(1)
鬼板屋を訪れては、そして、また別の鬼板 屋を訪れてはと繰り返しながら 「鬼師の世界」
をできる限り現場に忠実に、自らの経験をも とに記述を通して描いてきている。平成10年
(1998)6月7日が実質的なフィールドワーク の始まりなので、現在 (平成26年) から振り 返るとかなりの年月が経過している。今回は これまで気づきながらも意図的に記述しな かった鬼師の世界を描いてみたい。鬼板屋に は親方ないし社長と、職人ないし従業員がい る。しかし、職人のことを「鬼師の世界」に 組み込むと大変な作業になるので、基本的に は親方を中心にした鬼師の世界を構築してき た。この親方を中心においた鬼師の世界が核 になることは明らかなのであるが、ここでは 職人(身分が従業員)の世界に光を当てて別 の角度から鬼師の世界を見てみたい。
(株)石英は現在手作りができる専門の鬼師 を職人として二人抱えている。岩月光男、岩 月 実
みのるの親子二代にわたる鬼瓦の手作り職人 である。石英では手作り鬼瓦に関してはカネ コ鬼瓦で修業を終えた四代目石川智昭の時代 に入りつつあり、これに職人の岩月親子を加 えると手作り鬼に関しては十分に需要に対処 できる体制が整えられている。石英の手作り 鬼は二代目石川英雄に始まる。この英雄が昭 和の初め頃(1926 年)、当時、神谷春義が親 方をしていた鬼板屋の鬼源へ小僧として入っ たことが現在の鬼板屋石英に至る直接の発端
である。しかし、石英は三代目石川定次の時 に手作り鬼瓦の伝統が一時途絶える。ところ が定次の姉、頼代が鬼源直系の鬼板屋「鬼長」
に嫁ぎ、さらに嫁ぎ先から三代目鬼長浅井邦 彦の妹、歳子が定次のもとへ逆に嫁いでくる ことにより、鬼長と強い姻戚関係が発生する。
このような伝統と人間関係の交わりの結果、
石英は「鬼師の世界」における位置は鬼源系 列に入ることになる。
岩月光男
現在、(株)石英で手作りの鬼板師として働 いている岩月光男(83歳)は伝説の人であっ た。鬼師の世界を長く調べてきて、いろいろ な鬼板屋で、いろいろな親方や職人から「凄 腕の達人」として噂を耳にしながらなかなか 会う機会が無かった人物である。理由は光男 が職人であるからであった。実際に光男は過 去、鬼仙、鬼作、鬼長と三つの鬼板屋を転々 としている。正確には鬼仙、鬼作、鬼仙、鬼 長、そして現在の働き口である石英と合計五 つ鬼板屋を変えている。今回、石英を訪れた 際にやっと会うことができた。どんな人かと 工場の扉を開けたとき、現れたのは小柄な優 しく静かなたたずまいの人であった。工場内 は塵がなく、無駄がなく、きれいに整った空 気に包まれていた。入った時、戸口に置いて あった板を踏んで、ガタンと大きな音を立て
鬼師の世界
―― 白地:(株)石英(2) ――
高 原 隆
鬼師の世界
(2)
て仕事場の雰囲気を壊したのは私の方であっ た。その時、光男と実は黙々と仕事に取り組 んでいた。二人だけが仕事をする平屋の手作 り鬼瓦工場であった。
岩月光男は昭和6年 (1931) 10月24日に高 浜にあった鬼仙という鬼板屋に生まれている。
この鬼仙に生を受けたことが光男が鬼板師に なった直接の原因である。鬼仙は岩月仙太郎
(1867–1943)が初代である。仙太郎は各地 を渡り歩く鬼瓦職人で、いわゆる晩
バン苦
ク者
モノとし て遠州を中心に働き、鬼板師の技術を身につ けている。元々は高浜で魚の引き売りをして いたが、鬼板師の仕事に興味を持ち、三州で は修業をせずに遠州へ出かけ旅職人をしなが ら鬼師としての技を鍛えたのである。この仙 太郎を頼ってきたのが甥の神谷春義であり、
後に高浜へ戻り「鬼源」を興した。春義より 数年遅れて仙太郎は高浜に戻り、「鬼仙」を大 正元年(1912)に興している。高浜での鬼板 屋としての始まりは鬼源と鬼仙は古さが前後 して鬼源の方が先になる。しかし、鬼瓦の流 儀の流れにおいて鬼源は春義が仙太郎の弟子 であることから岩月仙太郎系の中に入ること になる。(高原 2004–1、 2) 光男はこのよう に高浜で最も由緒ある鬼板屋の一つに生まれ たことになる。
光男の父は第二代鬼仙の岩月新太郎(1895–
1943) である。新太郎は女 6 人男 4 人の子供 をもうけている。光男は三男であった。とこ ろが光男が小学校 6 年の時に父、新太郎が亡 くなっている。三代目鬼仙を継いだのは長男 の悦二 (1922–1948) であった。ところが悦 二は新太郎が亡くなって 5 年後の昭和 23 年
(1948)にやはり病で亡くなっている。鬼仙 は伝統の後継者が次々と亡くなり、存亡の危 機に立たされる。悦二の後を継いだのが次男 の孝一 (昭和 2 年生まれ) であった。しかし、
四代目鬼仙、孝一は四男の岩月清によると、
昭和39年 (1964) に鬼仙を破綻させ、家を出 て行っている。(高原 2004–1) あとに残った
のは三男の光男と四男の清であった。当然の ことながら、これまでの鬼仙の流れから行く と、三男である光男が第五代鬼仙を継ぐはず であった。しかし清によると光男は「性格的 に商売をするのが嫌い」と言って断り、「鬼瓦 の修業をする」と言って叔父の杉浦作次郎が 親方をする鬼作へ職人として出て行ったので ある。この昭和39年事件が光男がこの年を境 に職人人生を歩む発端となった重要な節目に 当たる。本来なら五代目鬼仙として、親方と して生きるその瞬間に本家の鬼仙を自ら出た のであった。光男は文字通りの職人といえる。
「凄腕の達人」と言われる岩月光男に会って 聞きたかったことは、どのようにして鬼師と しての技を身につけていったのかということ であった。
親 (岩月新太郎) はねえ、 えーっと、 僕が……
自分が小学校 6 年生の時になくなっとるか らねえ。親に習ったってゆうわけではない。
それは(鬼師の技)……誰から習ったってゆ うあれはない。家自体……先祖から鬼はやっ とったもんだねえ。結局、習ったってわけ じゃあないけど、見とって、ほいでやったっ てわけだね。
実際に鬼瓦を作り始めたのは昭和 22、3 年 頃だという。光男が 16、7 歳頃である。鬼仙 の工場にいたのは兄の孝一 (20 歳頃) と光男 の二人であった。親方がいない兄弟二人の仕 事場だった。兄の孝一は鬼を作るのが上手かっ たのかとたずねてみた。
うーん。自分からいうとそんなに上手くな い。
光男がそうした環境でどうやって技術を身に
つけていったのか不思議だった。それに答え
るように光男は次のように話してくれた。
鬼師の世界 (3)
小さい時に、あ……まっと、あ……、小学 校の小さい時の、あ、職人さんとかねえ、
ええ、たくさんおった……いたもんだい。
見とるわけで。全然、その、作ることはで きないもんね。見とるだけで。……ぐらい のことだね。
実際に家の隣が鬼仙の工場で、小さい頃は工 場に行っては遊んでいたという。また、「小学 校の時でも粘土細工とか、あーゆうのが好き だったもんね」と言っている。さらに光男が 鬼瓦を作り始めたのは 16、7 歳頃のこととは いえ、一方で光男は小さい頃の記憶をたどり ながら次のように話すのであった。
まあ、 小学校6年ぐらいの時にも (鬼瓦作り を)やっとったことがあるもんねえ。親(新 太郎)が死んじゃって。お父さん……親が 死んで、まあ、その日は、あの、石膏型は 土を込むだけだもんだいね。そりゃあ、あ の、親が死んじゃったもんだね。その日は、
まんだ、せ、せ、戦争中だったで、まんだ、
鬼がちいとずつ売れとったもんでね。それ でも作るの……。まあ、職人さんたちはみ んな、まあ、戦争中で「鬼はいらん」って ゆって、やめちゃって……、いなくなった もんだい。ああ……、よくやったよ。6 年 ぐらいからやっとるでねえ、小学校。うん、
おらが、に、日曜日だとか、ああゆう時ぐ らいはね。やっとるって言わない。こう、
小
ちっちゃいもんならやれるもんね。やり始 めたってて、やっとったねえ。
確かに光男が言うように小さい頃から鬼仙と いう特殊な環境で鬼師の世界に育ったことは わかるが、戦争によって鬼仙から職人が離れ ていき、さらに鬼仙の親方である初代仙太郎
(昭和15年)、二代目新太郎(昭和18年)、三 代目悦二(昭和23年)と次々と亡くなってい る。鬼師になる環境は年を追うごとに悪く、
厳しくなっていった。それでも幸いなのは光 男は昭和 6 年生まれなので、これら亡くなっ た親方であり身内とそれぞれ長い短いはあれ 共に生きたことも事実である。そして鬼仙の 親方が亡くなってしまった時に、光男は本格 的に鬼師の世界へ入ったのである。
現在の光男が作る鬼瓦は鬼瓦作りにおいて 全くの素人の私から見ても、光男の鬼瓦は他 の鬼板屋で作られる鬼瓦とははっきりと異 なっている。流派ないし流儀が違うといえる。
つまり光男は鬼仙の流儀を明白に受け継いで いる。いったいどうして光男が親方のいない 鬼仙で鬼仙の流儀を身につけたのかに対する 光男の答えが光男本人から語られている。
鬼仙の技術はね、鬼作という人……親方
……大将が、あの、鬼仙からの出だもんね。
鬼仙の、あ、僕たちの叔母さんの旦那さん だもんね。鬼作とゆう人がね、そいだもん で、まあ、 鬼作さんってゆう人はねえ。あ の、まあ、若い頃はもと鬼仙で、まあ親類 関係だったんで、鬼仙で鬼を作っとって、
そいで、あの、瀬戸窯業ができた時に一期 生で、瀬戸窯業行かして、そいで、瀬戸で、
まあ、卒業して、また鬼仙に戻ってきて、
そいで独立して鬼作。そいで僕がここ10年、
そこでずーっと修業てや修業だけども、ま あ、結局、職人として働いとった。
つまり光男は戦争が終わり、鬼仙が鬼瓦を作 り始めた昭和 22、3 年頃から鬼仙でほぼ同時 に鬼瓦を作り始め、四代目孝一が鬼仙を破綻 させて出て行った昭和 39 年まで鬼仙にいた。
しかし、孝一のあと、五代目鬼仙になること
を断り、「鬼瓦の修業をする」と言い、叔父の
杉浦作次郎の元へ身を寄せたのである。この
作次郎が初代鬼作であり、光男の親方であっ
た。鬼作に職人としていた期間は10年で、昭
和 39 年から昭和 49 年までである。光男が 33
歳から43歳の間であり、光男が修業の時代と
鬼師の世界
(4)
呼ぶ期間である。この時に光男自身は鬼仙の 流儀を会得したと考えている。光男は次のよ うに答えている。
まあ……、結局、それは、まあ、仕事とか、
食う、生活とか、もう必死になってやらん といかんでねえ。
ところが、鬼作で誰が一番腕があったのかと 光男にたずねると、話しが濁るのである。
まあ、よう知らんけどねえ、鬼作さんとこ の腕があったって人はねえ。まあ、うん、
まあ、みんなおらんくてねえ。まあ、結局、
息子さんとかが、その人も、鬼やっとった でね。僕、鬼作行っとった時でも、結局、
ほの……石膏型というモノができて来て。
わかっていると思うけど、石膏型じゃなく て、本当に手で作る、手作りでやるのが鬼 だから。その時は、まあ、自分が任されとっ たからねえ。鬼作の時はね、その時は、ま あ、……。今でもほとんど石膏型でやるも んね。こーゆうもんとか、あーゆうもんで もね。手作りってゆうもんがあると、その 時は任されとったわね。
鬼作に石膏型を導入したのは親方の作次郎で あった。作次郎が修業時代に鬼仙から瀬戸窯 業に行った折に学んできた、当時、最新の技 術で窯業から鬼瓦の製作技術への移転であっ た。作次郎は石膏型の技術を窯業の世界から 鬼瓦の世界へ導入した一人といえる。(高原 2005) それ故、鬼作では石膏型が多用され ていった。結果、手作り職人の光男から見て 鬼作には腕のいい職人はいなかったことにな る。では鬼仙の技術を伝授したのは親方の作 次郎になるのかとたずねると、光男は次のよ うに語りはじめた。
んー、別に、そんなー、10 年やったって、
そんなに、まあ、強く教えてもらったって あれではなかったからねえ。
つまり、作次郎から教えてもらった覚えがな いと言っているのだ。実際に「覚えがない」
と光男は言うのである。ではどうして覚えた のかというと「見て覚えていった」のであっ た。ところがその見て覚えていく時に、何を、
誰を、見て覚えていったのであろうか。
まあ、誰をってゆうか……、まあ、作次郎 さんってゆう人の作ったもんを見るぐらい のもんでね。やり方とかそういうことは教 えてもらったことはないもんね。
光男は作次郎からは直接教えてもらうことは なく、作次郎が作ったものを見て、勘考しな がら作っていったのである。この事を確認す ると光男はうなずくのであった。
そう、そう、そう。まあね、みんなそうだっ たね。
「見て覚える」。これが職人が鬼板屋で技術を 身につける基本的な手段であった。その木が よい木かどうかを見分けるには、その木がつ ける実をもって判断しろと言うが、光男をそ の木の実とすると、もとの木である作次郎は 鬼仙からその流儀を忠実に受け継いでいた鬼 板師であったといえる。鬼仙の流儀は岩月仙 太郎から杉浦作次郎(もと鬼仙の職人)へ、
そして杉浦作次郎から岩月光男(もと鬼作の 職人)へ受け継がれていったのである。
光男は並の職人ではなかった。まず、本来、
親方、それも高浜で最も由緒ある鬼板屋にな るはずの人が、親方になることを自ら降りて、
職人として生きる道を選んだ人である。さら
にその地位を降りる動機が今日の光男を強力
に後押ししている。
鬼師の世界 (5)
結局ねえ、あの、自分は、もう、あー、作 る……、あれが (鬼瓦) 好きだった。好き だったもんだい。ただ、自分は作った方が いいもんだい。(第1図参照)
さらに光男を鬼瓦を作る職人の道へ走らせた ものがある。それは鬼仙の存続そのものに対 する危機感である。ただ光男の意味する鬼仙 は鬼板屋としての鬼仙というよりも、鬼仙が 持つ鬼瓦作りの流儀であった。事実、鬼板屋 の経営には光男は全く興味を示していない。
バタバタバタって逝
いったもんだい、まあ、
「何とかしなくちゃいかん」と。それだけ だったけんね。「ン、何とかして鬼仙を継い で行かにゃいけん」っていう……。
鬼作で10年職人として働いた光男は、昭和 49年に鬼作を出て、再び鬼仙へ戻ってきてい る。その理由として鬼作が光男がいた10年の 間に石膏型による型起こしのみならず、機械 による金型でプレスによって鬼瓦の大量生産 を始めたことを光男はあげている。
あの、機械、機械で、金型でプレスしてや るようになっちゃったわけ。大量生産になっ て。鬼作おった時、みんななってきたもん。
まあ、「プレスや型起こしや、そんなんじゃ つまらん」と思って……。迷っとった時、
鬼仙、……また手作りとか、あーゆうのん があるようになったもんで、こっちの技術 を持って、そちらへ、……もどった。
もどってきた鬼仙では五代目鬼仙として、四 男の岩月清が親方として経営していた。光男 は鬼仙で手作りの職人として平成10年(1998)
6月まで働いている。鬼仙では清の二人の息子 に影響を与えている。兄の岩月秀之と弟の岩月 貴である。秀之が鬼仙に入ったのは平成5年
(1995)で、貴が鬼仙に入った年は、貴が18 歳(平成元年)であった。二人は暫く窯の手伝 いや配達をしながら、やがて鬼瓦を作り始めた のである。光男は平成10年6月に鬼仙を出る ことになったが、その間兄弟は見よう見まねで 鬼仙の流儀を光男から学んでいる。( 高 原 2004–2)光男は鬼仙を再度出た理由を語って はいない。しかし光男が鬼仙を出て同じ岩月
第 1 図 鬼面を製作中の岩月光男
鬼師の世界
(6)
仙太郎系列の鬼長に移ってほぼ一年後の平成 11年9月6日に鬼仙は自己破産している。
光男は鬼仙から鬼長の本宅がある二池町の 近くの仕事場に移った。現在は春日英紀が鬼
おに英
ひでの看板を上げて鬼板屋をしている。しかし、
光男が移った先の鬼長はやがて経営の中心を 内部の事情とはいえ、鬼瓦から平板瓦の生産 に移し始め、最終的には手作りの鬼瓦から撤 退したのである。光男は鬼長が経営方針を転 換した煽
あおりを受けて、平成 17 年 4 月 30 日に 鬼長を退社している。ただ鬼長は光男を無
む碍
げに解雇したわけではなかった。鬼長はいろい ろな意味でつながりを持つ石英へ話しを持っ て行って、光男を陰ながら面倒見ている。そ の結果、平成 17 年 5 月 10 日に光男は鬼長か ら石英へと移り、現在に至るのである。石英 の現社長である石川定次はその時のいきさつ を次のように語っている。(第2図参照)
「今月いっぱいで」とか……、とか……、
言ってたもんですから、……社長 (鬼長)
が……。「ほいじゃ、うちがもらうわ」っ てって……。
インタビューに同席していた定次の妻の歳子
はもともと鬼長の出の人である。このあとす ぐに話しを受けて次のように続けた。
あそこは (鬼長) ……、鬼をやってたんで すけど、……だんだん瓦 (平板瓦) に力を 入れてみえて、……でだんだんとね。うん、
……手作りの人は……いらなく……。
歳子の話をすぐに継ぎながら、定次は光男を 即決で受け入れたことを教えてくれた。
……で、……ちょっと……そういう話しが 向こう(鬼長)からあったもんで、……「ほ いじゃ……、うちが即もらいます」って、
……。うん、……何のためらいもなく……。
このようにして、鬼仙に生まれて育ち、鬼 板師となり、社会の表にはほとんど出ること のない職人ではあるが、その業界内では密か に名前が知れ渡っている人物が岩月光男であ る。平成25年11月14日、光男は82歳であっ た。その時に話してくれた鬼瓦作りに関する 光男の話を記録としてここに紹介する。
高原: 天性のものがあるのではと思うんで
第 2 図 無量寿寺本殿大棟足のミニチュア版を製作中の岩月光男
鬼師の世界 (7)
すけど。
光男: うーん……。数作ればできるじゃな いかねえ。
高原: いいものを見るように努力したとか、
そういったことはないですか。
光男: ないねえ。
高原: 鬼瓦を作るとはどういうことですか。
光男: ん……、わからん。……、簡単にい やあ、生活のためだけに……。
高原: なんか、こう、ある思いを込めて作 るとか、そんなんはないですか。
光男: ないねえ。あんまりそういう気持ち はないねえ。
高原: 作るのはおもしろいですか。
光男: おもしろくない。なかなか思うよう にできない。
うーん。結局ねえ、これ、焼きもんだもん ね、作る技術だけじゃあ、だめだと思うん ですけどねえ。まあ、あの、最終的には、
あ の、 窯 だ も ん ね。 焼 き 上 げ だ も ん ね。
……焼き物はねえ。焼き物はねえ、だいた
い一番、焼き物は土、技術、窯焼きね。ほ いだでね、焼きが一番大事だでねえ。いく らきれいにでかしとったってねえ、こんな とこなんか傷ができとる。土が悪いともう 傷も出るし。あのね、技術はね、一番あと。
焼きもんはそう。特にあーゆう茶碗とか、
あーゆうのが、焼きもんでも、えがんだり、
傷が出ても、色がよけりゃあ、「いい」って ゆう、……なっとるけん。これも実際の使 う屋根載せて、傷が出たため長く持たん。
一番あれは、あの、窯で焼くのは一番難し い。技術はあと。
粘土もいかんけんね。粘土も大事ね。実際 に自分でも、でかしても、最後に傷が出る 時がある。乾いてくる時にねえ。空気だけ ど。急に冷えたりなんかすると、ピシーッ と切れちゃう。一晩でね。うん、だから難 しい。だいたい土の多いとこと少ないとこ があるもんねえ。どうしても引っ張られちゃ う。(第3図参照)
第 3 図 無量寿寺本殿大棟本鬼面のミニチュア (1 尺)
岩月光男作 平成 26
鬼師の世界
(8)
岩月実
岩月光男にはすでに後継者がいる。光男の 息子の実
みのるである。昭和 44 年 3 月 6 日に高浜で 生まれている。小さい頃から父、光男の仕事 のことははっきり知っており、土にも触った こともあるという。しかし、実が子供ないし 少年時代を過ごした頃は光男が鬼作(昭和39 年~昭和 49 年)そして鬼仙(昭和 49 年~平 成10年)で、職人として働いていた。もし光 男が昭和39年に鬼作へ行かずに五代目鬼仙と して親方になっていれば、実の環境はかなり 変わったと思うが、光男が職人だったことで、
実は土に親しみながらも、鬼師の道へそのま ま進むことはなかった。
バブルの頃なんで、あの……25年前。専門 学校行って。あの頃、花形でねえ。就職も すごい楽にできて、大卒でなくても、やっ ぱりそういう専門学校入っとれば、そうい う……まあ、ところへ入れるんで。資格と かあれば。
社会に出て、実は富士通のディーラーの SE
(Systems Engineer)をしていた。ところが 現実は実が思っていた世界ではなかったので ある。「入ったんですけど、まあ、あんまりお もしろくない」と言っている。結果、実はそ の仕事をやめて改めて鬼師の世界へ入ったの である。平成 7 年(1995)、実が 26 歳の出来 事であった。その時の動機について実は少し 話してくれた。
まあ、親父がやっとるもんでって……、感 じですかねえ。まあ、あと、作ったもんが 残るんで。……ってゆう感じで作ってみた いなあと思って。
父、光男からは特に何かの声かけはなく、あ くまで実本人の決断であった。しかし、SEか
ら鬼師への切り替えは人生の大きな出来事で ある。それはいかに光男の後ろ姿の影響が強 かったかを物語っている。誰にでもできる切 り替えではないからである。
実が鬼師の世界の扉を叩いたのは26歳の時 であった。父、光男が16歳で鬼瓦を始めたの と比べると年齢的には鬼師を始めるにはやや 遅いといえよう。年齢に関しては大きなハン ディキャップを負っているといえるが、実は 他の多くの鬼瓦の初心者とは異なる遙かに有 利な条件を持っていた。「凄腕の達人」と同じ 業種の人たちの間で密かに噂される鬼師であ る光男に直接ついて修業できたことである。
その上、実は光男とは赤の他人ではなく、光 男本人の実子なのである。通常は、鬼師に鬼 板屋の子供以外の者がなろうとする場合は、
本人が直接腕のいい鬼師を選ぶことはできず、
単に鬼板屋を選ばざるをえない。それさえも 希望通り行くかどうかわからない。たとえ入 れたとしても、すぐには本来の仕事をさせて もらえず、しばらくの間は雑用に回される可 能性がある。ところが実の場合は光男が鬼仙 にその当時いたこともあって、すぐに光男の もとで修業を始めることができたのであった。
まあ、僕 (実) は、 あの、 最初は、 まあ、 誰 もですけどできないんで。まあ、簡単なも んをちょっと作るぐらいですね。できない んで、最初は。簡単な仕事を分けてもらっ て、お、鬼仙におる時はそれを (光男の)
後ろでやっとったぐらいですね。
つまり、実は光男と同じ仕事場で光男の後ろ に陣取り、二人で仕事を始めたのである。光 男は自分の仕事をやりながら、実には実がで きる仕事を渡し、実の実力の伸びと仕事の進 捗状況を見ながら適切な仕事をその都度与え ていたのである。
では実は素人の状態からどういうふうに鬼
師になっていったのであろうか。光男の場合
鬼師の世界 (9)
は作次郎という親方はいたが、ほぼ独学で鬼 瓦の修業をしている。実の場合、目の前に最 高の鬼瓦の職人がいて、しかもその人は自分 の父親なのである。
「どういうふうに習う」っていうふうに聞か れても……。習った覚えがないですからね。
もう見るだけなんで。できとるのを見て、
まねして作るぐらい。(光男が)作っとると こも見るんですけど、見とってもできん。
できん。やれないじゃないですか。やっぱ り素人なんで。だもんで、できたやつを見 て、見よう見まねでやるしかない。
光男からの教えはほとんどないのである。もっ ぱら自らが勘考しながら作っていくのである。
できんもんで、でき……、あれですねえ、
できんもんはできんもんで……。うん、上 手いことできんもんで、できるようにやる しかない。(笑い)どう説明……どう説明し ていいのか、ちょっとわからんけどね。そ うですねえ、まあ、知らんどる……知らん どる間に、まあ、できるようになるって言
うか……。
実にいつ頃からやれるようになったのか、ま たそういった感覚がいつ生まれたのかと聞い てみた。
あれはねえ、わからんですねえ。いつも毎 日、だってねえ、こういう仕事をやっとる もんで。いつ頃からって聞かれても知らん どる間にできる……、できるようになった。
それも、うーん……、どうなのかな。よく 見学に来る人とかにねえ、観光バスが時々 来るんですよ。なんか、工務店の人が連れ てきたり、屋根、屋根屋さんと一緒に来る んですけど……。で、聞かれるんですけど、
うん、そんな、答えられんもんねえ。「いつ 頃できるようになった」とか、「何年かかっ た」とか言われても、……知らんどる間に できるようになっとるでえ……。何日も同 じ事やっとりゃ。(光男からの指示は)ない よねえ。だって、あの、図面とか来たらそ の通りに作りゃいいんで。「こうした方がい い」とかあんまり……。(第 4 図参照) 「こ んな感じかなあ」ぐらいは聞くぐらいで。
第 4 図 沢渡町石英の手作り鬼瓦工場にて:岩月実(中央)と岩月光男(右手奥)
鬼師の世界
(10)
そうですねえ、作り方が有ってないような もんなんで。こういう手作りもんは毎回違 うもんを作るもんで、だもんで、ど、どう ゆうふうにとかは考えんで、まあ、その、
行き、……行き当たりばったりで作るもん で。だもんで、いろんなもん作っとるもん で、「追加で、3 年ぐらい前に作ったやつを 作ってくれ」って言われても、もう覚えて ないんで……。どうやって作ったかも忘れ ちゃっとるし、こんな時期、仕事はこうい う仕事なんですけど、作ってるもんが全然 違うもんで。うん、できるんですけど、毎 回作るもんが違うもんで。
本人も気づかないうちに、毎日ただ作り続け ているうちに、いつの間にかできるように なっていることが実の話から見えてくる。し かもいつもいつも同じものを作るわけではな いので、逆に「毎回作るものが違うもんで」
なかなかはっきりといつできるようになった かわかりづらいといえる。作る技術はその都 度の勘考になり、その積み重ねから生まれる 総合的な技術ともいえる。しかも毎回違うと いうことは技術に終わりはないことになる。
そういった中で何が作る時に一番大切なもの なのかと実にたずねてみた。
乾燥。やはり、あの、乾燥ですね。作るの は作れるんですよ。で、作ってから窯に入 れるまでに切れちゃったら、もうそこで切 れたままですね。で、窯から出しても切れ てるんで。で、結局は、あの、納期とか有 るんで、それを直して出したりしないとい かんもんで、結局またきれいには直すんで すけど、見てもわからん程度に。ん……、
直すんですけど、だけど結局、切れちゃっ とるもんで作る人間からしてみると、 「あっ、
駄目じゃん」って。だったらゆっくり乾燥 さして……、だもん、乾燥は一番。
さて、ここからは流儀とその伝達の仕組み についての考察である。光男や実が作る鬼瓦 を見ていると素人の目にもわかるほどの独特 な鋭さを伴う美しさといったような特徴があ る。特に他の鬼板屋でできた鬼瓦と光男たち のものを二つ比べてみた時にはっきりと違い が出てくる。鬼仙が持つ鬼の流儀が違いとし て浮かび上がる。実
みのるは鬼仙の特徴、すなわち 流儀について次のように話す。
説明が難しいねえ……。口では言えんね。
見りゃたぶんわかるんですけど。何が違うっ て言ったら、……ま、簡単に言うとね、た ぶんね、すごい大きいもんと、小さい……
たとえば、ああゆうもん。……これは京都 御所の小っちゃいミニチュア (鬼瓦)。でも、
作りは一緒だと思います。で、よそのやつ は、大きいやつは大きいなりに雑で、小っ ちゃいやつは小っちゃいやつで作りぬくい もんで、またちょっと、こう篦
へらが入らんと ころはごまかしたりとかしとるかなってゆ う感じで。で、親父 (光男) が作ったやつは 大きいやつも小っちゃいやつもたぶん一緒。
つまり光男は大きさの大小にかかわらず、緻 密に作り、手を抜くことは一切しないのである。
雑とかじゃなく、バランスがいい。大きい やつも、小さいやつも。バランスがいいと 思う。むずかしいねえ。ものを置いてもら うとすぐわかるんですけど……。目ではす ぐわかるんですけど、言葉で言うと難しい ね。たぶん、大きいもんでも、小さいもん でも一緒。他の人が作ると全然違うと思う よ。作り方は一緒だと思うんだけどね。作っ ているとこは見たことがないもんで、他の 鬼屋さんの……。比べるとわかると思う。
大きくなればなおさらわかると思う。
もう一方の、流儀の伝達の仕方ないしは、
鬼師の世界 (11)
その仕組みについてはいわゆる「見て覚える」
または「見て盗む」といろいろな鬼板屋でこ れまでしばしば耳にしてきた言葉である。「見 て覚える」と聞いて職人本人は実際に現場に いつもいるので、特に問題はないと思われる。
職人自身は「そうだ」とうなずくだろう。と ころが部外者は「見て覚える」はわかったよ うでよくわからない世界になる。実
みのるはその言 葉の中身について私にわかりやすく語ってく れた。それ故、いかにそれぞれの鬼板屋の独 特な流儀が世代から世代へと伝わっていくの かがよくわかる。
ただ作っとるもんを、いいもん見とるもん で。まあ、その違いだけだと思うんすけど ねえ……。だいたいの、こう、作り方って ゆうか、細かい磨き方とかは別として、だ いたいの作り方は、だいたいねえ、見とりゃ ねえ、覚わるしねえ。他の人はどうやって 作っとるか知らんけど、自分は親父のやつ を見て……。「あっ、これはこいやって作る んだ」っちゅうふうに、ほぼ覚えたぐらい で。でも、他の人の……、他の鬼屋さんの 作り方は全く知らんもんねえ。ど、どうやっ
て作っとるのかも見たことないもんね。作っ た製品は見たことあるけど……。うん、作 り方は見たことない。
実が語っているように「見て覚える」とは、
同じ鬼板屋で、繰り返し見ることによって、
作り方の技法が見る人の意識に写真のように 刷り込まれていくことを指しているように思 われる。そして、何を見たかが、流儀を決定 していき、次の世代へと伝わっていくのであ る。ちなみに実の場合は光男と同じ仕事場で 台を並べて約20年間、光男が作る鬼瓦を見続
けてきたことになる。そして実際に自ら鬼瓦を日々作り続けることによって、身体知に転化 して生きた伝統となるのである。(第5図参照)
実はさらに鬼瓦を製作する時の身体知の動 く様をリアルに伝えてくれている。鬼亮こと 梶川亮治が言う「空間のデッサン」に似てい るのに少なからず驚かされるのも事実である。
(高原 2003)
もともとはねえ、小学校の時から図工とか 好きだったもんで。自分は。絵とかもねえ、
描
かけんとちょっと(鬼は)できんかなあと
第 5 図 岩月光男 (左) と岩月実 (右)
鬼師の世界
(12)
第 6 図 鴟尾を製作中の岩月実
思うけどね。絵、絵が描けんとちょっとで
きんかもしれんね。絵を描いとるじゃない。
絵を描いとるような感覚で作っとるような イメージだなあ。じゃなきゃ、多分できん と思うね。こう、真似て作るだもんで、た とえば漫画があるじゃないですか。「ドラ えもん」とか。ドラえもん……この漫画を こう写すんじゃなくって、見ながらこう やって描
かく、粘土で。自分の手で、絵を描 くような感じで作ってる。僕らでも、こう ゆうの(ひな形)がなかったら作れんもん ねえ。こんなん、はっきり言って、絵とこ うゆうものがあれば作れるけど。ん……、
「作れ」って言われたら作れんもんで。平 面で来ると難しいけど作る。だけど、こう ゆうもん(ひな形とか実物)が来りゃあ、
もう、もっと楽で、もう、作れるねえ。(第 6図参照)
まとめ
初代鬼仙の岩月仙太郎直系に当たる職人、
岩月光男と岩月実親子について彼らが持つ鬼 瓦の世界を考察してきた。鬼仙の鬼瓦作りの 流儀を今に伝える「生きた仙太郎」とも言え
る職人である。残念ながら鬼仙そのものは鬼 板屋としては現在存在していない。また同じ グループの鬼作も存在していない。結果、岩 月仙太郎系の鬼板屋はその数が少なくなって いるのは事実である。その中で今も鬼仙の流 儀を伝えているのが、独立した鬼板屋を持た ない、親方ではない、職人の岩月光男と実な のである。鬼板屋は本来手作りの鬼瓦を作る のが仕事であった。その事によって各鬼板屋 の鬼作りの流儀が親方並びに職人によって世 代を超えながら伝えられていた。ところが岩 月仙太郎系に関して言うと、鬼作によって始 まった石膏型の技術の鬼瓦への導入、さらに は金型を使ったプレス機械による鬼瓦生産方 式の導入によって鬼瓦の大量生産が行われる ようになったのである。これは鬼作に限らず 他の鬼板屋にも波及していった。本家の鬼仙、
そして鬼長もその例外ではなかった。大量生
産が始まると、鬼板屋の技術の核心に当たる
手作りの伝統が徐々に蝕
むしばまれ、やがて駆逐さ
れていく。手作りで鬼を作る必要がなくなる
からである。一方、鬼板屋では当然のことな
がら世代交代が必ず起きる。伝統の継承と世
代交代は密接に関連している。伝統の継承が
十分に成されない次の世代が現れた時、鬼板
鬼師の世界 (13)
屋の存続はきわめて危険な状態になっていく。
鬼仙の場合は短期間に続けて世代が三代交代 する状況に陥り、伝統の継承が不可能になり 危機的な状況になった例である。そうした場 合、手作りのできる職人に頼るか、プレス機 械に頼るかという岐路に鬼板屋は立たされる。
後者を選択すると鬼板屋は継続できてもその 鬼板屋が本来持つ鬼作りの流儀は消えてしま う。フィールドワークを長期にわたって続け てきたことによって見えてきた事実である。
岩月光男と実は鬼仙の系図からいうと五代 目鬼仙、六代目鬼仙に本来なるはずの人であ る。しかし、事情により自ら職人の道を選ん で今日に至っている。鬼仙は五代目を継ぐ時、
不幸にも経営と技術の分離が親方に起こり、
後に鬼板屋としての鬼仙は経営に失敗して消 滅したのである。しかし、一方の分離していっ た鬼仙の技術はしっかりと岩月光男と実に継 承され、「隠れた鬼仙」として今も存続してい るのである。(第7図参照)
参考文献
高原隆 2003 年 「鬼師の世界―黒地:山本吉兵 衛(2)―」『文明21』第11号:81–132
―――― 2004年 「鬼師の世界―黒地:神谷春義・
岩月仙太郎系(1)―」『文明21』第12号:113–
165
―――― 2004年 「鬼師の世界―黒地:神谷春義・
岩月仙太郎系(2)―」『文明21』第13号:155–
175
―――― 2005年 「鬼師の世界―黒地:神谷春義・
岩月仙太郎系(3)―」『文明 21』第 14 号:97–
111
第 7 図 無量寿寺奥の院唐門本棟鬼瓦、釈迦如来、普賢菩薩、
文殊菩薩座像 1 尺 2 寸 平成 18 年 岩月実作