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技術と経営

著者 奥田 耕一

雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University

12‑13

ページ 82‑67

発行年 1975‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/37119

(2)

技 術 と 経 営

奥 田 耕 一

1

技術と経営のかかり合いの根底にあるものは何であろうか。資本制社会のみ を射程においてみれば,それはまぎれもなく資本であるといわねばならないで あろう。産業革命の推移が示すものは,機械の発明という技術条件の変革が,

マニュファクチュアから機械制工場工業への生産システムの変化をもたらした ものと理解されている。ワイアットとポールの巻軸紡績機(1735)からアーク ライトの水力紡績機(1769)にいたる紡績機の発明による紡績労働の生産性の 飛躍的向上がそれであり,ワットの複式蒸気機関の完成(1765)による新しい 製鉄法もまた重要な基盤となった。機械制工場工業という新しい生産システム の展開は画期的な経済変動であったが,それはまた資本と労働の利害対立する 生産関係を定立するという社会変動を醸成したのであった。われわれはこのよ うな産業革命の推移から,技術革新一→経済変動一→社会変動という図式を, さし当って読みとることができる。

資本制社会は資本のイデオロギーが支配的な秩序であるが,資本のイデオロ ギーに対して労働のイデオロギーも当然に成立つのが筋道であるが,しかし労 働のイデオロギーが国民経済を支配する権力として具象化するのは,いうまで もなくロシヤ革命をまたねばならなかった。にもかかわらず,労働のイデオロ ギーは資本と労働の対立とともに胎動していたのであり,空想的社会主義は思 想史上に復権すべき正当な位置をもつものと思われる。

ともかく,社会は社会的勢力の対立桔杭する場所であり,資本制社会は社会 的勢力としての資本が労働を制圧してきた場所である。そこでは,生産力の発 展の要件である技術革新は,実験室から生れる新技術から直ちに引き起される のではない。資本の費用収益計算がその新技術の採用を有利であると期待し,

判断した局面において現実化する。

技術の本質が何であるかについては,労働手段体系説と意識的適用説との間

(3)

に論争があって,その決定的な決着がついているものとは思われない。むしろ 両説の立場がそれぞれマルクス主義の理念に立ちながらも,技術に対する問題 意識の持ち方を異にしているのではないかという指摘に説得力がある。(1)物 質的生活が依存する生産方法を生産関係と生産力の二要素に分けて整序するア

図 表 1 . 1 生 産 の 諸 条 件

生 産 方 法

生 産 生 産 関 係

生 産 手 段

ブローチに立つならば,技術は実体論的には労働手段の体系として位置づけら れるであろう。(図表1.1)しかしながら,技術が実験室から経営体そのものに よって実用化され,企業化されるためには,経営者の意思決定による意識的適 用がなくてはならない。

資本制社会における技術と経営の関係は,根本的に資本の裁量に依ってい る。それは資本制社会が資本の支配する社会であるという自明の同語反覆に近 い。企業経営の現実の諸相の観察から導き出される推論としても同様である。

しかし一方,資本制社会は複数の個別資本が競争する社会である。現代の企業 間競争の主要なものは寡占的競争であって,企業の意思決定は明快な利潤原則 による自由競争から屈折して複雑なものになっているけれども,(2)競争の存 在はまぎれもない現実である。むしろ,固定資産投資額の巨大な寡占企業間の 競争は,市場条件の如何によっては陰惨苛烈な様相を呈するといわねばならな い。その重圧を軽減するために,反独占立法下において巧妙な策謀が講ぜられ ることも必然的傾向であるが,経営者が新技術を企業化すべく採用する期待と 判断は,一面においてまさにこのような競争の意識に支えられているものであ

る。

(4)

ところが,技術や経営という現象が人間の社会に登場してくるのは,技術や 経営の概念規定に照してみても明らかなように,資本制社会よりもはるか以前 のことであり,かつまた現代において資本制社会に対立するイデオロギーの社 会にも存在するものであることは云うまでもない。ベルやボールデイングによ って描かれている未来社会のイメージを追加して考えるならば,技術や経営の 脱イデオロギー性はさらに増幅されて意識に上ってくるであろう。(3)電力の 開発に対してレーニンが示した強い情熱,さらにはテーラー・システムの搾取 性をはげしく論難しながらも,社会主義体制下におけるその活用の効果を強調 した彼の論調は,技術の脱イデオロギー性と不可逆性を傍証するもののように 思われる。(4)

このようにみれば,技術と経営のかかわり合いの根底にあるものは進歩の観 念であるということができるのではないか。人間の社会の歴史的変動について は,古くから明暗両様のイメージにもとづく論争がくりかえされている。社会 に関する思想は,久しい間,楽観主義と悲観主義との相剋であり,思想史上に は進歩の観念をめぐって多くの記念碑が立てられてきたと云うべきであろう。

文明の痕跡はもとより思想だけにとどまるものではない。しかし,少くともわ れわれが平準的な想像力をもって評価し推論する材料は,文字によって書かれ た遺産である。その限りにおいてオプティミズムとペシミズムの系譜は,古代 ギリシヤや春秋戦国の時代にさかのぼることができる。今さし当って西欧近 代,すなわち産業革命と市民革命と宗教改革の結果としての18世紀後半以後の 文明社会を思い浮べてみても,楽観主義と悲観主義は対立併存している。人間 の社会の歴史が進歩の軌跡であるか,それとも堕落の過程であるかという設問 の解答としての認識は,思惟する人間の世界観(Welt‑md‑lebensanschauung) に関するものであって,このような哲学的概念はもともと検証可能なものでは あるまい。にもかかわらず,社会にまつわる科学としての社会科学が,このよ

うな哲学的概念と絶縁することは困難であるように思われる。

社会の進歩に関するオプテイミズムは18,19世紀においては,コンドルセー

「人間精神進歩史」ズペンサー「社会学原理」に典型をもつが,西欧を凌駕す る経済的繁栄を20世紀初頭に実現したUSAにおいて,適者生存というスペン ザーの社会進化思想は彼の生国よりも広汎な支持を得ることになった。(5)現 代においても,たとえばマクドノウは「情報の経済学と経営システム」の叙述 の中でUSAにおける進歩の態度を強調して「毎日われわれは新しいものを期 待し,われわれの欲求を通じて進歩を維持している。われわれの力とは何をな

(5)

すことができるかを探求する健全な好奇心である」と述べるとともに,進歩は 社会と組織の目標とその相互作用の包括的な研究を通じて求められていること を強調しているのである。(6)

自然的存在としての人間は,長い歴史を通じて自然的環境にはたらきかけて きた。思うにそれは,自然的環境が人間に対してその欲するところをさまたげ る苛烈な制約条であったからである。この自然的環境へのはたらきかけという 性向は,人間存在のもつ根源的なものであると考える外はない。人間はこの性 向の故に自然的環境へのはたらきかけを通じて,自分にとって一層快適な条件 を作り上げようとする。勿論,このような根源的性向は,地域や時代を異にす るにつれて,また民族や文化を異にするにつれて,その発現の様相と程度にい ちじるしい相違を見せていることは明らかな事実であり,それが一体いかなる 理由によるものであるかについては,過去において十分なる解明がなされてい ないのみならず,将来においてもそれが可能であるとは思われない。(7)それ にもかかわらず,このような人間精神の根源的性向は経験的事実として認めざ るを得ない。人間は個体として,すべて進歩の意欲をもった存在である。それ がすでに消滅して全く無意欲になってしまったかにみえる人間にも,その意欲 がいつか甦るかもしれない可能性を蔵しているという意味で,すべての人間に とって進歩の観念は経験的な存在条件である。人間の願望はまことに多種多様 であるが,かならずしも無事安穏を求めるわけではなく,動物的な生活条件の 束縛からの解放を求める自由への憧慢のためには,時として欠乏にたえ危険を 冒すのである。距離と時間を超え,暑熱寒冷の気候的障害を克服し,暗黒と醜 悪を去って光と美を求め,無知を差恥して知識を追求する。これらの欲望こそ デサウアーも云うように発明への努力の原動力なのであって,このような欲望 は人間にとって少くとも権力や財物への欲望と同様に作用するものなのであ る。(8)

技術の進歩は自然科学の発展に随伴している。何故ならば,技術が自然に対 する能動的なはたらきかけであるにしても,それは結局のところ自然法則を超 えることはできないからである。人間は現代にいたっても勿論,自然法則のす べてを明らかにすることができたわけではないが,自然現象の観察の結果によ って展開する純粋科学が導き出す理論にもとづいて定立された自然法則を満す ものとして,技術は開発されるのである。

しかし他方,技術の誕生は,その技術を駆使しておこなわれる生産活動の生 産物が,社会的需要に応ずるものである場合に,社会的な効用を生み出す。「必

(6)

要は発明の母」という諺はそのことを素朴に物語るものであろう。紡績機の発 明発展も,マニュファクチユアの生産力では満足させることのできない綿織物 の大きな社会的需要が背景にあったのである。技術革新の主役が企業家である というシュムペーターの主張の前提には,新技術を可能にする科学理論の先行 とともに,新技術による生産物を消化する社会的需要が存在しなければならな

い o

それ故に技術は,科学一理論という精神活動と,生産一消費という経済 活動とを結合する回路に位置するものであり,それらの間のプロセスは(図表 1.2)のごとき構造をもつものとして考えられる。

図 表 1 . 2 科 学 技 術 の 再 生 過 程

観 察 社会的需要

新しい問題

粋 科 学 エ ン ジ ニア リ ン グ

童 l 棗 , − − ョ 三 雲 L / / 「 三 4 ‑ "

2

技術のイメージは,第一義的には物を生産する行為と結びついているが,そ れは物財の生産を念頭において体系化されたマルクスの生産手段の概念に裏付 けられて鮮明になる。そこでは生産手段とは労働手段と労働対象から成立つも のである。「労働手段は労働者によって彼と労働対象との間に入れられて,こ の対象への彼のはたらきかけの導体として彼のために役立つもの,またはいろ いろの物の複合体であり,」('0)「人間労働の発達の測定器であるのみでなく,

その中で労働が行われる社会的諸関係の表示器である。」('')ここから生れる 技術概念は生産技術であり,就中,それが労働手段の体系であるという立場を とるならば,労働力や労働対象に関する技術は除外されることになる。このよ うな推論は労働手段体系説の難点を指摘することになるであろうが,それはと もかく,マルクス以来の慣用にしたがって労働対象を有形の財物に限定するこ とは,現代産業社会の情況を理解するためには不便をともなうものという外は

(7)

あるまい。すでにUSAにおいては1956年以降第3次産業の就業人口が全産業 人口の50%を超えているが,日本においても1975年度国勢調査の1%集計速報 によれば,3次産業人口が遂に50%に達することになった。生産概念は,この ような産業構造の社会においては,財物ならびにサービスの生産を包括するも のとせねばならない。アウトプットとしてのサービスは,第3次産業の概念内 容が示すごとく,多様な種類のものを包含しているが,サービスの中で加速度 的増大を示している内容は情報ないし知識であって,そのために必要な生産要 素の結合に関与するものは,自然科学的知識のみならず社会科学的知識をもカ バーしなければならないものである。

技術という語が理論的に用いられたのは周知のごとくアリストテレスにまで さかのぼるが,以来延々として現代にいたっても,たとえばマンフォードにみ られるように,技術は生産技術を意味するものとして扱われている。('2)しか し同時にまた一面,たとえば馬場敬治によって遣された多くの論策においては 社会科学的技術と自然科学的技術とが対置され,さらには広義の技術が経済技 術(生産技術・財務技術)軍事技術・科学技術・医療および衛生技術・遊技お よび娯楽技術・家庭技術・政治技術・宗教技術・芸術技術という9項目に分け て考えられている。('3)ただしその場合においても,実際に考察の対象になっ たものは主として生産技術であったと云うべきで,これらの事情を総じて推論 されることは,技術のイメージが生産技術に結びつくということに外ならな

い o

生産過程を種々なる構成段階に分解し,そこに生ずる問題を自然科学の成果 を応用することによって解決することは,機械制工場の基本的原理である。('4)

自然科学の成果の利用としてそこに導入されてくる機械体系は,それを構成す る作業機群が連続的になることによって完全化していく。('5)このようなマル クスの洞察は,機械的生産のシステムが機械化原理を貫徹させるものであるこ とを予言している。すでに分業と専門化はマニユファクチユアによって実現さ れていたが,産業革命による機械システムの投入は,専用の道具を使用した分 業というマニュファクチュアのマン・システムをマン・マシン・システムに変 容する。そして機械体系が一層広汎に連続的になるにつれて,労働者は機械体 系に適応しなければならない度合いを強化させられてきたのである。

このような生産技術の条件の下に,管理という現象は発生する。そのプロセ スは次のごとく進行してきた。

(1)機械の生産力の優位性が実験実証される。

(8)

②機械が生産過程に導入される。

(3)機械生産に適応するために作業が標準化・単純化・専門化される。

(4).作業が機械化される。(作業の機械化)

(5)機械化された作業を統括するために管理業務が発生する。(作業の管理 化)‐

作業の機械化と作業の管理化は,いわゆる熟練の移転が二つの方向に向って なされるものであることを示している。 16

生産技術の進歩は作業の機械化を進展させる。機械化されたサブシステムは 逐次連続してトータル化の方向をたどるのであるが,機械化の進展と生産量の 大規模化は管理業務を質においても量においても増大させ,かつまた複雑化す る。その結果,管理機能を合理的に遂行するためには,固有の管理業務と区別 された管理準備業務が必要になる。このようにして管理業務から分離した管理 準備業務がいわゆる管理事務と呼ばれるものである。

管理事務は管理のための準備作業である。それは工場(Shop)における作業 あるいは事務所(OHice)における作業,あるいは事務職員(Clerk)のおこなう 作業である。このような管理事務は経営活動の全分野にわたって成立する。し かもその分野は,生産管理事務とか販売管理事務とかの大きな枠組みからさら に細分化していく。経営活動の規模の拡大につれて管理の分野が細分化される ために,管理にともなう管理事務の分野も細分化されるからである。

経営活動は財務一調達一生産一販売というライン機能と,計数・企画・人事

・システム等のスタフ機能をもっているが,それらすべての部門について管理 事務の遂行をそれぞれ合理的に進展させることは,管理事務の処理技術が体系 化されるということに外ならない。そしてかかる体系化は,事務作業の機械化 と管理化という形で進展する。何故なら,サブシステムカヌ連続してトータル化 の方向をたどるからである。管理事務の処理技術はまさに管理技術であり,か

くして管理技術は体系化の方向を模作することになる。

管理技術の科学的な開拓は,テーラーを象徴的存在とする能率技師たちによ っておこなわれた。テーラー・システムは東部鉄道事件における荷主側の弁護 士ブランデースの発案で科学的管理法という誇らかな名称を用いることになつ たが,そもそもの出発点は標準作業量すなわち課業の科学的設定を問題とする 作業研究であった。その後,半世紀の間に管理技術はかなり多方面にわたって 精綴な専門的分化を果してきた。試みに,生産管理部門の管理技術をとってみ よう。生産管理とは,生産活動に科学的方法を適用して,生産目標の達成を効

(9)

果的におこなわせる管理行動を意味している。そしてその中には,作業管理・

工程管理・品質管理・設備管理・工具管理・日程管理・エネルギー管理・倉庫 管理・在庫管理・運搬管理・安全管理・衛生管理・外註管理・資材管理・購買 管理等のサブシステムが包含されているのである。これらの個別的管理技術は

「資本の論理に流されて,うたかたのように生れては消えていく,あれやこれ やの思いつきの管理手法」('7)という論難を受けてはいるものの,単に手法 (Art)の域にとどまらず技術(Engiueering)として形成されているという

ことができるのである。

ところで,これらの細分化し精綴化した個別的管理技術は,それぞれの科学 的水準の高さがそのまま経営管理の水準の高さとして反映されるわけではな い。細分化した管理技術は,その一つ一つだけでは経営管理上ほとんど意味が ない。それらのサブシステムは,たとえてみれば,連結した鎖のごとく均質化 した強度をもたなければ上位システムの強化に貢献しないのである。もしも何 れかのサブシステムに比較的決定的な弱点があった場合には,その弱点は単に サブシステムの弱点であるだけではなくて,そのまま上位システムの経営的弱 点となる。逆にまた,何れかのサブシステムが飛び抜けて能率的であった場合 には,それは実は全体システムにとって無用の長物なのである。

この点,生産技術においては事情を異にしている。研究開発部門が実験室の 中で完成した技術は,それが傑出したものであればあるほど経営者を欣喜せし める。いうまでもなく革新的ないしメタモルフイックな技術の発展は,生産性 を対数的上昇カーブに乗せるとともに,そのすぐれたコスト・パーフォーマン スによって特別利潤・創業者利潤の美酒をもたらすからである。またそのよう な技術革新が製品としての完成度をもたないものであっても,欠如技術に関し て輸入ライセンスによる補強が可能である。むしろ技術輸入のライセンス契約 は,自ら傑出した技術を保持する経営体であることがその契約を有利に締結す るための必要条件である。('8)

ところが管理技術においては,管理技術の輸入による補強はそれだけでは経 営的成功をもたらさない。生産技術は人間が自然にはたらきかける技法に由来 するものであり,したがってそれは物に体化しているのに対して,管理技術は 組織の構成員という個性を没却できない人間の集団にかかわるものだからであ る。人間はすべて自由な精神をもち,しかもその自由な精神の発揚する姿態は 一様ではない。つまり人間は個性的なのであり,したがって人間の集団は個性 的である人間の集団としての個性をもっている。管理技術はそれ自身個性的で

(10)

ある人間集団の活動を管理するものであるが故に,その集団の個性に即して培

養されねばならないのである。

それ故に管理技術にとって必要なことは,それぞれのサブシステムにおける 科学性のバランスないし平準化である。そしてその科学性のバランスを判定す るものは個別の管理技術ではなくて,経営管理の意思決定者であるが,その意 思決定そのものが科学的であるためには,多数の細分化した管理技術を統括す

る原理がなくてはならない。

企業の当初の支配形態は所有者支配であったが,その経営規模の発展は所有 と経営の分離現象を招来した。専門経営者による経営管理は資本の利潤を確保 するために有効適切であるが,ゼネラル・マネジメントは専門的職能として現 代的企業の経営活動の中に確実な存在の地歩を占めている。それはまた,テク

ノクラートとならぶ現代の社会的勢力でもあるというべきであろう。

経営体の職能構造は,後に述べるように立体的構造をもつものと考えられる が,Top‑Middle‑Lowerというマネジメントの階層の機能は包摂関係にある のであって,経営者の意思決定は経営体の全体的情況を把握した上でおこなわ れねばならない。それはまさに経営体を全体的・統一的システムとして捉える ことを意味するのである。「システム」はジョンソン等の指摘するように,経 営についての一つの考え方(awayOfaliuking)であって,全体としてのシ ステム(systemasawhole)を捉えることによって,サブシステムの機能そ のものが理解されるのである。('9)

3

多くの管理技術の中で事務管理の分野は比較的遅れて開発されはじめたもの である。事務管理はOmceManagementに相当するものであるが,この訳語 の成立には,発案者の叙述に照してみても厳密な論理的根拠が乏しいO(20)管 理技術の生成は工場における作業の科学一作業研究として出発したが,テー ラーが創始したその手法を事務作業に適用することを試みたのは1917年におけ るレフイングウエルの「科学的事務管理」であって,これはテーラーの「工場 管理」(1903)や「科学的管理法」(1911)にくらべて若干の遅れがある。この 遅れは管理の生成発展過程からみればむしろ当然のものであった。:

尤も,事務管理の思想と技法の萌芽は,テーラー自身の中にあったというこ とができる。テーラー・システムの重要な要素である職能的職長制度にあって は,職長の名称としてBossとClerkが対置されており,計画室というスタ

(11)

フ機構の担当すべき業務として列挙されている17項目の中には事務機能と目さ れるものが数項にわたって含まれている。(21)

事務管理思想の萠芽はさらにテーラー以外にも存在した。デイクシーならび にシュルツである。前者はイギリスの会計学者であるが,両氏の立論の出発点 は事務所の存在意義を認識するところにあった。ディクシーは事務所が会社の 頭脳であり,その機能は全機構の中枢神経でなければならないことを指摘する 洞察を示しており.(22)シユルツの労作はその雛案者である金子利八郎を感銘 させたものであるが,科学的管理法の理論を忠実に事務管理に導入することは レフイングウェルによってなされた。事務の問題の研究と処理に科学的方法を 適用することは,レフイングウェルにとって事務の研究体系の基礎づけとなる ものであって,彼の主著である「事務管理の原理と実務」の序文はその先駆的 役割を表明しているO(23)

USAにおいては1870年から1950年にいたる80年の間に,有給雇用者は1250 万人から5600万人に増加したが,事務職員の数は31万人から689万人に増加し た。すなわち事務職員の増加倍率は全労働者の5倍をこえるものであった。ま た1935年から1950年までの15年間に,工場労働者に対する事務職員の割合は12 倍に増強した。(24)このことは3次産業人口の 増大という社会構造の変化の一 翼をなしているが,他面また生産労働の機械化にくらべて事務管理の展開が遅 れていることを示している。

レフイングウェルもまた,このような事務職員と事務量の増大に着目したの であって,彼にとって科学的管理法はこの問題を処理するに有効な基準であっ たのである。すなわちレフイングウエルは管理事務を何よりも事務作業として 把握し,そこに課業概念を適用する。そして,課業として把握された管理事務 は次のような仕事によって構成されるのである。(25)

(1)計画または何をなすべきかの決定,いつ,どこでなすべきかという日程 の計画。

②事務所内の個人と個人の間,ならびに事務所と外部とのコミュニケーシ ョンのすべてを含む会談と通信。

(3)業務進行の記録としての会計記録,したがってあらゆる種類の計算,記 録,ならびに文書整理。

これら三種の仕事の進行過程の分析を進めた結果,事務の本質は記録または 会談(Writingorlntcrviewing),計算(Computing),分類とファイリング (ClassneingandFiling)の「単純ではあるが基本的な課業」として把握ざ

(12)

れる。

分業による協業は一定の作業の結びついた仕事のくりかえし−サイクルを 意味する。作業と作業との結びつき,そのサイクル,さらには経営体を構成す るラインとスタフの各部門の活動の結合なしに協働体系ははたらかない。その ような結合機能(LinkingFunction)こそレフイングウェルが作業としての事 務の本質的機能を定義づけたところのものであるO(26)

このような事務の機能なしには経営活動の全サイクルははたらかない。事務 が付加価値生産に関与しない間接労働として必要悪視されなが.らも,その労働 量を増大させてきたのはそのためである。しかも結合機能としての事務機能 は,レフイングウェルにとってはラインとスタフの各部門の機能に入りこんで

しまっていて,それらの機能と不可分のものであると考えられた。

このような見解はかなり長い間,事務管理思想の根幹を支配してきた。ある いは現在においてもその意義なしとしない。しかしながら,このような結合機 能を発揮する事務作業,すなわち・記録・計算・会談・通信・分類という基本

的事務作業に共通する契機は何であろうか。

1956年,ヒックスとプレースは彼等の著作「事務管理」において,事務の本 質が情報の処理(InfOrmationHandling)であることを指摘している。(27)同 年,リトルフィールドとピーターソンの「近代事務管理」においても,情報が 事務所における製品であると指摘した上で》科学的管理の系譜につながる技法 の機械的な適用を批判している。(28)

経営体の職能は,財務・調達・生産・販売というライン活動の過程的分化,

企画・技術・計数・人事・システム等のスタフ部門の水平的分化,および経 営・管理・作業という階層的分化の3次元の立体的構造をなしている。過程的

GW<a">PWG',

隊組織の用語が比嚥的に採用されている。また階層的分化は職務権限の包括性 からみれば上位下位の包摂関係にある。このような構造の各ブロックをなすそ れぞれの職能は,云うまでもなく経営体という協働体系を構成する人間によっ てそれぞれ担当されている。

ところで管理者は,管理すべき対象であるところの人間・物財ならびに資金 を自らの職務権限にもとづいて管理する。その管理行動は如何にして行われる か。管理とは作業を計画通りにおこなわせることであって作業することではな い。管理はPlan‑Do‑Seeあるいは計画一組織化一調整一動機づけ−統制の過 程から成るマネジメント・サイクルをもっておこなわれるが,このサイクルの

(13)

各ステップについて管理者は判断を下さねばならない。その判断は理性的ダ説 得的でなければならず,ポスイズムを排除しなければならない。それはフォレ

ットの表現を籍りれぱ「情況の法則に従うこと」を意味する。(29)

管理者がポスイズムを排除して,理性的・人間的判断を行うためには,彼は 必要な情報を入手し知識を蓄積していなければならない。とすれば管理準備作 業である管理事務の本質的機能はこの必要な情報の提供でなければならない。

この意味において,ヒックスやリトルフィールドの事務管理思想が事務管理論 の現代化であるとされるのは故なしとしないのである。(30)

4

管理事務の本質は情報の提供であるとする発想を具体化するには,提供すべ き情報を作成する手段が開発されていなければならない。現代の社会変動を特 徴づけるものとして,情報化現象が指摘されていることは周知のごとくである が,その内容や定義づけは明確な一義性をもっているとは受取りがたい。1968 年日米合同シンポジウムはPerspectivetoPostludustrialSocietyを統一 テーマにして行われたが,そこで行われた討論はまさに情報化社会に関するも のであった。(31)にもかかわらず,情報ならびに情報化の概念は明析な定義に 到達していない。思うに,情報という概念が範曉を異にする多くの学問研究の 分野にわたって関連をもつものであるために,それぞれの分野からの発言が行 われ,それらの見解は容易に一に帰することがない。ベルは「脱工業化社会の 到来」において,脱工業化社会の構成要因を5項目にわたって列挙しながら,

知識と技術の優位を説いているが,20世紀後半の新しい技術革新の道具として 登場してきているものは,電子計算機システムに外ならない。(32)

しばしば情報の爆発とか情報洪水とかセンセーショナルな表現が行われる情 報の大量化現象は,現代社会の特色であって,この大量の情報を選択し処理す る技術の開発が,現代における技術革新の中心課題として存在する。情報処理 技術とりわけその中核にある電子計算機システムの開発には,広汎な科学・

技術の集約が前提となっている。加えて,そのような基礎研究のための巨大な 投資もまた同様である。R&Dという言葉が包含するものは,そのような科学・

技術d経済の結合であって,それが20世紀後半の技術革新を形成しているOI BM社がその代表的企業であることはまたベルの指摘するところでもある。(33)

コンピュ岸ターー計数型電子計算機の出現は,大して古い歴史をもってい るわけではない。、最初の真空管のコンピューターENIAC・そしてプログラム

(14)

内臓方式をはじめて実現したEDSAC以来,近々30年になるか否かという短 年月の間に,電子計算機の技術革新,いわゆる世代は,現在3.5世代といわれ るLST(LargeScaleofTeChnology)が支配的なものとなっており,おそ くとも1980年代初頭にはFS(FutmeSystcue)の出現が期待されている。そ して少くとも1964年4月8日,第3世代のコンピューターIBM360の発表を もって,汎用(GcneralPurpose)の計算機が出現しているのであるO(34)

管理事務の本質が管理に必要な情報を提供することであるとすれば,そのシ ステムは収集一検索一処理一提供というプロセスによって構成される。(図表

41

図 表 4 . 1 情 報 シ ス テ ム

処 理 シ ス テ ム

、 シ ス テ ム

検 索 シ ス テ ム

提 供 シ ス テ ム

365世代のコンピューターは設計思想において,多次元処理,RAS(Relia‑

bility,Availability,Servicability)と共に,仮想記憶によるオペレーティン グ・システムとデータ・ベースの特性をもっている。データベースは第2世代 以来のファイルを発展させ構造化したものである。観察や実験による生のデー タは選択され,1次処理されて整理データ・ファイルとなる。(図表4.2)

図 表 4 . 2 整 理 の プ ロ セ ス

函 → 圃 一 、 之 三 皇 函 一 凪 一 国

データベースは整理されたデータ相互間の関係をモデル化あるいはルール化 し,要求される情報を生成し出力するために必要な階層化が行われている。

かつてリーヴイットとウイスラーは,1980年代におけるトップ・マネジメン トの職能がコンピューターのプログラムに化体した数学的意思決定機構によっ て置きかえられるという未来図を描いた。(36)その予言は1976年の現在から見 る限り確実に的中するものとは受取り難いが,電子計算機のハードウエアとソ フトウエアが1〜2世代の当時にくらべて格段の技術革新を示していることは 否定することができない。その未来にかかる暗雲はソフトウエアのコスト増大

(15)

であるが,「決定理論を主人とする」(36)コンピューターは確実に経営管理の 体系の中に地歩を占めたと云わねばならない。リーヴィットとウイスラーの立 言を変容していうならば,1980年代における経営管理はコンピューターなしに は成立しないということになるであろう。すなわち1980年代における管理者は トップ・マネジメントから現場管理の階層にいたるまで,コンピューター具パ ーフォーマンスを正確に理解しなければ,自己の管理業務を十分に行うことは できない。

それは一体何故であるか。このことを明確にするには,先ず現代の電子計算 機の基本的能力を確認する必要がある。コンピューターの基本的能力を示すキ ー.ワードは,計数型・プログラム・内蔵・電子・計算機である。計数型は論 理性を示し,プログラム内蔵方式であるが故に自律性をもち,電子の利用によ って高速性を実現し,計算機として論理演算が可能である。その長所としてあ げられるところのものは,情報の伝達と処理の高速性・正確性,記憶容量の大 量性.正確性である。そしてこれらの長所はすべて,提供されるべき管理のた めの情報の作成に当って必要な特性であることは云うまでもない。

これに対して人間の長所とするところは,認識能力ないし一覧性直覚力,学 習能力,思考ないし創造の能力であって,これらの高度の能力は現在のコンピ ューターには極めて稀薄であるか,もしくは皆無である。

つまり人間とコンピューターはそれぞれ長所と短所を補完する関係にある。

それ故,もっとも効果的な情報作成のシステムは,人間とコンピューターをオ ンライン結合したマン・マシン・システムであるということになる。

(図表4.3)

図 表 4 . 3 マ ン ・ マ シ ン ・ シ ス テ ム 。 モ デ ル

rーー ロ・−− ロ・−−−−ー ー一一一一一一一一一一・・−一一一一一一・ ロ・ロ・−

国 計 算 機 端 末 入 出 力

○日『

このようなシステム構成が試みられているのは,細分化された管理技術のレ ベルであって,亭経営活動の全体にわたるシステムには程遠い。その意味におい てMIS(ManagenEntlnformationSystem)とかトータル・システムとかの 概念は,厳密な科学的定義に先立って経営管理にかかわる人間の未来関心の中

(16)

に内面化されている象徴に過ぎないとしても,現在の情況をさして甘く見逃し ているという非難は呼ばないであろう。

しかしながら未来に対する関心は人間にとって捨て去ることのできないもの の一つであって,われわれが経営における機械化原理の貫徹する方向をマン・

マシン・システムの発展の上に重ねて望見しようとするのもその故である。そ してここにもまた新しくオプテイミズムとペシミズムの相剋を予想しなければ ならない。

(1)山田圭一:現代技術論1964,p、176.

(2)R、A・JOhnson:'rheTheoryandManagementofSystemsl963p、32.

(3)D・Bell:TheCommmg㎡Post‑IndustrialSocietyl973内田(他)訳.65頁以下。

K・Bauldmg:GeneralSystemsTheory,TheaKeltonofScience,Management Science,April,1956pp、197−208.

(4)W.I.Lenin:大月書店版,全集20巻,15項。

(5)J.K・Galbraith:'IYleAffluentSocietyl969鈴木訳955頁。

(6)A、M・McDonough:InfonnstionEcononcicsandManagementSysteml963,

"、21‑26.

⑦W.A・Lewis:TheTheoryofEconomicGroWthl955p.14.

(8)F・De$auer:StreitumdieTedmikl959S、76.

(9)K・Marx:DasKapitall大月書店版全集,23巻a,23煩。

⑩同上,23頃。

⑪同上,236頁。

⑫L・Urford:ArtandTedmicsl952生田訳16頁。

⑬馬場敬治:技術と社会,1936,35‑44頁。

⑭K・Marx:DasKapitall大月書店版全集923巻a,601頁。

⑮同上496頁。

⑯藻利重隆:経営管理総論(改訂版)353頁以下。

⑰武村勇:経営管理技術論,8頁。

⑱たとえばDuPontdeNemours&Co.とEngliJICalicoLtd.あるいはUnion CarbideCorp.とDowChemicalCo・等におけるライセンス協定。

⑲R、A・Jdmson:ibidpb3.

鋤金子利八郎:事務管理,1925,1頁。

剛F、W・Taylor:glopManagementp、111.

剛L、R・Dicksce:OfficeqganizationandManagementl906pp、1‑2.

卿W、H,Leffingwell:OfficeManapement,PrinciplesandPracticel925.p、X、

(17)

幽闘鯛剛剛剛剛剛鯛

C.B.Hicks&J・Place:OfficeManageuentl956岸本訳24頁。

W・HLeffingwell:ibidp、11.

W.H.Leffmgwell:ibidp.111.

C、B・Hicks&I.Place:ibidp、50.

C、L.Littlefiele&R、L・Peterson:ModernOfficeManagementl956p.9.

M.P.Follet:DynamicAdmistrationp.58.

小野寛徳:経営事務論,20頁以下。

林雄二郎(編):超技術社会の展開。

D・Bell:前掲書25頁。ベルが挙げた5項目は1.経済部門一財貨生産経済からサ ービス経済への変還2.職業分析一専門職・技術職階層の優位3.中軸原則一技術 革新と政策決定の根幹としての理論的知識の社会にとっての中心性4.将来の方向 づけ−技術管理と技術評価5.意思決定−新しい知的技術の創造

D・Bell:前掲書3頃。

IBMSystem360の360は360.を意味し第1条限データ・プロセシング,第2条限 科学計算,第3条限リアルタイム処理,第4条限データコミュニケーションの範囲 にわたってビルディング・ブロック・システムを構成したことをあらわしている。

なお,FSという呼称はIBMの新機種開発作業の名称としては1975年より使用さ れなくなっている。

H、T.Leavitt&T.Whisler:Managememinl980.HBSVol36‑6p、41.

,.Bell:前掲書48頁。

鯛鯛

参照

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