著者 河野 裕昭
雑誌名 經濟學論叢
巻 65
号 3
ページ 599‑609
発行年 2014‑03‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/00027419
室田武先生と水車の旅
河 野 裕 昭
室田武先生のこれまでの著書やその論文について語ることは,門外漢の私には無謀 なことなので,水車の旅の同行人としてのこぼれ話をしたいと思う.室田武先生…と書 くと何だか硬い感じがするし,その風貌と時にひょうきんな人柄から「室田さん」と呼 ばせていただく.
室田さんに初めてお会いしたのは,日光市の線香水車の取材の時と記憶し ている.寒い季節と思い込んでいたが,古いモノクロフィルムを探し出して みると1981年6月22日と記されていた.32年も前のことだ.浅草の東武日 光線のプラットホームの上,まるで寅さんの映画に出てくるような風景の中 で「コチラが一橋大学の室田先生です」と紹介された.全共闘世代の最後尾 に学生時代を過ごした私は,大学にはほとんど顔を出さず(もっともバリケー ドで封鎖されて授業どころではなかったけれど),水俣病の告発運動やカネミ油症 の被害者の写真記録に時を過ごしていた.だから大学の先生と親しく言葉を 交わす機会も無く,大学の先生・室田さんに対する態度はぎこちなく,無愛 想であったに違いない.仲を取り持ってくれたのは,『経済セミナー』(日本評 論社)の編集長・堀岡治男さんである.車中で水車情報を交換し,堀岡さん運 転のレンタカーで今市市の線香水車を訪ねて回った.
直径4 m以上,幅1 mもある線香水車の水輪付近は,凶暴なエネルギーに 溢れ,水を飛び散らせて,ジャングル状態に育った雑草を巻き込もうと唸り を上げている.水車小屋の中はと言えば,水車の回転動力を上下運動に変え て杵を強引に持ち上げ,石臼めがけて突進させる.(写真 1)地響きと轟音と 軋む悲鳴に加えて,原料の杉葉の粉が浮遊して視界不良で,まさに3Kの現
場そのものである.室田さんはそんな環境の中をノート片手に気にする様子 もなく,平気で歩き回るものだから,頭も肩もノートも杉粉で黄変してしまう.
大学の,経済学部の,先生たるもの,学者らしく(?)難しい本を睨んで…と 勝手にイメージしていた私には「何か,この人,変じゃない?」と混乱して しまう.むしろ私の方が梅雨の雨からカメラを守りつつ,充満する杉粉を払 い除け,なおかつフィルム交換の機会を気遣いながらの悪戦苦闘のドタバタ で,学者・室田さんの方が「カメラマンって,こんなにへっぴり腰なの…?」
と訝っていたかもしれない.デジタルカメラはまだまだ遠い先のこと.36枚 撮りフィルムが埃で全て傷付いてて使い物にならなかった….フィルム交換っ て大変だったんですよ.
日帰りの調査旅行だったが,水車の同志との巡り合いは,私を勇気付けた.
以後単独行しては情報交換を,共同行では意気投合して水車を求めての全国 行脚が続く.これらの調査取材の結果を,室田さんが『経済セミナー』に「水 車と人間の経済」として1981年11月号から1年間の連載を開始.この連載 が基礎となって『水車の四季』(日本評論社刊,1983年)を共著で出版すること になる.更にはずみが付いて『経済セミナー』1985年4月号から2年間にわ たる連載「ザ・みずぐるま」へと続く.ほとんど水商売の幸せな時代である.
(写真 2,3,4)
忘れてならないのが「水車むら会議」である.1981年10月には静岡県藤 枝市の茶園経営・臼井太衛さんら有志を募って「水土蘇生」を宣言.川向こ うまで吊り橋を架設して木製水車と水車小屋を,さらには藁葺きの古民家を 移築してしまう.発電装置や製茶機を動かし,学生らと薪で火を起こし,竃 で飯を炊き,風呂を沸かし,自炊の合宿ゼミを実行するなど,その行動力は 素晴らしい.泥だらけ,煤だらけ,杉粉だらけの学者・室田武さんである.(写 真5,6,7)
閑話休題.1988年秋,私の自宅で「ままかりパーティー」を開催した.「ま まかり」とは岡山の名物で「あまりの美味さに飯を食い尽くしてしまい,隣 に飯を借りに行く程に旨い」というとんでもない小魚である.妻の実家から わざわざ航空便で送ってもらい,台所のコンロとベランダの簡易コンロの計 3機で煙もうもうと焼き尽くしたのだが,追いつかない.何人の参加者がい たのだろうか.その数日後,室田さんから我が夫婦宛に封書が届いたのであ る(私個人宛の封書は珍しくない).以下その文面.
「前略 先日は貴宅にて ままかり ごちそうさまでした.30尾への挑戦 は途中であきらめましたが,25尾くらいはごちそうになりました.それか らおいしいお酒をありがとうございました.…中略… かたづけもせず,
申しわけありませんでした.疲れていたらしく,「和光市」から電車に乗る まではよかったのですが,そのままねてしまい,終点 しかも最終で「新 富町」まで行ってしまい,あわててタクシーを拾い,「新宿駅」まで.辛う じて「武蔵小金井」行き最終に間にあい,そこから国立までタクシーとい うあわれな状態でした.財布の中はほとんど空,メーターが上がるたびに どきどきビクビクという状態でしたが,なんとか無事に帰宅しました.数々 の非礼,ままかりに酔ったということで皆様にお許しを乞う次第でありま す.今後は,真面目に水車取材を続けたく存じますので,どうかよろしく お願いいたします.室田武/拝」
世の酒呑みには何度も(!)ある酔った上での乗り過ごしと深夜タクシーで あり,翌朝の身も縮む反省と後悔であるが,私なら頭痛を理由に一日蟄居し て知らん顔…であろう.室田さんらしく微笑ましい.室田さんからの手紙は 何通ももらったが水車情報ばかりで面白みがなく骨董的な価値もない….自 筆2ページにわたるラブレター(?)は,これ一通だけの貴重品で,家宝にな るかもしれない.最近のメール便は実用的だが…実に色気がないっ!
さらに閑話休題,その2.1988年4月,栃木県上河内村のエボナイト製粉
の巨大水車の新改築の時のこと.その昔に万年筆などに利用されたあのエボ ナイトを製粉して再利用するのだが,この水車がとんでもない怪物で,直径7.2
m,幅1.8 mの木製で,初めてお会いした時にはその迫力に腰を抜かしてしまっ
た.水車の両側にそれぞれ60本と40本の鉄製の重い杵を一気に上下させる 実力は,「地響き」などという表現では優し過ぎるくらいである.この怪物水 車の新調過程を写真で記録したのだが,「室田さん,生きてるうちに一度しか ない機会だよ」と誘い出した.せっかくだから水車大工と水車の中で記念写 真を撮ろうと思いつき,怪物のお腹の中に招待した.だが室田さんは水車の 水受け部からの侵入がうまくいかず,手と足をバタバタせるだけで一向に入っ て来ない.室田さんって,人並み以上に体が硬いのであった.まぁ,巨大水 車の中に入るなんてことは珍事ではあっても名誉でもなく,一生に一度も無 い人の方が圧倒的に多いのだから,ど〜でも良い事なんだけど….証拠写真 を探したけれど,まだ見つからない,残念である.(写真 8)
熊本県の天草では「足踏み水車」に乗って人力で揚水しましたね.学者が この水車を実働させたのは初めてではないでしょうか.この貴重な写真も見 つからない,申し訳ありません.(写真 9)あっ,川合玉堂の水車の絵には感 動しましたよね.奥多摩の玉堂美術館まで出かけたりもしました.仕事場の 壁にはいくつもの玉堂画が飾ってありました.
この文章を書いている2013年の夏は,豪雨と酷暑の異常な天候でした.地 球温暖化すら解明,コントロール出来ない人間であることに目を背けて,敗 戦を終戦と言い繕って68回目の夏を迎えました.ヒロシマとナガサキの核被 爆体験を広島市と長崎市に丸投げし,核の小手先利用を「安価」「絶対安全」
「想定外」と狂言し,さらにフクシマを追加して,それでもなお原子力発電と いう核開発に邁進する…3度の核被爆を世界に誇る「美しい国・日本」.北朝 鮮を笑える立場でしょうか.
室田さん,お互いに老いている暇が無いようなこの頃です.
ご自愛ください.そしてさらなるご活躍を.
「数々の非礼,水車に酔っていたということで,お許しを乞う次第でありま す.2013年,晩夏 河野裕昭/拝」
(こうの ひろあき・写真家)
写真1 線香水車の小屋の中.芸術品のような構造である.(栃木県今市市,1981年)
写真2 巻尺を忘れてしまって.(岩手県,1980年代)
写真 4 水車の旅の途中,い〜い湯だなの笑顔.(長野県白骨温泉,1984年)
写真 3 揚水水車を取材する.(三重県松坂市,1985年)
写真 5 民家移築の屋根材の藁を運ぶ室田さん.(静岡県水車むら,1981年)
写真 6 「水土蘇生宣言」の室田さんの自筆.(水車むら開村の日,1981年)
写真 8 怪物のエボナイト製粉水車.お腹の中で水車大工・荒井成二朗さん
(栃木県,1986年)
写真 7 水車むらの建設途中.左に吊り橋,その右に民家の基礎が見える.(1981年)
写真 9 足踏み水車.踏んでいるのは所有者・原田喜久雄さん.(熊本県天草,1988年)
写真 10 揚水水車は6月から10月まで昼夜を問わず働き続ける.(佐賀県相知町,1988年)
写真 11 唐臼(からうす).バーナード・リーチ絶賛の陶土の里でギー,ザー,ドスン と働き者の歌が響く.(大分県日田市,1982年)
写真 12 日本を代表する揚水水車・朝倉三連水車.(福岡県,1989年)