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我国数学教師養成史序説(1)

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

我国数学教師養成史序説(1)

著者 竹村 弘

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 11

ページ 15‑24

発行年 1975‑03‑20

その他のタイトル A History of the Education of Teachers of Mathematics in Japan (1)

URL http://hdl.handle.net/10105/6340

(2)

我国数学教師養成史序説 (1)*

竹 村   弘**

(奈良教育大学数学教室)

1.諸  言

数学教育史には多くの文献がある。小倉の数学教育史.小倉、鍋島の現代数学教育史.高木の算術 教育の史的研娃〕中村の数学教育幽は数学教師養成史の研究にも役立つであろう。

旧制中学校数学科教員出身別調査の報春もある。

外国の嫡では、昔のことだが世界各国数学教師養成鉄。。ケ国の様子が紹介されている。

 N.C.T.M.の第25年鋤第13章には

 Background Mathemat i cs for E1ementary Teachers

で.小学校教師養成の教育課程にしめる教科専門「算数」の内容について,実態調査をしている。

第。。年線・は,第。章に数学教師養成の歴史を、。。。以前と以後に分けて論じている。

 数学教育法の単行本には、たいてい教師養成に関係のある記事がある。例えばW.D.Reeveの Math.for the Secondary Schoo1の第4章に

 The Tr a i n i ng of Teachers of S econdary M自th.がのっているごとく。

ドイツのジムナジエーム数学教師養般ついては拙稿で紹介した。

 本稿では我国中等学校の数学教師.特に胎和初年から敗戦後の学制改革にいたるまでの養成法の歴 史を検討したい。

 それも筆者の体験した時期.すなわち昭和3年に広島高師に入学し4年間のスクーリングをへて昭 和7年に卒業.更に広島文理科大学に入学して昭和10年に卒業した7年間の学生時代と.附属中学校 に勤務した3年間.計10年間の経験をもとに考察する。

 まずこの時代の中等学校の数学教師養成源を列記しておく。

 高等師範学校(東京、広島のほかに敗戦直前にできた金沢など)

 女子高等節範学校(東京.奈良のほかに広島にも新設された)

 臨時教員養成所(東京.広島高師に附置された第一、第二臨教のほかに,若干の帝国大学にも附置 せられた)

 物理学校(現在の東京理科大学)

 文理科大学(東京,広島)

} A H istory of the Educat i on of Teachers of Mathemat i cs in Japan (1)

榊 Hiromu Takemura (Department of M乞thematics.Nara Uni vers i ty of   Education,Nara, JaPan)

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一般の大学の理学郡、工学部.高等工業学校 文部省検定試験合格者.軍人講習数学科

 2.広島高等師範学校(1928−1938)

 広島高師は明治39年(1906)第1回卒業生を出している。敗戦後も昭和23年入学者の卒業 した昭和27年率の第47回まで続き.1287名の数学専攻の卒業生を送ワ出した。

 初期の者は既に多数死亡し、また現役を退いている人も多いが、東京高師の卒業生とともに.中等 学校の数学教師養成源としてはたした役割は大きい。

 初期には各府県からの推薦入学者を採用していたが.その後試険で選抜することになった。旧制高 等学校.専門学校は入学試験が3月にあるのに.高師は数ヶ月早く12月にあった。

 授業料は免除され,4分の1の生徒には月額25円(昭和7年)の奨学資金が給附された。これは 将来教職につく限ワ返還しなくてもよかった。第1学年の第1学期の成績のみでI4年間在学中通じ

ての受給者が決定される不合理は後に改められた。

 この授業料免除,給費制度、就職の保障、就職初期の経済的優遇は人材を集めるのに成功したとも 云えるが.色々の問題をはらんでいる。

 敗戦後は教育系大学のみの授業料免除や給費制度はなくなった。そのかわりに一般大学生にも事情 に応じて与えられる奨学資金のほかに教育特別奨学資金制度が設けられている。

 また善会は最近人材確保法案を成立させて.教師、特に小・中の義務教育にたづさわる教師の優遇 措置を講じた。

さて広島高師の初代校長は東大数学科の第。回卒業生北條時鉄.第四高等学校長から初代校長と なった。後に東北犬学総長.乃木大将のあとの学習院長となった教育界の偉材である。

 尚志会名簿をみると.最初は数物化学部の中の数学.物理を主とするもの.物理・化学を主とする ものとして組編成をしている。したがつて物理の免許状も与えたものと思われる。大正8年よワ理科 第一部(数・物)と名称がかわり,更に大正15年率よワ理科第一郡(数学)となりて理科第2部(物・

化)とわかれ主色のみになりた。

 米国.ドイツ共に数学の教師が副免として数学と関連の深い物理をとることを推奨していることを 考えると.初期のカが進歩的であったともいえる。

 高師の卒業生には昭和4年文理科大学が創設されるまで,上に直続の大学がなかった。商,工,農.

水産等の専門学校は修限年限3年であったが.高師のみは4年であった。高師卒業生のうち多い年で

。部位が主として京都帝大に靴勉強を続けているのは関心をひく。これらを謀反銚通称する人

もあるが.そのなかからは学会に雄飛して別の意味で母校のためにつくしている人が多い。

 次に広島高師に附設された臨時教員養成所と軍人講習にふれておく。

 真二(広島)竈特徴員査成所

 大正13年に最初の卒業生を出し、昭和23年に第12回の卒業生を送り出すまで.数学について は275名である。途中で募集をかいた年もあ飢

 臨教はもともと中等学校の増設で急に教師が不足となワ.臨時的に設けられたものである。

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 年限は最初2年、後に3年となったが,高師に比べて年限が短いから.教職方面の講義が比較的少 なかった。

 専任の教員は1人位で、他は附設された学校の教員が講義にあたったのである。授業料は勿論免除 でI更に給費せられた。臨教の卒業生から更に大学に進むものも相当あった。

 ■人調習

 大正の末年から昭和のはじめに軍備縮少のため.若くして小佐、大尉で退役となる職業軍人のため に.恩給のほかに生計をたてる道として再教育の機会が設けられたのである。

 広島では大正14年率の第1回生5名から始まワ.昭和6年率の第6回まで計38名である。

 広島高等師範学校理科算一部の教育課程

 筆者の在学した昭和3年(1928年)に入学し、昭和7年に卒業した4年間の教育課程を参考例 としてあげる。3学期制であったが、外国及び現在の我国の教育課程と比較しやすいように,通年制 に計算すると次のようになる。

 1年のうち講義のある月数は10ケ月とする。( )内の数字は週時間数である。

 策1学年 倫理(2),教育史(2),数学(代数、幾何,三角法.解析幾何で計8)、

論理学(2),生物学(2).国語及漢文(2).英語(6)、用器画(2).体育(3)

 策2学年 倫理(2).教育史(2),数学(代数.幾何,解析幾何、微積分で計8).

心理学(2).物理学,力学(3),英語(4).体育(3)

 策3学年 倫理(2).教育学(3)、数学(代数、幾何.微積分で計8)、物理学.力学(3)

英語(4),体育(3)

 第4学年 国民道徳(2)、教授法(2).公民科(2),数学(代数,幾何,解析幾何.微積分,

実用数学,数学教授法計13),天文学(2)

 各学年を通じてドイツ語、音楽.武道は選択教科であった。

 (1)テニス.バスケット等各種のクラブ活動に寄宿舎の1部屋が割ワあてられていて,新入生はと   れかのクラブ活動に参加し、少くとも1年間は寮生活を体験することになっていた。

   筆者の在学した頃は自由主義的な雰囲気で,師範教育は官僚的.軍事的、国家主義的教育であ   るという批判は必ずしもあたらない。

 (2)倫理.教育.心理などの教職科日が必修で、卒業生には各専門教科のほかに修身、教育の免許   状が与えられた。附中.附小において第4学年の第3学期に教育実習が課せられたがI小学校の   免許状は与えなくても,小学校の子供を教える経験をもたせることは有意義であった。

(3)数学教育法は、Smi th and Reeve:Teaching of Juni or High Schoo1Matb.

  を用いられたが.丁度昭和6年に中等学校の項目改正があったので,講義はその方面の話が主であ   った。昭和6年率のクラスはJ・W・A・Young:The Teaching of Math. がテキス   トとして用いられた。

 (4)第1学年の国語,漢文や生物学などは現在の一般教育に相当する。創立当時は第1学年を予科   とし,例えば英語専攻の者にも数学が必修であった。その後高師の学制がかわって予科制度をな   くしたが.戦後の新制大学の教育課程の歩みと比べて興味深い。

一1了一

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(5)英語は必修であったが旧制高校の文,理科甲類よワ時間数は少なく・また第2外国語は選択で  あうたから,とるものは少なかった。これは旧制高校が大学の予科的性格をもつのに対し高等師  範は完成教育であったからであ飢

  名称からすれば高師は師範学校に直続する筈なのに.推薦制度から入試による選抜にかわった  後は師範から高師への入学老は少なくなった。(第1回は師範81人。中学125人の割合)

  これは入試課目に英語や数学があワ.師範学校は小学校教師養成の完成教育であったので受験  に不利になったからである。

(6)教職教養の中に倫理,道徳がある。これは教育勅語を教育の基本としていた当時の文教政策を  反影している。

(7)教科専門としての数学は旧制高等学校理科の数学にプラスαで.使用教科書の一部を列雅すれ  ば大体の様子がうかがえる。

  渡辺孫一郎   新編高等代数学

  R.C.J.Nixon   Euc1id Revised (ユークリッド原本の英訳)

  Todhunter      P1ane Trlgonometry   C.Davison     Higher AIgebra

  W.J.Mc1eHand  A treatise on the Geometry of the circ1e   J.W.Yomg     Fmdamenta1Concept s of A1gebra and Geometry

  竹内端三  解析幾何学教科書

  ア ル ヂ ス     解析立体幾何学(長沢亀之助訳)

  竹内端三  微分学.積分学

  (これは昭和6年率のクラスのテキストで、我々の組は原書だった)

   園 正造  :方程式論

   森 本 清 吾   : 近世幾何学

   使用教科書は邦文のものと原書(英語)が大体半々であった。昔は全部原書を使っていたので   あるが,大正後半から昭和の初期に高等専門学校用の数学教科書が続々出版されてきた時代であ   った。

 さて以上のような内容が高師4年間の数学専攻者の受講内容として適切であったかどうか。筆者の 親友の1人は次のように批判する。

 4年間もかかって数学に相当の時間数を配当されているわりには,内容が貧弱である。伝統的な古 い数学に低迷して.現代数学にふれるところが少ないと。

 尚、当時の広島高師の数学教官は次のごとくである。

角 達介  (広島高師第1回率,欧米に2年間出張)

津山三郎  (広島高師第1回率.欧米に2年間出張.附中主事)

曾田梅太郎 (広島高師第7回率、欧米に1年間出張.附申兼任)

目1j田文友  (広島高師第13回率,京大卒)

戸田 清  (東大卒)

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   光藤富士男 (東大率)

   森 誉四郎 (京大卒.臨教が主体)

 これらの恩師のうち、角,津山.曾田,戸田は日本数学教育会の副会長をつとめた.会長は東京高 師関係老がなるのが慣例であった。

 3.文邊科大学誕生及ぴ廃止運動の経緯

 既述のごとく高師の上に大学がなかった頃は、更に学問をしたい場合京都帝大その他の大学に進む 者が多かった。

 そこで高師にi百1続する大学を創設して傍系入学の不便をなくしI教師養成の最高学府を設立したい という要望が高まった。

 文部省は法制上師範大学の制度がないので,文学部、理学部をあわせて文理科大学とした。

 大学は教育課程の中に倫理学.教育学.心理学を必修教科としてとワ入れ.学者を養成すると共に 教師養成の最高機関としての理想を達成するように志した。

 但し高師のように授業料免除でもなく、給費制もなかったので.その点一般の大学と異なるところ はなかった。

 尚,昭和7年の高師卒業生(筆者のクラス)までは、高師4年を終って卒業してからでないと大学 へ進学出来なかったが,昭和8年の高師卒業のクラスからは3年連絡の道が開かれた。従来旧制高校 生は3年から大学へ進学するのに比べて不合理であったからである。

 文理科大学の卒業生は専門教科について.旧制高等学校教員免許状の他に,師範学校、中等学校の 修身、教育,物理の免許状も与えられた。

 昭和4年に文理科大学は創設せられ.第1回率業生(数学科は14名)を昭和7年に出した。

 その後.毎年10数名の入学者をむかえ、敗戦前後には20数名となり,最後の第23回卒業生と して.昭和28年24名を送ワ出すまで、広島文理科大学数学科の卒業生は329名に達している。

 母校の大学のスタッフとして残る少数の他.他の大学,高等専門学校の教授,師範学校、中等学校 の幹部教師となワ.年配になると学校長や教育委員会の行政職で活躍している。

 ところが昭和6年8月6目,突如として大阪毎日新聞紙上に文部省の学制改革案(文理大,高師の 廃止案を含む)が発表された。

 時あたかも,文理大第1回卒業生を送ワ出す前年であり.筆者は高師最高学年の4年の時であった。

在校生にとって晴天の露震である。

 猛暑にもめげず学生.生徒大会が開催されI廃止に絶対反対を決議して全国的連動が展開せられた。

 この運動には東京文理大,高師当局とその学生.生徒又卒業生も立上ったことは勿論で.東西相協 力して緊密な連絡のもとに行われた。

 広島の卒業生の団体である尚志同窓会はI第1回臨時代議員会を開催し〔本会は教育改善のため、

H 今回文部省が発表した学生改革案中I文理科大学及び高等師範学校廃止に絶対に反対し.o速 かに師範大学を完成し以て.師範教育の確立改善を期す〕を決議した。あわせて運動資金酸出を決議 するとともに、師範教育制度確立運動実行委員を選挙して.実行違動の展開に移った。また地元の広

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島市民大会も開催され,前項同様の決議を行なった。

 此等の東西相呼応しての反対運動が効を奏したのか.または文部当局が理あるものと受け入れたの か,1O月30目に東京高等師範学校創立60年記念式に際し.教育の任に在る者に対して優渥なる 勅語をたまわワ.その結果廃止運動もおのづから終憶したのである。

 この廃止連動の背景を考察すると.理論面と現実面の2つが指摘出来よう。

 中等学校の教師養成に特別な学校は必要としないという考え方がある。教師の資格として教える学 科の専門的知識がもっとも大事であって、一般の大学や高等専門学校で専門の学科を専攻した者に若 干の教職関係の単位をとらせ.最少限の教育実習を経験させれば十分であるという考え方である。

 特設の教師養成機関は型にはまった教師集団を世に送ワ出す懸念さえあるととなえる人達もあった。

これに対して、教職は専門職であワIにわか仕立ての教師を養成することはよくないという考え方が

ある。

 景気がよければ見向きもしない教師に.不景気になるとなワたがるようなデモシカ先生では立派な 成果は期待出来ない。叉景気に左右されるのでは長期的展望に立っての人員確保も出来ないと主張せ

られた。

 当時だとえ話で云われた事であるが.大根を作るのに大学の農学部あリ。高等農林学校がある。

 大根よワ大事な人間を教育するのに専門の学校があって当然ではないかと。

 入学当初から教職を志して入学して来る志操堅固な学生を入学させて,専攻する学科は勿論.教職 教養.教育実習を組織的有機的に研修させ,卒業してすぐ立派に教壇に立てる教師を計画的に養成す べきであると主張せられた。

 次の様に観察する人達もあった。概して高師.臨教等の卒業生は教師として色々の知識、技能を学 んでおワ.すぐに役立ち重宝であるが、必ずしもその先伸びるとは云えない。

 それに反して一般の大学.高等専門学校の卒業生はすぐ役立つような教育を受けていないかも知れ ないが.本人の心掛け次第で将来立派な教師になれる。教育学.心理学..各科教育法.教育実習等は やるにこした事はないが、教師の怪険をつむ事によって自ら体得される面もある.と。

 例えば大学では教授の得意とする専門分野、例えば中世史だけに講義が終始しても、学生は学問の 研究方法論を学ぶから、卒業後本人が勉強を怠らなければ,日本史全体に通ずる事が出来る。

 広く浅くか.せまく深くかの問題である。叉知識が.研究カ法論かの問題である.と。

 廃止運動のもう1つの原因として次の様な現実面もあると見るのは的をはずれているであろうか。

 当時は世界中深刻な不景気に悩み,我が国もその例外ではなかった。学校を出ても職はなし.あっ ても大学卒の初任給は60円前後であった。それに比べて高師卒の初任給の方が高かった。(就職後 の昇給率は悪いので追い越されるが)しかも就職は安定していた。

 この様に高等師範、文理科大学廃止の騒動は教員養成の理念と現笑面に深くまつわるものである。

 これは現在の我国の教員養成制度、及び将来の改革案を計画する場合におおいに参考となる。

 広島文理科大学教学科の教育課程 (昭和10年卒一第4回卒業生のクラスを例にとる)

 ( )内は週時間数で通年制(1年は10ケ月)とする。

 策1学年 教育学(2),哲学(2),倫理学(2)、微積分学(6)、座標幾何学及び微分幾何

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学(4).代数学(2)I物理学(2),力学(2)

 第2学年 教育学(2).心理学(2)、実変数函数論(2)I綜合幾何学及び記述幾何学(2).

複業変数函数論(2),数学教育法(2),電磁気学(2)

 第3学年 夜業変数函数論(2).絶対微分幾何学(2),微分方程式論(2),量子力学(.2)。

一ピミナーノレ(4)

 このほかにドイツ語Iフランス語が選択教科であった。また、高師卒業生以外は、第3学年の末に 附属学校で教育実習に参加しなければならなかった。

(1)高等師範と同じく、教育学.心理学、哲学、倫理学,数学教育法などの教職課目が必修であっ   た。このことは名称は文理科大学であるが.普通の文学部.理学部を単に1学部に合併したもの   ではなくて,教師養成をめざしていることを意味する。

   学者を志す場合.所謂純粋数学のみを学びたい者もいたし.これらの学生にとっては教職課目   はよけいな負担であワ、時間のロスと考えられた。

 (2)当時のスタッフは次の適ワである。

   岩村寅之助 (東北大学卒.更に英国で研究)     : 幾何    森 新治郎 (京都大学卒、ドイツで研究)      : 代数    前田文友  (広島高師.京都大学卒)       : 解析    岡  潔  (京都大学卒、フランスで研究)     : 解析    更に講師として

   角 達介  (広島高師卒I主として英国で研究)   : 数学教育    戸田 清  (東大卒)      : 幾何

   津山三郎  (広島高師卒.欧米で研究)       : 附属中学主事,教育実習

 (3)講義は多くはノ■トであったが.英,独仏の原書も使われた。当時はまだ大学の講義程度の   邦書はあまワ出版されていなかった事情による。単に英語だけでな<.ドイツヘ留学した教授は   ドイツ語の教科書,フラゾスヘ留学した教授はフラ:/ス語で数学のブリソトを使わされたから、

  英、独I仏の語学が必要であった。使われた教科書の一部をあげると    L.P,E isenhar t  : Dif ferent ia1Geomet ry

   B ieberbach     : Vor1esungen−ber A1gebra

   I.A.Schouten  : Der Ricci Ka1k山

 (4)数学教育法の講義は2年間の欧米出張を終えて帰朝した高師教授角達介によって行われた。そ の内容は卒去後遺維して鵬高師附属中学校数学研究会編で出版された。

本書は二部からなワ第一部講義は.筆者が学生のときの筆記した内容を整理したものである。

 第 編 「数学教育の思潮」はペリ・,ムーア,クラインの改革意見とその影響である数学教 育思潮を概設してある。

 第二編 「数学教授法」は綜合法と解析法、演輝法と帰納法など各種の教授方法論を列療して 論評してあるが.大体に於てJ.W.A.Young : The Teaching of吻th.の内容に

即したものである。

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    第三編 形式陶治論は.第一章「史的概観」.第二章「練習転移に関する実験」,第三章    「数学で陶冶することの出来る転移の要素」からなる。

 大正末期小倉金之助I長田新が数学の素朴な意味での転移を否定したのでI数学教育界に大波乱を おこしたことに対する講義者の態度が例える。

 角の外遊中は小倉が非常勤講師として数学史及び数学教育史の集中講義を行なった。筆者は高師4

:続篇灘練二1て傍聴した綱育史の講義内容はその後岩波から出版

その後戦時中岩付が数学教育の講義を担当しており.その内容は本になつたr我国数学教育への道叩 から大体うかがえる。

4.附馬中学校

 昭和10年の附中のスタッフは曾田梅太郎(高師教授兼教諭)、高崎昇.竹村弘.古賀昇一の4人 である。大学及び高師の学生の教生指導にあたると共に(1月〜3月の第3学期),数学教育の研究 に活発な活動を展開した。

 先っ実地の経験にもとづいて.中等学校の数学教科書を出版している。実際的具体的で使いやすか ったのと、編集にいろいろ工夫をこらしてあったので比較的好評であった。

 また数学教育の実地にもとづく研究を世に問うため、雑誌「学校数学」を発行した。理論的な指導を 仰ぐため.大学,高師の数学、物理学.哲学,教育学.心理学の教授を題問に依頼している。

 雑誌を発行するほかに単行本も出版した。たとえば

 小学算術模範教授.数学教育本質論.生活数学研究などである。個人としては  曾田梅太郎 :数理認識と数量直観の実験実例,新宮恒次郎 :グラフ教授  高崎昇 :エジプトの数学 などである。

 なお筆者の前任者は新宮優次郎であワ.後任者は鎌田芳雄であった。

 数学研究会の中心であった曾田は高師卒業以来永らく附中につとめ、後高師教授となった。数学教 育の実際家として活動しI特に数学の器具.模型については多くの実用新案特許をとっている。曾旧 式コソバスは特に有名である。

 附属小学校についても簡単に附記すると、高師は師範学校の教師の養成機関でもあったから.附小 の教育実習も課せられた。

       (1)

 当時算数の分野で活園した人は山本孫一,中野恭一であった。

文 献

(1)高木佐加枝 : 算術教育の史的研究 特に第7章 算数教青の前進

(2)中村正弘・寺田幹治 : 数学教育史

(3)東京高師附中編 : 「数学教育」第12輯

(4) Li etzman : Zei t schr i ft f−r M趾hemat i schen und Naturwi ssen_

       schaftlichen Unterricht 「学校数学」第23号(1昭6)竹村弘訳

(10)

N.C.T.M.  : N.C.T.M.  : 竹村 弘    : 西田幾太郎編  : 津山三郎記念事業余 角達弁迫稿   : 小倉金之助   : 岩村寅之助   :

Instruct ion in Ar i thmet i c

A History of Mathematics Education

奈良学芸大学紀要 自然科学第11巻(1963)

廟堂片影

: 津山三郎先生の古稀を記念して 数学教育論(1936) 修文館 数学教育史 岩波書店

我国数学教育への道(1943)育芳杜

一23一

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参照

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所外委員 植田  敦三 広島大学大学院教育学研究科 教授 所外委員 木原成一郎 広島大学大学院教育学研究科 教授 所外委員 中村  和弘 東京学芸大学教育学部 准教授

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馬場卓也・桑山尚司 広島大学大学院 広島大学大学院 国際協力研究科 国際協力研究科 服部勝憲 服部勝憲 鳴門教育大学学校教育学部 鳴門教育大学学校教育学部 伊藤

研究協力者 津村弥来 広島大学・大学院医系科学研究科・研究員 研究協力者 佐倉文祥 広島大学・大学院医系科学研究科・大学院生 研究協力者