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奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解(2)

波 平 勇 夫

目 次 は じ め に

近世奄美農村における二重政策の内的矛盾と地主形成・農村変容 奄美大島南部のムラと地主一事例

戦前期農民層分解一近代地主層の形成と小作農を中心に−

「奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解」(1)窯

●●●●1234

5.農民運動

村域によるばらつきはあるものの、表1でみるようにかなり高い小作地率が戦前期をとおし て観察できる。しかし、この時期の農村社会はすべて無風状態ではなかった。大正期に入ると、

全国的な社会経済・政治的潮流が農村にも影響しはじめた。たとえば大正6年のロシア革命、

同7年の米騒動、同9年以降の戦後恐慌、同10年以降の小作争議の急増はよく知られている。

この社会的動向に対処するため、政府は中農安定化のための自作農創設維持対策として同15年 に「自作農創設維持補助規則」を公布した。他方、全国的にみて50町歩以上所有の大地主は大

55

正13年をピークにそれ以降減少する。

奄美農村にもいくつかの動きがあった。まず比較的早い時期の大正2年、徳之島松原鉱山で

56

150名の労働者の賃金ストライキが起こり、同5年2回、同6年1回と争議が発生している。

また同7年8月25日、大島南部の住用村で80名の農民が米商を雲鑿するという米騒動が起きて

57

いる。

58 59

旧藩時代の農民運動、たとえば徳之島の母間騒動(文化13=1816年)や犬田布騒動(文久2=

60

1862年)、さらに明治初期の勝手世騒動=砂糖自由売買運動(明治8=1875〜明治21=1888

61

年)、家人解放運動(明治4=1871〜明治12=1879年頃)は広く知られており、多くの歴史書が とり上げてきた。これらの事件を除くと、奄美農村には農民抵抗が少ないような印象を与える が、それはこれまでに研究者が発掘してこなかったからであろう。現実に調査すると、地主対 小作人、地主対使用人の個人的な抵抗行為は少なからず聴取できる。具体的には、使用人によ る殺害・放火事件、自殺などがある。これらは犯罪として処理され、あるいは加害者の人格問 題(例、下等人間)に変形され、また加害者の動機を理解しつつも敢えてそれを正当化せず、

※南島文化第12.13合併号、1991年。なお、表題「奄美大島南部村落の地主形成と農民層分解」の傍点部分の「の」

は「における」が正しい。

(2)

94 奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解(2)

忌わしい事件としてなかなか口外しない。もう少し消極的な抵抗行為になると、使用人による 罷業(例、仕事能率を落とす)、いやがらせ(例、苗キビの芽を潰して植込む)などがある。こ うした個人的抵抗行為についてはこれ以上言及しない。われわれはむしろ、集団的、組織的な 運動をとり上げたい。

62

徳之島における終戦直後の農民運動については既に報告した。それは当事者からの聴取り調 査にもとづくものであったが、その後文献資料で新しい事実が明らかになった。以下、松田情

63

『奄美社会運動史』にもとづき、戦前期の奄美農村運動を素描する。昭和3(1928)年、地方

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無産政党として名瀬に「奄美新興同志会」が結成されたが、この組織はいうまでもなくマルク ス・レーニン主義の団体であった。結成翌年の昭和4年、徳之島阿権の大地主平家の子息利文

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が同会事務所を訪ねて入会しているのは興味深い。平家については既に報告した。平利文は鹿 児島一中から京都帝大に進んでいるが、第五高等学校在学中から学生運動にかかわり、大正14 年には京大事件に連座して検挙された(不起訴)。そして昭和18年には共産党幹部を援助した理

66

由で逮捕され、昭和20年42歳のとき福岡で獄死したようである。平利文は新興同志会に入会す るやその資金援助をするとともに、徳之島の天城、東天城、伊仙で小作人組織をつくった。具 体的運動として、小作料減額をめざして地主への「嘆願書」まで作成しているのである。

戦後の農民運動も奄美共産党あるいは共産主義者と切り離せない。たとえば昭和21年に徳之

67

島伊仙村面縄では小作人組織が結成されている。その後の組合活動の展開については既に報告

68 69

した。また昭和22年には奄美共産党によって笠利に農民組合が結成されている。同党による奄 美大島第1回のメーデーが昭和22年に計画され、その政治スローガンに「農地改革を断行せよ」

70

を掲げたが、結局、アメリカ軍政府の命令でこの集会は中止となった。松田清作成の「奄美共 産党関係年表1946〜1955」によると、昭和22年1月に鎮西村諸鈍に農民組合が結成され、団体

71

交渉で小作料値下げに成功している。笠利に農民組合が結成されたのは、それから2ヶ月後の 3月20日である(上述)。

つぎに聴取り調査をもとに、戦後農民運動の概要をみたい。まず鎮西村諸鈍。戦後同村の人 口がピークに達するのは昭和23年で、その数は8056人である。その前年度は7805人であるから、

72

1年で251人の人口増になる。その増加要因の主なものは、海外.県外からの引揚者.復員兵に よる社会増といわれている。彼らは小作人の生活窮状、敗戦による戦前体制の不可避的変革、

日本本土における農地改革を肌で感じており、それらを踏まえて諸鈍における農民運動の強力 な推進者となったようである。中心的な活動家の中にはソ連からの帰還者45人も含まれていた という。昭和21年に奄美共産党の支援で農民組合が結成されると(先述)、組合員は新メンバー の勧誘、演舌会の開催、地主との団体交渉などの実践活動に入った。運動の中心課題は(1)小作 人の啓蒙活動、(2)地主の土地隠匿防止、(3)小作人優先の土地譲渡、(4)農地法の遵守などであっ

た。ほとんどの小作農が農民組合に加入したという。親戚間でも地主側と小作人=農民組合側 とに分裂した。敗戦前であれば、親戚間でも地主中心の容赦ない地主・小作関係が展開したが、

農民組合結成後はこの関係が逆になった。小作人は組合を盾に、小作料の不払い、借地取上げ、

地主宅への投石などのいやがらせがあったという。

(3)

こうした小作人・組合員の動きに対して、警察も名瀬から派遣されて農民の組合活動を譽戒 した。警察は運動家の名簿一覧を作成して、集会の日時・場所を記録していたようである。地 主(とくに林、金久、三島)側もこうした事態に対処するための対策を講じた。その中心は金 久であったようである。彼は有能であるが、さまざまな方法を使い一代で大資産家に成長した こともあって、小作人からとくににらまれていたという。結局、農民運動や農地法の影響を大 きく蒙ったのは金久であった。彼は小作人や親戚に土地を売却し、諸鈍を離れたという。

戦前期の小作人は人口増とともに小作地の不足で借地が困難になり、わずかばかりの耕地を 借りるにも地主の恩情を感じた。事実、1人の地主から1反歩以上借りるのは困難で、ほとん どの借地がそれ以下だったという。このような状況では地主主導にならざるをえない。小作料 は引き上げられ、不足分は借用書を書いて借金に転化された。こうして地主・小作関係は、親 戚関係だけでなく、村落内の人間関係を支配・従属関係に変容せしめた。しかし、敗戦後の農 民組合結成は、この地主・小作関係を逆転させたのである。地主に対する恩情意識はなくなり、

小作地に対する権利意識が芽生え、小作地の無償譲渡を迫るケースもあり、小作人有利に小作 地開放が実現したのである。こうした動きの中で、親戚関係は地主にとり何の盾にもならなかっ

た。戦前期とは状況が逆転したのである。しかしいずれにしても、対立関係で露出した事実を 人びとは記憶の奥深いところに押し込むことによって、あるいはそれを過去の一時期の対立に 過ぎなかったとか、また当時はそれが普通であったとか時間を限定することによって、ムラの 秩序を絶えず再生させているようである。

6.農地改革と地主崩壊

奄美群島に農地改革(昭和21〜25年)が実施されるのは、本土復帰(昭和28年12月25日)以 降である。その目的は広く知られているように、寄生地主と高率小作料の存在による農民収奪 の否定、自作農の育成と安定化、農民民主化であった。戦前・戦中期の奄美農村の地主・小作 関係はみてきたとおりで、小作農は厳しい状況に置かれていたのであり、農地改革はこの地域

にこそ効力を発揮しなければならなかった。

敗戦から本土復帰までの約8年4か月の空白は、奄美社会における農地改革を特殊なものに した。まず人びとは農地改革が本土で実施されていることを知っており、この期間に地主はあ る程度の対策を立てることができた。しかも昭和22年に諸鈍では農民組合も結成されており、

地主側は小作農の脅威を感じていたと思われる。地主側は金久を中心に対策を練っていたよう であり、談合の場に小作人による投石もあったという。ムラ共同体とか親戚関係の枠を越えて、

ムラが地主・小作関係により2分して対立した構図が浮んでくるのである。

農地法によれば、不在地主か在村地主かによって、その土地保有範囲は異なった。奄美大島 南部でもその差は大きかった。たとえば伊子茂の西家の場合、篠川は不在地主、伊子茂は在村 地主ということで所有地の取り扱いが大きく異なった。

農地法に対する地主側の対処策は3つあった。その1は隠匿、即ち形式的名儀変更である。

(4)

96 奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解(2)

その2は農地法適用前の土地売却であり、その3は農地法の適用を受ける方法である。このう ち前2者が奄美大島南部では主だったようである。

まず形式的名儀変更からみよう。地主は実際の所有面積を隠すため、親戚あるいは信用ある 小作人と相談の上、名儀を形式的にその人たちに移した。地主側としては当然、当該土地の権 利一切は従来どおりであることを確約した上での名儀変更である。こうして隠匿された土地が どれくらいの面積に及んだか不明だが、この事例は各村落で聞かれた。またこうした方法が結 果的に地主に有利に展開したかどうかは、定かでない。というのは、既に農民組合が結成当初 からこれを防止する方向で動いていたからである。ところで名儀変更はその後各地でトラブル を起こした。まず形式的に土地所有者になった人が、たとえ親戚でもその土地を実際に自分の 土地にしてしまったケースがある。名儀変更に至ったいきさつや地主側との約束など無視され たのである。もう1つの問題は、形式的に名儀変更された土地を第3者が購入する場合の二重 手続きである。売り手は元の地主であるが名儀は別人になっているため、購入に際して名儀を 元に戻す手続きと、その後本来の地主との間に売買手続きがなされるわけである。何よりも、

たとえ隠匿手続きをしても、それが発覚し、噂が広まると、結局売らざるをえない状況になっ ていた。

農地改革前の地主側の対策として、第2の方法が一般的であった。改革前に個人的交渉で売 却する方法である。この場合、地価は売手と買手の間で調整されることから、一定しなかった。

地域によって地主側が有利であった場合、逆に農民組合の力が強いところでは買手が有利に展 開した場合もみられたようである。いずれにしても、多くの小作地が改革前に、このような方 法で処分された。篠川の西家は、不在地主ということでその所有地をすべて放出したようであ るが、その方法は他の事例と少し異なる。土地売買に関する西家と小作人との契約は、3年分 の地料(小作料)を3年以内に払えばその土地は小作人の所有とするが、小作料完納前に名儀 移転登記は済ませておくというものだった(鎮西アツ子、大正2年生、篠川)。しかし実際には 契約不履行者が半分近くもいる。しかも彼らの多くは篠川を離れており、今日、彼等が不在地 主となっているという。

第3の方法は、農地法にもとづき公定価格で土地を売却する方法である。諸鈍ではこのケー スは少なく、林家の5畝だけだろうというある地主の証言もある。伊子茂の西家の場合、公定 価格で売却した土地は1件だけであり、自作在村地主ということで残りはほとんど所有できた。

結局、農地法の適用をもろに受けたのは篠川の西家と大和浜の和家であった。

本土復帰後の農地改革は、奄美大島南部の大地主に大打撃を与えた。農地法が適用される範 囲は限られていたとはいえ、それによって地主は結局土地を手離したからである。明治以降の 新興地主は、1または2代で崩壊したのである。藩政期から続いている地主で林家(諸鈍、里)

や西家のような旧家もあるにはあるが、生産的意味で彼らはもはや大地主ではない。藩政期か ら続いた地主勢力は、農地改革で奄美大島南部から消滅したわけである。

(5)

7.戦後農民層分解

戦後日本の農地改革は、地主的土地所有の解体、自作農の育成をめざしたものだった。この 戦後改革の不徹底さを指摘する向きもあるが、われわれの調査した範囲ではその影響は大きい といわねばならない(農地法が適用なれなかった云々と農地改革の影響とは区別される)。ここ でわれわれが注目するのは、改革後の農民層の再編である。

ところで農地改革が狙ったのは、農地所有規模による農民不平等の是正、あるいは土地所有 から生じる支配従属関係の排除であった。この点で改革はかなり成功したといえるものの、改 善されたのは不平等の一面であった。この改革は、経営規模には言及しえなかったのである。

そこで戦後農民層分解では、経営規模が重要な規準になる。つぎに、戦後農民層をとりまく状 況変化として、第1次産業の縮小にみられる産業構造の変化、労働移動、商品流通における市 場経済の発展または国際化・グローバル化である。このことは農村の経済格差、農村からの人 口流出、労働移動、農業の兼業化、農産物の一層の市場相場変動性を生みだす。このような状 況下で、兼業農家率はとりわけ分解の重要な指標といえる。戦後農民層分解の第3視点は、政 府の政策である。つまり、市場経済の発展あるいはグローバル化に対する政府の農業政策が戦 後の農民層を大きく規定しているといえる。この3点に留意しながら、具体的データをみてい

きたい。

73

表8から表10は、昭和30年8月1日を基準に調査されたもので、本土復帰後約1年8か月後 の資料ということになる。表8は、自作農家率が高いことを示す。とくに戦前期、少数の大地 主が支配していた地域、たとえば大和、西方、鎮西、住用、東天城、天城、伊仙の各村に注意 するとよい。住用と西方を除けば約76パーセント以上が自作農である。大和、住用、天城の各 村は自作率はやや低いものの、落ち込んだ部分は自作兼小作で補われており、小作兼自作や小 作率は低いといえよう。

表9は経営耕地規模による農家率である。先述のように、戦前の土地所有形態は改善された ものの、戦後は経営規模が分解の基礎をなすため、復帰後間もない時期の資料として表9は重 要である。この表から明らかなことは、本土復帰後、農家の経営耕地規模が縮小していること である。2町歩以上の経営面積を有する農家は、全体の約0.9パーセント(278戸)に過ぎない。

しかも徳之島伊仙村を除けば、かつての大地主支配地域の経営規模が大きいわけでもない。他 方、3反未満の零細規模は地域的なばらつきが目立つ。たとえば喜界島、徳之島、沖永良部島、

与論島の周辺離島では3反未満の比率は低いものの、奄美大島南部では高くなっている。当然 のことながら、後者における自作率は低い(表8)。中規模経営面積でも上と同様の地域差がみ られる。しかし、われわれはこのような地域差より、全体としての経営規模の縮小と平準化に 戦後の傾向を見出すことができる。

ところで戦後農民層分解は、この数字だけでは判断できない。何故なら、戦前農業と戦後農 業とは産業上の地位や従業者数が大きく異なるからである。この点で表8は役に立つ。たとえ ば大和、宇検、西方、住用などの大島南部諸村は兼業化が相当進んでいる。従って、周辺離島

(6)

表8昭和30年度市町村別自・小作農家率 の函

※区分中の「その他」は省略。この中に宇検村の5戸と竜郷村の4戸が含まれる。数字は四捨五入されている。 剛洲汁加到嬰茸謝汽哉ご小菅叶憩野庁服湘噸牢輔邑

表9昭和30年度市町村別経営耕地面積広狭戸数率

※数字は四捨五入されている。

表10昭和30年度市町村別専兼業農家戸数率

※数字は四捨五入されている。

名瀬市 大和村 宇検村 西方村 実 久 村 鎮 西 村 古仁屋町 住 用 村 竜 郷 村 笠 利 村 喜界町 早町村 亀 津 町 東天城村 天 城 村 伊 仙 村 和 泊 町 知 名 町 与 論 村 総計 自 作

自作兼小作 小作兼自作 小 作

69.6 7.3 3.3 19.7 100.0

76.7 13.2 6.0 4.0 100.0

70.0 19.1 7.2 3.3 100.0

64.7 18.7 7.2 9.4 100.0

64.1 22.5 7.3 6.1 100.0

80.4 9.1 4.8 5.7 100.0

63.8 17.5 9.3 9.4 100.0

68.6 22.8 5.1 3.5 100.0

83.9 12.2 1.7 1.9 100.0

74.6 11.6 0.1 7.2 100.0

93.4 4.9 1.4 0.3 100.0

81.7 18.3

100.0 95.0

3.8 0.7 0.5 100.0

90.3 7.9 1.3 0.5 100.0

76.0 20.2 0.6 3.2 100.0

96.9 0.9 2.0 0.2 100.0

99.1 0.8

0.1 100.0

94.7 1.4 0.1 3.7 100.0

99.7 0.3

100.0 84.0

9.2 2.8 4.0 100.0

名瀬市 大 和 村 宇 検 村 西 方 村 実 久 村 鎮 西 村 古仁屋町 住 用 村 竜 郷 村 笠 利 村 喜 界 町 早 町 村 亀 津 町 東天城村 天 城 村 伊 仙 村 和 泊 町 知 名 町 与論村 総 計 0.3町

0.5 0.7 1.0 1.5 2.0 3.0 5.0

一一一一一一一一3570500●①●●●●●00001123

65.5 17.5 8.4 5.0 2.9 0.6 0.1

100.0 63.7 19.0 9.3 5.6 1.9 0.4 0.1

100.0 70.3 20.5 6.7 1.9 0.5 0.1

100.0 74.5 16.7 5.6 2.4 0.6 0.2

100.0 73.4 18.4 5.5 2.2 0.4 0.1

100.0 64.6 20.2 8.0 4.8 2.0 0.3

0.1 100.0

64.7 20.0 9.3 4.5 1.2 0.3

100.0 46.6 24.6 15.3 9.3 3.5 0.5 0.2

100.0 47.9 21.7 13.6 8.7 6.9 l.2 0.1

100.0 23.1 34.5 17.4 19.8 2.6 l.3 1.3

100.0 32.9 18.5 14.6 17.1 12.4 3.1 1.4

100.0 38.3 21.1 14.9 13.0 9.3 2.6 0.6 0.1 100.0

39.8 22.2 15.2 12.4 8.1 1.2 0.8 0.2 100.0

38.8 26.7 17.0 11.8 4.4 1.3 0.2

100.0 23.4 21.0 19.4 19.6 14.8 0.9 0.9

100.0 25.7 21.4 17.0 18.2 12.6 4.0 1.0 0.2 100.0

21.2 18.0 15.2 17.5 17.4 7.2 3.0 0.4 100.0

30.3 22.3 30.4

12.0 4.1

0.8 100.0

26.5 23.7 18.6 16.3 12.2 2.1 0.7

100.0 41.2 21.7 15.1 11.1 7.9 2.1 0.7 0.2 1()().0

名瀬市 大和村 宇検村 西方村 実久村 鎮西村 古仁屋町 住 用 村 竜 郷 村 笠 利 村 喜 界 町 早 町 村 亀 津 町 東天城村 天 城 村 伊 仙 村 和 泊 町 知 名 町 与 論 村 総 計 専 業 23.3 3.3 23.9 63.2 78.7 74.6 17.2 84.5 91.5 67.0 92.0 85.1 83.6 72.3 74.3 82.8 94.7 77.5 68.6 兼業 1種

2種 51.5 25.3

75.3 21.4

54.3 21.8

85.0 15.0

22.8 14.0

14.0 7.3

14.4 11.1

45.3 37.5

7.2 8.3

7.1 1.4

20.7 12.3

7.9 0.2

3.5 11.4

7.7 8.8

13.9 13.8

23.1 2.5

11.4 5.8

4.9 0.5

13.2 9.3

21.2 10.2 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

(7)

と比べた場合の経営規模の零細化は、兼業化とパラレルになっているとみてよい。要点を整理 するとこうなる。戦後農民は、土地改革後、それぞれ何程かの農地を所有することにより、自 作農家が増加した。しかし零細経営規模農家は兼業化に向った。要するに自作農の内実は農業 に依存する自立農家だけでなく、兼業農家をも含むことになる。兼業農民の増加は、農業の衰 頽、農村の生産構造および生産関係の変容を意味する。これは戦後奄美農民層分解の端緒を示

経営規模の縮小と平均化、兼業農家の増大は、第1次産業の縮小という産業構造の変化を反 映していることはいうまでもない。しかし、われわれは同時に、経済政策にも注意する。昭和 30年代以降の高度経済成長は、都市と農村の経済格差を生みだし、若者を中心とした農村人口 の流出、そして農村の過疎問題を招来した。よく指摘されるように、その背景には重化学工業 中心の所得倍増計画が働いていたであろう。この国家的動向は、奄美農村にも波及し、農民層 の再編にもつながっているとみられる。

加計呂麻島の舩斉部落の裏手に良質の比較的まとまった農地があるが、荒蕪地のまま放置さ れている。以前は砂糖キビが作付されていたようで、取残されたキビが2,3本雑草に混じっ て立っていた。藩政期から近代期にかけて土地によって農民の歴史が大きく規定されてきたこ とを考えると、時代の変化はもとより、農業の変化に思い当たる。農業をとりまくこのような 状況の変化に留意しながら、戦後農民層の分解はみなければならない。

74

表11は、本土復帰後約7年後の昭和35年から52年までの経営耕地面積別農家率である。この 資料は2つの見方が可能である。1つは市町村別の時系列的変化であり、もう1つは経営耕地 面積による農家構成比の地域間差異である。前者からみよう。まず奄美大島南部が考察の中心 となる。大和村の場合、5反(または50a)未満の零細農家は漸次減少傾向にある(昭和51, 52年の30a未満は例外)。しかし5反以上は漸次増加(昭和51,52年の5反〜2町未満は例外)

している。つまり単純化すれば、零細農は減少し、中層以上の農家は増加しているといえよう。

この傾向は多少の不統一はあるものの、瀬戸内町、住用村の南部地域に共通している。同じ南 部地域にありながら宇検村は特異な動きを示している。まず3反未満の零細農家率が高い。昭 和45年頃までは増加傾向さえみせているが、それ以降は減少する。3反〜1.5町未満は不規則な 変化を示すものの、1.5町以上は増加傾向にある。注意したいことは、宇検村は戦前戦後をとお して農業衰頽地域ということである。たとえば昭和11年から15年までの村人口は連続して減少 しており、戦後は増加して昭和23年をピークとするが、それ以降は減少している(昭和29〜30

年はその前年よりわずかに増踊)。昭和30年代に入ってもこの減少傾向は続き、高度経済成長期

はこの人口流出に拍車がかかったといえよう。上述の零細農家の増加は、このような過疎状況 の中でとらえなければならない。何はともあれ、1.5町以上の中農増は、南部地域と同一傾向を

示している。

ついでながら農地改革前まで大地主支配地域であった徳之島3町(徳之島、天城、伊仙)を みよう。この地域は耕地面積が広く、零細農家率も大島南部と比べて低い。この3地域とも共 通しているのは、経営耕地面積1町未満農家の減少と1町以上農家の増加である。いうまでも

(8)

100 奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解(2)

なく、分解基点となる経営規模は、その地域の許容耕地面積とかかわる。大島南部の分解基点 7反、徳之島の1町は、各地域の耕地総面積の反映であろう。

さて零細農減少と中層農増加という、昭和35年以降の奄美農民層の分解は、特定地域に限ら れたものではなく、全国的傾向とみてよい。というのはこの分解の背景に、「自立農家」育成と いう政府の農業政策の影響が考えられるからである。この点を逸早く鋭く分析したのが河村望

(76)

である。河村によれば、昭和35年以降政府が打出した農業近代化政策は、「自立農家」育成を目 標に農業基本法を成立させたが(昭和36年)、他面でこの政策は零細経営農家の切り捨てであっ た。もっと具体化すれば、この政策のねらいは、所得倍増計画の中で農業は常に立ち遅れてい るため、安定的な自立農家を育成することによって高度経済成長と貿易の自由化に対応できる ように、農業の体質改善を行うとういうものであった。「自立農家」育成の裏面は「小農保護」

の否定であったという。河村によれば、これが実際問題として農民層分解に反映し、たとえば 経営規模別にみて、昭和30年から35年にかけての分解基点は1町歩であったのに対して、昭和 35年以降はこの基点が1町5反に引き上げられている。

こうして戦後奄美南部の農民層分解は、敗戦から本土復帰までの時間的遅滞や幾分かの時間 差があるものの、一般には全国的傾向をたどっているといえよう。

8 . お わ り に

農民層分解は、階級・階層の発展過程の一面である。この発展過程の推進要因として、われ われは市場経済の発展とそれに対する生産政策をあげた。そして、この関係図式を藩政期から 現代までの長期間をとおして追跡するという方法をとった。限られた時間内の調査故に、問題 の十分な解明には達していない。しかし論証の手掛りは示しえたとみてよい。

農民層分解を含めた階級・階層発展史に政治的過程を見据える分析手法は、意外にも等閑に 付されている。マルクス主義ではそれを自然史的発展過程で、構造=機能主義では近代合理化 過程または普遍主義への過程でとらえている。両者とも階級・階層発展を自然的社会過程でと らえている点で、あるいはまた結論を先取りしている点で共通している。われわれはこの発展 史に政治的過程をみるのである。階級・階層は利害集団にほかならず、その形成発展に利害関 係の対立・止場が内包されているとわれわれは考える。この過程は政治的過程にほかならない。

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奄美大島南部村落における地主形成と農民層分解(2) 102

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