行
真幸 芋宴
毒歌
聖芳の 毒世
の完界
能 埼
で の
欺
か ら
I
と 左 な て 行 ○
天河河軍十手吉富聖三吉護 干
轍妻彊.塞
磨 岡
義 隆
歪笑壷誓書華岸裏堅塁禦至芸
慧…香華萱墓萱毒壷雲葦萱墓室聖霊曇
行幸宴歌の世界‑天平十二年聖武行幸時の四泥能埼での歌から‑
○キーワード=常住・今寮・お‑る・さき‑・丹比家主・鵠尊焦せ義
一、はじめに
私はこれまで、天平十二年(七四〇)における聖武天皇の関東
行幸に関わる一連の黄葉歌
(6
・一〇二 九
〜一〇三六番歌)について'考察して来た(注1)。この歌群の中で、取り上げることの
なかった「四泥能埼」での歌l首
(6
二〇三ことその題詞・左注を考察することによって、歌群全体を私なりに把握しよう
とするものである。
まず最初に'該当の歌群八首をここに掲げる。
十二年庚辰冬十月依大事少式藤原朝臣虞嗣謀反費
軍事干伊勢園之時
河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首
河口之野連林産而夜乃歴者妹之手本師所念鴨
(6
二〇二 九 )
天皇御製歌t首 贋岡義隆
妹ホ懇書乃松原見渡者潮干乃油布多頭鳴渡
(6
二〇三〇)右l首今案吾松原在三重郡相去河口行宮達夫若疑御在朝明行宮之時所製御歌停者誤之欺
丹比屋主真人歌7首
後ホ之人乎恩久四泥能埼木綿取之泥而好住跡其念(6・7〇三こ
右案此歌者不有此行之作乎所以然言勅大夫従河
口行宮還京勿令従駕鳶何有詠思泥埼作歌哉
狭凄行宮大伴宿祢家持作歌二首
天皇之行幸之随吾妹子之手枕不巻月曽歴去家留
(
6・一〇三 二 )
御食園志麻乃海部有之真熊野之小船木乗而奥部椿所見
(
6二〇三三 )
美濃園多重行宮大伴宿祢東人作歌一首
従古人之言来流老人之襲若云水曽名ホ負瀧之瀬(6二〇三四)
大伴宿祢家持作歌一首
題歌 が 段初 い の
毒筆歪萱警雲量毒誓書要望軍費裏芸雲華…霊
加聖賢琵克好清吉冒翌 夏撃r r の集 お件て か」 が 住 住 分 写句 い の
ぢ与重要華甲蔓芸#n7二 o王
墓要望墓莞雲蓋艶
説」往が か」 るも 高棄 てし好婿好帰 任住往往 サ サ サ ゆ
キ キ キ か ク ク ク ん 和 中
歌酉定鴻寓童 大全本巣菓蒙 系訳・全集抄
・注・全釈 古・
妻妾葦葦藁
軍套藁
ら 口 住 確 語」 こ か で の れ な あ 信 に も る 頼 つ
の と 度 い
で い が て あ う 高 は
ヽ
享‑‑=i ‑̲i‑̲=妻
雪空豊壷 套慧蜜嘉
≡‑i‑≡妻
「そ か の 好
田跡河之瀧乎清美香従古宮仕兼多重乃野之上布
(
6二〇三 五 )
不破行宮大伴宿祢家持作歌一首
関無者達ホ谷藻打行而妹之手枕巻手宿益乎
(6
二〇三 六 )
この一連の歌群の中において'6二〇三〇〜一〇三一番歌
の二首が後補であるという指摘があり、筆者もこの結論を正し
いと理解するものである(注
2 )
。即ち'家持歌を中心とする原初歌群「6二〇二九/一〇三二‑1〇三六番歌」に'何時の
段階かで「1〇三〇〜一〇t三番歌の二首」が増補されたもの
が現行歌群であり'今回姐上に載せる一〇三1番歌は後補の倭
歌である。この増補については当稿の「四、「今案」「案」の問
題について」において考察する。
二、本文認定について
まず'該当黄葉歌の本文とその訓みを認定しよう。
丹比屋主真人歌7首
後ホ之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而好住跡其念(6二〇三一)
右案此歌者不有此行之作乎所以然言動大夫従河
口行宮還京勿令従駕蔦何有詠思泥埼作歌哉
この一首については、その本文認定・訓に関して、問題点二
件 (以 下 の
a・b )
が存している。これらについて'まず確定しておきたい。二at第五句本文の「好住」について
第五句の「好住跡其念」における「好住」については'﹃高菜
集﹄古写本において'「帰任」とするものと'「好住」とするものとに分かれる。以下の通りである。
帰任封・司・剰・対・剥・図・脚・親
好住元t・虞・飼・倒・姻・剰(注
3 )
これが﹃高菜集﹄の注釈書レベルになると'「帰任」「牌往」「好住」「好往」の四通りの解に分かれることになる。癌」か「好」かという違いに加えて'「住」か「往」かという誤字説が
加わっている.その具体的な様相は次の通りであるO
牌往ゆかん童蒙抄・金子評釈
好往サキク高菜集古義毒性)・窪田評釈・佐佐木評釈帰任サキク鴻巣全釈
好住サキク定本・全註釈・私注・大系・注釈・全集・
中西全訳注・全注・新編全集・釈注・新大系・
和歌大系・全歌講義
これについては、古写本系統から次点本系統の本文である「好
住」の信頼度が高いことに加え'用語「好住」に関して唐代の
口語であるという指摘があり'本文r好住」は'この両側面か
ら確かなものであると見てよいo即ち'本文はr好住」で'そ
即 巌 文 こ 森の
悪書盲奮蔽墓斬
壷慧三篇粉者 ‑蓋誓書
乎乱作懸 ‑負 ー 巨Ft禦
七 未
昇 宗吾苧
る で 訓 と
空 は ま い
i…蔓草占占去芝書芸喜慧霊宝蓑蓋蓋;至芸
雲量雲量喜萎享…至芸都日美雪と
全き蔓墓萱注霊宗掛芸雪雲蓋蓋真筆董
3
の訓はrサキク」となる(注
4 )
Qしかしながら'例えば鶴久氏・森山隆氏編﹃黄葉集﹄(注
5 )
が「好往」の本文を取っているところから'私自身において
、
これまで無批判にも「好往」の本文にしてしまっていた(注6)O
二b、第二句「恩久」第五句「念」の訓について
この第二句「思久」及び第五句「念」の訓については'吉井
巌氏の﹃高菜集全注﹄が指摘していることにつきる(注
7 )
。思はくオモフ(四段)のク語法。オモハク「‑‑」トオ
モフの形の表現で、「‑‑」の中にオモフ内容を述べている。
シノハクとよむ童蒙抄以下の説が多いが'直接引用文の前
後をオモフの同語で訓んだ旧訓が1般的であるO
即ち'
・八隅知之吾大王乃高敷為日本固着‑‑物負之八
十伴緒乃打経而郎郎瓢都「天地乃依合限希世丹とおもへりし柴将牲」適由布大宮尚美侍有之名良乃京臭‑・
(6
二〇四 七
'田辺
福麻
呂「悲
寧柴
故郷作歌 一
首」 )
・従古都郡郵即「懸為者不安物」卦玉緒之郷朴郡いへど瑚詞虞女等之心乎胡粉其将知因之無者夏麻引
命方貯借薦之心文小竹荷人不知本名曽懸流束
之緒丹四天(13二二二五五'作者未詳)つぐちく・里人之吾丹倒剰r汝懸愛妻者黄葉之散乱有神
名火之此山連柄烏玉之黒馬ホ乗而河瀬乎七渦 渡而裏牌而妻
者
骨」卦人曽部緋(13二二三〇三、作者未詳)・大王乃等保能美可度曽‑‑己比能美皇安我麻都等富
木乎登善良我伊米ホ芽「奈我古敷流曽能保
追多加波麻追大要乃波麻由伎具良之都奈之等流
比美乃江過皇多古能之麻等批多毛登保里安之我母
乃須太久膏江ホ乎等都日毛伎能敷母安里追知加
久安良婆伊麻布都可太未等保久安良婆奈奴可乃乎
知波須疑米也母伎奈牟和我勢故祢毛許呂ホ奈孤
悲曽余」執酢伊麻布鮎鄭軌跡(
1
7・ 四
〇二'大 伴 家持 「思 放 逸 鷹夢 見 感悦 作 歌 一 首」 )
.宇知比左須美也古乃比等布称獣弥波「美之比乃共
等久安里」款卦己曽(S・四四七三・山背王)
といった首尾照応(注
8 )
する引用の訓汝によって、従来t般に訓まれていた次の事例
'
⁚‑・ひとをしのぱく‑‑おもふ童蒙抄・全註釈・‑⁚ヒトヲシヌハク‑‑モフ盲義‑‑ヒトヲシヌバク⁚‑・オモフ井上新考・全釈・総釈・金子評釈・窪田評釈・私注
‑⁝ひとをしのはく‑‑念ふ佐佐木評釈‑‑ひとをしのはく‑‑おもふ大系・全集・完訳・中西全訳注・新編全集・新大系・全歌講義
ではなくて(そういった訓法も許容事例としては認められるものではあ
るが)tより明確な「おもはく‑‑おもふ」の訓がより良いこと
3
と に な
警…葦筆墨・…警萱誓蓋墓室毒
み ゆ
>
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6
≡
し た ま ひ
ヽ
従 鷲
せ
令旨 る
ヽ■■
と 勿な
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○
何;二 に そ 思し 泥で
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埼…
を 詠よ
言右 ふ 、
所ゆ案 以▲ふ は る
、に
み ヽ
勅主此
至り牽
ヽ此
の
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の
作 に
有 ら ざ る か
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義をれ『書上ておの の真人で十わ歌 と あ に敬人用
、こ 間鹿で人家あ二 つ詠勿 り は称」字
、此 で を 丹
一留や家 く の の
秘雲雲量肇
雲雑書萱窒重量喜毒筆重量筆至
になる(この第五句は字余り法則に合致し、問題はない)。即ち'‑‑ひとをおもはく‑‑おもふ旧訓・注釈・全注・釈注・和歌大系
という江戸期以前の古訓と'比較的最近の訓みが良い。
以上により'該当歌は以下の本文と訓として確定できる。
丹比屋主真人歌7首
後ホ之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而好住跡其念(6二〇三一)
右案此歌者不有此行之作乎所以然言勅大夫従河
口行宮還京勿令従駕鳶何有詠思泥埼作歌哉
丹比屋主真人の歌、一首oおくひとおJLで+tJさゆふとさきくおも
後れにし人を思はく四泥の埼木綿取りLでて好住とそ念ふ
右、案ふるに、此の歌は'ゆ▲みことのり言ふ所以は'勅ありて、しむ (6二〇三二みゆきしか比の行の作に有らざるか。然よ大夫を河口行宮従り京に遠へな>カしてさきよしたまひ'従駕せ令ること勿し。何にそ恩泥の塙を詠み作れる歌、有らむや。
三、作者の問塩について
当該歌については、題詞が琴不するこの歌の作者と左往の指
摘している問題点とがある。即ち'題詞には「丹比屋主真人歌
一首」とあり'作者を多治比真人屋主であるとしている。その 用字「丹比」と「多治比」は交用される。題詞に見られる「真
人」姓を後に置くのは「先名復姓」(公式令68「授位任官」粂)の
敬称法であり'筆録者による敬意の表明である。ところが左往
には「此の歌は'此の行の作に有らざるか.然言ふ所以は'勅
ありて'大夫を河口行宮従り京に遠へしたまひ'従駕せ令るこ
と勿し。何にそ思泥の稀を詠み作れる歌、有らむや」とあって'
歌詠は天平十二年の行幸時ではないとしている。このことに関
わって'当該歌の作者は丹比真人雪であり'やはりこの天平
十二年の行幸時の歌であるとしたのは'土佐国の学者鹿持雅澄
であったO即ち'丹比真人国司と呼称のよく似た人物に丹比真
人家主がおり、この二人は別人である。﹃高菜集﹄の題詞が丹比
真人屋主としているのは'丹比真人家主の誤写であるとするものであるo
鹿持雅澄の所説は後で詳しく見るとして'研究史においてこ
の間題がどのように扱われているかについて'まずは整理して
おこう。古く﹃高菜代匠記﹄は'「書家主或屋主」(初稿本)とし
て'屋主と家主を同7人と見ているO﹃高菜集古義﹄の後は'井
上﹃新考﹄や金子﹃評釈﹄が古義説を踏襲するが'多くの注釈
書は判断保留に近く、この間題を避けている。そうした中で'
﹃私注﹄は一案として「屋主'家主の混同もあつたとも考へら
れる」とLt﹃注釈﹄は「屋主の別時の作と見るよりも家主の作
を誤り侍へたと見るべではなからうか」とする。これらは﹃古
義﹄説に近い考えであるが'﹃古義﹄が誤写とするのに対して'