九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Problems on Backflow of Tribute Rice in Beijing during the Qing, 1796-1850
堀地, 明
北九州市立大学
https://doi.org/10.15017/1929738
出版情報:九州大学東洋史論集. 45, pp.35-69, 2018-03-29. The Association of Oriental History, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題
場 地
明
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本 稿
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一 八
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︶ に お の 回 漕 問 題 を 論 じ る も の で
次のように論じた︒靖代北京における米種は商品化された摺組織︿棒縁米﹀
ヱ公・八旗官員・八旗が余剰米の処分︑もしくは旗人の貨幣の必要性から
のため︑潜糧︵俸撮来﹀の持品化を容認していた︒毎舟︑京師に拭約一 O 万
て供給され︑米糧の侠給量は安定していた︒商品化された潜糧の種類には︑襲来︵江
︿長江中流域産の中下等米 γ 者米︿古来・諌米︶・倉米︿アワ・粟米・小米︶があり︑未
のは結米と称された︒糟撞︵俸様米︶の収買を行う米浦は米局と称された︒糧倉から俸議米
さいに︑糧倉の下殺害更である花一戸は米高と結託して私的和益を追求した︒内城には高品化された糟粗︿俸
を交易する米市が存在し︑そり中でも灯市日米市と西単牌楼米市は卸発市場としての機能を有していた︒糟糧を
原資とする京誌の高品米糧は︑旗人を含む京城内の住民と馬送諸県の農民が最接的に準費した︒滑較は潜糧︿棒禄米︶
の 商 品 化 を 容 認 す る 一 の 捧 隷 米 支 給 と 消 費
︑ 及 び 京 師 の 民 食 を 護 保 す る た め に 米 閥 を 規 制 し 統 制 し
の供給源でるった︒漕糧
米 調
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却 さ
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摺 糧
︵ 俸
禄 米
︶
南太海周辺産
精 米
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米 ︑
清代 盟加 藤・ 滋光 年間 にお ける 北京 の由 審問 問題
︵堀 地﹀
丈υ
丹 ︑υ
東沖史論集四五
た
︒ そ れ は
︑ 第 一 に 米 商 の 米 韓 在 産 に 対 す る 数 糧 を 定 め た 退 綾 禁 止 で あ る
︒ た だ し
︑ の た め 規 定
数量以上の米糧を一時的に保有することは禁止せず︑米痛の市場流通における機能を正確に認識していた︒第一一に京師
からの米韓撮出に対する制限であるが︑京城以外での京留米撞の需用は大きく︑清朝は米穀の搬出を輯践することはで
きなかった︒また︑歩軍統領衝門の杜撰な城内管舗は米穀む域外流出の一一課躍でもあった︒禁令にもかかわらず︑商品
先された俸禄米︿糟糧﹀が京都から流出し︑拐潜に用いられているとの指搭は多く将搬するが︑前穣では詳細に論じる
ことはできず︑事後の課題とした︒本稿では図譜問題に限定し︑晴代北京における食糧問題の⁝斑を論じるものである
9一九五八年に中原晃壊が公決した研究によれば︑摺糧は北避の途上で旗丁や水手により売諒され︿議売﹀︑北京と通列
で王公・旗人に支給された滞糧は商人に売却され市場で流通した︵援米放出﹀︒固積回濯については︑糟船が寵下する田
空後の監視が緩んだ時期に北京から米が持ち出され︑楊村・湾酉務一帯に問横された︒渚朝は回漕を議禁としたが︑そ
の理由は︑北京よれソ持ち出された﹁比等の米が糟船によって二番菜として利用されること︑買い漁り投機相場が北京⁝
するためであったす吉中原は回漕と誌荷かを明確に規定して泣いないが︑漕糧が北京から流出し
議 訟 に 売 却 さ れ
︑ 再 度 謂 麓 と し て 納 入 さ れ る こ 怒 る
︒ 残 念 会 が ら
︑ 中 原 の 行 つ い て は 不 明 な 点 が 多 い
︒ 保 革 一 嘉 慶
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・ 糟 糧 徴 収 時 の 浮 収 と 折 納
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論 は 菌 讃 に 重 点 が 驚 か れ ︑
選光年嵩の旗丁︵運了︶によ
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3︶O
張瑞威は一八世紀における江南と華北と
φ長距離来穀交易を論じた研究において︑清朝官療は溝来が北かへ
することを問糟と縛したと指摘する︒一八世紀における回漕問題について︑張瑞威は花京と通弼の漕米の価格が安舗な
ため︑漕米が議選されて南流するのは珍しいことではない高髄な輪送費と官掠の識しい監視のため︑販運の距離は
姐 く
︑ 倫 運 さ れ で は な か っ た と す る す
﹀
︒ て い な
・ 道 光 年 間 の 間 滞 開 題 を 取 り
上 げ
る ︒
の貧汚等につい
山本進は︑回漕とは漕米が京師から流出することであり︑京師から持ち出された漕米は天津へ集積されていたとする︒
清代中期より︑北京と天津で回漕が深刻化した原因は奉天米の華北流通と同じく︑山東粗布の移出増大によるものと推
測す
る︵
5︶︒さらに︑山本は運び出された米糧は北京郊外の集荷地で取引され︑山東方面へ移出されたとする︒回漕のプッ
シュ要因は︑窮乏化した八旗兵丁が兵米を全部売り払うようになったこと︑及び廉価な雑糧が京師に出回るようになっ
たことにあり︑プル要因については︑京師から持ち出された米穀は天津を経由して大運河を南下︑清代中期より直隷南
部と山東北西部へ流通し︑同地域で勃興した綿業による食糧不足を補填したと論じる︒嘉慶・道光期には京師に運ばれ
た漕糧の一部が直隷南部・山東方面へ流出し︑代わりに奉天から雑糧が京師に流入した︒流出先から判断して︑回漕の
主体となったのは華北で食される粟米︵アワ・小米︶であろうと推測している︵6︶︒山本進の回漕に関する議論は︑ある
地域での綿作の勃興と綿製品の移出が当該地域の穀物自給率を低下させ︑その不足を禰補するために周辺地域から穀物
を移入し︑地域経済の再編が進展する主穀と綿との交換という独自の市場構造論の一環である︒回漕を漕米が京師から
流出するとの点は部分的に同意するが︑そうであるならば漕糧に占める比重が小さい粟米がなぜ回漕の対象となってい
たのかを理解できない︒山本の行論は本論で批判的に検討したい︒
本稿では︑最初に回漕の実例を提示してその実態を明らかにし︑次に回漕の要因を論じ︑最後に清朝による回漕対策
を述べる︒考察の地域は北京と通州とする︒通州は漕運の要衝であり︑非常に重要である︒使用する史料は︑奏摺を主
とする檎案史料であり︑実録に収められた上奏文や諭旨よりも情報量は豊富である︒なお︑本稿では史料用例の多数に
従い︑北京を京師・京城と称する︒考察の年代を嘉慶︵一七九六
i
一八
二
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︶・
道光
︵一
八二
一
1
一八
五
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︶年間に限定する理由は︑管見の限り︑棺案史料中に回漕という表記が出現するのは︑ほぼ嘉慶・道光年間に限定されるためである
が︑必要に応じて前後の時代も考察の対象に含める︒
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶
‑37‑
前議で明らかにしたように︑京師から出城された米穀は周辺農村で食用に供され︑また京域内外の価格差に乗じて販
売された︒回漕の学畿は潜糧が本来の移動の方向を転換して︑出発点の方向に逆行することでる
hソ︑京師から出域され
た米穀は通州に向かった︒灘光一一一一年五月︑東便門外陶家鴻に住む大輿黒人の李十︵一一二議﹀は生活に困窮し︑米糧販
濯で生計を立てようと考え︑朝陽門内の器産で稜米と老米計一一 O 誌を購入し︑毎ヰ欝銭回文で運搬入の諜大を一握い︑
米を背負って通州東関まで運搬させ︑計量して髄格を決め︑斗行の梁姓に転売した︒斗行梁姓は通州東関の韓賠と交易
し︑米殺を仕入れていた︒李十は斗行梁姓から毎酒京銭入 i 九吊を受領し︑米穀投入れの下請けを行っていた︒強大は
背運出域的途中で宮入に拘束され︑李十も捕らえられ米結と銭票を押収されたす﹀︒この事案では︑生活国窮の李十によ
る朝湯門内での米穀購入
l通州糧活
i斗行梁姓という経路で米穀が流通しており︑京師!鴻州問における米穀流通経路
の春在を示している︒ただし︑生活困難な李十が米穀を仕入れることができる資金を所持していたとは考えられず︑ヰ
行
i撞店の米穀流通経賂の事在が事十のような生活密苦者に米穀を出城させたと考えられる︒本事案は田糟案件として
処理されたが︑その顛末試後述する︒
乾 蜂
一 一
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一 一
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一
OR 二九日︑調連総督托時は一戸部の杏を受理し︑乾隆惜の次の上議を奉じた︒今年︑外省の
糧船が北上する時に旗了は沿途で官米を払売し︑兵 γ は賄賂をもらい私売を陪蔽している︒通婦での漕糧納入のさいに
溝糧が納入額に逮しないと︑旗了は通郊で安く米を仕入れ︑不足額に充当している︒連邦で不足分を賀補するならば︑
京 師 に 入 る 米 糧 は 減 少 し
︑ る
︒ 譜 運 総 督 托 時 は こ の 弊 饗 を 除 去 せ よ
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このような北上運撮途中での私
よ る 綿 入 額 こ と で は な か っ た で あ ろ う
︒ し か し
︑ 問 題 な の 法 北 上 沿 途 で
東洋
史論
集問
問五
回 漕
︿一︶回漕と漕彊
QU Qd
よ る
規定納入額の不足分を通州で買補して充当することであり︑それにより漕糧納入額の減少と民食への悪影響を生じさせ
ることである︒この上諭では︑京師からの米穀流出と回漕を直結して問題視してはいない︒
乾隆五四年︵一七八九︶年自序の松錆﹃百二老人語録﹄には︑漕運総督の責務を述べた一節があり︑その中で回漕の
弊害を記している︒大運河は天津付近で川底が浅くなるため︑漕船は小型の剥船︵9︶に漕糧を積み替えるが︑小船夫は漕
糧を倫窃し︑また水を混入させる︒旗丁は糧庁で額数通りに納糧できず︑自らの行糧で額数不足を補填する︒好買舗戸
は京師官員の俸米を預買して回積し︑俸米を旗丁に転売︑米は回漕に用いられる︒このようなことは毎年行われており︑
水増しされた漕糧は徽びて食することはできず︑倉儲を減少させる︒京師では漕糧の不足分を回漕で補填することは従
来からであり︑南米が少なくなれば︑北米はより不足し︑米価が高騰すると
8
︒管見の限り︑この史料は回漕という表現で問題を指摘した最初の記録である︒旗丁が漕糧の額数不足を補填するために︑商人が回積した俸米︵漕糧︶を購入
し納入することを回漕とし︑それが倉儲の減少・京師の米価高騰に直結すると指摘している︒
前稿で述べたように︑嘉慶五年三月一日の巡視東城御史徳新・狂鋪の奏摺と内閣上諭は︑回漕という表現こそないも
のの︑禁令を破り京師から持ち出された米穀が漕糧の額数不足に流用されることを禁じている︵日︶︒嘉慶九年七月に歩軍
統領街門の番役により摘発された案件は︑奏摺史料中で﹁冒ハ米回漕﹂と記された最初の実例である︒番役頭目郭起鵬は
通州で糧船による買米回漕を探索していた︒七月一
O
日に番役頭目は三進温州前需の旗丁呉際高と胡連等を買米回漕の 容疑で捕らえ︑あわせて米三三石を押収した︒胡連等はすでに米一九O
余石を糧船に引き渡していた︒胡連の供述によ ると︑胡は四五歳の通州人で︑七月八日に素識の温州前轄の旗了呉際高に二四O
石の調達を依頼され︑程九と楊振から 米二三O
石を毎石銭四吊五OO
文で仕入れ︑呉際高の糧船に一九九石を搬入し︑旗丁呉より毎石銀三両三銭︑計四00
両を受領した︒旗丁の呉際高は漕糧が納入額に足りず︑通州で買米を企図したのであった︒二三
O
石の米は程九︵通州人︑三
O
歳︶が胡連に調達を依頼され︑通州の永隆号米局で素識の楊四から購入し︑程九は胡連より毎石定価四吊五O O
文︑計九OO
吊の銅銭を受領していたが︑胡とともに掌獲された︒また︑胡連は六月に寧波需の旗丁方に米二O
石購清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶
QU
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東洋史論議郡五
入 を 依 頼 さ れ
︑ 計 六
O 再を領収した︒の漕韓は各地の納入額数を装載し︑通州まで輸送するの
であり︑通知到着後に買補間講ずることは厳禁であった
2︶︒局とは正公・旗入よれソ濯糧を収賢し︑小発うの米舗に転
苑する来構であり︑旗丁呉際高が購入した米は糟糧に廷かならない︒質米自潜とは︑旗了と米穀取扱業者との聞で行わ
れる蕗品化された糟糧の再循環であり\過去に通州と京都で納入された潜穫の再納入である︒
護慶二一年八月に通州の大斗舗が米石を収買し︑議船に販売して謹還を播壊した都競で捕縛され︑旗了からの書⁝舗と
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連剤東関で大斗舗を開設し米都を収質した︒仏領入は舗移と燕織り八人に一石あたり二 OO 文の手数料を支払い︑謹船へ
米 石
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O 五 O 石を寂売させ︑その宛上金額は銭六四 OO 吊でるった︒賎米先の詳細は︑鎮海轄に稜米一一・二五石︑得
銭七八吊七五 O 文︑寧波需に稜米一九五店︑得銭八一一吊九 OO
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文となる︒各地の糧船が米石を購入した目的は﹁議捕糟米﹂であった︒これよれソ以前に征中ハは武智旗了の何兆珍に米石
を寂売したことがあった︒押収された書信は旗了間兆珍からの購入する米石の缶入れ注文の依頼状である︒さらに︑徐
八等は倉場総督衛門の鋪一戸を議査する巡役八人に対して銭六六吊を贈賄し︑摘発を逃れていた五芯遠州の米市は州域内
の鼓綾前東街口に所在した︒東関は漣測と接する持域外東の関廟であれソ︑吋糧食市口﹂という巷があハソ︑また傍日雑糧事
が開館されていた︒これより︑運河に近い東関誌︑遠州における溝糧も含めた米穀交易の中︑むでるり︑回漕を有うには
格好の地点であったと考えられる五百
徐八と大斗舗開設に出資した在六は糧訟の漕種が納入額数に不足していたことを知今︑舗移の馬端に口利きをさせ︑
各地の漕船に栄一
0 0 0 余石を売与し︑漕船は潜糧の額数不思を檎った︵添補交譜︶と供述している︒取れソ諒べた官員 によると︑通知には他にも大斗舗が事悲し︑大斗舗によこの案弁に止まらないとしている︿答︒この案件は
‑40‑
恒常的な旗丁と大斗舗との米穀交易の一斑を示すものである︒旗丁は事前に大斗舗に米穀調達を依頼し︑大斗舗はそれ
に応
じて
一
O
五O
石という大量の米石を仕入れ︑漕船はその米石を購入し︑漕米の不足を補填している︒漕船の出航地は七地方であり︑通州で米穀を購入し漕糧に補填することは一定の広がりを有していた︒
回漕は単に漕糧が京師から流出することではなく︑大斗舗と称される商人の手を経て︑漕船が漕糧を購入し︑漕糧の
額数不足を補填することである︒これは漕糧の再循環・再納入にほかならず︑ひいては京通糧倉に納入される漕糧の減
少を招来する︒このため前稿で論じたように︑清朝は京師からの米穀出城に制限をかけ︑精米された細米一石までで肩
挑負販のみ︑駄馬車輔による搬出は禁止し︑未精米の粗米は頼粒といえども出城を禁止したのである︒米穀の品質維持
上︑漕糧は粗米で北運され︑納入時も粗米であり︑粗米を出城させないのは糧船による漕糧購入︑すなわち回漕を防止
するという意図も合意されていたと考えられる︒
嘉慶一五年三月に掌江西道監察御史陳超曽は︑京師からの米穀出城禁止と回漕防止を次のように論じている︒向例と
して京師の米石が出境を認められないのは︑倉儲を豊かにし回漕を防止するためであり︑京倉の積貯が充実すれば︑民
食も充足する︒漕船の額外の余米は通州で販売することが認められており︑商人の販運と流通は禁止されていない︒し
かし︑風間では商人は経紀と結託し︑販運する米石は某所から某所に運搬すると記した商品明細票の偽造を行い︑出境
の痕跡が露見しないようにし︑実際には車輔を連ねて郷村に米穀を固積し︑ひそかに天津一帯に運び漕船に売却する︒
これ
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趨利
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時︶
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︵二︶嘉慶一九年王三案と回漕向け米糧の形状
嘉慶一九年の玉三による私販米石出城案は︑清朝が何を回漕としていたのかが明確になる案件である百︶︒王三は武清
県人︑長兄王大は京師広渠門内で天泰雑糧店を営み︑玉三は次兄王二とともに広渠門外で信豊店を開設していた︒間二
月初め︑王三は天津県北門外の兆来斗店の丁来兆に楼米六九石を毎石銭八吊で売る商談が成立し︑五日に姓名不祥の婦
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶ 噌E
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東洋史論集四五
女と幼該を一履い︑求せて京城内より搬出させ︑広襲門外の告豊−店内に保管した︒間二月一
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長蔑壌政広惑の取り調べの結果は下記のようであった︒丁来兆︵丁兆較﹀は天諦県蒲口の入︑嘉慶一七年より天津議
北門外にある事倒宜が経営する菟来斗店の彩計︵諾員﹀であった︒斗行と詰官粘を発給され︑・管轄の斗を用いる仲間見輯
人でるり︑客に変わって穫食を売買し︑手数料を徴収した︒店主の李彊宣法平時は在店せ︑ず︑了兆岐︵了来兆︶に経営
を任せていた︒客叫燃が鵜食を売りに来ると︑了は粘を発行して糧食を引き取り︑取引が終わると清算し︑発行した結は
活に保管せず持ち揮った︒兆来斗店は嘉慶一八年四月から一九年欝ニ足までの聞に︑電車旦と天泰から米一一査九石を社
入れていた︒了兆較︵丁来兆﹀の供述によると︑天津では米鍾が高藤したが︑竣米は安鰭なため需用があ号︑取れソ扱う
販米の最も多かった︒稜米の形状は全て精米してある細米であれソ︑各種食店が仕入れ︑人々の食用向ぜに競売するもの
であり︑漕種船が回漕に用いることはできないと供述している︒斗店は客の売翼を代行して手数料を絞め︑京外の舗一円
と結託して語還を行うことはないとも供述している︿態︒天諜で兆来斗店より米を仕入れた舗戸は︑購入数量一
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00 石が三六店︵計七三士一石︶︑一 O 石 i 一 00 1 六
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五七若が取引されており︑斗躍を中心とした米穀流通の実態を知ることができ非常に興味深い︒その中勺も︑一
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大学士管理刑部事務重詰は用部に解迭されてきた了来兆と賑簿を蓋接取り調べ︑了が一年内に天津の舗戸に一万四六 00 石を販宛したことは明らかに興販田漕でるると判断し︑直隷総督嘉彦成に米を質った一大津の舗戸を調べさせるよう
に譜旨した詰︶︒嘉麓潟市は京商と京高の来語は高騰しているが︑壬一一一等はそれらの地竣に米を究天津のみに行くの
は漕船の旗丁と還己︑米殺を閥横し旗了に販売するためとして︑直隷総督那彦成に天津の舗一戸ベを命じた︵君︒
直隷総督蔀諺或は舗戸一
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余 惑 を 拘 束 し 取 り 調 べ を 仔 う と
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来すと難色を示した︒天津は五方雑処︑人煙桐密︑商買輯鞍であり︑僑寓する南方の民人も多い︒天津の稔米の年間消
費量は二万石であり︑河道が北は通州︑南は河問︑西は保定︑西南は大名府より河南に通じている︒沿河州県の居民の
需米は天津から流通するのみならず︑日々商販により流通し︑船隻は米を買って行船の食用にしている︒需米の数量は
大量であり︑天津の米は数郡の民食にとって重要である︒また︑回漕の弊害は嘉慶二二年に勅命で刑部が治罪を定めて
以降︑米舗と旗丁は法を恐れ沈静化している︒通倉では︑通州に到着した帯船の精米済みの稔米を受理することはなく︑
旗丁も決して精米された米穀を買うことはしない︒本件で問題されている稔米は精米されており︑興販回漕ではないと
する︒そして︑嘉慶帝に刑部が王三を再聴取するよう要請した
a
︶O嘉慶帝は那彦成に対し︑委員を派遣して調査し︑王三が丁兆岐︵丁来兆︶に売った米石が確かに細米の少額販売であ
れば︑王を処罰しないが︑販米に粗米を混入させ回漕を行っていたならば︑厳罰に処するように命じた︵お︶︒嘉慶帝は京
師からの大量の米穀搬出が回漕に使用されているとの強い疑念を有していた︒那彦成は正定府知府を天津に派遣し︑了
来兆から米を仕入れた舗戸の査察を行わせた︒舗戸は了来兆から購入した米は﹁去皮細米﹂で︑数升から数斗の小量の
小売りであり︑回漕をしていないと主張した︒正定府知府は売賑︵販売台帳︶を検査し︑日々の稜米と雑糧の販売数量
を確認したところ︑多くは数升数斗から一
1
二石の販売であった︒一O
石以上の交易をしている米舗の米は︑長蓋塩政が細米であることを確かめ︑細米の実物を嘉慶帝に進呈した︒那彦成は正定府知府の調査に基づき︑各舗戸が斗行の丁
来兆から購入し転売したのは細稜米であり︑粗米の混入はなく︑帳簿の担造もないので︑取り調べを行わないように要
請した︒また︑大口交易の商人二名も小量の小売りと転売であり︑その米の実物を御覧に提出すると表明した︒ようや
く嘉慶帝は﹁知道了﹂と殊批を付し︑回漕がなかったことを納得した︵き︒刑部の審議を経て︑王三は一年間に一一
00
石米を像運したため︑杖一
OO
︑棚号三ヶ月︑発辺遠に処された︵包︒嘉慶一九年の玉三案より︑漕糧は粗米での納入が必須であり︑精米された細米は回漕の対象にはなり得ない︒商人に
商品化された漕糧を精米して販売することは回漕ではない︒前稿で明らかにしたように︑清朝は京師からの粗米搬出を
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶
q o
Aせ
東洋史論集部五 認 め ず
︑ 組 米 一 石 ま で の 搬 出 の み を 容 認 し て い た
︒ の 数 量 制 限 と と も に
︑ の は
︑ 藩 糧 の 商 品
流通は容認するものの︑補船の旗了が通州到着以前に粗米の形状で糟米を購入し︑それを漕糧として結討することは︑
補輔の一得議環であり︑放霞する立ら講櫨と京通糧倉に讃蓄される倉穀の減少という深刻な問題を惹起するためである︒
山本選は回漕を京師から穀務が読出することと規定するが︑回漕とは穀物合法師からの単なる流出ではなく︑糟運に
関連して問題となる現象である︒漕糧の大部分は謡米でおり︑また京都から雑種の搬出が禁止されていないことから︑
雑還が回漕の対象となることはあり得ない︒嘉襲一一二年九円刀︑報酬の銭を受領し米穀を出城させた日革門領の孫紹笛辻︑
小米・倉米︵漕糧の小米議﹀了雑糧は石数を関わず︑純米は一五以内であれば京師からの出域泣能より認められている
が︑粗米の老米と稜米は穎粒も出城は許されていないと供述しているさ︒これより︑粟米である小米と食米は禁令の対
はなく︑京鵠からの出城と流鴻には輯践がない︒また︑管晃の擦り︑らの粟米穀出を回漕とし
いだ
し得
てい
ない
︒
‑44‑
思漕の地点と手法
一 年 一 一 舟 の 奏 翠 に よ る と
︑ の 穫 弊 で あ り
︑ 近 年 は 取 り 締 り を 強 化 し て 弊盛岡は根絶できていない︒そこれまでの回漕取り締り試潜糧紛が通州に到着して以後︑京師と通州と
のみで四戸の査察を行っていたためある︒回漕向け米石の退蔵地点は︑大半が通知以甫の糧船が航行する湾
西務と楊村一帯であれソ︑これらの地は京内営域の捜査が及ばないと︵雪︒監察御史程岡仁は京都官憲の捜査が及びにくい
通州以南の糧船の経路で︑回漕向けに米穀が盟積され︑間摺に用いられていると主張している︒河商務と揚村ほ顕天府
武清県の北運湾沿岸にあり︑河間務は通知と天津の中間地点に︑場村は天津府域から約一一一
0
キロに所在している︒とも の重要な経路であり︑士七二七︶年に河西務に駐衝する北運河務関関知が︑楊村に法楊村連判が新設さい 暗 ︒
れた︒また︑両地は定期市が設寵され︑それぞれ一
0
日 間 に れ て い た さ
︒
嘉慶一一年一ニ身︑嘉駿櫛は臨隷総督泰承患に対し︑通州帯で間積と潜船に米穀を販売する好関の調査を命じ
た︒泰承思は武謂諜知謀を閥横調査に提遣し︑その結果は以下の通ちであった︒通州域内的糧践はムハ
01
七O
産︑積貯数は稜老米数店
i
一O
在︑張家湾と馬頭はそれぞれ癒店五1
六庫︑積貯数は稜者米数十五1 2
一
O
石︑河西務と揚村試それぞれ犠店がこ
Oi
O − −
産︑
貯米
数七
斗・
1
ニ石であり︑河西努には場一度二家︑楊村は堆一鹿八家であるが︑税者米は鞍粒も帯貯なしであった︒当該地は大測に臨み︑帯艶が濯還を納入して甫下ずるさいに︑余米を出売することはあるが︑そ
の数護法多くない︒剥船の食米は水手の留慣が異なるため服食になれず︑現地で売却してしまい︑各舗は水子の食米を
購入し販売するが︑その取り扱い数量は少ない︒各舘からむ聞き取りによれば︑自分たちの交易は一
E
単位であり︑全て貨物の捷還に故蒋しており︑今年収質した米を保存して来年に販売すれば︑成本を割り込み損益が生じる︒かっ︑京
城城内の稽資法議しく︑多くの米が出城することはない︒自分たち商人は回積居奇し出糟に待機すること誌ない︵君︒武
清県の閥横調査は嘉慶一一年から二八年後の滋光一四年にも行われ︑河西務は糠店一一
O
産︑薬村が三八産︑通知運河沿いの東関・張家湾・馬頭村・安平鎮に計一一回惑であるが︑錨一戸笠間縄梁・黒一思・小米・麦麺の雑糧を積貯しているが︑米
芯を閥横し回漕で利益を得ていないと述べている︵
g o
上述の北運河における米錨調査の結果は︑京欝周辺での米穀流通を考察する上で非常に寄益である︒調査対象となっ
た撞舗は︑通州周辺における食糧流通の末端で零績な交易に従事し︑穀物を最終消費者に販売する小売商であろう︒官
方が想定した問糟の地点は通期以南の北運河沿岸でるり︑その手法は謹糧の給付が兜アし糟船が溝下する七月以降に︑
舗戸が京締から搬出した米穀を罵積し︑次年の樺船北上を持ち糧船に販売するというものであるGしかし︑通州以南の
横舗は物流に依春した一日単位の零締経常であり︑一年関も米穀を保管すること誌費用がかかり利益にならないと︑
方の想定を否定している︒
それでは︑思漕に暗躍する商人とはどのようなものであろうか︒の弊害は久
靖代 嘉藤
・遊 光年 間に おけ る北 京の 詔護 問問 題︵ 器地
﹀
rO
4
東洋史論集問五
しく問題とされているが︑摘発された者は誌とんどをく︑った婦女と子供を語開すると︑郷村から来域し食糧
を購入していると答え︑捜査は非常に難しいと述べている議否確かに回漕を問題視する奏摺は多いが︑実欝に犯人等が
捕縛され︑事業が詳細になる事鰐誌多くない︒先に述べた道光二ニ年五万の事十が竣老米一一 O 石を連州東関の斗行梁
姓に簸苑し捕縛された案件は︑民稽案件として処理された︒梁姓すなわち梁十が事十から購入した米は郭一一一が収岡県し︑
郭 一
一 一
法 糧
船 各
轄 に
苑 来
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舎 で
︑ 写
賑 人
一 一
名 ・
鵠 エ
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一 戸
四 名
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捕 縛
さ れ
︑ 者
米 五
倍 ︒
石 ・
斗 斜
・ 賑
簿 ・
発結も押収された︒本嬢人龍玉の供述によると︑諒一一一は通州で市場に流連している米と糧飴の余米を収買し︑米に水を
議 ぜ
て 容
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増 や
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米 一
一 一
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余 荷 を 准 安 ・ 太 倉 ・ 杭 州 ・ 紹 興 の 各 智 糧 齢 に 売 り ︑ 銭 一 万 一 一 一
0 0 0 余
吊 を
手 に
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郭一一一は四一歳︑通州東関外の羅家口で大斗欝を開設し︑各帯船に譜種として納入する米を販売していた︒官蔚の追求を
恐れ︑販簿には米と記さず︑紅麦・由変と記帳した︒歩軍統領警英等は⁝
0 0
0 余石を翠踏に販売しているので︑これ
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話 ︒
この案件ょう︑貧民︿李十︶が京語ょう時間開化された譜糧を搬出し︑通州の斗一行︿梁十﹀がそれを購入し︑さらに通
州の大斗舗︵郭一一一﹀に流れ︑さらに糧掛が大斗舗より賀来し官府に収めるという回漕の循環を礎認することができる︒
大ヰ舗は呂濯が露見しないように︑米を麦と偽って記較しており︑凹漕が広況に行われている可能性を示唆するもので
ある︒道党二二年九用の拙査潜糧御史嫡輝と趨光の奏揮によると︑通州の大斗鋸は回漕と探く関わっており︑糧船の暫 7
・ 鈴
戸 と
句 通
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米 穀
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広 務
道 監
察 御
史 趨
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道 光
一 四
年 一
一 同
月 一
一 九
日 の
奏議試興味深い事実を記録している︒すなわち︑通州連河沿いの好謁は地陵と結抗して銀銭字号を開設し︑大斗舗とも
綜した︒このような大斗舗は通州では興睦・万降等号一一 O 余家を数えた︒大斗舗は銀銭交換を名臣に糧船の暫了・援船
︵誕船︶の水手と結託し︑高利貸しを行っており︑船一戸に銀銭を貸与し︑負債を現物の講樺で償濯させ︑これが大斗舗に
よる違法な漕糧売買と閥横田糟の瀧床になっていた︒通州の大斗舗は金融業者でもあ号︑船戸への金銭貸与を漕糧の現
物で償還させ︑それを回漕用に転用していたき︒これより︑大斗舗の組織性と専門笠を晃ることができ︑これは末端の
‑46‑
小売商とは異なる特徴と考えられる︒
道光一五年八月に礼科給事中高彰は次のように上奏している︒東直門からの出米は多く︑男婦老幼が肩に背負い︑あ
るいは車輔で米が運ばれてゆく︒米は全て東直門内の米店が発給した粗米であり︑羊骨や灰を混ぜ︑粗米と分からない
ようにしてある︒米穀は京師南西の房山県長営村に運ばれ︑そこから再度通州城へもたらされ︑通州の大斗舗が集めて
上船交納した︵想︒道光一六年二月に御史趨光は通州の大斗舗を取り締まったが︑大斗舗は興隆から衆盛のように店舗名
を変更して存続し︑大斗舗を根絶することはできなかった白︶︒
回漕は通州で行われるだけでなく︑地域的広がりを有し︑大運河から離れた地点でも行われていた︒道光一四年六月︑
歩軍統領岩田英等によれば︑順天府が通州で取り締りを強化したため︑通州での興販者は少なくなったが︑京師より南西
約五
0
キロに位置し︑大運河から西に位置する順天府淑州の琉璃河で倫運が行われているという︒岩田英は番子頭目を滋州の琉璃河に派遣し︑六月初めに番子頭目は経紀劉尚敬を捕縛した︒劉尚敬は永和大斗局を開設し︑船で米を順天府南
の文安県盛一房村まで販運し糧船に転売していた︒あわせて︑番子頭目は俊米一三六斜︵六八石︶と老米六斜︵三石︶・銭
文・帳簿類を押収した︒劉尚敬は啄州の経紀であり︑馬頭村で永和大斗局を開設していた︒馬頭村には斗局が三家あり︑
流通する米の計量から手数料を徴収していた︒斗局の営業期間は四
1
七用であった︒この四月から七月は糧船が通州に到着する時であり︑各地の民人は京師に行き︑糧店で購米し車輔で馬頭村に輸送し︑大斗局の計量後に販運人に米を売
る︒次に販運人は船で文安県の盛房村等まで運米し︑米を別の販運人に売る︒最後にその販運人が糧船に売米し︑その
一日
の販
売数
は一
01
三O
石であった8 0
淑州の経紀劉尚敬の供述より︑回漕にいたる米穀流通の経路と介在する商人は︑京師ー滋州︵経紀・大斗舗︶|文安
県︵販運人︶|漕船となる︒京師から米穀が搬出される時期と大斗舗︵大斗局・斗行︶の営業期間は漕船が北上する時
期と重なっている︒大斗舗が回漕に介在し︑京師から持ち出された米を斗併で計量するのは︑現地で使用されている容
量と漕船が用いる容量を合わせるためであり︑回漕は大斗舗︵大斗局・斗行︶の存在なしには交易が不可能であったと
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶ 円i4 4
東洋史論柴田五
ら れ
る ︒
一年九万の奏摺では︑京鰐から持ち去られた米穀が天捧や山東の篠持まで接送され︑いたる経路が具体
いている︒毎年一一一月から五月︑南糧が要所を通過する前に︑開講を準議するため京師から米穀が搬出される︒
京部外域の広助事︿広安︶門・右安門からは︑外側を雑種で覆い隠し︑その中記者米と稔米を轄して公然と大車で運び出
す︒永定・・在安・広畑別・東復・襲陽・東直・安定等合各門からは袋を背負って出城し︑域外の錦戸に一一時保管の後︑夜
陰に紛れて櫨馬で運び去る︒西南の諸門より車輔で出城した米培︑京師南西に約五 0 キロに位寵する黄土坂で船に載せ
られ︑源州の琉璃河よれソ馬頭村を経由し運河の東岸に溜ばれる︒高東の諸門より櫨馬等で運ヴ出された米は︑域外の小
路から張湾に運ばれ︑張湾で溜河を液
hソ 天 捧 の 運 河 東 岸 の 鎮 で 錨 一 戸 が 悲 貯 す る ︒ そ の 後 ︑ 天 捧 に 帯 貯 さ れ る も の も ・ あ れ
ば ︑
山 東
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︵ 告
︒ 道
光 一
一 年
一 一
刃 ニ
O 日の上論では︑御史恕邦議の上奏に基
づき︑山町別文門外の米市は好商が多数集まる院域で弊笹が多いので︑歩軍統領衛門と顕天府︑及び五城巡域街史に私販出
城と間積を駐ハソ締るように命じるとともに︑保定府緯県の忠溝湾は水路で天薄・山東の徳州に通じ︑好売が米酒を問積
し︑謹訟の撲了と不法行為を行っているので︑直隷総替と山東巡撫に査撃を命じているみ﹀︒このように京師各門から︑
わ ざ わ ざ 護 運 の 経 路 で あ る 遇 制 の 方 向 に 持 ち 出 し
︑ の 議 州 に ま の は
︑ 京 師 一 帯 で の 取
り締りを逃れるためであろう︒
…
48‑自漕の要因と対策
︿一﹀自藩の張図
本 軍 で は 田 潜 自 濯 の 要 因 の 第 は 議 運 制 度 の 弛 緩 に あ る
︒ 道 光 一 掌 京 畿 道 監 察
御史許球は次のように上奏している︒詔濯の弊害は販戸の顕積に起関するが︑その摂諜は帯丁が摺糧の額数を納入でき
な い こ と に あ る
︒ 具 体 的 に は
︑ の 穀 物 で は な い の 代 納
︿ 折 納
︶ と 北 上 途 中 で よ 号
︑ 遠 州 到 着
後納入時に額数が不思すると︑販一戸と結託して京城の流出米を購入し︑それを漕糧に混入させて納入する︒護運を担当
する官僚は漕船が准安を通過するさいに︑議糧を検査し頼粒の不足をも容認せず︑運弁の不正を取り締り︑遠州到品零時
に規定額を交納・寄せれば︑旗丁と商人が結託して田糟に及ぶことは玄い︒沿途での膿諒による損耗は必ず生じるが︑損
耗した米安過州と天諜で譜糧の余米を同県補すると詳して︑実際に誌回潜によれソ補填している︒道光二一一年の顕ニ議結船
は正
耗米
一一
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余石
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OO
荘が不足し︑天津で譜款し不足分を買補した︒講話の前頭四轄と揚州の頭一暫は計五七
OO
余石が額数に足らず︑旗了が通州と天樟で賀補した︒天薄と通州は蔵米地域ではなく︑正供米が規定額通りに納入できないのに︑大量の余米が読通しているはずは
なく︑旗了の翼捕時に溜州と天諜一帯の米価は高騰し︑京掛からの流出米も増加した︿窓口
通州での譲組織納入時の額数不足は旗了の不正によるだけではなく︑漕糧徴収時の愈欝の浮収と折告にあり︑漕騒の制
連以後も州燥の糧道は検査を確実に行わず︑旗了は各州県に訴色を求め︑商品を仕入れて京都で販売した︒議機議員の
旗
γ
に対する摺規もあ号︑旗丁はそれを口実江折色した米を翼播した︒額数不足の覆船誌山東の臨滑州において︑先に入を諸城県の善人種に派遣し︑米を貿って通郊に近い張家湾に運び︑船に載せて不足分を播った︒州問州糧道が旗ずの訴
急を放置していること︑及び委員の需索が漕糧の正額不足を招念︑盟議の要因となっていた︵想︒グラブ一は乾隆年間か
ら道光年開までに納入さぷた準糧の総額を示すものであり︑表中の直隷辻近叡植線であるが︑潜糧総額は緩やかに減少
する額向が見て取れ︑嘉農年間以障には乾隆年間の最高総額を超えていない︒漕撞の納入額数の減少は回漕の一つの遠
因で為ると考えられる︒
前稿守明らかにしたように︑京訴では︑速くとも乾経三七︵一七七一一﹀年よれソ車輔の使用は不可︑一廓挑背負により一
省以内までしか米穀の出城を認めず︑嘉襲五年には糧米の出域を許さ︑ず︑組米のみの出域を許可するという禁令が実施
さ れ
︑ 歩 軍 統 領 籍 門 が 城 門 で 米 穀 の 出 域 を 査 験 す る こ と に 立 っ て い た
︒ し か し
︑ 呂 潜 ら の 米 穀 出
靖代嘉藤・遊光年拐における北京の思槽問問題︿窮地﹀
‑49‑
東洋史論集四五
グラフ1.清代京通糧倉における漕糧納付
石 4000000
1000000
"°"0:i ,.w,,̲1$$>,,̲<o"l>,,̲"'"'""''b点 ρぷコ """ ""O:, ,,̲'t,"l> ,,̲Cf,' ,,̲,1)‑ (>.r::,'o dρ (>.~ <:>."I>°" (>.1> (>.":,r::, (>.":,'o (>.I$$>
1
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y、
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y李文治・江太心『清代漕運(修訂版)』(社会科学文献出版社、 2008)38・39頁より 作成、免改正米の数値。
3500000
3000000
2500000
2000000
1500000
城制限が厳守されていないことも挙げねばならない︒嘉慶二二年九月の広
西道監察御史の奏摺によると︑老稜米を固積する舗戸は毎石制銭二
0 0 0
余文で米を入手するが︑回漕向けに販売すると︑四
0 0 0 1
五
0
0 0
文と
二倍以上の利益が得られた︒このため高額な賄賂を惜しまず︑不法に米穀
を出城させた︒城門守備が求める随規は一定しておらず︑一石か一米袋が
数十文から数百文︑月毎の規費と季節毎の礼節など各種の賄賂が存在した︒
受賭した城門守備は贈賄人を暗に知っており︑逐一検査をせず城門を通過
させた︒城門守備と知り合いでない者からは随時に銭を受け取り︑城門を
通過させた︒検査が厳しい時には︑僅かな数量の米を背負った貧しい農民
に対しては︑苛飲に追求して難癖をつけ︑一応は城門守備の責を塞ぎなが
らも需索を行う︑これが倫運と記される米穀出城の実態であった︒広西道
監察御史は回漕を根絶するには︑城門の穀物搬出管理の徹底が必要である
と主張する︒具体的には︑京師城外で産する高梁と小米は出城禁止の対象
ではないが︑それらに老米や稜米を混入させて搬出させることが常態化し
ている︒そのため︑高︑梁と小米︵粟米・アワ︶も含めて︑京師からの出城
を禁
止す
るべ
きで
ある
と︵
必︶
Dただし︑後述するように︑京師の米糧出城が
全面的に禁止されることはなかった︒
道光二ハ年五月の鴻腫寺卿黄爵滋の奏摺は回漕に関わった人々をより具
体的に示している︒出米回漕の総塀として︑永定門内と朝陽門内の字号一
六軒と碓坊二軒の字号名を列挙し︑その中でも西珠市口の復興字号︑及び
n u
F同
U
朝楊門内の同益字号と裕興字号が指弾されている︒正藍旗人二名・舗頭一名・阜頭一名・捕役二名が各城門からの米穀
出城を引き受け︑千総門軍と勾通し︑城門通過の賄賂として小米一袋は京銭四
OO
文︑老米一袋は小米の数倍を収め︑
三日毎に精算していた︵哲︒二つの奏摺より︑米商・旗人・雑役・城門守の間には︑常態化した組織的な贈収賄関係が存
在していた︒また︑賄賂の金額と精算日時が具体的に示されていることも重要である︒米穀の仕入れ価格が回漕向け販
売するさいには二倍になり︑米穀の賄賂の金額が小米よりも数倍であることは︑回漕向け米穀が高付加価値商品である
ことを如実に示している︒
︵二︶回漕対策
回漕は清朝統治にとっては極めて重大な問題であり︑北京と通州における清朝の回漕対策を論じたい︒嘉慶二二年一
周に光禄寺少卿書興は回漕が公然と行われていると指弾し︑その原因を各省起運時に漕船は商品を積み︑米石の積載量
が減少するため︑沿河の米価が高い地域で盗売により利益を得ているためであり︑通州付近に到ると米を買って納入に
備える︒漕船は価格を問わず買米し回漕して納入を不足させない︒京倉より俸米として支給された米石は米局に収買さ
れる︒好徒は米局が収買した米石を回漕に用い︑巡役に贈賄し車運により天津に近い張湾まで米石を運搬する︒年に一
i
二件が起案され審判に因されると︑一旦は弊害が収まるが︑根絶にはいたらない︒書興は賞罰を定め出示暁諭し︑厳罰
化に
よる
回漕
の根
絶を
提案
して
いる
︵幻
︶
O起運時に漕糧が額数に満たないこと︑及び漕船の沿河での盗売も回漕の要因で
あり︑通州での納入額を満たすために︑高価であっても京師から流出した米穀を購入し回漕を行っていた︒書興は賞罰
の制定を奏請し︑嘉慶帝は﹁大学士会同戸部議奏﹂と批示し︑対策が議論されてゆく︒
書興の建議に対し大学士と戸部が議奏したのは︑第一には朝陽門外四倉一帯の米局を三ヶ月以内に城内の各倉附近に
移転させ不正を防止する策である︒賞罰については︑回漕を罰する専条が未制定であり︑嘉慶帝に対して刑部に敷下し
回漕で米を取引する者を罰する条例の制定を求めた︒これらの提案は﹁依議﹂とされた通︶︒刑部が奏定し回漕を罰する
清代嘉慶・道光年間における北京の回漕問題︵堀地︶ 噌E4
Fhu
東洋史論集四五
専門の条例が表一の嘉慶二二年回漕条例である︒回漕目的で米穀を購入した者に対する科刑は買穀数量が六
O
石以内であれ
ば︑
杖一
OO
︑徒三年に︑六
O
石以上は辺遠に追放され充軍に︑六OO
石以上で斬監候と死刑に処される︒米穀を
販売した者も販売数量に従い︑買穀人と同様に科刑されるが︑最高刑は極辺畑庫の地に追放であり︑死刑は免じられて
いる︒これは最初の回漕を専門的に罰する刑罰であり︑立法による厳罰化で回漕を防止しようとする試みである︒
通州に到着した漕糧は王公と八旗官員が通州にて︑八旗兵士が京師にて俸禄米として支給されるが︑支給後に俸禄米
の五割は商人に売却され商品米として京師内外に流通した︒漕糧の回漕を防止するには︑俸禄米が確実に京城内に搬入
される必要がある︒この問題について︑嘉慶帝は嘉慶一四年七月二六日に上諭を下している︒親王・郡玉・貝勃・貝子
は俸米の余剰米を京城内で売るべきであり︑そうすれば京師の市価は下がり︑民食も多く流通する︒しかし︑親王等は
通州から京師までの運搬費用を節約するために︑受領した俸米を通州で売却するか︑米票を好民に売る悪質な者もいる︒
その結果︑俸米は京師に搬入されず︑好民は機に乗じて俸米を盗み︑俸米の不正受領や回漕の原因となっている︒今後︑
親王・郡玉・貝勅・貝子の俸米は本年秋季の受領より︑都察院が満漢御史を朝陽門に派遣して支給額が京城内に搬入さ
れているかを調査し︑俸米の入城を徹底させ︑城外での販売を認めない︒これに違反した親王等には永久に俸米を支給
しない︒親王等以外の通州で俸米を受領する文武大員︑及び京城外の京倉で俸米を受領する官員と兵丁の対策について︑
嘉慶帝は一戸部に章程の作成を命じている︒実際に俸米を通州で販売した親王七名・郡王二名・貝勅五名︑売票した親王
一名・郡王一名・貝勅二名が列挙されている︵想︒
戸部事務の禄康は領米章程を議奏し︑嘉慶帝の裁可を得た︒領米章程は第一に俸米は朝陽門での登記後に全て入城さ
せることとした︒具体的には︑嘉慶一四年八月より︑京師城外の糧倉より俸米を支給される文職四品・武職三品以下の
官員と兵丁の月米は︑支給時に都察院より御史二名・歩軍統領街門より司官二名を朝陽門外に派遣し登記を行う︒登記
は 一
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日ごとに一度上奏し︑京城内より俸米を出城させて売却することがあれば懲治する︒第二には俸米の領米期間を限定した︒俸米は二ヶ月以内に受領を完了させ︑期限を過ぎて受領しない者は倉場衛門等が厳査することとした白石こ
︒ 山
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表
1 .
『大清律例根原』における回漕関係条例 清代 嘉 慶
・ 道 光 年 間 に お け る 北 京 の 回 漕 問 題
( 堀 地
)
条 例 名 内 乍"; 出 所
一、運糧旗丁、除所運正項糧米、或因遭風沈失、報 案有拠。或因折耗過多、鹿短有因、例准掛欠搭解、
の照例現時理、及正項漕米交足之後、買米食用並非 嘉慶 回漕者、母庸治罪外、其実因正項目臆短、但経買
548‑549頁 13 (1808)年 米国漕、計其所買米数、不及六十石者、杖ー百、徒
原 巻34戸律倉 三年。六十石以上者、発辺遠充軍。数満六百石者、
回漕条例 擬斬監候。売米之人、其所売之米、与問罪。至死 庫下 者、減発極辺畑庫充軍。除旗丁所買回漕米石、及 売米之人所得米価、照追入官外、の計買米売米石 数、照監守盗本例、勃限厳追、分別現時理。
一、凡京城粗米、概不准出城、如郷民進城買細米 食用者、一石以内、准其出城、一石以上、即行厳
610頁 嘉慶 禁。如有逮額販運、照違制律、杖ー百。若一年之
原 巻38戸律市 19 (1814)年 内、倫運細米出城至ー百石以上者、加糊号両個月。
塵、市司評物 細米出城条例 五百石以上者、柳号両個月、発近辺充軍。一千石
以上者、榔号三個用、発辺遠充軍、各杖ー百、米 価、原例 石変価入官。
①一、京城組米、概不准販運出城、如有違例私運 出城者、除訊有回漕情事,即照回漕定例蹄理外,若 訊無回漕情事,実係僅図買回食用、或転売漁利者、
一石以内、即照達制律、杖ー百。一石以上、杖ー 百、棚号一個用。十石以上、杖ー百、糊号両個月。
二十石以上、杖六十、徒一年。三十石以上、杖七 十、徒一年半。四十石以上、杖八十、徒二年。五 十石以上、杖九十、徒二年半。六十石以上、杖ー 道光 百、徒三年。ー百石以上、発附近充軍。五百石以 611頁
上、伽号両個月、発辺遠充軍。一千石以上、棚号 原 巻38戸律市 14 (1834)年
三個月、発極辺足四千里充軍。②至郷民有進城買 塵、市司評物 粗米出城条例
細米食用者、一石以内准其出城、一石以上即行厳 価、修改 禁。如有途額販運、照違制律、杖ー百。若一年之
内、倫運細米出城至ー百石以上者、加棚号両個月。
五百石以上者、棚号両個月,発近辺充軍。一千石 以上者、棚号三個月、発辺遠充軍。米石変価入官。
③各門兵了失於覚察者,如運米本犯罪止徒杖、兵 丁答五十。運米本犯罪応擬軍、兵丁杖ー百。失察 之官弁、交部分別議処。知情故縦者、与同罪。受 財者、計臓、以柾法従重論。
『大清律例根原』は道光27年原序、呉坤修等編選、上海古籍出版社、 2012年。条例名と¢②③は 筆者が付した。
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東洋史論議
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怠 購 慶 一 四 年 一 八 年 ま で に 域 外 の 太 平
・
確認でき︑その目的は京城内容此を確探し︑回漕を詰止するため
京 師 か ら わ 米 穀 の 出 城 管 理 を 強 記 す る 対 策 は 嘉 慶 一 五 年
・ 一 九 年
・ て い る
︒ 監察翻史探趨韓は︑朝揚門外で濡漢都御史一一名と歩軍統韻箔門の司員一荷の登記を専管し︑
協力して米穀搬出の取り締れソを強化する策を秦詩したcしかし︑この奏誇は一戸部と倉場衛門よれソ既存の制度と重複して
いると反駁され︑吋掛麓惜の支持を得ることができなかった︵
80
表一の嘉愛一九年細米出城条視法問年の王三による京語
から天害への大量の親米接部を処罰した科刑が条掠化されたものである9本条例は最初に親米出城不可︑郷民による結
米一石以上搬出が厳禁と明文化され︑違反者には違制律により投一
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一年内の細米難出の数量に応じて刑罰を定のたことであり︑組来援出に対する刑罰を定めている︒
嘉慶
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年︑馨広東道監察御史孫世話は保申を用いて米穀の畠域管理を提案した︒それは歩箪統領が五域保申祷冊の門外郷保部分の抄銀を各門に二冊錆え︑一冊は城内門箪に︑もう一冊は城外営員に管理させる︒域内外で鶏民の買米出
城時に姓名・一戸口を保申冊に照合し︑域内外での査験を通過した者のみに米穀接出を許可し︑一家の口数に比して貿米
数が多い者や数日分の騒を予め購入する者は註冊し︑決の稽鷲に備えるというものである︒この鶏欝は歩軍統領街門の
議奏に委ねられ︑直ちに嘉慶事の裁可を得たわけで誌なかった︒嘉康ニ
O
年以誇の史料で米穀出域対策に保甲を用いている奏捜を確認できず︑恐らく歩軍統領衛門に反対され︑実現し立かったと考えられる︒その一方︑調史孫世話が奏欝
したもう一つの対策︑運河沿岸と運米上船地点︑及び空き家になっている寺観での閥横敢り締
9
強化は嘉慶暗に裁可されている︒監察御史誌取り締り地域として︑麗溝橋i雄県・張家湾i天津・馬駒橋i武靖県・東壌i三間房をあげ︑京
域から四
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車内の範囲を指定している蒔﹀O清朝は京都城門での米穀出城管理ょうも︑米穀が出城した後の京師周辺での取り結hソ強化を環視していた︒また︑監
察御史と嘉慶苦は回譜が問題となっていても︑京師からの米穀搬出を全国的
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禁止し︑それに ・儲済の四倉の平米支給で実行されていることがつ
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