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△岡llrln
説
法 益侵 害 と 行 為 無 価 値 の 諸 問 題
目次
Ⅰ問題提起Ⅱ法益侵害と義務違反一法益概念と法益侵害の意義権利侵害から法益侵害へ法益概念の確定法益侵害の意義二義務違反の独立性と従属性法規範と義務規範義務違反の法益侵害従属性Ⅱ結果無価値と行為無価値一結果無価値の行為無価値従属性(一)過失犯の行為無価値(二)未遂の結果無価値
内 田 文 昭
2二行為無価値の結果無価値志向性X(二
Ⅳ
結論 主観的違法要素迷信犯と行為無価値(746) 法益侵害 と行為無価値 の諸問題
3
Ⅰ問題提起
一犯罪の実質を法益侵害に求めるか義務違反に求めるかは古‑て新しい問題である。
人間の自覚に乏しい時代では'人のすべての営みはこれを超越的な価値・権威に依存させる必要があったものと思わ(1)れる。
神に対する敬慶な祈‑が美徳であ‑、神に対する反抗が悪徳即ち犯罪だったのである。つまり'神に対する忠誠義(2)(3)務違反が犯罪なのである。野蛮な復讐すら、神の媒介によって、神聖化されえないではなかったといわれている。
T五三二年のカロリナ刑法典も'全能の神ないしは聖母マリアの冒涜はこれを生命刑・身体刑に処し(1〇六条)、
魔法に
よ
る加害(一〇九
条)や聖なる顕示台の窃盗二七二条)すらをも'これを火刑に処することを宣言したこと(4
)であった。一八世紀においても、一七九四年のプロイセン普通ラン‑法第二部第二〇章「犯罪と刑罰」は'冒頭一二条で、「処罰よ‑予防」の原則を揚げ、第三条では'特に「宗教の公然侮辱を強‑非難しなければならない」と宣(5)言し、第二〇章第六節二一四条以下に多‑の宗教犯罪(宗教団体侮辱)を規定したのである。(6)(7)(8)「神への忠誠」から「人間の世俗的価値重視」への移行は徐々に行われたといわれるが'カンI、ペッカリーア、(9)フォイエルバッハの業績を忘れてはならない。特に'フォイエルバッハは、不道徳をも処罰できる全能の神とは違っ(10)て、国家は「違法行為」即ち「権利侵害」を禁圧することをもって満足しなければならないと考えた。カントと同
様、フォイエルバッハにとっても、自律的な人倫的完成・市民的情操の滴養こそが国家の究極の任務なのであったが、(;i刑法の任務は、その中の一つ'即ち'違法行為・権利侵害の禁圧に限られるべきだったのである。
勿論、フォイエルバッハも、「義務」の観念を無視したわけではない。しかし、その義務は、神・人倫への義務で
4
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(12)はな‑して、刑法的義務即ち権利侵害防止義務にはかならなかったのである。そして、個々の権利侵害を生じさせる
ことなしに、単に法秩序・法的安定性に「危険」を与えるにすぎない風俗犯や性犯罪の多‑は「犯罪」ではな‑して(13)警察違反としてとらえられるべきであるとされたのではないかといわれている。1八二二年のバイエルン刑法典も、
序章第九条で「違法と不道徳」の峻別を強調し、なに人も獣姦・男色・涜神などを行ってよいとはいえないが、国家・(14)個人の「法・権利侵害」ないしは「外部的義務違反」がない限‑は刑法の外におかれていると明示したことである。「神に対する犯罪」は、さきに二言したように、このようにして、「人に対する犯罪」となったわけであるが、その
後、ビルンバウムが、犯罪とは「権利侵害」のみならず、善良の風俗違反や湧神などの宗教感情侵害をも包含した(15)「法益侵害」としてとらえられるべきであると主張したことによ‑、広‑「法益侵害としての犯罪」が支配的な犯罪(16)観として通用するところとなったのである。しかし、「法益侵害」とは何かが、まさに問題であるといわなければな
らない。「権利侵害」とは違って暖味に流される可能性が懸念されるからである。(17)二これに対して、フエルネックは、法を神への依存から解き放って、これを共同生活利益擁護のための国家的関
心としてとらえながら、「義務づけ」をその「手段」とすることによ‑、「義務概念が法体系の核心となる」という著
名な提言を掲げ、「主観的法」・「権利」の侵害なしにも義務違反としての犯罪は存在しうるとして、涜神や公然濃
(18)(19)泰を例示した。フォイエルバッハ
が
、権利侵害の有無につき否定的に解した潰神や公然濃黍、ビルンバウ ム が
、そのこと故に法益侵害性を肯定していた涜神・公然濃黍は、フエルネックによって、例外としてではあれ、「権利侵害な
しの義務違反」というかたちで「犯罪」となったことになるが、「共同生活利益侵害」を考えることなしに「義務違(20)反」の強調に出たことへの疑問は重大であるといわなければなるまい。詳細は改めて検討しなければならないが、こ
こでは「義務違反としての犯罪」は、ナチスドイツの指頭によ‑、その後、一段と強‑喧伝されるところとなったこ
(748) 法益侵害 と行為無価値の諸問題
5
とを指摘してお‑にとどめよう。
ナチス当時の犯罪観の特徴は、ドイツ民族共同体への「忠誠義務違反」として犯罪をとらえようとした点にあると(21)いえよう。シャツフシュタインは、フォイエルバッハの個人主義的自由主義思想を否定することを通して、「健全な
民族感情」・「民族の人倫秩序」に遠反する作為・不作為(義務違反)が第一義的に犯罪の不法成分を形成するので
あって'その「不法」の質と量とを吟味するに際して、はじめて第二義的に侵害された「法益」の特性が考慮されう(22)るにすぎないと主張し、ガルラスは、民族共同体の法理念から、偽証罪・名誉穀損罪・詐欺罪等の不法成分(倫理的意
義)すら「法益侵害」だけをもってしては説明し切れないとして'「義務違反としての犯罪」を強調したのである。フォ(23)(24)イエルバッハにとっては、神が冒湧されるということは不可能であったが、ガルラスにとり、湧神は充分可能なので
ある。
さらにまた、背任罪の本質に関し、受託財産事務処理者の「義務違反」を高唱する「背信説」は、ナチス刑法の当(25)時に、特に盛んに展開されていたことを付言しておきたい。
ナチスドイツの崩壊により、「法益侵害としての犯罪」が復活した噂,これに対して、深刻な反省を迫る議論が行
われたことは周知の通‑である。「訂,7)ヴエルツエルは'犯罪の実質に「法益侵害だけ」を求めるのは目先の利害にとらわれた消極的な態度であ‑、これ
を超えて、法益を尊重しょうという「市民的情操」の確立を求めることこそが刑法の普遍的・積極的使命でなければ
ならないと考えた。「法益侵害」は、今日、明日だけの問題にすぎないが、「法益尊重要請」は永遠を眺めることにな
るというのである。ヴエルツエルは'この「市民的情操」の滴養機能を刑法に求め、これを刑法の「社会倫理的機能」
と呼んで「法益保護機能」に対置したのである。
6 神 奈川法学 第40巻 第3号 2007年
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ヴエルツエルは、フォイエルバッハを超えて刑法の社会倫理的機能を高揚したことになるばか‑でな‑、法益尊重
義務の意義にも特殊なものをつけ加えることになろう噂,敢てそこまでのものを刑法に求めることの是非について(29)は、なお充分の検討を要するものと思われる。この点も'後に改めて考えてみたい。
三「法益侵害」か「義務違反」かの二者択一ではな‑して、両者の関連を検討しょうという姿勢も'最近は目立
つようになった。法益侵害なしに犯罪はあ‑えないという理解を前提にした上でも'なお、法益侵害と義務違反を対(30)(31)置して双方が必要であるとするもの、法益侵害と義務違反は異質のものではないとか、両者は一致するとみるもの(32)などが挙げられる。はたしていかに考えるべきかは、また新たな問題であるといわなければならない。
さらに'さきほどのヴエルツエルの「法益保護機能」と「社会倫理的機能」の対置に連動して、「結果無価値論」と「行為無価値論」の対立が顕著なのも、最近の特徴の一つといって過言ではない。ヴエルツエルは、法益侵害という「結果」は多分に「偶然性」の契機を包蔵するのに反して、「行為」は盲目の「因果性」を動かしうる「目的性」によ
り指導された現象にほかならないから、刑法は「結果」よ‑も「行為」を重視しなければならないと主張した。いわ(33)(34)ゆる「行為無価値論」である。今や「行為無価値論」を否定し去るものは、ドイツではみられないといってよかろう。
しかしながら、本来、行為と結果とは異質のものではない。殊更に両者を分離し対置させることの意味が問われる(35)べきであろう。また、「過失犯」では'行為は軽視され、結果だけが重視されるのが、ヴエルツエル以来の一般的傾(36)向である。首尾忘貝しないといわざるをえない。さらに、現行法は、「既遂(結果)」を基本とし未遂を修正形式として(37)いる。行為無価値論はこれをいかに説明するか。刑法の社会倫理機能の高唱は、既遂と未遂の区別を否定することに(38)なるのか。問題は山積している。
四本稿は'以上の問題意識のもとに、かねてからの「法益侵害と義務違反」、新たな「結果無価値と行為無価値」
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○
(寸)H.Zoepfl,DiePeinlicheGerichtsordnung.KaiserKarl'sV.1876,S.91,93,147.り忌LiCl机′R.V.Hippel,Strafrecht.Bd.Ⅰ,S.179ff.,193Anm.ll.(Ln)AllgemeinesLandrechtfurdiePreuBischenStaaten,Bd.Ⅳ,1817,S.488ff.,519ff.;R.V.Hippel.Strafrecht,Bd.I,S.276ff.,282.(W)Baumann‑Weber‑Mitsch,Strafrecht,AllgT.llAufl.2003,S.loft.[U.Weber].(ド)Ⅰ.Kant,MetaphysikderSitten,1794,Akademieausgabe.Bd.Ⅳ,1914,S.218ff.,221ff.,235fリ379ff.,390f.(co)Beccaria‑Glaser,UeberVerbrechenundStrafen.1851,lff"5f..S.66ff.,68ff.(O,)A.V.Feuerbach,RevisionderGrundsatzeundGrundbegriffedespeinlichenRechts,Bd.Ⅰ.1799,S.29ff.,34,41ff..65ff.:ders.LehrbuchdesgemeineninDeutschlandgtiltigenpeinliehenRechts,llAufl.1832.尊台.9ff.,13ff.,20ff.(≡)A.V.Feuerbach.Revision,Bd.1,S.29ff.,34.65f.;ders.Lehrbuch,llAufl.捕..9,21ff.(コ)A.V.Feuerbach.KritikdesNaturlichenRechts,1796,S.95ff.,139ff.,230ff.,237ff.,247ff.,267ff.,276ff.usw.;ders.Revision,Bd.1,1ffリ23f.,34f.,39ff.,65ff.(ヨ)A,V.Feuerbach,KritikdesNattireichenRechts,S.237ff.,276ff.,289ff.(E3)R.V.Hippel,Strafrecht,Bd.Ⅰ,S.296Anm.7,297,307Anm.3.心鵜′A.V.Feuerbach,Lehrbuch.llAufl.尊台.22,303ff.,432.,449ff.り
忌出口ニト望′珊」那tJ;S>'寒想(盟)(巴)(E3)(式)O仙4Dii′Feuerbach‑Mittermaier,LehrbuchdesgemeineninDeutschland
gtHtigenpeinlichenRechts,12Au瓜1836,Notezu尊台.22,161,303,432,449.潜召′肖・l(1)廼(寸)(LD)(ヨ)AnmerkungenzumStrafgesetzbuchfurdasKdnigreichBaiern,Bd.I,1813,S.25ff.心萌′Rv.Hippel,Strafrecht,Bd.I,300f.
8
神 奈川法学第40巻第 3号 2007年
(20)
(21)
(22)
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(24)(25)(26)
(751)
J.MIBirnbaum‑UeberdasErforderniseinerRechtvertetzungzumBegriffedesVerbrechens}mitbesondererRticksichtauf
denBegriffderEhrenkrankung,ArchivdesCriminatrechts,NeueFolge,)834,2.Sttick,S.)49ff.,156ff.,)72ff.,)84ff.,)90ff.
内田・概要上巻二〇頁以下。さらに、C.Roxin,Strafrecht,Attg.T.Bd.I,3Aufl.)997,S.toff.,43ff.」8f.,Lgff.
H.V.Ferneck,DieRechtswidrigkeit,Bd.(,)903,S.)9ff.,94ff,)09f.」50f.,276ff.,37&
ちなみに、フエルネックにとっては、「違法」とは「義務違反」にほかならないのであって、幼児・精神病者は「義務違反」をな
しえないが故に、始めから法規範の外におかれているのである(H.V.Ferneck,Rechtswidrigkeit,I.S.149ff.,200ff.)。これが、フエル
ネックの「主観的違法性論」の根幹である。
フォイエルバッハにとっては、教会は冒涜されるが'神は冒潰されえないのであ‑(AIVIFeuerbach.Lehrbuch,)tAufl.琴303ff.)、公然栄泰も権利侵害のない風俗違反にすぎないのである(A.vIFeuerbach.Lehrbuch,tlAufl.琴缶2ff.,449ff.)O
ビルンバウムにとっては、漬神や公然濃嚢は権利侵害ではな‑して法益侵害なのである(J.M.
F
.Birnbaum,ArichivdesCriminaLrechts,NIF.)834.S.166ff.)78ff.;ders.BeitragzurErarterungderFrage⁚ofStrafgesetzbticherkeineallg.Bestimmungen
i
n
HinsichtaufbdsenVorsatzenthaltensollen,ArichivdesCriminalrechts,NeueFolge,)837,4Sttick,S1473ff.,496ff1,502ff.).さらに、Rv.HippeL,Strafrecht,Bd.I,S.toff.,)4Anm.),)5Anm.2.
7エルネックにとっても、人と人の「共同生活利益」保護の手段として「義務づけ」が要請されるのであって、「義務そのもの」が
存在するわけではない筈であることを看過してはならないであろう.なお、H.V.Ferneck.Rechtswidrigkeit.Bd.I,S.94.292,378.
F.Schaffstein,DasVerbrechenalsPflichtverletzung,Gteispach・Festschrift,)935,SL08ff.;ders.DieunechteUntertassungselikteimSystemderneuenStrafrecht.Gleispach・Festschrftt936,S.70ff.
W.Gallas.ZurKritikderLehrevomVerbrechenaJsRechtsgutsverletzung,Gteispach・Festschrift,)936,S.50ff.
前柱(1).さらに、リヒタ‑も、同様の見解をもっていた(H.Richter.DasphilosophischeStrafrecht,)829,S.tL2f.)o
W,Gattas,Gleispach・Festschriftt936,S.55.
内田文昭「横領と背任」刑法講座六巻(昭三九)九五頁以下、1〇三頁、一〇五頁注(四)0
ガルラスは、なお「義務違反」としての犯罪を強力に主張した。たとえはtW.Galtas,GrtindeundGrenzenderStrafbarkeit,
BeitragezurVerbrechenslehre,)968,S.1ff.
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Strafrecht,llAufl.1969.S.lff.,4ff"238ff.:ders.RechtundSittlichkeit.Schaffstein‑Festschrift1975,45ff.(宍)H.WelzeLDasDeutscheStrafrecht,llAufl.S.5f,り忌iiCl
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「廼淵埜師」JJ「湖態瑚底」心「女史」上土嶋rQ,PeJJJトノニL)(StGB.LeipzigerKommentar,llAufl・1993,Vor昏13Rdn.ll[H.H.Jescheck])o(E3)H.Welzel,DasDeutscheStrafrecht,llAufl.S.1ff.,33ff.,39ff.,62ff.,127ff.,135ff.(講)Jescheck‑Weigend,Lehrbuch,5Aufl.S.239ff.;C.Roxin,Strafrecht.Åug.T.Ⅰ,3Aufl.S.265ff.(宍)C.Roxin,Strafrecht.Allg.T.I,3Aufl.S.269ff.(潟)H.Welzel,DasDeutscheStrafrecht,llAufl.S.99;ders,FahrlassigkeitundVerkehrsdelikte,1961,S.19ff.(ES)C.Roxin,Strafrecht,Allg.T.Ⅰ,3Aufl.S.269;ders.Strafrecht,Allg.T.Bd.II,2003,S.335ff,,339ff.(鍔)Baumann‑Weber,Strafrecht,Allg.T.9Aufl.1985,S.19ff.[J.Baumann],士'u」
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Ⅱ
法益侵害と義務違反神奈川法学第40巻第3号 2007年
(753)
一法益概念と法益侵害の意義
(こ権利侵害から法益侵害へ
一フォイエルバッハは、「国家契約により保障され、刑罰法規によって保護された自由を侵害する者が犯罪を行
うのである」と考えた。そして'国家構成員または国家自体に保障された自由・権利を侵害することを「狭義の犯罪」BlEとし、さらに、国家は、警察規定によって'その目的に間接的に奉仕しうるが故に、「それ自体としては違法とはい(2)えない行為を禁止し」'その不服従を「警察違反」とすることができると考えたのである。しかしながら、権利侵害
を防止することが'国家の目的であり、この目的に間接的に有効であるにせよ、単なる警察違反を処罰しうることの
根拠は薄弱であるといわなければならない。1八二二年バイエルン刑法典総則第二条一‑三項は重罪・軽罪を規定
し、その四項は、「それ自体としては国家または構成員の権利を侵害するものではないが、法秩序及び法的安定に危
険を生じさせるが故に刑罰によって禁止または命令される作為または不作為」があるとして'「警察違反」を規定し
たのであった折),フォイエルバッハ自身は、この点につき明確ではなかったといわなければならないのである。即(4)ち、刑法典総則二条四項と違って、「危険」惹起を処罰根拠にするという発想は明示されていないのである。
にも拘わらず、フォイエルバッハは、涜神や賭博のほか、多‑の性犯罪を「警察違反」にすぎないと考えようとし
ただけである。フォイエルバッハの「権利侵害」とは、個人に保障された「主観的な権利の侵害」に限定され、「客(5)観的な法秩序の危殆化」への配慮に欠けるといわざるをえないのである。これでは、フォイエルバッハの「教科書」
(754) 法益侵害 と行為無価値の諸問題
ll
(6)の補訂に当たったミッテルマイヤーやビルンバウムの批判に曝されたのは、当然であったといわなければならない。
二さらに、フォイエルバッハは、国家も一個の「個人」としての自由・権利を有していると考えた。国家が独立
した権利(主権)をもち、その作用として立法・司法・行政の権能を有することには、現在では仝‑異論はない。ま(7)た'国家は肉体をもたないが、「心をもつ人(mo
ra Lis ch e Pe
rson)」であるというとらえ方も充分可能であろう。しかし、その権利が'一個人に固有の権利(主観的権利)と相違する点がないという主張には、到底賛成できない。
勿論、国家は一個人を超越した存在だからではない。国民のための国家だからである。国民個々人が'みずからの自
由・権利を全うして人倫的完成への道程を確実に歩み続けることができるように、側面から支援する任務を負うのが
現代国家であ‑、国家の作用なのであるから'そこには、個人の自由・権利の総和のための独自の権能が与えられて(8)しかるべきなのである。(9)このような観点からするならば'フォイエルバッハが、「内乱罪」を「殺人罪」に対比するかに窺われるのは、す
でに形式的に妥当でなかったといわなければならない。内乱罪は国家の主観的権利に対する「殺人罪」ではな‑して'(10)国家の客観的権利、即ち主権に対する反抗としての「国家危険罪」なのである。\目し偽証罪のとらえ方に関しても、深刻な問題がある。フォイエルバッハは'偽証罪を「欺同罪」の一種としての「形(12)式的暖昧犯罪」とみた。そして、欺同罪の中に詐欺・文書偽造・偽証などを算入した。ローマ法のファルスゥム
(fa ‑su m )
であり、まさに「暖昧犯罪」である。何に対する犯罪かではな‑して、どのような方法による犯罪かという角度からの区分にすぎず'「傷害」・「侮辱」を含む包括的なインユリア
(in ju r ia )
などと同様、行為態様の共通(9)性に止冒しただけの分類方法に依存することによる「暖昧犯罪」なのである。したがって、何に対する犯罪なのかを吟味することによって、「暖昧犯罪」ではな‑なるといって過言ではないであろう。そして、実はこの点にこそ、フォイ
12
神奈川法学第40巻第3号 2007年
(755)
エルバッハの暖昧さが窺われるのである。
ミッテルマイヤーは、フォイエルバッハが偽証罪を「個人に対する犯罪」としてとらえようとしたとして、強‑非(14)難した。しかし'フォイエルバッハは、これを「個人的犯罪」として「暖昧犯罪」だとしたのか'「公的犯罪」とし
て「暖昧犯罪」とみたのかは、明確ではない。フォイエルバッハは、公的犯罪と私的犯罪を一括して「一般的犯罪」
と呼び、これに実質的暖昧犯罪・形式的暖昧犯罪の二種類を「暖昧犯罪」として1括対置し、これらに加えて「警察(15)違反」を位置づけようとしていただけだからである。つま‑、フォイエルバッハにとって'偽証罪は公的犯罪として
暖昧なのか、私的犯罪として暖味なのかは不明なのである。
そもそもフォイエルバッハにと‑、欺同罪としての「偽証罪」は、証人等が義務に反した欺岡手段を弄することを
通して'民事事件または刑事事件における係争関係者等に、民事上の不利益(損害)または刑事上の不利益(刑事処(16)分等)を与える点に特徴をもつ犯罪であった。人に民事上・刑事上の不利益を与える点を強調するならば、それは'(17)ミッテルマイヤーが指摘していたように、まさに私人の主観的権利を侵害する犯罪とされるが'欺岡手段が向けられ
るのが、裁判所等の公的機関であることを強調するときには、ミッテルマイヤーの主張する「公の信義誠実義務違反」(18)としての「公的犯罪」ということになるであろう。しかし、裁判所等の主観的権利が害されるのか、司法権に危険を
与える犯罪なのかは、依然不明瞭であるといわなければならない。放火罪が、「財産上の権利に対する公共危険的侵(19)
害罪」とされていた当時の状況とのつなが‑においても'極めて深刻な問題なのである。しかし'フォイエルバッハ
は、放火罪を「暖昧犯罪」とはみなかったことを付言しておきたい。
三以上のように眺めてきたところからするならば、フォイエルバッハの当時は、予防主義的警察国家からの脱却
と自由主義的法治国家確立への志向の強さの余‑、個人の主観的権利侵害のみを強調する犯罪観に傾‑結果とな‑、
(756) 法益侵害 と行為無価値の諸問題
ために、主観的権利保護を支える客観的法秩序保護への配慮を欠き、人倫・風俗を完全に刑法の外にお‑と共に、国(20)家の客観的権利としての司法権等をも軽視する風潮が高まることになったものといわざるをえないのである。犯罪と
警察違反の分離、涜神・公然濃秦のとらえ方'暖昧犯罪としての偽証罪の位置づけなどにみられるフォイエルバッハ
の姿勢は、このような見地でこれを理解する必要があろう。加えて、たとえば'窃盗罪では、「所有権そのもの」は(21)喪失しないのに、窃盗罪は、なお「所有権侵害」の故に処罰されるのである。「主観的権利侵害」の意義も再検討さ
れてしかるべきであろう。ビルンバウムの「法益侵害説」拾頭の準備は'このようにして整備をされたのである。
ビルンバウムは、「権利そのもの」は仮‑に滅失するようなことがあったとしても、その代償は必ず回復されるべ(22)きであ‑、「生来の権利」か「取得された権利」かの区別も重要ではないと考えたものと思われる。すべては'「法」
によ‑承認された人間の「生活利益」なのである。「主観的権利」とは、「客観的権利要請」に由来するというヒッペ(23)ルの正当な指摘は、すでにビルンバウムのものであったといわなければならない。
さらに、ビルンバウムは'「権利」以外にも保護に値する「生活利益」は多々存在するとして、人倫的価値・風俗(24)感情を掲げ、特にカロリナ刑法典九条の「女性の名誉侵害」を挙示したことである。宗教犯罪もまた、当然に(25)「犯罪」なのである。「警察違反」にとどめようとしたフォイエルバッハの態度は修正されたのである。すでに、ミッ
テルマイヤーも、ビルンバウムのこのような考え方を支持していただけにとどまらず'「性犯罪の処罰」は法の基礎(26)をなす「風俗」保護のための国家の義務であると明言するに至ったのである。
加えて、ビルンバウムは、「権利」の「危殆化」という表現も適切さを欠き、権利の対象たる「生活利益」を「危(27)険に曝す」という表現が安当であると考えた。かようにして'犯罪とは「国家権力によって、すべての人に平等に保(28)13障された利益(Gut)を、人間の意思に帰責しうるかたちで侵害し、あるいは、これを危険に陥れること」であると
14されたのである。ビンディング、リス‑、ヒッベルなどが、これを前提として「法益侵害としての犯罪」を確立しょ(29)うという努力を傾けたわけである。
神 奈川法学第40巻 第3号 2007年
(757)
(‑)A.vIFeuerbach.LehrbuchLtAuft.Si12tf.(2)A.V.Feuerbach,LehrbuchLLAuf1.%.22.(3)AnmerkungenfiirBaiern,Bd.(,S.68ff..79f.(4)勿論、フォイエルバッハも、「危険性」という観念を無視したわけではない。しかし、所為の「危険性」・「有害性」は、「権利
侵害」ではな‑して内面的義務違反として「神の刑罰」を受けるべき「不品行((mmoralitat)」にすぎなかったのである(A.V.
Feuerbach,Revision.Bd.Ⅰ,S.65f.).しかし、これでは「不品行」すら'「警察違反」とすることはできないであろう。「警察違
反」は、やはり「市民社会」に危険を与えるものとしてとらえられるべきであるoR.vIHippe1.Strafrecht.Bd.Ⅰ.S.297;Th.
Wurtenberger,DasSystemderRechtsgtiterordnunginderdeutschenStrafgesetzgebungL933,Neudruck,)973,S.2)9ff.22).(5)R.V.HippeI.Strafrecht,Bd.(.S.ll.41Anm.4.5.296ff1.300f,307Anm.3;Th.Wu
r
tenberger.System,S.22):内田・概要上巻二五頁注(9)0(6)Feuerbach・Mittermaier.Lehrbuch.)2AuA
N
otezu款2),)6).303,N
ote4zurゆ448.432.449こ.M.F.Birnbaum.Archiv.N.F.)834.S.)49ff")74ff.(7)A.V.Feue
rbach.Lehrbuch,ttAufl.扮.23.(8)内田文昭・刑法各論︹第三版︺(平八)四二頁以下、五九三頁以下、同・「特別刑法の体系」内田・刑法研究l巻(平二)六五頁以下'101頁以下Oさらに'内田・概要上巻二二貫以下.なお、Th.Wtirtenberger.System.S.22).(9)A.V.Feuerbach,Philosophisch=juridischeUntersuchungLiberdasVerbrechendesHochverraths,)798,S.43ff.)8f.
(10)フォイエルバッハも'内乱罪の「絶対的に最高度の危険」を肯定してお‑(A.V.Feuerbach,RevisionderGrundsatzeund
Grundbegriffe,Bd.戸1800,S.23))'‑ミッテルマイヤ1も、内乱の未遂と既遂の区別を指摘しているが(Feuerbach・Mittermaier,Lehrbuch,)2AufI.妙.)68a)、「侵害」の必要性に触れることはないのであるOなお、後出'Ⅱ・J・(≡)荏(28)。