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   朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動

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   朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動

            朝 鮮・満洲国・中国・日本

  広

   瀬    貞    三     はじめに   植民地期朝鮮において、朝鮮総督府︵以下、総督府とする︶は道路建設、河川改修、港湾建設、市街地整理、上水

道、 下 水 道、 災 害 復 旧 な ど、 大 規 模 な 土 木 事 業 を 行 っ た。 こ の た め、 総 督 府 に 内 務 局 土 木 課︵ 一 時 は 土 木 部 ︶ を 置

き、全国に土木出張所を設置した。これらの過程で、総督府には土木技術者を中心に土木官僚ともよべる階層が形成

された。総督府の土木事業の実態を明らかにするには、言うまでもなく各々の業種別の工事の分析が必要である。そ

の一方で、こうした工事を担当した土木官僚の実態解明も必要であろう。私は先に総督府の職員録をもとに、土木官

    *福岡大学人文学部教授

福岡大学人文論叢第四十九巻第二号 五八九

(2)

僚︵ 長 官・ 部 長・ 局 長、 土 木 課 長、 事 務 官・ 土 木 事 務 官、 出 張 所 所 長、 技 師、 技 手 ︶ の 実 態 と 特 徴 を 明 ら か に し た

1

しかし、この中では特定の個人を取上げて、その行動と思想について検討することはできなかった。

  総督府の土木官僚を研究する場合、まず一七名の土木関連の長官・部長・局長の分析が必要である。しかし、現在

のところいずれも十分な史料がない。次いで専門職として最高位にあった一二名の土木関連課長が重要である。しか

し、これもいまだ十分な史料が発掘されていない。次のレベルとしては、三八名の土木出張所所長がいる。植民地期

に出張所は合計二一个所が置かれたが、この中で特に重要な地位にあったのが、京城出張所と釜山出張所である。京

城出張所の所長は計七名、釜山出張所の所長は計四名である。京城出張所は朝鮮の中心であるため重視され、また釜

山出張所もこれと並んで重要である。この役職を経て、二名︵榛葉孝平、横井増治︶が土木課長に就任し た

2

  本間徳雄︵一八八九~一九七四︶は京城出張所所長を一九二五年から一九三二年まで七年間に亘って務め、三八名

の土木出張所所長の中でもきわめて重要な地位にあった。しかも、幸いなことに、死後に妻が回想録を編纂 し

、表1

3

のように比較的多くの本間の著述が残っている。このため、本稿ではこれらの関連史料を中心に、土木官僚の一事例

研究として、本間徳雄︵以下、本間とする︶を取上げる。

  本 間 は 一 九 一 五 年 か ら 一 九 三 三 年 ま で 一 八 年 間、 朝 鮮 で 土 木 事 業 に 従 事 し、 そ の 後﹁ 満 洲 国 ﹂︵ 以 下、 括 弧 は 省 略

する︶に移り、敗戦時までの一二年間は最高級の土木技術者の一人だった。また、敗戦後は一時中国に抑留されて日

本 の 土 木 技 術 を 伝 え、 日 本 に 引 揚 げ た 後 も 日 本 で コ ン サ ル タ ン ト 会 社 を 設 立 し て 建 設 事 業 に 携 わ っ た。 い わ ば、 戦 五九〇

(3)

表1・本間徳雄の著作

番号 表   題 刊行物名 巻号・発行所 年 月

1 大同橋に就て 朝鮮 102 号 1923 年 10 月

2 今日こそ京城都市計画の好機である 朝鮮と建築 5輯7号 1926 年 7 月 3 工事監督について 朝鮮土木建築協会会報 104 号 1927 年 1 月 4 漢江改修計画に就て 朝鮮土木建築協会会報 111 号 1927 年 8 月 5 京城の都市計画に就いて 朝鮮と建築 8輯 4 号 1929 年4月 6 富国の源、科学智識 朝鮮土木建築協会会報 160 号 1931 年 7 月 7 錦江橋の設計概況 朝鮮土木建築協会会報 162 号 1932 年 2 月 8 朝鮮総督府京城土木出張所の事業(一)土木建築工事画報 8巻3号 1932 年 3 月 9 朝鮮総督府京城土木出張所の事業(二)土木建築工事画報 8巻4号 1932 年 4 月

10 満洲の河川調べ 朝鮮及満洲 342 号 1936 年 5 月

11 第二松花江発電計画に就て 工事の友 9巻3号 1937 年 11 月 12 松花江水力発電計画に就て 満州の技術 15 巻不明 1938 年不明

13 巻頭の辞 建設 4巻 3 号 1939 年 4 月

14 満洲水力電気事業に就て 土木学会誌 25 巻 4 号 1939 年 4 月 15 満洲水力電気事業に就て 満洲の技術 17 巻不明(132 号) 1940 年不明 16 満洲水力電気事業に就て 国立中央博物館時報 5号 1940 年 5 月

17 素人将棋の話 カナオ会報 6号 1942 年 1 月

18 素人将棋の話 土木満洲 2巻2・3・4号 1942 年 4 月

19 就任の辞 土木満洲 3巻4号 1943 年 8 月

20 年頭所感 土木満洲 4巻1・2 号 1944 年 2 月

21 発電水力の歴史を語る座談会 発電水力 15 号 1955 年 3 月 22 発電水力の歴史を語る座談会(続) 発電水力 16 号 1955 年 5 月

23 豊満ダム あゝ満州 同刊行委員会 1964 年

24 満州工業の姿 あゝ満州 同刊行委員会 1964 年

25 巨大な電源開発 あゝ満州 同刊行委員会 1964 年

26 溥儀執政のことなど 原口忠次郎の横顔 同刊行委員会 1966 年 27 朝鮮の土木事業について 朝鮮の国土開発 友邦協会 1967 年

28 朝鮮の洪水回顧 朝鮮の国土開発 友邦協会 1967 年

29 身辺雑記 カナオ会報 9 号 1968 年 5 月

30 本間家の栄枯盛衰七百年 カナオ会報 9 号 1968 年 5 月

31 関東軍特務部時代の秋山中佐を偲ぶ 秋山徳三郎君の思い出 新光道路 1968 年

32 電源開発 満州国史・各論 満蒙同胞援護会 1971 年

33 満州における満州国工事・座談会記録(3)日本土木建設業史 技報堂 1971 年

34 概説 豊満ダム 大豊建設 1979 年

35 豊満ダム 豊満ダム 大豊建設 1979 年

「カナオ会報」は、本間美保子編『本間徳雄を偲んで』(同人、1977 年)所収。筆者作成。

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 五九一

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前・戦後を通じて、朝鮮、満洲国、中国、日本の四地域で土木事業に従事した、稀有な土木技術者である。先行研究

として、本間を対象にした研究論文は皆無である。本稿では彼の生涯を辿りながら、四つの地域における彼の土木活

動の具体的な内容を明らかにする。これを通じて総督府の土木官僚の具体的な活動の実態を解明し、今後進められる

であろう土木官僚研究の基礎的な作業を行なう。

一・朝鮮における活動

︵1︶技手︑技師としての活動

  本間は一八八九年九月、新潟県中蒲原郡横越村︵現在の新潟市︶に生まれた。一四人兄弟の末子である。本間の兄

︵ 長 男 ︶ の 息 子、 つ ま り 甥 が 本 間 孝 義︵ 以 下、 孝 義 と す る ︶ で あ る。 一 八 八 五 年 に 生 れ た 甥 で、 徳 雄 よ り 四 歳 上 の 孝

義は、新潟中学、七高を経て、一九〇三年に東京帝国大学工学部土木科に入学した。逓信省臨時発電水力調査局技師

を経て、一九一三年に孝義は総督府土木局に勤務し た

。本間はこの四歳上の甥の影響を強く受けたと思われ、後に孝

4

義と同じ土木技術者への道を歩くことになった。

  本間は一九〇四年に新潟中学に入学し、一九〇七年七月に第一高等学校二部甲を卒業した。本間は一九〇七年に東

京帝国大学工学部土木科に入学した。本間は大学二年終了後の夏休みに総督府の測量実習に行っ た

。これは甥である

5

孝義の紹介だろうが、おそらくこれが後に総督府に赴任する契機になったと思われる。本間は一九一五年七月に同大 五九二

(5)

学 を 卒 業 し た。 同 期 生 は 四 二 名 で あ り、 こ の 中 に

は、 内 海 清 温︵ 後 に 電 源 開 発 会 社 総 裁 ︶、 高 橋 三 郎

︵後に発電水力協会会長︶ 、田淵寿郎︵後に名古屋市

技 監 ︶、 萩 原 俊 一︵ 後 に 東 北 振 興 電 力 会 社 理 事 ︶ ら

がいた。また、東京帝国大学の一年先輩に久保田豊

︵ 後 に 鴨 緑 江 水 電 社 長 ︶ が、 二 年 先 輩 に 一 九 一 三 年

に総督府に赴任した、大島清一、花井又太郎、横井

増治︵後に総督府土木課長︶がい た

6

  本間は卒業と同時に、一九一五年七月総督府土木

局に赴任し た

。本間の総督府における経歴は、表2

7

の通りである。技手を経て、一九一八年五月からは

技師となる。一九一〇年代の本間については不明な

部分が多い。本間は土木課に在籍中、漢江人道橋工

事に関与したと思われる。明確な史料はないが、後

述するように一九二五年七月に漢江が大豪雨に見舞

表2・朝鮮総督府での本間徳雄の経歴(1916 〜 1932 年)

番号 年 月 担 当 職位 等級 上  司

1 1916 年 5 月 土木課 技手 持地六三郎土木局長

2 1917 年 5 月 土木課 技手 持地六三郎土木局長

3 1918 年 5 月 土木課 技師 7等 10 級 宇佐美勝夫土木局長 4 1919 年 5 月 土木課 技師 7等 9 級 宇佐美勝夫土木局長 5 1920 年 5 月 土木課 技師 6等 8 級 西村保吉土木部長 6 1921 年 7 月 大同江出張所所長 技師 6等7級 原静雄土木部長 7 1922 年 7 月 大同江出張所所長 技師 5等6級 原静雄土木部長 8 1923 年 7 月 大同江出張所所長 技師 4等5級 原静雄土木部長

9 1924 年 7 月 工事課 技師 4等5級 原静雄土木部長

10 1925 年 7 月 京城出張所所長 技師 4等4級 生田清三郎内務局長 11 1926 年 7 月 京城出張所所長 技師 4等4級 生田清三郎内務局長 12 1927 年 7 月 京城出張所所長 技師 3等4級 生田清三郎内務局長 13 1928 年 7 月 京城出張所所長 技師 3等4級 生田清三郎内務局長 14 1929 年 8 月 京城出張所所長 技師 3等3級 生田清三郎内務局長 15 1930 年 7 月 京城出張所所長 技師 3等 3 級 今村武志内務局長 16 1931 年 7 月 京城出張所所長 技師 3等2級 今村武志内務局長 17 1932 年 7 月 京城出張所所長 技師 3等2級 牛島省三内務局長

『朝鮮総督府職員録』(各年度)から筆者作成。

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 五九三

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わ れ、 大 洪 水 と な っ た。 こ の 時 に 本 間 は 漢 江 人 道 橋 に 留 ま り、 ﹁ こ の 橋 が 壊 れ た ら 俺 も 死 ぬ よ ﹂ と 平 然 と 語 っ た と い

8

。おそらく設計、施工に深く関与したと思われる。

  漢江人道橋は総工費八三万四千円で、一九一六年四月に着工し、一九一七年一〇月に竣工した。漢江では初の人道

橋であり、第一期治道工事の重要な部分だっ た

。工事では朝鮮で二番目となるニューマチックケーソン工法を導入し

9

た。漢江鉄道橋の上流六〇〇mの地点に漢江人道橋を建設した。中の島をはさむ二つの橋梁︵延長四二〇m、一八〇

m︶を敷設した。施工は間組であ る

。完成した漢江人道橋は京城府の新しい名物となり、夏の夜には装飾電灯もとも

10

され、新しい散策スポットとして多くの散歩客が集まっ た

11

  一九二一年二月に土木専門家の原静雄が土木部長になると、本間は同年五月に新設された大同江出張所所長に抜擢

された。これは漢江人道橋工事が高く評価されたためだと思われる。本間にとって総督府に就任後わずか約六年目で

あり、周囲からは﹁異常の抜擢﹂とみなされ た

。一九二一年七月時点で朝鮮に土木出張所は七个所︵釜山、仁川、平

12

壌、元山、京城、景福宮、大同江︶しかなく、その一つのトップとなったのである。本間について、友人の内海清温

は後に ﹁君は頭脳明晰で、才能豊かな秀才であったから、総督府で重要視され、栄達も速 く

﹂ と表現しているように、

13

事実本間のこの後の昇進は早かった。

  大同江出張所の主な工事は、大同橋工事だった。大同橋は平壌市街地と対岸の工場地帯に位置し、従来は渡し舟で

往来していた場所だった。大同橋は延長三四〇間 ︵六一二m︶ で、幅員は車道二四尺 ︵七 ・ 二m︶ 、歩道両側七尺 ︵二 ・ 五九四

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一 m ︶、 一 〇 連 の 構 造 だ っ た。 公 道 橋 と し て は 日 本、 朝 鮮 に 例 を 見 な い 大 規 模 な も の だ っ た。 ま た、 ニ ュ ー マ チ ッ ク

ケーソン工事を導入した。工費は二〇三万円で、工事は一九一年五月に着工し、一九二三年一一月に竣工し た

。本間

14

の部下は、後に﹁橋梁にはニューマチックケーソン工法を採用された。私の記憶では鴨緑江の鉄道橋の橋梁にこの工

法 が 使 用 さ れ た の が 我 国 で は 初 め て で、 そ れ に 次 ぐ 第 二 回 目 で、 熟 練 工 も 求 め 難 く、 当 時 と し て は 非 常 に 困 難 な 大

工 事 で あ っ た

﹂ と 語 っ て い る。 実 際 に は 鴨 緑 江 橋 梁、 漢 江 鉄 道 橋、 漢 江 人 道 橋 に 続 き、 朝 鮮 で 四 番 目 の 工 事 だ っ た。

15

ニューマチックケーソン工事は技術や建設労働者に不安があるため、日本では一九二三年九月の関東大震災以降、隅

田川の橋梁工事︵永代橋、清洲橋︶で初めて導入され た

。しかし、朝鮮ではすでに一九〇九年の鴨緑江橋梁工事から

16

導入されていた。ニューチックケーソン工事を実際に担ったのは、中国人の労働者だっ た

。大同橋渡橋式には、斎藤

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実総督が自ら参加し た

。工事途中の一九二三年八月、平壌一帯は大洪水に襲われた。大同江の水位も上がり、大同江

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橋 の 安 全 性 が 疑 問 視 さ れ た。 大 洪 水 時 に 本 間 は、 ﹁ 大 同 江 は 未 曾 有 の 大 洪 水 に 見 舞 わ れ、 工 事 中 の 橋 脚 は 今 に も 押 し

流 さ れ そ う に 見 え た 時、 ﹁ 俺 の 設 計 し た 橋 梁 は 絶 対 に 大 丈 夫 だ と 橋 脚 の 上 で 頑 張 っ た 青 年 技 術 者 ﹂ と 新 聞 に 大 き く 報

道され、その勇名は京城にも伝わって来て、我々を感動させたものであっ た

  ﹂ という。

19

  本間は大同江出張所所長として大同江橋工事を終えた功績により、一九二四年三月から一九二五年三月まで、約一

年間海外視察を行い、ハワイ、アメリカ、ロンドン、パリ、イタリア、ドイツなどを訪問した。出発の際は第一〇回

万国議院商事会議に参加する川島鉄太郎伯爵︵海軍大将川島純義の長男︶と同じ船に乗っ た

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朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 五九五

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︵2︶京城出張所所長としての活動   帰国後、本間はさらに抜擢され、一九二五年五月に京城土木出張所所長に就任した。これから、一九三三年二月ま

で約七年間に亘って京城出張所所長を務め た

。京城土木出張所は貞洞の中枢院の中にあり、一九二七年に梨花女子専

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門学校の隣に移転した。京城出張所は朝鮮内の出張所の中でも最も重要なポストだった。後輩の一土木官僚は後に、

﹁ 本 間 徳 雄 さ ん は 漢 江 改 造 や 水 力 発 電 な ど 水 の エ キ ス パ ー ト で あ り ま し た が、 在 鮮 当 時 は 橋 梁 の エ キ ス パ ー ト で も あ

り、朝鮮で初めての人道橋である大同橋を設計施工された他、京城土木出張所所長としては漢江小橋、新延橋、錦江

橋などの鉄橋を完成され、漢江大橋の基本設計をまとめられまし た

﹂と高く評価している。

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  一 九 二 五 年 七 月 に 漢 江 は 大 豪 雨 に 見 舞 わ れ、 大 洪 水 と な っ た。 下 岡 忠 治 政 務 総 監 は 自 ら 往 十 里、 新 旧 龍 山 を 視 察

し、 帰 途 に 教 護 本 部 を 訪 れ た 後、 各 避 難 所 を 慰 問 し た

。 こ の 大 豪 雨 の 際、 本 間 は 自 ら 設 計 し た 漢 江 人 道 橋 に 留 ま っ

23

た。 ﹁ 京 城 出 張 所 所 長 の 本 間 徳 雄 さ ん だ け が 橋 の 先 端 に 行 っ て 帰 ら れ な い の で す。 私 は 中 之 島 が 流 さ れ て 内 径 四 〇 〇

粍の配水管が中吊りになっているので、残って見張っていたのですが、本間さんはこの橋が壊れたら俺も死ぬよと平

然 と し て お ら れ ま し た。 自 信 が あ っ た の で し ょ う。 ︵ 中 略 ︶ こ の 漢 江 大 橋 は 本 間 さ ん が 設 計 し 監 督 さ れ た 橋 で し た

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という。

  漢江の大氾濫を受けて、京城土木出張所は一九二六年から漢江改修工事に着手した。工事内容を本間は次のように

述 べ て い る。 ﹁ 本 計 画 は 大 正 一 五 年 度 以 降 九 箇 年 の 継 続 事 業 と し て、 総 工 費 九 百 八 十 万 円 を 以 て、 上 流 は 纛 島 よ り 下 五九六

(9)

流は金浦付近に至る約十里間の堤防を築き、狭窄部はこれを掘鑿して、洪水の疎通をはかり、沿岸平野の八千町歩の

防水工事を施工するもの﹂である。 ﹁一河川で一千万円近くの改修費を投ずることは相当大計画のやうに思はれるが、

大正十四年年度漢江大洪水の如き被害が除かるゝとすれば甚だ経済的のものである。試みに大正十四年度の漢江大洪

水の損害を調べてみれば、人命を失つたもの四百人、損害約四千七百万円に達し、京城府内のみとしても、その損害

実に千四百万円、その他高陽郡、金浦、始興郡などの被害を加ふれば改修計画区域損害総計二千五百万円に上つてを

る﹂と、漢江大洪水の具体的な被害を指摘している。この工事の一環として、龍山付近防水工事、麻浦付近の防止工

事、 永 登 浦 付 近 の 防 水 工 事、 纛 島 及 び 長 安 坪 防 水 工 事、 狭 窄 部 の 掘 鑿 工 事 な ど が 行 な わ れ た

。 漢 江 改 修 工 事 の た め

25

に、 ﹁竜山・永登浦・金浦に直営工場を新 設

﹂したという。

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  漢江橋工事は一九二五年七月の大水害で破損した漢江人道橋の一部を除去し、新たな漢江人道橋を敷設する工事で

あ る。 漢 江 橋 工 事 は 突 桁 鋼 鈑 橋 で、 延 長 は 四 六 〇 m、 幅 員 は 有 効 幅 一 八 ・ 一 六 m、 径 間 は 二 二 ・ 八 m が 二 連、 二 〇 ・ 三

m が 九 連、 二 八 ・ 八 m が 八 連 だ っ た。 工 事 費 は 一 二 〇 万 円 で あ り、 施 工 は 再 び 間 組 だ っ た。 工 事 は 一 九 二 七 年 四 月 に

着工し、一九二九年四月に竣工し た

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  一九三二年における京城出張所の工事は、漢江改修工事、仁川港工事、美湖川改修工事、漢江橋工事、新延江橋工

事 だ っ た。 仁 川 港 工 事 は 拡 張 工 事 で あ り、 総 工 費 は 一 四 〇 万 円 と な る。 内 訳 は、 埋 築 が 一 二 万 ㎡、 土 量 は 七 〇 万 ㎥、

護岸は一四〇〇m、桟橋は幅一〇m、延長三七m、陸上施設は道路、鉄道、上屋その他だっ た

。一九三〇年六月、仁

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朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 五九七

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川港拡張工事︵五ヵ年継続︶の起工式が行なわれた。本間は談話の中で、工事が竣工すれば、二千トン級の汽船五隻

が一度に係留できると、その成果を強調し た

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  錦 江 の 支 流 で あ る 美 湖 川 改 修 工 事 は 流 域 面 積 が 一 八 六 一 ㎡、 流 路 延 長 は 八 九 k m、 平 均 築 堤 高 は 六 m、 築 堤 延 長

一 六 ・ 九 k m、 総 工 費 は 一 二 三 万 七 千 円 だ っ た

。 美 湖 川 改 修 工 事 で は 一 九 三 一 年 春 の 時 点 で、 築 堤 工 事 の 一 部 が 二 ケ

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年 と し て 認 可 さ れ た が、 要 求 ミ ス に よ り 片 側 築 堤 工 事 の 予 算 し か な か っ た。 こ の た め 本 間 は 現 地 を 訪 問 し て、 ﹁ 築 堤

施 工 要 領 ﹂ を 策 定 し た。 こ の 中 で﹁ 工 場 職 員 は 手 分 け を し て、 各 部 落 を 歴 訪 し て、 常 時 二、 〇 〇 〇 人 の 労 務 者 動 員 を

目 標 の 邑 民 の 狩 り 出 し に 努 力 し、 就 労 者 の 動 員 成 果 を あ げ る ﹂ こ と が 決 定 し た。 ま た、 土 運 搬 方 法 と し て は 遠 距 離

︵ 川 心 よ り ︶ は ト ロ ー リ ー 車 に よ り、 近 距 離 は 甚 だ 乱 暴 で 危 険 な 方 法 で あ る が、 堤 防 の 間 近 か を 大 胆 に も 土 取 場 に 指

定して、チゲによる土運搬回数の増加をはかる﹂ことを決定した。担当者は後日、この方法について﹁空恐ろしくて

戦 慄 を 覚 え る ﹂ と 回 顧 し て い る

。 本 間 は 予 算 不 足 を﹁ 邑 民 の 狩 り 出 し ﹂ と 危 険 な チ ゲ 運 搬 に よ っ て 乗 り 切 っ た の で

31

ある。

  新 延 江 橋 は 江 原 道 春 川 郡 の 漢 江 支 流 新 延 江 で の 建 造 工 事 だ っ た。 新 延 江 橋 は シ ュ ェ ド ラ ー 形 ト ラ ス 橋 で、 延 長

二五二m、幅員は有効幅五m、径間は六二m、四連だった。総工費は三三万円であ る

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  本 間 は こ れ ら の 工 事 に 加 え て、 錦 江 橋 の 設 計 施 工 も 行 な っ た。 錦 江 橋 は 忠 南 公 州 邑 と 長 岐 面 と を 結 ぶ も の で あ る。

錦 江 橋 は 鋼 桁 橋 で、 延 長 五 一 三 ・ 九 m、 有 効 幅 六 m で あ り、 ニ ュ ー マ チ ッ ク ケ ー ソ ン 工 法 を 用 い た。 工 事 は 一 九 三 二 五九八

(11)

年 一 月 に 着 工 し、 一 九 三 三 年 五 月 に 竣 工 し た。 施 工 は 長 門 組 だ っ た。 本 間 は 錦 江 橋 の 竣 工 に よ っ て、 ﹁ 朝 鮮 の 道 路 交

通上に一エポツクを画するは勿論、公州のために面目を一新することゝ信ずるものであります﹂と述べてい る

33

  本 間 は 橋 梁 工 事 以 外 に、 京 城 の 市 街 地 開 発 計 画 に も 関 与 し た。 本 間 は 一 九 二 六 年 に、 ﹁ 朝 鮮 の 都 市 は 未 だ 開 け な い 時 代 で あ り、 将 来 益 々 発 展 す べ き 土 地 で あ る。 故 に 都 市 の 各 般 の 施 設 を 一 日 も 早 く 計 画 樹 立 せ ね ば な ら ぬ ば

ママ

な ら ぬ

理 由 は 明 か に こ ゝ に 存 す る の で あ る。 ︵ 中 略 ︶ 朝 鮮 の 都 市 は 内 地 の 一 般 都 市 に 比 較 す る に 変 化 の 程 度 も よ り 激 し い の

である。故に今日こそ都市計画の実施を為すべき時期であると云ふ可きである﹂と都市計画の必要性を強調し た

。ま

34

た、 本 間 は 一 九 二 九 年 に 京 城 土 木 出 張 所 が 統 監 府 設 置 以 降 に 行 な っ た 京 城 市 区 改 正 事 業 を 要 約 し て い る。 結 論 と し

て、 本 間 は﹁ 京 城 に 於 け る 従 来 の 都 市 計 画 事 業 は 予 算 其 他 の 関 係 上 其 中 最 緊 急 を 要 す る 市 区 の 改 正 工 事 即 街 路 の 整

理、下水の改修等に全力を注ぎ、総て政府直轄工事として国費を投じたるものにして其総額約六百四十万円に達して

居る﹂と述べてい る

35

  本間の考えがうかがわれる史料として、次の二点がある。第一に、本間は総督府の土木技師として、請負業者の施

工 能 力 に 対 し て 批 判 的 な 意 見 を 持 っ て い た。 ﹁ 未 だ 日 本 で は 昔 か ら の 慣 例 と い ふ も の が あ つ て、 請 負 工 事 の 仕 様 書 と

か、監督などがそれに伴つて進歩したものに出来てをらぬことは甚だ遺憾である。請負業者の技術的訓練が充分出来

上 つ た 場 合 に は、 企 業 者 側 の 監 督 が 楽 に な る 訳 で あ る か ら、 事 実 請 負 業 者 の 内 容 が 著 し く 充 実 せ ら れ つ ゝ あ る 今 日、

こ の 点 は 何 と か し て 改 良 し た い も の で あ る ﹂ と、 ﹁ 請 負 業 者 の 技 術 的 訓 練 ﹂ を 強 調 し て い る

。 第 二 に、 日 本 人 は 科 学

36

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 五九九

(12)

知識が稀薄だと感じていた。本間は一九三一年五月頃、日本港湾協会の総会に参加するため、大連、南満洲、北部中

国を約三週間、訪問した。本間は天津における欧米列強の租界の位置を比較検討し、英国が選定した場所は﹁実に先

見の明ある大胆な計画であつた﹂とする。また、平壌の電気興業会社と精糖会社が大同江の対岸船橋里に計画された

が、電気興業会社が選定した場所は﹁船着が殆ど出来ない地点であることが明瞭になつた﹂ 。こうした事例から見て、

本間は﹁日本人が政治家といはず、実業家といはず科学知識が不十分であり、又は之を軽視してをる為に、如何に損

をし、又如何に国運の発展がその為に阻害されてをるかと云ふ事﹂を強調してい る

37

  一九三二年七月時点で、本間の等級は三等二級だった。本間の上には、土木課長の榛葉孝平が一等三級、甥の義孝

が三等一級と、二名しか存在しなかった。本間は総督府に赴任し一八年目にして、土木課の第三者の地位にまで上り

つめたのである。しかし、一九三三年二月、四三歳の本間は突如、総督府を退職し、満洲国に移転し た

。一九三二年

38

七月に満洲国が設立されると、鉄道、道路、河川、都市計画等、膨大な土木事業を積極的に推進するため、満洲国は

各 方 面 か ら 大 量 の 土 木 技 術 者 を 集 め た。 そ れ は、 ① 南 満 洲 鉄 道 株 式 会 社︵ 以 下、 満 鉄 と す る ︶、 関 東 庁、 満 洲 国 に 拠

点を置く日本企業からの採用、②日本国内からの採用、③公募、④日本の高等工業学校を通して満洲国が委託生徒を

募集する等、四つの方法だった。特に内務省から派遣された技術者は、一九三九年時点で六九名に及び、その主流を

占めた。内務省からは、筧斌二、原口忠次郎、中島時雄、後藤憲一、本荘秀一などの技師が、後に直木倫太郎が派遣

され た

。おそらく満洲国から総督府にも技術者派遣の要請があったと思われる。総督府からは本間と共に、土木課技

39

六〇〇

(13)

師の町田義和、藤原健二、種谷実、内田弘四などがともに退職して、満洲国に移っていっ た

40

  本間が総督府を退職して、満洲国に移った明確な理由は不明である。本間の近親である本間義雄︵義孝の長男︶は

後 に、 ﹁ 私 が 想 像 で は、 本 府 の 土 木 課 で は 技 師 か ら 課 長 に 栄 達 す る の は 遠 い 先 と 推 定 さ れ、 大 き な 土 木 事 業 と 相 当 の

地位の約束された新しい外地に魅力を感じたのであろ う

﹂と述べている。おそらく正しい評価であろう。事実、榛葉

41

孝平土木課長の在職は一四年間 ︵一九二五~一九三九︶ にも及び、さらに甥の義孝が本間の上司であったこともあり、

土木課長への昇格が当分は不可能であると判断したのであろう。また、本間は後に﹁筆者も大村顧問の招請で朝鮮総

督 府 よ り 駆 け つ け

﹂ と 言 っ て い る よ う に、 関 東 軍 交 通 監 督 部 長 だ っ た 大 村 卓 一︵ 一 八 七 二 ~ 一 九 四 六 ︶︵ 総 督 府 鉄 道

42

局長︶の招聘も一つの契機になったと思われる。本間の後任の京城土木出張所所長には、本間の部下だった川澤章明

が抜擢され た

43

二・満洲国における活動

︵1︶土木界最高の地位へ

  満洲国建国直後の一九三二年三月、建設業務を担当する四つの組織 ︵交通部鉄道司、交通部水運司、民生部土木司、

総務庁需要処営繕科︶ が設立された。その後、組織の変遷があり、一九三三年三月、国道局が設置された。国道局は、

道路、港湾、河川、都市など土木全般を担当する部署だった。一九三三年五月、藤根寿吉︵前満鉄理事︶が初代局長

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六〇一

(14)

となり、総務処長は大迫幸男、第一工務処長は本間、第二工務処長は筧斌治 ︵一八八五~一九六二︶ の布陣となった。

第二工務処は治水、利水を担当した。本間が担当した第一工務処は、道路計画立案と道路工事監理だった。国道局の

﹁国道第一次計画﹂では、七五五〇 ・ 七kmの建設計画を立てた。国道局と同時に総理大臣の諮問機関として国道会議

が成立した。構成員は総理大臣、民政部総長、交通部総長などだったが、同年六月に学識経験者として、本間、阮振

鐸 国 都 建 設 局 長、 大 迫 幸 男 国 道 局 総 務 処 長、 佐 藤 応 次 郎 満 鉄 鉄 道 建 設 局 長、 岡 崎 文 吉 満 鉄 経 済 調 査 会 嘱 託 な ど 五 名

が 指 名 さ れ た

。 本 間 の 部 下 で あ る 工 務 課 長 に は 町 田 義 和︵ 総 督 府 出 身 ︶、 計 画 科 長 に は 相 馬 龍 雄︵ 内 務 省 出 身 ︶ が つ

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い た

45

  第 一 工 務 処 長 と し て 本 間 の 至 急 の 任 務 は、 ﹁ 国 道 第 一 次 計 画 ﹂ の 遂 行 だ っ た が、 こ れ は 実 際 に は 抗 日 武 装 勢 力 を 攻

撃 す る た め に 必 要 な﹁ 一 万 キ ロ 治 安 道 路 ﹂︵ 討 伐 道 路 ︶ を 意 味 し た。 関 東 軍 の 秋 山 徳 三 郎︵ 一 八 九 一 ~ 一 九 六 八 ︶ 陸

軍工兵中佐︵東京帝国大学土木工学科卒業︶が国道局顧問として、この道路建設を指導した。本間は秋山との行動に

つ い て、 ﹁ 道 路 の 悪 い 満 洲 や 治 安 の 確 保 さ れ ぬ 地 域 で の 地 勢 調 査 や 路 線 決 定 は 飛 行 機 に よ る 外 は な い、 プ リ モ ス と 云

ふ二人乗りのトンボの様な超小型飛行機で全満を隅々までかけ廻っ た

﹂という。しかし、内務省から派遣された筧斌

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二 が 体 調 を く ず し て 退 職 す る と、 本 間 が 彼 の 後 を 継 ぎ 第 二 工 務 処 長 と な っ た。 本 間 の 担 当 は 運 河・ 水 力 発 電、 治 水・

土地利用である。本間の後任の第一工務処長には内務省から赴任した坂田昌亮が就任した。

  一九三三年一二月、直木倫太郎︵一八七六~一九四三︶が第二代国道局長に就任した。直木は一八九九年に東京帝 六〇二

(15)

国大学工科大学土木工学を卒業後、内務省技師、大阪市港湾部長、帝都復興院の技監、復興局の技監・長官、大林組

取締役兼技師長を兼任した高名な土木技術者だっ た

。国道局時代の本間の部下は、後にこの頃の本間について﹁大小

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何 れ の 事 態 に 処 し て も ね ば り 強 く、 説 得 力、 実 行 力、 見 通 し 洞 察 力 を 発 揮 す る 方 で あ る と 尊 敬 の 念 を 抱 い て 仕 え た。

場馴れて交渉事にも平然と落ち着き付き、権力の前でも云う可き事は条理を尽して述べられ た

﹂と、その人柄を回顧

48

している。

  一 九 三 六 年 二 月、 土 木 学 会 で は 組 織 の 改 組 が 行 な わ れ た。 学 会 の 革 新 化 の 中 心 で あ る 東 亜 部 に は 東 亜 連 絡 委 員 会

︵久保田敬一委員長︶ 、東亜調査員会︵中川吉造委員長︶が置かれた。本間は東亜連絡委員会の委員になっ た

  。

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  一 九 三 六 年 一 一 月、 ﹁ 満 州 国 産 業 開 発 五 ヵ 年 計 画 ﹂ が 決 定 さ れ た。 こ の 中 で 電 力 は 一 四 〇 万 k W を 目 標 と し、 こ の

う ち 水 力 発 電 は 五 九 万 k W︵ 四 二 ・ 一 %︶ を 予 定 し た。 こ う し た 新 経 済 計 画 を 達 成 す る た め、 一 九 三 七 年 に 入 っ て、

満洲国の土木機構は大きく改編された。同年一月、国道局は民政部土木司と合併して土木局︵初代局長は直木︶が新

たに設立された。ここには、総務処︵処長は鈴木兵一郎︶ 、第一工務処︵処長は坂田昌亮︶ 、第二工務処︵処長は原口

忠次郎︶を置いた。また、同年四月、新たに国務院に水力電気建設局︵初代局長は直木︶が設置され、河川総合開発

計画の具体化を進めた。水力電気建設局には、総務処と工務処を置き、総務処長は石岡武、工務処長に本間が就任し

た。工務処には三科︵調査科、土木科、電気科︶を置いた。本間は後に同局副局長に就任し た

50

  初代水力発電建設局長の直木が後に大陸科学院長に転出したため、本間は一九三九年四月、第二代水力電気建設局

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六〇三

(16)

長に就任し た

。本間は水力電気建設局長として、満洲国の河川総合開発の責任者となった。水力電気建設局には発電

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所工事を担当する地方工程処として三工程処 ︵豊満、鏡泊湖、桓仁︶ を置いた。各工程処の処長は、豊満は空閑徳平、

鏡 泊 湖 は 初 代 が 後 藤 健 一、 二 代 が 高 野 宗 久、 桓 仁 は 内 田 弘 四︵ 前 水 力 電 気 建 設 局 工 務 処 土 木 科 長 ︶ だ っ た。 こ う し て

本間は満洲国における三発電所建設の最高責任者となった。三発電所建設については、次節で述べることとする。

  本間は満洲国の水力発電事業における河川総合計画について、次のように述べている。

  ﹁ 斯 く の 如 き 河 川 を 治 め、 又 利 用 す る に は 如 何 し て も 貯 水 池 式 に よ る の 外 方 法 が な い の で 有 り ま す。 即 ち 上 流 荒 地

の人烟稀薄なる処に尨大なる貯水池を設けて雨期間の過剰水を溜め、以て流水を1个年間平均せしめ発電水力を起す

と同時に之を灌漑に利用し、又航運に資すると云ふ様な事にし、又一方匪賊の母とも称せられた洪水を根本的に除去

す る 事 が 出 来 る の で 全 く 一 石 二 鳥 策 に な る の で あ り ま す。 即 ち 河 川 の 流 水 を 完 全 に 利 用 し 使 用 し 尽 し て 海 に 棄 て る、

而も其の間総合技術を以て河水の完全利用、国土の完全開発を策するもので、之を吾々は河川総合開発案と称し満洲

国主要国策の1つとしてをるのであります﹂と述べてい る

。つまり、これは戦後日本で実施された河川総合開発の先

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駆 的 な 計 画 と い え る。 こ う し た 考 え か ら、 本 間 は ま ず 初 め に 豊 満 発 電 所、 鏡 泊 湖 発 電 所、 桓 仁 発 電 所 建 設 を 計 画 し

た。

  土 木 技 師 で あ る 本 間 の 満 洲 国 時 代 の 最 大 の 業 績 は、 豊 満 発 電 所 建 設 だ っ た。 満 洲 国 の 星 野 直 樹︵ 一 八 九 二 ~

一 九 七 八 ︶ 総 務 長 官 は 戦 後、 本 間 を 高 く 評 価 し て、 次 の よ う に 述 べ た。 ﹁ 実 行 の 責 任 を 負 っ た 本 間 君 達 は、 直 ち に 現 六〇四

(17)

場に入って地盤、流量の調査にとりかかった。なにしろ七十万キロワットと云う世界でも屈指、日本では勿論前例の

無い大工事である。しかも極寒の地で冬は固く凍っている場所である。果してこんな所でこんな工事が出来るだろう

かと云う疑いさえあった。又、それにはもっと経験の有る経営陣を連れて来る必要があるのではないかと云う意見も

あ っ た。 し か し、 直 木 さ ん は、 ﹁ そ ん な 心 配 は 無 い。 本 間 君 で 充 分 や っ て い け る。 ﹂ と 平 然 と 云 い 切 っ た。 ︵ 中 略 ︶ 最

初から最後迄、非常なる自信と誇りとを以って、此の一大事業の達成に尽くした本間徳雄君の努力を長く記念したい

ものと思い、ここに一文を草した。この人今やなし、霊魂は今や君の手塩に掛けしダムを眺めて、心安らかに眠って

居られる事であろ う

﹂。

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  ま た、 部 下 で あ る 豊 満 工 程 処 の 空 閑 徳 平 処 長 は 本 間 の 性 格 を 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 本 間 さ ん の 頭 脳 明 敏 さ に つ

い て は、 今 更 私 が 喋 々 す る ま で も な く、 全 て 周 知 の こ と で あ っ た が、 科 学 的、 技 術 的 分 野 は 勿 論、 広 い 常 識 と 共 に、

あらゆる面で脳内の閃きは縦横無尽、そして工事現場で非常な障碍に遭う度に、その都度、新工法を考案され、その

御指示によって、私共はあの難工事を完成に導くことが出来た。右のようなことは枚挙に暇がないが、その中でも松

花江内に工事上の仮締切の築堤をやった時、氷上作業で達磨籠を利用し、更に後日之が排除のために簡易吊下げケイ

ソンを使用したこと、又左岸二次締切に寒中での水中コンクリート工法の提案などが、特筆すべきものだっ た

﹂と指

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摘 し て い る。 ﹁ 工 事 現 場 で 非 常 な 障 碍 に 遭 う 度 に、 そ の 都 度、 新 工 法 を 考 案 ﹂ す る 本 間 の 強 い 性 格 は、 朝 鮮 時 代 に も

部下から指摘されていた。

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六〇五

(18)

  一九四二年七月に大東亜電力懇談会が東京で開催され、本間は満洲国代表の一員として参加し た

。本間は一九四三

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年三月に満洲土木学会会長に就任し、満洲国の土木技術界の最高位となる。満洲土木学会は一九四〇年九月に設置さ

れ、 初 代 の 会 長 は 佐 藤 応 次 郎︵ 満 鉄 副 総 裁 ︶、 副 会 長 は 平 山 復 二 郎︵ 満 鉄 理 事 ︶、 坂 田 昌 亮︵ 満 洲 国 交 通 部 技 監 ︶、 本

間は調査部長だった。その後、会長は平山復二郎、坂田昌亮を経て、本間が第三代会長に就任した。満州土木学会の

会員は約三千名で、機関紙﹃土木満洲﹄を刊行し た

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  本間は一九四三年、 ﹃土木満洲﹄に、 ﹁吾吾の有する技術、或いは研究が直ちに敵を打つ弾丸になり、または大砲た

らしめねばならぬのでありま す

﹂ と、土木技術による戦争勝利を強調した。また、本間は一九四四年には ﹃土木満洲﹄

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に、 ﹁ 科 学 的 及 び 実 際 的 方 面 よ り 最 高 度 の 創 意 と、 研 究 に 基 き 徹 底 せ る 戦 時 設 計、 戦 時 規 格 を 採 用 し、 最 小 限 度 の 労

力と資材を以って最短期間に最大の効果を挙げるべく結集せねばなら ぬ

﹂と述べた。本間は一九四三年九月、豊満発

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電所建設の功績により、勲二位景雲章を受け、親任官待遇となっ た

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  満洲国では水力電気建設局とは別に、一九三四年一二月に多くの電気会社を統合し、満洲電業︵資本金六〇〇〇万

円 ︶ が 設 立 さ れ た。 社 長 は 吉 田 豊 彦︵ 関 東 軍 顧 問・ 陸 軍 大 将 ︶ で あ る

。 長 く こ れ ら は 民 間 組 織 と し て 運 営 さ れ た。

60

し か し、 満 洲 国 内 で 電 気 事 業 の 国 家 管 理 の 動 き が 強 ま り、 電 気 事 業 は 水 力・ 火 力 発 電 事 業 を 一 つ に 統 合 す る こ と に

なった。この結果、水力電気建設局と満洲電業が合併し、一九四四年四月に新しい満洲電業が設立された。資本金は

六億四千万円となり、会長は韓雲階、理事長は平島敏夫、本間は副理事長に就任し た

。一九四五年八月、日本は連合

61

六〇六

(19)

国 に 対 し て 無 条 件 降 伏 を 行 っ た。 こ れ に よ っ て 満 洲 国 は 崩 壊 し た。 同 年 一 〇 月、 本 間 と 中 華 民 国 資 源 委 員 会︵ 以 下、

資源委員会とする︶東北電力総局長郭克梯の間で、満洲国内の満洲電業の総資産の引継ぎが行われ た

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︵2︶三発電所建設の概要

  本間は水力電気建設局長として、発電所工事を担当する地方工程処として三工程処︵豊満、鏡泊湖、桓仁︶を統括

し た。 各 工 程 処 の 責 任 者 は、 豊 満 発 電 所 は 空 閑 徳 平、 鏡 泊 湖 発 電 所 は 後 藤 健 一、 高 野 宗 久、 桓 仁 発 電 所 は 内 田 弘 四

だった。以下、三発電所の概要を見てみる。

①豊満発電所

  建 設 の 目 的 は、 ① 松 花 江 の 洪 水 の 完 全 徐 水、 ② 発 電 設 備 七 〇 万 k W、 ③ 下 流 平 野 十 七 万 結 の 開 田 灌 漑︵ 産 米 年 間

三 百 万 石 増 産 ︶、 ④ 飲 料 水、 工 業 用 水 の 水 源 確 保、 ⑤ 松 花 江 の 平 水 増 加 に よ る 航 運 へ の 寄 与 だ っ た。 豊 満 発 電 所 は、

松 花 江 水 系 第 二 松 花 江 二 四 k m の 地 点 に 巨 大 な ダ ム を 建 設 し、 大 容 量 電 力 を 得 る も の で あ る。 豊 満 ダ ム は 重 力 式 コ

ンクリートダムで、堤高九一m、堤頂長一一〇m、堤体積二二〇万㎥である。これによる貯水池は面積五四五㎡、長

さ一七〇km、貯水量一一〇億㎥とほぼ琵琶湖の大きさであり、水没戸数は八千戸に達した。豊満発電所は有効落差

六六mで、最大出力七〇万kW︵完成時︶の発電能力を持つ。水車は総数一〇基で第一期は八基とした。発電機は第

一期に八基を設置した。工事費は当初は一億円だったが、後に二億円に増額された。工事は建設業者に依頼せず、直

営で行われた。発電所は東亜土木企業が受注した。工事現場は半年間も凍結する酷寒の地であり、ここに基礎掘削量

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六〇七

(20)

百九〇万㎥、使用コンクリート総量二二四万㎥を使用する大工事であるため、多くの困難に直面した。日本人技術者

と朝鮮人技術者が合わせて約五〇〇名に達し、その他中国人技術者も五〇~六〇名い た

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  豊 満 工 程 処 長 の 空 閑 徳 平 は 日 本 に お け る コ ン ク リ ー ト ダ ム 建 設 の 専 門 家 だ っ た。 空 閑 は 富 山 県 の 祖 山 ダ ム︵ 堤 高

六 九 ・ 五 m ︶ の 建 設 に 参 加 し た 後、 広 島 県 の 王 泊 ダ ム︵ 堤 高 五 九 ・ 四 m ︶、 宮 崎 県 の 塚 原 ダ ム︵ 堤 高 八 〇 m ︶ と、 日 本

国内でハイ・ダム建設の主任技術者を経験してい た

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  工事は一九三八年一〇月に着工し、一九四三年三月に発電を開始した。同時期に鴨緑江に築造された水豊ダム︵堤

長 一 〇 六 ・ 四 m、 堤 頂 長 八 九 九 ・ 五 m、 堤 体 積 三 二 三 万 ㎥︶ と な ら び、 世 界 最 大 級 の 重 力 式 コ ン ク リ ー ト ダ ム だ っ た。

この点で、豊満ダム、水豊ダムは戦前の日本における土木技術の最高峰を示すものだっ た

。しかし、その一方では日

65

本の侵略的な側面を示すのが労働者の集め方とその待遇だった。豊満ダム工事には一日約一五〇〇人の労働者を動員

した。主に大東公司を通じて、中国人労働者を雇用した。しかし、労働力不足のため、捕虜兵、囚人、国民勤労奉公

隊までも動員する。日本側は、全工期の死亡者数は約一〇〇〇名で、約九四〇人︵九四%︶は病死者︵チフス、発疹

チフス︶であり、約六〇人︵六%︶は事故死者と主張した。一九四五年八月の時点でコンクリートの打設量は八七%

で あ り、 未 完 成 だ っ た

。 本 間 は 戦 後 に な っ て、 国 民 勤 労 報 国 隊 が 大 き な 問 題 に な っ た こ と を 語 っ て い る。 ﹁ 終 戦 後 す

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ぐ、今のカベ新聞みたいなものが発刊された。日本の罪悪史を

21 カ条並べたてたうち勤報隊は2、 3番目だ︵笑︶ 。強

制 労 働 だ と い う の で、 こ の

21 个 条 の ど れ か に 関 係 し た 者 は つ か ま る ん だ か ら ﹂。 こ れ は 中 国 人 労 働 者 と 並 ん で、 国 民 六〇八

(21)

勤労報国隊が中国人に大きな苦痛を与えたことを示してい る

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②鏡泊湖発電所

  牡丹江水系の牡丹江省寧安県に水路式隧道を築造し、鏡泊湖発電所で三万六千kWを得るものである。貯水池は鏡

泊湖とし、流域面積は一一五〇〇k㎡、貯水池面積は八〇k㎡である。有効落差は六四m、水路は鉄筋コンクリート

円 形 水 圧 隧 道 で、 直 径 五 ・ 六 m、 延 長 三 千 m で あ る。 総 工 費 は 約 二 千 万 円 で、 工 事 は 一 九 三 九 年 三 月 に 開 始 し、 約 三

年後の一九四二年六月に発電を開始し、同年九月に竣工した。送電線は間島省まで一〇万Vを完成し た

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③桓仁発電所

  鴨緑江支流渾川の安東省桓仁県に桓仁ダムを築造し、桓仁発電所で一〇万八千kWを得るものである。桓仁ダムは

重力式コンクリートダムで、堤高一二五m、堤頂長六七〇m、堤体積一六〇万㎥である。ダムの堤体積は巨大で、豊

満ダムの約七三%にも匹敵する。貯水池は面積二一四k㎡である。工事は豊満発電所の発電開始前年、一九四二年三

月に着工した。本体工事は右岸締切工事を完了し、同締切内に七 ・ 五万㎥のコンクリート打設中に敗戦となっ た

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三・敗戦後の活動

︵1︶中国での活動

  敗戦直後の一九四五年九月、本間は資源委員会東北電力総局顧問となっ た

。資源委員会はすでに一九三二年一一月

70

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六〇九

(22)

に設立された後にいくたびか改編され、国民政府の鉱・工業建設機関として重要な役割を果たしていた。一九四六年

五月に資源院会は国民政府と共に南京に戻り、行政院の直属機関となった。一九四五年八月以降、資源委員会の最も

重要な活動は﹁国家復興計画﹂の一環として、日本企業が置いていった﹁敵産業﹂の接収工作だった。資源委員会が

接収した産業は、電力、石炭鉱業、石油工業、その他、の四つに大きく分けられた。満洲国には豊満発電所を初め多

くの発電所があったが、ソ連軍が各発電所の発電施設を戦利品として撤去・破壊したため、資源委員会が実際に接収

し た 発 電 所 の 発 電 容 量 数 は 約 二 〇 万 k W に 過 ぎ な か っ た

。 資 源 委 員 会 は 一 九 四 六 年 末 ま で に、 三 二 億 六 六 〇 〇 万 元

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︵ 一 九 三 七 年 の 価 格 で 約 一 〇 億 ド ル ︶ と 評 価 さ れ る 二 九 二 の 大 規 模 日 本 企 業 を 接 収 し た。 資 源 委 員 会 は こ れ ら の 企 業

を、三万三千人の職員と二二万人の労働者を擁する九四の企業集団に改組した。資源委員会は新たに﹁国営工業三年

建設計画﹂をまとめ、一九四六年以降、九億二三〇〇万元を投資し、鉄、アルミニュウム製品、蒸気タービン、発電

機、電線・ケーブル等を大規模に生産する予定だった。一九四七年資源委員会傘下企業は、電力で見ると全中国の発

電量の八三%を生産し た

。本間は資源委員会のこうした電力増産活動に深く関与したと思われる。

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  一 九 四 六 年 三 月、 本 間 は 中 華 民 国 国 立 東 北 大 学 工 学 部 教 授 兼 任 と な っ た

。 お そ ら く 東 北 大 学 工 学 部 で 講 義 を お こ

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な っ た の だ ろ う。 東 北 大 学 は 一 九 二 二 年 に 遼 寧 省 の 瀋 陽 に 設 立 さ れ た。 初 代 の 校 長 は 王 永 江 で、 当 初 は 文 法 科 学

部、 理 工 科 学 部 の 二 学 部 を 設 置 し た。 第 三 代 校 長 に 張 学 良 が 就 任 し た こ と も あ り、 大 量 の 運 営 資 金 が 投 入 さ れ、 大

学 の 規 模 は 急 速 に 拡 大 し た。 満 州 事 変 以 降 は 瀋 陽 を 離 れ、 一 九 三 一 年 九 月 に 北 平︵ 北 京 ︶、 一 九 三 六 年 二 月 に 西 安、 六一〇

(23)

一九三八年三月に四川省三台県へと避難を続けた。一九四六年にようやく瀋陽に戻ってき た

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  中国東北部の混乱の中、本間は政治的な苦境に立つこともあった。本間の部下は、その場面を﹁戦後満洲の地は国

民軍、共産軍、ソ聯軍が交互に進駐して来て、本間さんにも旧利権の追及が及び、再三苦境に立たされることもあっ

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﹂ と 証 言 し て い る。 中 国 滞 在 期 を 本 間 は 後 に、 ﹁ 蒋 介 石 の 中 華 民 国 の 懇 望 で 三 年 許 り 居 残 っ た が、 蒋 政 権 の 形 勢 は

日に日に非、朝に一城夕に一城の有様、奉天城の陥落寸前、米軍の救援飛行機で中共の手を逃れ た

﹂と回顧している。

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︵2︶日本での活動

  一 九 四 八 年 六 月、 五 九 歳 の 本 間 は よ う や く 中 国 か ら 日 本 に 帰 国 し た

。 本 間 は 一 時 期 豊 建 設 会 社 に 入 社 し、 静 岡 県

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御 殿 場 の 道 路 建 設 に 従 事 し た

。 一 九 四 九 年 に 東 京 都 水 道 局 技 術 顧 問 と な り、 小 河 内 ダ ム 建 設 に 関 係 し た。 後 に、 埼

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玉 県 総 合 開 発 審 議 会 委 員、 小 金 井 市 都 市 計 画 審 議 委 員 会 委 員 兼 任 と な っ た

。 小 河 内 ダ ム 建 設 の 計 画 は 東 京 市 に よ り

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一九三一年に発表されたが、地元や下流水利権者の反対でその交渉は難渋した。一九三八年一一月に起工したが、戦

時下のため一九四三年一〇月に工事は中断していた。戦後の一九四八年九月に再び着工し、一九五七年一一月に完成

し た。 小 河 内 ダ ム は 重 力 式 コ ン ク リ ー ト ダ ム、 堤 高 一 四 九 m、 堤 頂 長 三 五 三 m、 堤 体 積 一 六 七 万 五 六 八 〇 ㎥ で あ る。

小河内ダムの堤体積は本間が満洲国で監督した豊満ダムの約八〇%だった。小河内発電所の出力は一万九千kWであ

る。 調 整 池 は 流 域 面 積 二 六 二 ・ 八 八 k ㎡、 満 水 面 積 は 四 ・ 二 五 k ㎡ で あ る。 工 事 の 死 者 は 八 六 名︵ 戦 前 二 五 名、 戦 後

六一名︶ と多く、日本人は八〇名、朝鮮人は六名 ︵戦前五名、戦後一名︶ だった。工事では、吉田徳次郎 ︵コンクリー

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六一一

(24)

ト・ 前 九 州 大 学 教 授 ︶、 小 野 基 樹︵ 水 道・ 前 東 京 市 水 道 局 長 ︶、 鈴 木 雅 次︵ 港 湾・ 内 務 省 技 監 ︶、 久 保 譲︵ 水 道・ 前 東

京市水道局︶ 、久保田豊︵発電・前鴨緑江水電社長︶ 、本間の六名が技術顧問となっ た

。本間を通して満洲国における

80

ダム施工技術はこのような形で日本に還流したといえる。

  本間は一九五三年一二月に︵社︶日本開発技術協会︵以下、協会とする︶を設立し、理事長に就任した。一九五六

年 ま で は、 主 に 県、 大 企 業 よ り 発 電 水 力 に 関 す る 調 査 設 計 を 受 託 し た。 業 務 規 模 は 年 二 〇 〇 ~ 五 〇 〇 万 円 程 度 だ っ

た。一九五七年以降は、東京都の委託を受注した。協会の理事は一七名、監事二名、顧問三名であり、全員が東京大

学︵土木、電気、農業︶の卒業生である。陣容は、常任理事一名、参事二名、研究員三名、事務員一名である。当初

は 営 業 活 動 を 行 わ ず、 ト ッ プ 営 業 だ け で 仕 事 を 受 注 し た

。 毎 年、 一、 二 件 は 比 較 的 大 き な 業 務 を 受 注 し た。 一 九 五 三

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年は琵琶湖電源開発実施設計︵滋賀県︶ 、一九五四年は二瀬発電所実施設計︵埼玉県︶ 、荒川第一発電所実施設計︵日

本 水 素 ︶、 一 九 五 五 年 は ラ グ マ ン 発 電 所 実 施 設 計︵ ア フ ガ ニ ス タ ン ︶、 大 洞 発 電 所 実 施 設 計︵ 埼 玉 県 ︶、 一 九 五 六 年 は

荒川第二発電所実施設計︵日本軽金属︶などだった。二瀬発電所実施設計は本間自らが五万分の一の地図でダムサイ

トを発見し、埼玉県に進言したのが契機だった。本間は﹁老齢にもかかわらず、率先して荒川各支流の末端迄度度踏

査﹂した。荒川第一発電所は新潟県坂町に河口を持つ荒川にダム式発電所を建設する計画だった。この計画は後に日

本水素から日本軽金属に移管された。ラグマン発電所実施設計は安達遂法政大学教授︵元総督府調査官︶らと共にア

フガニスタンの首都カブールに到着した。陸路でラグマンまで行き、現地調査を行っ た

82

六一二

(25)

  本 間 は 友 人 関 係、 協 会 独 自 の 営 業 活 動 を 続 け た。 し か し、 こ の 時 期 か ら 同 業 者 は 次 々 と 誕 生 し、 競 争 は 激 化 し た。

協 会 も 利 益 追 求 の 会 社 組 織 に 変 更 す る 必 要 に 迫 ら れ た。 こ の た め、 本 間 は 一 九 六 三 年 三 月 に 協 会 を 発 展 的 に 解 消 し、

︵ 株 ︶ 開 発 コ ン サ ル タ ン ト を 設 立 し て、 社 長 に 就 任 し た。 資 本 金 五 〇 〇 万 円 で あ る。 こ れ に は 朝 鮮、 満 洲 国 で 本 間 の

部 下 だ っ た 内 田 弘 四 が 社 長 を 務 め る 大 豊 建 設 の 特 別 な 支 援 が あ っ た。 営 業 種 目 と し て は、 ﹁ 建 設 事 業 の 調 査、 計 画

及 び 設 計 ﹂、 「 水 力 発 電、 其 他 構 造 物 の 基 礎 工 法 に 関 す る 調 査、 研 究 及 び 設 計 」 な ど だ っ た。 わ ず か 一 年 三 个 月 後 の

一九六四年六月に本間は社長を退き、会長となった。第二代社長は伊藤令二であ る

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  晩年の本間の姿を、長男は﹁毎日庭や植木いじりに過し、週に二回程度会社に行き、その帰りに、学士会館や大豊

建設の内田社長︵現会長︶の所へ将棋や碁をさしに行くのを楽しみにしていまし た

﹂と述べている。一九七二年二月

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に 甥 で あ る 義 孝 が 死 亡 し た

。 約 二 年 後 の 一 九 七 四 年 一 月、 本 間 は 死 亡 し た。 享 年 八 四 で あ る。 本 間 の 葬 儀 で は 一 高、

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東 京 大 学 で 同 期 だ っ た 内 海 清 温、 総 督 府 と 満 洲 国 で 本 間 の 部 下 だ っ た 内 田 弘 四 大 豊 建 設 社 長、 ︵ 株 ︶ 開 発 コ ン サ ル タ

ントの伊藤令二社長の三人が弔辞を読ん だ

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︵3︶本間の過去の工事認識

  本 間 は 敗 戦 前 に 自 分 が 朝 鮮、 満 洲 国 で 行 っ た 土 木 工 事 を、 戦 後 は ど の よ う に 認 識 し て い た の だ ろ う か。 一 九 六 六

年、七六歳の本間は朝鮮での土木活動を次のように述べている。まず、日本が朝鮮で行なった土木工事全般の評価で

ある。本間は﹁日本は、ここ︹朝鮮=広瀬︺の住民のため、各種の文化施設をして、住みよい土地にする政治をした

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六一三

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のである。従つて、国土建設などの土木事業が、第一番に取り上げられたのだと思う。実績からいって、伊藤統監以

来、 歴 代 総 督 も、 そ の た め に 非 常 に 努 力 せ ら れ た 形 跡 が 残 っ て お る。 ︵ 中 略 ︶ 日 本 は、 自 国 の 勢 力 下 に 入 つ た と こ ろ

は、国土開発の仕事をまず第一にやる。考えれば馬鹿げたことのようでもあるが⋮⋮︵中略︶このような朝鮮の大土

木施設のほとんどは、日本の予算で賄われたもので、相当巨額の国費が投じられている筈である﹂と述べている。特

に欧米諸国が植民地︵東南アジア、インド︶を支配した時、 ﹁その国土全体の開発とか改良とかいうような仕事はさっ

ぱりやっていない﹂と批判し た

。これらとの対比で、日本の朝鮮での土木工事を高く評価している。

87

  続いて、各種土木工事の評価である。本間は鉄道、港湾、道路、都市施設、河川改修、利水計画、水力発電などに

具 体 的 に 触 れ、 最 終 的 に 次 の よ う に 結 論 付 け て い る。 ﹁ 私 共 の 眼 か ら 見 た 土 木 事 業 に つ い て、 公 平 に 見 て こ れ は よ く

で き て い る な と 思 う 施 設 を 挙 げ て み る と、 ま ず、 港 湾 施 設 で あ る。 こ れ は 確 か に 相 当 の 誇 り と し て よ い と 思 う。 ︵ 中

略︶道路は、これはまだ何としても当時の国情から見てやむを得ぬものがあつたと思う。但し、道路に付随して、ど

う し て も 必 要 と な る 橋 梁 に つ い て は、 朝 鮮 の 三 大 橋 と 呼 ば れ て い た 大 同 大 橋︵ 大 正 一 二 年 竣 工 ︶、 咸 興 の 城 川 江 に 架

か る 万 歳 橋︵ 昭 和 四 年 竣 工 ︶、 お よ び 京 城 漢 江 の 漢 江 大 橋︵ 旧 鉄 橋 は 大 正 六 年 十 月 竣 工・ 架 け 替 え の 新 大 橋 は 昭 和 四

年九月竣工︶ などは代表的なものであるが、これらは何れも、幸いなことに私の所管時代に完成させることができた。

︵ 中 略 ︶ 概 し て、 道 路 は あ ま り 自 慢 で き な か っ た も の で あ る が、 河 川 改 修 事 業 と 港 湾 事 業 及 び 水 力 電 気 は、 国 造 り、

国土改良事業として相当目覚ましいものではなかったかと思う次第であ る

﹂と、港湾、河川改修、水力電気を高く評

88

六一四

(27)

価している。

  本間は総督府の土木工事は朝鮮人のために行ったものであると理解している。しかし、その一方、これらの土木工

事 が 日 本 の 朝 鮮 に お け る 治 安 対 策 と 密 接 な 関 係 を 持 っ て い た こ と も 正 直 に 指 摘 し て い る。 ﹁ 鉄 道、 港 湾、 道 路 な ど 交

通関係の仕事は治安保持にも密接な関係があるので、その面からも第一に採り上げられたことと思 う

﹂と述べている。

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  第二に、満洲国での活動をどのように理解していたのか。一九六四年、七五歳の本間は満洲国の工業化を次のよう

に 回 顧 し て い る。 ﹁ 日 本 の 大 工 業 会 社 が こ ぞ っ て 満 洲 国 法 人 と し て の 子 会 社 を 持 つ よ う な 気 運 を 生 じ、 奉 天 鉄 西 大 工

業地帯のようなものが一朝にして蜃気楼的に出現し、まるで日本工場のデパートのごとき光景を呈した。これが敗戦

と と も に 燎 爛 鉄 西 文 化 も 一 夢 と 消 え 失 せ た が、 民 族 興 亡 史 の 一 駒 と 嘆 ず る よ り 外 は な い

  ﹂ と、 ﹁ 民 族 興 亡 史 ﹂ 的 な 立

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場 か ら 振 り 返 っ て い る。 ま た、 豊 満 発 電 所 建 設 に 関 し て、 本 間 は 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 本 計 画 は あ ま り に も 大 規

模 で、 日 本 内 地 等 で は 想 像 も で き な い よ う な も の で あ っ た。 い か に 満 州 が 人 煙 希 薄 と 言 っ て も、 三 万 町 部 の 耕 地 と

八千戸の人家を水没せしむるということは容易な仕事ではなかった。半年凍結している冷寒地で、二百万立方メート

ルのコンクリー打ち︵日本小河内ダムは百五十万︶しかも早急を要するので無理な工程であった。松花江の締め切り

工事等も技術的には興味深いものであって、これによってたくさんの新技術が生れたのも当然である﹂と、計画自体

に か な り 無 理 が あ っ た こ と を 認 め て い る。 ま た、 本 間 は 自 分 の 功 績 に は 触 れ ず、 ﹁ 本 計 画 は 前 述 の ご と く 満 洲 国 と し

ては国力をあげての大事業であった。従って誰が作ったということなく国力の総力結集で自然にでき上がったような

朝鮮総督府の土木官僚本間徳雄の活動︵広瀬︶ 六一五

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格好であった﹂と謙遜してい る

  。

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  第 三 に、 戦 後 日 本 を ど の よ う に 認 識 し て い た の か。 一 九 七 三 年、 八 三 歳 の 本 間 は 次 の よ う に 述 べ る。 ﹁ 終 戦 後 日 本

帝国欽定憲法は廃止、マッカアサー制の米国押付け憲法の時代となった。元より日本の弱体化を狙って借着故、寸の

合わない所が沢山ある。忠君 ・ 愛国 ・ 孝行等の文字は余り見受けられない。親子の殺傷事件でも判決は無関係の様だ。

これは余りにも極端で、人間と動物の区別がなくなってしまう。又進化論の原理にも、もとると思う。即ち私は国家

組織の最下部単位として家族制度を残し、幼児や老人の福祉問題は同族間で処理することにある。これが真の福祉国

家で極楽浄土でもあ る

﹂と述べている。つまり、晩年の本間は保守主義者であり、家族主義者であり、戦後の風潮に

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批判的だった。

おわりに   以上述べたことを要約すれば、以下の通りである。

  本間徳雄は東京帝国大学工学部を卒業し、一九一五年に朝鮮総督府に入り、一九三三年まで一八年間勤務する。大

同江出張所所長、京城出張所所長を務め、特に大同橋、漢江橋などを設計し、橋梁工事の第一人者になる。総督府土

木課では第三位まで上るが、上位には長く土木課長を務めた榛葉孝平、甥の本間孝義がおり、これ以上の地位を望め

ぬと判断し、一九三三年満洲国に移った。 六一六

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