に他ならぬ﹂ところの﹁相対的努賃﹂の理論を展開することを以て︑すなわち︑努賃は﹁努働者の ﹁リカアドは剰余価値の起

参照

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