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東京外国語大学 『日本研究教育年報17』 (2013.3)

く特集 〈日本〉への多様な眼差 し)

都会の不在

一 中島敦の上海旅行 につ いての考察‑

郭 勇

中島敦 は 1936年 8月 15 日か ら 30 日まで半月にもわたって上海、杭州、蘇州 を歴訪 し た。その うち、杭州、蘇州 を訪れ るため、二三 日費や したが、残 りの時間は全部上海 で過 ごしたのである。その旅行 の結晶 として 『朱塔』 とい う和歌集がま とめ られた。周知の と お り、『朱塔』の内容 は専 ら杭州や蘇州での見聞を下敷 きにな された もので、上海 について の記録 は意外 に少 ない。上海 は彼 の記憶 の中か ら完全 に駆逐 され たかの よ うに思われ る。

これは不 自然 と言わ ざるを得 ない。逆に、 こ うした態度の不 自然 さはかえって彼 の上海‑

の関心の持 ち方 を際立たせ ると言 うしかない。 中島敦 は ど うして故意に上海 とい う都会‑

の言説 を封 じ込 めたのか。一体何が中島敦 を して上海 に沈黙 を保 た しめたのか。それ らの 問題 は従来研究者 か ら無視 されてきた よ うであるが、本稿 は僅かな資料 に基づいて、最大 限に中島敦 の上海滞在期間中の活動 を還元 させ 、その うえで彼 にお ける上海 とい う都 市空 間の言説 の不在 とその文学の特質 との関係 について一考察 を試み よ うと思ってい る.

1.上海行 の経 緯

中島敦はいつ頃か ら上海旅行の計画 を立てたかは明 らかではないが、1936年 5月 29 日 付の手帳 につ ぎのよ うな内容が記載 されている。

蘇州 (城 内、閣門外、居留地)/盤 門大街/瑞光寺塔/孔子廟 (苑仲掩)/玄妙観 の露 店/報恩寺大塔 (孫権)/寒 山寺 (文懲明)/東南 4K 宝帯橋 (後漢武帝、王仲野)/南 20K 霊巌 山寺/天平 山/ 白雲寺、/◎南京 (南門、水西門内、下関)/ 中山陵/明故宮/方孝 揮 、血蹟事、/ 明孝陵 (明太祖 、馬皇后)/通済門、秦推 (桃菓渡、利渉橋)/南門大街 の東/貢院、/雨花台、報恩寺、/朝天宮、/天子廟 、大慈塔/城 西、水西門/莫愁湖/

清涼 山(弘法)/玄武湖、◎鶏鳴寺/下関 (滞)(20K)/揚州 (塩 、江北大運河 20K)/江都、

甘泉/城北三四K、平 山堂 (欧陽修)/九曲池/五亭橋 (乾隆)/◎杭州1

これは単に蘇州や南京な どにある名所 旧跡 についてのメモではな く、8月の旅行のために 用意 した資料だ と思ってい る。言い換 えれ ば、中島敦 が上海旅行 の準備 を し始 めたのは遅 くとも 1936年 の 5月末 ごろまで遡 ることができるだろ う。しか も、中島敦 の東京一高時代 以来の友人だった釘本久春 はこのよ うな面 白い証言 を提供 してい る。

昭和十一年の夏休み前のことであった。喫茶店でお茶を飲みなが ら三人で話 している時、

ー 77‑

(2)

(中略)のん気 さと大胆 さとは、青春の特権である。 2

釘本の回想 を信 じれ ば、中島敦等二人 は全 くの気 ま ぐれ で即座 で速や かに上海行 を決め た と言 えるが、前述 した手帳 の記事 を合 わせ てみれ ば、中島敦 は必ず しも一時の衝動 に駆 られ て上海 に行 くことを決 めたのではな く、長 い間の周到 な計画 に基づいて、その行動 に 乗 り出 したのである。

一方、中島敦の道連れ として一緒 に上海 に旅行 した当事者 の三好 四郎 は 「中島敦先輩 と の こと」とい う文章の中で この旅行 に関 して次の よ うに書いてい る。

中島さんの旅行好きは相当のもので、中国旅行を一緒に しま した。昭和十一年夏のこと で、中島さんは大学時代、すでに中国に行 ったことがあると言っていま した。 とにか く私 の方が先に出発 し、香港、基隆 と廻って、上海で中島さんを出迎えるとい う形にな りま し た。なんでも継母に当たる人の法事 とかで、 どうしても一緒に出 られなかったとい うこと です。上海には私の伯父が長 く住んでいて、それまでも私は度々訪問 してお りま したが、

その伯父を頼 り、上海を起点に して、二人で杭州で一泊 しま したが、最初間違って西湖を 臨む極上の部屋 に案内され、す ぐ間違い と分か り、岩壁に面 した最下等の部屋 に移 された とい うこともあ りま した。蘇州では虎丘、寒 山寺、西園、留園、北寺 と廻ったはずで、こ ちらは 日帰 りで した。他に上海で競犬を見た り、ジェスフイール ド公園を訪れた り、結構 忙 しく楽 しい旅で した。中島 さんは漠東にも行きたがっていま したが、 日程の都合で行 け ませんで した。最初は台湾にも行 くつ もりだったようですが、前述の通 り父君か ら法要出 席 を強 く要請 されはなせなかったことにな ります。帰 りはカナダ汽船に乗 り、私は神戸で 下船、中島さんはそのまま横浜まで乗 っていきま した。 しか しどうい うものか、船賃は同

じだった と思います。 3

この よ うに、三好 の記述 はかな り詳 しくて、中島敦 の上海旅行 の経緯 を理解す るための 貴重 な資料 である。 そのほかに、現存す る中島敦の手帳に上海旅行 の 日程や活動 について の極 めて簡単な内容が残 ってい る4。上記の三好 の回想 と中島敦 の手帳の記述 を手がか りに

して、中島敦の上海行 きについては以下の よ うな ものが整理できる。

中島敦は1936年8月8日に横浜 を立 ち、上海 に赴 いた。その途 中、まず西宮 に住 んでい た友人 の氷上英塵宅 に三伯 した。 それ か ら長崎 に二 日間住んでいた。長崎で しば らく観光 を した。手帳8月14日づ けの項 に 「天主教」、「崇福 寺」とい うよ うなものが出てい る。 中 島敦 が言 った 「天主教 とはたぶん長崎 にある聖 ラ ウレンシオ聖堂 を指す。聖 ラウレンシ オ聖堂は壬辰倭乱の時、日本九州地方 に連行 された朝鮮人捕虜 が1610年 に長崎に建 てた聖

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都会 の不在

堂である。朝鮮人捕虜約1300人が洗礼 を受 け、お金 を集 めて土地 を購入 した後 、長崎 に ヨ ー ロッパ天主教殉教者 「聖 ラウレンシオ助祭」の名 前 にちなんで聖堂 を建設 した とい う。

その聖堂はい ろんな原 因で、つい近年まで さほ ど広 く知 られていなかった。1936年 とい う 時点で、中島敦 は人 よ り早 くその聖堂に興 味を示 した ことはま さに不思議 な ことであ る。

それ は無論 、彼 を取 り巻 いた家庭雰囲気 と関係 してい る。 中島敦 にプ ロテス タン トの信者 の伯父 さんがあ る。 その名前 は関喝 とい う。 その人は中島撫 山の四男 で、 中島敦 の 『斗南 先生』 に 「渋谷 の伯父」として登場す る。 「明治二十八年七月、大阪聖三一神学校 を卒業 し た喝 は伝道師 として大阪、徳 島、大牟 田、千葉県大貫、広 島、金沢の各教会 をめ ぐ り、大 正十三年末か ら東京教 区武蔵野協会管理長 老、 昭和三年 か らは東京 聖十字教会 の管理者 と な り、英 国のCMSか らは名誉終身理事 (ガ ヴァナ‑)の称号 も授 け られてい る」 5。多分 こ うした因縁 で中島敦 はその聖堂に足 を運 んだのであろ う。

一方、中島敦 は長崎で見物 した崇福寺 とい うのは名 高い黄葉禅寺である。 この寺は1629 年長崎在留 の福州人が超然 を請 じて創建 した ものである。福州寺 とも呼ばれ る宋風作 りの 寺であるO 中島敦 の漢学家系 と並べて考 えれ ば、彼 はそ 土を訪ねたのは特 に不思議 はなか ろ う。

手帳の記述 によれば、中島敦 は8月14日午後一時 「上海丸」に乗 って上海‑ 向かったの である。 当時、 日本 と上海 間を結ぶ航路 は主 に 日本郵船会社 が経営 していたのであ る。 そ して、就航 した船 は 「上海丸」 と 「長崎丸」であった。明治18年 に合併 によ り誕生 した 日 本郵船 は上海航路の経営に着手 した。始 めは横 浜 一上海であったが、大正 4年 、神戸 ‑上 海線 、大正12年2月長崎 一上海間の 「日華連絡線」が開設 され ると、これ が本線 に変更 さ れ た。

現に、中島敦がかつて私淑 していた谷崎潤一郎 は1926年1月に第二回 目の中国訪 問の時、

長崎丸に乗 って上海 に渡 ったのである6。大正末期 か ら戦後 まで、数多 くの人 は この航路を 利用 して中 日間を行 き来 したのである。 中国側 の資料 を調べれ ば、 さらにその事実 を強化 で きる。 中国では十数年前 に 『早年留 目者談 日本』 とい う本が出版 され、その中に20世紀 30年代 に 日本 に留学 した何十人の有名人たちの留 日体験が語 られてい る。 それ らの人 々は 殆 ど上海丸か長崎丸でまず長崎 に着いてか ら日本各地 に行 った とい う70

8月15日午後4時 ごろ、中島敦 は上海 の 日本郵船の波止場 に着岸す る。その 日の手帳に

「オ リンピック水上/200m.Breastハ ムロ/1500m.F.S.寺 田」 とあるが、明 らかに、旅行 の途 中で も中島敦 はその時 ドイ ツで行 われ ていた夏 のオ リンピックにかな りの関心 を持 っ ていた。 ここに言 われ る 「ハ ムロ とは 日本 の水泳選手の菓室鉄夫 を指す。その人 は競泳 男子200m平泳 ぎを優勝 した。 「寺 田」 とは同 じ日本 の水泳選手の寺 田登 の ことを指す。寺

田は1500m自由形 を優勝 したのである。

上海 に着 いた中島敦 は多分従姉 の吉村弥生 の家 に寄寓 した よ うである。弥生の後 日の回 想 はそれ を示唆 してい る。

‑ 79‑

(4)

て行った と思います。また上海では陸戦隊の近 くにいたのですが、そこに来て毎 日出かけ てお りま した。連れの友達の方のことは知 らず、一緒だったことはあ りません。少 しも落 ち着かず、和室の中を歩き回っていたことを思い出します。旅行からのお土産 として、紙 のからくり人形だったかを貰ったことがあ ります8

また、次 ぎの中島敦がタカ夫人宛 の手紙 はその推測 を強める。その手紙の本文は逸散 し たため、具体的な内容 まで分か らないが、その封筒 に 「上海北四川路黄陸路三七号 日本郵 船社宅吉村清知方 中島敦とい う差出人の住所が書かれている9。 このよ うに、中島敦は 北四川路 にあった従姉 の住所 を拠点 として活動 した ことがほぼ確定できる。手帳の8月19

日付 の記載 に よって、一 緒 に行 った友人 の三好 四郎 は 「三好 ノオヂサ ンノアパ ア ト、

Me t r o po l i t anApar t me n

」に寄宿 したことも容易 に考えられ る。つま り、二人は昼は一緒に 上海及び周辺地方 を廻 ってきたが、夜 はそれぞれの拠点に戻 ったのだろ う。

周知の とお り、 日本は上海 に正式な租界 を持 っていかったが、 日本か らの居留民の殆 ど は上海北部の虹 口地域 に集 中 していたO当該地区にあった北四川路は1930年代 に大馬路 (南 京路)、霞飛路 (推海路) に次 ぐ三大 目の大通 りであった。 日本人は多 く住んでいたため、

その通 りに 日本式の建物 とレス トランは多かった とい う。 中島敦 の従姉 の吉村弥生が言っ た 「陸戦隊」とは当然、1932年10月に設立 された 「上海海軍特別 陸戦隊」の ことである0 その本部 は北四川路のす ぐ近 くにある黄陸路 (黄渡路)に置かれた。

8月16日、つま り、中島敦 は上海 に到着 した翌 日の午後、中島敦 は 「郊外」 を 「ドライ ヴ」 した。彼は廟江鎮や上海市政府 を見物す る。 しか し、 どうい うわけか、 「廟江鎮」 とい う地名 は1930年代までの上海の地名や行政区画な どを調べて も見つか らない。中国では現 在 に至 るまでずっ とそ こを 「廟行鎮」とい う。「廟行鎮」は1932年1月28日に勃発 した 「第 一次上海事変の主戦場で、肉弾の三勇士を歌った 「廟江鏡の夜 は更けて」 とい う歌で当 時広 く日本人に知 られた ところである。戦後ま もな く、そ こには戦死 した中国国民革命軍 第十九軍 を記念す るための墓碑が立て られた。 四年後上海 に着いた中島敦は どんな気持 ち でその血 まみれの土地 に臨んでいたか想像できない。一方、その 日中島敦が訪れた上海市 政府大慶は1933年10月10日落成 した中国古代宮廷風の四階建てで、エ レベー ターつきの モ ダンな建物であ り、当時観光地 として も有名であった。

中島敦 は8月17日午後三時 ごろ、三好四郎を迎 えるために上海埠頭 まで行 った。それか ら19日までの活動は一切不明であるO20日、21日に三好 四郎 と一緒 に杭州で一泊二 日の 旅行 を していた。20日の夜、杭州 の新新ホテルに泊まった。ちなみに、芥川龍之介は1921 年 四月、杭州に旅行 した時、そのホテル に泊まったのである。21日夜遅 くまで列車に乗っ て上海 に帰 った。23日と23日の活動 は一切分か らない、その間の真相 を究明す るに新 しい

(5)

都会の不在

資料の発掘 を保たなけれ ばな らない

。8

2 4

日付 けの手帳に

「 Ca ni d r o me 」

とい う一言が 書いてある。それ は上海 で名 高い競大場 「逸固」の英文名 前である。道づれ の三好 四郎の 回想 にも 「上海 で競犬を見 る」 と書いてい る。両方の記載 は一致 してい る

。1 93 0

年代 に上 海 に 「名 園」、 「申園」、 「逸園」 とい う三つの競大場が あった。 それ らの競大場 はいずれ も

1 9 2 8

年 に相次いで開園 したのであ り、犬の走行 の勝負 を通 しての賭博 である。 その うち、

「名 園」と 「申園」は市民の強 反対で

1 93 2

年 閉鎖 され、逸 園だけが生き延びていた

。1 9 28

年 まで逸園競大場 は火曜 日と金曜 日の夜 にだけ開場す る

。1 93 2

年以後、他の二つの ライバ ル が倒れ たため、客の要求 に応 じて、開場 は週 に四回 ぐらいまで増 えた。現 に中島敦 は月 曜 日に逸園で競犬 を見物 したのである。 さらに逸園

「 Ca ni dr o me 」

で競犬を楽 しめるだけ ではな く、他 にダ ンスホール 、西洋料理店、キャバ レー、 コー ヒー店 な どの消費設備 も備 わ り、消費 レベル が高かったそ うである

。1 93 7

年 ごろ、逸園で売 り出 されたカ ップル二人 分のダンス入場券 は中流銀行員の‑か月分 の収入 に当たった とい う10。

中島敦 は8月25日に蘇州‑ 日帰 りの旅行 を した。中島敦 は直接蘇州での見聞を提起 して いないが、前述 された三好 の記録 によれ ば、蘇州 では虎丘、寒 山寺、西 園、留園、北寺な どを廻 った とい う。翌 日の 26日か ら中島敦 は帰途 につ く準備 を した よ うであ り、帰 りの船 の切符 を事前に買っておいた。そ して、「ハイア ライ

」( ha 主 ‑ a l a i )

を遊 んでいた。 当時、上 海では、普通の市民向けの賭 け事 として、主に三種類 があった。 それ は競馬 、競犬、‑イ アライである。ハイア ライ とい うものは西洋 か ら伝 わって きた新 しい賭博 の一種 であ る。

その正式の名前は 「中央運動場」 とい う、その英文名前は

「 Audi t o r i um」

である。上海 の 民衆 はそれ を 「回力球場」 と称 した。 それ は逸 園のす ぐ北側 にあった。霞飛路 の東南部 に あったハイア ライの球場は

1 92 9

2

7

日に開場 したのである。球場 は長年 スペイ ン、メ キシコ、キューバ な どの国々か ら

2 0

名 ぐらいの選手 を招聴 していた。その 日に中島敦 はた ぶ ん新 聞を読んで 「成都 ニテ 日本新 聞記者殺サル」事件 を知 ったのである。それ は後 「成 都事件」として有名 な事件 で ある。実はその事件 は二 日前 にすでに起 きた。 中島敦 はそれ を知 ったのは二 日後だった。

8

24

日、四川省 の成都 で 日本領事館 の設立反対 のため、大 きなデモ を行 った。暴動 とな り、大川飯店 な ども壊 され 、恒宝な どのデパー トを破壊 され た。しか も、大阪毎 日新聞社 の特派員渡連洗三郎 と上海毎 日新聞社の深川経二が殺 され た。

8

27

日に、中島敦 は上海 市内で買物 を した りしていた、その うち

、「 Gr a nd̀ Unde r

T

wo Fl ag s ' 」

とい うバ タ臭い名 前 のチ ョコレー ト店 にも入 った よ うで ある

。28

日の夜、カナ ダ の船

「 Cl e a ve l a nd」

に乗 りこみ、翌 日の未 明出港 した。

31

日の朝、神 戸に着いて

、9

1

日に横浜の家 に着いたのである。

2 .

都 市離れ一 中島敦 文学の特質一

以上の よ うに、中島敦 は上海 に二週間 ぐらい泊まっていたのに、上海 につ いて殆 ど言 っ ていない。逆 に、杭州 と蘇州 で過 ご した 日数 が遥 かに少 なかった ものの、それ らの ところ での見聞を一冊の和歌集 としてま とめた。 それ はま さに興味深 い ことである。

8 1

(6)

を こぼ した上海 の町の汚 さは軽蔑 とい うよ りむ しろ明治以来の 日本知識人の上海 とい う都 市 に対す る平均的な印象 に過 ぎないだろ う。 同 じ手紙の中に 「二十何階の建物 が三つ四つ ある 大抵 はアパー トだ さ うだ。夜 はデパー トのテ ッペ ンまで、ネオ ンがついて、 とて も 締麗 だ」との内容 がある。 また、8月21目付 けの手帳 に 「夜、遅 ク、杭州 ヨ リカ‑ル/上 海 ノ灯 ヲ見ル ト家‑カ‑ ツタヤ ウナ気ガスル ノモ‑ ンナモ ノナ リ」とい う述懐 もある。そ れ らの内容 を総合 してみれ ば、中島敦の上海 に対す る印象 は極端 に悪い とは到底言 えない だろ う。

一方 、中島敦 の文学作品を調べれ ば、都会 を舞台 とす るものは意外 に少ない とい う事実 が明 らかである。早期の一高時代の 「校友会雑誌」に発表 された習作の

『 D

市七月叙景 (‑)』、

『巡査のいる風景』及び後年天折 した 『北方行』だけに止まっているO

だか らといって、実生活 の 中の中島敦 は都会生活 に対 して抵抗 を持 っていた とは限 らな い。彼 は都会生活 のア ウ トサイダー どころか、食 った都市生活 の消費者 としての印象 が強 い。 それ は中島敦 の友人達の回想 な どに よ り裏打 ち されている。例 えば、友人の回想 には 次の よ うなものがあるO

昭和七年、大学三年の時、夏の終わ りごろで したが、中島君が京城の私の下宿にやって 来ま した。(中略)彼の行動については何一つ私は知 らず、彼は一人で行動 していま した0(中 略)ただ夜、「ついて来るな」と言って 自分は色町に行った らしく、その模様 をこと細かに教 えてくれた11。

実生活 においては、中島敦 は高度 に洗練 された都会趣味の持 ち主だったのである。旅行、

登 山、ダンス、音楽、劇 、映画、将棋 な どに相 当な情熱 を持 ち続 けた。例 えば、1936年の 年譜だけを読 めば、次のよ うな事実が分かる。

一月五 日、野沢屋で宝生能を観 る。二月六 日、シャリア‑ ピンを聞きに行き、感激す る。

三月二十三 日、霊岸島七時発の船で小笠原諸島‑の旅に出て、「南方‑の憧憤」を満た した。

四月十四日、ケンプのピアノ独奏会(日比谷公会堂)に行 くOもう一回五月十二 日も聞きに行 っている。四月二十一 日、 リリー.クラハ ウス(ピアノ)とシモン。 ゴール ドベルグ(バイオ リン)のベー トー ヴェンのソナタの演奏を聞きに 日本青年館へ行 く 五月二十九 日、ジャッ ク.ティボウのバイオ リンを聞きに 日比谷公会堂‑行 く12

1936年 とい う不景気 の時代背景 を合 わせて考察すれ ば、 これ ほ ど趣味の世界 に浸 った こ とは一層 その都会好 きの面 目を明 るませ るo それ は さてお き、中島敦はせ っか く上海 まで

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都 会 の不在

行 き、二週間 も旅行 した ものの、その間の見聞を作品化 した ことは もとよ り、殆 ど提 起 し ていない。言い換 えれ ば、彼 の上海 に対す る記憶 は最大限に稀釈 されたのである。 その原 因が どこに求め られ るべきか とい う疑問は当然浮かんで くる 結論 を先 に言わせれ ば、そ れは中島敦の文学の特質にかかわっているのである。

中島敦 の文学作品は大 きく言 えば、三つのグループに分かれ てい る。一つは 『山月記』、

『李陵』 を始め とす るいわゆる中国古典 に取材 した ものである。 次は 『過去帳』 を代表 と す る自我追究の ものである。それ らの ものに さらに南洋物が加 わってい る。

まず、古代 中国に題材 を仰 いだ所謂 「歴史物」 を見てお こ う。 こ うした性質 の ものに古 代の都会 についての描写が意識的に回避 されている。『山月記』の主人公 の李徴が活動す る 場所は野原の薮の中で、彼が憧れている長安の様子が全 く触れ られていない。 同 じよ うに、

『李陵』 は主に砂漠 を舞台 とす る。武帝や 司馬遷等が住 んでいた長安 とい う都 の光景が完 全に切 り落 とされている。『名人伝』には耶鄭その町の風景な どに関 して一言 も提起 してい ない。 ほかに、『盈虚』 と 『弟子』はいずれ も春秋時代の人物 を登場 させ 、多 くの諸侯 国の 名前が出てい るが、都会 に関す る描写は皆無 と言 って もよか ろ う。無論 、都 の描写がな く て も、作品の魅力 を減 らさないが、逆に適 当に古代 の都 の状況な どを描 けば、作品に生彩 を放たせたに違いない。

しか し、古代 の都会の様子 な どを描 こ うとすれ ば、その面 に関す る高い教養 を必要 とす る。例 えば、古代 の芸術 、風俗、建築、音楽な ど多方面 にわた る文物制度 に詳 しくなけれ ば畢寛 出来ない ことである。 中島敦にそれ ほ どの能力が備 わったか どうかは二次元の こと である。重要なのは中島敦 の持 っていた精神 的な気質が時間的なものに属 して、空間 と縁 遠 い0時間意識 は彼 の肉体 とともに成長 してきた と言 って もよかろ う.要す るに中島敦 は 時間の流れが浸透 した歴史 を本能的に重ん じす ぎたた め、空間に対す る意識 が欠落 した こ とは否 めない。鷺只雄氏が正確 に指摘 している通 り、「彼 の選び取った世界が現在ではな く、

今 ここにない時空 を離れた過去 と異邦‑ 歴 史の世界‑の飛邦である ところに典型的 に現 れているでろ う」 13 無論、こ うした古代‑の遡行志向は彼 を取 り囲んだ漢学家系の雰囲気 とも関係 してい る。 明 らかに、明治以降、漢学 を家業 として堅持す ることは時代遅れ にほ かな らなかった。

次 に、『過去帳』を代表 とす る所謂 自我追究系列の作品はその歴史物 と表裏 の関係 をな し、

人間存在 の究極 の有様 を問い詰 める とい う点 に通底 してい る。 中島敦文学の精髄 はま さに その一点に集 中 してい る。そ こを原点 として豊富な変奏 を演 じたのである。 中村光夫 は中 島文学 を 「物語 と人間的真実 との結婚 を 目指す近代小説 の正道 を歩む試 みで あった」 と把 握 した14。 さらに、■武 田泰淳 は中島敦文学を 「ことに 「世界のきび しい悪意 に対す る、へ り

くだった憤れ」を現代的感覚で表現 した点で、新 しさ、ことに戦後文学の新 しさを予言 し、

啓示 している作品である」と位置づけた15 無論、それ らの論はいずれ も中島文学の特質 を 射止 めてい る。注意すべ きなのは中島敦の 自我追究系列 の作品はメタフィジカル な色彩 が 濃厚 で、人物の運命や 内心の感受 な どが専 ら語 られ 、ほ とん ど中島敦の ドッベル ゲ ンガ‑

‑ 83‑

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中島敦の南洋物 は 『南島講』 に納 まってい る掌編 を指す。 その内容は南島の独特 な風物 についての点描 だった り、原住民へ の理解 の困難 さだった りであるが、その底流 に 自我や 存在‑の懐疑 とい うよ うな眼差 しが遊七 してい る. 中島敦 は本来 、北方で患 った形而上的 不安 を癒すために南島に行 ったわけであるが。南島は彼 に とって地理的な空間 とい うよ り、

ゆっ と りとした時間が充満 してい るカオス (未 開地)である。 中島敦は南島を東洋式 の桃 源郷 に看倣そ うと努 めてい るO例 えば、『風物抄』の冒頭部分は こ う描 き出 され てい るO

朝、 目が覚めると、船は停っている様子である。す ぐに甲板に上がって見る。

船は既に二つの島の間にはい り込んでいた。細かい雨が降っている 今迄見て来た南洋 群島の島々とは凡そ変わった風景である。少な くとも、今 甲板か ら眺めるクサイの島は、

どう見ても、ゴーガンの画題ではないo細雨に煙 る長汀や、模糊 として隠見する翠の山方 な どは、確かに東洋の粒だ.‑汀煙雨杏花寒 とか、暮雲巻雨山婚姻 とか、そんな譜がつい ていても一向に不 自然に思われない.純然たる水墨的な風景である16

このよ うに、中島敦 は南島を東洋化す ることに よって抱 えづづ けた 自我 の悩み を解 消 し よ うとしたのであ る。 ここでは水墨画 を始 め とす る東洋式の雰囲気 は西洋 のア ンチテーゼ として提起 され たに他 な らない。 西洋 とい う近代 に よって蚕食 されつつ ある南 島で遅れ た

「東洋」の幻を堅守す る作業 は時間 を逆戻 りさせ るこ とに よって行 われ たのである。 近代 化 は元来時間のカテ ゴ リー に属す る概念であ り、中島敦 の南洋物 に見 られ るア ンチ近代化 とい うテーマは時間の進み ‑先進へ の反動 にはかな らないだろ う。 そのため、彼 の南洋物 に南 島で近代化が最 も進んだ 「都会」としてのコロール に関す る描写は皆無である。

ただ し、都会 を舞台 とす ることは、中島式の内面の乱み を表現 した作 品の主題 とは必ず しも敵歯吾しない。

例 えば、前 田愛 はその 『都市空間の文学』で次のよ うに語 っている。

そのかぎ りです ぐれた都市小説、例 えば 『罪 と罰』がそ うであるように、推理小説の構 成に引き寄せ られ ることがす くなくないわけだが、推理小説 とのあいだに境界線が引かれ るとすれば、それは主人公にとって都市の読解 に進み出ることが、犯跡の追及ではな く、

彼 らのアイデンティティそのものを都市の表層の背後にかくされた記憶のなかに確認 して行 く行為を意味 しているところに求められるだろ う。都市の迷宮に潜 り入 ることが、同時に 内面‑の旅につながっている微妙な構造に、近代的な都市小説のパラ ドックスがある17

前述 された とお り、現 に、 中島敦 に都 市 を舞台 とす る作品がい くつかある。彼 の場合 、

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意識 的に都市を小説 に導入 しよ うとす る野心作は、何 よ り 『北方行』 を数 えなねばな らな いだろ う。周知の通 り、『北方行』は天折 した未完の作品である。その天折 した原因につい て、学界ではい ろんな説が喧伝 されてい る。その うち、菅野昭正の次の説 は最 も代表的な

ものである。

黒木三造も、折毛伝吉も (そ して部分的には白柳子も)、しば しば中島敦の 「私」吐露に 覆われて しま うこと、そ して小説は中島敦の観念や心情を無修正でそのまま表現す る場所 に変質 して しま うこと、それが『北方行』の最大の問題である。(中略)主要な人物を覆 う「私」

の吐露は、『北方行』の行手をふさぐ大きな障害 となったにちがいないと推定 される18

菅野の観 点は一応認 め られ るものの、それは 『北方行』 を して天折 に至 らしめた唯一の 理 由ではない と思 う。一般的に 『北方行』執筆の終わ りの時間は昭和十年 まで とされ る。

例 えば、勝又浩氏は 「『北方行』の執筆は昭和八年、大学卒業の年か ら書 き始 め られ、昭和 十年八月 をその ピークとして、あ と間 もな く、昭和十一年 にはそのままの完成 が断念 され ている」 と言 っている19 勝又浩のこ ういった結論 に再検討すべ き余裕 がある。昭和十一年 八月 ごろ、つま り上海旅行 を決 めた ごろまで、中島敦 は念願 の 『北方行』 に対 してまだ諦 めなかったよ うである。現に、その年の六月二十四 日付 けのタカ夫人宛書簡 に 「俺は、今、

小説 を書いてい る、学校 の仕事 (雑誌)はある し、猛然 と忙 しい」 20とい う内容が書いてい る。 ここで言 う 「小説 を書いている」とは 『北方行』の執筆 を さす ことであろ う。

『北方行』は中国の天津、北平 (北京) を舞台 としてい る。 それ ぞれ深刻 な精神的 な悩 みを抱 えている二人の 日本人青年 の黒木三造 と折毛伝吉はその悩み と対決す るために、各 種 の力が織 り交ぜ て沸騰 した相場 の よ うな北 中国に投身 したので ある。 しか し、激動す る 天津や北平 な どの町の混乱ぶ りや様子な どについての描写 は殆 ど見 られ ない。言い換 えれ ば、登場人物たちが活動 した背景 として、生々 しい都会の光景の欠落その ものは 『北方行』

を中絶 を させたのではないか。諦 めきれ ない中島敦 は 『北方行』 を復活 させ るため、上海 に行 った との推測 も成 り立つだろ う。ただ、上海 に行 った として も、到底横 光利一や金子 光晴の よ うに、見事 に 「魔都」としての上海 の光景 を描 くことは 自分 の気質 に合わない こ とを否応 な しに悟 らされた うえで、中島敦 は上海 とい う都市 を見捨てて、黙 り込んだまま でいたのである。

以上述べてきた よ うに、中島敦の文学の特質 は時間的な もので空間的な ものではない。

それ は彼 の文学の題材や思想 と関連がある し、その精神 の気質 ともつながっていると言 う しかない。

8 5 ‑

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六十一年、第254頁。

4 2002年筑摩書房版 『中島敦全集』第三巻、第395頁。

5 村 山吉席、『評伝.中島敦‑ 家系か らの視点』、中央公論新社、2002年、第82頁。

6 西原大輔、『谷崎潤一郎 とオ リエ ンタ リズム‑ 大正 日本の中国幻想』、中央公論新社、2003年、第215 頁。

7 鐘少華、『早年留 日者談 日本』、山東画報出版社、1996年。

8 吉村弥生は 「中島家の人々」、『中島敦全集』別巻、233‑234貢。

9 中島敦昭和十一年書簡、『中島敦全集』第3巻、第537頁o lO 惜珍、『上海的馬路』、上海画報出版社、2004年、第185頁。

11 山崎良幸、「中島君 を憶 う」、筑摩書房、2002年版 『中島敦全集』別巻所収、第240‑241貴。

12 中島敦年譜」、筑摩書房2002年版別巻、第501‑502頁。

13 鷺只雄 『中島教諭‑ 狼疾」の方法』、有精堂、1990年、第324‑325頁。

14 中村光夫、 「中島教諭」、中村光夫等編 『中島敦研究』、筑摩書房、1986年、第13頁。

15 作家の狼疾」、第17貢。

16 『中島敦全集』第‑巻、第291頁。

17 前 田愛 、『都市空間の中の小説』、筑摩書房、1987年、第456頁。

18 菅野昭正、「忘れ られた胎児‑ 中島敦 『北方行」、中村光夫等編 『中島敦研究』、筑摩書房、1986年、

80頁。

19 全集第2巻、嶺解、第644頁。

20 全集第三巻、536頁。

参照

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