石神豊先生の経歴と業績
5石神豊先生の経歴と業績
〈経 歴〉 (西暦) 一九四六 静岡県浜松市に生まれる 一九六五 静岡県立浜松北高等学校卒業 一九六九 名古屋大学文学部哲学科卒業 一九七一 東北大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了 一九七五 同 博士課程単位取得退学 一九七五 創価大学準職員(図書館勤務) 一九七六 創価大学通信教育部インストラクター 一九八一 同 講師 一九八五 同 助教授 一九八六 創価大学文学部社会学科助教授 一九八八 同 人文学科助教授 一九八九
(財)東洋哲学研究所研究員(~二〇〇一)
一九九二 創価大学文学部教授(現在に至る) 、学部長補佐 一九九六 アメリカ、クレアモント大学客員研究員 一九九七 創価大学文学部人文学科コーディネーター(~一九九九)
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二〇〇一 同 文学部長(~二〇〇八) 二〇〇二 博士(文学・東北大学) 二〇〇八 創価大学文学研究科長(~二〇一四) 二〇一五
(財)東洋哲学研究所
主任研究員(現在に至る)
各種学術団体役員 一九九六
(財)東洋哲学研究所評議員(~二〇一四)
二〇〇七 学校法人創価大学評議員(~二〇〇九) 二〇一四
(財)東洋哲学研究所理事(現在に至る)
〈著書・論文目録〉
著書(単著) 『ヒューマニズムとは何か』第三文明社、一九九八年 『西田幾多郎 ─自覚の哲学』北樹出版、二〇〇一年 『倫理学 ─価値創造の人間学─』創価大学通信教育部、二〇〇三年 『調和と生命尊厳の社会へ』第三文明社、二〇〇八年 『(新版)倫理学』創価大学通信教育部、二〇一三年
著書(共著)
石神豊先生の経歴と業績
7『倫理学』財団法人私立大学通信教育協会編、一九八六年 『人間社会の知の総合』加藤寛孝編、第三文明社、一九九六年 『 中 外 学 者 論 池 田 大 作: 和 諧 社 会 与 和 諧 世 界 』 華 中 師 範 大 学 池 田 大 作 研 究 所・ 創 価 大 学 合 編、 華 中 師 範 大 学 出 版 社、 二〇〇七年 『与池田大作対話文明重生』中国社会科学出版社編、二〇一一年 『創立者池田大作先生の思想と哲学』創価大学通信教育部編、第三文明社、第一巻(二〇〇五年) 、第三巻(二〇〇七年)
論文(単著) 「新しい存在論をめざすハイデッガー」 、『第三文明』第三文明社、一九六八年十一月 「実存主義的生命観の変遷」 、『第三文明』 、一九六九年二月 「 ヘ ー ゲ ル に お け る 思 惟 の 展 開 ― そ の 種 々 相 と 東 洋 的 考 察 の 可 能 性 」、 『 東 洋 学 術 研 究 』( 九 ─ 二 )、 東 洋 哲 学 研 究 所、 一九七〇年 「ヘーゲル『法哲学』の課題─革命・市民社会・国家─」 、『思索』第六号、東北大学哲学研究会、一九七三年十月 「歴史を創るもの ─市民社会と歴史の問題」 、『第三文明』一九七六年二月 「 ユ ダ ヤ 教 の 律 法 と カ ン ト 道 徳 律 ─ 初 期 ヘ ー ゲ ル に お け る カ ン ト 倫 理 学 批 判 の 成 立 ─ 」、 『 東 洋 学 術 研 究 』( 十 六 ─ 五 )、 一九七七年九月 「ヘーゲルとキリスト教 ─愛の立場から良心の立場へ─」 (上) 、『東洋学術研究』 (十七─二) 、一九七八年三月 「ヘーゲルとキリスト教 ─愛の立場から良心の立場へ─」 (下) 、『東洋学術研究』 (十七─三) 、一九七八年五月 「『学』の成立と反省の問題 ─ヘーゲルと西田幾多郎─」 、『東洋学術研究』 (十八─二) 、一九七九年三月
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「力学的世界から生の世界へ ─ヘーゲル『転倒された世界』─」 、『創価大学十周年記念論集』 、一九八〇年十一月 「ヘーゲルの哲学的命題論」 、『東洋学術研究』 (二十二─二) 、一九八三年十一月 「 行 為 と 道 徳 性 ─ カ ン ト 定 言 的 命 法 に お け る 形 式 性 の 意 義 を め ぐ っ て 」、 『 創 大 比 較 文 化 研 究 』 第 二 巻、 一 九 八 四 年、 十二月 「若きカントの自然研究」 、『創大平和研究』第六号、一九八五年二月 「 西 田 幾 多 郎 に お け る ヘ ー ゲ ル ─ 昭 和 六 年 頃 ま で の 記 述 を 追 っ て ─ 」、 『 言 語 文 化 研 究 』 第 四 号、 創 価 大 学、 一 九 八 五 年 三月 「カント定言的命法における形式性の意義」 、『哲学』第三五号、日本哲学会、一九八五年五月 「カントの空間・時間論」 、『創価大学十五周年記念論集』一九八五年五月 「 ヘ ー ゲ ル 社 会 哲 学 の 生 成 ─ 所 有 の 問 題 を め ぐ っ て ─ 」、 『 ソ シ オ ロ ジ カ 』 十 一 ─ 二、 創 価 大 学 社 会 学 会、 一 九 八 七 年 三 月 「 批 判 に お け る 基 準 と 根 拠 ─ ポ パ ー、 ハ ー バ ー マ ス を 手 掛 か り と し て ─ 」、 『 ソ シ オ ロ ジ カ 』 十 二 ─ 二、 創 価 大 学 社 会 学 会、一九八八年三月 「時間とは何か ─竜樹とカント─」 、『東洋哲学研究所紀要』第四号、一九八八年十二月 「無常と常住 ─ヘーゲルの現象論─」 、『創価大学人文論集』第一号、一九八九年三月 「カントにおける悪の問題」 、『創価大学人文論集』第二号、一九九〇年三月 「西田哲学とコギトの問題」 、『刈田先生退職記念論集』一九九〇年五月 「『人文学』を考える」 、『フォーラム人文』第一号、創価大学人文学会、一九九〇年七月 「左右田喜一郎の西田哲学批判 ─『場所』の論理をめぐって─」 、『創価大学二〇周年記念論集』 、一九九〇年十一月
石神豊先生の経歴と業績
9「西田哲学・ 『自覚』前夜」 、『東洋哲学研究所紀要』第六号、一九九〇年十二月 「西田哲学と純粋経験 ─高橋里美の批評をめぐって─」 、『創価大学人文論集』第三号、一九九一年三月 「人間のための宗教の条件 ─カントの宗教論と現代─」 、『潮』七月号、潮出版社、一九九一年七月 「脳死小考」 、『フォーラム人文』第三号、創価大学人文学会、一九九一年七月 「自同律と自覚 ─西田幾多郎『自覚における直観と反省』研究(一) 」、 『創価大学人文論集』第四号、一九九二年三月 「経験と時間 ─西田幾多郎『自覚における直観と反省』研究(二) 」、 『創価大学人文論集』第五号、一九九三年三月 「倫理学 ─その歴史と課題〈よさ〉をめぐって」 、『創大比較文化研究』第十巻、一九九三年九月 「良心の自由が意味するもの ─人権の視座を求めて─」 、『東洋哲学研究所紀要』第九号、一九九三年十二月 「若き西田幾多郎の宗教的思索」 、『創価大学人文論集』 、第六号、一九九四年三月 「『 死 海 文 書 』 と イ エ ス 像 ─ B・ ス ィ ー リ ン グ に よ る 新 解 釈 を め ぐ っ て 」、 『 東 洋 哲 学 研 究 所 紀 要 』 第 十 号、 一 九 九 四 年 十二月 「西田幾多郎の宗教論 ─超越と内在の問題を中心に─」 、『創価大学創立二十五周年記念論集』 、一九九五年十二月 「宗教的寛容について ─内なる力への回帰─」 、『東洋哲学研究所紀要』第十三号、一九九七年十二月 「SGIの思想と運動 ─人間的宗教へのチャレンジ」 、『東洋学術研究』三十三─一、 一九九八年五月 「 シ ュ バ イ ツ ァ ー の『 生 へ の 畏 敬 』 の 倫 理 ─ 実 践 的 楽 観 主 義 の 基 礎 付 け ─ 」、 『 東 洋 哲 学 研 究 所 紀 要 』 第 十 四 号、 一九九八年十二月 「 考 え る と い う こ と ─ そ の 人 間 的 意 義 に つ い て ─ 」、 『 宗 教 と ヒ ュ ー マ ニ ズ ム 』 第 一 号、 東 洋 哲 学 研 究 所、 一 九 九 九 年 三 月 「宗教的寛容への一つの視点」 、『宗教とヒューマニズム』東洋哲学研究所、一九九九年三月
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「言葉と自覚」 、『創価大学人文論集』第十二号、二〇〇〇年三月 「現代と宗教批判の原理」 、『第三文明』二〇〇〇年六月号 「寛容と民主主義の精神」 、『東洋学術研究』三九─一、 二〇〇〇年五月 「考えるということ(その二)─思考の深化とはどういうことか」 、『宗教とヒューマニズム』第二号、東洋哲学研究所、 二〇〇一年三月 「学問と人生 ─西田幾多郎の書簡に見る─」 、『創価大学人文論集』第十三号、二〇〇一年三月 「現代の三つの倫理をめぐって ─環境・情報・生命─」 、『創価大学人文論集』第十四号、二〇〇二年三月 「西田幾多郎『善の研究』を読む ─第二編「実在」を中心に─(一) 」、 『創価大学人文論集』第十六号、二〇〇四年三月 「西田幾多郎『善の研究』を読む ─第二編「実在」を中心に─(二) 」、 『創価大学人文論集』第十七号、二〇〇五年三月 「池田大作的生命論倫理観 ─以生命的尊厳為中心─」冉毅訳、 『倫理学研究』中国倫理学会、二〇〇六年三月 「(研究ノート)西田幾多郎の書簡に見る諸思想家」 、『創価大学人文論集』第十九号、二〇〇七年三月 「因果律と自覚(その一) ─運命論の問題をめぐって─」 、『創価人間学論集』第二号、二〇〇九年三月 「 歴 史 の 中 の 個 人 主 義 ─ 日 本 に お け る ニ ー チ ェ 受 容 に み る( そ の 一 ) ─ 」、 『 創 価 大 学 人 文 論 集 』 第 二 十 二 号、 二 〇 一 〇 年三月 「ヒューマニズムについて ─歴史的定位に向けての試み─」 、『創価大学通信教育部論集』第十三号、二〇一〇年三月 「 歴 史 の 中 の 個 人 主 義 ─ 日 本 に お け る ニ ー チ ェ 受 容 に み る( そ の 二 ) ─ 」、 『 創 価 大 学 人 文 論 集 』 第 二 十 三 号、 二 〇 一 一 年三月 「個人主義とヒューマニズム」 、『創価大学人文論集』第二十四号、二〇一二年三月 「西田幾多郎『善の研究』を読む ─第二編「実在」を中心に─(三) 」、 『創価大学人文論集』第二十六号、二〇一四年三月
石神豊先生の経歴と業績
11「デカルトにおけるヒューマニズムの位相」 、『創価大学通信教育部論集』第十七号、二〇一四年八月 「ディルタイをめぐる西田哲学と牧口思想」 、『東洋哲学研究所紀要』第三十号、二〇一四年十二月 「西田初期思想の展開と弁証法 ─高橋・田辺の批評をめぐって─」 、『創価大学人文論集』第二十七号、二〇一五年三月 「因果律と自覚(その二)─時間的因果論とツァラトゥストラ─」 、『創価人間学論集』第八号、二〇一五年三月 「自然と自由の人間世界 ─芭蕉の句を考える─」 、『宗教研究』第二十八集、慶応宗教研究会、二〇一五年十月 「若きカントの地震論 ─オプティミズムの時代の中で─」 、『東洋哲学研究所紀要』第三十一号、二〇一五年十二月 「芭蕉とカント ─俳句の論理構造─」 、『創価大学通信教育部論集』第十八号、二〇一六年三月 「文化と理念 ─要請としての生命尊厳─」 、『東洋学術研究』五十五─一、 二〇一六年五月 「二十一世紀を築く力 ─ソクラテス、カントの英知に学ぶ─」 、『東洋学術研究』五十五─一、 二〇一六年五月
Culture and Ideal
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The Dignity of Life as a Postulate, The Journal of Orient Studies, vol. 26, 2016〈その他、主要な書評・翻訳・巻頭言等〉 書評「美しきドクサに賭ける倫理 ─岩田靖夫『倫理の復権』 」、 『創価大学人文論集』第七号、一九九五年三月 翻訳 ディーヴィッド・W・チャペル「法華経のグローバルな意義」 、『東洋学術研究』三十四─二、対話『カトリックと 創価学会』南山宗教文化研究所編、第三文明社、一九九六年六月 翻 訳 デ ィ ー ヴ ィ ッ ド・ W・ チ ャ ペ ル「 二 十 一 世 紀 に お け る 菩 薩 の 公 共 的 役 割 」、 『 東 洋 学 術 研 究 』 三 十 五 ─ 二、 一 九 九 六 年十一月 コラム 「歴史を変えた一書」十五回連続、
『第三文明』一九九九年一月―二〇〇〇年三月 翻訳 V・R・メータ「二十一世紀こそ正義の世紀に」 、『東洋学術研究』三十八─一、 一九九九年五月
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翻訳 A・W・ドーン「如蓮華在水 東洋の精神性はいかに世界平和に貢献しうるか」 、『東洋学術研究』三九─二、 二〇〇〇年十一月 翻訳 ディヴィッド・ノートン著『幸福主義社会への途』第三章、第三文明社、二〇〇一年十月 書評「アドルノ/ホルクハイマーの問題圏」公明新聞、二〇〇〇年七月一七日 巻頭言「ヤスパースの学問論について」 、『創価大学人文論集』第十五号、二〇〇三年三月 巻 頭 言「 地 上 に 降 り た『 ヘ ン・ カ イ・ パ ン 』 ─ 人 間 学 の 一 視 点 」、 『 創 価 人 間 学 論 集 』 第 一 号、 創 価 大 学 人 間 学 会、 二〇〇八年三月 巻頭言「 『文は人なり』の人間教育─小林先生のご退職に際して」 、『創価大学人文論集』第二十一号、二〇〇九年三月 巻頭言「創価教育と心理教育相談室」 、『心理教育相談室年報』第七号、二〇一〇年三月 巻頭言「浜勝彦教授のご退職に際して思うこと」 、『創大中国論集』第十二号、二〇〇九年三月 巻頭言「デユーラーの版画と気質論」 、『心理教育相談室年報』第八号、二〇一一年三月 随想「人を動かすもの」 、『学光』三十六─十二、創価大学通信教育部、二〇一二年三月 巻頭言「人文論集の四半世紀」 、『創価大学人文論集』第二十五号、二〇一三年三月
西田とカントに学ぶ(最終講義より)
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西田とカントに学ぶ (最終講義より) 石 神 豊
石神です。最終講義ということで、集まっていただきました。感謝申し上げます。ただ、じつは明日も一つ授業があり、 来年もあけてもう二つ授業がありますから、本当の「最終」ではないんですが……。
今日は学生の皆さんも多いことから、特定のテーマの研究内容というより、哲学によって、あるいは哲学者の生き方を 通して自分なりに何を学んできたかということを中心にお話しをしたいと思います。
ある経験から
はじめに、私のある経験というか、失敗談から始めます。
思えば中学校の頃、何かの本に「主観的」とか「客観的」という言葉が書いてありまして、何かよくわからないけれど も、なにかすごい大人の言葉のような気がしました。それを早く使いたかった。そして、ホームルームの時間の時だった と 思 い ま す。 「 私 た ち は 主 観 的 に 考 え る べ き だ と 思 い ま す 」 な ど と 小 生 意 気 な こ と を 言 っ て し ま っ た の で す。 で も こ れ は 本当は逆なんですね。じつは「客観的に」というべきところを「主観的に」と言ってしまった。意味をよくわからないで 使ってしまったんです。ひどいものです。若気の至りといいますが、これは落第ですね。
まあ今でしたら、これも一つの主張だと居直ることも可能かもしれませんが、そのときはたいへん恥ずかしく思いまし
た。それからは、なにか新しい言葉を用いることには慎重になりました。覚えた言葉を簡単に使ってはいけない、と。そ して人前で話すことが苦手になりました。これはトラウマとなって、今でもつづいています。
こうしたことがあったことから、言葉についてもっとしっかり学ばなければいけないと思うようにもなりました。考え て み ま す と、 「 哲 学 」 と い っ て も あ る 意 味 で 言 葉 を み つ け る 作 業 で す ね。 そ し て 本 当 に、 借 り 物 で は な い「 自 分 の 言 葉 」 といえるものをいくつ使えるようになるかが勝負なのかな、などと思います。
ミニッツペーパーを通して
私の授業を受けられた方はご存知だと思いますが、ずっと、私の授業ではミニッツペーパーというのをやっています。 授業の終わりに、質問や感想、報告などなんでもいいから書いてもらうのです。ここへもってきてみました。小さな紙き れです。以前は何も書いてくれないことも多かったのですが、なぜか今は皆さんがいっぱい書いてくれます。裏側までも 書いてくれるということも多くなりました。
また、質問は必ず返事をするとつねに言っていますから、質問が多いときにはちょっとあせります。今はメールで返事 していますが、一日がかりで返事を書くことも結構あります。私の知らない本についての質問もあります。すぐ図書館に 行って読んだり、帰りに本屋さんで買って読んだこともあります。
それで、書いてもらったものを読んでいくと、私の話したことがうまく伝わっていないということがわかってきました。 伝わっている率は、二割か三割ぐらいかなと。でもこれは聞く側の問題というより、私が伝えていないのだと思い、反省 しました。つまり授業とは、まず何かはっきりした内容があり、それにふさわしい伝え方で伝えたかということが大事だ ということです。こちらがあいまいだとそれはもうだめですね。しかし、こちらも人間ですから、調子の悪いときもかな
西田とカントに学ぶ(最終講義より)
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りあります。ですから、調子が出ないときの授業は終わると反省ばかりで、ミニッツペーパーを見るのが怖くなります。 自分が裁判の被告になったような気がするんですね。大学には怖いものがいっぱいあります。
ただ、数は少ないのですが、あ、なにかわかってくれたなと思ったときはたいへんうれしいのです。言葉そのものもそ うですが、伝達・コミュニケーションというのは本当に難しいものだと思います。
直感と論理
さて、大学へ入った頃のことです。自分はどうも物事を感覚的にといいますか、直感的に判断してしまうところがある と感じるようになりました。しっかり物事を考えたいと思うのですが、できないのです。そしてどうしても周囲に合わせ ていく自分を発見して、どこかむなしささえ感じるのです。
根無し草といいますね。自分には感覚はあるが、論理というものがない、これではだめだと思いました。難しそうな本 は、読みたいと思っても読めません。学生運動に勢い込んで参加しても、なぜ政治に関与しなければならないのか、その 充足理由が見つからないのです。感覚的にだけ満足しようとしてしまうのです。そして下宿に帰って落ち込みます。そう いう繰り返しがあって、物事をじっくり考えたいという思いが強くなり、哲学を学びたいとコースを選んだように思いま す。
ヘーゲルの弁証法
最初、気持ちが引かれたのは、ヘーゲル(
Hegel)の『大論理学(
Wissennschaft der Logik)』という本でした。ヘーゲル
はカントと並ぶドイツの大哲学者です。これをある先生が入門的な授業で扱ったのです。しかし、大学二年生でいきなり ドイツ語原文でヘーゲルの『大論理学』というのはちょっとひどい感じです。その先生は、マルクス主義者の先生でした が、 「 自 分 は も う マ ル ク ス は ほ と ん ど 暗 記 し て い る。 で も、 ヘ ー ゲ ル は ま だ そ こ ま で い か な い か ら 勉 強 し て い る 」 な ど と い う の で す。 ま た、 「 も し 自 分 が 島 流 し に な っ た ら、 ヘ ー ゲ ル の『 大 論 理 学 』 を も っ て い く 」 と い う ん で す ね。 か っ こ う いいですね。
しかし、お前たちにはまだわからないと思ったのでしょうね。教える先生のほうも、それからは、日本語でしっかり説 明してくれるようになりました。そしていわゆる弁証法という論理に強く興味を持ちました。
弁証法について、……ここから少し講義調になりますが、お話ししたいと思います。
単純に「対立の統一」というと簡単に聞こえますが、具体的に、つまり「対立するものの統一」と考えていくと、そこ にはなかなかたいへんな現実との格闘があるということがわかってきます。私たちは生きていますが、そもそもこの生き ているということ自体が矛盾をもっているのだとみることができます。生きるとは矛盾をかかえているんですね。自分を 否定しつつ肯定していくということ、これが生きるということだと思います。また、どうしようかという場面に出会うこ とがあります。そこには対立があると言えます。Aにするか、Bにするか。だいたいは、AかBのどちらかを選んで終わ りということが多いのですが、じつはAをとったらBを捨てることとなる。反対にBをとったらAを否定することとなる といってもいい。つまり、問題は何も解決していないまま次へと進む。対立はそのまま残っているんです。ですからまた 同じ問題で悩む。
弁証法は、そこのところをじつにうまく、乗り越える論理です。いわゆる「総合の立場」とか止揚というのですが、第 三の立場があると。じつはこれは「対立を一つのものの分離、あるいは分裂」としてみるということがミソです。すると、
西田とカントに学ぶ(最終講義より)
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対 立 は 対 立 で な く、 一 つ の も の の 二 面 な の だ と い う と ら え 方 が で き る の で す。 じ つ は、 こ の「 一 つ の も の( A と B の 全 体 )」 を 発 見 す る と こ ろ に、 弁 証 法 の 醍 醐 味 が あ る の で す。 弁 証 法 的 止 揚 な ど と 難 し く 言 っ て い ま す が、 要 す る に 対 立 の 解消は、対立の中に入ってそこに何か両者に通じるものを探し当てるということです。その意味で、弁証法というのは探 究の論理だといってよいわけですが、この〈対立の中に入って〉ということが、自分をその現場に立たせるということで すから、きれいごとでは済まない面があります。
私が学んだことは、論理といってもやはり現実の矛盾を見る、体験するなかからできてくるということです。学生時代 はいろいろな矛盾や、人間関係や、その他もろもろのことに悩むものですが、ヘーゲルにとってもそうだったということ がわかりました。そうした青年時代の苦闘の結晶が、三十七歳の時にできた『精神現象学(
Phänomenologie des Geistes)』 という名著です。大学院ではそうした若きヘーゲルの研究ということをしていました。
ヘーゲルについてはこれだけにしますが、ヘーゲルで問題となることは、次第に体系化がなされていくことで、今述べ たような生きたプロセスの面が見えなくなってくるということです。たぶん、歴史的にもキルケゴールやショーペンハウ アー、あるいはフォイエルバッハという人など、ヘーゲル批判をしたといわれる人たちは、なにか体系化された思想に反 発を感じたのだと思います。実存主義者というのも、 「体系」に対して猛反発する人たちです。
西田哲学を学ぶ
こちらの大学へきて、草創の時代に哲学を教えておられた刈田先生という方におあいできました。そして、この先生を 通して、京都大学の宗教学者として著名な西谷啓治という先生にもお会いでき、毎月数名で西田哲学のゼミを開いてもら いました。それがきっかけとなり、はじめは読んでもほとんどちんぷんかんぷんでした西田幾多郎の本を、少し腰を入れ
て読もうということとなり、その後十年くらいかけて、ほぼ全体を学びとおしました。
西田幾多郎という哲学者は明治の人(明治三年生まれ)です。このころの日本は、新しい国造りがはじまり、それが一 段落して、内面に目を向けていった時代です。政治のほうでは、軍事化が進んでいくのですが、それだけではどこかもろ さがあるということから、内面に目が向けられたといえます。しかし、国家の側は、なにか「大和魂」というようなこと を強調して、精神の高揚に努めようとするのですが、それはものを考えるということではなく、感覚です。ですから、こ れを夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で茶化しているわけです。 「(ある偉そうな人に)大和魂はどんなものかと聞いた ら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」などと書いてあります。
西田は若いころは相当な悪ガキだったようです。彼が言うには、人生で一番面白かったのは高校時代だったと。校長に 反抗、つまらない授業のボイコットなどしたことで、ついに落第となり、中途退学します。もう一人山本良吉という友達 がいて、彼も同じです。この人は、のちに学習院の教授をして、また校長として私立武蔵高校の設立にかかわった人です。 この二人の間には、今も多くの手紙が残っていて、それをみますとたいへん活発な哲学問答をしているのです。宗教につ いてもかなり二人の間で議論がなされています。
西田は高校中退ですから、いわば落ちこぼれ組です。しかし、勉強はしたかった。大学でやや差別を受けながらも、勉 強を積み、故郷の高校の先生となり、その後京都大学の教官となっていきます。でも、見ている人は見ているのです。体 制には反抗的だった西田が、一人だけ「先生」と呼んで尊敬した人がいます。それは北条 時
ときゆき敬 という数学者です。彼は西 田の粘り強く考える力を認めた。数学をするように勧めます。結局、西田は哲学へ行くことになるのですが、北条先生は ずっと西田のことをその後も見ていたのですね。それで西田に関連した不思議なことがあります。
話がちょっと飛躍するのですが、一昨年私は大学から研究休暇をいただいて、京大と東北大で西田関係の資料を見てき ま し た。 そ こ で 当 時 の 女 性 と 哲 学 の か か わ り に つ い て 調 べ た こ と が あ り ま す。 明 治 末 期 か ら 大 正 時 代 は 女 性 で 帝 国 大 学
西田とカントに学ぶ(最終講義より)
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(国立大学)に入った人は一人もいません。この突破口は当時東北帝国大学の総長になった北条時敬によって開かれます。 東大や京大も女性の入学は戦後です。じつは当時の法令に、女性の入学禁止という条項はないのです。女性の大学入学は 考えられないというのが常識の時代でしたから、そういう条項はなかったのです。北条総長はそれを逆手にとって、女性 の入学をさせようとした。この東北大の動きに対して、文部省からは女性の入学を許可しないようにとの通達がきます。 しかし彼は通達を無視し、もちろん試験をしてですが、入学させ、大正二年に日本ではじめて三人の女子学生(理系)が 誕生します。
西田の姪(西田の妹の子)に高橋ふみという人がいます。このふみは、伯父である西田へのあこがれがあったのでしょ う、哲学を志すのです。そして、大正十五年に東北大に入学します。調べましたら、卒論は「プラトンのイデヤについて ―パイドンを中心に」という題のもの、また最初の学術誌へ載せた論文は「スピノザの個物の認識について」という立派 な論文です。その後、ドイツへ留学、哲学で最初に留学した女性となります。西田幾多郎の書物を初めてドイツ語訳した のも彼女です。しかし残念ながら昭和二十年、若く四十二歳でなくなります。その二週間前に西田幾多郎もなくなってい る。彼女は、女性哲学者としてのパイオニアといってよい人です。いろいろな資料を集めてきたのですが、まだ整理がつ いていません。時間がほしいところです。
西田哲学の論理について
少し話が広がりましたが、私が西田哲学にひかれたのは、彼がそうした明治の時代にあって、しっかりしたものの考え 方を示したという点です。しっかり考えることが最も大事だという彼の信念というか、執念というか、そうした一念の強 さにひかれたといってよいと思います。
彼の思想については、今日はあまり話す時間がありませんが、私なりに一言でいうと「直感の論理」の探究ということ で し ょ う か。 西 田 は 純 粋 経 験 と い い ま す が、 『 善 の 研 究 』 に で て く る こ の 純 粋 経 験 と い う の は、 い わ ば 直 観( 的 意 識 ) の 立 場 で す。 彼 は、 高 校 時 代、 金 沢 の 街 を 歩 い て い て ふ と 思 っ た。 「 今 こ の 見 て い る 現 実 が そ の ま ま 真 の 実 在 で は な い か 」 と。ですから彼の壮大な哲学は、この高校時代のあるときのふと浮かんだ思いから始まったといってよいわけです。
で も 考 え て み ま す と、 こ れ は 単 な る い っ と き の 直 感( 直 観 )、 意 識 で あ っ て、 次 の 瞬 間 に は 消 え て し ま う 思 い か も し れ ま せ ん。 そ れ は、 私 た ち は 反 省 す る か ら で す。 反 省 は 直 感 を 対 象 と し て 見 る こ と で、 直 感 を 向 こ う へ と 追 い や っ て し ま う の で す。 し か し、 ど う し て も こ の 直 観 の 経 験 は 本 物 だ と 彼 は 思 わ ざ る を え な か っ た の で す。 そ こ で 西 田 は、 こ の 直 感 を な ん と か 実 在 と し て 論 理 的 に 説 明 で き な い か と 考 え た。 つ ま り「 直 感( 直 観 ) の 論 理 化 」 で す。 こ れ が 彼 の『 善 の 研 究 』( 一 九 一 一 ) 以 後 の 課 題 と な っ て い き ま す。 私 が 東 北 大 学 か ら 博 士 号 を 受 け た 論 文 の テ ー マ は、 こ の 課 題 に 対 す る 前 期( 「場所」成立まで)の西田の足跡を追ったものです。
そして西田がその論理化にあたって基礎とした論理は、例のヘーゲルの論理でした。西田は早い時代からヘーゲルの大 論理学を学んでいたようです。ただヘーゲルの論理のとらえ方に囚われるのではなく、自分の論理として使おうとした。 自分を忘れていません。
西田の論文を見ると、驚くことは、他の書物からの引用がほとんどないことです。現代でも雑誌などに載る多くの論文 は、引用と引用を橋渡ししたようなものが多いように思います。引用なしで物を書くということはできないように思って し ま い ま す ね。 西 田 の 場 合、 さ ら に、 ま っ た く 注 と い う も の を 付 け な い。 「 し っ か り 注 を 付 け な け れ ば だ め だ 」 と、 私 も 卒論のときなどに学生に言っていますし、ときには「注のほうが本文より大事だ」というような暴論を吐くときもありま す。西田はそんなことは全く無視しています。注を付ける時間があったら、しっかり自分自身の文章を考えよということ ですね。まあこれは賛否両論あるところでしょう。
西田とカントに学ぶ(最終講義より)
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少しだけ、西田の論理の考え方に触れます。彼が考えたものは「場所の論理」とか「述語的論理」という論理です。一 般には、論理の展開は主語があり、その主語が発展していくものと考えるのです。これは主語的論理です。それでは「場 所の論理」とはどういうものかということですが、たとえば何かあるものがある。なんでもよいのですが、なにかがある と い う こ と は「 そ れ は ~ に お い て あ る 」 と い う こ と だ と 考 え る の で す。 た と え ば、 こ こ に 机 が あ る、 「 こ の 机 は 教 室 に お い て あ る 」。 ま た「 こ の 教 室 は こ の 大 学 に お い て あ る 」 と な り ま す。 サ ッ カ ー は グ ラ ン ド で 行 わ れ ま す。 後 ろ 側 に あ っ て 案外わからないものですが、教室がないと机は机ではない、ただの物体です。物体とさえいえないかもしれません。グラ ンドなくしてサッカーはできません。キャンバスがないと絵がかけないのと同じです。
こうして見えないところを見ていく、そちらの方向から事物を見ていくというのが、場所の論理とも述語的論理ともい われるものです。主語の論理に対して、述語面を重視する。文章論としては主語は述語に包摂されるといいます。論理的 な言い方ですと、これを主語の述語的限定というのですが。そして、この述語をさらに追っていく、述語の述語という風 にみていって、もはや主語にならない述語へと至る。これを無の場所といいます。そこにすべてが包摂されることになり ます。でも無の場所ですから包むものがない。これを「包むものなくして包む」なんていう言い方をします。ちょっと禅 問答的な言い方ですが。
西洋の論理が基本的に主語的論理であること、つまり主語からはじまる展開であること、そして東洋の論理が述語的論 理、場所の論理であるというのは互いの文化のあり方とも関係し、たとえば手紙の宛名の書き方にも表れているといえま す。英語では普通まず個人名から始まり、そのつぎに番地、町名、国名という風になりますね。これは主語が展開する、 個人から始めるという思想です。個人がなくては始まりません。それに対し、日本語で宛先を書くときは、まず県とか市 や町、番地、そして最後に個人名となります。これは場所から始まる、場所を限定していくという発想です。大きなとこ ろをおさえ、次第に狭めていくという、なにか捕り物帖のようです。個から始まる西洋と、全体から始まる東洋というこ
ともできます。
西 洋 的 発 想 か ら す る と、 個 人 の 展 開 と い う か、 個 人 が い か に 成 長 し、 活 躍 し て い く か と い う こ と が 関 心 を 呼 び ま す。 ヘ ー ゲ ル の 弁 証 法 も じ つ は 有 と 無 か ら、 そ の 統 一 へ と 進 む の で す が、 こ れ は 最 初 の 有 の 成 長 と み ら れ る の で す。 「 有 の 成 長物語」です。ドイツ語で言うところの
Bildungsroman(教養小説)ですね。
西田はこれに対し、東洋的な発想を論理として示そうとしました。もっとも普遍的なもの、その普遍的なもの(述語的 一般者)を限定していくというところに、主語のあり方を見ます。ですから、主語には色濃く述語の性格、あるいは普遍 的なものが宿っているともいえます。そこに「直観の論理化」という西田の当初の目標があったことは間違いありません。 ただ、問題はあります。場所の論理、述語的論理がうまく個人、個物を包摂、限定できないということがあるのです。下 手をすると、全体のもとに個人を飲み込んでしまうような全体主義、ファシズムになる可能性があります。
そこで、後期(場所以後)になると、西田の論理はさらに磨きがかかり、個人を重視する見方と普遍的なものを重視す る見方の双方を、つまり東西両方の論理を一つの論理としてとらえようとするのです。結局、西田哲学というのは、東洋 と西洋の考え方を結合しようとしたものだと私は捉えています。たとえば、飛びっきり理解しにくい言葉の代表だと言わ れ る「 絶 対 矛 盾 的 自 己 同 一 」( 絶 対 に 相 反 す る 二 つ の も の が 対 立 を そ の ま ま 残 し た 状 態 で 同 一 化 す る ) と い う よ う な 言 葉 にも、今述べたような趣旨が示されているということができると思います。
不幸さえも思索のエネルギーとして
私 が 西 田 を 本 当 に す ご い と 思 う の は、 そ の 思 索 の 粘 り 強 さ で す。 「 考 え る 」 と い う こ と に た い へ ん な 重 要 性 を 置 い て い る ん で す。 彼 は「 す ぐ 近 く に は 緑 あ ふ れ る 野 原 が あ る の に、 お 前 は 枯 れ 草 を 食 べ て い る と メ フ ィ ス ト フ ェ レ ス に 笑 わ れ
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る 」 と か、 ま た、 「 自 分 は 思 索 す る よ う に 罰 せ ら れ て い る 」 と い う よ う な こ と を 言 っ て い ま す。 納 得 す る ま で 考 え 続 け る というスタイルです。
私もちょっとそういうところがありますが、西田は徹底的にこだわります。ですから、一つのことを何回も何十回も考 えて、次へ少し進みます。それが、たくさんの論文になるのです。これを生産的というのか、遅疑逡巡というのかわかり ません。西田はいいにしても、それに付き合わされるこちらは、たまったものではありません。西田は、いろいろおいし いものをつまみ食いしていただくというような、いい加減なことはしません。いろいろ本を読むのも、全部自分の考えを 磨くためなんです。西田が、その哲学の骨格にしているのは、自分自身の思索です。自分の論理(考え方)を最重要に考 える。これが西田の哲学スタイルです。彼の遺稿となった最後の原稿にも「私の論理について」という題がつけられてい ました。
もう一つ西田の強靭な思索ということであげますと、彼は家庭的な不幸が多くつづき、通常、そういうことが続けば学 問 ど こ ろ で は な い と 思 う の で す が、 む し ろ そ の 不 幸 さ え も 学 問 の 力 に し て し ま う よ う な と こ ろ が あ り ま す。 親 と の 確 執 ( 妻 の 離 縁・ 復 縁 )、 子 供 の 死 去( 八 人 の う ち 五 人 )、 妻 の 死 な ど な ど、 よ く こ ん な 家 族 内 の 嵐 の 中 で 学 問 が で き る と 驚 く ほどです。その悲惨な状況、彼のつらさは書簡などによってよくわかります。そのつらさを歌にも詠んでいます。西田は 「哲学の動機は悲哀にある」という有名な言葉を残しました。
ちょうど、故郷に帰れない流浪するダンテが神曲を書きつづったようなものかもしれません。あるいは可愛い妹を失っ た宮沢賢治が詩や童話を書き綴ったのも、そうした悲哀をむしろ創作のエネルギーに変えた例だといってもよいかと思い ます。悲しみは深い思索を呼ばざるを得ない、思索は深い癒しの効果もあることも確かです。文学のほうでは普通なのか もしれませんが、哲学については従来あまりこうした面は注目されていません。哲学は喜怒哀楽を離れているから哲学だ と思われているふしさえあります。しかし、哲学者はよく調べてみるとどこかに悲哀を抱いているように思います。こう
した面から哲学の歴史を見ていくのも、新しい観点になるでしょう。
カントについて
つぎに、カントについて少しだけ触れたいと思います。
私としては、はじめはカントを「形式主義者だ」といって批判しているヘーゲルに同調していたのですが、そのうちカ ン ト の 形 式 主 義 っ て い っ た い な ん だ ろ う と 思 う よ う に な り ま し た。 そ し て じ つ は カ ン ト の 形 式 主 義 が き わ め て 戦 闘 的 な ヒューマニズムに満ちているということを知るようになりました。ヒューマニズム、人間主義というのは、人間の立場を 守ろうとする戦いです。
カントといえば、律儀な型にはまったような地味な生き方をした人で、そうした意味での尊敬はするものの、自分はそ うはなりたくない、できないなという思いが私にはありました。しかし、彼が四十歳の頃といわれますが、ルソーという、 当時の型破りな自由人の書いたものに魅かれたのは、やはりカント自身に人間の自由を求める強い動機があったからなの でしょう。ただ、ルソーと違って彼は軽はずみではなかった。生活を乱すようなことはしなかった。日々の食事さえも、 自分でメニューを考え、スパイスなどは自分で調理したといいます。また、一日で食事といえるものは昼だけという、い かに健康管理、生活管理に気をつかっていたかがわかります。
もともと体が弱い人が哲学者には多いようです。カントもその例に漏れなかった。それだからこそ、食事、健康に気を つ か っ た。 『 啓 蒙 と は 何 か(
Was ist Aufklärung?)』 と い う 本 の 中 で、 自 分 の 健 康 に 関 し て 医 者 に 頼 っ て は い け な い、 な ぜ なら健康の問題は自分自身の問題だからといっています。……カントは自分を大切にした人です。そして長生きしました。 『純粋理性批判』 (一七八一)を出したのは、カントがもうすぐ六十歳というときですし、それから次々に重要な本をたく
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さん出していきます。八十歳でなくなるまでの二十年間は学問的にいってたいへんな実りの時となります。人類の歴史に 貢献したといっても過言ではないと思います。
もちろん、そうした自分を大切にするというカントの姿勢の背後には、自分の仕事に対する大きな希望というか、ある い は 自 負 と い い ま す か、 生 甲 斐 を 感 じ て い た こ と は 間 違 い あ り ま せ ん。 時 代 の 突 端 で 考 え る。 ケ ー ニ ヒ ス ベ ル ク と い う ヨーロッパの文化の中央からは遠く離れた場所で、地味に生活しながら、世界の最先端の仕事をしたといっていいですね。 カントは「自然地理学」などの本を見ると、いわば世界中の細かなこともよく知っていた。日本のこともいろいろ書いて います( 『カント全集』第十八巻、岩波書店を参照) 。また、若い頃は天文学にも強い関心をもっていましたから、そうし たいわば、宇宙的視野を本来もっていた人です。したいことがいっぱいあったのです。ですから結婚もしなかった。この ことはよかったかそうでないか私にはわかりませんが。とにかく、自分のすべきことに使命感をもって全力で取り組んだ といえます。
カ ン ト の 倫 理 学 は と く に 義 務 倫 理 学 だ と い わ れ る こ と が あ り ま す。 彼 の 倫 理 学 の 中 心 概 念 で あ る、 「 何 々 す べ き (
sollen)」 と い う こ と で す が、 い わ ゆ る 外 部 に あ る 権 威 や 権 力 の 命 令 と い う こ と で は な く、 人 間 自 身 の 理 性 の 命 令 と い い ますが、それは人間としてどこまでも自信をもっていけという、自分に対する激励のような意義が含まれています。 「汝なすべきがゆえになしあたう(
Du kannst, denn du sollst.)」 (実践理性批判)という言葉、ちょっと古い言い方です が、今の表現で簡単にいうと「すべきことはできる」というメッセージです。通常は「できることをすべき」というので すが、これをカントはひっくり返していうんですね。これはけっして人にプレッシャーをかけるということではなく、人 間の自由を最大限に認めるという立場です。すべきという自律的判断、この自由こそ死守すべきであるという強い主張で す。 一 つ の 戦 闘 的 な 人 間 主 義 と い っ て よ い 主 張 が こ こ に あ る よ う に 思 い ま す。 「 す べ き だ か ら で き る 」 と い う メ ッ セ ー ジ は、なにか勇気を与える言葉ですね。
カント晩年の闘い 私がとくに面白いと思うのは、彼の宗教論(一七九三)です。歯に衣を着せることなく、もうそれはずけずけと遠慮な く、当時の教会や聖職者のあり方を批判しています。それは人間を越えた何か見知らぬものに根拠をもった権威や権力を 認めないというカントの姿勢です。また、そうしたものへの批判を自由に行ってよいとする彼の主張です。カントは宗教 も「人間のための宗教であるべき」という姿勢を貫きました。ですから、当然ですが、当時の権力者は自分たちの体制を 揺るがしかねないという恐れを抱いたのでしょう。カントの発言に黙っていられなくなります。さきのやや寛大な王がな くなり新しい王が立ってから検閲が強まります。
その結果、以後カント教授は宗教に関する発言をしないように、また大学でもカントの宗教論を講義しないようにとい う王からの命令がきます。現代では思想、良心の自由を認めないということで騒ぐこともありますが、まあ、こういうこ とはこの頃の時代まではよくあったことだと思います。
しかし、ここがカントの偉いところで、私もそれを思えば思うほど感嘆の念を抱かざるを得ないものなのですが、彼は 王の命令に従いながらも、哲学の役割そして思想良心の自由を最後まで主張し抜きます。彼の生前最後の著作として『諸 学 部 の 争 い(
Der Streit der Facultäten)』 と い う 書 が あ り ま す。 こ の 書 は 哲 学 部 の 検 閲 を 経 て 一 七 九 八 年 に 出 ま す。 と り わ け、そこで論じられているのは、哲学部と神学部との争いについてです。
当 時 は、 中 世 的 な 学 問 の 考 え が ま だ 生 き て い た( 現 代 で も な く な っ た と は い え な い よ う で す )。 上 級 学 部 と し て、 神 学 部、法学部、医学部があります。これらは、なぜ上級かといえば、国民の幸福を扱う学問だからというのです。医学部は もちろん長寿と健康という幸せを、法学部は社会の成員としての福祉・幸せを、そして神学部は魂の救済という死後の幸 せを、それぞれつかさどっている学問だから上級だというのです。それに対して、哲学部は下級の学部とされます。哲学
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