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<研究ノート>天平7年・9年に流行した疫病に関する 一考察

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一考察

著者 野崎 千佳子

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 53

ページ 35‑49

発行年 2000‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011379

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天平七(七三五)年から九(七三七)年にかけて疫病が流行したことは、天平九年の諸官人の相次ぐ死によって知られている。この時の疫病は一般的に「痘瘡」であると一一一一口われ、疫病関係記事が初めて現れるのは、『続日本紀』天平七年八月乙未条である。乙未。勅日如聞。比日太宰府疫死者多。天平七年八月に大宰府で広まった疫病は、次第に大宰府管内全域へと拡大した。一時は鎮静化するものの、天平八(七三六)年を経て、翌九年、再び大宰府で発生した疫病は、前回にも増す勢いで瞬く間に拡大し、ついに官人にまで及んで、政府は廃朝に追い込まれていく。この結果、藤原四兄弟の政治体制は崩れ、皇親や大伴・巨勢氏らの旧豪族を中心とした橘諸兄政権へと移行する。このような里親勢力の復活をもたらしたことは、政治史にも大きな影響を与えた。 はじめに

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) 〈研究ノート〉

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察

しかし、これらの一大転機となったにもかかわらず、天平七年・九年に流行した疫病は政治史に絡めてわずかに触れられるにとどまっており、疫病自体を取り上げた論文は、史学の分野では少(1)ない。幸いにして、天平九年に流行した「疫瘡」については、天平九年六月二六日付の『太政官符』、同じく六月付の『典薬寮勘申』が伝存している。医史学の分野においては、この史料について取(2)り上げたものもみられるが、その真偽を検討するにとどまり、史料から読み取ることのできる背景については言及されていない。それは、あくまでも医史学の観点によるものであって、そこから分かることは、古代における医療の在り方でしかない。故に、本稿においては、諸説を再検討するとともに、両史料に対して詳細な検討を加えることによって、史料が伝える疫病の背景を読み取っていきたい。

野崎千佳子

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天平七(七三五)年・九(七三七)年に流行した疫病は、一般的には、今で言う痘瘡(天然痘)、つまり庖瘡であるとされてい(3)るが、『続日本紀』の当該記事には様々な名称が見壹える。天平七年碗豆瘡(ワンズカサ)俗に裳瘡(モカサ)天平九年疫瘡(エキソウ)この名称の違いに関して、医史学の大家である富士川勝氏が、その著書『日本疾病史』において考察されているので、富士川氏の説に導かれて、検討していきたい。碗豆瘡という名称については、平安時代の医学書である『医心(4)方」に記載がある。編者丹波康頼は『病原候委祠』・『千金方』等の階・唐の医学書を引き、「治傷寒碗豆瘡方」に、次のように記している。病原論云夫表虚裏實、熱毒内盛、則多發一一飽瘡訶重者周。迺遍身{其状如一一火瘡弍若色赤頭白者、則毒軽、若色紫黒、則毒重。其瘡形如一一碗豆「亦名一一碗豆瘡『この記述によって、飽瘡(ホウソウ)つまり庖瘡が、その瘡の形は鋺豆に似ていることから、碗豆瘡と呼ばれたことが分かる。しかし、この名称は『続日本紀」の延暦九(七九○)年をもって史料に見えなくなる。以降は、『文徳実録』において仁寿三(5)(八五一二)年に庖瘡、『日本紀略」において延喜一五年(九一 法政史学第五十三号

『続日本紀』天平七年・九年の記事について 一一一一ハ

(6)五)に飽瘡というように、飽瘡又は庖瘡の名称が見られるようになる。そこで問題となるのが、碗豆瘡の名称が用いられなくなった時期はいつ頃であるかということであるが、富士川氏は、狩谷被斎の『菱註和名類聚抄』に手がかりを求めている。按續日本紀天平七年、目し夏至し冬、天下患二鋺豆瘡「俗日一一裳瘡扣九年春、疫瘡大發。延暦九年秋冬、京畿男女、年三十以下者悉發一一碗豆瘡「俗云二裳瘡記源君不レ引し之、畢二仁壽三年紀一者、延暦以前皆謂二之鋺豆瘡或疫瘡「未し有二飽瘡之名「至一一源君之時「世謂一一之飽瘡|而碗豆瘡之名發。故不レ引一一天平延暦紀「引一一仁壽紀一也。日本紀略延喜十五年天詐元年天延二年寛仁四年西暦四年條、皆云二飽瘡「不し云一一鋺豆瘡『知源君之時鋺豆瘡之名發也。この中で狩谷被斎は、碗豆瘡の名称は、源順が『倭名類聚妙』を記した承平年間にはすでに廃れていたことを指摘している。故に、鋺豆瘡の名称は、延暦九年から承平年間までに廃れ、それに代わって、飽瘡又は庖瘡の名称が使用されるようになったと考えられる。碗豆瘡が平安時代に廃れたのに対して、モカサの名称は俗称として長く使用されている。『続日本紀』においては、天平七年と(7)同様、延暦九年の条に「碗一旦瘡、俗謂裳瘡」と見えるのをはじめとして、『倭名類聚妙』には、飽瘡の名称に、モカサの訓が付されている。また、後世においても、『万安方』に豆瘡・碗豆瘡(モカサ)、『病名彙考』に痘瘡(トウソウ、モカサ)と見えるな

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ど、裳瘡の文字はなくとも、読み仮名のみ俗称としても残っている。以上のことから、鋺豆瘡・裳瘡は庖瘡、つまり現代の痘瘡であることが分かる。しかし、天平九年の疫瘡という名称について(8)は、『日本紀略』の長徳四(九九八)年に見壹えるのみでほかに史料がなく、医学書にも見えない。故に、これは病名ではないと考えられるため、文字のレベルで推測したいと思う。疫瘡という名称は、「疫」「瘡」の二文字からなる。大修館書店(9)の『漢語林』によると、「疫」は、「壱えやみ。疫病。悪性の流行病。」とあり、「瘡」は、「かさ。くさ。できもの。はれもの。皮膚にできるできものの総称。」とされている。故に、この二文字の意味を総合すると、疫瘡とは「皮膚にできもののできる悪性の流行病の総称」と定義することができる。このことから考えると、天平七年・九年に流行した疫病は、必ずしも痘瘡であるとは言い切れない。少なくとも、天平九年は痘瘡以外の疫病が流行した可能性が考えられる。これに対し、富士川氏は天平九年六月付の『典薬寮勘申』と天平九年六月二六日の『太政官符』を取り上げ、『太政官符』の「赤斑瘡」は痘瘡のことであると述べられている。故に、次章以降においては、『典薬寮勘申」・『太政官符』を用いて富士川氏をはじめとする諸説を再検討し、天平九年に流行した疫病は何であったのかということについて、自説を述べたい。

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) 天平九(七三七)年に流行した疫病に関する史料として、『朝野群載』巻第二一「凶事」に収められている天平九年六月付の『典薬寮勘申』と『類聚符宣抄』第三「疾疫」に収められている天平九年六月二六日付の『太政官符』が残されている。これについては、いくつかの論文の中で触れられており、富士川源氏をはじめ、三井駿一氏、服部敏良氏、新村拓氏、立川昭一一氏、丸山裕美子氏らが論ぜられている。これらの先人の説を詳しく見ていくと、富士川氏は天平九年に流行した疫病は痘瘡であるとした上で、痘瘡と麻疹の混合流行の説も否定できないとしている。服部氏、丸山氏もこの説に従っているが、これに対して三井氏は麻疹のみの流行であったとしており、新村氏、立川氏はこの両説を紹介するに留まっている。故に、本章では富士川氏と三井氏の二説に焦点を絞って詳しく検討し、自らの考察の手がかりとしていきたい。

(ご富士川説の検討第一章の最後にも述べたように、富士川氏は「太政官符』の「赤斑瘡」は痘瘡であったとしているが、その理由は以下の通りである。まず、同氏は天平九年の『太政官符』には痘瘡ではないと断定できる語句が見られないことを指摘している。加えて、古代においては痘瘡は麻疹と混同認識されていたこと、後世の史料におい 二天平九年に流行した疫病に対する諸説の検討

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て『拾芥抄』では「療治庖瘡方」に、「医心方』では「治傷寒鋺豆瘡方」に『太政官符』が引用されていることなどから、「赤斑瘡」とは痘瘡をを指すのではないかとしている。しかし、同氏の論理には矛盾が生じていることを指摘しなければならない。なぜなら、痘瘡と麻疹を混同認識していると述べているにもかかわらず、流行していたのは痘瘡であったとしているからである。混同認識は、当時の医学レベルの低さから、ウィルスの違いなどではなく、症状で見分けられていたために起こったのであろうが、それならば、初期症状が似ているものは間違えられることもあったであろうし、|般の民衆が専門知識の欠如からなおさら勘違いしたであろうことは容易に想像がつく。それなのに、後世において「庖瘡」で引用されているからといって、天平九年に流行した疫病は痘瘡であると結論付けるのは腕に落ちない。なぜなら後世の人々が庖瘡であったと伝え聞いている中にも、痘瘡と間違われた麻疹が含まれている可能性が高いからである。以上の富士川説の検討から、私は天平九年の疫病には麻疹が含まれていた可能性が高いと考える。この考えを進めるにあたって、次に問題となるのが、天平九年に流行した疫病は痘瘡と麻疹であったのか、麻疹のみであったのかということである。この疑問について一説を論じているのが、先に挙げた三井氏である。次節では三井説を取り上げ、詳しい検討を試みることで、新たな面から考察していきたい。 法政史学第五十三号

(一一)三井説の検討三井駿一氏は医史学者であり、同氏の論文「麻疹の歴史」・「天平九年の典薬寮の勘文について」において、天平九年の疫病に関する二史料について詳しく検討されている。同氏によると、「太政官符』の「赤斑瘡」は当時の典薬寮の新造語ではなく『聖恵方』の「赤斑」の由来するものであるとして、赤斑瘡は麻疹であると述べている。そして、『太政官符』と『典薬寮勘申』の病名の違いは、『典薬寮勘申』の年記を天平七年とすることで解消できると言う。同氏は「続日本紀」天平九年の「疫瘡」を赤斑瘡の別名であるとし、『太政官符』が正しく、『典薬寮勘申」の天平九年という記載年代は天平七年の誤りであるとしている。つまり、実際に流行した疫病は、天平七年が痘瘡、天平九年が麻疹であったと言うのである。確かに、同氏の説を取れば、紙面上のつじつまは合うが、「伝写の誤り」という点では考えがたい話である。「伝写の誤り」には二つのルートが考えられる。|つは、転写した者が文字を見間違えただめに起こるもの、もう一つは、もともと年代が不明であったものをその史料を手持ちの他の史料から推測し、朱書きなどで記載したが、時を経る中で本文の一部として記載されるようになったために起こるものである。この場合、「七」と「九」では誤字の例も少なく、文字の見間違いは考えがたい。また、もう一つの不明であった年記を推測して朱書きで記載したものが本文として載ったというルートについても、もとは天平九年と記載されていたものが『続日本紀』などの記事を見て天平七年と間違え

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(三)諸説の検討から以上、天平九年の疫病に関する二説について、検討を試み、『太政官符』の「赤斑瘡」という病名を痘瘡であると見るのは根拠がなく、『典薬寮勘申』の年記に誤りはありえないことを指摘

加えて、『太政官符』は多くの史料に天平九年六月二六日の年(、)記とともに記載されていることから、天平九年という年記に誤りは考えられない。また、『典薬寮勘申』の病名についても、多く(、)の医学書にその名が書かれていることから、これも誤りは考えられない。つまり、天平九年の疫病に関する二史料の基本的記載事項に、誤りはなかったと言うことができる。そうであるとすれば、これらの文書はいったいどのような経緯で発給されたのであろうか。次章においてはこれら二史料の再検討を試み、基本事項の確認とともに、私的見解を述べたい。 した。 たと言うなら可能性もあるが、その逆は天平九年に碗豆瘡が流行したと言う記事が『典薬寮勘申』以外に見えないので考えられない。加えて、一般に天平九年に鋺豆瘡が流行したと言われているから天平九年と推測したとも考えられなくないが、そうであるとすれば、逆に天平九年に碗豆瘡(痘瘡)が流行したことを認める形となってしまう。つまり、『典薬寮勘申』の年記には誤りはなかったと考えるのが妥当である。

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) (ご『典薬寮勘申』の検討天平九年六月付の『典薬寮勘申』はへ『朝野群載』巻第一二「凶事」に収められている文書であり、奈良時代の医療の在り方を知ることが出来るだけでなく、天平九年の疫病について推測の材料となることにおいても重要な史料である。これについて、服部氏や丸山氏、三井氏らがすでに検討されているが、自説を述べる必要性から、再度検討したい。なお、以下に記する史料は、検討の際の便宜を考え、番号をつけたものである。

典薬寮勘申庖瘡治方事Ⅲ傷寒後禁食 天平九(七三七)年の疫病に関しては、『太政官符』と『典薬寮勘申』が残されており、当時政府が疫病に対してどのような対処方法を命じたのかを知る史料として、重要な意味を持っている。前節で述べたように、この二史料は記載されている病名が異なっているにもかかわらず、基本的記載事項に誤りは考えられない。そこで、この二文書発給の経緯が問題となってくるが、その答えを知る上で、二史料の再検討が必要となってくる。故に、本章においては、『典薬寮勘申』・『太政官符』を用いて、詳細な検討を試みたい。 三天平九年に流行した疫病に関する史料の検討

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法政史学第五十三号

①勿飲水。損一一心胞一掌灸不し能し臥②大飲食、病後致し死。③又勿レ食一一肥魚臓魚、生魚類、鯉鮪蝦蛆鯖鰺年魚鱸『令一一泄痢一不一一復救『④又五辛食し之、目精失不レ明。

⑤又諸生菜菓、躯轆||

⑥又生魚食し之勿二酒飲『泄利難し治。⑦又油脂物、難し治。⑧又蒜與レ鰭合食、令一一人損『茂與レ鰭食、病後發。⑨又飲レ酒陰陽復病、必死。食一一生藥一陰陽復病、死。

⑩病愈後大忌□、大食飲酒。酔飲レ水、冊柵先一一

②傷寒碗豆病治方①初發覺欲し作、則煮一一大黄五両服し之。②又青木香二両、水三升、煮取一二升一、頓服。③又取一一好蜜一通身麻子瘡上。④又黄連三両、以一一水二升一煮取一一八合一服し之。⑤又小豆粉、和一一鶴子白一付し之。⑥又取月汁一一水和浴し之。⑦又婦人月布拭一一小兒『③腕豆瘡滅廠①以一一黄土末一塗し上。②又鷹矢粉士干和一一猪脂一塗し上。③又胡粉付し上。④又白娼末付し之。 ⑤又蜜付し之。右依一一宣旨一勘申。天平九年六月□日頭以上が、『典薬寮勘申」の全文であるが、いくつかの誤字、日付と奉者名の記載の欠如に気がつく。また、同一の病気を指していながらも様々な名称が見られ、その中には当時は使用されていなかった名称さえ見られる。これらの点について、自分なりの考察を試みた。多少羅列的にはなるが、以下にそれを記する。まず、誤字については四カ所気が付いた。Ⅲl③「蛆」。⑤「輪」。⑨「藥」、②I③「麻子」であるが、その中で、Ⅲl⑤は使われていない文字であり、明らかに誤字であると判断できる。しかし、そのほかは内容から判断できるものばかりなので、内容を確認するとともに、誤字を指摘したい。『典薬寮勘申」は「庖瘡治方事」と題して、Ⅲ「傷寒後禁食」。②「傷寒碗豆病治方」。③「碗豆瘡滅搬」の三部からなる。Ⅲは服部氏も指摘されているように、丹波康頼撰『医心方』「傷寒後食禁方第五十八」が引くところの『七巻食経』『養性志』に類似した記述が見られる。養性志云諸病愈後、勿レ食二五辛→食し之令一人目失『明。七巻食経云時行病愈食、禁一一萌韮蝦蛆輩『不し禁病復發、則難し治、後年 四○

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轍發。時行病後、禁一一餅餌魚謄諸生菓菜『難し消し之物、皆復發レ病。時行汗解愈後、勿レ飲一一冷水毛損『一心胞一常虚、不し能し伏・時行病人、不し可し食一一鯉鮪小鯉及岨『令一病不腹愈。又勿レ食一一生棗及羊宍扣隔上、乃為一一熱備「凡病人、不し得し食二熊肉「令下作一一長病終一不上一一除癒記時行後、禁下飲レ酒食上一一生魚宍『泄利難し治。時病愈後、未し満二三月「食二軸魚一復食二諸菜「三年肌膚不し充。又食一一梅油脂物へ令一一暴利難し治。又食一一蒜鰭→令一一人損一贈消。又未し満一一三月「食二岨一触「即復病。又食一一瓜合し鱸、令一病復發→時行病後、未し強食一一青花菜『令一人手足損重訶一云一黄花『又飲レ酒合一陰陽「復病必死。又食一一生菜一合一一陰陽「復必死。『医心方』の記述と『典薬寮勘申』のそれでは、Ⅲl②⑩が『医心方』には欠けているなど若干の違いはあるものの、ほとんどの箇所が類似しているため、『典薬寮勘申」は食禁を『養性志』・『七巻食経』に求めたものと思われる。故に、Ⅲl③⑤⑨の誤字は、それぞれ順に「岨」「偽(偏に通ず)」「菜」であったと考えられる。②「傷寒碗豆病治方」については、服部氏や丸山氏の指摘通

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) り、全て『千金方』によっている。これについては、既に両氏が詳細に検討されているので、ここではその要点を記するに留めたい。『医心方』「治傷寒碗豆瘡方第五十七」が引くところの『千金(旧)方』には、②l①面面⑦⑦と類似した記述が見られ、その現存する写本である『宋版備急干金方』「巻十」は全てを含んでいる。両氏はこのことを『千金方』の引用であることの論拠としてあげている。この中で注目したいのが、②l③「麻子瘡上」である。この麻子瘡とは麻疹の発疹を指す言葉であり、鋺豆瘡の治方を示している本文の語句としてはふさわしくない。これは題名の「庖瘡」とともに、『典薬寮勘申』の信用性を疑わせる原因ともなっているが、「庖瘡」の記述とは異なり、誤字として説明することができる。「医心方』に引用されている『千金方』の該当箇所は「瘡磨上」となっており、「瘡」と「磨」の位置を逆にすると、「磨瘡上」となる。つまり、「麻子」は「磨」の誤りであり、②l③の全文は「又取好蜜通身磨瘡上」であると考えられる。このことは「上」という文字が「塗る」という意味を持ち得ないことによっても裏付けられる。なぜなら、原文の「麻子」のままであると、「通身」以下の部分に「塗る」の意味を持つ動詞となる文字がなく、意味の通らない文章になるからである。以上、誤字に対する見解を述べた。なお、③「碗豆瘡滅癩」の内容検討については、丸山氏が詳しく述べられているので重複は避けたい。日付と奉者名の欠如については、丸山氏が触れられており、

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法政史学第五’三号

(過)「編者二一善為康による原史料の節略、様式化の結果ともとれる」とされているが、『朝野群載』に収められているそのほかの史料には、このような欠如はほとんど見られないことから、様式化の結果とは考えにくい。『典薬寮勘申』は『朝野群載』の史料の中でも最も古く、発給された天平九(七三七)年から、『朝野群載』に収められた永久四(二一六)年までに既に約四百年近い時を経ていることを考えると、『朝野群載』の編纂時には既に欠損していたと見るのが妥当であろう。’本文には「頭」としか記載されていないが、『続日本紀』天平四(七三一一)年一○月丁亥条(M)より、当時の典薬頭は物部韓國連廣足であったことが分かる。故に、「外從五位下典薬頭物部韓國連」と記載されていたと思われる。題名の「庖瘡」という語句についても、これと同様に、欠損していた部分を後世の人々が推測して記載したために、当時使用されていなかった庖瘡という名称が記載される結果となったとも考えられる。このように、本文の文章自体を対象として、文字のレベルまで検討を試みたが、全体の構成を見て気がついたことは、項目の並び方が不自然であり、肝心の病状の記載に欠けていることである。前述のように、Ⅲ「傷寒後禁食」・側「傷寒碗豆病治方」・剛「碗豆瘡滅癩」の三部からなるが、その項目に碗豆瘡の病状にあたるものはない。医学書の項目は、病名・病状・治方・食禁の順に書かれるのが一般的であるが、本文の場合は病状に関する項目はなく、しかも最後に記載されるはずの食禁が最初に記載され (二)『太政官符』の検討第一節において『典薬寮勘申』の検討を試みたが、それと同時期に発給された文書として、『太政官符』がある。天平九年六月二六日付の『太政官符』は、『類聚符宣抄』を始め、『医心方』、『拾介抄』など多くの史料に収められているが、本稿ではこのうち最も信用度の高い『類聚符宣抄」を用いて検討していきたい。なお、検討上の便宜を図るため番号を振ったものを記した。(等)太政官符二東海東山北陸山陰山陽南海才道諸國司一合一一臥疫之日治身及禁食物才事一沫條」、几是疫病名二赤班瘡扣初發之時、既以二瘡疾『未し出]別、臥床之苦、或一一一四日、或五六日。瘡出之間、亦経一一三四日『支禮府藏、太熱如レ焼。當一是之時「浴し飲二冷水

鍛莫瘡旭浴し愈、熱氣漸息。痢患再發、早不二療治『遂 成二血麺梛繧釧一越蝋其共發之病、亦有二四種一或鰔 嗽茄雌、或嘔逆雌麻或吐血、或鼻血。此才之中、痢是飯 急。写知二意一能勤中救畿》 卜、鮴一一肱巾井綿「能勒二腹青弍必令二温和「勿レ使二冷寒『

」、鋪設既薄、無し臥二地上記唯於二床上「敷二賛席一得二臥息『 ている。このことは、天平七(七三五)年に流行した「碗豆瘡」との関連を窺わせるが、それについての見解は次節以降の検討を踏まえた上で論じることとしたい。

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天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) 罠粥壇井煎飯粟才汁、温冷任し意、可レ用し好し之。但莫レ食二鮮魚完及雑生菓菜『又不し得二飲レ水喫レ氷。固可二戒愼一一其及レ痢之時、能煮二韮惹一可二多食→若成二赤白痢一者、糯粉和二八九「沸令レ煎・温飲二再三『又糯糒梗糒、以二湯鬮|渡し之。若有レ不し止者、用二五六度一。無し有一一怠(春)

緩「映搬蕊赫脚吻

(悪)」、几此病者、定悪二飯食。必宜二過喫つ始レ從二患發「灸火

」悩剛蕊露鮎祇菫騨珂馳蒙菜一〆

飲レ水及洗浴房室程行歩當中風雨暉若有二過犯「雷乱必

發。更亦下痢、所し謂勢發。樅働雌統》・命附扁鵲、豈得一一

禁断記廿日己後、若欲レ喫二魚完「先能煎灸、然後可し

食。餘乾鰻堅魚才之類、煎否皆良。乾鯆但鯖及阿遅オ魚 者、錐し有二乾脂「愼不レ司レ食・碑柵剛峅榊灸其繍雛糀鼓

才不レ在二禁例『」、几|欲し治一一疫病、不し可レ用一・丸散才藥℃若有二胃熱へ僅灯(参)得二人参湯一・以前、四月以来、京及畿内悉臥二疫病「多有二死七毛明

馴蝿灘洲識瀧州Ⅶ鱗議譲一艀

(蔦)(差)有二留滞元其國司巡。行部内「告。示百姓記若無二粥壇才|新一者、國量宜下賑。給官物「具状申送上今便以二宮印一印し之。符到奉行。 正四位下行右大弁紀朝臣00從六位下守右大史動十一等壬生使主天平九年六月廿六日以上が「類聚符宣抄」第三「疾疫」に収められている『太政官符』の全文である。西海道を除く六道に宛てた太政官符であり、疫病に臥しているときの治方や食禁に関する七ケ条が記載されている。その内容は五項目あり、l病名・症状・合併症、Ⅱ。Ⅲ体を冷やさないための注意、Ⅳ。V病中の食事に関する注意、Ⅵ病後の食禁、Ⅶ薬の服用に関する注意である。その後、この書状を送った理由、六道諸国司への指示が記載され、発給者の署名と、発給年月日が続く。この文書を見て気がつくことは、前節同様に誤字の多さもある(旧)が、何よりも宛名が六道に限られており、西海道と畿内が含まれ(略)ていないこと、そして病名が「赤斑瘡」とされていることが気にかかる。これらのことについて、まずは宛名から考察していきたい。西海道については、上級官庁の太宰府が存在するので、別に大(Ⅳ)宰府宛の「太政官符」が発給された可能性がある。しかし、西海道は大宰府の所在地であり、疫病の発生源にあたることから、この時点では既に疫病が鎮静化していたものと思われる。『続日本(旧)紀』天平九(七三七)年四月癸亥条によると、四月には既に大宰府管内に疫病が蔓延し多くの死者が出ていた。つまり、二カ月後の『太政官符」発給時には大方が死亡していたと考えられる。故に、この時点で官符を発するのは無意味であるため、西海道には発給されなかった可能性が高い。

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そうであるとすれば、畿内についても、別に畿内宛の「太政官符」が発給されたと考えられる他、既に疫病が蔓延していたため(⑲)に除外された可能性もある。『続日本紀』によると、天平九(七三七)年四月から『太政官符』発給の前までに、多くの官人が死(別)亡している。このことは、京内にも疫病が発生していたこと、更に下層民だけでなく上流階級の貴族らにも及んでいたことを示している。また、六月甲辰朔条には、「康朝以百官官人患疫也」とあり、既に政務運営に支障が出ていたことが窺える。これらを考え合わせると、後者の説を取るほうが妥当であると思われる。次に病名についてであるが、『典薬寮勘申」とは異なり、『太政官符」のⅢには「赤斑瘡」の名が記載されている。この条には病名のほかに病状、合併症が合わせて記載されているが、病状は『典薬寮勘申」の病名である「碗豆瘡」とは、明らかに異なっている。「医心方』の「治傷寒碗豆瘡方第五十七」に、この「太政官符』が引用されているが、『病源候論』の病状とは異なっている。「医心方』の編者丹波康頼は「赤斑瘡」を「碗豆瘡」の異称と考えていたことが窺えるが、三井氏の論じるように、『太政官(Ⅲ)符』の記載病状から考一えると麻疹である可能性が高い。「太政官符』の発給された天平九(七三七)年から「医心方」の編纂された永観二(九八四)年まで、既に約二百五○年近いときが流れていることを考えると、その間に事実が間違って伝わったとしてもおかしくはない。「赤斑瘡」は後世で言われているように、麻疹の古称であったとすべきであろう。 法政史学第五十三号

また、『典薬寮勘申』とは異なり、奉者名と発給年月日が残されており、奉者名の「紀朝臣」については『続日本紀』天平九(七三七)年七月丁酉条によって、「紀朝臣男人」であると分か(犯)る。もう一人の「壬生使主」については、「從六位下」であることもあって『続日本紀』には見えない。しかし、七月条以降も見えないことから、おそらく疫病によって死亡したものと思われ

るcこのように、「太政官符』について自らの考えられる範囲で検討を試みた。以下は、『典薬寮勘申」と『太政官符』の検討から分かることについてまとめたい。 以上、特に気がついた点について考察を加えてみた。『太政官符」には七条の記載の後に、この書状をおくる理由と六道諸国司に対する指示が書き加えられており、その中に「國量宜賑合官物」とある。これについては、実際に賑合が行なわれた痕跡があり、『正倉院文書』として奇跡的に残っている文書の中の「但馬国正税帳」がそれにあたる。(廿)(販)(疫)依太政官天平九年六月廿六日符賑給疫(徒)病之徒ムロ壹仔騨伯壱拾試人粥一糟(稲)料稲壹仔試伯拾沫束伍把一千州三人~別一束三百六十九人~別五把

(三)||史料の検討から「天平九年」の年記を持つ二史料をそれぞれ検討してきたが、 四四

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これまでに論じた内容をまとめると、第一章では、天平七(七三五)年・九(七三七)年に流行した疫病は一般的には痘瘡であると言われているが、痘瘡の古代名である碗豆瘡以外にも麻疹の古代名であるとされる赤斑瘡も見えることを確認した。第二章においては、このことに対する先人の諸説を検討することによっ この二史料を比べると、興味深い点に気がつく。その内容に、病気に対する一般的な禁止事項である「生物を食べないこと」以外には、まったくといって良いほど同一の記載が見られないのである。また、病状の記載の有無も興味深い。『太政官符』の病名は「赤斑瘡」であり、その病状について詳しく書かれているが、『典薬寮勘申」には「碗豆瘡」についての病状の記載がない。『典薬寮勘申』の作成者は典薬寮であり、当時としては医学のエキスパートであったはずなのに、肝心の病状の記載に欠けている。この二点から、一般的に『太政官符』は『典薬寮勘申』に基づ(羽)いて作成されたものと見られているが、二史料に相互の関連はなく、その対象は別の疫病であることが分かる。加えて『典薬寮勘申』については、第一節で指摘したように、その項目の並び方が不自然であることから、天平七(七三五)年に流行した「鋺豆瘡」との関連が窺われる。故に、次章では、これまでの検討を踏まえて天平七(七三五)年・九(七三七)年に流行した疫病に関する私的見解を述べたいと思う。

四天平七年・九年に疫病の流行した経緯

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) て、天平九年の疫病に関する二史料『典薬寮勘申』・『太政官符』の基本的記載事項に誤りがないことを指摘した。そして、二史料の病名の不一致を解明するために、第三章では両史料の再検討を試み、両史料に相互の関連性が見られないこと、『典薬寮勘申』の項目の並び方が不自然で肝心の病状の記載に欠けることを述べた。これらの論点となった二史料の収められている『朝野群載』・『類聚符宣抄』を見ていると、どちらも、二文書の発給から編纂(別)までに約四百年近い時を経ている。『朝野群載』に関しては、巻(お)廿一の分類方法の不手際が指摘されているが、だからといって記載文書の内容までもが信用できないわけではない。前述のように、『典薬寮勘申』の発給日と奉者名の欠如は、編纂時には失われていたために起こったものと考えられるが、同じように、|部だけでなく、全てが失われて伝存していない文書のほうが多いはずである。それなのに、『典薬寮勘申』と『太政官符』のみで、その内容からどちらが天平九年の疫病を正確に記載したものかと議論するのは無意味である。失われて伝存しない文書の存在を補うことによって、真実が見えてくるのではないだろうか。天平九年の疫病に関する文書のうち伝存しているものは、これまでに検討してきた『典薬寮勘申』・『太政官符」の二史料であるが、対象となっている病名も異なっており、相互に関連性は見られない。しかし、勘申は政府の要請を受けて政策の参考とするために書かれるものであり、太政官符はその政策を諸国に伝えるために発給されるものである。そうであるとすれば、相互に関連の

四五

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見られない二文書はまったく別に発給されたことになる。つまり、鋺豆瘡を対象とする『典薬寮勘申』と赤斑瘡を対象とする『太政官符』の他に、碗豆瘡を対象とする『太政官符」と赤斑瘡を対象とする『典薬寮勘申』の存在が考えられる。この仮説を進めるにあたって、この二組の文書発給の経緯が問題となる。そこで着目したいのが、第三章で指摘した『典薬寮勘申」の項目の不自然な並び方と病状の記載の欠如である。これらから天平七年の碗豆瘡との関連が窺われることは前にも述べたが、病状の記載がないのは、おそらく天平七年にそれを記した文書が既に提出されていたので、その必要がなかったからであると思われる。本来なら最後にくるはずの「食禁」が冒頭に記載されているのは、天平九年の疫病を天平七年の碗豆瘡の再発と考えたからではないだろうか。後世では、痘瘡は一生に一度の病気であるという(妬)認識があったが、当時はそれがなく、痘瘡と麻疹は混同認識されていた。初期症状の似ている両者がこの時にも間違って認識されたとすれば、当時の政府が、天平七年から二年も経たないうちに似たような疫病が流行したのは、病後の食べ合わせが原因であると考えたとしてもおかしくはない。「食禁」の後に「治方」と「滅搬」が書かれているのは、二次感染の防止とそのアフターケアのためであろう。さらに、『典薬寮勘申』に病状の記載がないのに対し、『太政官符』には病状と合併症が書かれている。この項目は、天平九年に流行した疫病が天平七年に流行したものと同じであったら、必要のなかったはずである。このことからも、天平九年に流行したの 法政史学第五’三号

は、天平七年に流行した碗豆瘡とは別の疫病であったことが分かる。以上のことを考え合せ、私は、天平七(七三五)年に流行した疫病は碗豆瘡(痘瘡)、天平九(七三七)年に流行した疫病は赤斑瘡(麻疹)であったと考える。天平七年・九年の疫病の流行の経緯について、私の見解を記すると以下の通りである。天平七年八月、碗豆瘡が流行する。これに対する対策として、碗豆瘡の病状や、治方などが書かれた「典薬寮勘申」が政府に提出され、大宰府管内等に伝達される。天平九年四月、赤斑瘡が流行する。六月、流行し始めた当初は、その初期症状の類似から、碗豆瘡(痘瘡)であると誤診し、再発が原因と見たため、傷寒後の食禁の記載された、碗豆瘡を対象とする『典薬寮勘申』が提出され、大宰府管内に伝達される。しかし、被害が拡大するにつれ、碗豆瘡ではなく赤斑瘡(麻疹)であることが判明する。六月二六日、この時には既に西海道・京にも多くの死者が出ていたため、六道のみに宛てた赤斑瘡を対象とする『太政官符』が伝達される。詳細はともあれ、これらの、天平七年に鋺豆瘡(痘瘡)、天平九年に赤斑瘡(麻疹)が流行したとする私の見解の裏づけとも言うべき見解を見つけることができた。橋本徳伯壽の『國字断毒(、)聿諏』に対し、佐々学氏は、「おそらく、麻疹の方が伝染力が強く、同じ地域集団に対して、さきにのべた第一型の流行をとり、 四六

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これに対に痘瘡は第三型の流行を当時としてつづけていた」と述べている。ここで言う「さきにのべた第一型の流行」とは、「その地域集団の人々のうち感受性のあるものが全部その病気にかかってしまって、治るか死ぬかし、ほぼ全員免疫となり、病原がたえてしまう」ことであり、その後しばらくは感受者がいないため流行は起こらないが、数十年たって免疫のない人口が増えてくると再び大流行を起こし、それが終息する形をとる。そして、「第三型の流行」とは、「大部分の人びとが免疫されているため、その病気が細々ながらも常在し、あるときは燃え上り、あるときはくすぶると言った状態の流行を経常的に続けている」ことである。佐々氏の見解で注目すべき点は、麻疹の方が伝染力が強いため、数十年ごとに大流行と終息を繰り返すことである。これは、『続日本紀」の天平七年・九年の疫病の該当記事と合致する。天平七年の疫病による官人の死亡者は少ないが、天平九年の疫病による官人の死亡者は多く、政府は廃朝に追い込まれて(羽)いる。このことから、天平九年の疫病は天平七年のそれよりも伝染力が強かったことが分かる。また、天平九(七三七)年の疫病の拡大規模に匹敵するものは、早く見積もっても、天平宝字四(”)(七六○)年を待たなければならず、これも、佐々氏の見解と△□致している。故に、天平九年に流行した疫病は麻疹であると思われる。以上、天平七年・九年に流行した疫病に対する私的見解を述べた。

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) 天平七年・九年に流行した疫病に対する諸説について、本稿で詳しく検討し、天平七年に碗豆瘡(痘瘡)、天平九年に赤斑瘡(麻疹)とする私的見解を導き出すことができた。この中で、『典薬寮勘申』・『太政官符』の発給の経緯に触れ、二史料のうちどちらかを否定する傾向がある中、どちらの史料も誤りがなかったと仮定した説をうち立てることができた。しかし、これら以外に史料が伝存していない以上、あくまで推測の域を出ない。また、疫病の拡大状況についても十分な検討を加えることができなかった。故に、今後は疫病の拡大状況や、それに対する対策の検討によって、私の見解を確かなものとしていきたい。最後に、天平九年に流行した麻疹によって、藤原四兄弟を始めとする多くの官人が亡くなったが、この時に流行した疫病が伝染刀の強い麻疹でなかったら、後世の歴史はどうなっていたのであろうか。天平七年・九年の疫病の流行は、冒頭でも述べたように、藤原政権の衰退と皇親勢力の復活をもたらした。一口に疫病と言ってしまえばそれまでだが、藤原四兄弟が死亡したのは、天平七年の痘瘡の時ではなく、天平九年の麻疹の時である。もしも、この時に流行した疫病が麻疹よりも伝染力の弱いものであったら、藤原氏が権力を失うこともなく、後世の歴史は今とは違ったものになっていたかも知れない。天平七年・九年の疫病は、奈良時代の大転換の契機になったと言える。 おわりに

円七

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(1)服部敏良氏『奈良時代医学の研究』二九八○年、科学書院)一七三~一八四頁、新村拓氏『日本医療社会史の研究』(’九八五年、法政大学出版局)一七九~一九二頁、立川昭二氏「日本人の病歴』(中公新書四四九、一九七六年)三一~三四頁、丸山裕美子氏「日本古代の医療制度』(歴史学叢書、名著刊行会、一九九八年)など。以下、本稿で言及する諸氏の見解は全てこれらによる。(2)富士川嚇氏『日本疾病史』(東洋文庫一三一一一、一九六九年、平凡社)痘瘡・麻疹、三井酸一氏「麻疹の歴史」(『麻疹・風疹』奥野良原・高橋理明編、一九六九年、朝倉書店、三~一三頁)、「天平九年の典薬寮の勘文について」(「日本医史学雑誌』二四巻二号「一般口演抄録」六五~六七頁)など。以下、本稿で言及する両氏の見解は全てこれらによる。(3)『続日本紀』天平七(七三五)年の条に「是年。…(中略)…天下患碗豆瘡俗日裳瘡。」、天平九(七一一一七)年の条に、「是年春。疫憶

大發。」とある。(4)針博士丹波康頼(九一二~九九五)により永観二(九八W)年に編纂された。全三○巻からなり、日本最古の医学書として貴重である。本稿では、槙佐知子氏『医心方巻十四蘇生・傷寒篇』二九九八年、筑摩書房)によった。(5)「文徳実録』によると、仁寿一一一(八五三)年一一几条に、「是Ⅱ、京師及畿外、多患庖瘡死者甚衆、云云」とある。(6)「日本紀略』によると、延喜一五(九一五)年一○月一六日条に、「有大祓事、為除飽瘡」とある。(7)「続日本紀』によると、延暦九(七九○)年条に、「是年秋冬、京畿男女三十歳己下者、悉発腕豆瘡、俗調裳瘡」とある。 法政史学第五十三号

(8)『日本紀略』長徳四(九九八)年条によると、「今年、天下目夏至冬、疫瘡遍発六七月間、京師男女死者甚多。」とある。(9)鎌田正・米山寅太郎著「漢語林』二九八七年、大修館書店)による。

(、)本稿で参考とした『類聚符宣抄』第三「疾疫」の他、『拾芥抄』卜に収録され、『医心方』巻十四「治傷寒腕豆瘡方第五十七」に案文として付載されており、全て「天平九年六月廿六H」の年紀が記され

ている。(u)前述の『医心方』の他、「諸病源候論』巻七の一七、『備急千金要方』巻一○「傷寒方下」にも碗豆瘡の名が記されている。(、)唐の孫思貌(不明~六八二)が編纂した医学書で、全三○巻から成る。末一○六六年に林億らにより改訂校刊されており、「備急千金要方』がそれにあたる。(田)丸山氏註(1)前掲書、一二五頁による。(u)『続日本紀』天平四(七一一一二)年一○月丁亥条によると、「丁亥。…(中略)…。外從五位下物部韓國廣足為典薬頭。」とある。(烟)『典薬寮勘申』については、誤字が内容の検討がからんでいたため、本文に記したが、『太政宮付』では、紙面の都合上、史料とともに記した。なお、誤字は〔〕、異体字は()で記した。(焔)尊経閣所蔵の医書に、同文面の東山道宛の『太政官符』が収められていることから、『類聚符宣抄』に収録されている『太政官符』は六道それぞれに宛てた官符をまとめて記したものと考えられる。そうであるとすれば、西海道と畿内宛の「太政官符」の存在が問題とな

る。(Ⅳ)佐藤進一氏『新版古文書学入門』二九九七年、法政大学出版

局)六六頁参照。 四八

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(出)『続日本紀』天平九(七三七)年癸亥条によると、「太宰府管内諸国。疫癒時行。百姓多死。」とある。(四)丸山氏註(1)前掲書もこの見解をとっている。(m)『統日本紀』に見える天平九(七三七)年六月二六日までの官人の死亡者は、四月辛四条より藤原朝臣房前、六月癸批条より火宅朝臣大國、甲寅条より小野朝臣老、辛酉条より長田王、丙寅条より多治比反人縣守である。その他、七月丁Ⅲ条より大野r、乙西条より藤原朝臣麻目、己皿条より百濟王郎虞、丁四条より藤原朝臣武智麻目、八月壬寅朔条より橘宿祢佐為、丙午条より藤原朝臣宇合、辛酉条より水主内親王らが、疫病により死亡している。(、)三井氏註(2)前掲論文、蒲生逸夫「麻疹の臨床」(奥野良臣・高橋理明編、一九六九年、朝倉書店、七八~一○二頁)、北川常廣・小山泰正編『薬科微生物学』(丸善)二五頁参照。(犯)「統日本紀」天平九(七三七)年七月丁酉条によると、「丁酉。勅遣左人弁從三位橘宿祢諸兄、右大介正四位下紀朝臣男人。」とある。(羽)服部氏・新村氏註(1)前掲書も、この見解をとっている。(別)『朝野群載』の編纂年代は、永久四(一二六)年以降、『類聚符宣抄』の編纂年代は、寛治七(一○九三)年以降であり、どちらも一一史料の発給された天平九(七三七)年から約三百五十~四百年近いと

(訂)佐々学氏の見解は、「國字断議論』「日本庶民生活史料集成』第七巻、一九七○年、三一苔房)に付された同氏の註(9)(u) (あ)丸山氏註(1)前掲書による。(別)橋本徳伯壽の『国字断議論』の冒頭に、「古今痘瘡を其年の氣運、時候にて流行時疫と心得、又一生に一度にかぎるを……(以下、

天平七年・九年に流行した疫病に関する一考察(野崎) 省略)」とある。 きと経ている。 (二四~二五頁)による。(羽)「続日本紀』に見える天平七(七二五)年の官人死亡者は、九月壬午条より新田部親王、三月己未条より加茂朝臣比責、乙丑条より舎人親王、己丑条より高田王の四人であり、註(別)に蕊げた天平九(七三七)年の官人死亡者の方がはるかに多い。(羽)『続日本紀』天平宝字四(七六○)年三月丁亥条によると「伊勢、近江、美漉、薪狭、伯耆、石見、播磨、術中、術後、安芸、周防、紀伊、淡路、讃岐、伊予等、1打国疫、賑給之。」、四月丁巳条によると「志摩国疫、賑給之。」とあり、一六国に疫病が及んだことがうかがえる。

四九

参照

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