学校英語教育の課題
松本青也
1.はじめに
文部省から1998年12月14日、及び1999年3月29日に告示された新学習指導要領では、
小学校の「総合的な学習の時間」で学習の一環として外国語会話が行えるようになった ほか、中学校、高等学校とも、外国語科が必修科目となり、中学校では原則として英語 を履修し、高等学校で英語を履修する場合は、オーラル・コミュニケーション1、およ び英語1のいずれかが必修となった。
中・高それぞれの教科目標は次のようなものであが、
〈中学校外国語科目標〉
外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態 度の育成を図り、聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力の基礎を養う。
〈高等学校外国語科目標〉
外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態 度の育成を図り、情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする実践的コミュ ニケーション能力を養う。
どちらも、現行のものより更にコミュニケーション能力の養成に重点が置かれている。
教科内容についても、その取り扱いの中で「言語の使用場面」や「言語の働き」の例が 挙げられ、それらを組み合わせることで、実際の言語運用に即した幅広い言語活動が展 開できるように配慮されている。
1
学校外国語教育における、こうした英語運用能力重視の動きに呼応するかのように、
「21世紀日本の構想」懇談会が2000年1月18日に提出した最終報告1)では、次のように、
国際対話能力が強調され、英語の公用語化も示唆されている。
〈第1章・IV・1・(2)グローバル・リテラシーを確立する〉
グローバル化と情報化が急速に進行する中では、先駆性は世界に通用するレベルでなければいけない。
そのためには、情報技術を使いこなすことに加え、英語の実用能力を日本人が身につけることが不可欠 である。
ここで言う英語は、単なる外国語の一つではない。それは、国際共通語としての英語である。グロー バルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。
もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶこと も大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、
世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。
それには、社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な
1)「21世紀日本の構想報告書」.URL:<http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/
index2.htm1>.
到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レペル別のクラス編成英語教員 の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託な
どを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは 和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。
長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする。まずは、
英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。
これは単なる外国語教育問題ではない。日本の戦略課題としてとらえるべき問題である。
〈第6章・IV・3.国際対話能力(グローバル・リテラシー)のために〉
情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすることは容易でない。インターネットと英語 を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。双方についてマス・レベルで幼少期より馴 染むべきであろう。
誤解を避けるために強調しておきたい。日本語はすばらしい言語である。日本語を大切にし、よい 日本語を身につけることによって、文化と教養、感性と思考力を育むべきは言うまでもない。だが、そ のことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。日本語を大事にするから外 国語を学ぱない、あるいは日本文化が大切だから外国文化を斥ける、というのは根本的な誤りである。
日本語と日本文化を大切にしたいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの 接触のなかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきであろう。
すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、インターネット・グローバリゼー ションはその流れを加速した。英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他 はない。第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである。国会 や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然のたしなみとすべきである。イン ターネットによってそれを世界に流し、英語によるやりとりを行う。そうしたニーズに対処できる社会 とは、双方向の留学生が増大し、外国人留学生の日本永住や帰化が制度的に容易となり、優れた外国人 を多く日本に迎え、国内多様性が形成された社会であろう。日本が国際活動の流れから外れてしまうジャ パン・パッシングを嘆く事態を避けるには、日本社会を国際化し多様化しつつ、少子・高齢化の中でも fiiliEi的で活気に満ちたものとすることである。それが21世紀の日本の長期的な国益ではないだろうか。
これを受けて1月28日に行われた施政方針演説2の中で、小渕内閣総理大臣は、次の ような二つの目標を掲げた。
先進諸国を始めとする多くの国々が、グローバル化、少子高齢化、それに社会の構造を根本から変え る可能性を秘めた情報技術革命のうねりの中にあります。わが国もまた例外ではありません。明治以来 わが国は「追いつき追い越せ」を目標に努力を重ねてまいりましたが、もはや世界のどこを探しても、
目標となるモデルは存在しておりません。日本の在るべき姿を、私たちは自ら考えなければならないの であります。
この際、私は二つの具体的な目標を掲げたいと思います。輝ける未来を築くために最も重要なことは、
いかにして人材を育てるかであります。 「教育立国」を目指し、二十一世紀を担う人々は全て、文化と 伝統の礎である美しい日本語を身につけると同時に、国際共通語である英語で意思疎通ができ、インター ネットを通じて国際社会の中に自在に入っていけるようにすることであります。もう一つは「科学技術 創造立国」であります。現在、日本も加わって遺伝子の解析が行われておりますが、こうした分野で日 本が果たすべき役割は極めて大きいと確信しております。科学技術分野で日本が重要な位置を占めるこ とができるよう、例えば遺伝子治療でガンの根治を可能にするなど高い目標を掲げ、その実現を図って
2)「第百四十七回国会における小渕内閣総理大臣施政方針演説」.URL:<http://www. kantei.go.jp/
jp/souri/2000/0128sisei.html>.
まいります。
「国際共通語である英語で意思疎通ができ、インターネットを通じて国際社会の中に 自在に入っていけるようにする」ことが、国家の目標にまでなり、文部大臣も1月26日 に私的な「英語指導方法等の改善の推進に関する懇談会」を設けて2000年末をめどに 具体的な提言を求めた。経済界でも、1999年頃から標準テストで一定の得点を収めな いと昇進ができないことを決めた大企業が相次ぎ、それがマスメディアで大きく報道さ れたことも、実用英語への関心を国民レベルで高める一因となっている。
今やまさに、日本は国を挙げて英語運用能力の養成に取り組もうとしているようだが、
規模こそ違え、こうした試みは今までことごとく失敗してきたといっていい。それでは 今回のこうした動きも、結局は何の変化にもっながらないのだろうか。あるいは従来に ない、何か新しい成果を収めるのだろうか。だとすれば、その成果はどのような変化を
日本にもたらすのだろうか。本論のねらいは、それを考えることである。
ll.言語状況の変化
従来のさまざまな試みが失敗したのは、日本の英語教育に欠陥があったというよりは、
どのような教育を行っても成果を上げえない条件が揃っていたためである。まず何より も日常生活で英語を使う機会が全くなかった。確かに教室では色々な英語表現を本から 習ったが、それが生きた言葉として使われるsituational contextと結びついていなかっ たので、実際の場面で自信をもって使えなかったし、そうした場面に遭遇することも予 想できなかったので、情報のやりとりに英語を使おうとする(lirect motivationも成立し えなかった。
次に、英語など使えなくても豊かな暮らしができた。政治家であれ、実業家であれ、
医者や弁護士であれ、英語運用能力のある人は例外に過ぎなかった。英語など別に必要 ではない、という多くの実例に囲まれて、学習意欲を維持するのは極めて困難だった。
更にその上、日本語を母語とする日本人にとって、英語は系統の違いから、最も習得 が困難な部類に入る。英語圏の人が日本語を勉強する場合も同じで、彼らにとっても日 本語はもっとも難しい言語の一つなのだ。
こうした三つの条件が揃った国で、国民レベルで外国語教育の習得に成功した例は、
筆者の知る限りどこにもない。20世紀の英語教育が、英語運用能力育成という点で成果 を上げえなかったのは、至極当然なことなのである。
確かに日本にも、19世紀の半ばを過ぎた辺りで、しばらくの間、ごく一部の明治のエ リート達が学校のほとんどの教科を英語で学んだり、英語母語話者から授業を受けると いう、いわばESLの環境は実在した。しかしそれを除けば、およそ英語教育が始まって 以来2世紀の間、ほとんどの国民にとっては文字を中心としたEFLとしての英語教育が 上記のような3つの条件の元で、連綿と続いてきたのだ。そこで行われた作業は、定期 考査や上級学校への入学試験合格というような「評価」を主な動機づけとした、日本人 教師による英文解読が主流であった。情報のやりとりそのものを動機づけとした、音声 中心のコミュニケーションとは、およそ対極の作業だったのである。
こうした状況を画期的に変える可能性が、20世紀の最後に生まれた。マルチメディア の発達である。1989年に登場した衛星放送が英語圏のテレビ番組をそのまま日本で楽 しめる時代の幕を開けた。数年後には二つのチャンネルが英語による24時間放送を開始 し、自宅にいながらにして情報入手や楽しみのために英語をInputとして「使用」でき る環境が整った。そしてインターネット元年といわれる1995年辺りから、今度はEメー ルやチャットで英語をOutputとしても「使用」できるようになった。
今や、音声、表情、話の流れなど、英語が実際に話されている状況をsituational contextとして英語に直結できるようになった。それと同時に、英語で話されている内 容をぜひ理解したい、自分が言いたいこを何としてでも英語で伝えたいというdirect motivationが生まれたのである。つまり、学習者が実際に英語を生活の中で使おうとす れば、いくらでも使える状況が日本に初めて生まれ、上に挙げた最初の条件はもはや当 てはまらなくなったのだ。
二番目の条件についても、主にインターネットなどのデジタルメディアの発達と、海 外生産の激増などによる経済活動のグローバル化によって、国際コミュニケーションの 道具としての英語の能力が切実に求められるようになった。多くの企業が採用の際に英 語運用能力を求め、昇進にも響くようになり、英語ができなくても豊かな生活を送れた 時代は急速に終わろうとしているかに見える。
最後の条件については、言語の系統上の隔たりは埋められるべくもないが、習得の困 難さという点では、マルチメディアの発達が音声認識機能のついたCD−ROM教材など の形で疑似コミュニケーションを可能にし、更にデジタルメディアを介しての本物のコ ミュニケーションを可能にしたことで、習得過程が個別化、合理化され、大幅に効率化 されるようになった。
マルチメディアの発達は、上記の3つの条件をことごとく覆しただけではなく、異質 なものに触れされるという、学校外国語教育の本質的な機能を効果的に実現し、更に従 来では不可能だった、 「使用」から始まる帰納的な学習も可能にした。日本の言語状況
を変える点で、マルチメディアは極めて大きな役割を果たそうとしているのである。
lll.英語教師のディレンマ
マルチメディアの発達のおかげで、学習者にその意欲さえあれば、日本にいながら英 語をコミュニケーションの道具として実際に使用し、運用能力を育てること力河能になっ た。政界や経済界からの心強い追い風も受けて、教育環境はまさに順風満帆、英語教師 は運用能力の育成に適進すればいい状況が生まれてきたが、そうなればなるほど、逆に 英語教師の意識の中にさまざまなディレンマが頭をもたげてくる。それは主に次のよう なものである。
1.英語を喋れない教師が喋ることを教えていいのか?
家庭で英語放送を耳にすることもほとんどなく、教室に英語母語話者が訪れることも なかった時代には、日本人の英語教師は、いわば疑似英語母語話者として自信をもって 英語のモデルを提示し、学習者の信頼と尊敬を享受することができた。ところがマルチ メディアの発達で、学習者たちが母語話者の英語を耳にする機会が増え、教室でもALT
とのティームティーチングが行われたり、英語圏からの帰国子女が加わったりすると、
日本人英語教師の英語が不完全であることが露呈した。
前述の「21世紀日本の構想報告書」でも、 「日本人全員が実用英語を使いこなせるよ うにするといった具体的な到達目標」のための方策として「英語教員の力量の客観的な 評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託など」
が提言されているが、その根底にあるものは、日本人教師の力量への不信と英語母語話 者の絶対視である。確かに多くの日本人教師は英語を実際に使用する機会をほとんど与 えられないまま教師になっており、実践的コミュニケーション能力の点では力量不足で あると言える。しかし行政自体が、海外研修などで日本人教師にそうした能力をつけさ せる措置をとるよりも、手っ取り早くALTを招く方針であったために、技能習得の機会
を与えられないまま置き去りにされていたという経緯もある。
今や多くの日本人教師達は、自らの運用能力の不足を痛感しながら、後ろめたい気持 ちで教壇に立っている。いつまでたっても母語話者にはかなわないという点で常に運用 能力育成への強迫観念を抱きながら、結局は入試という狭い目標に照準を合わせること で自らの存在を正当化しようとする、屈折した精神構造を抱えているのだ。
2.英語を教えることで英語支配に加担してはいないか?
実践的コミュニケーション能力の養成が学校英語教育の究極の目標であるなら、英語 教育にとって英語母語話者の言動が理想であり、ひたすら母語話者の物真似をすること が英語教室での第一義的な作業となる。ALTが最良の教師であり、帰国子女はその次、
そして大多数の日本人教師は、更にその次の三流の英語教師として位置づけられ、いわ ば本当には求められていない代用教員として劣等感を抱くことになる。
英語教室の中のこうした構図は、いつの間にか日本人学習者たちの間にも英語母語話 者に対する劣等感を育てていく。その結果、学習者は母語である日本語や日本的な価値 観を軽視するようになり、日本語による表現力も衰え、精神の植民地化が進行し、英語 支配の精神的状況が整備されて行く。そしてこうした英語教育が効果を上げれば上げる ほど、日本という国は英語母語話者にとって便利な国になり、彼らの日本語習得への意 欲がますます衰退していくという点でも、英語支配を強化定着することにつながるのだ。
3.全員に英語運用能力を求めることで、不当な負担を強制してはいないか?
今までいったいどれほど多くの日本人学習者たちが、何の成果ももたらさない英語学 習のために膨大な時間を費やしたことだろうか。その過程で彼らは、他の事で才能を伸 ばすための時間を奪われ、英語力がないというだけの理由で興味ある分野への進学の可 能性を狭められ、不必要な挫折感や劣等感を抱くことを余儀なくされた。良心的な教師 であればあるほど、 「何のために英語を学ぶのか」という成績不良者の素朴な問いかけ に納得できる答えを与えられないまま、英語学習を画一的に強制することにためらいを 感じ続けてきた。
負担は在学中だけにとどまらない。例えば労働省の教育訓練給付制度の適用を受けて 専門学校などで英会話を受講している人に国から支給される20万円は、社会に出て英語
とは何の関係もない仕事をしている人でも、間接的に負担していることになるのだ。
英語教師が感じる、以上のようなディレンマを克服するには、まず21世紀の世界の言 語状況を客観的に予測した上で、日本の現実的な言語政策を決定することである。それ をしないまま外国語教育の理念だけを短絡的に上塗りし続けてきたために、英語教育の 目標は常に絵に描いた餅で終わってしまった。
lV.言語政策
21世紀には言語問題が世界の最重要課題の一つになるということは、世界の多くの識 者が指摘している。日本では、小淵首相が既に「国際共通語である英語」と断定してい ることからも分かるように、世界の言語状況を英語が圧倒的に支配するという予測が幅 を利かしている。しかし将来の言語状況を予測したさまざまな調査研究が、必ずしも共 通して英語のそれほどの支配を結論づけているわけではない。
例えば、英語教育の総本山とも言えるBritish Councilが1995年から始めたEnglish 2000 Projectは、世界での英語使用を予測し、英語教育をそれに対応させるためのもの であったが、その調査を生かして英語そのものにっいての展望をまとめた報告書7he Fロω指ofEng1勧戸では、21世紀の世界共通語について次のように述べており、
_no single language will occupy the monopolistic position in the 21st century which English has−−a㎞ost−−achieved by the end of the 20th century. It is more 1ikely that a smal1 number of world languages wM form an oligopoly , each with particular spheres of influence and regional
bases.(p.58)
具体的には、2050年の世界の言語状況について、5大言語が共存すると予測している。
〈母語話者の推移予測(p.8,27)〉
1996
1.Ch㎞ese 2.English 3.Hindi/Urdu 4.Spanish 5.Arabic 6.Portuguese 7.Russian 8.Bengal 9.Japanese 10.German
1,ll3
372 316 304 201 165 155 125 123 102
2050
1.Ch㎞ese 2,HindifUrdu 3.English 4.Spanish 5.Arabic 6.Portuguese 7.Bengal 8,Russian 9.Japanese 10.German
1.384
556 508 486 482 248 229 132 108
91
第二言語、もしくは外国語としての英語話者にっいても、2030年頃から外国語とし
3)D,Graddol.1997,7he Fu ture of English?The British Council.
ての話者人口が横ばい、もしくは減少することと考え合わせると、その合計人口が今の ような割合で増加し続けるとは考えられないとしている(p.60)。確かに、インターネッ
ト上の言語にっいても、数年前までは8割以上が英語だったが、現在では急速に他言語 が使われるようになっている。Global lntemet Statistics(by language)4)によれば、2000年2 月の時点で英語は53.7%に過ぎず、英語以外では、日本語が1番多く使われていて7.1
%を占めているという。将来の予測にっいても、2005年を過ぎた頃までに英語は30%
台までに減少するとしており5)、この点については、先の71he FutUre of English ?での、
次の10年で40%辺りになるだろうという予測と一致している(p.61)。
ところが、日本では、こうした冷静な予測よりも、英語が世界を席巻することへの決 めつけとそれに対する過剰な反応が相変わらずマスメディアを賑わせている。例えば新 聞に登場したある識者も、「インターネット上の言葉の八割は英語だ」と、古い情報を 流した上で「すべての国民がある程度の英語能力を身につけることが、最低限必要なこ
とになりつつある」Oと決めつけたりしている。
日本での言語を巡る議論にもう一つ欠落しているのが、言語についての人権意識であ る。生まれ落ちたときに、たまたま皮膚の色が黒かったというだけの理由で奴隷として 家畜同様の扱いをされるとすれば、それは人種差別で、理由の如何に拘らず絶対に許さ れることではないと人類が認識したのはほんの最近ことだった。たまたま女性に生まれ ただけで男性よりも劣った存在として扱われるのは不当な性差別であることを悟ったの は更に最近のことである。だとすれば、たまたま英語を母語としない集団に生まれただ けで、圧倒的に不利な状況に置かれ、英語習得の負担を強制されるとすれば、それはま さに言語潮llと呼ぶべきものであるが、それを圧倒的世論として日本人が認識するには、
まだかなり時間がかかりそうである。
既に1996年6月にはバルセロナで、そのような理念に基づいたUni versa1 Declara tion of Linguistic Rights(世界言言吾権宣言)7)が採択され、ユネスコ代表部に提出されているが、
その事実を知っている日本人は少ない。 「21世紀日本の構想報告書」が言語について訴 えていることも、要するに英語とその背後にある強力な勢力にうまく適応していくため に、英語習得に国民一丸となって適進しましょうというだけのことであり、そこには
「強者」、 「権威」への抵抗力をつけ、対等な立場で「対決」できる日本人を育てよう という姿勢はない。
独立国の言語政策の基本は、国民の母語教育を充実することである。自分の母語への 誇りを育ててこそ、他のすべての人の母語への畏敬の気持が生まれる。私たちは、慣れ ない外国語で自分を表現することを強制された途端、とても責任ある社会の一員として は機能できない、舌足らずの子どもの様な存在になってしまう。たとえ英語がさまざま
4)〈http://www,euromktg.com/globstats/〉(2000年2月26日アクセス).
5)<http://www.euromktg.com/globstats/evoLhtml>(2000年2月26日アクセス).
6)朝日新聞「識者に聞く英語公用語化」2000年2月25日.
7)この内容は、国連総会での採択に向けての活動を行っているフォローアップ委員会のホームページで知 ることができる。<http://www.tr㏄.es/mercator/dud1−gb.htm>.
な便利さや利益をもたらしてくれるとしても、私が私でいられることと引き換えにでき るような、どんな便利さ、利益があるというのだろうか。
母語教育を拡大充実した上で、お互いの母語を大切に守り尊重するために、非英語圏 諸国と連携をとりながら、言語差別を解消するための国際協定の締結を働きかける一方 で、多言語主義を可能にするデジタル技術の研究開発にも技術王国とされる日本はより 多くの役割を果たすべきである。世界の言語状況の推移をまるで自然現象を観察するか のように受け身でとらえるのではなく、少なくとも日本の言語状況は日本人が決定する のだという主体的な姿勢が、今切実に私たちに求められているのだ。
V.外国語教育の理念
母語教育を充実し、母語で自分を表現する権利を守るためにさまざまな施策を展開す べき行政官庁は、外国語教育にっいても、次のような理念のもとで、具体的な施策を講 じるべきである。
1.強制される不当な負担としてではなく、言語と思考の幅を豊かに広げる外国語教育 北海道から沖縄まで、日本語だけで通用するという世界でも珍しく恵まれた言語状況 を持つ日本人の全員に、必修教科として外国語教育を与えるなら、その本質的な機能は、
異質な言葉とその背後にある異文化に触れさせ、人間の豊かな多様性を実感させること にほかならない。英語教師が学習者に不当な負担を強制してはいないかというディレン マを感じているとするなら、それはとりもなおさず教師自身が、英語教育のそうした意 義を認識していないためである。
そのことに気付かせるためには、教員養成課程での履修科目に日英対照言語学や社会 言語学などを取り入れ、英語以外の外国語も学ばせるべきである。現職教師への研修も、
まずそうした分野の知見に触れさせるべきであり、学習者が言葉についての知的好奇心 を刺激され、ゆとりをもって言葉と思考の多様性を実感できるような授業を展開できる 力量をこそ養うべきなのだ。そうなれば、学習者にとって英語の学習は不当な負担では なく、外国語に触れて人類の豊かさに驚嘆し、視野を広め理解を深める機会や意欲のな い英語母語話者を、むしろ同情する気持ちさえ生まれてくることだろう。
2.多言語・多文化共生を実現するための外国語教育
英語の勢力拡大と並行して、地球上の弱小言語が刻々と消滅しつつある。21世紀の間 に現存する言語の半数が消滅し、22世紀を迎えられるのは1,000程度の言語でしかない という予測Siや、それは21世紀の中葉に既に現実のものとなるという予測9)がある。こ うした言語消滅の加速化に危機感をもち、それを食い止めようという動きが世界各地で 活発になっているが、EUも例外ではない。1992−93年の調査で、加盟国において中等
8︶
David Crystal.1997.7he Cambt icige Encyclopediaof Language.2nd ed. CaMbridge University
Press. p.370.
9︶
D.GraddoL 1997. The Fu ture of Englisl]?The Brltish Counc11. p.59.
教育レベルで生徒が学習している外国語の数が1.2にすぎないことが判明したEUは、ヨー ロッパの文化と言語の豊かな多様性を保持するための言語政策として、外国語の習得を 小学校から始め、中学校では少なくとも二っの外国語を習得させるという方針を 打ち出している10)。1999年末には、ユネスコも加盟国すべてに呼びかけ、子どもたち
に幼稚園のレベルから外国語を習得させ、もう一っの外国語を中学レベルで習得させる べきだと勧告しているID。
つまり、地球に現存する多言語、多文化の豊かな多様性をこれ以上損なうことなく維 持するために、母語以外の二言語が今や地球市民の素養になりつつある。熱帯雨林やオ ゾン層の保持といった環境問題が、当初は目前の利益のために軽視されていたのと同様 に、現在は経済的利益に隠れてまだ見えにくい段階にある言語権の問題が、やがて世界 各地で大きな課題として認識されることになるだろう。クジラの消滅を防ぐために日本 人が食文化の放棄を余儀なくされたように、英語の拡大による他言語の消滅を防ぐため に、英語圏の人達もまた、二つの外国語を学ぶことを余儀なくされるべきなのである。
英語を教えることで英語支配に加担してはいないかという英語教師のディレンマは、学 校教育の中に二つの外国語を自由に選択できるシステムが誕生し、英語圏の人達も日本 人と同じように外国語の習得に励んでいるという状況が生まれたときに解消されるのだ。
3.単なる技能として、対等で、気楽な態度を養う外国語技能教育
それでは、英語を喋れない教師が喋ることを教えていいのかというディレンマはどの ようにして克服できるのだろうか。このディレンマの原因は、英語母語話者の英語と日 本人教師の英語を比較していることである。目標を母語話者の英語に置いている以上、
いつまでたっても日本人教師は帰国子女にも勝てない三流の教師である。そして学習者 も完壁な英語母語話者を前にして自分の英語が恥ずかしく、緊張で金縛り状態になって 何も言えなくなってしまう。
しかし万一可能だとしても、なぜ日本人全員が母語話者そっくりに英語を使う必要が あるのだろうか。もしそれにこだわるとするなら、それは英語母語話者を神格化し、理 想化し、全人格的に彼らのようになることを目標としているために他ならない。そうで なければ、比べるなら日本人教師の英語と英語母語話者の日本語である。対等な立場で 比べてみれば、不必要な劣等感を抱く必要はなくなる。どちらが話す外国語も、外国語 である以上誤りがあるのが当然なのだ。教師が英語に対して、そういう対等で気楽な態 度を示してこそ、学習者も恥ずかしがらずに英語を喋り始めるのだ。
すべての日本人に与える学校英語教育の目標は、日本語を母語とする学習者に英語と その背景文化の異質さに触れさせ、さまざまな発見を通して言語と思考の多様性を実感 させることである。そしてその仕事においてこそ日本人教師は卓越すべきである。そし て選択で与えるべき英語技能教育の目標は、英語圏で生活することになったときや、英 語圏の人と英語でやりとりを余儀なくされた場合のための、いわゆるSurvival English の習得である。ここで日本人教師は、日本人の立場で、日本人に必要なSurvival
10)三浦信孝編.1997,『多言語主義とは何か』 (藤原書店)p.108.
11)ELT・News.<http://www.eltnews.c。m/eltnews.shtml>. P。sted 12/7/99.
Englishをうまく教えることである。その仕事においてこそ、日本人教師は英語母語話 者や帰国子女の追随を許さない、一流の外国語教師となりうるのだ。
M.外国語教育の再構築
上記のような外国語教育理念を実際に初等・中等教育での言語教育に生かすためには、
選択制を大幅に取り入れたカリキュラムの再構築が必要となる。まず、充実した母語教 育と並行して、言語教育の一環としての必修「多言語・多文化理解教育」の中で、英語 以外にも幾っかの言語に触れさせ、異質な言語や背景文化の多様性を実感させる必要が
ある。
次に、2002年度から正式に発足する「総合的学習の時間」では、地球市民としての 様々な課題に取り組ませる「国際理解教育」を教科の枠を超えて必修で与えることがで きる。この中で、日本人のアイデンティティーとは何かを考えさせ、英語支配や言語消 滅の問題も様々な角度から客観的に考えさせたい。
実践的コミュニケーション能力の養成については、学校教育の中に複数の外国語を対 象とする「無学年選択制集中コース」を誕生させるべきである。そこでは、少人数クラ スでALTやマルチメディアを活用した効率的な技能教育が展開され、希望者はいつでも 好きなだけ学習できるような体制が整えられるべきだ。
Vll.終わりに
もともと強大なものにへりくだり、調和を重視して自分の権利を主張しようとしない 日本人の気質に、バブル崩壊後の自信喪失や、経済活動のグローバル化、アメリカの一 極支配への動き、などといった要素が重なり、日本人は今や異常なまでに英語習得への 強迫観念に捕らわれている。英語公用化などということがいかに非現実的な幻想かが分 からなくなるほど、英語支配の固定観念に縛られているのだ。だからこそ、実質的に唯 一の外国語教育を任された英語教師は、まさにどのような言語状況を日本に実現するか の舵取りも任されているといえる。その意味で、日本の学校英語教育の課題は益々大き く、その責任はずっしりと重い。
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