一 問題の所在 エホバの証人は︑一八八四年にチャールズ・T・ラッセル︵一八五二︱一九一六︶によって創設されたアメリカ合 衆国発祥の宗教運動であり 1︑﹃新宗教事典﹄によれば︑日本においては﹁外来のキリスト教系新宗教﹂﹁外来の新宗
教﹂に分類される 2︒二〇一六年時点の日本の信者数は二一万三︑八一八名となっており︑日本社会に一定の定着を 論文要旨 本稿は︑日本におけるエホバの証人が︑その特異な教説と実践をほとんど希釈することなく二十一万人を超える現在の教勢を築いてきた背景を︑日本支部設立の過程における世界本部の布教戦略に着目して検討するものである︒資料としては教団発行の刊行物を参照した︒検討の結果︑エホバの証人において重要な位置を占めているのは﹁神権組織﹂と称される組織原則であり︑この原則における世界本部への忠節さは神への忠節さを意味するため︑日本人信者にとっては社会への適応・浸透以上に世界本部への忠節さが課題となっていたことが明らかとなった︒遅くとも一九七〇年代半ばには﹁神権組織﹂に忠節な日本支部が確立され︑数多くの日本人信者たちが本部の方針に従い﹁開拓﹂と称される布教活動に参加した︒特徴的な教義でもある予言の切迫感が布教意欲を高めたこともあり︑布教の成功率が低い社会状況にありながら膨大な時間が宣教に費やされたことが︑その後の教勢拡大を促した︒キーワード キリスト教系新宗教︑エホバの証人︑布教戦略︑﹁神権組織﹂︑予言
『宗教研究』91巻3輯(2017年)
日 本 に お け る エ ホ バ の 証 人 の 展 開 過 程
││ 終戦から一九七〇年代半ばまで ││
山 口 瑞 穂
果たしているといえる︵Y2017: 1 382︶︒ 近代日本におけるキリスト教の展開に関するこれまでの研究には相当の蓄積がある 4︒しかし︑海外発祥のキリスト教系新宗教に関する研究は多くはない 5︒本稿は︑いまだ数少ない日本における外来のキリスト教系新宗教研究の
充実化を目指すものだが︑日本における活動期間の長さ︑教勢の規模から見たとき︑エホバの証人が看過し得ない
プレゼンスを有する教団であることは論を俟たないだろう︒世界のエホバの証人との対比で見ても︑現在の日本の信者数は世界第七位であり︑目立った存在となっている 6︒
これまで︑当該教団については︑大泉実成や米本和広等︑ジャーナリズムの立場から数多くのルポルタージュが 刊行されている 7︒しかしそこで注目されたのは︑﹁組織﹂への強い服従性︑輸血拒否をめぐる問題︑子どもへの体
罰を厭わない指導方針︑信者家庭の葛藤︑神学上の問題点など︑社会通念・社会規範から見て問題視される側面││摩擦や葛藤の場面││であった︒ではなぜそのような摩擦・葛藤を生みやすい宗教が日本社会に一定の教勢を
築くことができたのか︑また︑なぜ日本宣教開始以来︑そのような教説・実践が希釈されることなく維持されてき
たのか︒その運動論的ないし教団の布教戦略的な問題は︑まだ十分に検討されていない 8︒ この問題に応えるにあたり︑本稿では︑戦後の日本支部設立の経過に着目して検討を進める︒検討の手掛かりと
しては︑日本で展開する様々なキリスト教を研究したマーク・R・マリンズの指摘を参考にしたい︒マリンズは︑
﹁日本のキリスト教団体は﹃外国志向﹄か﹃土着志向﹄かのどちらか一方に偏る傾向がある﹂とした上で︑モルモン教︵末日聖徒イエス・キリスト教会︶︑エホバの証人︑カトリック教会やプロテスタントの各教派など︑西洋か
ら移植されたキリスト教が︑神学理解や組織機構において﹁外国志向﹂であるとした 9︒しかしこれは︑マリンズが
日本におけるエホバの証人の展開過程
﹁土着志向﹂のキリスト教として注目した日本人創始によるキリスト教││イエス之御霊教会︑無教会運動︑基督心宗教団など││との対比によるものであり︑極めて包括的な指摘でもある︒これに対し﹁外国志向﹂とされるキ
リスト教においては︑一口に﹁外国志向﹂といっても︑発祥国︵教派︑本部︶のいかなる要素に︑どの程度の注意
が向けられているかには相当の差異があり︑その内実は一様ではないと考えられる︒
では︑エホバの証人は世界本部の何をどの程度継承しようとしてきたのか︵継承することを要求されてきたの
か︶︑信者育成や日本支部の設立にあたり︑何を重視してきたのか︵重視されなかったのか︶︒以下の論述では︑こ
れらの具体的な問いに応えることで日本支部と世界本部の関係に見られるエホバの証人の特質を摘出し︑日本にお
ける当該教団のありようや教勢の背景を明らかにする︒
二 エホバの証人の日本宣教の前史 戦後の展開を見る前に︑エホバの証人とはそもそもどのような運動なのか︑その概要と日本における運動の前史を確認しておこう︒
エホバの証人の日本宣教は︑一九二六年に世界本部から任命された明石順三︵一八八九︱一九六五︶によって﹁灯 台社﹂という名称で開始された A︒しかし︑宮城遥拝の拒否や銃器返納によって特別高等警察に検挙され︑一九三九年に活動停止に追い込まれている︒その非戦の信条や実践は鶴見俊輔らによって紹介され︑広く知られるところと なっている B︒しかし︑教団側の記述においては︑終戦後︑明石が公開質問状によって当時の世界本部を批判したこ ともあり︑明石や灯台社の活動に対しては否定的なものが目立つ C︒実のところ︑ここには世界本部の権威の正統性
に関する鋭い対立があった︒本部から見た信者の条件においては︑各信者の信仰自認や生命を賭した非戦の実践以
前に︑世界本部に対する態度が重要視されていたのである︒質問状を受けた本部は即座に日本支部代表者の地位から明石を降ろし︑灯台社の運動は終わった︒活動停止の引き金の一つは戦時下における国家体制との関係にあった
が︑運動終焉の決定的な要因は世界本部との関係にあったといえる︒
世界本部が権威の正統性を重視する背景には︑エホバの証人に特徴的な﹁年代教義﹂の変遷が影響している︒創設者ラッセルの運動の源泉は︑前千年王国論的な救済観を掲げる再臨派やミラー派にあり D︑そこで大きな関心を集
めたのは地上の千年王国が樹立される時期の計算・予測であった︒主たる実践は予言的な教説の流布であるが︑予
言はこれまでに大きな変遷を遂げてきた︒権威の問題はその経過と共に重要な位置を占めていったと思われる E︒以
下は︑本稿が検討対象とする一九七〇年代までに展開された主な予言である︒
まず︑創設者ラッセルの説では︑一八七四年にキリストが天に臨在し F︑一八七八年秋以来︑天で王権を執行して
いるとされていた︒一八七四年を起点に算出された主要な予言では︑﹁選ばれた者﹂とされる信者たちが一八八一
年に天の王国に移され︑一九一四年に地上の千年王国が完成するはずであった︒しかし︑これらは期待はずれに終わる︒
ラッセルの没後︵一九一六年︶︑協会の二代目会長に就任したジョセフ・F・ラザフォード︵一八六九︱一九四二︶が
新たに展開した説では︑一九一八年にキリスト教各派に苦難が訪れ︑一九二〇年に社会主義勢力が倒壊し︑一九二五年にアブラハム︑イサク︑ヤコブ等の﹁古代の名士たち﹂が地上に復活するとされた︒これらの予言もはずれる
と︑一八七四年であったはずのキリストの臨在は一九一四年となり︑同年の第一次世界大戦の勃発は︑﹁終わりの
日本におけるエホバの証人の展開過程
日﹂ないし﹁大患難﹂と称される期間が始まった証拠とされるようになった︒予言としては︑﹁終わりの日﹂のクライマックスとなる全地球的な規模の裁き︵ハルマゲドン︶が一九四〇年代中頃から一九五〇年代前半までには生
じ︑地上に楽園が回復するとされた︒この説は︑一九一四年の﹁世代﹂が去るまでには全ての予言が完了するとい
う新解釈に依拠しており︑当時の教説における﹁世代﹂は︑三十年から四十年程度と定義されていた︒
しかしラザフォードの死後︑新会長のネイサン・H・ノア︵一九〇五︱一九七七︶によって︑﹁世代﹂の長さは七十
年ないし八十年程度と修正される︒一九一四年から約四十年後とされていたものを︑約八十年後とすることでハル
マゲドンは先延ばしされ︑先の予言の失敗は回避された︒これは一九五〇年代のことであるが︑さらに一九六六年
からは︑ハルマゲドン一九七五年説が新たに展開され︑喧伝されることになる G︒ 以上は変遷の概略であるが︑実際の年代教義は入り組んでおり︑大部をなしている︒本稿では当初の予言の終着
点であったはずの一九一四年が予言の開始点となり︑創始者ラッセルの説はほとんど破棄されてしまったこと︑予
言は度々変更・更新され︑千年王国の到来は少しずつ先延ばしにされてきたことのみ確認した︒
ここで注意が必要なのは︑過去になされた予言に関し本部が信者たちに提示する情報が極めて少ないという点で
ある︒予言が変わるたびに刊行物も刷新され︑新しい信者たちが教わる教説は実現間近とされる予言であり︑その
変遷の全貌を知らない信者も多い︒そのため長年にわたり︑信者たちにとってハルマゲドンは自身が存命中の近い将来に生じるはずのものであり続けた︒間近で限定的な予言は︑信者の布教意欲を刺激し︑教勢拡大における即効
性を高める︒その反面︑予言の失敗に起因する離脱も招き易い︒いわば教義上の弱点ともなり得るこの問題は︑予
言の内容そのものよりも︑予言の発信者がいかに正統な権威を有しているかを強調することで補強されてきた︒こ
こから権威の正統性が重要な位置を占めるようになるのである︒ エホバの証人のいう権威の正統性とは︑天において王権を執行しているとされるキリストが︑地上における﹁唯一の経路﹂として選んだのが現在のエホバの証人の組織中枢﹁統治体﹂であるとするものである︒統治体は十名前
後の男子信者によって構成され︑年代予言等の教えはその経路を通じて徐々に明かされるとされている︒統治体の
指揮により協会︵世界本部︶は刊行物の発行や支部への指導等をおこなっていることになっていて︑組織の頂点はキリスト︑世界本部はその代理組織なのだとされる︒この組織原則は﹁神権組織﹂と称され︑世界本部への忠節さ
は神への忠節さと同等ともいうべき意味が与えられている︒そのためエホバの証人においては︑予言が外れたから
といって運動を離脱したり︑本部を批判したりすることは神への不忠節の表れとみなされるのである︒
三 戦後日本におけるエホバの証人の展開 1 ﹁宣教者﹂の派遣︵終戦直後︶ 明石が排除されると︑本部から任命された日系人・外国人の宣教者たちが日本宣教を再開した H︒活動地域や宣教者の人数は本部が決定し︑計画的かつ効率的に展開されている︒ここで注目すべきは宣教者の資質である︒宣教者
となるにはギレアデ学校と呼ばれる宣教者養成課程を卒業する必要があった︒ギレアデは︑会長ノアが一九四三年
に設置した無料の教育課程であるが︑開設当初に強調されたのは﹁聖書そのものの研究﹂と﹁神権組織﹂であったという︵J: 523︶︒つまり︑宣教者となるには︑聖書の知識・信仰心・隣人愛もさることながら︑﹁組織﹂の正統性を
指導する能力において本部から是認されている必要があった︒そのような意味で資格のある信者たちが戦後の日本
日本におけるエホバの証人の展開過程
宣教を再開したのである︒
この教育課程では﹁政府の役人への対処の仕方︑国際法﹂なども扱われた︵J: 523︶︒これは︑合法的な活動に努
め︑当該国において良好な評価を得る方策であると同時に︑宣教する権利の主張という意味合いも含んでいた︒と
いうのも︑一九二〇年代から文書の配布や戸別伝道による信者たちの逮捕・訴訟が本国アメリカを含む各国で生じ︑アメリカを中心に信教︑言論︑出版に関する憲法上の権利を主張することで対応が図られてきたからである I︒
その経験を踏まえ︑日本においても︑想定しうる法的問題の回避策や対応策を講じた上で宣教が開始されたといえ
る︒
戦後最初の宣教者Hは一九四九年一月に日本に到着した後︑東京の港区に活動拠点﹁宣教者の家﹂を協会名義で購入した︒この物件をみつけるまでの一ヶ月間は︑GHQの許可を得て司令部のある第一ホテルに滞在したという
︵W1967. 1. 1: 25︶︒その後︑三月から十月にかけてハワイ在住の日系人を含む宣教者が数名ずつ到着し︑うち五名が 神戸市に配置された︒敷地四〇〇〇平方メートルを有する神戸の﹁宣教者の家﹂は︑GHQの戦争財産管理官から借り受けた︵Y1978: 224, 225︶︒エホバの証人が戦勝国発祥の宗教運動であったこともあり︑終戦直後の日本は︑戦
前と比して活動し易い状況となっていた︒
エホバの証人の主たる布教手段は﹁家から家﹂への戸別訪問である点において︑多くの伝統的な教派とは異なる︒冊子配布をしながら﹁家庭聖書研究﹂と称される定期的な個別指導に勧誘し︑﹁研究生﹂を﹁バプテスマ J﹂ま
で導けば目的達成となる︒教団側の記述によれば︑世界本部は当時の日本人が予言を理解しやすい立場にあったは
ずだと楽観的に解釈している︵Y1978: 222︶︒敗戦に至るまでの日本の歴史は︑本部から見ると︑予言の教説││一
九一四年の第一次世界大戦勃発を﹁終わりの日﹂の始まりとし︑以後の人類の苦難の歴史と救済を説明するストー
リー││の説得性を高める要素と映ったのかも知れない︒しかし実際には︑海外出身の宣教者たちが日本人の研究生をバプテスマまで導くことは容易ではなかった︒言語や習慣の違い︑食糧の不足など︑生活面における適応の問
題に加え︑布教に使える日本語の媒体は限られていたからである︵Y1978: 223‑225︶︒ 他方︑教団側は﹁灯台社﹂時代からの信者と思しき存在に懸念を抱いていた︒エホバの証人においては︑会衆単位で開催される通常の集会 Kよりも規模の大きい﹁大会﹂という集まりがあり︑一九四九年の暮れから年明けの一月
一日にかけて︑神戸の﹁宣教者の家﹂で大会が開催された︒問題となったのは︑そこへ訪れた大阪からの参加者た
ちである︒教団側の記述では彼らが﹁正月を騒々しく祝う﹂等︑本部のいう聖書の原則に反する振る舞いをし︑
﹁不道徳﹂であったことが強調されている︒しかし同時に︑彼らが﹁灯台社﹂時代からの信者であったこと︑﹁真理に留まっている﹂と主張していたことも指摘されている︒結果的には約三十名が﹁排斥﹂と呼ばれる除名処分によ
って排除され︑収拾が図られた︵Y1978: 230; 1998: 69︶︒ ﹁排斥﹂とは︑一九四〇年代中頃に導入された制度であるが︑信者たちは日常会話を含め︑排斥された者との交友を禁止されている︒この禁忌事項は︑伝統的なキリスト教でいう聖職者的な立場に該当する指導者層だけでな
く︑信者暦の長短に関わりなく信者一般に適用される︒該当者との交友を続けた場合はその信者自身も排斥の対象
となる L︒宣教再開直後に﹁信者﹂三十名を排除することは︑教勢拡大という点で非効率にも映るが︑当事者の信仰自認に関わらず︑素早い対応がなされている︒この出来事は︑本部の指導に従わなかった﹁元﹂信者たちの存在
や︑彼らが周囲の信者に及ぼすかもしれない影響力が︑教団側から見て危惧すべきものであったことを示してい
日本におけるエホバの証人の展開過程
る︒教勢拡大は︑こうした懸念材料を厳密に取り除いた上で初めて望まれたのである︒
2 布教に先立つ組織化︵一九五〇年代︶ 一九五〇年二月より︑オーストラリア︑ニュージーランド︑英国などから宣教者が派遣され︑神戸︑名古屋︑大
阪︑横浜︑沖縄︑京都︑仙台に︑一九五七年には広島︑札幌︑福岡︑熊本︑鹿児島︑佐世保にそれぞれ順次配置された︒一九五〇年代の目立った進展は日本語版﹃ものみの塔﹄の発行と﹁巡回監督﹂の任命である︒いずれも一九
五一年四月二十四日から五月八日にかけて会長ノアが視察のために来日した際に取り決められた︒これに併せ︑東
京で四日間にわたる大会︵於︑神田︶も開催されている︒
まず︑﹃ものみの塔﹄誌はエホバの証人の布教において不可欠な媒体であるため︑その日本語版の発刊は大きな進展であった︒ただし本誌には︑日本人には馴染みにくい内容や言葉遣いが目立つ︒しかし日本人向けの記事や解
説は特段施されていない︒これとは対照的に︑明石順三は戦前の機関紙﹃黄金時代﹄﹃なぐさめ﹄に日本人向けの
解釈を加えて配布していたが︑これに関する教団側の記述は否定的なニュアンスを伴っている︵Y1978: 213︶︒つまり戦後の刊行物は︑広く速く人びとに受容されることよりも︑教説の変節回避と統一性保持を優先し︑難解な内容
であっても敢えて翻訳の正確さが堅持されているのである︒
次に﹁巡回監督﹂とは︑当該地域の各会衆に一週間滞在し︑﹁巡回訪問﹂と称される定期的な指導をおこなう統括的指導者を指す M︒日本最初の巡回監督は先述の﹁元信者﹂たちに対応した宣教者Tであったが︑﹁巡回監督﹂が 任命されたこの度の視察は︑日本での宣教を﹁組織し発展させる﹂ための﹁里程標﹂とされている︵Y1978: 232︶︒ ここで特筆すべきは巡回監督配置の迅速さである︒﹁巡回訪問﹂が開始された一九五一年の日本の信者数は︑宣
教者を含めても三百名に満たなかった︵W1998. 12. 1: 29︶︒つまり︑信者数・会衆数が増加した結果として必然的に
組織化の運びとなったのではなく︑教団側の既成の組織構造に編成する策をあらかじめ講じた上で信者数の増加が目指されたのである︒ここには︑他国において本部の指導内容から逸脱する事例が多数生じたことも関係してい
る︒たとえば布教中に物品を販売していたとする一九二〇年代のメキシコでの事例や︑一九一四年に予言がはずれ
た際︑集団で離脱したイタリアの事例などである︵Y1995: 179; Y1983: 120︶︒世界各国に教線が拡大するにつれ︑各支部の動向や状況把握は難しくなる︒本部はそれまでの逸脱事例を踏まえ︑手堅い信者育成の方策として巡回監督
を配置したと考えられる︒
なお︑信者の育成においては日本特有の課題もあった N︒彼らが崇拝すべき神はエホバだけであり︑先祖祭祀など
の儀礼は忌むべき行為だからである︒ただし︑故人となった先祖は﹁年長者﹂でもあり︑その意味での先祖に敬意を抱くこと自体はむしろ肯定されている︒また︑キリスト教を自認する宗教でありながら︑非信者の故人にも救済
の道が開かれているメリットは大きかった︒エホバの証人の教説では︑布教を受けずに亡くなった者には存命中と
同じ姿で地上の楽園に復活させられ︑エホバ神に従うか否かを選択する機会が与えられるとされているのである︒ここで存命中の信者がなすべきことは︑ハルマゲドンを生きて通過し︑復活してきた親族にエホバ神を崇拝するよ
う教えることなのだという︒
むろん︑こうした教説が大半の研究生にとって受け入れ難いものであり︑布教の成功率的に見ても︑バプテスマを受けるに至らないケースが多かったであろうことは容易に推察される︒日本人は﹁全能の神という概念﹂を持た
ず︑﹁実際に信じていなくても︑信じているかのよう﹂に振る舞うとする当時の宣教者の談が示すように︵Y1978:
日本におけるエホバの証人の展開過程
248︶︑彼らは研究生が教義を正しく理解・習得しているかを見極めることに苦心していた︒また︑先祖祭祀の儀礼を拒否した場合︑個々の研究生は家庭や地域において大きな葛藤を経験しただろう︒しかし︑ひとたび信者となっ
た者にとっては︑復活による故人の救済可能性という希望が故人への思いの受け皿となり︑先祖祭祀への回帰はか
なりの程度抑止されたとも考えられる︒
むしろ︑キリスト教圏出身の宣教者たちの中には︑教団レベルでの反発が仏教界からはもたらされず︑反対勢力 が︵日本では少数派の︶キリスト教だけであった点を予想外のプラス要素と認識する者もいたようである O︒海外で
は異端視され︑訴訟等によるクレームを多数経験してきたエホバの証人の場合︑主たる反撃の拠点として認知され
てきたのは正統とされるキリスト教の影響力であった︒その影響力が欧米諸国に比して小さい日本は︑彼らにとっ
て活動し易い国であったのかもしれない︒結果的には日本人も布教に加わり始め︑人口百万人未満の都市にも宣教
が及ぶ︒宣教再開から八年経った一九五七年に︑信者数はようやく八四三名となった︵Y1978: 245︶︒ 3 日本人信者の動員︵一九六〇年代︶ 一九六三年八月に会長ノアが京都に来日し︑二十一日から二十五日にかけて﹁国際大会﹂と称される大規模な 大会が開催された P︒この大会は一九五一年の視察に次ぐもう一つの﹁里程標﹂とされている︵Y1978: 245︶︒この大
会を機に日本人信者たちが日本宣教の主たる担い手となり始めたからである︒この期間に︑信者数は二︑八八四名
︵一九六三年︶から七︑八八九名︵一九六九年︶に増加した︵Y1978: 246︶︒ この増加の要因において︑当時展開されていた予言の影響は大きい︒前述したように︑一九六六年にはハルマゲ
ドンが一九七五年に生じるかのような予測が大会や刊行物上で展開されていた︒﹁一九七五年﹂という限定的で間
近な年代が示されたこともあり︑信者たちの期待感と緊迫感は刺激されたと考えられる︒ しかし︑ハルマゲドンによる世界の清算︑千年王国という新しい世界への希望を標榜するエホバの証人が︑立正佼成会や創価学会等の日本の新宗教が伸長した時期とはややずれた時期に伸長し始めたことには注意が必要であ る︒つまり︑エホバの証人の救済観自体は当時の多くの日本人のメンタリティに適合的とは言いがたかった Q︒それ
にもかかわらず︑この時期に入信者を獲得できたのはなぜか︒そこで重要な意味をもつのが本部の布教戦略である︒
では︑本部の布教戦略とは何だったのだろうか︒それは︑何をおいても宣教に励むよう信者を動員し︑宣教時間
ひいては訪問件数を増やすというものであった︒当時については次のような記述がある︒﹁﹃大患難﹄が始まる前に
日本全体が徹底的な証言を受けるためには︑さらに大勢の開拓者が必要であるように思われ︑この奉仕に携わる特権があらゆる方法で兄弟たちに強調されました﹂︵Y1978: 246︶︒ここでいう﹁大患難﹂とは︑その頂点となるハルマ ゲドン︑そして﹁証言﹂﹁奉仕﹂とは布教活動を指し︑﹁開拓者﹂は︑特に多くの時間を宣教に充てる信者を指す R︒
むろん︑開拓者が多ければ多いほど当該国の宣教時間合計は多くなる︒日本の開拓者の数は国際大会の翌年となる一九六四年には四〇八名であったが︑五年後の一九六九年には一︑三八四名に増加し︑これに連動して日本全体の
宣教時間も九四万九︑九五五時間から二八二万三︑八八五時間に増大した︵W1965. 4. 1: 215; 1970. 4. 1: 211︶︒時代状況 と教説のミスマッチ︑それによる布教の成功率の低さはこの宣教時間の多さによってカバーされていたと考えられるのである S︒そこにおいてハルマゲドンの切迫感は︑宣教意欲を刺激する起爆剤的な効果をもたらしていた︒
ただし︑﹁二﹂で確認したように︑エホバの証人においては年代予言の内容もさることながら︑その発信元をめ
日本におけるエホバの証人の展開過程
ぐる認識が鍵を握っている︒そのため︑ここでは先述の国際大会という場の効用にも触れておきたい︒大会は﹁エホバの証人の現代の組織の正式な特色﹂であり︑﹁国際的な兄弟関係にあるという証人たちの意識﹂を高める場と
されている︵J: 254, 269︶︒つまり︑彼らのいう﹁神権組織﹂を体感する好機が大会なのである︒この大会の翌年に 刊行された﹃ものみの塔﹄の記事を見ると︑会長ノアはこの大会の締めくくりに際し︑﹁宣教者の精神にならう﹂ことと﹁エホバの組織に固くつき従う﹂ことを奨励している︵W1964. 1. 1: 29︶︒ちなみに︑当時の日本語版﹃もの
みの塔﹄に掲載されている挿絵のほとんどが質素なイラストであったのに対し︑この号では客席が人で埋め尽くさ
れたニューヨークのヤンキースタジアムなど︑各会場の様子が白黒写真で紹介されている︒実際に大会に出席した
者も︑そうでない者も︑こうした刊行物の記事に繰り返し接し︑﹁選ばれた唯一の組織﹂という状況規定が共有さ
れたと考えられる︒それを内面化させた信者たちにおいて︑布教活動は一人の人間︵会長︶の指示や信者集めを超
える意味をもっていた︒つまり︑唯一の特別な組織にキリストが課した特別な任務という意味が付与されたからこ
そ︑宣教は各信者にとって自身と隣人の救済に関わる︵しかも急を要する︶重要な責務と認識され︑そこに多くの力が注がれたのである︒その点でこの時期の伸長は︑﹁宣教を受ける側﹂の事情よりも﹁宣教する側﹂の事情の影
響が大きかったといえるだろう︒
4 日本人信者による支部運営の開始︵一九七〇年代前半︶ 一九七五年初頭には︑日本支部の指導的な地位﹁支部監督﹂に初めて日本人信者が任命され T︑日本人信者によ
る支部運営が始まった︒これに先立つ一九七二年には︑協会が沼津に購入した一︑二〇〇坪の敷地に支部施設や印
刷工場が建設され︑国内における刊行物の印刷も始まっていた︒なお︑この建設計画は︑一九六九年の国際大会
︵於︑東京後楽園競輪場︶で発表されていたが︑一九七一年に信者数が一万名を超えたこともあり︑建築費用は日本人 信者たちからの寄付と貸し付けによって賄われたという︵W1972. 4. 1: 215︶︒ しかし︑宣教の成果や経済的自立は支部運営移譲の決定要因ではなかったようである︒それを示しているのが︑
日本支部よりはるかに多くの信者数がありながら︑外国人宣教者によって運営されていたフィリピン支部の事例で
ある︒日本人による支部運営が開始された年の日本の信者数は三万二九四名であったのに対し︑フィリピン支部は既に七万六︑六六二名もの信者を有しており︑人口比においても日本支部を上回っていた︵W1976. 4. 1: 213, 214︶︒し
かし一九八〇年代に入っても支部の指導的立場の多くは外国人宣教者が担っていた︒実のところ︑当時のフィリピ
ン支部においては︑信者たちの利便性に配慮して︑本来週三日開かれるべき集会を一日にまとめて開催する会衆が
増加し︑本部はこのフィリピン流の方法を問題視していた︵Y2003: 206, 221, 222︶︒一方︑戦後の日本支部の記述には︑瑣末な事柄においても日本支部独自のやり方が問題となったとする記述はなく︑その従順な姿勢が高く評価さ
れていたと考えられるのである︒
本部に対する忠節さは︑ハルマゲドンが期待外れとなった際︑鮮明になる︒この当時入信者は各地で急増し︑日本においては︑一九七三年に三︑六七二名︑一九七四年と一九七五年にはそれぞれ七千名以上が入信した︵W1974. 4. 1: 220; W1975. 4. 1: 217; W1976. 4. 1: 213︶︒同時期には世界全体の信者数も増加し︑一九七五年には二百万名を突破し ている︵W1976. 4. 1: 215︶︒だが︑予言が失敗に終わると︑世界全体の信者数は一九七六年から二年連続大きく減少した︵W1977. 4. 1: 215; Y1978: 30; W1979. 4. 1: 21︶︒しかし︑日本支部の場合は入信者数が多少減少したものの︑信者
数自体は減少しなかった︒予言がはずれても大半の信者は本部を批判せず︑運動から離脱することもなかったので
日本におけるエホバの証人の展開過程
ある U︒
むろん︑そもそも予言以外の何かに惹かれ入信していたケースも多いと考えられ︑運動から離脱しなかったこと
が即︑本部への忠節さの現れと言えるか︑という問題もある︒ブライアン・ウィルソンは︑一九七五年に信者を対
象とした調査から戦後日本におけるエホバの証人の発展要因を検討しているが︑エホバの証人のコミュニティは︑日本人が敗戦によって喪失した価値観や大家族の機能的代替となり︑入信を促したのではないか︑という V︒確かに
コミュニティの魅力によって入信した場合︑予言がはずれても運動から離脱するほどの失望は感じないかもしれな
い︒
しかし︑ウィルソンの調査と論考は日本の伝統的価値と当該教団の教説における共通点の摘出を目的としており︑一九七五年という年代に付された意味と︑世界本部と日本支部の特殊な関係性の問題は捨象されていることに も留意する必要がある W︒その問題とは︑世界本部が予言の失敗・変更の試行錯誤の中で︑﹁神権組織﹂の確立に心
血を注いできたということ︑その結果︑信者たちにとっては︑予言の当否に左右される信仰は偽物であり︑世界本部への忠節さを通じて神への忠誠を示すことこそが肝要とされてきたことである︒
その後の状況を見ると︑この調査に協力した担当者 Xは一九七九年に日本支部の指導的地位に就任しており︑一九 九八年刊行の﹃ものみの塔﹄には彼の体験談も記されている︒ギレアデに入校した一九五七年当時について語った記述には︑﹁エホバの目に見える組織に対する私の信頼は大いに強められました﹂とある︵W1998. 12. 1: 30︶︒ここ
でいう組織とは︑﹁神権組織﹂として権威付けられた世界本部にほかならないが︑この記述は︑世界本部への信頼
と確信を内面化し︑それを表明し︑指導できる信者が遅くとも一九七〇年代には育っていたことを示している︒
予言が外れた際︑人間関係ゆえに運動に留まった者は確かにいたかもしれない︒しかし︑家族からの反対︑自身
の将来︑社会からの評価を度外視した活動は︑上記のような忠誠心を内面化した信者たちによってこそ展開され︑
︵わずか︶二万名前後の当時から現在の教勢に至ったと考えられるのである︒
その後︑日本の信者数は飛躍的に増加し︑一九九八年に二二万二︑三四七名というピークを迎える︵Y1999: 34︶︒
この間︑世界本部に疑問や反感を示した者を排斥し︑信者との交流を遮断することで世界本部に従順な信者コミュニティの密度は保たれてきた︒教団側が発信する情報によれば︑日本社会への迎合や摺り合わせも特段図られず︑
一九七五年から三十年が経過した二〇〇五年においても︑世界本部が提示する模範的な信者像は︑あくまで﹁組織
の動きに自分の歩調を合わせようと﹂する態度となっている Y︒ 四 結論
これまでの叙述を踏まえると︑日本において︑キリスト教の伝統的な教派が社会通念や社会規範に適応しながら
浸透・定着を模索してきたのとは対照的に︑エホバの証人においては︑﹁神権組織﹂の正統性︑そしてそれによって正当化された世界本部への忠誠こそが重要な課題であったことがわかる︒本稿の冒頭において︑日本における海
外発祥のキリスト教を概して﹁外国志向﹂とするマリンズの見解を参照したが︑エホバの証人においては︑世界本
部の指導を抜きに教義・信条を追究することも︑実践を踏襲・応用することも想定されていない︒随所に見られた
﹁組織﹂に関する教団側の言説からも明らかなように︑その眼差しは︑まず世界本部の動向に向けられるべきもの
なのである︒つまりエホバの証人においては︑教義面や実践面よりも組織面の﹁外国志向﹂が顕著であるため︑一
日本におけるエホバの証人の展開過程
口に﹁外国志向﹂とするのではなく︑︿本部志向﹀と捉え直すことが妥当だと思われる︒
世界本部は︑本部の意向に従順な支部の確立に腐心し︑宣教者たちも︑それなしには神からの導きや神への正し
い崇拝は成立し得ないことを日本人に伝授しようと奮闘した︒日本においては︑早い段階において﹁神権組織﹂
││その彼方に存在するとされるエホバ神││に従うことを最も優れたやり方とする恭順的な態度が確立され︑膨大な時間が布教活動に費やされた結果︑入信者の増大を見た︒本稿の検討を通じ︑エホバの証人が教義や実践にお
いて日本社会への協調や妥協を経験することなく現在の教勢を築き得た背景には︑本部の意向に従順な運動として
展開したことが影響していることが明らかとなっただろう︒本稿は︑その本部の意向・方針に極めて従順な組織の
特質を﹁外国志向﹂ではなく︑︿本部志向﹀と捉えなおした︒エホバの証人をそれ以外の外来のキリスト教系新宗
教の中に位置付ける新たな知見を示せたのではないだろうか︒
むろん個々の信者は︑教説や指導を一方的に受容するナイーヴな存在ではなく︑信仰の受容や教理の内面化の諸
相については︑個別の検討が必要である︒それに加え︑一九九〇年代終盤以降は教勢が停滞している︒そこにおいて︑予言の切迫感の褪色︑世界本部の布教戦略︑社会状況の変化がどのように関係しているのか︑その検討は今後
の課題である︒
略号
記述にあたり参照した資料のうち︑ものみの塔聖書冊子協会発行の﹃エホバの証人の年鑑﹄各号は︵Y年: 頁︶︑﹃エホバの証人││神の王国をふれ告げる人々﹄は︵J: 頁︶︑﹃ものみの塔﹄各号は︵W年. 月. 日: 頁︶とそれぞれ表記した︒
注︵
︵ して︑この呼称を使用した︒ 証人﹂という名称は宗教団体名ではなく︑上記協会の刊行物等を使い布教する諸個人を指すが︑本稿では宗教集団を指すものと リンであったが︑二〇一七年四月に同州ウォーウィックに移転した︒日本支部は神奈川県海老名市におかれている︒﹁エホバの Watch Tower Bible and Tract SocietyJ: 229冊子協会﹂︵︶と改称された︵︶︒世界本部の主要拠点はニューヨーク州ブルック 1︶ラッセルが創設したのは一八八四年に法人となった﹁シオンのものみの塔冊子協会﹂である︒一八九六年に﹁ものみの塔聖書
︵ 督教統一神霊協会などがあげられている︒ エホバの証人以外に︑セブンスデー・アドベンティスト教団︑末日聖徒イエス・キリスト教会︑韓国発祥の純福音教会や世界基 一九一頁︶︑田島忠篤﹁外来の新宗教ものみの塔聖書冊子協会﹂︵同︑六六三︱六六五頁︶︒なお︑該当する宗教運動としては︑ 2︶沼田健哉・村田充八﹁信者の条件ものみの塔聖書冊子協会﹂︵井上順孝他編﹃新宗教事典﹄弘文堂︑一九九〇年︑一八九︱
︵ 指す︒そのためエホバの証人の公称信者数には名義だけの﹁信者﹂は含まれていない︒ 道者数﹂を指す︒伝道者とは︑バプテスマと呼ばれる儀式を受け︑なおかつ一ヶ月間に一定以上の伝道活動に参加している者を 3︶刊行物の表記方法については︑本文末の略号を参照されたい︒なお︑本稿における信者数とは︑エホバの証人のいう﹁平均伝
︵ ネスの宗教学的研究﹄東北大学出版会︑二〇〇六年などがある︒ 学会︑一九七五年︶などがあり︑伝統的な教派以外のキリスト教研究には池上良正﹃近代日本の民衆キリスト教││初期ホーリ 五年︑西山茂﹁日本村落における基督教の定着と変容││千葉県下総福田聖公会の事例﹂︵﹃社会学評論﹄二六巻一号︑日本社会 4︶伝統的な教派研究としてよく知られているところでは︑森岡清美﹃明治キリスト教会形成の社会史﹄東京大学出版会︑二〇〇
︵ 方出版︑二〇一二年など︒ 道大学出版会︑二〇一一年︑中牧弘允・ウェンディ・スミス編﹃グローバル化するアジア系宗教││経営とマーケティング﹄東 論じられている︒たとえば李元範・櫻井義秀編著﹃越境する日韓宗教文化││韓国の日系新宗教日本の韓流キリスト教﹄北海 5︶近年においては︑韓国系のキリスト教の動向が注目されることが多く︑グローバル化やトランスナショナリティとの関連から
︵ Y2017: 178‑187本を追い越したコンゴ民主共和国となっている︵︶︒ 6︶二〇一六年時点における信者数の上位六カ国は︑アメリカ︑メキシコ︑ブラジル︑ナイジェリア︑イタリア︑そして同年に日 房︑一九八八年︑柿田睦夫﹃現代こころ模様││エホバの証人︑ヤマギシ会に見る﹄新日本出版社︑一九九五年︑米本和広﹃カ 7︶大泉実成﹃説得││エホバの証人と輸血拒否事件﹄現代書館︑一九八八年︑いのうえせつこ﹃主婦を魅する新宗教﹄谷沢書