近江専断期から寛政改革期へ
著者 三好 昭一郎
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 59
ページ 1‑22
発行年 2003‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011451
徳島城下において近世初期以来踊り継がれてきた盆踊りは、歴史的にたびたびの変遷を遂げつつも、次第に大規模化して盛り上げられ、他に類をみることができないほど、市中を賑わす民衆芸能に昇華され、既に四百年近い伝統を誇る巨大な無形文化財である。この盆踊りの発生は、いうまでもなく孟蘭盆における信仰上の理念によって、祖霊を供養するとともに生者も毎年一度の踊りを満喫するという楽しい行事として、今日もますます発展しつづけているという未曽有の踊りである。この盆踊りはまた発生段階から今日まで、その規模や芸態とかリズムや衣裳などについても、その時々における社
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好)
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策
l長谷川近江専断期から寛政改革期へIはじめに 会経済や政治の動向、文化状況などを反映しながら著しく変化して現在に至っている。そのような著しい踊りの変化があってこそ、踊りの衰退を免れてきたものと考えられる。こうしていつの段階においても城下一円を踊りの渦に巻き込むほど盛り上げてきたが、それは藩権力からすれば大きい不安の対象であった。つまり踊り狂う町人大衆を刺激したり、騒擾を示唆する場合などには、踊る群衆の集合心性が反権力的な大衆行動に結びつくという危険性を内包していたことは否定できない。それだけに城下の盆踊りは、つねに藩権力による抑圧の対象とされる宿命にあって、踊りの大規模化に伴って、踊りに対する規制も厳しさを増していったことは、各段階の城下に出された御触書を一瞥しても確認することができるところである。藩権力と
三好昭
郎
しては以上のような危険な踊りは禁じたかったと考えられる。しかし現実には一度も禁じることができなかった。その理由としては、まずこの踊りが孟蘭盆の大切な行事で、祖先を供養するという信仰上の論理は、藩権力といえども容易に禁じられなかったこと。また盆踊りは市中の商況を活性化させ、昔から「盆景気」といわれる現象によって、城下経済に好影響を与えたことも、藩権力にとって無視できなかったこともあって、規制は段階的に強化されていったものの、全面的な禁止は藩政期を通じて一度もなかったのである。そのうち規制が格段に厳しくなったのは、十代藩主蜂須賀重喜の治世、つまり宝暦・明和期と、十一代蜂須賀治昭治下の寛政期であるが、本稿では治昭による寛政改革における規制の強化が、当時におけるどのような城下町人社会の動向と、その反映の一環としての盆踊りの変化に対するものであったか、またその歴史的意義を明らかにすることにある。その前提として重喜治下の動向を素描しておくことにするが、重喜治世の終焉とともに、治昭による藩政改革が実施されるまで約二十年に亘って、長谷川近江による家老仕置体制下には、重喜治下における統制が弛緩し放漫に過ぎたことから藩政を混乱させたことが、藩政改革を避 法政史学第五十九号
けられなかったと考えられる。それが改革直前の状況であるが、それについては一章を設けて詳述することとし、ここでは、まず重喜治下の問題点を概略述べることとした(1)い。なおそれについては別稿で詳述しているので、参照されることを願っておきたいと思う。さて、重喜が藩主に聾封したのは宝暦四年(’七五四)である。当時の徳島藩は享保期(’七一六~三五)以来つづく藍業の不振を始めとして慢性的な藩財政の窮乏に苦しんでいて、城下の商況は低迷し浮浪人を大量に輩出し、家臣に対して知行の借上もみられ、各層の士気低下も著しく、経済の低成長期に入って武士も町人もともに苦しい生活に喘いでいた。こんな経済状態に追い討ちがかけられたように、宝暦元年から同三年にかけて公儀から日光山修復のための手伝普請が課せられたため、主として大坂の商人(2)に対して一一一十万両(約十二万貫)にのぼる負債を抱えて財政危機に直面していた。こうした現実の前に重喜は大胆な行・財政改革の断行を避けられなかった。重喜に先立つ八代藩主宗鎮と九代至央は、ともに病弱で藩政の運用を家老による仕置体制に依存していたので、緊要の改革を先送りしてきたという経緯もあって、そのことが財政危機を深刻化させる要因となっていた。そこで重喜は八代将軍徳川吉 一一
宗の享保改革に範をとりつつ行政改革に着手し、藩政中枢を側近で固めてきた体制を否定し、藩主に権力を集中する直仕置の体制を確立しようとし、また財政改革では藩最大の国産品としての藍の流通過程に介入し、とくに大坂の藍市場を独占的に支配してきた大坂の問屋を排除し、その後釜に阿波商人を送り込もうとした。また家臣対策としては、士気の退廃してきた状態に歯止めをかけ、文武に励むことを奨励して士風の高揚を図るなどの諸策を打出して、とくに徳島城下で享保期以降に町人の武家に対する無礼な行動が多発していることが多くの史料で裏付けられる。これは元禄期の城下における社会構成の激変と、その後の急速な経済変動を背景とした現象であると判断することができるであろう。そのような城下の動向を反映して諸芸能の伝播も活況を呈し、それが盆踊りを始め城下の民間芸能を盛り上げる直接の背景となったことは否定できないであろう。それに対して藩権力の眼が次第に厳しさを増していったところに、重喜時代の芸能政策の特色がみられる。さて、重喜の民間芸能政策を集約しているのが城下の盆踊り規制である。その史料によって具体的な検討を加えてみようと考えているが、その史料の冒頭には既に禁じてい
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) る組踊りや、華美に過ぎる子供俄は云々という文言が出ている。そこでこの御触書が出された宝暦六年(一七五六)に先行して、そのような措置がとられていたことが知られるが、それを実証できる史料は発見されていない。ただこの史料によると、禁じられた踊りについては、町ごとの頭取や町年寄に取締りを命じた上、町奉行に報告することを義務づけているが、町奉行は配下の同心などを出動させることなく、すべて町方における自主規制に委ねていることは、重喜時代にも改められていないことには注目しておこう。史料を掲げることとしよう。(3)一盆一一一日有来通御法度相守踊申義ハ勿論之事一一候、然処、端々御制禁之組踊、或小供にても華麗之栫|-て通例之踊と違候組踊相催候輩有之様一一も相聞、不埒之至候、此旨相心得、於踊申ハ通例之通神妙一一踊候様、市中屹と可被申付侯、若右之義仕者有之候ハハ、頭取之者被承合、屹と可申出旨、森平馬以手紙申渡之そのように当時の藩は、町役人を藩機構の末端に位置づけて、城下の芸能統制を効率的に達成できるように配慮されている。重喜の改革はこの年の藍制の見直しから開始された。しかし、名西郡高原村を中心として、この改革に反
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発し、藍玉騒動という藍作農村一円における総百姓一摸の動きが出てきた。藩はこの動向を未然に阻止することに成功したが、藍制改革の方向転換を余儀なくされた。そこで重喜は藩制機構の改編と藍の生産と流通過程に藩の主導権を確立することをめざしたが、その理念として家臣の文武奨励と綱紀粛正を軸として展開しようとし、まず元禄期以降に武家の間に浸透した町人文化、就中芸能接近の気風を除去しようとし、史料の上で具体的には諸士が親しんでいた三味線を禁止し、それはやがて町人に対しても、盆踊りに際して鳴物停止という極端な方向にエスカレートすることになる。(4)御家中諸士之面々、ロハくつ迄は琴三味線勝手次第翫候事一一候、右三味線之義は至て謹声之事二候得へ人之心を乱し、夫より酒宴等相催し、和二流れ、礼儀取失候様ニ相成甚不宜事二候、依之、諸士之面々右品翫候義、以後御停止被仰付候但シ宝女之面々ハ琴稽古仕義不苦候、三味線之義も屹と御指留ハ不被遊候得共、前段之通詮声之義二候得へ翫申義不相好事二候、右之趣御家中諸士之面々之可申聞旨被仰出候条、此度各より夫々可有通達侯、以上 法政史学第五十九号
二月七日御目付中以上のように、武家に対する三味線停止に限らず、町人や百姓にも停止を強制したということは、諸藩にも事例をみることができることで、当時の領主が藩政改革を実施しようとする場合、必然的に以上のような措置が避けられなかったことに注目したいと思うが、これまで徳島県における地方史研究にあって、盆踊りに三味線を始め一切の鳴物の使用を禁じ、また踊りを町内に閉じ込めて掛け踊りを禁じたのも、すべて重喜による明和改革の一環であると考えてきた。しかし、重喜の失脚後の安永・天明期においてそれらの規制が緩和された事情についても、またその歴史的意義についても明らかにされることはなかった。また他藩との比較検討を試みることもなかったが、その点についての試みも、本稿執筆の主要な課題の一つと考えている。いずれにしても、当時の鳥取藩における動向も注目される。その史料を挙げると、そのころ鳥取藩でも家臣たちが盆後(5)に「躍二似寄候儀、於御家中も有之」と問題視しているように、武家と盆踊り、武家の芸能活動が諸藩において問題化しているものと考えられる。厳しい改革に乗り出した重喜は、その改革途上において公儀から藩内を混乱させたと極めつけられ、明和六年(一
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七六九)十月晦日に藩主の座を奪われて、江戸の藩邸で隠居・謹慎の身となる。そのため改革は挫折し幼少の嫡子治昭が十一代藩主として聾封するという異常事態の中で、家老長谷川近江が治昭を補佐するとともに、藩政は家老仕置体制を復活させた。その後に安永・天明期、つまり治昭が寛政二年(一七九○)から父重喜の路線を継承した藩政改革Ⅱ寛政改革に着手するまでの約二十年間は、長谷川近江専断期と称し藩政も乱れ、その反映によって藩内の世相も悪化し、とくに城下町では武家の威厳が失われ異常な事態も瀕発するに至る。以上の事態を一挙に払拭しようとした治昭による改革は、きわめて厳しい諸政策を伴うものであった。本稿ではこの改革のうち文化政策に焦点を絞って考察するが、とくに城下における芸能政策の特質を明確に把握することに重点を置きたい。しかし、寛政改革の芸能対策に関する史料は乏しく、そのため盆踊りを描いた当時の絵画資料なども、十分に活用しながら困難な課題に挑戦してみようとすると同時に、近江専断期の動向にも注目することによって、そこから寛政期における諸対策が打出される必然性についても把促しながら、在来における研究の空白部分について、少しでも埋めていくことを心掛けたいものと思って
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) 徳島藩では前述したように蜂須賀重喜による行政機構の改革で、改革反対の頂点に立って旧慣墨守のために抵抗する姿勢を崩さなかった家老の山田織部真胤を切腹・改易としたのを始め、同じく賀嶋上総政良と備前政孝の父子を閉門とする反面、側近の林建部や樋口内蔵助を家老とするなど守旧派の不満を欝積させるような機構改革を断行した。その過激な改革に対して公儀は、藩政を混乱させる暴挙という判定を下し、明和六年(一七六九)十月晦日に重喜を隠居させ、江戸藩邸に謹慎することを命じた。そのため嫡子で僅か九歳の治昭が十一代を聾封することになった。当然その後の藩政は仕置家老長谷川貞行を頂点とする家老仕置体制によって藩政が運用されることになった。諸書によるとこれを長谷川の専断と呼び、藩政はその後約二十年に亘って長谷川近江が絶大な権勢をもって菫断したとされ、そうした近江専断期は藩政も弛緩して家臣の綱紀も乱れ、藩政改革の実施が待ち望まれていたようにいわれているが、そうした評価には若干問題があると思うが、その評価については今後の研究結果を待たなくてはならない。ただ いる。
安永・天明期の諸相
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法政史学第五十九号
近江の専断といわれる約二十年に及ぶ安永・天明期の場合には、もとより重喜の厳しい改革直後のため、藩政が弛緩したのも当然だろう。こうした近江の下にあって藍の好況は継続していたため、城下の町人社会はもとより、家臣各層の間にも重喜に対してつねに緊張がっづていた段階から解放されていたこともあり、そこには諸芸能を始め町人文化も成熟に向かうことになった。もとよりその背景には江戸を中心とした田沼政治の文化政策の影響があったことは言を俟たない。そのような安永・天明期の長谷川近江期と称する藩政下では、徳島城下の町人社会において華美に流れる風潮が黙視されるような状況もみられ、明和改革下に停止が命じられていた諸芸も復活する。盆踊りを例に挙げると組踊りなどが公然と復活したことを始め、武家の間でも寛文以来の禁足令を無視し、盆踊りの市中に出て踊りを楽しむ者が増加している。|且そのように城下の動向が藩によって黙認されると、急速にエスカレートして風儀は乱れ、藩による引き締めは困難の度を増していくことになる。そのことを集中的に示す現象の一つとして、若い家臣たちの町人文化受容と、就中早俄の催行である。まずその史料を挙げてみよう。 一ハ(句I)|盆中踊之義は先達て相触候通二候、然処御家中島々――て頭取之者多組踊又ハ歌舞伎躰之義相企、種々之鳴物等を相用、盆後一一至り此節迄も処々え相招、座敷一一おいて令興行候族有之趣相聞、風儀えも相懸り、別て如何敷義不心得之事一一候条、屹と指止可申侯、万一此上不慎之者有之候ハ、、無手当可被仰付候間、右之趣各より急々可被相触由、御目付中え以覚書申渡之この史料は安永四年(一七七五)七月晦日に仕置家老から家臣の監察に当たるべき目付中に命じられたものであり、そこには盆中や盆後において若い家臣たちが早俄のグループを編成し、組踊りや衣裳俄を市中の富裕な商家の座敷などに招かれて演じ、当然礼金を受取っていたもので、まさに武家による芸能興行が行われていたのである。もとよりこうした現象は藩政の弛緩する状況の申し子であるが、明らかに武家の規律を逸脱した不法で大胆な行動である。しかも身分制の根幹を揺るがす反封建的行為であったが、これも藩政の弛緩がもたらした城下における芸能活動の隆盛の中から生じた動向であるとともに、藍業の盛行に伴う城下における花街の繁栄、若い家臣たちの茶屋遊びの流行、そのための遊興費の必要といった循環の中で早俄を
輩出するようになったものである。また同八年二七七九)には、城下に隣接する郡町の福島築地や富田の正学院で、盆後に禁令の衣裳俄を演じていることと、その取締りを命じる次の触書を出していることに注目させられる。(8)|盆中踊之義は先達て相触候通二候、然処近年盆後二至福島築地又は富田正学院其余於御山下端踊装束仕、第一音頭等相企候様相聞候、盆後二至御停止之義ハ、人々案内乍仕前段之懸有之候てへ風儀えも相懸、別て不埒之事二候条、此後右様之義相催候族於有之ハ、無手当可被仰付候、依之、右場処々々え町目付・同心等指出、右様之企仕者於有之は、直一一召捕候様被仰付候条、各より急々可有通達旨、御目付中以覚書申渡之右之趣市中近郷可申付旨、夫々御奉行え申渡之これは仕置家老から日付中と町・郡奉行に宛てた取締りを命じた内容となっているが、これらの郡町に群集した中には、多くの家臣やその奉公人も含まれていたことを、文中から読み取ることができる。藩政が守旧に傾斜し放漫に陥ると、当然のように城下における世相も混乱した表層変化を急速にみせるようにな
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) る。これまで僅かの城下おける盆踊りの変化を示す史料を紹介してきたが、藩にとってもっとも困惑させられたのは若い家臣たちによる早俄の興行であったが、武家のこのような反封建的と考えられるような動向は、町人の意識をも大きく変化させる契機となったことが、盆後における郡町への群衆と衣裳俄の盛り上がりであった。しかし、そうした現象は多くの藩でもみられたと思うが、いま史料によって確認できる広島藩や鳥取藩における事例について考察してみることとしよう。広島藩でも安永四年に、それまで禁じられていた盆踊りが町人たちによって公然と復活している。七月十六日の触(9)聿已に注目したい。それによると「〈「年も長久寺門前並本照寺門前一一而躍始候由相間へ候、先達て御触示も有之候処如何之様子二候哉、町々相しらへ人名等可申出候、尤今晩より尾道町境井六町目境二役人共去年之通出張、新川町、竹屋町役人共申合正清院角江町々釣灯二而出張、躍躰之者罷通り候ハハ可申出候、勿論為見合双方町見廻りをも差出置候」とした上で、取締りのために革田を派遣すると記している。徳島藩では「有来りの踊り」と規定されていた祖霊供養の踊りは、ついに幕末まで禁止の対象とされなかったが、広島藩ではたびたび禁じられた。その盆踊りを安永期
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に入ると藩の禁令を無視し、町人たちによってたびたび市中に踊りを繰り出したことが、この史料によって知ることができる。この触書は不法に踊る町人たちに対して、藩による取締りの方策を明らかにしたものであるが、そこに安永期の町人たちの意識変化の一端が読み取れよう。同じころの鳥取城下では、禁止されている俄が登場していることに注目しておきたい。その史料として家老から町奉行に宛てた取締りを命じたものがある。(皿)町御奉一打え一盆中吉例子供町躍之儀、晩八ッ時よりセツ過迄為相仕廻、尤三日共二|日壱ヶ所宛二て躍セ可申候、右御定之刻限之外、躍一一似寄候儀井躍一一事寄セ物真似等致し候事、是又堅停止被仰出候、若心得違、狼成儀於有之は、急度曲事可被仰付候このころ徳島城下に限らず、鳥取城下でも盆踊りの刻限を過ぎるころから「躍一一事寄せ物真似等致し候」という新企の踊りが市中の踊場で演じられたのである。これは明らかに上方から鳥取の商人たちが伝えた俄である。俄は徳島城下では藍の上方積登しの盛行とともに藍商たちが伝えたもので、既に十七世紀末の貞享・元禄期には盆中の昼間に演じられ、盆踊りを盛り上げる役割を担っていたものと考 えられる。ところで俄の発生地は大坂といわれ、その種類も多くいずれも歌舞伎や人形浄瑠璃はもとより、声色や手品、近世後期には一口咄なども登場する。歌舞伎や文楽の名場面を寸時に演じるため華麗な衣裳で登場するのが衣裳俄、それを子供たちに演じさせると子供俄、手軽に声色や手品の芸を演じ、また次の人溜りに移動して演じたのが走り俄である。衣裳俄や子供俄は鳴物方や嚥子方を伴うもので四、五人から十人前後の集団で、贄の限りを尽くした俄であるため、たびたび禁止されたが、走り俄などは浴衣がけで一人で演じていたので禁止の対象にされることはなかった。こうした徳島城下の俄からは、かなり遅れて鳥取にも俄が伝播しているが、それは商品流通圏の上方に対する拡張された段階に照応する現象であったことは確かである。やがて俄は全国各地に伝播され、文化期には四国でも高松城(u)下にも伝播し、藩の規制の対象とされた史料がみ「りれる。鳥取藩でも俄を停止とし、それでも違背して演じた場合には、「急度曲事可被仰付」というような厳しい取締りを命じていることに注目すると、そこには徳島藩の場合と規制の差が大きい理由がどこにあるのか、その背景から細かく考察することが必要だと考えられる。いずれにしても安永
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期の諸藩では、町人のエネルギーが噴出し芸能活動の活発化によって、領主側の対応が困難になったところに時代の特色がみられる。鳥取藩の場合には徳島藩の城下に隣接する郡町の盆後における不法な歌舞伎俄の盛り上がりと、ほぼ同様な群集を警戒する次の安永一一一年七月十三日の触書を出している。(皿)|盆中夜分町方え人多集、根二立騒候旨相聞、有之間敷事二候、御家中召仕之家来無拠用事之外差出被申間敷候、旦又当月廿六日之夕、古海河原辺近来人出、不行跡之義も有之様相聞候、家来男女末々迄罷出不申様、堅可被申付侯以上鳥取城下の盆踊りは子供踊りだけが許されただけでなく、踊ることができる場所も限定されていた。これでは大人たちにとってストレスは限りなく蓄積されて当然である。そうしたストレスを発散させようとしたのが、この史料に記されているように、盆の深夜に城下の町方や古海河原に町人や武家、武家奉公人なども群集して立ち騒ぐという現象がみられたことであるが、そこには藩の規制の網目を潜って、踊りが許されていた時限後に群集したり、取締りを困難とするような場所を選んで群集しているところに特色がみられる。そこに先述した安永八年の郡町に群集し
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) て衣裳俄などを楽しんでいたとする徳島藩の事例ときわめて類似した現象だといえるであろう。この鳥取藩の史料には群集して騒いだということが記されているが、そこには多分城下で踊ることを禁じられている踊りが、ここで熱狂的に踊られたであろうことは想像に難くないであろう。そのように巧妙に時刻をずらしたり、取締りの手薄な場所を選んで群集するということは、当然そのための情報が広く伝達されるネットワークが存在していたものと考えなくてはならないだけでなく、群集する者を指揮するリーダーも存在していたことを認めなくてはならない。そのような意味からすれば、安永期には徳島・鳥取の両城下町とその周辺部に限らず、全国的にこれに類似した群衆化と非合法な芸能活動が多発し、それに対する領主サイドの取締りも容易でなく、まさにそのような現象をもって、安永期特有の世相と考えることができるのであろうか。重喜の藍制建直し以来、藍の商況は好調をもたらせ、その結果として徳島城下は藍取引きのメッカとなりつつあった。そのため城下の花街も繁盛をみせることになった。当(田)時は内町の新町川寄りと新町の杉屋裏が二大花街となっていた他に、瀧の山と呼んでいた眉山中腹にも料亭があっ
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た。その後に杉屋裏は手狭になったことから、富田街とその周辺に移されたが、花街の繁栄は町人社会の芸能活動の温床となったことはもとより、それは武家をも席巻することを留められなかった。(u)天明期になると四年(一七八四)二[月には「御家中諸士長屋端又は御奉公人等之家或は片間杯一一不正之者指置候より、自然と胡乱成者入込候様一一相成」と触れ、市中に浮浪人を多く輩出する根元が侍町にあったことが分かる。同八(岨)年二月にも同様の触が出されているということは、一向に実効を挙げていないものと理解しなくてはならないである
声つO(蛆)同年七月には「此節、御山下並御山下於近辺花火上候様一一相聞候、去ル延享一一丑年・明和二酉年稠敷御指留之御触も有之候処、前段之懸有之候段、第一火之用心悪敷、別て不心得之事一一候、此後尚以御停止被仰付候条、末々至迄堅可申付旨、長谷川近江殿被仰聞候」と触れているように、既に延享二年(’七四五)と明和一一年(一七六五)の一一度に亘って禁じられている花火の打ち揚げを禁じたものである。当時においては花火が揚がると移しい見物人が集まって群をなし、そこに禁じられている笹踊りなどが登場するため格好の舞台となり、また暗一嘩口論も予測できたと考え られ、そこには町組の自主規制も及ばなかったが、それも藩政の弛緩の結果であった。天明の大飢饅については広く知られていることであるが、徳島藩では元号が変わり寛政元年(一七八九)は豊作で、|応の安堵が得られたという。そこで藩は同年九月に他国米麦の入津指留めの旧制に戻すとともに、翌年から治昭による藩政改革が実施に移されている。次の史料はその意味で注目させられる。(Ⅳ)|近年御国中凶作打続候故米麦至て盲同直二付、市郷為御救他国米麦等入津御指明被成候、然所、当年之義ハ御国内も豊作之事候得ハ、此節より以前之通人津御指留被仰付候徳島藩では広大な吉野川流域の農村部一帯Ⅱ阿波北方が水田化を困難とし、藍を中心とした畑作地帯であったため、日常的に米不足を宿命づけられていた。当然不足米は他国米を移入して需要を充足するよりなかった。そのため凶作などで大坂市場の米価が高騰すると飢饅に見舞われることを避けることは困難であった。本来なら藩にとってこうした米不足は経済的に決定的な不利であるはずだが、徳島藩は米不足を逆手にとって、米の専売制を実施することによって、財政収入を増やしていることは注目しなくては
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治昭の寛政改革は寛政二年(’七九○)から実施に移されたとされている。この改革に関する先行研究としては安澤秀一の一連の業績に注目しなくてはならない。安澤はこ(四)の改革の理念として「古曲〈の真意を正し、国中確一之志を励し度」、つまり、祖法復帰を旗印として掲げ、その達成をはかるために「祖法の熟知がはかられ、また法に適った支配を行なうことが奨励された。さらに諸行政機関の改廃・新設・統合などの合理的運営も次第にすすめられてい
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) (畑)ならない。これについては別に報告しているのでここでは取り上げないが、天明の米不足に困惑した現実から、治昭は独自の地方支配改革を実施に移している。それについては次節で取り上げるが、天明の米不足も安永以降の藩政の弛緩と放漫な経済運営がもたらせた結果であることは明らかで、そこに治昭による厳しい寛政改革によって、藩政を建て直さなくてはならない状況に立ち至っていたはずである。こうして取り組まれた寛政改革の特質を次節で概観することによって、さらに寛政改革の一環としての民間芸能に対する政策の特徴を読み取るという作業の前提としてみたい。
二蜂須賀治昭の寛政改革 る。すなわち行政改革は、①家老権勢体制打破、②祖法熟知、③適法支配、④行政機関機構改革の四局面に展開していく」と整理したうえに、「直仕置体制下の改革は財政改革・行政改革に止まらず、さらに教育改革と地方支配改革という二局面に及んでいる」と指摘するが、教育改革の中には庶民教化という新たな方向を打ち出していることは重要であるが、それについて安澤は「民間での儒学奨励や孝子の褒賞・堕胎禁止などの人倫教育と、技術伝習などを構成要素としている」ことを明らかにし、さらに地方支配改革について、寛政十一年二七九九)には郡代を制度化して任地に常駐させることによって、「主穀生産の増収と農産物の多様化奨励と南北の生産力の格差を是正し、勤労的自立経営の育成に重点を置いていた」というようにまとめている。(別)改革実施に至る一一十余年に一旦る藩政は、「総べて長谷川近江の決する処と為り、仮令稲田九郎兵衛父子・池田浪江が仕置職に就き、又天明三年賀島長門が同見習に為ったとは云へ、そは殆ど空名に留り、実権は総べて近江に於て掌握し、彼の権勢は内外に渉って強張墾断、幾多の失政私曲を免れなかった。「阿波志』は之を録して次の如く述べてゐる」とする。
寛政元己酉九月、仕置職長谷川近江、病を謝して職を罷む、近江の政を執る、頗る威権を弄す、近習佐度采女・集堂勇左衛門等屡々以て言す、公其奉職の久きを以て之を保護し、密かに論旨して之を罷めしめ、賀島長門をして独り政を任せ、事毎に上間して決を取らしむ、三年辛亥正月、近習役を改め年寄と為す、九月、長谷川近江罪あり禁鋼す、近江職を罷むの後に、集堂勇左衛門等、近江が法を任げ、住吉島・鶴島沿岸の空地を請ひ、自己の有と為し、家臣の宗門を検するは、郡奉行に由らずして行ひ、其余藍綻産物の処置官を失ふ等の事を摘発す。こうした措置をもって改革のための準備がすすめられたことを記している。この改革が祖法復帰を基調に掲げたことから、治昭は先徳島藩主で、初代藩主至鎮と二代忠英を後見し、藩政の基礎固めに力を注いだ蜂須賀家政(蓬庵)を神格化し、改革の達成をめざす思想的立場を明確にしようとしたことは注目される。こうして造営されたのが城下の国瑞彦明神社である。治昭はそのために文化三年二八○六)十一月、伊賀町の八幡社神官の早雲高宝を吉田神道卜部良連の下に遣わして、家政の神格化を懇請し神号が同年十二月七日に授けられている。早速社屋の造営に着手す 法政史学第五十九号
るため家老職二千石の佐渡長賢を造営の奉行に任じ、八幡社に隣接する眉山麓に壮麗な国瑞明神社が同五年に完成し、十一月十五日に遷座の儀式を執行し神官は早雲高宝が兼務することになった。こうして藩政の信仰的基礎が固められていった。その後の天保十二年(’八四二に十二代斉昌は社領として一一一百石を寄進していることを、次の史料で確認することができる。(Ⅲ)一呈田御社江御奉納相成候御目録大高檀紙認方行書御花押御直書一一御用成候、御当り之御判相居御上包同断認大綱左之通尤御写者前段二有之候事当社為神領於当国勝浦郡藤川村之内三百石事今度奉寄附詑永代不可有相違之状如件天保十二年三月廿八日正四位上行左近衛権少将阿波守朝臣斉昌御判国瑞彦大明神宝前なお国瑞社は洲本城下にも分祀され、淡路住の家臣の信仰上の拠り所とされた。注目しておくべきこととして、洲本の家臣層とは別に洲本城代の稲田家でも稲基神社が洲本城下に創建され、その陪臣団の結束のための信仰的象徴と化していったことで、それが明治三年(’八七○)における ’一一
徳島藩騒擾事件発生の遠因となっていることは確かであり、重要な研究課題と考えられている。地方支配の強化政策Ⅱ地盤引締めによる貢租増徴のため、人材の登用も積極的にすすめたが、その典型とされたのが海部郡代に抜擢された佐和瀧三郎であろう。佐和は異例の抜擢に感激し海部郡代上席として地方の引締めに没頭したことはいうまでもない。ところが年貢の取立てに当たって「盆選り上納」という苛酷な選米を命じたことから、享和元年(一八○一)に浅川と牟岐両村の百姓が、その栓桔に耐えられず間道伝いに土佐藩に大挙逃散する事件が発生し、やがて佐和はその責任を負わされて士分を剥奪されたうえ入牢の身となり、獄中で狂死したことが諸書に紹介されている。いずれも佐和の功をあせった苛酷な郡代としての職権濫用の悲劇的な結末を述べているところに共通性がある。ということは佐和の海部郡経営を寛政改革と関連づけて考察した研究成果を先行研究の中に見出すことはできないということである。享和元年十一月に土佐藩領に逃散した百姓は百八十人(皿)で、土佐側の役人に対して逃散に及んだ理由を「年貢米は爾来五斗俵にて壱升(ロ米)に候処、去々年以来壱俵に壱升五合の俵付二相成申候、然一一当年へ至候てハ壱俵二付弐
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) 升九合之俵付被仰付候て、右年貢米選方小盆一一入壱粒選仕候二付、能米壱石――て漸五斗ならで納米ニ相成不申候、その上えらみ悪くと御座候て幾度も選直し被申付侯、殊二右えらみ方に家内一同二相懸候故、外之働一向相成申さず」と、口銭の引上げと選米上納(盆選り)という苛酷な仕方による苦しさを訴えている。徳島藩では土佐藩との接衝の結果として、逃散した五日(羽)から十一日後の十六日の「朝罷り帰り候」日、早速仰せ知させ下され候ところ、右の者昨十七日、残らず本村へ立帰り申候」として落着しているが、その直後に佐和と同役の名西郡代の黒部藤助が減知、麻植郡代の岩田内之助が閉門、阿波郡代の稲田武七郎が閉門、海部郡代で佐和と同役の赤川左蔵は蟄居、那賀郡の平尾勘左衛門は御呵りと、それそれ罰せられている。それに対して佐和は板野郡代に転出させられはしたが、罰せられず享和三年七月十一一一日になって捕えられ、文化元年(一八○四)’一一月一一十三日に本締から入牢が申し渡されている。(別)(前略)佐和瀧一二郎儀、彼是御用向も相勤出精之次第も相聞候に付厚召仕、第一当役儀被仰付侯剛も下民撫育之次第等厚趣意をも被仰出置候へ(、猶更以て正路一一可相勤筈之処、御趣意をも不奉守、上と同役、他人
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を侮り偽り悪行之次第誠に以て不届至極之事――て、これにより指禄御取消先年牢舎被仰付者也(下略)さて、佐和以外の黒部・岩田・稲田・平尾の四人の郡代は、いずれも譜代の家柄で佐和だけが新たに登用されて郡代に就任していることが分かる。同役の赤川左蔵も初代氏秀は延宝六年(一六七八)の召出で、その四代目で天保十一年二八四○)に五代信興が養子となって家名を継いでいることからしても、佐和は寛政改革の地方支配政策の失敗の責任を一身に背負わせられたものと考えられる。いずれも徳島藩政にとって海部郡は新企の政策を藩領一円で実施に移す場合には、まず海部で実施してから全域に及ぼすといった実験台とされていたことに注目しておく必要があるだろう。こうして逃散事件が発生したこともあって、改革の方向は変更を余儀なくされたはずであるが、それを明らかにすることは今後の課題である。なお海部郡に対する芸能政策についても史料収集を必要としている。治昭の寛政改革でもう一つ注目しておくべき政策とし(閲)て、藩全域の農村に対する地神祭執一行の強制と、藍師と仲買人による穣多が栽培した葉藍の不当な買叩きを禁止したことである。まず地神祭については村落ごとに五角柱の地神塔の造立を命じ、春秋の社日には野良に出て働くことを 法政史学第五十九号
禁じ、地神塔に寄り合って神事を行ったあと酒食をともにして共同体の結束を固めさせようとするもので、これも国瑞社の創建に関わった旱雲高宝の建議を採用したものである。こうして各村落では年間にそれぞれ正月や盆、秋祭りなどの村行事以外に取り決められていた休日を実質上で減じ、地神祭にだけ休ませようとする政策を実施するという(妬)厳しさであった。また横多藍については、藍師や仲買人が穣多の作った藍は不良品だといって安価で買い叩き、購入した葉藍の量を村役人に届け出なかったので、これは明らかに脱税行為であった。これこそ藍師や仲買人による部落差別の一人歩きで、まさに悪徳商法であった。改革はそうした商法を禁じ少しでも税収を増やすことに腐心している。さらに被差別部落についていえば、御山下村落とされた城下周辺の積多には毎月九日という城下の掃除役を課していたが、これは穣多の農業経営を圧迫することは自明の(面)ことであり、被差別部落から代銀納制にして欲しいという歎願が出されたことから、それを認めることとしたもので、こうして穣多は掃除出役から解放され、農耕に専念することができるようになり、その成果は藩の財政収入を増やすという抜け目のなさであることも注目しておくべきことである。これらの政策転換は改革の一部の現象に過ぎな
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治昭による寛政改革は、重喜の改革を完成させることによって、藩国家の確立をめざすところに特色があった。そのためには藩内の風紀を引き締め領民が日常の仕事を油断なく精励させることに重点を置いていたため、城下でも町人の遊興的雰囲気を一掃し、家臣に対しては文武に励ませることによって、緩み勝ちの士風を一挙に回復させようとするところに目標を定めていた。それは当然のように民間芸能に対する厳しい規制が強められる必然性があった。それは幕府の松平定信による寛政改革に連動させるものであるが、次の史料は公儀法度を藩内に適用していることに注目しておきたい。寛政十二年五月十三日(羽)|此度從公義神事祭礼賑之節亦は作り物・虫送り・風祭等之義二付御触有之、仕成方之儀彼是相行着申出候書付帳面共遂披見候、随て左害之通被仰付候一祭礼之節笹踊之儀久しき賑――て古来有来候事二候得ハ不苦候、乍然、芝居同様之仕成一一至候儀ハ風儀も いが、それらを通して治昭の寛政改革のもつ性格をある程度は理解することができるのではなかろうか。
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) 三寛政改革下の民間芸能政策 不宜故指留、出し.はやし・ねりもの等其他賑之儀前々之姿二順相応之仕成可仕事一近頃盆中踊之節歌舞伎同様之仕組、仰山成錺物等仕候様之義ハ指留、古来より有来之儀ハ不苦候事一馳馬之儀ハ近年究りも有之義一一ハ候得共、今少目広可仕候、尤、重々怪我等無之、並不筋之儀無之様、市郷御奉行心得を以可遂了簡候事一浄瑠璃・三弦等之儀ハ格別不長様御奉行心得も可有之事この触書では、盆踊りは初め年間の諸祭礼やイベントにおける芸能活動に対する厳しい領主規制を命じたものであって、盆踊りに関しては衣裳俄の禁止や踊り子の贄沢な錺物の指留めを命じ、有来りの踊りは認めることによって、ガス抜き効果を挙げようとするものである。第一条に祭礼と虫送りや風祭りと三種の行事を挙げているが、そのうち稲を喰い荒す害虫を村外に追い出すという神事として、風祭りも稲の豊作を願って台風を運んでくるような大風が吹かないように祈念するもので、地方によると盆と同義の行事とされるところも多かった。そのうち収穫感謝祭としての農村における産士神の秋祭りは、時代とともに華美なものとなり、とくに城下の祭礼などの影響をうけて、
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第二条のような笹踊りなどが登場するようになった。また本来は素朴な村落の行事として行われていた虫送りや風祭りなども一早保期(一七一六~三五)ごろから次第に華美を競うような行事となるが、そうした傾向に拍車をかける結果となった原因の一つに三味線の普及を挙げておかなくてはならない。なお治昭は藩域の村ごとに、改革の実施の一(羽)環として城下八幡社の神官の建策を容れて、地神塔を各村ごとに建てさせたことについては、先述しておいたが、春秋の社日には農事を休ませ、村民すべてが参加する休息日とすることを行事化したが、そのため毎月四日ほどの休息日を廃するという徹底した支配を貫徹していった。ここで注目しなくてはならない史料として、藩の絵師鈴木芙蓉が描いた寛政十年二七九八)の盆踊図を取り上げてみよう。この絵は当時の城下で踊られていた盆踊りを描いたものとは考えられないもので、少人数で踊る辻踊りを描いたものである。しかも、幽霊踊りとも称していたように、あの世から現世に帰ってきた祖霊が踊り子に乗り移って、踊りを楽しんでいる様子を表現している。同時に足を高く蹴り上げ、手も高々と挙げていることは、古風な踊念仏を踊っているものと判断することができ、このような踊りは藩政初期の城下で、聖念仏などと呼ばれていたもの 法政史学第五十九号
で、布教の旅をする聖や修験者が伝え、教えた踊りに他ならない。この絵を細かく観察すると、ここに描かれているのは男性だけ十一人で、それが六人の踊り子と五人の鳴物方に描き分けられていて、鳴物方の一人は大きい風流傘を窮している。この傘が依代とされていて祖霊たちは迷わず子孫のところに帰ってくることができるための目印とされている。また踊り子六人のうち四人と鳴物方の三人は羽織を着ているが、とくに踊り子の羽織を着ている四人の頭には特有の頭巾を被り赤い紐で結んでいる。これは秋田県雄勝郡羽後町に今も踊っていて有名な、西馬音内盆踊りの踊り子が、祖霊に変身するために被っている彦左頭巾と同じで、この踊りが帰ってきた祖霊を楽しませ、供養するための宗教性に富んだ踊りであることを示したものである。ところが、城下は寛文期(一六六一~七二)から元禄期(一六八八~一七○一一一)の間に、町屋には商家や裏長屋が建ち込み、初期に踊っていた各町の辻や空地で踊ることができなくなる。もちろんそれは城下人口が急激に増加したことを意味している。つまり、城下の都市構造が大きく変化し、人口の急増によって盆踊りに加わる踊り子も増えると、町内を単位とする踊り集団も大規模化したために、辻 ’一ハ
や空地が残っていたとしても、もはやそこでは踊ることができなくなった。そのために大集団の踊りは列をなし、町組内を踊り進む練行型の踊りに変化したのである。こうした大規模な集団が路上を練るように踊ることを、徳島城下では.T廻り」と名付け、それは祖霊はもとより悪霊たる餓鬼仏をも霊界に送り返す踊りの形式だと理由づけていったのである。それで理解できるように、初期の城下で町ごとの辻や空地で少人数で踊っていたころには、路上の通行を妨げるような踊りでなく、家屋から見物することもできず、見物する場合には踊っている辻や空地に出向かなくてはならなかった。それが練行型の踊りに変化し、路上には踊る集団が入り乱れるようになると、藩にとっては晴一嘩口論を始め混乱が生じても、それを取締ることなど不可能になる。そこで城下における盆踊りに対する領主規制を、時系列に沿って検討してみると、寛文十一年の最初の規制は踊りの(訓)大形化に伴う混乱をもた》bしたのが、当時は溢れ者と呼ばれていた武家の喧嘩口論が目立つようになったため、武家に禁足を命じ盆中を屋敷内に閉じ込めることによって、踊りに賑う市中の混乱を最少限に抑えようとする措置に出たが、次に注目しておきたいのが貞享二年(’六八五)の規
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) 制である。この規制の前提には大形化と街路を埋めつくすような踊りに変化すると、扇動すれば忽ち踊り子たちは打ちこわしに転化することも考えられる。こうした騒擾事件を未然に防止するために、見物人に対しても規制措置を強制しようとするものであった。この二つの規制について考察するだけでも、城下の盆踊りが寛文・貞享期、すなわち十七世紀の後半にはきわめて大形化していることが実証できるのである。しかも、こうした大形化を可能にしたものが鳴物の充実ということにあったはずである。そこで考えておかなくてはならないのが三味線の城下への伝播と普及ということで、初期の盆踊りが鉦と太鼓だけであったことを考えると、大形化に伴って念仏を主とした宗教本位の踊りから、多彩で遊芸的なリズムによって踊るタイプとなるなど、急速に変化したことが考えられるであろう。そのように考えることができるとすれば、芙蓉が描いた盆踊図は余りにも少人数で、さらに宗教的性質を濃厚に表現された盆踊りであり、決して当時における盆踊りを忠実に描いたものとは考えられない。それではなぜ芙蓉が古風な盆踊りを描いたかという疑問がわいてくる。そこで考えられることは、この絵が治昭による寛政改革下に描かれているということで、改革下の盆踊りとしての理想の踊りと
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して描かせたものだと考えてよいであろう。それは芙蓉が自ら考えて描いたものとは考えられず、それは藩からの政治的至命を受けて描いたものか、そのことに関しては実証することのできる史料がないので早期に結論は出せないが、きわめて政治性を帯びた絵画資料で、藩政改革の民間芸能政策に基づいていえば、藩としては芙蓉の絵のような盆踊りに変えていきたいという理想の踊り、つまり、踊りのモデルを提示しようとした絵画資料と結論づけることはできよう。それにしても当時の城下で現実に踊っていた盆踊りは、改革モデルの芙蓉の絵とは、まったく異質な大規模で遊芸化した盆踊りであって、それを元の踊りに戻すということは、もはや絶対に不可能なことであった。そのように遊芸本位の踊りに変質を遂げていたとはいっても、踊る側の町人社会では、盆踊りを孟蘭盆に欠くことのできない盆行事の一環として位置づけられていて、また祖霊供養と町内の安全や商売繁盛を願うための踊りであるとする建前を第一義としてその催行を願い出れば、藩としてもそれを禁じることはできなかった。それが当時「有来りの踊り」とか後に「ぞめき踊り」と呼ばれるようになった、今日に継承されている盆踊りである。それに対して宗教的な芸能とは考 法政史学第五十九号
えられなかった組踊りや衣裳俄は、衣裳といい移動式の舞台といい贄の限りをつくした民間芸能であった。これにっ(Ⅲ)いては既刊の拙著に詳述しているので、ここでは触れないが、既に重喜の藩政改革の当初から厳禁されている。その後の安永期の史料によると、禁止の盲点をついて、しかも城下を避けて隣接する郡町で盆後に衣裳俄などが行われたことについては先述した通りであるが、それを寛政改革下では厳しく禁じられている。もとより禁止の最大の理由は、倹約を励行することと正業に出精させることを強制した改革の路線からすれば、その華麗さを競うだけでなく、組踊りを演じようとすれば、十分な稽古も必要であったことから考えても、改革下の藩として決して演じることを許せなかったのは当然である。このような寛政改革の民間芸能に対する厳しい規制は、当然庶民教化政策の延長線上に立案されたものであり、その正当性を祖法復帰の理念で納得させようとする意図が働いたものであると考えられ、先述の鈴木芙蓉が描いた盆踊図なども、復古的盆踊りのあるべき形態を具体的に示唆しようとする政治的意図から描かせたと解釈することも、決して不自然なことではないであろう。そのように治昭の改革のうち、とくに民間芸能政策には
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徳島藩政の諸改革に異常な情熱を燃やした蜂須賀重喜が登場した宝暦期は、藩の歴史が前期と後期に分岐する折返し点と位置づけることができるだろう。そう考えると後期藩政は前期と比較して、まさに荒海に向けての船出が重喜による明和改革であり、波乱万丈の後期藩政の幕開きであったといえるであろう。歴史的に改革に伴う緊張、改革後の施緩期を経て改革の必要な段階が、ほぼ繰り返されるのであるが、それは当然のように庶民の芸能活動に対する領主の政策の振幅を大きくしたことになる。本稿が研究対 徹底した統制が加えられたものと考えることができる。しかし、その規制の仕方はもとより、取締りの具体的あり方を示すような史料が改革の過程には殆んど見当たらないのである。その理由を大胆に推測すれば、藩による取締りが十分に効果を挙げていたために、格別の規制に対する違反が発生しなかったという結果ではないかと考えることもできなくはない。私はそうした推論をすることは若干無理であろうと考えるものではあるが、領主規制を強化しようとした史料が、改革の過程で皆無に近い状態というのは甚だしく不思議な現象であることを痛感させられる。
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) おわりに 象とした宝暦・文化期の六十余年間における推移をできるだけ時系列に沿って整理することに心がけてきた。それを徳島城下町を中心とした芸能活動と領主規制という側面にどのように反映したかについて考察した結果をまとめることとした。この六十余年に及ぶ段階の徳島藩では、明らかに藍業の発展期に当たり、それを背景として城下の芸能活動も隆盛に向かい、それは必然的に家臣各層の中に芸能に泥む風潮を醸成し、極端な場合には早俄のように若い家臣が商業活動に走る動きすらみられるようになると、藩の規制は何を措いても家臣対策にウェイトを置くよりなかった。在来の研究は領主規制の対象が、すべて町人社会に向けられていたという理解を正当化させていたが、それは当然見直しの必要に迫られている。その意味から本稿では藩内の士風引締めという、すぐれて政治的目的に沿った政策の展開として注目される。本稿はそのことについて、かなり実証的に明らかにできたことは新たな成果だと考えている。それとともに城下の芸能文化の展開は、盆踊りを含めて阿波藍の盛衰と深く関わっていて、その関連性を避けて考察することは不可能だといっても決して過一一一一口でない。徳島城下は十七世紀の後半以降は藍商人の進出が目立ち始
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法政史学第五十九号 め、諸国市場に藍玉を積み出す集散地としての機能を備えるため、とくに新町川畔には藍玉を収納し、各地に積み出すことのできる土蔵が立ち並び、さらに吉野川流域の藍作農村に金肥を大量に供給する中継地としても藍の土蔵が使用され、川はそれら輸送のための船が頻繁に行き交い、城下の活発な経済活動を象徴する感があった。また藍商や肥料商の店に奉公しようとする農家の一一、三男の流入も増加をつづけ、城下は藍の発展とともに町屋の構造を変質させていった。そうした城下町の変容に照応して盆踊りの規模や芸態をも大規模化させていったが、その変化には藍商たちが城下に流行させた俄などの衣裳や鳴物、芸態などが盆踊りに融け込んで市中は踊る人、見物する人で雑踏すると、藩としてはそれを黙視できなくなり、当一然のように領主規制が強化されていったものと考えられる。寛政改革直後から文化・文政期は城下の盆踊りも著しい賑わいを取り戻す。歴代藩の馬医方または駒方を勤めた渡(Ⅳ)辺家の六代官次郎経旧が塞白いたと推定できる史料によると、「籾拍子水を打て人をしづむるに群をなしたるもの、我先に見むと小高き石に登り、軒たるに取ついて誠に錘を立たる寸地もあらず、此時狼籍に八酔狂人の踊崩しなからしめん為、くきやうの若者すくって二一一一十人江戸胸懸或ハ 二○
猿小しゆはん杯対に染て着し、銘々槍鉢巻にて手提灯をもち酔たハれの曲者あらハ、つまミ出せ杯いふて腕をさすれハ、誰有て答ふ者なく、おのっからしつまり、掴枕詞に□りやえ踊尽して終の刎をとって実くれハ、立重なれる見物忽騒きて東へ西へ渦巻乱、煙草入を落し手拭を失ひ、右往左往の出六町差の印ハ何俄かしこの見付台ハ何なとむれつつ歩む」などと、その盛り上がった様子を具体的に伝えている。もとよりこの期の盆踊りの高揚の背景には、長期に亘った寛政改革も終り緊張関係から解き放たれた安堵感と、藍業の好調な展開による好景気などの反映であった。それとともに藍商たちによる江戸における町人文化の伝播なども大いに刺激材料となったことも確かである。芸能史研究の最近における広まりと深まりには目を見張らせるものがある。しかし、それらの研究は能楽・歌舞伎・人形浄瑠璃などの興行史を中心とした舞台芸能の研究に集中していて、民間芸能の地域的展開に関する研究については、民俗学の視点からのアプローチはみられるものの、研究者の層は依然として薄いという状況が続いている。まして幕藩支配と民間芸能の関係を明らかにしようとする研究は皆無の状況にあるといって過一一一一口でない。その理由は史料の絶対量不足という厳しい現状によると考えられ
るが、地域性の強い民間芸能には、それぞれ地域に暮らす人びとの願いや歓びなどが凝縮されているだけでなく、民間芸能に対する領主規制の中には領主支配のさまざまな矛盾を見出すこともできるという意味で、もっとも普遍的民間芸能としての盆踊りをめぐる領主と領民の関係を把握することは、藩政史や地方における都市文化を検討するための、有力な契機となることを疑わない。
註(1)拙稿「蜂須賀重喜の藩政改革と芸能政策」(「鷹陵史学』第二七号所収論文・二○○一年刊)(2)徳島県史編纂委員会編『徳島県史』第三巻へ徳島県・昭和四十年刊)二五六頁。(3)藩法研究会編「藩法集③徳島藩』(創文社・昭和三七年刊)’九七頁所収、宝暦六年七月十一日の御触書。(4)右同書、四三頁所収。宝暦十二年御触書。(5)藩法研究会編「藩法集①鳥取藩」所収。宝暦六年七月十一日の御家中御法度。(6)西野嘉右衛門編「阿波沿革史』(昭和十五年刊)二一一頁所収。(7)前掲書「藩法集③徳島藩』四七頁所収。(8)右同書、四九頁所収。(9)広島県史編委編「広島県史・近世史料」(広島県・昭和
近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策(三好) 五十年刊)八一一一三~四頁所収。(皿)前掲書『藩法集①鳥取藩』六三七頁所収。(Ⅱ)香川県史編委編『香川県史・近世史料Ⅱ」五一一三頁所収の文化十三年七月十一日町年寄宛の御触書には、「町方盆踊之義七月十三日より十六日迄二候筈之処、いつとなく心得違之者多、同月二十五日夜迄ハ不苦旨申成、町方辻々におゐて踊等有之、井一一にわかと名附種々之趣向相企及深更候迄俳個由相聞不宣風儀二候問、向後者十三日夜より十六日夜迄者有来候踊者御構無之、其余者不相成候、且又盆踊之外町方近郷於家内一一、衣類等取繕芝居芸一一似寄候義相催候者も有之様相聞候、右様之義者仮令盆中たりとも不相成候、心得違無之様可申付候、右之趣裏家借家二至迄不曳様入念可申渡候」と命じ、その取締りとして「盆中故今晩明晩二夜之所、木戸番番自身番列歳之通明ケ相詰在之候処、尚又増番相加へ出張相詰可申由、只今御呼出シ一一而、此段町中江可申通候様被仰付候間御順達申候」とする措置がされている(五一一三頁)。(血)前掲書「藩法集①鳥取藩』所収・安永一一一年七月十三日の御触書。(旧)西新町一丁目と西大工町一丁目の裏町にあった花街のこと。(M)前掲書『藩法集③徳島藩』五二頁所収。(旧)右同書、五二頁所収。(岨)右同書、五一頁所収。
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(師)同書一一三○~一一一一一一頁所収。なお拙稿「徳島城下の塵芥処理体についてl穣多の就役と代銀納制の獲得を中心として」(四国部落史研究協議会編『しこく部落史」第三号. (Ⅳ)右同書、七四二頁所収。(旧)拙稿「米と民衆のくらしl阿波の歴史から」(『徳島発農業の今と末来考』徳島地方自治研究所二九九四年刊)所収。(旧)安澤秀一「天明末期徳島藩における直仕置体制の発端と財政問題」(拙編「徳島藩の史的構造』名著出版・’九七五年刊)。なお安澤は「明和六年から天明末年までは長谷川近江の執政の時期であり、この期間こそ重喜の新儀改革に対する反改革時代であった」と論じている。(別)前掲書『阿波藍沿革史』’’二頁所収。(Ⅲ)蜂須賀家文書(国立国文学資料館史料館所蔵」「富田御社江御神領高御奉納一巻」所収。(皿)故後藤捷一氏所蔵「享和元年阿州浅川村三拾人人込候作配一巻」による。(羽)右同文書による。(別)国文学資料館史料館所蔵蜂須賀家文書「享和三年御郡代御呰被仰付候一巻」による。(邪)藍住町文化財保護審議会編『藍住町の地神さん」(同町教育委員会・平成六年刊)三~六頁。(別)前掲『藩法集③徳島藩』寛政七年三月八日付、八九四頁 法政史学第五十九号 所収。 二○○一年八月刊)に詳述している。(加)同書七五五~六頁所収。(別)徳島新聞社編『徳島県歴史人物鑑」(徳島新聞社・平成六年刊)参照。(帥)小杉樋邨編『阿波国徴古雑抄』(日本歴史地理学会・大正二年刊)’’’’’一一~八四頁所収「異事旧記」参照。(Ⅲ)拙著『阿波踊史研究」(徳島県教育印刷・’九九八年刊)の第二章「徳島城下の町人社会と阿波踊ly型展開を中心として」参照のこと。(犯)答書の「市中歳節記」による。(羽)右に同じ。文化期には俄の音頭として浄瑠璃口説が主として歌われていたが、それを都々逸の調子で歌っていたことは、当時大坂などで大流行していた潮来節が城下に伝播し大流行していたものと考えられる。(弧)前掲『藩法集③徳島藩』九七頁所収。(妬)十一代将軍徳川家斉の時代で寛政改革と天保改革の間で江戸文化の欄熟期。
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