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雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

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(1)

唐代経学における古文学派的発想について ―史学 と古文思想との関係をてがかりに―

著者 宮岸 雄介

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 3

号 1

ページ 15‑35

発行年 2009‑03‑24

その他のタイトル On an idea of Gu‑wen (ancient writings) school

in the Tang Dynasty's study of Confucianism

URL http://hdl.handle.net/10723/3221

(2)

はじめに

中国の唐宋期は変革の時期であった。諸説ある中国史の時代区分で

も、唐と宋の間には常に一線が引かれている。その具体的な変化は、

政治社会史の面において、六朝以来政治の実権を握っていた貴族層が、

科挙合格者である新興の官僚層にその座を引き渡し、門閥貴族社会が

完全に姿を消していったことに認められよう。士大夫の文体も、いわ

ゆる中唐 (1)の古文復興の主張を契機に、貴族が愛用してきた四六駢儷体

に代わって、科挙出身者が考案した古文の重要性が主張され始めた。

そして、何より特筆すべき変化は儒学思想の中に見いだせる。この時

期は、唐初に編纂された『五経正義』に代表される訓詁学から、自ら

の思索を深めて思想を体系化していく宋学へと、大きな変貌を遂げた

ターニングポイントとなっているのである。

こうした変革の時代において、史学にも目立った変化が見える。唐 初は、太宗が前代史の正史を再編纂した影響もあり、『漢書』の注釈

が多く作られた (2)。これは、五経の注釈が完備していく時代環境の中で、

史書の一つの典型として『漢書』を捉えてきた現れであった。従来の

史書に対して厳格な論評を加えている劉知幾(六六一~七二一)の

『史通』でも、『漢書』を細かい点ではきびしく批判しながらも、最終

的に理想的な史書のスタイル(「漢書」家(断代紀伝体))としている

ように (3)、唐初には明らかに断代史が重視されていた。ところが、安定

していた王朝の基盤が崩れた安史の乱後になると、歴代の制度を概観

した杜祐(七三四~八一二)の『通典』、つづく北宋には司馬光(一

〇一九~一〇八六)の『資治通鑑』、そして南宋の鄭樵(一一〇二~

一一六〇)の『通志』など王朝を越えた歴史を叙述する史書が編纂さ

れてきた。すなわち、唐宋の変革期を経て、重視される史書のスタイ

ルが断代史から通史へ変化していくのである。

本論では、こうした多方面にわたって変革が進む背景の中で、特に

唐宋の新興士大夫たちの学術への姿勢に着目し、その意識の変化を引

宮岸雄介 唐代経学にお け る古文学 派 的 発 想について

史学と古文思想との 関係 をてがかりに

(3)

き起こした思考様式について考察したいと思う。

唐宋の変革の文化面で大きな役割を果たした人物は、何といっても

中唐の韓愈(七六八~八二四)であろう。思想史の上では、「道統」

という儒家の学統を宣言し、四書の基礎となるような示唆的見解を述

べ(「原道」)、宋学の基礎を築いた。文学の面では、四六駢儷体に変

わる古文を創造し、彼の文体は以後の文章の規範となった。韓愈によ

ると、

(韓)愈之為古文、豈獨取其句讀不類於今者耶。思古人而不見、

學古道、則欲兼通其辞。通其辞者、本乎古道者也。(「題哀辞後」)

というように、「古文」とは、儒学の「道」を実現するための手段で

あり、単なる古典模倣の文章ではなかった。

「古文」の思想は、韓愈の創始ではなく、唐初から徐々に現れ始め

ている。唐初以来、「古文」は「道」をめざす載道文学として意識さ

れ、盛唐の古文家たちに至っては漢代文学を通り越して経典そのもの

へ回帰し、その文体そのものを模倣するという極端な発想にまで行き

着いた。そして、中唐になると、韓愈の道統思想に見えるように、漢

代の文章までが尊ばれるようになり、自らその学統を引き継ぐと強く

意識された。しかし、晩唐になると、また漢代文学が否定され、経書

そのものだけを重んじる復古主義へと逆戻りし、韓愈の目指した古文

から乖離していくことになる (4)

このように、古文の問題は儒学そのものと直結しており、古文の思

想の分析には、唐代儒学思想の展開とともに考えていかなければなら

ない。また、韓愈自身も史官に就いており、『順宗実録』という史書 編纂に携わっていること、司馬遷の『史記』をことのほか尊重している事実を考えると、史学との関係も無視しては唐代の学術は論じ得ないことが分かるであろう。すなわち、古文と史学、それから経学は、当時の士大夫が兼修していた学術であり、総合的に考察していかないと、唐宋変革の思想について論究できないのである。

唐代の学術が最初に変化し始めたのは、唐初の武則天の時期である。

唐王朝が開闢し、太宗の時代に南北学術の統合が試みられたものの、

思想史の上では、この時期から徐々に変革の兆しが見え始めた。貴族

階級出身でない、中国随一の女帝武則天は、科挙合格者である新興の

士大夫たちを多く登用することで、貴族勢力を政界から追い出そうと

した。こうした政治上の変化を背景に、新興士大夫たちは、旧勢力が

担ってきた貴族文化に対抗する独自の文化を創造し始めたのである。

陳子昂らの古文、劉知幾の史学思想、そして経学そのものに芽生えた

批判的発想などが、この時期に現れたのも、新興士大夫層が重用され

始めたことと無関係ではない。

本論では、最初に唐宋の変革の兆しが最初に見え始めた、唐初の武

則天時代の学術、特に経学、史学そして古文復興の思想について考え

ていく。さらに、この時期登場した思想が唐代後半へどのように影響

を及ぼしたのかを概観しながら、思想史上における唐初の学術の意義

について考察してみたい。

(4)

一、太宗の『五経正義』をめぐる思想史上の問題

実質的な唐王朝の創業の主であった太宗(李世民)は、特に文教政

策に力を入れた。

夫功成設楽、治定制礼、礼楽之興、以儒為本、弘風導俗、莫尚於

文、敷教訓人、莫善於學、因文而隆道、仮学以光身。(『帝範』崇

文)

という彼の方針からも明らかなとおり、その目的は、儒家思想による

政治の統制であった。周知の通り、唐代は、三教が鼎立した時代であ

り、唐代思想は儒学以外の仏教、道教を無視して語ることは出来ない。

しかし、唐朝を創始した太宗の考え方に限定してみると、仏教と道教

は、孝道を妨げるものとして儒教ほど重視されるものではなかった (5)

そのため、儒家経典である『五経正義』の撰定は、太宗の文教政策の

中でも何より重要なプロジェクトで、六朝時代以来の儒学の権威回復

であったと言えよう。

太宗は文教政策の一環として、前王朝史の正史編纂事業も実施した。

王朝が前王朝の歴史を整理するという営みは、中国古代社会では王朝

の文化政策として連綿と続けられてきたことであるが、中国が南北に

分断され、王朝が陸続と変化した六朝史の正史を、南北朝とも平等に

きちんと整理したという太宗の史書編纂事業は、中国史学史上、大き

な意義を持つ。宋代には、王朝の正統論が史学思想では重要なテーマ

となるが、北朝系の皇帝でありながら、南朝の正史もきちんと整理し 直した点に、太宗の文教政策の意図が潜んでいる。

太宗勅撰のいわゆる五代史(『北周書』、『隋書』、『北斉書』、『梁書』、

『陳書』)には、当時一世を風靡した文学に関する見解が見える。特に

文学者列伝の序や論賛には、当時の文学史観がしばしば吐露されてい

るのが注目を引く。それらの多くは、儒家の経典の文句が挙げられ、

儒家的な文学観が最初に提示されるのを常としていた (6)。しかし、その

文学史観を子細に読解してみると、王朝の公式見解で、儒学的な文学

史観を抱きながら、さらに南朝梁の文学者沈約(字は休文、四四一~

五一三)以来の文学の変化発展を容認する見方を受け継ぎ、この発想

の中には文学自体が以後も発展していく可能性があることを認めてい

。そして、この考え方に則って、文章表現は、南朝で完成の域に達

した優美な四六駢儷体に見えるような修辞法を受け継ぎ、北朝の質朴

で簡潔な文体を融合させ、未来に向けて新しい文学を創始することが

期待されていた 。ここには、政治的な勝者であった北朝系の唐朝が、

文化的には優れる南朝文化を融和させるという意識が伺え、こうした

発想が以後の唐文化の発展を導きうるものとなったと思われる。

これに対して、『五経正義』の経書観は、科挙を受験する際必要な

公式解釈を提供するものであるが故に、文人たちのイデオロギーを画

一的に統制する性格のものであった。すなわち、正史の文学史観では、

唐代以降の文学の発展も許容する思想がすでに準備されていたのに対

して、経書解釈の統一とは、その性質上、唯一絶対の不動のものを示

すため、以後の発展や変化というものは認めるものではない。この意

味で、『五経正義』の経書観とは、変化発展する動的で歴史的なもの

(5)

ではなく、静的で教義的な性格を有するものであった。

こうした厳格な訓詁学で統制された唐代経学の特徴から、唐代思想

は停滞の時代で前後の六朝時代や宋代と比べて、取り上げる事項がな

いとしばしば考えられてきた。しかし、宋学の直接の源流が韓愈らの

思想に起因し、更に、韓愈の思想も中唐に俄に登場したものではなく、

唐代を通じて連綿と受け継がれてきた思想を継承している事実 (9)が認め

られる。すなわち、唐代経学には、唐初に王朝によって定められた経

学の権威が確立するとともに、在野の士大夫によって、それに反発し

ながら新しい学問を作り出そうとする芽が同時に育ちつつあったので

はないだろうか。在野の士大夫とは、科挙の合格者として政界に次々

進出しつつあった中小の地主層である。彼らの手によって、六朝貴族

的な文化に対抗して新たに創造されていったのが唐代の学術文化であっ

た。そして、新興の在野士大夫が、王朝が定めた権威を乗り越えてい

く背景として、唐修の勅撰五代史に見える文学史観のような変化発展

を認める発想も、精神的なよりどころになったのではないだろうか。

思想の統制は、思想の自由と可能性を閉ざしてしまうために、『五

経正義』をめぐっては唐初から議論があった

。中唐期になると、啖助・

趙匡・陸淳らによる春秋学派が現れた。彼らの主張は、『春秋』三伝

より経文そのものを重んじるもので、王朝によって権威づけた経書解

釈は、批判され問い直すものであった。すなわち、唐初に規定された

『五経正義』の解釈をめぐる議論は、思想の停滞を促すようなその継

承よりも、それを乗り越えていくことに思想史の発展の上では意義が

あった。唐人が自らの批判精神によって、王朝の権威ある経書解釈の 批判を通じて形成してきた思惟の延長線上に、宋代の新しい哲学の誕生があったと考えられるからである。この意味において、唐代経学の発展史は、宋学の前史として重要な意義を有しているのである。

中唐期には、韓愈・柳宗元らの主張に見える、文体の変革を唱える

古文の思想も出現した。しかし、彼らの思想も中唐になって突如現れ

たものではなく、初唐の陳子昂、盛唐の李華、蕭穎之のように、唐代

を通じて古文の思想を抱く文章家は存在し続けた。春秋学派も、古文

運動同様、中唐ににわかに現れるのではなく、その布石として、初唐

から中唐にかけての精神史の中で、こうした経書観が登場する必然性

があったと思う。

この春秋学派の学者たちは、史家や古文家と人的にも深く関わって

いたことが知られている

。それゆえ、史学や古文の思想も視野に入れ

ながら、唐代の経学の発展について考察していくことにしよう。

そもそも経伝そのものを批判することは、太宗の文教政策でも核と

なっている権威を否定することに繋がり、許されざるタブーであった。

中唐の春秋学派が、『春秋』三伝よりも経文そのものと直接向き合お

うとしたことは、注釈である伝をないがしろにすることを意味する。

『五経正義』は経文解釈でよりどころとする注釈(伝)を統一規定し

たものなので、春秋学派による経書の解釈方法は、後漢から以後の解

釈の集積である注疏の学の権威をも否定することにつながる。経学と

いう学問では、経文そのものや伝統的な注釈を批判する禁忌を犯しに

くい状況にあり、中唐の春秋学派がいきなりそれを主張するのはあま

りに唐突すぎる

(6)

中唐に春秋学派が現れる端緒は、経学に隣接する史学の成果から導

かれたのではないか。客観的に事実を追求していこうという史学の精

神が、経書の記事も史実として史料批判をしていく中で、経伝の批判

へとつながっていったのではないだろうか。そして、経学の中で、史

学に最も関係がある春秋学が中唐期になって、新しい経解釈の学派を

生み出すことになる、というのが経書批判の思想史的発展であったの

ではないだろうか。次に、以上の仮説を具体的に論証しながら唐初の

学術について考えていきたい。

二、唐初武則天期の経学批判と史学思想

唐代は、南北朝の学術が統合される時代であった。それをより促進

させるきっかけとなったのが太宗の文化事業であったことは論を待た

ない。一般に北周の蘇綽(四九八~五四六)による文体革命のように、

単なる上意下達による権威の押しつけでは、文化の発展は望むことは

出来ない

しかし、太宗の文教政策は、南北朝の学術統合という性格上、部分

的には文化の発展を容認するという、極めて寛容な面も確認される。

先に見たとおり、唐修『隋書』文学伝序には、魏徴の文学史観として、

南北両朝のいい部分をそれぞれ折衷させて文学を発展させるという見

解が掲載されていた。このように、文学方面においては、南朝文人の

大御所である沈約の文学史観をそのまま踏襲する考え方が採用され、

以後の発展さえ示唆するような卓見が見える。すなわち唐初正史の文 学論は、南朝風の豊かな表現方法と北朝風の素朴で内容を端的に伝える文章を融合させるという発展的な議論となっていた。こうした南北融合の文学論は、太宗が南朝の名門貴族たちを多くブレーンとして取り立てたことと表裏しているであろう。南北の学問の統合は、唐王朝のまさに南朝貴族文化を王朝文化に取り込む文教政策であったのである。

公式見解としての正史の文学史観に、以後の唐代文学の発展におけ

る方向性が示されていたことは非常に大きな意味を持つ。当時の文学

者は、すなわち政治に関わる官僚でもあったため、このような王朝の

公式見解に対しては敏感であっただろう。それゆえに、彼らは文学創

作の大前提として、まずこの認識を念頭に置いたと思われる。初唐か

ら盛唐にかけての文学史を概観してみる時、最初に上官体などの南朝

風の優美な詩が流行し、それを発展させながら近体詩の完成が見られ

たように、南北の文学が融合しながら、この正史文学伝序で示された

シナリオ通りに文学が発展していったことは、非常に示唆的である。

それでは、経学の方はどのような意図で、南北の経解釈が統合され

たのであろうか。経学の場合、北朝の注釈は鄭玄を中心とする後漢古

文学派の注釈、南朝の注釈は王弼の易注などの魏晋人によって新たに

作られた注釈が中心になっていたという大まかな区別がある。魏の王

粛の注釈は一切取られなかった。北朝が重んじた鄭玄注を採用したた

め、その反論を唱えた王粛の注を入れてしまうと、『五経正義』の中

に大きな解釈矛盾を抱え込むことになってしまうからであろう。その

結果、王粛注のテキストは散逸してしまうことになった。

(7)

このような取捨選択にさまざまな配慮がなされたものの、基本的に

それぞれの注釈は家学や師承による伝承を基本とする個別のもので、

南北経学の解釈統一とは、双方の融合ではなく、どの注釈を選択選別

するかという操作になる。『五経正義』の撰定が太宗の貞観十二年

(六三八)の撰定開始から高宗の永徽四年(六五三)まで十六年もの

時間がかかったという原因も、その選択を調整するために議論が重ね

られてきたことを示している。その採択の結果として、

『周易』王弼注、『尚書』孔安国傳、『毛詩』毛公傳、鄭玄箋、『礼

記』鄭玄注、『春秋左氏伝』杜預経傳集解

という経伝が『五経正義』として選定された。漢代以来の古文学派の

テキストが、南北バランスよく選ばれていることがわかる。ともあれ、

拠り所とする注釈が定められ、経義が決定され、科挙の試験科目とし

て定着してしまうと、今後の展開としては、この解釈を出発点に新し

い解釈や思想が考案される可能性はなくなる。そして、この選択によ

り排除されてしまった解釈や思想を抱く学者は不満を抱き、不本意な

がら遵守せざるをえないことになるであろう。こういうストレスが、

経書批判となって現れてくるのは想像に難くない。

唐代は、文学史観に認められたように、新たなものを作り出すとい

う精神も王朝公認のものであった。それゆえ、貴族勢力に対抗しよう

としていた新興の士大夫側には、新しいものを創造しようという意識

は高く、経学史にもこうした精神の発揚が認められる。特に唐初の学

術思想の場合、新興の中小地主階級を中心とした科挙に合格した官僚

たちが、既存の貴族的な権威を打破して、新しい価値体系を作り出そ うとしていた。この意識が、文体の変革である古文の思想や、これから論じる経書批判となって出現した。これらは同じ動機から生じた精神活動であり、目指す方向性も一致していた。そして、その発展を促す契機として史学という学術の充実と、そこから生み出された史学思想が多分に影響していたと考えられる。経学批判や初期の古文思想は、

同時代において必ずしも主流となるものではないとしても、次世代に

引き継がれ、最終的に宋学を生み出すに至るきっかけを作ったのでは

ないだろうか。

『五経正義』は、すでに高宗の永徽四年(六五三)に完成をしてい

たが、その直後の武則天の時代になると、早速その解釈をめぐって異

議申し立てがなされた。政治史から見ると、中国史上唯一の女帝であっ

た武則天の時代は進士科が重んじられて、詩賦の学問が尊ばれた。そ

の結果、つづく直後の盛唐には詩が空前の発展を遂げることになった

のは、文学史が伝えるところである。

武則天政権は、寒門出身の科挙合格者を多く取り立てて、旧来の貴

族勢力を抑えるという政策を採り、貴族制崩壊の歴史に画期的な効果

をもたらしたといわれる

。この時期、詩文を重んじる進士科が重んじ

られるようになってきてもいた反面、経典の解釈が出題される明経科

は廃れてきた。『五経正義』に対する批判という現象は、当時の士大

夫の精神的な欲求が、すでに権威づけられたために廃れてしまった経

学精神を立て直そうとして、より自由な解釈を希求していた時に、武

則天による社会変革という情勢が追い風となり、生じたものであった

と考えられよう。

(8)

古文思想の嚆矢とされる陳子昂(六六一~七〇二)もこの時期に現

れたのも、偶然ではない。この時期に、『五経正義』へ異議申し立て

が出てきたというのも、まさに時代の必然性があった。また、この武

則天の時代には、同時に史学の方面でも、唐修正史に対する深い反省

から早くも史学論が結実する。劉知幾(六六一~七二一)の『史通』

である。武則天期に新興の官僚層が台頭してきたということは、『五

経正義』を代表とする唐初に定められた王朝の権威に対して、各分野

から批判精神を引き起こし、唐代の学術の奥行きを以後も深めていく

きっかけを提供するのであった。

まず、経書批判から見ていくことにしよう。

是後則天親祠南郊及享明堂、封嵩獄、(王)元感皆受詔共諸儒撰

定儀注、凡所立議、衆咸推服之。転四門博士、仍直弘文館。(王)

元感時雖年老、猶能燭下看書、通宵不寐。長安三年、表上其所撰

『尚書糾謬』十巻、『春秋振滞』二十巻、『礼記縄愆』三十巻、并

所注『孝経』、『史記』稿草、請官給紙筆、写上秘書閣。詔令弘文、

崇賢両館学士及成均博士詳其可否。学士祝欽明、郭山惲、李憲等

皆専守先儒章句、深譏(王)元感掎

旧義、(王)元感随方応答、

竟不之屈。鳳閣舎人魏知古、司封郎中徐堅、左史劉知幾、右史張

思敬、雅好異聞、毎為(王)元感申理其議、連表薦之。尋下詔曰、

「王元感質性温敏、博聞強記、手不釈巻、老而彌篤。掎前達之失、

究先聖之旨、是儒宗、不可多得。可太子司議郎、兼崇賢館学士。」。

魏知古嘗称其所撰書曰、「信可謂五経之指南也。」。(『旧唐書』巻

百八十九儒学王元感伝) と老年の四門博士であった王元感は、長安三年(七〇三)に、『尚書

糾謬』、『礼記縄愆』、『春秋振滞』という書物を朝廷に献上した。これ

は、当時の儒者祝欽明、郭山惲、李憲など

の非難を受ける。彼らの立

場はもとより先儒の章句を守る態度であったが、王元感は「旧義を掎

する」ものであったとここで指摘されていることから考えると、伝

や注に囚われずに、より経文の根元的な意義を追求するものであった

ことが分かる。

この記事で注目されることは、儒学者の中には、章句を守る権威主

義者だけではなく、王元感とそれを支持する「異聞を好む」異端学者

が存在したことである。この記事の中で、王元感が『史記』の注釈を

書いたことも夙に注目される。唐初の『漢書』学隆盛から武則天の時

期になると、『史記』への関心が高まってきたことは、史学史上重要

な意味を持っている

。『史記』を編纂した司馬遷は、前漢の史家で、

その思想的背景には当時の官学であった今文学派の影響が色濃い。古

文学派を基調とする『五経正義』で統一された唐代経学史において、

今文学派的な発想の強い史書が研究されたことは非常に興味深い事実

である。武則天の時期に『史記』の解釈学が復興を遂げたということ

は、貴族制社会から新興官僚社会へと移行し始めた、変革意識の一つ

の現れであったのであろう。

上の引用記事の中で、王元感を支持する異端学者に劉知幾がいたこ

とも特筆すべきことである。また、ここに列挙されたその他の異端学

者たちも史学と深く関わった経緯があり

、もとより経書批判は、史学

と関連するところから起こったことを示唆しているように思われる。

(9)

王元感を批判した学者たちは、みな『五経正義』の「章句を守る」態

度からその異端性を批判した。こうした章句を守る固陋な態度に対し

ては、劉知幾も、

然則儒者之学、苟以専精為主、止於治章句、通訓釈、斯則可矣。

至於論大体、挙宏綱、則言罕兼統、理無要害。故使今古疑滞、莫

得而申者焉。(『史通』申左篇)

という批判を展開している。ここに見える劉知幾のこの発言は、王元

感の賛同者であることを考え合わせても、当時の経学の状況を直接批

判していることが分かる。ここで、劉知幾は、儒家の学問として、章

句を正確に行い訓詁に通じることとともに、全体的な大綱を議論する

必要性を説いている

。すなわち、六朝以来の義疏のあり方を問い直し、

古文学派本来の精神に立ち返り、独自の経書批判を展開しているので

ある。これまで見てきた通り、『五経正義』は、古文学派系の注釈を

多く採用した。そのため、唐初の学者もそのほとんどが、古文経学を

拠り所としていることに、最初に注意しなければならないだろう。

劉知幾も、『古文尚書』と『春秋左氏伝』を幼年時代に父兄から習っ

たという読書体験が語っているように、彼の家学はとりもなおさず古

文学派の経学であった

。父兄は、「父兄欲令博観義疏、精此一経」と

『春秋』の義疏を広く読み、一経に通じることを要求したが、劉知幾

自身は、『春秋』以外の異聞を広めたいという好奇心を抱き、『史記』、

『漢書』、『三国志』から唐代までの史書を読みあさった

劉知幾の史書多読の姿勢には、『史通』申左篇の「大体を論じ宏網

を挙ぐ」というという目標がすでに伺えるだろう。この目標は、まさ に古文学派の勉強から始めて、その本来的な精神に回帰して、自らの好奇心に任せて広く史書を学んでいった劉知幾の学問に対する姿勢によって初めて意識されるものであった。申左篇で、「言伝者、固当以

左氏為首。」という主張のもと、左伝の優位性の論証

をさんざん展開

していた劉知幾にとって、古文学派としての立場は、彼の史学思想全

体の性質を決定づけている。

『史通』申左篇では、『左氏伝』の立場に依りながらも、『春秋』三

伝全てを概観して批判を展開するという方法を確立しているが、これ

も「章句を守らず、大綱を明らかにする」という、研究態度から導き

出される方法であった。実は、こういう学問観そのものが極めて後漢

の古文学派的な考え方なのである。

それでは、「章句の学」に対して古文学派はどのような態度で臨ん

できたのであろうか。唐初の劉知幾ら「異聞を好む」士たちの見解を

経学史の中で位置づけるために、行論の都合上、後漢から六朝にかけ

ての古文学派たちの経書研究の姿勢について論究していくことにしよ

う。

三、「不守章句」の伝統

そもそも章句とは、文章の章節を分けて句読を正して文意を精査玩

味することである

。用例として見える「章句を守る」とは、しばしば

経学の研究態度として使われており、一経のみを詳細に分析し尽くし

ているがそれ以外を知らないという立場を表し、批判の意味を込めて

(10)

用いられてきた。古くは、後漢にこうした用例が多い。実はこれにも

もともと思想史的な背景がある。周知の通り、後漢には古文経学を重

んじる古文学派が台頭してきて、しきりに前漢の官学であった今文学

派の学問的方法論を批判していた。たとえば、

説五字之文、至於二三萬言。後進彌以馳逐、故幼童而守一藝、白

首而後能言。安其所習、毀所不見、終以自蔽。此學者之大患也。(『漢書』藝文志)

という批判に見えるように、今文学派の章句の学は、まさに文字の中

に自由な思想を埋没させてしまう窒息状態に陥っていた。冒頭の「説

五字之文、至於二三萬言」の部分には唐の顔師古が注釈をつけており、

師古曰、「言其煩妄也。桓譚『新論』云秦近君能説『堯典』、篇目

両字之説至十餘萬言、但説『曰若稽古』三萬言。』」。

『堯典』の経文に対する注釈が数万字に及ぶ煩瑣なことを批判してい

る。そこで、後漢の古文学派は、しきりに「章句を守る」ことを否定

して、今文学派批判を行っていた

。後漢を代表する揚雄や桓譚、王充

そして班固という学者の学習方法は、

『漢書』楊雄伝、「雄少而好学、不為章句、訓詁通而已、博覧無所

不見」『後漢書』班固伝、「及長、遂博貫載籍、九流百家之言、無不窮究。

所學無常師、不為章句、挙大義而已」。

『後漢書』王充伝、「後到京師、受業太學、師事班彪。博覧而不守

章句」。

『後漢書』桓譚伝、「博學多通、

習五経、皆詁訓大義、不為章 句」。

というように、みな口を揃えるように「章句を守らない」方法によっ

ていた。さらに、「章句を守らない」態度とともに、上文に、「博学」、

「博覧」という語が併用されているように、ひとつの経典によらずに

多くの文献に当たる「通」を重んじていた。そして、大義を理解すれ

ば、重箱の隅をつつくような些細な問題はどうでもいいと考えていた

ことが分かる。章句を守らないこととともにあげられた、これらの特

質は、そのまま古文学派の学風を示すもので、劉知幾の「大体を論じ

宏網を挙ぐ」という経学論は、まさに古文学派の基本的な考え方をそ

のまま継承していると言える。更に興味深いことに、後漢の時期にな

ると、古文学派から「章句の学」として批判された、今文学派の学者

も、「章句を守らず」という主張をしている。

是以講誦師言至於百萬、猶有不解。時加醸嘲辞、援引他経、失其

句読、以無為有、甚可閔笑者不可勝記也。是以治古學貴文章者謂

之俗儒。(何休『春秋公羊傳解詁』序)

と、師匠の言を習い百万言に達しているのに、まだ解することが出来

ない、章句の徒のことを、古学を修めて文章を重んじる者が嘲笑する

のは当たり前であろう、と何休(一二九~一八二)も章句の学を暗に

非難している

。つまり、「章句を守らず」という学習態度は、古文学

派のみならず、後漢の学者全般が抱く意識であったのである。例えば、

異端学者として知られる後漢の王充(二七~一〇〇)は、今文学者か

古文学者かはにわかに判別できない。『論衡』に引用されている諸説

は今文の経文が多いが、王充自体は広く学術に通じるという姿勢を貫

(11)

いており、こうした態度は当時の古文学者と変わらない。

後漢の古文学派の大成者鄭玄(一二七~二〇〇)も、「通人」を以

て自認した

ように、多くの経典に依りながら経義を明らかにする方法

で経解釈をした。ひとつの学派による一解釈をかたくなに守るという

のではなく、たとえ儒家経典内に限定された見解であっても、他の立

場の経伝を参照するという考え方は、客観的な判断を有し、史料批判

を積み重ねて論述していく歴史学的な方法に類似すると考えられる。

漢代の古今文論争は、後漢に登場した古文学派が優勢な状態で六朝

時代に突入した。そのため、一般に今文学派は廃れ、経の注釈はおも

に古文学派によるものが伝わることになる。儒家を国教としていた漢

帝国が滅亡したため今文学派は衰え、六朝時代は儒学そのものの価値

が相対的に低くなり、経学は史上最も振るわない時代だった。そこで、

儒家の経典は、国の保護のもとではなく、師承・家学の伝承により個

別に隋唐へと伝えられる運命を辿るのである。六朝時代に儒学以外の

学問が盛んになり得たのは、儒家の権威を裏付けていた漢帝国の滅亡

ということに直接の原因があるであろう。それとともに、もう一つ注

意したいことは、後漢の古文学派が、博覧、博学を重んじ、通人にな

ることを目指したという精神の影響である。後漢末に鄭玄がさまざま

な経書の注釈を通観したという姿勢は、六朝時代においては、玄儒文

史を兼修するというように、士大夫の関心を儒学の外へ導き、より広

く学ぶ視野を広げたと考えられる。一方、経学自体は、逆に経書の世

界だけに埋没する間口の狭い学問へと堕落していった。当時の儒者の

状況は、 王劭『史論』曰、「魏・晋浮華、古道夷替、

王粛・杜預、更開

門戸。歴載三百、士大夫恥為章句。唯草野生以専経自許、不能究

覧異義、択従其善。徒欲父康成、兄子慎、寧道孔聖誤、諱聞鄭

(玄)・服(虔)甚

、鄭・服之外皆讎。」。(『旧唐書』巻百二元

行沖伝に引く王劭「史論」)

と王粛、杜預の出現後、士大夫は「章句を為す」ことを恥じたにもか

かわらず、固陋な儒者は、漢儒の鄭玄、服虔の注釈を殊の外重んじ、

違った意見を探求して正しいものをそこから客観的に選び出すことが

出来なくなったという。かたくなに家学を継承してきた儒者たちは、

鄭玄、服虔の注釈を孔子の本文よりも重んじてしまうという、本末転

倒の態度さえ示していると、隋の史家王劭はここで批判している。こ

の後、唐代の経学史は、『五経正義』以来権威づけられてきた注釈を

批判して直接経典の本文に向かうという見解にたどり着くことになる

が、ここでの批判は、その出発点となる意識がすでに見えていること

が注目される。こうした偏狭な儒者に対して、六朝の一般の士大夫に

は、

(岑)之敬始以経業進、而博渉文史、雅有詞筆、不為醇儒。性謙

謹、未嘗以才学矜物、接引後進、恂恂如也。(『陳書』巻三十四岑

之敬伝)

というように、もっぱら経学だけを修めるだけでは評価されない風潮

があった。ここで梁の岑之敬は、経学者の家庭

に育ちながら、文学・

史学の書物を広く渉獵し、敢えて純粋な儒者とは成らなかったという。

六朝時代、「章句を守る」経学家の態度は批判の対象であったのであ

(12)

る。ここに図らずも「文史」という語が見えるが、「二漢は経術で人

選したが、今は文史で人を選ぶ」(『梁書』任昉伝)という評語が当時

の世相を端的に示しているとおり、儒学が相対化されている時代にあっ

て、「文史」は、もはや経学よりも重視されていた。北朝末にも、以

下のようなエピソードが伝えられている。

俗間儒士、不渉群書、経緯之外、義疏而已。吾初入

、与博陵崔

文彦交遊、嘗説『王粲集』難鄭玄『尚書』事。崔転為諸儒道之、

始将発口、懸見排蹙、云「文集只有詩賦銘誄、豈当論経書事乎。

且先儒之中、未聞有王粲也。」。崔笑而退、竟不以『粲集』示之。

魏収之在議曹、与諸博士議宗廟事、引據『漢書』、博士笑曰、「未

聞『漢書』得証経術。」。(魏)収便忿怒、都不復言、取「韋玄成

傳」、擲之而起。博士一夜共披尋之、達明、乃来謝曰、「不謂(韋)

玄成如此学也。」。(『顔氏家訓』勉学篇)

と、顔之推(五三一~五九一)が痛烈に非難しているように、宮廷の

「博士」たちは、経学以外には通じておらず、文学集や『漢書』です

ら読んでいなかった。この話の後半で、北魏の史家魏収が広く書物を

読んでいたことが顕彰されているように、顔之推にとっては、儒家の

経典だけでなく史書や文学の書物に通じることがひとつの理想とされ

ていた。顔之推自身の家系も、『周礼』や『春秋左氏伝』を善くする

生粋の古文学派の家柄であった

。ここにおける顔之推の主張を見ると、

博学、博覧を重んじ、章句を守らない古文学派としての学問に対する

態度が明確に伺える。六朝時代、多くの古文経学家が、「俗間儒士、

群書に渉らず、経緯の外、義疏のみ。(『顔氏家訓』勉学篇)」と、狭 く門戸を閉ざしてしまった一方で、顔之推のように本来の古文学派のあり方を温存しようとする学者も存在したという状況が、この記事か

らは伺えよう。唐初の『五経正義』批判は、顔之推の六朝経学批判と

同じように、古文学派の本来の思想を復興させることであったと言え

るだろう。顔之推にとって、理想的な学問の修得とは、

學之興廃、随世軽重。漢時賢俊、皆以一経弘聖人之道、上明天時、

下該人事、用此致卿相者多矣。末俗已来不復爾、空守章句、但誦

師言、施之世務、殆無一可。故士大夫子弟、皆以博渉為貴、不肯

専儒。梁朝皇孫以下、総丱之年、必先入学、観其志尚、出身已後、

便従文史、略無卒業者。(『顔氏家訓』勉学篇)

と時代によって、その方法は違うという。漢代は一経にのみ専念する

ことで大臣にまでなれた。しかし、現在(六朝)においては、それだ

けでは不充分である。ただ章句を丸暗記しても実務には役に立たない。

複雑多様な現代社会には、儒学だけでは不充分でそれ以外の文学・史

学の文献も広く学ばなければならない、というのが顔之推の学問観で

あった。こうした発想は、当時の状況が理想とかけ離れていたからこ

こに強く強調されているのであろう

。このように儒家の地位が相対化

されて、更に儒者自身も狭い見識に止まっていた欠陥を正し、漢代の

ように再び政治のイデオロギーにしようとしたのが、とりもなおさず

唐初の『五経正義』撰定事業であったはずである。

そもそも後漢に盛んであった古文学派は、今文を批判して自らは

「章句を守らず」と主張した。ところが、その後経学は六朝に細々と

家学として伝えられ、博覧、博学の精神を失って隋唐に伝えられ、太

(13)

宗の時に『五経正義』として権威づけられるに至り、前漢の今文学派

のように「章句を守る」学風になってしまったことは誠に皮肉なこと

である。先に引用した王元感らの経書批判は、六朝以来の章句の学を集積し

た『五経正義』のあり方を批判するものであった。すなわち、これは、

本来の古文学派の面目を回復すべく、章句を守らず大義を知る精神を

復興させるものであったと言えよう。『五経正義』の撰定で六朝以来

不振であった経学を復興させることでは意味があったが、思想そのも

のとしては、単に章句の学を寄せ集めたに過ぎなかった。それに対し

て、更に古文学派の本来の「博覧」、「博学」の視点に立って大綱を論

じるという学問の姿勢を復興せんとしたのが、王元感ら、史学を深く

修めた武則天期の経学者たちであったのである。すなわち、顔之推の

主張した経学復興は、この新興の学者層を通じて完成へと向かうので

あった。王元感らの経書批判の態度は、この後も引き継がれ、劉知幾

の史学思想を経由して中唐の春秋学派の発想に及んで行くと思われる

次に章を改め、唐代後期の劉知幾評価を手がかりに、唐代経学、古文

の思想の展開について見ていくことにする。

四、唐末における劉知幾評価から見える唐代経学

古文学派の本来的な発想である「章句を守らない」という態度は、

実は中唐の士大夫にもしばしば伺える。例えば、通史的な視野に立っ

た制度史である『通典』を編纂した杜佑(七三四~八一二)も、「章 句を好まず」(『通典』序)といい、文体としての古文家であった独孤

及(七二五~七七七)の研究態度も、「後傳窮五経、挙其大略、而不

為章句學。(「朝散大夫使持節常州諸軍事守常州刺史賜紫金魚袋独孤公

行状」)と同じく古文家であった梁粛(七五三~七九三)が評してい

ように、中唐になると、章句の学はもはや否定されるべきものであっ

た。梁粛自体の学問も、

貫極乎六籍傍羅乎百氏、考太史公之実録。又考老荘道家之言、皆

覩其奥而観其妙。立徳玩詞以為文。其所論載諷詠、法於春秋、協

於謨訓、大雅之疏達而信、頌之寛静形焉。(崔元翰「右補闕翰林

学士梁君墓誌」)

というように、経書に限らず多くの書籍に通じることをめざすもので

あった。古文の思想家として知られる梁粛は、仏教の信仰心も強い学

者であった。それゆえ、彼の様々な書物を見渡すという態度には、

「博学」、「博覧」を特色とする後漢の古文学派の学風、そしてそれが

発展して生じた、六朝を通じて儒家以外の学問へと関心を拡大していっ

た「通」の観念をも認められる。これもやはり「章句を守らない」態

度の延長線上にある発想であろう。

彼らの立場が必ずしも古文学派を継承しているものではないとして

も、このように、中唐の学術思想で重要な位置を占める学者がそろっ

て、「章句を守らない」と断言している点は非常に興味深い事実であ

る。劉知幾の「章句を守らず、大綱を知る」という考え方を発展させ、

古文学派の考え方だけに囚われないという考えに行き着けば、『左氏

伝』だけに偏ることなく『春秋』三伝を相対的に概観して、経文その

(14)

ものに向かい合うという経学観が確立しうる。中唐の春秋学派は、唐

初の学術がこのように発展していく中で出現したと思われるが、現存

する啖助・趙匡・陸質らの論文に、劉知幾について言及する文章は見

えない。唐初の王元感らによる古文学派の本来的な精神への回帰は、『五経

正義』の撰定により「章句の学」へと堕落してしまった経学の立て直

しを促すが、この批判は、『五経正義』の権威を前に当時の思想の主

流たりえなかった。新しい経学観が生まれるためには、政治社会史の

方面でも大きな変革を必要とした。唐王朝は太宗が創業の礎を築いた

が、武則天の時代になると、新興士大夫が多く取り立てられて、文化

が変質していくきっかけが出来た。この時に乗じて、王元感らの経書

批判・劉知幾の史学思想・陳子昂の古文思想などが世に出たことはす

でに確認したとおりである。

その後、唐王朝は安史の乱という王朝の存亡も危ぶまれる大事件に

遭遇し、経学も『五経正義』を絶対視する考え方が根底から覆されて

しまった。中唐に至り、新しい春秋学派が登場したのは、不安定な社

会へと変貌した影響が大きいであろう。

いささか時代を先走ったが、唐代の批判的精神は、唐初、殊に武則

天期に確立した『五経正義』に対する反発が安史の乱を経て中唐に至

り、その精神が一層発揚され、新しい学術を創造しようと試みられて

きた、と考えられる。唐代に発展した合理的な史学思想、文体として

の古文も、こうした時代背景から生み出された現象のひとつであった

と言えよう。しかし、奇怪なことに、春秋学派の学者たちは、劉知幾 の名前を出して彼の史学観について一切黙して語らない。

古文学派の中には、一経伝の解釈をかたくなに守る態度を否定して

(章句を守らず)、数多くの書籍を通観して自分の見解を作り出してい

くという方法が認められるが、これはとりもなおさず史学の方法論で

もあった。このことに関連して、劉知幾も、

故學者有博聞旧事、多識其物、若不窺別録、不討異書、専治周孔

之章句、直守(司馬)遷・(班)固之紀伝、亦何能自致於此乎。

且夫子云、多聞択其善者而従之、知之次也。苟如是、則書有非聖、

言多不経、學者博聞、蓋在択之而已。(『史通』雑述篇)

と述べている。広く異聞を求めずに、儒家は周公や孔子の章句だけを

治め、史家は司馬遷、班固の書いた史書だけを学んでいたら、ものの

本質を知り得ないとしている。そして、史料の中には、聖人を譏った

り、不経のものもあるだろうが、それを博聞の立場から取捨選択する

のが史家の任務であると、劉知幾は言っている。この見解には、劉知

幾の思索を通じて得たひとつの結論が述べられていると思う。

古文学派の学説から出発して、劉知幾の史学観は、以上のような境

地に達していると考えられるが、劉知幾を巡る唐宋期の評価は、春秋

学派の無視のみならずあまり芳しくない。唐代の経学の発展史からそ

の原因を考えてみることにしよう。

玄宗の開元年間(七一三~七四一)の初め

、劉知幾は、

開元初、遷左散騎常侍。嘗議『孝経』鄭氏學非康成注。挙十二條

左証其謬、當以古文為正。『易』無子夏傳、『老子』書無河上公注、

請存王弼學。宰相宋璟等不然其論、奏與諸儒質辯。博士司馬貞等

(15)

阿意、共黜其言、請二家兼行、惟子夏易傳請罷。詔可。(『新唐書』

巻百二十三劉知幾伝)

と、今文テキストであった鄭玄の『孝経』を廃し、古文である孔安国

の注を採用すべきであると言っている。さらに、劉知幾はここで『易

経』の子夏の伝とされるものは存在せず、『老子』には王弼注を存続

すべきであると主張した。結局この論争では、司馬貞が宰相に意を阿っ

たため、劉知幾の説は退けられてしまうのであるが、後世も支持者は

おり、中唐の劉粛の『大唐新語』巻九「著述」によると、

(劉)子玄争論、頗有條実、會蘇(

)・宋(璟)文吏、拘於流俗、

不能発明古義、竟排斥之。深為識者所嘆。

と、鄭氏は鄭玄ではないという傍証も紹介し、劉知幾の見識は事実と

して正しかったという補足説明がなされている

。この説明でもわかる

ように、劉知幾の学説は、古文学派というひとつの立場に依りながら

も、すでに史学の方法から真実を探求するという「実録」の精神に裏

付けられたものである、と評価されていることが注意を引く。こうし

た評価に伺えるような劉知幾の史学観こそが、後世、経学の合理的思

想に大きな足跡を残していくことになると思われるが、この『大唐新

語』の説も、当時優勢であった劉知幾に対する否定的な評語ほど雄弁

でないにしても、確実に劉知幾の史学思想が一定の評価を得て、次世

代に伝わっている軌跡を認めることが出来るであろう。

劉知幾は、『史通』六家篇ですでに『尚書』、『春秋』の二経を歴史

書の形式と見なしていることからわかるとおり、経典を史書と考えて

いた。すなわち、疑古篇、惑経篇で展開している経書批判も、経書を 史書と見なした上での史料批判であった。魏晋南北時代には、この両者を併用する「経史」の語が散見する。例えば、

益部多貴今文而不崇章句、(尹)黙知其不博、乃遠游荊州、従司

馬徳操・宋仲子等受古學。皆通諸経史、又専精於『左氏春秋』、

自劉

條例、鄭衆・賈逵父子・陳元・服虔注説、咸略誦述、不復

按本。(『三国志』巻四十二蜀書尹黙伝)

というように、経書を含めて広く文献に通じるという意味で用いられ

ている。ここの場合、史書が文献学上まだ独立したジャンルでなかっ

たことより、経書の補佐的な文献として「史」が考えられていたと思

われる。そして、ここでは、「古学」すなわち古文学派に学んだ尹黙

が、「経史」に広く通じたという指摘は重要であろう。古文学派には、

このように、広いジャンルの文献に通じることが理想とされていた。

更にここで注意を引くのは、当時今文学が好まれ、章句の学は尊ば

れていなかったという事実である。これにより、魏晋の時代には、

「章句の学」がそのまま今文学派の態度ではなかったということが確

認できる。先に引用した公羊学者の何休の『春秋公羊伝解詁』序にも、

何休が章句の学問を批判している発言が確認できたことを考え合わせ

ると、章句の学とは、学派を超えて、ひとつの経典にかたくなに固執

するという態度を示す学問のことを意味し、後漢の古文学派がそれを

打破しようとして「通」という観念を重んじたのであったということ

をここで確認しておきたい。

ここに見える「経史」は、あくまでも経書に従属する史書というニュ

アンスであるが、劉知幾が経書を史書として扱った考えは、この立場

(16)

とは決定的に異なるものであった。劉知幾の時代には、すでに史書は 経書から独立した書籍として分類されており

、劉知幾が『史通』で試

みた思索は、その独立した史学の方法論の探求であった。もちろん、

劉知幾は建前として、経学の古文学派の立場に立ち、その思想を史学

の根本的な目的であると捉える、儒家的な歴史意識を常に抱いていた。

しかし、魏晋の所謂「経史」の語義と劉知幾の意識には、経書の補佐

としての役割と、独立した学問としての史学意識への萌芽という明ら

かな違いが見いだせる。

そもそも経書を史書と考え、孔子を史家とする考え方は、実は古文

学派自体の見方であった

。この認識においては、劉知幾の発想は、必

ずしも独創的ではなく、忠実に古文学派の考え方に従おうとしている。

むしろ、その真摯な態度によって、経書に対して史料批判をより客観

的かつ実証的に実施したところが、劉知幾の業績であったと言えよう。

こうした劉知幾の真意とは裏腹に、後世の『史通』評価は、経書を

批判した一部分だけが取り上げられて、全面的に否定去られて行くの

であった。この事実は、唐代経学における以後の発展の仕方と関係す

るであろう。

以下、劉知幾の後世の評価をめぐって論究することにしよう。確か

に『史通』の経典批判では、申左篇の見解に代表されるとおり、常に

『春秋左氏伝』の立場に立ちながら、経典を論じるという制約が認め

られる。しかし、その範囲の中で、劉知幾は、上に見てきたように、

広く史料に通じて歴史的真相を突き止めるという、「実録」の精神を

追求した結果、経典本文そのものに疑問を投げかける、大胆な経学批 判へと議論を及ぼしている。劉知幾自身も、

蓋談経者悪聞服(虔)・杜(預)之嗤、論史者憎言班(固)・(司)

馬(遷)之失。而此書多譏往哲、喜述前非。獲罪於時、固其宜矣。

猶冀知音君子、時有観焉。(『史通』自叙篇)

と豪語して憚らなかったように、経書批判は、『史通』における儒家

の既成観念に対するひとつの大きな挑戦であった。しかし、これは、

最初から経学の大師と史家の先達を貶めようと言う意識から為された

ものではなかったと思われる。劉知幾の学者としての立場は、さきの

王元感と同じく古文学派としての立場に立脚しており、『史通』全編

も、歴史に勧戒を見いだそうとする儒家的な史学思想に貫かれている

からである。すなわち、この勇んだ発言も、史実の考究の結果として、

こういう結論が出てしまったという後からの感慨である、と解釈する

べきであろう。

こうした権威に対する批判的な態度と見解に対して、劉知幾はその

思いきった意見が同時代においても反論が起きることを予測しており、

「余著『史通』、見者亦互言其短。故作『釈蒙』以拒之。(『史通』自叙

篇)」と、あらかじめその反論も用意していたほどである。『釈蒙』は

今日散佚して伝わずその内容を知るよしもないが、同時代には友人の

徐堅(六五九~七九二)が、「史職にあるもの必ず座右に置くべし」(『新唐書』劉知幾本伝)と絶賛する評価と裏腹に、非難する意見も多

く存在していたことが伺える。劉知幾のこうした周到な準備からも、

当時の経典の権威に対する批判は一筋縄ではいかない大きなアクショ

ンであったことが想像できる。

(17)

今日知りうる『史通』批判の古いものは、唐末の柳

の『史通析微』

からであるとされている。唐末に『史通』批判の書がにわかに現れる

観がある。この背景には、唐末期の経学思想の状況が影響しているよ

うに思われる。

この時代には、例えば、

指司馬遷・班固之書謂之史、何不思之甚乎。六籍之内、有経有史、

何必下及子長・孟堅、然後謂之可乎。(中略)聖人悉論辯之矣。

豈須班(固)・(司)馬(選)而後言史哉。以『詩』・『易』為経、

以『書』・『春秋』為史、足矣、無待於外也。(「復友生論文書」)

という陸亀蒙(?~八八一)の史学観が見える。ここには、中唐の韓

愈や柳宗元に比べて、より原理的な復古主義にもどる気風が認められ

る。これは、盛唐の蕭頴士の紀伝体否定論に通じるものである

。すな

わち、陸亀蒙は記言の『尚書』と記事の『春秋』で歴史は充分語るこ

とが出来るから、『史記』、『漢書』以降の史書全てを否定してしまっ

ている。陸亀蒙によると、漢以降の歴史そのものからも得られるもの

はなく、歴史として学ぶべきは古代の三代で完結していたのである。

史実を鑑とすることを歴史と定義するなら、古代の歴史だけで充分と

いうことになる。こうなると、劉知幾ら唐初の史家が唱えてきた「随

時の義

」というものは全く考慮されないことになり、歴史は限定され

た理想の古代世界だけのことを記録したものとなる。陸亀蒙の認識で

は、六経の中には経と史が同居しており、尚書と春秋を史であるとし

ているのである。これは、劉知幾の見解と限りなく近く

、この部分で

は、陸亀蒙も古文学派的な立場に立っていることが確認できる。しか し、ここでは経と史が対等の位置に立っているものの、唐初の劉知幾が探求してきた史学の方法や史学思想はことごとく不要になるわけである。唐末にはここまで徹底した復古主義が生まれて、経典の価値がより高められたのであった。こうした看点に立てば、唐朝を通じて絶対的な権威を持っていた経典を相手に、真っ正面から批判を挑んだ劉知幾の史学論は異端な思想として無視されるか、批判されるより外なかったのである。

劉知幾の『史通』が名指しで批評されることがない事情には、経学

を批判した不敬な書としてのレッテルが貼られてしまったことに由来

すると思われる。

安史の乱を経て、確固たる王朝のイデオロギーを確立しようと、盛

唐期の古文家は復古主義を唱えた。それを受けた中唐期の韓愈、柳宗

元らは単なる古典の文体を模倣するのではなく、独自の文体を考えよ

うと試みた。彼らは、漢代の学術と文学に対して寛容な態度を取って

いて、これが盛唐期の古文家たちと根本的な性格を異とする。ところ

が、唐王朝がいよいよ崩壊を迎える唐末には、また儒家の権威付けが

再確認されて、純粋な復古思想が復活してきたのであろう。ここで陸

亀蒙は、司馬遷・班固を否定して、六経そのものを殊更に重んじそれ

に回帰しようとしている。唐代においては、経と史を分離して史学が

合理的な方法論を確立してきたものの、唐末に至り、史学の儒学化が

強く意識されていることが陸亀蒙の論に読みとれるであろう。唐初に

は、権威化する経学を批判的に見直す意識が高まり、中唐では新しい

学術精神の発現をみたものの、唐末にはまた逆戻りして、その権威を

(18)

絶対化しようと言う志向が高まっていることは興味深い。この現象は、

古文の思想にもそのまま反映している。

臣観前代秉筆論文者多矣。莫不憲章『謨』『誥』祖述『詩』『騒』、

遠宗毛・鄭之訓論、近鄙班・楊之述作。謂「采采

」、独高比

興之源。「湛湛江楓」、長擅詠歌之體。殊不知世代有文質、風俗有

、學識有浅深、才性有工拙。昔仲尼演三代之『易』、刪諸國

之『詩』、非求勝於昔賢、要取名於今代。実以淳朴之時傷質、民

俗之語不経、故飾以文言、考之絃誦然後致遠不泥、永代作程、即

知是古非今、未為通論。夫執鑒写形、持衡品物、非伯樂不能分駑

驥之状、非延陵不能別『雅』、鄭之音。若空混吹竿之人、即異聞

『韶』之歎。近代唯沈隠侯斟酌『二南』、剖陳三変、

雲・淵之抑

鬱、振潘・陸之風徽。俾律呂和諧、宮商輯洽、不独子建総建安之

覇、客児擅江左之雄。(『旧唐書』文苑伝序)

と、ここでは晩唐に至り、韓愈たちのエピゴーネンたちがいたずらに

古典の文体をまねて作文をすることを批判されている。『旧唐書』は、

引用文の通り、四六駢儷体で書かれており、無意味な古典の模倣作よ

りも貴族文化の粋である駢文の美を再評価している。ここでも、沈約

の三変説を紹介しつつ、文学の発展史観が描かれているが、唐代文学

発展は、こうした一貫した王朝による文学史観に支えられてきたこと

が大きいと言えよう。

一方、儒学の方面では、幾度か変革の兆しを見せながらも、すぐに

教義的な復古主義へと軌道修正されてきたように、経典の権威という

ものは不変であり続けた。こうした思想的背景の中で、唐初の劉知幾 により学問として独立した方法と内容を持ち得た史学は、再び経学の

教義の中に戻されようとしているのであった。『史通』批判が為され

たのは、このような中国の経学観が反映しているのであろう。近人の

傅振倫の『劉知幾年譜』には、

其後、柳

有『析微』之論、宋祁有工訶之譏、而孫何又著『駁史

通』十余篇。則『史通』不盛行於唐宋、固意中事也。

というように、『史通』批判の系譜が見える。唐に続く宋代は、儒家

の経典がますます絶対の権威を持った時代であり、それを批判した

『史通』は、不敬の書として非難され続ける運命を辿ることになった

翻刻されて、『史通』がきちんと読まれるようになったのは明代であっ

。北宋の古文家であった宋祁、欧陽修の『新唐書』にも劉知幾批判

が見える。北宋の古文家は、唐代の合理的思想家たちに対して冷淡な

批評をしている が、これは自分たちが正統と認める韓愈の道統に連な

るという意識からであったと思う。この事実により、唐代の経学思想

は、権威を背景に正統と見なされていくものとその合理的批判精神か

ら異端視されていくものの二つが常にパラレルに並んで発展を遂げて

いったと思われる。

傅振倫は、ここで、『史通』への批判内容は、概ね疑古篇を始めと

する経書批判の部分に向けられていたとしている。しかし、劉知幾の

経書批判も、これまで確認してきたとおり、あくまでも古文学派から

出発した議論であるため、経典そのものを否定するという変革的な内

容では必ずしもない。そこに、劉知幾の史学思想全体の限界がある

そもそも権威主義的な儒学サイドからの劉知幾批判は、劉知幾の思想

参照

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