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明治維新の功罪

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明治維新の功罪

木 村 時

 明治維新は日本の近代化の出発点である︒現代の日本は明治維新にその基礎を築いたといっても過言ではない︒

勿論︑現代日本はいうまでもなく︑明治維新以来今日に至るまでの内外の政策や国民の動向には反省すべき点︑非

難されるべき点は多々ある︒しかし明治維新を出発点とする近代化への努力が無かったならば︑今日の繁栄は無か

ったし︑今日の国民生活の充実も安定も無かったと思われる︒

 中国研究者の明治維新に対する関心は今も強く︑また明治維新そのものは完全に成功したものではなかったが︑

四つの現代化を強力に推進されている︑現在の甲国の皆さまにも︑必ずその成功と失敗との跡を考察することによ

って︑何らかの教訓を得ることが出来ると思う︒

 たとえどのような民族もしくは国家であろうと︑その歴史から何らかの教訓を得るということは大切なことで︑

歴史を学ぶことの必要性と歴史学の重要性はそこにあると思う︒

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一 明治維新の変革

ω 封建制度の廃止

 明治維新は一九世紀の中頃︑一八六八年に出発するが︑その変革の主要な点は次の三つである︒

 第一は約三〇〇年にわたって日本を支配していた徳川氏の政権を倒し︑天皇を中心とする新政権を樹立したこと

である︒ 徳川氏の政権は一七世紀の始め︑武力によって全国を征聾して樹立された軍事政権であを︒徳川将軍の下には三

〇〇人近い大名がそれぞれ領土を与えられ︑それを藩として支配していたから︑徳川氏の政権は政治的には封建制

度をとっていた︒

 この封建制度は社会的には武士を最上位に置ぎ︑次に農民︑職人︑商人を置くという︑いわゆる士農工商の四段

      ︵1︶

階の身分制をとっていた︒

 封建制度のもう一つの重要な点は︑それが米を中心とした封鎖経済であったということである︒大名の家臣は俸

給として米もしくは米の獲れる土地︵知行所︶を与えられていた︒すでに日本はずっと以前から貨幣経済の時代に       ︵2︶入っていたが︑武士に対する俸給は俸緑ともいうように︑貨幣ではなく米であったのである︒

 また各大名の領地で生産されるものは︑米は勿論のこと︑その他の特産物でも︑それを他領に移出したり︑また

他領から移入することもなく︑封鎖的なそして自給自足的な経済を維持していたのである︒それが一朝有事の際に

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明治維新の功罪

備えての食糧その他の必要品の備蓄のためであったことはいうまでもない︒

 しかし一八世紀以降は貨幣経済がますます進展したので︑各大名は金銭の獲得とその蓄積の必要とに迫られたか

ら︑領地内の産業を奨励し︑特産物の開発や米をはじめとする︑それら生産品の移出に努力したので︑自給自足的

な封鎖経済は次第に崩れていった︒

 またこのような経済の変化は︑それまでの身分制の最下位にいた商人の地位の向上をもたらしたから︑身分制度

も型通りには維持されなくなった︒このような封建制度の解体が明治維新の原因の一つであった︒

 さて徳川氏の軍事政権を倒し︑天皇を中心とする新しい政権を樹立したといったが︑日本は= 世紀の末︵=

九二年頃に源頼朝という武将が鎌倉幕府という軍事政権を樹立するまでは︑天皇が中心となり︑公家という文官の

貴族が政治をとっていたのである︒したがって約七〇〇年に及ぶ軍事政権に代って天皇の政権が樹立されたこと

は︑古い天皇の政権が復活したのであって︑明治維新は王政復古でもあった︒

 天皇が政治の中心であった昔の時代に戻るという︑王政復古は明治維新の一つの理想であって︑それを主張する

尊主論の台頭は明治維新の原因でもあった︒

 したがって明治維新は少くともその最初の時期においては︑日本の国内の諸体制を一新し︑新しい世界情勢に対

応するという姿饗もぞいなか・櫨妾制肇議会制度も政府の最初の計画にはなか・たのであ窮㌍これらが

実現されるのは明治維新から二〇数年をへた一九世紀末のことであった︒むしろ新しい天皇政権は八世紀以来の中

国を範とした律令制度を復活し︑そのために政府の重要な地位には国学者や神道家という守旧的な人物が就任し︑

神道を国教化しようとする政策的な努力さえ行ったのであ嬬醒

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 しかし世界各国との交際が進み︑世界情勢に対する理解が深まるにつれ︑

策が放棄されていったことはいうまでもない︒ このような復古的もしくは守旧的な政

      ② 鎖国制度の廃止

 明治維新における変革の第二は︑それまでの鎖国政策を止め︑各国と交際を開ぎ︑通商貿易を開始したことであ

る︒ 徳川政権はその成立後間もなく︑一七世紀の中頃︑中国︑朝鮮︑オランダを除く外国船の渡来を禁止し︑許され

た外国船もその渡航を長崎港一丁に限定された︒また日本人が海外に赴くこと︑およびすでに海外に在る日本人の

帰国を禁止した︒

 これはキリスト教︑特にカソリック教︵天主教︶がそれを日本侵略の手段としていたという疑いがあり︑キリス

ト教を禁止するためであった︒そのため従来日本に渡航してきていた︑スペイン人とポルトガル人とは日本から駆

逐され︑再び日本に来ることを禁ぜられた︒

 徳川政権のこのような政策を鎖国政策というが︑これを幕府の排雪もしくは我が国の伝統的な政策であるとし

て︑同政権はこれを一九世紀の中頃まで︑二〇〇年もの間維持してきた︒

 この鎖国政策が日本にとって有利であったか否かは議論の分れるところである︒すなわち世界の進運から取残さ

れた点を強調する者もあれば︑かえってそのために世界各地の戦乱に捲き込まれず︑二〇〇年間の平和を維持する      ︵6︶ことができ︑それによって日本の伝統的文化が育成された点を強調する者もある︒

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 この鎖国政策は︸九世紀の中頃︵︸八五三年︶アメリカの使節ペリーが開国を求めて日本を訪れてぎた時中止さ

れ︑やがて日本はアメリカと国交を開いたぽかりでなく︑その後オランダ︑イギリス︑ロシア︑フランス等とも国

交を開始した︒

 これは強大な軍事力を背景とした︑諸外国の開国の要求を日本が武力によって拒絶することができなかったから

である︒しかし日本人︑特に徳川政権の首脳部やその下僚の中にも︑世界の情勢をよく理解していて︑鎖国政策の      ︵7︶廃止を得策とする者がいたことはいうまでもない︒

 日本の最初の開国は明治維新をさかのぼる十数年前のことであるが︑それ以後の諸外国との国交は必ずしも順調

ではなぐ︑国交を中止しようとしてヨーロッパに使節を派遣したり︑列強と戦火を交えたこともある︒これは擁夷

運動ともいわれるが︑主として幕府の倒壊を狙って為にする運動であったといってよい︒したがって日本が正式に

諸国と外交関係を開いたのは明治維新後のことである︒

 ひと度開始した以後における︑諸外国との間に生じた数々の不幸な事件や条約不履行の代償として︑条約は次第

に改悪され︑それは特に関税面において著しく︑いわゆる不平等条約となり︑それが日本の近代化を阻害する大ぎ

な栓楷となり︑それを改正するために︑日本が長期間にわたり︑粘り強い大きな努力をしたことについては︑私か      ︵8︶ら昨年御報告した通りである︒

明治維新の功罪

㈲ 近代化政策の推進

明治維新の変革の第三は欧米を模範とした近代化政策を強力に推進したことである︒それまでの日本は千余年に

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わたって︑主として中国の文化を摂取し︑政治も学問も芸術も︑すべて中国を模範としてきた︒一般民衆の口常生

活における道徳の規範が中国の儒教であったことはいうまでもない︒

 日本が中国系の文化を捨て︑欧米の文化によって近代化を企てるという︑政策の大転換を行ったのは︑日本人が

欧米人との︑開国後の接触によって︑その優れた科学技術と民主的な政治や社会を知ったからである︒当時の日本

人は欧米人の文化が従来の中国系の文化と異質なものであり︑その異質の文化を摂取し消化して︑日本を欧米化す

ることなしには︑国際社会において︑各国と平等な地位を獲得することはできず︑一国としての独立を維持するこ

とも不可能であると信じたからである︒

 しかしこのような政策の大転換は必ずしも諸外国との交際のみによって生じたものではない︒それはオランダ語

やオランダ語の書物によって︑わずかではあったが鎖国政策下の日本に紹介されていた︑ヨーロッパに関する知識

やその文化に対する知識も大きな力となっていたのである︒

 オランダ語の学習を日本では蘭学というが︑一八世紀の始め頃からその研究が盛んに行われた︒蘭学は最初医学

の研究を中心にして行われたが︑その後次第に動植物学︑鉱物学︑地理学︑歴史学︑軍事学︑政治学︑法律学等の

分野にまで拡大された︒これら蘭学老のヨ:ロッパ文化に対する理解と︑世界情勢に対する認識とが明治維新の原       ︵9︶因の一つであり︑それはまた明治維新後の新しい政策を推進する大きな力となったのである︒

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二 明治維新の原因

ω 封建制度の破綻

明治維新の功罪

 このような明治維新の変革の原因は何であったか︒すでに変革の内容を説明してきたので︑それは変革の由って

来る原因の大部分についても述べたことになる︒

 その第一は封建制度という政治の形式も経済の組織も社会の構成も︑一洗世紀に入ると︑もはやそれらが時代の

進展に適応しないものとなりつつあったということである︒新時代︑特に新しい世界の情勢に即応した新しい政

治︑経済︑社会の体制が必要とされていたということである︒

 しかし︑新しい体制を求めたといっても︑それは全く相反する二つの方向があった︒その一つは徳川幕府を倒し

て︑天皇が政権を執るという昔の状態︑少くとも鎌倉幕府成立以前の状態に戻らねばならぬという復古論であり︑

それは公家や︑一種の政治的目論見からこれを支持した一部の藩勢力が中心となり︑思想的には尊王論という国学

者や神道家の理想によって支えられていた︒他の一つはヨーロッパを模範として封建制度を廃止し︑連邦制を樹立

し︑憲法と議会とによって政治経済を運営していこうという方向であり︑それには人民を平等にし︑人民を主体と

する政治を行わねばならぬという理想もあった︒そうしてそれは前述した蘭学者や︑その影響を受けた知識人︵一

部武士を含む︶がその中心であったが︑前者のように一つの政治勢力を形成するにはいたつていなかった︒

 したがって実際に現状を打破し︑新しい体制を作り出すための政治運動を行ったのは︑前者の尊王論や復古論に

7

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立つ者で︑彼等は常に徳川将軍に代る天皇の親政を主張し︑また彼等は接夷論を堅持して︑徳川幕府が現に推進し

ている開国和親の政策にも反対していた︒したがってこの一派は本質的には守旧的であり︑また反動的でもあった

のである︒

 徳川幕府を倒すための政治的謀略や武力行動を組織し展開したのはすべてこれらの一派で︑その中心勢力を構成

していたのは︑日本の西南地方にその封土を所有していた︑薩摩や長州︑土佐等の大名の家臣︑とくにその下層部

分を占める︑いわゆる下級武士であった︒

 これに反して︑西欧を模範とする体制の変革を理想とする一派は︑公然とその主張を発表することもできなけれ

ば︑実際的な運動を展開することもしなかった︒それは彼等の主張が徳川幕府から弾圧されたばかりでなく︑一般

日本人㊨間でも正当に理解されず︑むしろ白眼視される傾向があったからである︒そしてそれは当時の日本人の多      ︵10︶くがヨーロッパ人を夷酒煮していたばかりでなく︑世界の情勢をよく理解していなかったからである︒

 明治維新の原因として︑封建制度下における重圧に反抗して立上った農民の一揆を主張する老があるが︑それは

誤りである︒徳川幕府の末期において︑農民一揆が諸所に︑そしてしばしぽ起ったことは事実であるが︑それは全

国的に見れば局地的なものにすぎず︑しかも各地に起った一揆は︑それを相互に結びつけ︑いわゆる横の連携をと

り︑一大勢力にしょうという動ぎはなかったし︑それをそういう方向にもって行こうという指導者も現われていな

い︒農民自身︑一揆の目的を徳川幕府の打倒に向けたことはなく︑いずれも租税の減免を要求するか︑掠奪打重し

の暴動に転じたのみで︑ 一時的に生活の窮乏から逃れようとした切羽詰った実力行動にすぎなかったものである︒

 豪商や地主層も︑現状が改革されるならば︑より自由な経済活動ができるであろうとして︑変革そのものに期待

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し︑倒幕を目指す︑いわゆる尊蔓物に物心両面の援助をする者はあっても︑自からが変革運動の中心となることは

   ︵11︶

なかった︒

 前述したように︑変革運動の中心勢力はあくまでも︑徳川幕府から常に疎外され︑冷遇されていた外様という西

南諸藩の下級の家臣であった︒彼等は武士としては下級であっても︑封建制下の社会においては支配階級に属し︑

これを庶民ないし市民ということはできない︒徳川幕府から冷遇された大名でも︑自分自身が倒幕を前提とする変

革運動を指導したり︑その運動の中心になった者はなく︑多くはその家臣である下級武士の言動に追随したまで

で︑それは当時の幕府がその磨下の大名に対する統制力を失っていたのと同じ事情が働いていたともいえる︒

明治維新の功罪

② 列強による外圧

 変革の第二の原因はきわめて重要であり︑またそれは諸原因のうち最大なものである︒それは幕末の我が国に諸

外国から加えられた武力的脅威である︒その最初はロシアが樺太や千島において行った暴行であり︑次は長崎港に

おけるイギリス軍艦の掠奪行為である︒そして最後のものは︑アメリカが軍艦を率いてきて︑その武力を背景とし

た開国の要求であった︒

 長い間の平和に慣れた日本人にとって︑欧米諸国の軍事力は大きな脅威であった︒日本がアメリカの開国要求を

受諾したのも︑最終的には日本がアメリカの軍事力に抵抗し︑鎖国の伝統を維持する自信がなかったからである︒

そしてその後日本がアメリカと初めて通商条約を締結したのも︑アメリカ総領事ハリスが︑中国に対する英仏連合

軍の侵略を報告し︑イギリスとフランスとがその余勢に乗じて︑日本に中国に対したのと同じ不平等条約を強制す

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るかもしれないと警告し︑そうならない以前に︑アメリカと平等な条約を締結しておくことの有利なことを説得し

たからである︒

 したがって日本は欧米の軍事力の脅威のために︑屈辱感をもって︑しかも止むを得ず開国したのである︒この欧

米諸国の軍事力に対する脅威と屈辱感とは︑一転して日本自身が強力な軍事力を持たなけれぽならないという決意

に変ったのである︒そうしてそれは爾後の日本の近代化の大きな推進力となった︒

 欧米のような強力な軍事力を持つためには︑封建的な政治体制は不適当である︒まず政治的に中央集権制を確立

し︑一つの政令の下に国内が結束し︑全国一律の軍備を完成しなければならないと思ったのである︒そのために封

建制度の廃止が急速に主張されるようになった︒

 一方︑徳川幕府の推進する開国政策に反対して︑京都にわずかぽかり残存する天皇の勢力は公家を中心にして︑

前述した反幕的諸藩の下級武士と連携し︑条約の破棄︑一切の外国人の追放という︑いわゆる破約擁良説を唱・兄た︒

 国論が全く二つに分裂したのである︒欧米列国からの武力的圧力が加えられなかったら︑このような国論の分裂

は生じなかったであろうし︑︑もしあったにしても︑その抗争の激化と激甚さは深浅遅速の度合いを異にしていたと

思われる︒

      ︵12︶ このような異常な事態に直面した徳川幕府は︑政権を天皇に返上して歴史上から姿を消した︒

 そして天皇を中心とる政権の復活︑すなわち王政復古によってこの異常事態を収拾しようとしたのは︑前述の尊

王論や復古論を信奉する下級武士の力が与って力あったのである︒

 しかしこのような政権の交替は︑開国方針を推進してぎた﹁勢力に対し︑開国方針に反対して︑尊王論や王政復

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古を主張していた︑いわぽ守旧的な勢力がとって代ったということであった︒

三 明治政府と近代化政策

明治維新の功罪

 明治維新後︑日本の政府を構成したのは︑このような守旧的な分子であった︒しかし彼等も幕府に代って実際に

政治を運営し︑外交問題の処理に当ってみると︑従来の彼等の主張していた接夷を実行することのできないことを

理解した︒したがって﹁世態一変﹂を理由に︑旧幕府の方針をそのまま継承し︑開国和親の方針に転換した︒しか

も世界情勢に対する認識が深まるにつれ︑何よりも欧米を模範として︑その科学技術を摂取し︑近代的産業を興隆

し︑それによって近代的な軍備を整備することの必要性を痛感した︒

 そのため明治政府が掲げた目標には︑百事一新︑文明開化︑殖産興業︑富国強兵等々種々なものがあったが︑そ

れらに共通するものは欧米の文化を吸収し︑日本を近代的経済国家および軍事強国とすることであった︒

ω 近代化成功の原因

 明治維新以来︑今日まで日本は百十数年をへているが︑この間における日本の近代化の努力には多くの失敗もあ

り︑大きな過失もあった︒そしてその過失の申には現代の日本がそれを償い︑また矯正しなけれぽならないものも

ある︒しかし大体において成功したものであると思う︒西欧文化の圏外にあった日本が︑その文化を摂取消化し︑

百年に満たない短期間に︑西欧型の近代国家に成長し得た事実は︑歴史上の稀有な事象であると自負してよい事実

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であると思う︒

 その成功の原因は何であったか︒

 第一には明治政府首脳が当時の世界情勢と将来の日本を展望して︑西欧を模範とする近代化以外に︑日本の発展

の道はないと確信し︑自信をもって︑終始近代化政策を堅持したことである︒

 しかもその近代化政策の推進に当っては︑政府首脳が個人的利害を顧慮することなく︑国家利益のためにのみ奉

仕したことである︒ヨーロッパの近代的施設を輸入するに当って︑政府首脳が金銭的に個人の利益を企んだり︑汚

撃したということ讐無に玉上・.甦一般国民も国家が今何を必要としているかをよく理讐︑政府の方針によ

    ︵4︼︶

く協力した︒

 この点︑日本の国土が余り広大でなく︑むしろ狭小であり︑人傑も多くなく︑しかも日本民族だけの民族国家

で︑国民相互の意志の疎通が容易であったということも︑有利に作用したと思われるが︑これは中国の場合と異な

るところである︒

 第二には明治政府の首脳が急激な変革を避け︑漸進主義をその方針とし︑無用の混乱をつとめて生じさせなかっ

たことである︒

 明治維新によって︑封建制度が廃止されたといったが︑実際に中央集権制度が確立されたのは︑三年余の後であ

り︑憲法の制定や議会制度の発足は二〇年余の後であった︒

 急激な変革は必ずその直後に反動を惹起するものである︒日本の場合にもそれが皆無ではなかったが︑比較的小

規模で︑それによって政府の方針が全面的に否定されるということはなかった︒

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 第三には︑西欧文化の優秀性を謙虚に承認し︑その摂取に当っては︑多くのヨーロッパ人を指導老として迎え︑

その数は明治維新後︑四︑五年の間に二︑二〇〇名を越えた︒それらの外国人指導者︵お雇い外国人と言った︶は       ︵15︶政治︑外交︑軍事︑技術︑学問︑芸術の各分野に及び︑政府は彼等に高額の俸給を支給し︑特別に優遇した︒

 第四には教育を重視したことである︒日本が義務教育制を採用したのは明治五年からで︑最初は手力年間に一六

ヵ月の教育を義務づけ︑一五年後に協力年を義務教育年限とし︑それを六実年間に延長したのは三六年後のことで

あった︒これも政府の漸進主義を示すものであろう︒現在では小学校六年︑中学校三年の計九年が義務教育年限に

なっている︒

 義務教育における就学率はこれを実施してから︑三〇年後には九〇パーセントをこえ︑今日では一〇〇パーセン

ト近いものとなっている︒

 このような義務教育の急速な普及がヨーロッパの先進文化を摂取︑消化し︑近代化を推進するための大きな力と

なったことはいうまでもない︒

 一般国民の知的水準を高めるために政府が払った努力と︑種々な困難に打克って︑これに協力した国民の努力と

は︑日本の近代史上で特筆すべき事実であると共に︑日本人と教育ということについて深く考えさせられる問題で

もある︒ 第五には政府首脳が常に国際協調路線を堅持したことである︒少くとも世界の先進国とは絶えず協調するという

方針を維持した︒

 この点では中国の方々には疑問や批判もあろうと思うが︑たしかに二〇世紀に入る前後から︑日本は国力を過信

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し︑また国力充実の達成度に焦燥感をもち︑アジア大陸に向って強引な進出を試みるという過失を犯した︒しかし

少くとも維新後弓〇余年間は︑国際協調の路線を堅持していた︒そしてそれは︑現在にも継承されている路線であ

る︒

四 日本近代化における欠点

 日本近代化の長所ばかりを指摘したので︑中国の方々には不愉快と思われる点も多くあったと思う︒しかし日本

の近代化政策に多くの欠点があったことはいうまでもない︒

 その第一はその近代化が政府指導型で︑常に上から推進されたことである︒すなわち政府が国家目的にそって計

画し︑政府資本により︑政府の指導監督の下にそれが推進されたことである︒

 これは一面において一般国民の生活が考慮されず︑国民の創意やその自発的活動が制約されたことである︒国民

はただ政府の方針に協力することを強制され︑多くの犠牲だけが強制されることになった︒

 近代化ということは産業の工業化と︑政治の民主化とをその内容とするものであるが︑日本の近代化は工業化だ

けが優先され︑民主化はその影にひそみ︑その健全な発展は長い間阻害された︒明治政府が次第に専制化し︑国民

と対立するようになるのはこのためであった︒

 さらに国防力の充実のために︑国民生活の向上が無視された︒日本における人権観念の確立がおくれ︑国民の福

祉が長く閑却されたのはこのためである︒

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明治維新の功罪

 欠点の第二は︑西欧を模範とする近代化を推進するために︑東洋や日本の良い伝統が無視され︑それが失われて

いったことである︒特にそれは精神の面において著しく︑人に対する優しい思いやり︑あるがままの自然を愛好す

る精神︑静かで平和な生活を追求する人生の理想等はすべて失われた︒これに代ったものは︑西欧風の物質万能︑

科学万能︑金銭万能︑ひいては合理主義の偏重である︒

 現在の日本では教育の荒廃がかなり以前から指摘されている︒そ七て小学生や中学生の学校内暴力︑および家庭

内暴力が大ぎな問題となっており︑青少年の非行化が大ぎな社会問題となっているが︑これらはすべて︑西欧中心

の近代化政策の幣害であり︑犠牲である︒

 またヨーロッパ文化との比較においてアジアの文化を軽蔑し︑ひいてはアジア近隣の国々を軽視するようになっ

たことである︒

 欠点の第三は︑日本が維新の最初から強大な軍事国家を目指したために︑過度に軍事力に依頼し︑それによって

国力の充実を計り︑外交上の懸案もすべてこれによって解決しようとする傾向を生んだことである︒

 今日においては覇権主義は平和に対する共通の敵である︒しかし少くとも太平洋戦争が日本の敗北に終るまで︑      ●日本にも覇権主義があった︒国力の増大は即領土の拡大である︒領土の拡大には軍事力の増強が必要である︒強大

な軍事力によって︑領土の拡大を図るということが︑国家目的の最大なるものであるという考え方があったのであ

る︒ しかし今日の日本が敗戦という大きな教訓に立って︑全く新しい道を歩みつつあることはいうまでもない︒

 個人の一生におけると同じように︑国家や民族の長い歴史の歩みの中には︑失敗もあり過誤もあった︒しかし︑

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それに鑑みて新しい歩みを進めるところに︑人間の可能性があり︑また︑国家や民族の無限の可能性があるのであ       16

る︒

私の日本に対する反省には徹底しないものがあると感ぜられるかもしれない︒それは誰もがその国に対してもっ

ている親しみの故である︒

この甘さをもった日本近代化の歩みの中からも︑或いは四つの現代化を推進されている中国の方々が︑参考にさ

れるいくつかの点があるのではないかと信ずる︒もしそれぞれの国の歴史から︑何らかのもσを学び︑それを現在

に活かすということがないならば︑歴史を学ぶということの意義は無いに等しいであろう︒

︵1︶ この身分制の厳格性を強調する者があり︑福沢諭吉の﹁旧藩情﹂はその一例であるが︑実際には身分の変更はしばしば行われ︑異る身分 注

  間における婚姻や養子縁組も︑種々な便法によって行われていた︒

︵2︶ 江戸時代の中期以後は︑小禄の者に対しては米価を換算し︑現金で支給することも行われるようになった︒

︵3︶ しばらくは藩の制度は維持され︑キリスト教は依然として禁止され︑神道の国教化政策すら︑推進された︒

︵4︶ 慶応四年三月の五条誓文の﹁広ク会議ヲ興シ﹂をもって︑政府が早くから国会の開設を予約していたという説があるが︑この﹁会議﹂は

  藩制を存置しての列侯会議の意味であった︒詳しくは拙著﹃日本ナショナリズムの研究﹄四三頁参照︒

︵5︶ 岩倉具視側近の承事操︵国学者︶︑参与平田鉄器︵神道家︑神砥事務局判事︶︑福羽美静︵神道家︑徴士︑神砥事務局権判事︶︑大国隆正

  ︵国学者︑徴士︑内国事務局権判事︶等がその一例︒

︵6︶ 前者の代表的例として和辻哲郎の﹃鎖国﹄があり︑後者のそれとしてはライシャワーの﹁日本歴史の特異性﹂﹁日本近代化の歴史的評価﹂

  ︵講談社現代新書﹃日本近代の新しい見方﹄︶等がある︒

︵7︶ 老中阿部正弘︑同堀田正睦やその下僚であった︑岩瀬忠震や井上清直らがそれである︒

︵8︶ 拙稿﹁日本における条約改正の経緯﹂︵﹃早稲田人文自然科学研究﹄第一九号︶

︵9︶ 高野長英や渡辺入山︑および蘭学から英学に転じた福沢諭吉︑フルベツキからアメリカ合衆国憲法やジェファーソンの事績について教え

  られた︑大隈重信などをその具体例として挙げることができる︒

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︵10︶ 林子平の﹃海国笹身﹄が幕府から発禁処分を受け︑彼自身が処罰されたのは︑その書中で︑林が﹁完全な軍備のためには申述集権制を必

  須とする﹂という封建制批判を行ったからである︒

   また︑福沢諭吉や小栗忠順︑大久保一越らは︑幕臣として連邦制の理想を抱懐していた︒橋本左内や坂本竜馬らは︑それぞれ一は幕府

  系︑ ﹁は反幕府系に身を置きながら︑それぞれ西欧を模範とする改革を主張していた︒

   詳しくは浅井清﹃明治維新と郡県思想﹄および同﹃明治立憲思想史に於ける英国議会制度の影響﹄を参照のこと︒

︵11︶ このような代表として︑下関の豪商日石正↓郎が有名である︒田中彰﹃幕末の長州﹄一〇七頁以降参照のこと︒

︵12︶ 徳川慶喜の政権返上の上奏の中には﹁当今外国之交際日二盛ナルニヨリ愈朝権一途歪計不申候縁者綱紀難立候間従来之旧習ヲ改選政権ヲ

  朝廷二重帰広ク天下之公議ヲ尽シ云々﹂と︑政権返上によって政令の﹁元化を期待していることが見える︒しかし現実には討幕の密勅がす

  でに下り︑幕府は武力衝突の危機にさらされており︑それを回避しようという意図も強かった︒

︵13︶ 明治五年︑御用商入山草屋和助が陸軍省内で割腹自殺をした︑いわゆる山城屋事件は︑時の陸軍大輔山県有朋との間に汚職問題があった

  からであるとされるが︑このような例は︑少くとも明治初期においてはぎわめて稀であった︒

︵14︶ その例として︑明治五年四月に創設された︑官営工場富岡製糸場に︑最初の女工として入場した和田英が︑後年記した﹃富岡日記﹄はこ

  の間の事情を詳細に叙述している︒

︵15︶ 鹿島出版会刊﹃お雇い外国人﹄全一五巻は︑概説の他︑政治︑法制︑外交︑軍事︑産業︑開拓︑金融︑財政︑交通︑建築︑土木︑教育︑

  宗教︑医学︑自然科学︑人文科学︑美術︑音楽の各分野毎の研究を収めている︒

付記

 本稿は私が昭和五六年八月︸日から十︸目まで︑中日関係史訪中団の﹁員として中国を訪れ︑北京大学および天津社会科学院日本闇題研究所

主催の学術交流会において行った︑報告の要旨に加筆したものである︒また︒末尾の注はすべて帰国後加筆したものである︒

 この報告に際して︑中国側からは何の反論も意見もなかった︒ただ﹁現在吾々がいだいている明治維新に対する関心と疑問について︑説明を

頂いたところが多々ある﹂とのみ評された︒

朋治維新の功罪

ユ7

参照

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