﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
宅
義
夫
ま
え
カ ミ
き
本稿はもともと上記のような表題で書くつもりであったものではなく︑別のある事柄について書こうとしたもので
あった︒そのはじめのところで︑予備的な説明として︑﹃資本論﹄に関係するマルクスの原稿としてこんなものがあ
るということを簡単に一覧表的にしるそうとして記してゆくうち︑あれこれ心覚え的に書きとめていると当初の意に
反してだいぶ長くなってしまった︒そこで︑これだけをとり出して上記のような表題のものとすることとしたしだい
であ
る︒
なお
︑
マルクスの経済学研究はけっきょくにおいて﹃資本論﹄の作成という形をとることになっていったのである
かh
り ︑
そういう点からは︑初期の経済学にかんする原稿ないし著書を広くは﹃資本論﹄の準備原稿のなかに含めるこ
とも考えられるが︑ここでは一八五O年に大陸からロンドンに移り住み︑そこで経済学の研究を新たにやり直したと
﹃資 本論
﹄準 備原 稿に つい ての 覚え 書き
/¥ 九
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九
。
きからのものについて記しておくこととする︑││﹁まったくはじめからやり直し︑新しい材料を批判的に研究しつ
くそう﹂と﹁決意﹂した(一八五九年刊﹃経済学批判﹄の﹁序舌己)││︒
また
︑ マルクスは経済学研究に当たって︑読んだ書物︑雑誌︑
等から数多くの抜き書き帳
QM BG F色
︒ を つ く っていた︒この抜き書き帳をつくることは一八四
0
年代から行なっていたことであり︑
そして五
0
年代︑六
0
年代に は多くの抜き書き帳がつくられている︒この抜き書き帳は︑
どういうものから︑
どういう事柄が抜き書きされている かを知りうること自体がマルクスの経済学研究を見るうえで有用であるばかりでなく︑
ところどころにマルクス自身 の文が記されている場合がある︒本稿で見ておこうとしているのは原稿
( 1 )
いても若干のことは記しておくこととしたい︒
( 冨
8
5 }
内己
主)
であるが︑
抜き書き帳につ
( 1 )
ソ連のマルクス主義・レlニン主義研究所と東ドイツのマルクス主義・レlニン主義研究所との共同事業として一九七五
年か
ら出
版さ
れは
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た出
向日
ミ¥
同誌
与の
同旬
白書
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白ど(マルクス・エンゲルス全集︒略称出向同
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メガ︒以下︑新
MEG
Aと記す)は四つの部(﹀豆町山宮口四一)に分かれているが︑﹃資本論﹄関係の原稿は第二部に︑そして抜き書き帳は第四部に収録
されることになっている(その他︑第一部は︑﹃資本論﹄およびそれに関係する原稿以外の︑すべての著書︑論文︑原稿を︑
第三部は書簡を︑収録することになっているY
なおこの新MEGAにたいし︑旧MEGAは︑モスクワのマルクス・エンゲルス研究所から一九二七年に第一部の第一巻第
一分冊が発行され︑以後一九一二五年までに第一部で第七巻まで︑第三部で第一巻1第四巻の計二一冊︑それにエンゲルス死去
四O年を記念して﹃反デュlリング﹄および﹁自然弁託法﹂についてのものが一九一二五年に別巻として一冊発行されたので︑
これを加えて合計一三冊発行された︒そしてそこで刊行がとまっていた(新MEGAはこの仕事を引きついだものであるとと
もに︑はじめから新たにやり直すこととしたものである)︒
表紙の表題が国営三¥同お
h E h c s S H N
雲南
白守
司(
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一一
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句︑
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って
いた
︒旧
MEGAのこの仕事
は長年にわたってマルクス︑エンゲルスの文献研究に携わっていた上記研究所々長リャザノフ(ロ・2目
N8 04 )
の手ではじめ
られたものであった︒そしてリャザノフは︑第一部第一巻︑第二巻のコ一冊と第二部の第一巻1第三巻の三時の計六冊を一九二
七年
から
ゴ一
O年までのあいだに出版してきたが︑しかし一九三二年はじめに当時の政治的事件に連座して追放され︑代わって
アドラッキー(︿
‑ K F E S S
むが同研究所々長に就住した︒また同研究所の名称は所長交代後マルクス・エンゲルス・レ!
E
ニン研究所と改称されたハこんにちでは前記のようにマルクスムセ義・レ1
ニン
主義
研究
所)
︒
この旧MEGAは新MEGAと同じ四部編成の企画であり︑第二部が﹃資本論﹄およびその準備労作︑第一部はそれ以外の
著童宍論文等︑第三部は書簡︑という分け方のところまでは一応同じであったが︑抜き書き帳類を新MEGAでは独立に第四
部としているのにたいし︑旧MEGAではこれを第一部に含め︑第四部は索引に当てることを予定していた︒出版された最後
の第一部第七巻に収録されていたのはまだ一八四八年三月1一一一月の論文であり(年代順の収録)︑また第三部第一1第四巻
はマルクス︑エンゲルス聞の往復書簡であって︑第三者への書簡にはまだ及んでいなかった︒そして﹁﹃資本論﹄およびその
準備労作(ロg
八内 昌広 田
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ロ︿
C門 出
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﹂として予定していた第二部は一冊も出ていなかった(新MEGAでの第二
部は
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ロ品
4 R R Z H S P
と記
され
てい
る)
︒
なお︑目MEGAについての紹介としては杉原四郎﹁マルクス・エンゲルス全集(宮切の﹀﹀﹂(杉原﹃マルクス・エンゲル
ス文献抄﹄︑一九七二年︑未来社刊︑一五五l七九ページ)が書かれている︒また一九七O年に西ドイツのオl
ベ ル マ ン
( ﹀ 戸
4R SS S
社から全ごニ冊の復刻版が刊行された︒新MEGA第一部第一巻最初の﹁全集への序一吉ロハぎ門戸司
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円C
︒ 自 由 国
B S
・
5
官耳)﹂のところでも︑旧MEGAについて││比較的簡単にではあるが!i記されている3ω1 1g J ︒
一入 五七
年
i
五八 年の 原稿
!ー のさ ロ骨
2 8
一八五七年一O月
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五 八 年 五 月 に 七 冊 の ノ
iトに書いた一連の原稿︒これはのさミコロ司門出向可同ミ免除門出向可﹄
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礼的
与さ
︒﹂
﹃む
き§
九m
一九四一年経済学批判要綱﹄﹀と名づけられて︑一九三九年に本巻︿七冊のノIトの本文を収めたもの)が︑Q
司資本論﹄準備原稿についての覚え書£
九
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九
に補
巻が
︑
モスクワのM・
E‑L
研究所編で出版され︑戦後一九五三年にこのモスクワ版を一冊に合わせて写真印刷
をしたものが︑東ドイツのディ
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ツ( E 2 N )
社から出版された(以下︑七時のノ
l
トの
原稿
のほ
うを
のさ
包ユ
回目
白と
呼び
︑
これと区別してこの出版された本のほうを﹃グルントリッセ﹄と呼ぶことにする)︒
その後一九六八年と六九年に︑ロシア語版マルグス・エンゲルス司令町内第二版の第四六巻第一冊︑第二冊として
ロシア語でl
ーしかし翻訳に当たっては一九三九
i
四一年に出版したドイツ文と原稿とを改めて対比して訂正を加え (2
﹀
l l
出版された︒また一九七六年には新
MEGA
の第二部第一巻第一冊として前半部分││くわしくは後述
i i
が出
版された︒
( 2 )
このロシア語版については山本義彦﹁ロシア語版﹃経済学批判要綱﹄について﹂︑川︑制(大阪市立大学﹃経済学雑誌片一九七二年八月︑九月)において︑これの紹介︑およびロシア語版に付されているソ連M・L研究所の序文の邦訳︑ロシア語版の目次とドイツ語版の目次との対照がなされており︑またその後同氏によって︑ロシア語版に付されている編集者注の邦訳
がなされている(﹁ふたたびロシア語版円経済学批判要綱﹄について﹂︑川︑川ーー静岡大学司法経研究﹄︑一九七五年一O
月︑
七六
年二
月)
︒
この七冊のノ
I
トのうち第一冊と第二冊のはじめの部分は
同 ワ 器
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日 ) ロ 乙
J10Eの
0 5
(貨幣の掌)
という表題で書 かれ︑第二冊の八ページ以下第七冊のほとんど終わりまでが
集者がつけたもの)という表題で書か円︑﹀第七冊の最後の六三ページのところに
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目件
︒
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2 5
口昌
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資本
の章
︒︹
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阿君印門付(価低)と題した一ページた
らずの一文が書きかけの途中でとぎれて終わっている︒
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)
この︹彊︺のところは︑第二冊の八ページではり宮内
8 H H m H A ‑ ‑ s c m ‑ a
回目
叩わ
名門
仲間
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資本
とし
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貨幣
の章
)と
いう
表
題になっていたが︑第三冊の八ページ(第三時の一2七ページは﹁一八五セ年七月﹂の日付で後掲の﹁パスティアとケアリ﹂
が書かれていた︒したがってのE
ロ門 注目 的自 の原 稿自 体と して はこ の第 一一 一冊 の第 八ペ ージ が︑ ノー ト第 二冊 から 第三 冊に 移っ た
はじ
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資本
の章
︒第
二冊
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﹀と
いう 表題 にな って いる
︿﹃ グル ント リッ セ﹄
︑
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二部第一巻第一冊﹀宅均三‑寸叩ロゲω・ωデω
叶 ) ︒ なお
︑﹁ 貨幣 の章
﹂の ほう は第 一冊 でも 第二 冊で もり 白田 内田 1E 4D BC
叩
E
と表 題を 記し てい たの にた いし
︑﹁ 資本 の章
﹂ のほ うは この よう にり 目的
︒品 広己
40
5 の品 目門 主と いう 書き 方で 記し
︑第 四冊 でも 同様 であ った
︒( 白・ 白
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﹀呂
田吋
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・2・ω∞・ア ンダ ーラ イン 三宅 )︒
﹁資 本﹂ は本 文中 でも 皆目
︒品 目
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と記しているので︑それとの釣り合いで﹁章﹂の
ほう もこ う記 して いた ので あろ う︒
﹁資本の章﹂はこのようにノIト第二冊の八ページからはじまり︑ノート第七冊にいたっているが︑表題としては
これをさらに分けた表題ば付されていない︒しかしノ
l
ト第七冊の一五ページの途中のところでつぎのように記している
︑
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﹁われわれはいまやっ︑きのところに到達した︒第二一篇(ロユ
22
﹀
Z
n v E S
︒果実をもたらすものとして
の資 本︒ 利子
︒利 潤﹂ (﹃ グル ント リッ セ﹄
︑
ω
・30
︒そして一九五三年版(したがって一九三九年︑四一年版︒以下一九五三年版と記す﹀の編集者は︑巻末の目次の箇所でその前の部分を︑﹁第一篇︒資本の生産過樫﹂││ノ
l
ト第二冊入ぺl
ジからノ
l
ト第四冊一五ページの途中まで││︑第四冊一五ページの途中から第七冊一五ページの上記の﹁第三篇﹂がはじまるところまでを﹁第二篇︒資本の流通過程﹂として分けていた︒新MEGAでは本文のなかでも︹︺を付
して
︑
ノート第一一冊八ページからを﹁第一筋︒資本の生産過程﹂と記している︒そして同新MEGA第二部第一巻第
一冊はこの﹁第一篇﹂の終わったところまで︑すなわちノ
i
ト第四冊一五ページの途中まで(﹃グルントリッセ﹄でのω・ω自の六行日まで)を収録し︑ノート第四冊一五ページの途中からはじまる﹁資本の流通過程﹂以下を第二冊に回し
ている︒﹁資本の事﹂の大部分はこの資本の生産過程︑流通過程を取り扱った第一篇と第二篇とから成っており︑
第
吋資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九
﹃資 本論
﹄準 備原 稿に つい ての 覚え 書き
九 四
三篇に入ったはずのノlト第七冊の一五ページ以下のところでも︑本来の第三詰にかんする部分はわずかであって︑
途中で﹁貨幣の章﹂に属する事柄が記されたりしている︒
このように︑七冊のノlトの一連の原稿は﹁E貨幣の章﹂ではじまり︑ついで﹁資本の享﹂
に入
り︑
七冊目の最
後のところで﹁
I
価値﹂と題する一文が一ページたらず書かれている︑という構成になっており︑(こ
の﹁
価値
﹂の
一
文についてはまた後述のところを見られたい)︑また﹁資本の章﹂は三つの﹁篇﹂に分かれている︒
そしてこの七冊のノ
I
トの原稿を書き終えるのに近くなったころ︑マル クス は︑
ドイツでの出版の交渉を依頼して
いたラサ
i
ルにあててつぎのような手紙を書いている︑ーl﹁第一分冊(2 00 3 芯 ピ
0え
2ロ巴はどうしても一つの
相対的にまとまったもの
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にならざるをえないだろう︒そしてそこには全展開の基礎(色︒
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2 .
貨幣
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3 .
資本一般2器
開名 目片 山ご
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0 5 0 日 ロ
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(資本の生産過程︑資本の流通過程︑両者の統
一または資本と利潤︑利子(同名目
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一日 付の 手紙
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明刷
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号一 冊と なっ てい る︒ 誤植 であ ろう か︒ここでマルクスは︑五1
六ボ
iゲン以下でまとめるのはむずかしいだろうと記している︒じっさいに出版した第一分冊の
著書﹃経済学批判﹄が含んでいたのは︑この当時予定していた第一分冊の内容とちがって上の川価値と川貨幣の部分だけであ
ったが︑この司経済学批判﹄は﹁約一二印刷ボiゲン﹂となった︒﹁原稿は二一印刷ボ│ゲンハノIト三冊﹀ほどだ(りg
z g g w H e
片山田
仲田
ぎ己
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3四
3
国民芯))︒そして││たまげないでくれ│1表題は﹃資本一般(ロE
関名
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吉
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目 冊目
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﹄となっているのに︑これらの冊には資本についてはまだなに一つ入っていないで︑1
・商
品︑
2・貨幣または
単純な流通︑の二章しか入っていない︒つまり︑細目にわたって手を入れた部分
22 EH UZ白
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宮山
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五月
に君のところに行ったとき)はまだぜんぜん出てきていないことになるのだ﹂(ご八五九年一月一一二日と一五日とのあいだL
と推定されているマルクスからエンゲルスへの手紙)︒なお一印刷ボl
ゲン
(口
百円
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匁 る は A
5版ぐらいのもので一六ペー
ジで
ある
︒ また︑七冊のノ!トでのの
Eロ今仲間由︒の分量のほうはどの程度であったかを見ると︑新MEGA編集者はノ1ト第四冊の
二四ページから第七冊の五ベ!?までについて︑ノiトで一一一ページ︑﹁とれは約二
O
印刷ボ!ゲンをなしている﹂と記している(第二部第一巻︑﹀
}U日
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︒ここから推測するとの宮口門片山田おは全体では五Oボlゲンをこえている︒
したがって﹁第一分冊﹂を五
t
六ボ
lゲン以下でまとめるのはむずかしいとマルクスが言っていたとき︑﹁第一分冊﹂の﹁最
後の仕上げ﹂に当たっては││この﹁第一分冊﹂の内容は前記のように七冊のノlトでの内容と︑すくなくともその主たる範
図においては︑向じものが予定されていた'││︑マルクスは七冊のノiトのかなりの部分を大幅に削って省いてしまうとか︑
あるいはそれらをあとの分冊に回す︑といったことを考えていたことになる︒
マルクスは上の一八五八年三月一一日付の手紙の前の︑同年二月二二日付ラサiルへの手紙のなかでつぎのようなことを述
べている︒すなわち︑﹁全体を公刊する前に︑それを完全に仕上げる時間と余裕と資力とがあるならば︑僕はそれをうんと圧
縮するだろう︒というのは︑僕は以前から圧縮法が好きだったのだから
(E WY 48 ]冊
目百
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問巾ロ申立)︒しかし︑あいつづいて出る分冊で印刷されるようにするならばi!?読者が理解するためにはおそらくこのほうがよ
いだろうが︑しかし形式がそこなわれることはたしかだ│j︑事はどうしてもいくぶん冗長になる﹂というように﹁圧縮﹂に
ついて語っている︒だが︑﹁第一分冊﹂の下書き的なもの││しかもこれは当時予定していた﹁第一分冊﹂に入れる内容とし
ては前記のようにだいぶ欠けている部分があったーーが五Oボlゲンをこえていることと︑﹁第一分冊﹂を五1六ポiゲン以
下でまとめるのがむずかしいと言っていることとのあいだには︑量的な開きがあまりにも大きすぎるので︑じっさいのとこ
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書さ
九五
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き九六
ろ︑この一八五八年三月の当時マルクスはいったいどういうつもりでいたのだろうかと︑
であ
る︒
そして実際には︑この当時予定していた﹁第一分冊﹂のなかの最初の二つの章の一八五九年一月に書き上げた印刷用原稿は
約二一ボiゲンとなったのであるが︑これについてマルクスは同じくラサlルへの一八五八年一一月一二日付の手紙のなか
で︑つぎのように述べている︑ーl﹁僕はおよそ四週間のうちには完成できるだろう︒というのは︑じっさい書くことをつい
先日はじめたからだ
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倉山
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﹀﹄はすぐに二冊(日ロ出足円四)︹印刷しての冊のこと︺の分量になるだろう︒というのは︑仕よげをしているうちにわかったのだが︑まさに経済学の
もっとも抽象的な部分を述べるこの箇所では︑あまり短くしすぎること守口
q s o
同=ロ⑦は︑読者にとって事柄を消化で
きないようにしてしまうだろうからだ︒だが他方︑この第二の部分(岳町田叩
NZ
﹀広包宮口問)︹右の﹁第一の部分﹂が二冊にな
るその第二冊目のこと︺は同時に出版されなければならない︒内的な間間遠からしてこれは必要だし︑また全効果がこれにかか
っているのだ﹂(傍点および門︺内
l
一 ニ宅 ﹀
︒
なお︑ここで﹁第二の部分﹂と一言っているのは﹁資本一般﹂の本来の部分として予定していた﹁第三章﹂であるが︑マルク
スが生前に公刊しえた﹃資本論﹄第一部はそのうちの最初の部分の﹁資本の生産過程﹂であったことは周知のとおりである︒
そしてこの﹃資本論﹄第一部が出版されたのはこののち約一O年後の一八六七年であって︑その︿刀量は四九ボlゲンであった︒
一ボ!ゲンが印刷べlジで一六ページ︑計七八四ページ(初版)であった︒
( 6 )
出版者ドウンカ
l
(﹃ 司
目 白
N
の 口 出
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ーロロロロ宮吋﹀はここでマルクスが出した条件に応じたのであるがー1マルクスは一八五
八年三月二九日付エンゲルスへの手紙のなかでこの三月一一日付でラサiルに出した手紙にたいするラサ1ルからの返事につ
いて記している││︑﹁第一分冊﹂がドウンカ!の手に届けられたのは一八五八年の﹁豆月末ごろ﹂ではなく︑この﹁第一分
冊﹂が︑そしてじっさいにはその前のほうの序章的部分である﹃経済学批判﹄の印刷用原稿が完成したのは翌一八五九年の一
月二
O臼ごろであり︑マルクスがこれを小包にして発送したのは同月二五日であった︒ いささかいぶかしくさえ思われ名の
この原稿の執筆時期について
1︒
ED
江田印︒を書いた七冊のノlトの個々の冊の執筆時期について︑Q一九五三年版の
ハし たが って 一九 三九 年︑
四一年版の)﹃グルントリッセ﹄編集者はつぎのように記している︒﹁第一冊は一八五七年一
OA
に で き た も の で あ る
だがマルクスによる日付の記載はない﹂G・2
・新
MEGA
では
﹁一 八五 七年 の一
O月半ばごろから一一月半ばごろま
で﹂ と推 定し てい る︑ 1
1第
二部 第一 巻︑
3R﹀白Y
H︐ 白
山 二
‑ω
‑N
m‑
ωN
)︒第二冊は
﹁ 一
λ五七年一一月ごろ(新MEGA
では
﹁一 八五 七年 二月
﹂│
│白
・
b・
o ‑ ω
・ω
品 ) ︑
第三冊は﹁一八五七年一一月二九日から一一一月半ばごろまでし︑第四冊は
﹁一八五七年二一月半ばごろからで八五八年一月二二日まで﹂︑第五冊は﹁一八五八年一月一一二日から一八五八年
月はじめごろまで﹂︑第六冊は﹁一八五八年二月ごろ﹂︑第七冊はつ一八五八年二月末︒三月および五月末
i
六月はじめ﹂と
( ω
・5
30
2
この終わりの時期についてもうすこし立ち入って見ておこう︒
﹃グルントリッセ﹄編集者は︑ノ
i
ト第七冊の第一ページのところに﹁資本の章(つづきとと書かれ︑また
﹁︹
一 八︺ 玉
λ年二月末この冊に着手﹂と書かれている︑と記している3・8
色 ︒
他方
︑
マルクスは三月二九日付のエンゲ
ルスへの手紙で︑﹁次回の手紙ではいよいよハロロロ)第一冊の骨組み(四百
ωZ EH a2
己
g
2図
︒ 同 門 的 )
を若に知らせ
て︑君の意見を聞かせてもらえるようにしたい︒僕はこの二週間来またもひどく病気がちで肝臓薬を用いている﹂と
述べ
︑
つぎの四月二日付のエンゲルスへの手紙でつぎのように記している︑ー
l
﹁僕は胆汁の件のため具合が悪いので︑今週は口﹂の四月二日は金曜日︒なお︑前の手紙の三月二九日はこの過の月曜日である︺︑﹃トリビュン﹄のための論説は
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九七
司資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九;¥.
別として︑考えることも︑読むことも︑書くことも︑
そのほかなにをすることも︑できないでいる︒:::具合がよく
なってふたたび指に握力を感じるまでは︑
ドウンカ
l
へ送る物の仕上げ
( Z S 5
己芯ろをはじめることができない︒
‑;つぎに示すのが第一の部分の簡単な概略(田宮ユ
2 5 5
ぇ Fo p‑ 2百三 ) だ
I 資 本 は 四 つ の 篇
(﹀
ヴ田
口げ
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に分かれる︒
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資 本 一 般
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(これが第一冊の題材
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価値
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2.
貨幣
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‑ 3 .
資本︒これは本来この第一冊のもっとも重要なところで︑
ち 叫叫ん君の意見を閣きたい箇所なのだ︒だが今日はもうこれ以上書けない︒胆汁のせいでぺンが運びにくいし︑紙の上
にうつむいていると日まいがする﹂(門
︺内
│三
宅﹀
︒ この三月二九日付の手紙および四月二日付の手紙を見ると︑
マルクスは︑前年一O
月から書いてきた下書き的な仕
事111の
EE
ユ 回 目
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‑ ‑
がようやく一段落のところまできたとして︑ないしこの仕事をこのあたりで一段落にしようと して︑出版予定の書の第一冊の田町
O円H O
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‑ B
をエンゲルスに書き知らせようとしたこと
l l
つま
り︑
エンゲルスに
書き知らせることができるところまでともかく事が進んだのであること
! l
︑そしてからだの具合がよくなりしだい 印刷用の仕上げをはじめようと考えていた乙と︑を知ることができる︒
また︑このあとの仕事の運びを同じく手紙によって見ると︑
(7
﹀
をすることができず︑医師が転地をすすめたこともあって五月六日にマンチェスタ
l
に行
き︑
(8
)
O
日すぎごろまで滞在していた︒そして五月下旬にロンドンに帰り︑
マルグスはからだの具合が悪くて四月中︑本来の仕事
エンゲルスのもとで
一週間ほどして五月一一一一日(月)付でつ︑ぎのよ
うな手紙をエンゲルスに書いている︒
1 1
﹁最初の一週間は環境の変化にたいしてまた順応しなければならなかっ
九九︒:::やっと仕事ができるようになったので︑さっそく印刷のための仕上げをはじめる
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:僕の不在のあいだにロンドンでマクラ
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め通貨の全歴史に
かんする一書が出版されたが︑これは司エコノミスト﹄にのった抄録(﹀戸時口問巾﹀から見ると第一級のものだ︒
﹂れを︹マクラl
レンの喜を︺僕は叙述に取りかかる前にもちろん読んでわかなければならない︒
︹ここで︑だがこ
の蓄の価格が高いので郵便為替で送金してくれないか︑と記している︺
たぶ
ん︑
﹂の書のなかには僕にとって新しいこ とはなにもないだろうが︑
しかし:・・これを知らないで先に進むことは僕め理論的な良心が許さないのだ﹂︽
内
!三宅)︒そしてノi
ト第七冊では︑これの書かれている最後のぺ
l
ジは六コ一ページであるが︑六二ページ日の初め三 分 の 一 ぐ ら い か ら マ ク ラ
l
レンの書についての﹃エコノミスト﹄
一八五八年五月一五日号からの抜き書きが記されて 同ぺ!ジが終わっており︑
つぎの六三ページ目は前記のように
= 3
ユと題した一文が一ページたらず書かれている︒
( 7 )
エンゲルスにからだの具合が悪いことを告︒けって
5 2 2
宮 ユ の
│
iしかしその前半のほうだけについての
1 1
与 さ
c z E E
を書き送った一八五八年四月二日付の手紙のあと︑マルクスはしばらくのあいだ手紙を書いていないが︑四月二九日
付でつぎのような手紙をエンゲルスに書いている︒11﹁僕の長い御無沙汰の理由はひとことで説明できる︑!ー書くことの
不可能だ︒この不可能は︑言葉の比喰的な意味においてだけでなく︑文字どおりの意味においてそうであった(そしてある程
度まではいまでもそうなのだ﹀J﹃トリピュン﹄への数篤のやむをえない論説は妻に口述筆記をしてもらったが︑それさえも強
い刺激剤を用いることでやっとできたのだった︒:::医者は僕に旅行することをすすめた︒:::僕は明らかにこの冬︑夜業を
やりすぎたのだ(片
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与月号ロ44 ES
同旨
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ンゲルスへの手紙のなかでマルクスはつぎのように記している︒11l﹁大洪水の前にすくなくとも要綱(のさ口内
Eg
⑦だけで
も明らかにしておきたいので︑僕の経済学研究をまとめるのに夜どおし気ちがいのように仕事をしている
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﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
九 九
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
一
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一八五七年恐慌は八月下旬にアメリカでまず現われたのであったが︑この報道がロンドンに着いたのは約二
O
日後の九月半ばであった(三宅﹃マルクス・エンゲルス/イギリス恐慌史論﹄︑上巻︑二五七2八ページ参照)︒そして恐慌がイギリスで荒
れ狂い︑イングランド銀行が一八四四年の同行法を停止したのは一一月二一日であった︒マルクスはこののEEユ∞訟の仕事
に取りかかる前︑いわゆる﹁経済学批判序説﹂を一八五七年八月に書いていたのであって︑
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であるから︑かならずしも︑恐慌がはじまったのでこの仕事に取りかかった︑ということではなかったであろう︒だが︑右の
手紙にも見られるように︑またすぐあとで見るラサlルへの手紙にも見られるように︑恐慌の進行はこのの2
口弘
江田
由巾
執筆
に
着手し︑これを進めるうえで︑マルクスを大いに駆り立てる作用をしたらしい︒さらに︑同年一一一HA一八日付エンゲルスへの
手紙︒!│﹁僕はまったくものすごく仕事をしているQSR
ぴ一
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岡山
口N
E‑ 28
C︑たいてい朝の四時まで︒仕事はすなわ
ち二つある︒第一︑経済学概要の仕上げ(﹀
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・i・‑第二︑現在の恐慌︒これについて
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﹃トリビュン﹄への論説を別とすれば││ただ帳付けしているだけだが色
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s ︑
しかしこれがなかなか時間をとる﹂︒さらにまた︑同年二一月一一一日付ラサ!ルへの手紙︒
l i t ‑
現在の商業恐慌は︑僕が白分
の経済学概要の仕上げにいまや真剣に着手し︑また現在の恐慌についていささか準備するよう︑僕を刺激した︒僕は昼間パ:・
・:︺を生計の仕事のためにつぶすことを余儀なくされている︒本当の仕事のために僕に残されているのは夜︹だけ︺なのだが
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田宮
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C ︑からだの不調がそこにまたじゃまに入ってくるのだ﹂
(︹︺内は紙が破損の箇所)︒
等々︑というように︑マルクスにとってこのの2口今日間おを書くのに使う時間は︑夜しか残っていなかったらしい︒そして
一八五八年三月末ごろにはこの下書き的な仕事がようやく一段落するところまで進んだが︑他方︑過度につめた夜業の結果と
してからだの不調がしだいに昂じ︑四月にはこの注のはじめに掲げた四月二九日付エンゲルスへの手紙で書いているように︑
執筆の仕事ができないまでに健康を害するにいたったのであった︒
( 8 )
マンチェスターではマルクスは乗馬などをして日をすごすとともに︑既掲の一八五九年一月一三日と一五日とのあいだと
推定されているエンゲルスへの手紙のなかで︑出'米上がった第一分冊の原稿が商品と貨幣の章しか含んでいないことについて
﹁細白にわたって手を入れた部分(五月に君のところに行ったとき)はまだぜんぜん出てきていないことになるのだ﹂と述べ
ていることから窺われるように︑エンゲルスとこうした検討︑話し合いもしたらしい︒
だが︑マンチェスターから帰って一週間ほどして書いた一八五八年五月三一日付エンゲルスへの手紙のなかで︑後掲のよう
に﹁原稿(これは印刷すれば分厚い一巻になるだろう)のなかではすべてのことがごちゃ混ぜになっており︑ずっとあとのほ
うに置くべき箇所がたくさんあるのだ﹂と述べている︒これで見ると︑︒E
ロ門
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目白
の原
稿で
ある
七冊
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1ト自体はマンチ
ェス
タ
lに持っていかなかったのではなかろうか︑右の検討︑話し合いも原稿にもとづいて検討し︑話し合ったというのでは
なかったのではなかろうか︑と推測される︒エンゲルスが原稿自体を見ているならば︑その分且一旦や︑状態を知っているはずで
あるから︑マルクスがあらためてこのように書くことはなかったであろうからである︒もしそうであるとすると︑さきの手紙
で﹁細目にわたって手を入れた部分(宏司円502包
‑2
3与包芯ZH︐巾己)﹂と言っているのは︑じっさいに原稿に手を入れた
という意味ではない︑ということになると考えられる︒
きを版の書簡集ではこのマンチェスタ
l行きについて﹁注解(﹀D52E
品
g )
﹂を付してつぎのように記している︒ーー﹁マルクスはおそらく(兄君$︑一八五八年五月六日から二四日までマンチェスタ!のエンゲルスのところに滞在した︒彼は
そこで健康回復のためにスポーツをし︑乗馬にふけった︒同時に彼は﹃資本の章﹄の仕事をした(白色
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由N)︒そして﹁注解一二一二二﹂は
02Eユお四の﹁資本の章﹂について付して注解であるが︑そこではつぎのように記している︒││﹁::・彼はこの労作を一
八五七年一一月から一八五八年五月までの時期に書いた(汚宵ぽ
3 0
一八五八年五月にマンチェスタ!のエンゲルスのとこで
滞在中︑彼はこの章の仕事をした(巾円回忌
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互)
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マンチェスタlに原稿を持っていったとすると︑さきの﹁手を入れた﹂というのが文字どおり原稿に手を加えたことにな
ホり︑右の﹁注解一二三二﹂のようにl│そこでそう記していると受けとられるように
l l
﹁資本の章﹂を書いた時期にこのマン
チェスタlに滞在していた時期を含めることも︑成り立ちえないわけではない︒だがこれにたいし︑原稿を持っていかなかっ
たとすると︑﹁手を入れた﹂ことについての見方がちがってくることになる︒原稿を持っていないのであるから︑とおぜんの
ことながらマンチェスターでは原稿を書いていないことになる︒そして﹁資本の章﹂の執筆時期は︑﹃エコノミスト﹄からの
抜き書きの前までは︑一八五八年三月末どまりということになる︒マンチェスタlに原稿を持うていったか︑いかなかったか
は︑それ自体ではどちらでもよいことであるが︑こうしたかかわりが生じることになるのである︒
*この﹁注解﹂で記していることは︑この文脈では︑﹁五月までに書いた﹂といってもこの﹁五月﹂はマンチュスターから
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
。
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
。
帰ってからのことであり︑また﹁この章の仕事をした﹂といってもマンチェスターでは書く仕事はしていなかったのだ︑
という意味には読みとりがたいであろう︒ついでながら︑大月書庖刊の﹃全集﹄第二九巻五七四ページの訳では︑﹁一八
五八年五月︑マンチュスタlのエンゲルスのもとに滞在中︑彼はこの章を書いた﹂と訳している︒この注解は文脈として
は﹁書いた﹂と理解される文であるが︑しかし訳としては﹁書いた﹂と訳してしまうのは原文に忠実な訳とはいえない︒
注が長くなるが︑なおまだすこし記しておこう︒
マルクスは一八五八年五月一三日付ラサlルへの手紙のなかでつぎのように述べている︒ーl﹁::僕の医者は︑僕が転地
をし︑第二にすべての知的労働をしばらくのあいだやめ︑最後に主な療法として乗馬をする︑ということが必要だとの断定を
くだした0・::・とことんまで抵抗したあげく︑僕はついに医者と家族との強要にしたがって︑マンチェスタiのエンゲルスの
ところへ行き︑乗馬やその他の身体訓練に没頭し︑四週間の滞在ののち完全に回復して︑同地からやっとロンドンに帰ってき
た︒病気:・:・になったのは︑第一分冊の印刷のための仕上げにとりかかっていたときだったので︑なおさら都合が悪かった
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円}百円門司)︒これからはこの仕上げに熱中することにしよう﹂︒この手紙は︑マンチェスターから帰って一週間ほどして書R
いたさきのエンゲルスへの手紙と同じ日に書かれている︒ここではマンチェスタl行きに踏み切った事情がかなりくわしく説
明されており︑ここから見ても││そしてラサiルへの手紙だということを考慮に入れて考えても
i
lマンチェスターでは
﹁知的労働﹂はあまりしなかったのではないかと推測される︒
﹃グルントリッセ﹄一編集者はその﹁序言(︿貨当ロユ)﹂のなかで︑﹁健康を回復するために︑とくにまた︑いまやっている仕
事をエンゲルスと論じ合うために
( Z g D a o
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)︑マルクスは一八五八年五月六日にマンチェ
スタ
iへ行き︑そこに五月二O日ごろまで滞在した﹂と記している3
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︒既掲の一八五八年四月二日付エンゲルスへの手紙に見られるように︑マルクスは吾∞出門的門古田ユの田町D円H
EE
巾をエンゲルスに知らせ︑そして﹁資本﹂の部分についてD
は﹁これは本来この第一冊のもっとも重要なところで︑いちばん君の意見を聞きたい箇所なのだ﹂が︑今日はからだの具合が
悪くてもう書けないと記していた︒またマルクスは一八五八年三月上旬に︑機械設備の更新や流動資本の使い方についてエン
ゲルスの実務的経験を問い合わせていた︒こういうことからみても︑マルクスはマンチェスタiでエンゲルスに会ったときこ
れらについていろいろ話をし︑意見を聞きたいと思っていたであろう︒だがしかし︑﹃グルントリッセ﹄編集者の言うよう
に︑これがマンチェスタ!行きの一つの目的だったとまで考えるのは︑右のラサ!ルへの手紙で見るかぎりでは︑誤認ではな
かろうかと思われる︒
なお︑マンチェスタiへ行ったのが五月六日であることは一八五八年五月一日付マルクスからエンゲルスへの手紙で分かる
が(ロンドン発午後二時半︑マンチェスタl着午後七時の汽車)︑帰ってきたのが何回であるかははっきりしない︒前掲の
建司
︑官
版切
︒・
N由の﹁注解二九二﹂で﹁おそらく﹂として﹁二四日﹂と記しているのは(ついでながら︑大月書底刊の﹃全
集﹄第二九巻五六八ページの訳ではここの﹁おそらく﹂の訳が欠落している﹀︑たぶん︑EM掲の五月三一日付エンゲルスへの
手紙で﹁最初の一週間は環境にたいしてまた順応しなければならなかった︒:::︹元気になるには︺ちょうど今日まで日にち
がかかった
( r v E σ
叩 叩 何 回z r2 yg g
宮ず
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C﹂(︹︺内三宅)と記しているところから︑この日の一週間前と見た
のであろう︒したがってそうはっきりしたものではない︒またさきの五月三一日付ラサIルへの手紙のなかで﹁四週間の滞在
のの
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口問
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42
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巾
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﹀巳∞三百円骨)﹂となっているが︑これはマルクスの誤記か︑手紙解読のまちがいである︒以上長い注記になったが︑マンチェスタ!滞在中原稿に手を入れたかどうかの件については︑筆者はのE
ロ骨
5 8
の手書き
原稿は昆ていないのであって︑もし原稿にそうした形跡がはっきり認められるならば││上掲のマルクスのいくつかの手紙か
らみて納得がゆかないとしても
1 1
問題はかんたんに消えてしまうことになる︒念のため︒
さ て 以 上 の い く つ か の 手 紙 を 額 り 合 わ せ て み る と
︑ 三 月 二 九 日 に エ ン ゲ ル ス へ 手 紙 を 書 い た こ ろ か ら マ ル グ ス は
﹃トリピュン﹄以外の仕事はできないでいて︑
マンチェスターから帰ってやっと仕事ができるようになり︑
こ こ で
﹁印刷のための仕上げ﹂をはじめることとした︑ということになる︒そうすると︑
ノート第七冊の六二ページの円エ コノミスト﹄からの抜き警きの前までのところは︑三月中に書かれたものであることが︑
ほぼたしかであるといえよ ぅ
︒ そ し て
︑ 五 月 下 旬 に マ ン チ ェ ス タ ー か ら 帰 っ て 五 月 一 五 日 号 の
﹃ エ コ ノ ミ ス ト
﹄ を 読 み
︑ 六 二 ペ ー ジ の 残 り の 部
分に抜き書きをしるした︑ということになる︒
3
そうするとあとは︑ノート第七冊の最後の六一一一ページに﹁
I
価値
し として一ページたらず書かれているもの
﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
一 O
三﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
一 O
四であるが︑これはいつ室固いたものであろうか︒
マルクスはさきの五月三一日付のエンゲルスへの手紙のなかで︑前掲のマクラIレンの書について述べている箇所
につづいて︑つぎのように書いている︒ili﹁君のところには︑金曜日のために︹六月四日の金曜日に﹃トリビュン﹄へ送
る論
説の
こと
︺︑
インドにおけるイギリス軍の状態にかんするなにか一般的なこと︑および臆測的なことを書くのに十
分な材料があるのではないだろうか︒もしそうならたいへんありがたいのだが︒というのは︑僕のほうは僕自身の原
稿に日を通すのに((同凶印
ロ ロ
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ほぼ一週間かかるだろうからだ︒つまり︑
いまいましいことには︑原稿(これは印制すれば分厚い一巻になるだろう)のなかではすべてのことがごちゃ混ぜに
(9
)
なっており︑ずっとあとのほうに置くべき箇所がたくさんあるのだ
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巾 円 巾 印 ・
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23
0 だから︑僕は自分のために一つの索引(吉宏与をつくって︑僕がまず著作に取り入れるべきものが
どのノlトおよびどのべlジですぐに見出されるかが分かるようにしなければならないのだ﹂(︹︺内三宅)︒
ここで言っている﹁索引﹂が︑﹃グルントリッセ﹄ω
・呂
町︑
t∞ミに収録されている﹁七冊のノlトへの索引
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叩凶
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る︒
マルクスはの
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ユ回目︒を書きはじめるより前の一八五七年八月に﹁序説(巴巳包吉口問)﹂a
を
M
という記号をつけたノlトに二二ページにわたって書いたが︑この同じノlトM
の二三ページから三一二ページにこの﹁索引﹂を書きしるした︒そしてこのあとマルクスは別のノlトに︑﹁印刷のための仕上げ﹂の原稿を書いていった
(一八五八年五月三一日付エンゲルスへの手紙の︑さきの九八ページ末に掲げた箇所参照︒といってもこの原稿もまだ印刷用原稿
にはなるにいたらなかったのであるが)︒これが﹃グルントリッセ﹄ω
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に編集者が︹吋話回
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日 向 ︒ 口 ︒
HH
HU
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︺(︹﹃経済学批判﹄の原本文の断片︺)という表題をつけて収諒している
ものである(これらの﹃且印凶および己ユ申込についてはのちの項でまた見る)︒
マルクスはこの﹁索引﹂をつくりはじめた日付をノ
i
トM
の当該箇所に記していないが︑第一に︑五月三一日(月)付の手紙でこれをつくることを理由にしてエンゲルスに六月四日(金)
( m
﹀ることから見て︑ に発送する﹃トリピュン﹄論説を依頼してい
また第二に︑﹃トリビュン﹄論説は船便の都合上だいたい火曜日か金曜日に発送していたのである
が
つぎの週には六月八日の火曜日にも一一日の金曜日にもマルクス自身がそれぞれ論説を書き送っているのであっ
て(
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回 向 凶 ・
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8︑
その こと か︑ り見 ても
︑
マルグスはこの﹁索引﹂づくりを五月三二日付の手紙を書い
たころから実際にはじめ︑六月の比較的早い時期にこれを終えたのではないかと推測される︒
五月三一日付の手紙で﹁さっそく印刷のための仕上げをはじめる﹂と記し︑そこで﹁索引﹂aつくりについて記して
いるところから見て︑五月三二日以後の仕事は﹁印刷のための仕上げ﹂の仕事であり︑この﹁印刷のための仕上げ﹂
の仕事はまず﹁索引﹂づくりであった︑ということはまちがいないであろう︒またこの﹁索引﹂守つくりはノl
ト第 一
冊から第七冊までの一連の原稿を書いたあとに行な一ったものである︑ということもまちがいないことであろう︒そし
てい
ま︑
さらにこの﹁索引﹂づくりがなされたのが右のような時期であったとすると︑ノート第七冊の最後の六三ぺ
iジの﹁
I
価値﹂を書いたのは︑五月ゴ二日付エンゲルスへの手紙を書く前であったであろう︑ということになる︒そういうふうに推測するほかないことになるのである︒
( 9 )
ここが︑さきにマンチェスタiに原稿を持っていかなかったであろうという推測のもとになった箇所である︒
(叩)エンゲルスは当時︑インドでのイギリス軍の行動についてときどき﹃トリピュン﹄に論説を書いていたが︑このマルクスの依頼に応じて六月四日一文を書き送り︑これは一八五八年六月二六日の﹃トリピュン﹄に社説として掲載された(司ミマ・
閃 且 ・
HN・ω
・ 怠 ω
l ∞
所収
)︒
司資本論﹄準備原稿についての覚え書き
一
O五﹃資本論﹄準備原稿についての覚え書き
一 O
六 4以上
︑
念のためにたしかめてみようとして︑
マルクスの当時の手紙に当たりながら見てきたが︑﹃グルント リッセ﹄編集者も新
MEGA
編集者も精粗の差はあるとしても同様な操作をしているわけである︒したがって︑この 執筆時期にかんしてそれほどちがった結論が出てくることはもともと期待していなかったし︑また実際それほどちが
ったことが出てきたわけではない︒(さきに︑マンチェスターで原稿に手を加えたかどうかということを問題としたが︑﹃グル
ントリッセ﹄編集者の﹁序一吉﹂でエンゲルスと論じ合うことをマンチェスタl行きの目的の一つに挙げていることはいま措くとし
て︑執筆時期そのものについては︑この点︑﹃グルントリッセ﹄
で は
ヨ刊 号︑ 静向
の﹀ロ
5 2
ロ
w
ロ四
冊口
での
よう
な書
き方
はし
てい
ない
‑11司ミどのこの巻は一九六三年刊であるから﹃グルントリッセ﹄よりもずっとあとのものなのであるが││心︒
たとえば︑
さき
に︑
ノート第七冊の六二ページの﹃エコノミスト﹄からの抜き書きの前までのところは︑
一八五八
年の三月中に書かれたものであることはほぼたしかであるといえよう︑
と記しておいたが︑﹃グルントリッセ﹄編集
者もその﹁序ユ一一口﹂のなかで︑﹁主として夜間に︑マルクスは一八五七年一O月から一八五八年三月までに︑七冊のノ
i
トに︑ここに公刊される大きな原稿を執筆した﹂
9・
5 σ
︑﹁マルクスが一八五八年三月末に過労のため病気になっ
(日 )
たとき︑仕事は粗稿の形ではでき上がっていた(念︒﹀与包円当日目
B H
向︒
宮口
0町 3釘 )
﹂
(ω
‑M
H)
というように記してい
Ol(日)ここの目白河町︒ロという言い方には︑さきのマンチェスタ行きのことがあるのでちょっとひっかかりを感じる︒しか る
し﹃グルントリッセ﹄編集者は︑一八五八年一一月二九日付エンゲルスへの手紙(この手紙についてはのちにまた見る﹀のな
かで
マル
クス
が岡
山
CF
∞三者ロユという語を用いていることにもとづいて︑七冊のノlトの原稿の呼び名のなかに:のE
ロ 門 目 立
広
広2
ハH
ユ三
内弘
司門
司0
5 2 n E
ロO宵
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件当
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︒
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∞ 可
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∞ 日 ∞
zというように
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Oロ 件
当 ロ
B同という語をつけ加えてい
るほ
どな
ので
あっ
て(
﹁序
品一
一口
﹂︑
ω ‑ M
内円︿ー)︑そのことを考慮すると︑右のひっかかりは一応解消する︑としてよいであろう︒
さきに掲げたように﹃グルントリッセ﹄ではノ
i
ト第七冊の執筆時期を﹁一八五八年二月末︒三月および五月末│六月はじめ(関口宏司与2司
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円
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冨包¥﹀広告ぬ宕巴
しかしまた︑まったく同じでもないのであって︑
呂町∞とと記しているが︑さきの私の推測だと︑ノート第七冊の最後の六三ページの﹁I価値﹂を書いたのは五月三
一日付エンゲルスへの手紙を書く品別であったであろうということになる︒したがってここは﹁一八五八年二月末から
三月末ごろまで︒および五月末﹂と記してしかるべきではないかということになる︒
﹃グルントリッセ﹄編集者がここに三ハ月はじめ﹂と記したのは︑ここだけについて見れば︑
のことではなかったかとも見受けられる︒すなわち︑五月三一日にエンゲルスへ既掲のような手紙を書いているが︑
つ︑ ぎの よう に考 えて
ノート第七冊の六二︑六コ一ページを書いたのが五月末とは断定しが乙い︑六月に入っていたかもしれない︑そう考え
てヱハ月はじめ﹂と記した︑つまり五月末からちょっとズレているかもしれないと考えてこう記しておいた︑という
ようにも見受けられる︒そういうことであれば︑こう記しておくことがとくに誤りだともいえないであろう︒
しかし︑﹃グルントリッセ﹄編集者はその
﹁ 序 一 寸
一 口 ﹂
のところでつぎのように記している︒
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寸よ
うや
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日月
三一
日にマルクスは﹃仕事ができるようになった﹄と感じ︑円さっそく印刷のための仕上げ﹄をはじめた︒///まず第一に
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彼は六月はじめに︑ちょうど終わった粗稿の本文に日を通し︑ノート
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の末尾のところにノlト第
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第七冊のなかで最初のニ章に関係のあるものをすべて書きとめた︒‑::だがマルグスは一八五八年の夏には︑﹃索引﹄
と価値の章の冒頭との執筆までしか進まなかった﹂3・uQ1
出 σ
︒つま
り︑
﹂の
﹁序
一ず
一口
﹂で
は︑
五月一三日付エンゲ
ルスへの手紙で記していた﹁印刷のための仕上げ﹂を
﹁六 月は じめ
﹂
からはじめ︑そうした仕事として
﹁索
引﹂
と
﹁価値の章の冒頭﹂とを書いた︑という説明をしているのである︒
﹃資 本論
﹄準 備原 稿に つい ての 覚え 書丞