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1 法解釈論争が残した知的遺産

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(1)

法的議論における発見の論理・序説―法解釈論争が 残した知的遺産の継承と発展に向けて―

著者 高橋 文彦

雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law journal

巻 91

ページ 1‑44

発行年 2011‑08‑31

その他のタイトル The Logic of Discovery in Legal Argumentation:

An Introduction

URL http://hdl.handle.net/10723/1755

(2)

法的議論における発見の論理・序説

―法解釈論争が残した知的遺産の継承と発展に向けて―

高 橋 文 彦

はじめに

 本稿は,「法的議論における発見の論理」というテーマに本格的に取り組む に先立って,その準備作業の一環として全体的な問題状況の見取り図を素描し ようとするものである(1)。法学教育における「議論

argument, argumentation

の重要性を指摘した平井宜雄教授によれば(2),法の解釈・適用プロセスに関わ る思考様式は,まず「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」に二分され,

後者はさらに「ミクロ正当化」と「マクロ正当化」という2つのレベルに分け られる。このうち,論理的な分析の対象となるのは「正当化のプロセス」のみ であり,「発見のプロセス」は心理的なプロセスとしてのみ考察の対象となり うるとされる。しかしながら,私見によれば,このような捉え方は法的思考の 重要な側面を見逃しているように思われる。ドイツの法哲学者・刑法学者のカ

ウフマン

Arthur Kaufmann

が晩年の著作において強調したように(3),法的議

論における「発見のプロセス」は単に勘やひらめきのみが支配する場ではなく,

そこにおいても何らかの非演繹的な論理が働いているのであって,その論理の 特質を広義の法論理学的な観点から解明することは,法哲学にとっても重要な 研究課題であると考えられる。

 もっとも,この大きなテーマと正面から取り組むためには,論点の整理も含

(3)

2

めて,かなり周到な準備作業が必要となろう。そこで本稿では,その最初のス テップとして,いわば上空から問題状況を鳥瞰し,非常に大雑把な形ではある が,今後の研究の出発点となるような見取り図をとりあえず描いてみたいと思 う。まず最初に,上述のような捉え方が提唱されるに至った経緯を改めて確認 するために,いわゆる「法解釈論争」以降の方法論をめぐる議論を簡単に振り 返り,問題の所在を明らかにしたい。

1 法解釈論争が残した知的遺産

 我が国における西洋法継受以来の法解釈方法論の変遷は,瀬川信久教授によ れば(4),①戦前の法解釈方法論,② 1950 年代半ばの「法解釈論争」,③ 1960 年代後半以後の「利益衡量(考量)論」をめぐる論争,④ 1980 年代に入って からの「議論」アプローチをめぐる論争という4つの段階に大きく分けること ができる。このうち,本稿のテーマに直接関連するのは,④の段階であるが,

「議論」の理論が提起した問題を正確に理解するためには,少なくとも②から

④に至る学説の展開を大まかに辿っておく必要があろう。

 周知のように,戦後の法解釈論争は来栖三郎教授および川島武宜教授の問題 提起によって始まった(5)。まず,来栖教授は,「法の解釈をするときの気持と しては,客観的に正しい唯一の解釈があると前提し,自分の解釈はその正しい 唯一の解釈たらんとし,そしてそういう解釈には法規の客観的認識の結果,論 理的に到達しうるものであるように意識している(6)」が,しかし「実際にはむ しろ法の解釈について複数の解釈の可能性を認めなければならないように思わ れる(7)」という御自身の内面的な矛盾を率直に述べられた上で,「法の解釈の 複数の可能性があり,そのうちの一の選択は解釈するものの主観的価値判断に よって左右される」にもかかわらず,「自分の主観を客観の名において主張し ようとする」法律家の態度を「権威主義」として批判された(8)。来栖教授によ

(4)

3

れば,このような態度は「概念法学の残滓」であって,「法律家の従うべき正 しい法の解釈の方法」は,「法規範を実定法の規定からの論理的演繹によって ではなく,現実の社会関係の観察・分析によってその中から汲みとる」方法,

すなわち「社会学的方法」でなければならない(9)。このような来栖教授の見解 は,「選択可能な解釈の間の争いは,形式的な理由に基づく争いでなくて,実 質的な理由に基づく争いであり,それは解釈するものの主観的価値判断によっ て影響されること(10)」を明示的に表明するものであり,まさに戦後の法解釈論 争の出発点を形成したと言える。

 ほぼ同じ時期に伝統的な法律学の「科学性」に対して根本的な疑問を提起さ れたのが,川島武宜教授であった。川島教授によれば,実用法学の対象となる

「法」は,「法的価値判断」と「ことば的技術」という2つの要素を含んでいる。

このうち,「法的価値判断は,単なる判断主体の主観的意見にとどまるもので はなく,したがって法律解釈の争いは単なる「見解の相違」ではないのであ る。(11)」なぜなら,「価値判断の内容4 4は,共通の社会的価値によって動機づけら れる人々の範囲の大きさだけ客観性4 4 4をもつ(12)」からである。しかしながら,川 島教授によれば,「ある価値判断が「正しい」かどうかは,価値体系を支持す る人々の数の多少できまるものではなく,むしろ一定の価値体系の選択という 実践行動によって決せられる。(13)」したがって,川島理論においても,「諸々の 価値体系の中のいずれが「正しい」かは,結局どの4 4価値体系の立場から判断す るかということにかかってくるのであり,この意味では4 4 4 4 4 4

その「正しさ」は相対 的な意味しかもちえない(14)」ことになり,「或る一つの価値体系の権威を絶対 的のものとして,それにもとづく「解釈」を主張する法律学は,ただ神学と同 じ意味においてのみ「学問(教義学

Dogmatik

」であるにすぎず,「科学」では ない(15)」という結論を認めざるを得ない。もっとも,川島教授はこの結論に留 まることなく,経験科学的手法を自覚的に用いる「科学としての法律学」を提 唱された。川島教授によれば,価値判断と価値との関係,価値と価値体系の関

(5)

4

係,価値体系の社会的=経済的=政治的基礎を探究することによって,将来支 配的となる価値判断を予見することは可能であり,「このような意味において,

価値判断を対象とする法律学も,他の諸々の科学と同じ資格で科学の名に値す る……ものであることは明らかである。(16)」こうした認識に基づいて,川島教 授も来栖教授と同様に法社会学の発展に対して強い期待を表明されたのである。

 来栖教授および川島教授の「法解釈は価値判断を含む」という主張をめぐっ ては,1950 年代後半を中心に活発な論争が展開されたが,1960 年代に入ると,

価値判断のプロセスを当事者の実質的な利益の衡量として捉える「利益衡量(考 量)論」が新たに登場する。その代表的な提唱者は,周知のように,加藤一郎 教授と星野英一教授であるが,同じ利益衡量(考量)論といっても,両者の主 張にはかなりの開きがある。まず,加藤教授は,論理の支配と利益衡量の排除 を特徴とする「概念法学」と,法解釈の自由を強調する「自由法学」とを対置 された上で,前者の問題点を,主にリアリズム法学の言説を参照しつつ整理さ れる(17)。続いて,自由法学を支持する立場から,「現代の法解釈学がいかにあ るべきか」について,不法行為法の事例を用いて論じられる。加藤教授によれ ば,「実質的にどういう利益に重きをおくべきかという価値判断や選択のやり かたは,素人が判断する場合と質的に異なるものではないはずである」から,

「最初の判断過程では,既存の法規を意識的に除外して,全く白紙の状態で,

この事件をどう処理し解決すべきかをまず考えて(18)」みるべきである。この判 断過程によって,妥当あるいは望ましいと考えられる結論が得られるが,「そ こで得られるのは,決して最終的な結論ではなく,次の理由づけの過程で検証 されるべき仮説,すなわち仮の結論である。」「それが法的判断であるためには,

右に述べたような実質的な理由のほかに,法規による形式的な理由づけを受け なければならない。(19)」このように加藤教授の利益衡量論においては,まず法 規を除外して実質的な利益衡量がなされ,次にそこから得られる仮説に対して 法規等による理論構成がなされる。したがって,加藤理論においては,裁判官

(6)

5

に対する信頼を暗黙の前提としながら,ほとんど白紙委任に近い司法裁量が認 められることになる。

 星野教授も加藤教授と同様に,「利益考量や価値判断の面においては,法律 家に特に権威があるのではない……。利益考量・価値判断については,法律家 といえども,一市民として,また一人間としての資格においてすることしかで きない(20)」と主張される。しかしながら,星野理論は加藤理論と少なくとも次 の点で大きく異なっている。まず第1の相違点は,星野教授の利益考量論が条 文の解釈から出発する点である。星野教授によれば,我が国の民法学の特色と して,「第1に,あまり条文の文字を尊重しないこと,第2に,立法者または 起草者の意思をほとんど考慮しないこと,第3に,積極的には,特殊な「理論」

に基づいて体系的・演繹的な解釈をすること(21)」が挙げられる。しかしながら,

法の解釈に際しては,利益考量に先立って,「まず,一方,文理解釈・論理解 釈を行ない,他方,立法者ないし起草者の意思を探究することが基礎的作業と して必要である(22)」と思われる。「なぜ文理解釈をまず重んじるかというと,

法律とは,素人がこれを見て自分の行為の法律上の効果を知り,そのような効 果を期待しまたは避けるべく行動するものだからである。(23)」第2の相違点は,

星野教授が「価値そのものの客観的妥当性を認めたい(24)」と明言しておられる 点である。星野教授によれば,「複数の解釈の可能性」があることを認めたと しても,「この事実から,価値判断の客観的妥当性を証明することはできない とか,客観的に妥当な価値がない,という帰結を導くのは,事実から直接に価 値を導くのと同様に,論理の飛躍(25)」であると考えられる。さらに,星野教授 によれば,法の解釈に際して働くべき価値基準には種類の異なるものが含まれ ているので,「価値の序列(ヒエラルヒア)に従って整理しなければならない(26) とされるが,その具体像は示されていない。ただ,後年,田中成明教授との対 談の中で,星野教授は「私にとっても最後の問題は,価値判断の規準,異質な 利益間の序列です。……規範倫理学の問題だと思いますが,まだ十分にやって

(7)

6

いません。かねてから念頭にあった学者は,マックス・シェーラー

Max

Scheler

とかニコライ・ハルトマン

Nicolai Hartmann

などですが,たとえば

ニコライ・ハルトマンによる価値の分類などはあまり面白いものではありませ (27)」と述べておられる。この点は,平井宜雄教授による後述の批判とも関連 するので,留意されたい。

 ところで,平井宜雄教授は,以上のような星野教授の「利益考量論」を,「法 の解釈は価値判断を含む」という戦後法解釈論の基本的前提を形成することに なった来栖教授および川島教授の「正統理論」の延長線上に位置づけて,その 問題点を指摘される。平井教授によれば,来栖理論と川島理論には,①「学者 中心主義」,②「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」との未分化,③「マ クロ正当化」と「ミクロ正当化」との未分化,④「社会学主義」,⑤「直結主義」

という共通の発想が見られるが(28),星野理論は「戦後法解釈論の言わば嫡流」

として「正統理論」の前提と発想を,すなわちその問題点を正面から承け継い でいる(29)。これら5つの問題点のうち,本稿の考察に直接関係するのは②およ び③であるから,この2点について平井教授の主張を確認しておきたい。まず

②について,平井教授は,「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」を区別 せよ,すなわち「ある言明にいかにして到達したのか,という心理的プロセス

……は,到達されたところの,その言明の正当化……のプロセスとは区別され るべきである(30)」と主張される。次に③について,平井教授は,「正当化には 2つの異なったレベルがある。1つは,ある言明を論理的な(形式論理学的4な,

したがって演繹論理的4な)推論のテストにさらすことによって正当化するレベル である。もう1つは,右のテストの前提となる言明そのものの正当化というレ ベルである(31)」という認識に基づいて,前者を「ミクロ正当化」,後者を「マ クロ正当化」と呼んで区別される。ところで,「ミクロ正当化」は演繹論理的 な正当化であるから,その手続きは容易に想像できるが,「マクロ正当化」は 一体どのような形で行われるのであろうか。平井教授によれば,「……法律家

(8)

7

に共通する最も特徴的なものは,「議論4 4

argumentation

」によって問題を解決 していく,というもの(32)」であって,「マクロ正当化」はこの「議論」に委ね られる。「……ある「マクロ正当化」の試みに対しそれ以上反論が生じなければ,

たしかにそこで「議論」は終結する。しかし,「議論」である以上,その「マ クロ正当化」はいつでもふたたび反論され,問われる可能性があることになる。

(33)」したがって,「……「マクロ正当化」が確実な基礎づけによって究極的に「正 当化」されなければならないという考え方はこれを棄てるべきである。(34)  さらに,平井教授は,価値の客観的妥当性を認める星野教授の立場を次のよ うに批判される。「……「利益考量論」においては,法の解釈のきめ手は「価 値判断」になるのだから,それをめぐる争いは,理論的には「価値のヒエラル ヒア」の争い(……)に帰着する。……自らの主張を事実と論理とにもとづい て批判にさらし,反論を受け再反論を試みるという「議論」への努力は,「利 益考量論」からは,理論的には4 4 4 4 4生まれてこないのではあるまいか。私が非合理 主義と呼ぶのは,このような理論的帰結であり,これが法律家の活動といかに 遠いものかは,説くまでもあるまい。(35)」確かに,星野教授は「価値のヒエラ ルヒア」について論じる際,前述のように,シェーラーやハルトマンの実質的 価値論を念頭に置いておられる。ところで,シェーラーは,阿南成一教授によ れば,「価値本質が多種多様な諸価値物の中に先天的に直観できるのみならず,

なおわれわれは諸価値本質の間に先天的な高低・上下の区別と本質連関をも直 観できる(36)」と考えており,ハルトマンの倫理学はこの構想を受け継ぎ発展さ せたものである。したがって,現代のメタ倫理学の観点から見れば,いずれも 直観主義(直覚主義)の立場を採っていると考えられるので,それに依拠した「価 値のヒエラルヒア」の主張を一種の非合理主義として性格づけることは,理論 的には妥当であるが,この問題は本稿のテーマとは直接関係しないので,ここ では問題の所在を指摘するに留めたい。

 さて,以下の考察においては,平井教授が提示されたいくつかの重要な論点

(9)

8

のうち,従来の三段論法図式に対置される「議論」図式,「ミクロ正当化/マ クロ正当化」および「発見のプロセス/正当化のプロセス」という二分法につ いて,「法的議論における発見の論理」という観点から検討するとともに,さ らにこれらと密接に関連する論点として,レトリックとトーピク,アブダクショ ン,「原理による正当化/制定法による正当化」といった問題を取り上げ,こ れらの相互関係を整理することによって,今後の研究の方向性を示したいと思 う。

2 法的三段論法モデル

 従来,法適用の論理的な形式は一種の三段論法として説明されてきた。例え ば,法学入門の教科書には,「裁判における法の適用は,形式的には三段論法 の形でなされる(37)」あるいは「法の適用は,論理的に見ると三段論法の形で行 われる。……法の適用にさいしては,小前提として事実関係を確定することが 必要であり,大前提として事実関係に適用すべき法規を明らかにすることが必 要となる(38)」といった記述が見られる。しかしながら,このような三段論法モ デルによる説明は,論理学的な観点から見て不正確であるのみならず(39),法学 方法論の観点から見ても重大な問題をはらんでいる。すなわち,法の適用プロ セスを,法規範を個別的な事案に当てはめる三段論法として単純化することに よって,カウフマンが指摘するように,「伝統的な方法論は法獲得手続きの最 終的な場面,すなわち当てはめだけを視野に収め,それに先行しているすべて を霧のなかに追いやっている。(40)」つまり,三段論法モデルは「それに先行し ているすべて」を捨象してしまうのである。田中成明教授によれば,「……法 的思考過程において,結論を左右する核心的作業は,演繹的三段論法の適用が 可能となる以前の段階,つまり,大前提と小前提とを相互作用的に確定・形成 する段階にみられ,この複雑な総合的判断の積み重ねの過程を形式論理的にと

(10)

9

らえ尽くすことは不可能である。(41)」しかし,もしそうであるならば,「演繹的 三段論法の適用が可能となる以前の段階」においては,一体どのような法的思 考が行われているのであろうか。

 この問題を考える際には,平井教授による「ミクロ正当化/マクロ正当化」

という区別,あるいはアレクシー

Robert Alexy

による「内的正当化/外的正 当化」という区別を利用すると,論点が明確になる。前述のように,平井教授 の「ミクロ正当化」とは「ある言明を論理的な(形式論理学的4な,したがって演繹 論理的4な)推論のテストにさらすことによって正当化するというレベル」であり,

「マクロ正当化」とは「右のテストの前提となる言明そのものの正当化という レ ベ ル」 で あ る。 ま た,アレ クシ ー に よ れ ば,「内 的 正 当 化

interne Recht-

fertigung

においては,判決が,その基礎づけのために提示された諸前提から,

論理的に導かれるか否かが問題となるのに対して,外的正当化

externe Recht- fertigung

の対象は,それらの諸前提の正当性

Richtigkeit

である。(42)」このよ うな区別に基づいて法の適用プロセスを2つに分けるならば,いわゆる法的三 段論法は「ミクロ正当化」あるいは「内的正当化」に対応し,「演繹的三段論法 の適用が可能となる以前の段階」が「マクロ正当化」あるいは「外的正当化」

に対応すると言えよう。

 もっとも,平井教授の「ミクロ正当化」とアレクシーの「内的正当化」との 関係は微妙であって,両者は必ずしも完全には一致しない。実際,平井教授は

「……「マクロ正当化」「ミクロ正当化」という用語は純然たる私の造語でして,

そのヒントは……マコーミックやアレクシーにあるのですが,それと正確に対 応しているかと言われれば,おそらくそうでないと思います。わざわざ造語し たのはこのような潜在意識があったためです(43)」と明言しておられる。両者の 違いは,具体的な法的推論を念頭に置いて比較すると,明らかになる。

 まず,アレクシーの「内的正当化」を見てみよう。アレクシーは「内的正当 化の最も単純な形式(44)」と「内的正当化の一般的な形式(45)」を,記号論理ま

(11)

10

がいの形式的表現を用いて,それぞれ図1および図2のように表現してい (46)。このうち,図1の(1)(2)(3)は,三段論法モデルの大前提・小前提・

結論にそれぞれ相当する。ただ,このような記号表現は抽象的で分かりにくい ので,さらに具体例を用いて考えてみよう。アレクシーは図1および図2の前 (1)に該当する法規範の具体例として「ドイツ軍人法

Soldatengesetz

」13 条1項の条文4 4をそのまま挙げている。そこで,本稿でも(1)に該当する法規 範として我が国の刑法の条文4 4を用いることにすれば,図1の具体例として,例 えば,図3のような推論が考えられよう。

      

 しかし,一見して明らかなように,図3において(1)および(2)のみか (3)を形式論理的に演繹することはできない。(3)を導出するためには,

(1)(2)とを媒介する解釈命題が必要だからである。そこで,そうした 解釈命題を補って,図2に対応する具体例を考えると,例えば,図4のような 推論となろう(47)

図1 

(1) (

x

)(

Tx

ORx

(2) Ta

(3) 

ORa

図2

(1) (

x

)(

Tx

ORx

(2) (x)(M1

x

Tx)

(3) (

x

)(

M

2

x

M

1

x

⁝⁝

(4) (x)(Sx

M

n

x)

(5) 

Sa

(6) ORa

図3

(1) 人の身体を傷害した者は,15 年以下の懲役又は 50 万円以下の罰金に処する。(刑 204)

(2) aはbに嫌がらせ電話をかけ精神衰弱症に陥らせた。

(3) aを,懲役1年(執行猶予4年)に処する。 (東京地判昭和 54・8・10)

(12)

11

 ここで注意すべきなのは,図1および図2の前提(1)は,従来の法的三段 論法モデルにおける「大前提」に相当するが,アレクシーはその例として解釈4 4 以前の制定法の条文そのもの4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を挙げている点である。長谷川晃教授の表現を借 用すれば,アレクシーは「大前提イコール法規」という「ドグマ」にまだ囚わ れているのである(48)。これに対して,平井教授の「ミクロ正当化」においてこ の「大前提」に相当するものは,後述するように,条文そのものではない。こ のことは,「制定法による正当化」が「ミクロ正当化/マクロ正当化」あるい は「内的正当化/外的正当化」という二分法においていずれに該当するかとい う問題を考える際に,決定的な違いをもたらすことになる。

 ところで,アレクシー自身の理解によれば,図4の(1)(2)(3)(4) いう前提から(5)という結論を形式論理的に演繹する作業が「内的正当化」

であり,(1)(2)(3)(4)という前提そのものをそれぞれ正当化する作業が

「外的正当化」である。これらの前提には,法規範,経験的な事実命題,そし て解釈命題が含まれており,前提の種類の違いに応じて基礎づけの方法も異な るが,いずれにせよ,これらは最終的には実践的な討議・議論の中で正当化さ れることになる(49)。したがって,この討議・議論を通じた正当化という点にお いては,平井教授の「マクロ正当化」とアレクシーの「外的正当化」はほぼ対 応していると言える。なお,「……「外的正当化」の方法については,すくな くともアレクシーにおいては,従来の法解釈方法論と比べてほとんど議論の進 展がない(50)」という消極的な評価も見られるが,ここでは問題点の指摘だけに 図4

(1) 人の身体を傷害した者は,15 年以下の懲役又は 50 万円以下の罰金に処する。(刑 204)

(2) 生理機能を害することは,人の身体を傷害することである。

(3) 人に嫌がらせ電話をかけ精神衰弱症に陥らせることは,生理機能を害することである。

(4) aはbに嫌がらせ電話をかけ精神衰弱症に陥らせた。

(5) aを,懲役1年(執行猶予4年)に処する。 (東京地判昭和 54・8・10)

(13)

12

留めておく。

3 トゥールミンの議論図式

 アレクシーによる法適用プロセスの分析は,前述のような記号論理まがいの 形式化を行ったために,かえって伝統的な三段論法モデルの発想に囚われてし まった。これに対して,平井教授の理論は,トゥールミンの非形式論理学的な 議論図式を援用することによって,三段論法モデルでは見逃されていた重要な 論点を示唆しているように思われる。すなわち,三段論法モデルの「大前提」

に該当する法規範と制定法の条文との関係である。しかし,この論点について 検討する前に,平井教授が依拠しておられるトゥールミンの議論図式について,

まず簡単に復習しておきたい(51)

 トゥールミン

Stephen Toulmin

の主張の理論的な背景には,三段論法の有 効性に対する懐疑が存在する。周知のように,三段論法に含まれる3つの命題

(2つの前提と1つの結論)は全称命題か特称命題かのいずれかであり,通常,

法的三段論法の大前提は全称命題として捉えられている。しかしながら,トゥー ルミンによれば,「……「すべてのAはBである」という形式[の全称命題]

が実践的な議論

argument

に現れることは,論理学の教科書から想像される よりもはるかに少ない。(52)」したがって,法的な議論も含む実践的な議論を伝 統的な三段論法の図式(あるいは,それに対応する図1のような推論形式)によっ て説明することは適切ではない。一般に「議論のパターン

pattern of an argu- ment

」は,三段論法ではなく,図5のような図式によって的確に捉えられる(53)  この図式で用いられている略号を一応説明しておこう。「C」は「主張・結

claim; conclusion

」であり,「Q」はそのような主張・結論に付けられる「お

そらく」のような「限定詞

qualifi er

」である。また,「R」は「例外・反駁の 条件

conditions of exception or rebuttal

」を表している。ところで,議論におい

(14)

13

てCが主張されるとき,それは必ず何らかの根拠

basis; foundation

となるよ うなデータに基づいているはずである。「D」はそのような「データ

data

を表す。議論の相手がこれで納得すれば,議論は終結するが,相手は,なぜD からCへ移行できるのかと尋ねるかもしれない。その場合,Cの主張者は「D のようなデータがあれば,Cのような結論を導く資格あるいは主張をする資格 が与えられる」あるいは「Dがあれば,Cと考えてよい」という命題で答えな ければならない。トゥールミンはこの種の命題を「保証

warrant

」と呼び,「W」

と略記する(54)。ところで,議論の相手はこのWについても納得せず,さらに一 般になぜこのWを権威あるものとして受け入れなければならないのかと尋ねる かもしれない。トゥールミンは,このような場合にWに権威あるいは通用力を 与えるものを,Wの「裏付け

backing

」と呼び,「B」と略記する。トゥール ミンによれば,「……保証[W]の言明は仮言的な橋渡しの言明である。しかし,

保証の裏付け[B]は,結論[C]を直接根拠づけるためにデータ[D]に訴 えることができるのと同様に,定言的な事実言明の形式で表すことができ る。(55)

 トゥールミンの挙げた具体例を見ておこう。これは平井教授も紹介しておら れる有名な例なので,やや長くなるが引用する。トゥールミンによれば,「ハリー

Harry

はイギリス国民であるという主張(C)を根拠づけるために,我々は,

ハリーはバーミューダ

Bermuda

で生まれたというデータ(D)に訴える。そ 図5

(15)

14

の保証(W)は,「バーミューダで生まれた者はイギリス国民であると考えて よい」という形式で述べることができる。しかしながら,国籍の問題には常に 制限や条件が付いているので,我々は結論の前に「おそらく

presumably

(Q)

という限定詞を挿入して,ハリーの両親が外国人だったことあるいはハリーが その後アメリカに帰化したことが判明した場合(R)に我々の結論が反駁され うる可能性を心に留めておかなければならないだろう。最後に,保証そのもの に対して異議が唱えられた場合には,裏付けを提出することができる。この裏 付けには,イギリス植民地で生まれた者の国籍を決定する法律およびその他の 法的規定の条文ならびにその制定年月日が記載されるであろう。(56)」トゥール ミンはこのように説明している。

 ところで,トゥールミンの議論図式を法的な議論に応用しようとするならば,

少なくとも2つの問題が生じる。まず第1に,法的議論においてWおよびBに 相当するものは何かであり,第2に,平井教授の「ミクロ正当化」および「マ クロ正当化」をトゥールミンの議論図式においてどのように位置づけるかであ る。まず,最初の問題から検討しよう。田中成明教授は,「……法的思考にお ける結論を左右する役割を果たしているのは,このような[要件=効果モデル による]正当化の前提に用いられる命題(トゥールミンの議論図式ではB→W,法 的三段論法モデルでは大前提たる法規範)の選択・確定とその正当化である(57)」と 述べておられるが,具体的に何がWおよびBに相当するかは難しい問題である。

亀本洋教授は,法的議論においてWに相当するのが法規範であり,法律や判例 がその裏付けBになると述べておられる(58)。これに対して,平井教授は「法律 の規定や判例の準則」に加えて,「法律の規定そのものを問題とすることが問 題解決にとって必要な場合にその根拠として[持ち出される]憲法や他の法律 の規定など」,さらには「その条文の立法趣旨に関する彼[=実定法学者]自 身の解釈または立法者意思に関する言明」を「マクロ正当化」の根拠として挙 げられる(59)

(16)

15

 確かに,最も典型的で単純な法的議論においては,法律の条文が裏付けBを 提供するであろう。しかし,条文以外4 4のものが裏付けとなることも少なくない。

例えば,いわゆる「対抗問題」をめぐって法的な議論が行われる場合を考えて みよう。「第三者であれば登記なしには対抗できない」という保証Wに対しては,

「民法 177 条がそのような準則を定めている」という裏付けBを提出しうる。

民法 177 条は「不動産に関する物権の得喪及び変更は,不動産登記法 (平成 16 年法律第 123 号)その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記を しなければ,第三者に対抗することができない」と規定しているからである。

これに対して,「背信的悪意者であれば登記なくても対抗できる」というWが 主張される場合,その裏付けBとなる条文は存在しない。この場合の裏付けB について,瀬川信久教授は次のように論じておられる。「この背信的悪意者を 排除するWは,まず第1譲渡人の払った注意と,第2譲渡人の払った注意を比 較し,両者を同じように扱うことから導かれる。……それから,もう1つ,私 の理解では目的=手段的思考様式によっても基礎づけられる。……このように Wを基礎付けるBとしては,条文のような法源論的な根拠を出す場合と,もっ と内容的な正しさを根拠に出す場合とがある。(60)」確かに,法的議論である以 上,制定法の条文は最も重要な裏付けであろうが,実際には条文以外の根拠も

図6

(17)

16

Bとしてしばしば援用されることは,ここで改めて確認しておく必要があろう。

 次に,トゥールミンの議論図式における「ミクロ正当化」および「マクロ正 当化」の位置づけについて検討しよう。平井教授御自身は,「実をいいますと,

「マクロ正当化」と「ミクロ正当化」の問題は「心理主義」批判ほど私が重点 をおいていない論点でしたし,……トゥールミンの「議論の構造」との関係に ついては考えていなかったものですから,正直に言えばどうお答えしてよいか 迷っている次第です(61)」と率直に述べておられる。しかしながら,従来の三段 論法モデルとトゥールミンの議論図式を比較するならば,前者における大前提・

小前提・結論は後者のW・D・Cにほぼ対応することは明らかである。したがっ て,田中成明教授が提案されたように(62),平井教授の「ミクロ正当化」および

「マクロ正当化」はトゥールミンの議論図式において図6のように位置づける ことができよう。

4 発見のプロセスと正当化のプロセス

 前述のように,平井教授が「正統理論」および星野教授の「利益考量論」を 批判する際に提示された論拠の1つが,「発見のプロセス」と「正当化のプロ セス」を区別せよという方法論的な要請であった。平井教授はこの要請を「議 論」の一般的構造からの理論的帰結として説明されるとともに,この区別を提 唱した先駆的な法学者としてワッサーストローム

Richard A. Wasserstrom

挙げておられる(63)。確かに,ワッサーストロームは「……結論の発見をもたら した諸要因は,その結論を正当化すべきプロセスとは区別されうる。私は,結 論へと至った際の手続

procedure

を「発見のプロセス」と呼び,結論が正当 化される際の手続を「正当化のプロセス」と呼ぶことにする(64)」と述べている が,同様の区別は既に科学哲学者のライヘンバッハ

Hans Reichenbach

の次の ような言明の中にも見られる。「発見ということのこの心理的叙述を誤解して,

(18)

17

ある哲学者たちは,事実と理論との間には論理的関係が存在しない,と主張す る。……/仮説・演繹的方法を,非合理的な当て推量であると神秘的に解釈す ることは,発見4 4という脈絡と正当化4 4 4という脈略を混同することから生まれる。

……論理学は正当化という脈略のみをとり扱うのであって,観察諸事実による 理論の正当化が,帰納理論の主題なのである。(65)」要するに,ライヘンバッハ によれば,論理学は正当化の文脈のみを対象するのであって,発見という心理 的な文脈には関知しないのである。

 このように,「発見/正当化」という二分法はしばしば「心理/論理」とい う二分法に対応すると考えられている。実際,平井教授も,「発見のプロセス」

と「正当化のプロセス」を区別せよという命題を,「ある言明にいかにして到 達したのか,という心理的プロセス……は,到達されたところの,その言明の 正当化……のプロセスとは区別されるべきである(66)」という意味に理解してお られる。その結果,平井教授は「発見のプロセス」に関して次のような立場を 採られる。すなわち,「ある言明を「発見」するプロセスにおいては,「利益考 量・価値判断」はもとより,考え方・理論・勘・ひらめき・直観・バランス感 覚・洞察・迷信・偏見など,ありとあらゆる知識の源泉がいずれも等しい価値 をもって存在しており,「発見」はこれらからの思考の自由な想像と飛躍によっ て行われる。いかなる手順を経て「発見」が行われるべきかについての「規範」

や「正しい方法」などは存在しないのである。……「発見のプロセス」に関す るいかなる言明も,一つ4 4の提案以上の権威を認められるべきではない……。(67)  しかしながら,法的思考において,「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」

は果たして峻別できるのだろうか。仮に峻別できたとしても,この二分法に「心 理的プロセス/論理的プロセス」という区別は対応するのだろうか。換言すれ ば,「発見の論理」あるいは「発見の方法論」は本当に存在しないのであろうか。

こうした点については,かなり議論の余地があるように思われる。例えば,星 野英一教授は次のように異議を唱えられる。「しかし筆者[=星野教授]は,

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正しい知識を徒に迷うことなく得るために人間の諸能力や諸手段をどのように4 4 4 4 4

用いるか4 4 4 4こそは,諸能力・諸手段以上に重要な問題であり,それを探究するこ

とは,人間にとって必要な営みであると考えている。……[平井]教授が「発 見のプロセスに関しては「方法論は無益である」との立場をとることは一つの4 4 4 信念として4 4 4 4 4十分ありうることだが,そのことが「方法論は必要かつ重要」とい う立場に対する批判になるものではなく,教授の立場も「一つの4 4 4提案以上の権 威を認められるべきではない」はずである。(68)」また,田中成明教授も,「正当 化のプロセス」と「発見のプロセス」との厳格な区別に対しては,「……やは り法的議論の正当化のプロセスと発見のプロセスについては,正当化のプロセ スをベースに置きながらも,双方を全体として視野に収めていないと,議論も 合理的にできないのではないか,そして,発見のプロセスができるだけ正当化 のプロセスを規制する基準にも合致することが,議論全体を合理的に行うとい うことになるのではないか(69)」という疑問を投げかけておられる。さらに,能 見善久教授は,「論理的正当化は,整合性や正確さを担保するが(体系内の正確 さ),「正しさ」を当然に担保するものではない。論理的正当化の限界を謙虚に 認めて,それを補完するものとして発見のプロセスの適切さが要求されるので はないだろうか(70)」と述べて,「正当化のプロセス」と「発見のプロセス」と が相互補完関係にあるとの見方を示される。

 平井理論においては,「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」が峻別され,

前者は心理的プロセスとして捉えられていた。後者は,さらに「ミクロ正当化」

および「マクロ正当化」という2つのレベルに分けられ,「ミクロ正当化」は「論 理的な(形式論理学的4な,したがって演繹論理的4な)推論」によるテストにさらされ,

「マクロ正当化」は「議論」による正当化に委ねられた。この見方によれば,

「発見の論理」や「発見の方法論」について論じる余地は存在しない。しかし,

長谷川晃教授が指摘されたように,「……重要なことは,所謂発見の文脈と正 当化の文脈とを各々心理的プロセスと論理的内容とに等置しかつそれらの間を

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19

画することではなく,各文脈における構成のプロセスと吟味のプロセスとの存 在を確認しかつそれらの接点を説明し,更に,先の2つの文脈の関連性を考え ることである。(71)」そして,もしそのような関連性が考えられるとすれば,

トゥールミンの議論図式におけるWとBの発見についても,何らかの「論理」

や「方法論」が存在しうるはずである。

5 レトリックとトーピク

 星野英一教授は,「具体的案件の解決をめぐる法律論においては,もう一つ 重要な点があることを看過することができない。それは,当該事案に適用され るべき制度・規定つまり[トゥールミンの議論図式における]W―Bがどれで あるかということである。適用される制度・規定の探究・発見の作業である(72) と述べておられる。この指摘は,法学方法論の観点から見て大変重要である。

トゥールミンの図式におけるWやBの発見の作業は,田中成明教授の前述の表 現を借用すれば,「演繹的三段論法の適用が可能となる以前の段階」に属するが,

この段階の思考方法は西洋においては「レトリック

rhetoric

」と呼ばれる学 問によって研究されてきた。したがって,歴史的に見る限り,平井教授の主張 とは異なって,必ずしも「発見のプロセス」に関して「規範」や「正しい方法」

は存在しないとは言えないのである。それでは,「レトリック」とは,一体ど のような学問であろうか。

 我が国において,「レトリック」は「弁論術」あるいは「修辞学」と訳され,

「効果的な言語表現を工夫して,聴衆・読者に説得や感動を生み出す技術(73) として理解されている。しかしながら,我が国の法学方法論においては,近年 に至るまで,この意味におけるレトリックに対する評価は非常に低かった。例 えば,「科学としての法律学」を提唱された川島武宜教授は,「裁判官や法律学 者の法解釈の論理は,一定の結論を相手に納得させるために論理のつじつまを

(21)

20

あわせる説得術ないし詭弁であるかのように……誤解されがちである(74)」とい う言明において,「説得術」と「詭弁」を並置しておられる。また,川島教授は,

「……法律学が価値判断を対象とするものであるということは,多くの人々に とって,法律学が科学と呼ばれるに値する性質をもっているかどうかについて 疑いをもたせている。すなわち,……法律学は科学ではなく弁論の技術ではな いかという疑いがそれである(75)」という叙述においては,「科学」と「弁論の 技術」を対置しておられる。つまり,川島教授の学問観においては,「弁論の 技術」や「説得術」は「詭弁」と同列であって,「科学」よりも下に位置づけ られているのである。

 このようなレトリックに対する評価は,その後大きく変化する(76)。その最大 の貢献者の一人が,「新しいレトリック

nouvelle rhétorique

」を提唱したベルギー の法哲学者ペレルマン

Chaim Perelman

である。ペレルマンは,「論証」と「議 論」を対比しつつ,次のように論じている。「論証の目的が真なる前提から出 発して真なる結論を証明することであるのに対し,議論の目的は前提に対して あたえられている同意4 4を結論にも移し及ぼさせることである。この仕事を確実 に遂行するためには,話し手は充分な同意を得られる前提から出発しなければ ならぬ。現在用いている前提が充分な同意を得ていないなら,説得の第1の目 標はあらゆる手段をつくして前提への同意を強化することである。(77)」すなわ ち,科学の論証とは異なって,議論においては相手の同意を得るための説得が 重要なのである。もちろん,このことは法的な議論にも当てはまる。ペレルマ ンは「法論理

logique juridique

」を形式論理に対置する。ペレルマンによれば,

形式論理が前提から結論を演繹するのに対して,法論理は前提の承認可能性を 示そうとする。「結論を前提に結びつけるのは形式論理の役割であるが,前提 の承認可能性

acceptabilité

を示すのは法論理の役割である。前提の承認可能 性は,訴訟において対立する立場から提出・主張される証拠方法,議論および 価値を比較対照した結果,判断される事柄である。(78)」このような基本的発想

(22)

21

に基づいて,ペレルマンは様々な議論の技法を研究しており,その研究は我が 国の実定法学者からも高く評価されている。例えば,瀬川信久教授は,「……「法 解釈は価値判断である」という,法解釈論争以来通用している見解が,一面的 なこと」を指摘された上で,「……行為や評価に関する判断も,直ちに価値の 問題になるのではなく,その前に,多くの実在するものに関する……議論を経 過し,多くの場合にその過程で合意が成立し,価値の問題まで行きつかないの である。……ペレルマンの研究は,どの段階でどのような形で,実在するもの に関する議論がなされるのかを示している(79)」と述べておられる。

 ところで,レトリックと密接に関連するのが,「トーピク

Topik

」すなわち

「トポス論」である。トーピクという名称は,もともとギリシャ語の「トポス

topos

」に由来する。トポスとは,「元来「場所」を意味し,弁証および弁論

の議論や推論がそこに注目し,またそこから出発するところのそことしての「論 点」や「命題」またはその一般型としての「命題図式」を言う。(80)」一般に,

トポスには,各学問分野に特有の「特殊なトポス」と,あらゆる議論において 考慮に入れられるべき「共通のトポス」があるとされるが,このうち後者につ いてペレルマンは次のように述べている。「議論において共通のトポスが演じ る役割は,形式的体系において公理が果たす役割に類似している。共通のトポ スは,ほかでもない,それらがすべての人々

esprits

の共通の承認を得たも のであると考えられているがゆえに,出発点としての役割を果たしうるのであ る。(81)」ここで注目すべきなのは,「出発点」という概念である。「そこから出 発するところのそこ」としてのトポスとは,議論や推論の「出発点」であり,

これを探究するのがトーピクの役割ということになる。このことは,各学問分 野に特有の「特殊なトポス」についても言えるであろう。

 したがって,レトリックの視点から見ると,トポスの発見という作業が議論 において決定的な役割を果たすことになる。ドイツにおいてトーピクを学問的 に復権させたフィーヴェク

Theodor Viehweg

は,「このトーピクは,ちょう

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22

どキケロがそれを論証的な論理学,すなわち「判断の術

ars iudicandi

」から 切り離して,「発見の術

ars inveniendi

」として際立たせることによって強調 したように,前提探索の手続である……(82)」と述べている。トーピクを「発見 の術」あるいは「前提探索の手続」として捉えるこの見方は,狭義のレトリッ クやトーピクの伝統を超えたところにも,「発見のプロセス」に関する研究の 端緒が存在していることを暗示しているように思われる。例えば,カントの「反 省的判断力

refl ektierende Urteilskraft

」であり,パースの「アブダクション

ab- duction

」である。

 まず,法の発見プロセスにおいて「反省的判断力」が果たす役割については,

既に何人かの論者が指摘している。例えば,原島重義教授は「……個別具体的 な事件がある,それを判断する場合には,どっちみち普遍的なものを,それが 法規範として与えられていなくとも,発見しなくてはならない。文字通り,法

の発見

Rechtsfi ndung

です。これはカントに言わせれば,反省的判断力の問題

です(83)」 と 述 べ て お ら れ る。 ま た, 哲 学 者 の カ ウ ル バ ッ ハ

Friedrich Kaul- bach

も「法律的判断力の法実践的役割」について論じる中で,ほぼ同趣旨の 見方を示している。カウルバッハによれば,「法の実践における行為と思惟の 課題は,単に法律的思惟の観点から,個別的事例を理解し評価し決定すること ではなくて,逆に,個人と個々の状況とを把握する観点から,ここで権限をもっ ている法律のことも問題にすることである。後者の場合,思考は個人から普遍 へと移って行くであろう。ここで管轄権をもつ判断力をカントは「規定的」判 断力……とは呼ばないであろう。むしろ,カントは,「反省的」判断力につい て語るであろう。(84)」このように,カントに従って,予め与えられている普遍 のもとに特殊を包摂する能力としての「規定的判断力」と,特殊だけが与えら れている場合に普遍を見出すことによって普遍を特殊に適用する能力としての

「反省的判断力」とを区別した上で,法の発見プロセスにおける後者の役割を さらに詳しく研究することは,法哲学的にも重要な課題であろう。しかし,残

(24)

23

念ながら,現時点では十分な準備ができていないので,ここでは問題の所在を 示すに留めたい。法の発見プロセスと関連するもう1つのアプローチは,パー スの「アブダクション」であるが,こちらについては節を改めて論じよう。

6 パースのアブダクション

 「発見のプロセス」が「正当化のプロセス」に先行することは,常識的な観 察事実であり,驚くには値しない。例えば,哲学者のショーペンハウアー

Arthur

Schopenhauer

は,三段論法に関する考察の中で,次のように述べている。「……

絶妙な着想によって何らかの或る新しい真理を悟ったことにより,我々は今や 結論たるこの真理のための前提を求める。すなわち,真理たるための証明を提 出しようとする。というのは,認識はふつうその証明より早く存在しているか らである。それから我々は,我々の認識の倉庫をくまなく探し回り,そこに新 たに発見されたものが既に暗々裏にそこに含まれているような何か或る真理 か,あるいは2つの命題の規則正しい結合によってこの真理が結果として生ず るような,2つの命題を見出すことができはしないかどうかを見る。(85)」また,

裁判官の判断について,リアリズム法学を代表する法律家のフランク

Jerome

Frank

も次のように論じている。「さて,裁判官も人間であり,また,どのよ

うな人間であろうとも(……)その正常な思考過程において,このような三段 論法的推論を経て,決定に達する者は1人もいないので,裁判官も,単に裁判 官用のローブをまとうことによって,そんなわざとらしい推論方法を獲得する ようなことはあるまい,と仮定するほうがむしろ正当である。裁判上の判断も,

他の判断と同様に,たいていの場合,試験的に形成された結論から逆行して引 き出されるのは疑いない。(86)」ここにおいて「発見のプロセス」との関連で検 討すべき問題は,「我々の認識の倉庫をくまなく探し回り,[推論の前提となり うる]2つの命題を見出す」方法あるいは「[判断を]試験的に形成された結

参照

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