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<翻訳> F.H.ヒンズリー『権力と平和の模索 : 国際関係史の理論と現実』1963年(XIX)

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≪翻訳≫

F.H. ヒンズリー『権力と平和の模索

――国際関係史の理論と現実――

』1

3年(

"!)

F.H. Hinsley, Power and the Pursuit of Peace : Theory and Practice

in the History of Relations between States(C.U.P., 1963)

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テイラー氏はドイツには政策(policy)があったことを否定しない。ヒトラー が綿密な行動予定計画を持っていたか否かという点に関しては,ヒトラーは「世 界の支配者となるべく……第一次世界大戦以降一貫して大戦争を計画的に準備し

ていた」16)という指摘は,テイラー氏が思い込んでいるとは異なり,一般に受け

入れられている見解ではない。この種の見解を抱懐している歴史家[例えば,ヒ

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ち込まれることになる。ビスマルクがそうであったように,ヒトラーには厳密な 意味での計画はなかったのであるから――実際,政治家は例外なく「個別具体的 な問題の対処に気を遣い過ぎるために,予め立案した計画を遂行する余裕がなく なる」21)ということは否定出来ないのだが――,16年以降の危機的状況に関す る限り,そのいずれについてもヒトラーが引き起こしたとは言えない。また,誰 かが危機的状況を引き起こしたに違いないのであるから――政治家とは否応なく 常に決断を迫られざるを得ない存在であると考えるテーラー氏は,すべての具体 的な問題は誰かの決断の結果であり,「誰かのイニシアティヴの結果として生起 して来たに違いない」22)という固い信念の抱懐者である――「危機的状況を利用 する機会をヒトラーに提供し,かくして戦争への最初の一押し[さらには,その 後の二押し三押し,原注]を与えた人物を,我々はどこか他のところに捜し求め なければならない」と言うのである。23)彼によれば,オーストリアの併合を巡る 危機的状況に際しては,危機醸成のイニシアティヴを執った人物は二人いたこと になる。一人はウィーン駐在ドイツ大使のフォン・パーペン(Franz Joseph von Papen, 1879―1969)[ナチス政権成立直前のドイツ首相,その後ナチスの下で副首相等を歴任。

カトリック右派としてナチスとは一線を画しながらも,その老獪な外交手腕を買われヒトラーに 重用された。戦後,ニュルンベルク裁判で訴追されたが,無罪判決を受けた。訳注]で,彼が オーストリア首相シュシュニック(Kurt von Schuschnigg, 1897―1977)[ドルフー

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を押すことになる一連の政策の第一段階であったが,しかし,彼はこの段階へと 意識的に踏み出したわけではなかった。」24)さらに,テイラー氏は,17年11月

のホスバッハ覚え書(Hossbach Memorandum)[陸・海・空軍の予算の割り当てを巡

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国内における宥和政策の不人気にそれなりの役割を果たし,その結果として,「世 界大戦へとなだれ込む道に手を貸した」ウォルター・ランシマン(Walter Runci-man, 1st Viscount Runciman of Doxford, 1870―1949)[イギリス自由党,後に国民自由

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て低下し,反対に,全面戦争への決意が以前にも増して強くなる。ソ連との中立 条約を締結したヒトラーの行動を,土壇場で戦争の回避を願った行動と捉える向 きもあるが,しかし,これは東西両戦線での同時進行的な戦争を回避するための 行動であった。中立条約の締結というソ連への譲歩をヒトラーが為し得たのは, その譲歩を武力によって遠からず回復する計画を事前に立てていたからに他なら ず,また,他の列強諸国がソ連に対してドイツと同様の譲歩を行えなかったのは, ソ連の要求する譲歩を一時的な譲歩に過ぎないと捉えることの出来る国家だけが, ソ連への譲歩を厭わないという状況にあったからである。 第一次大戦直前の危機的状況とは大きく異なる第二次大戦の危機的状況の結果 として,「戦争状態に至ったことはまったくヒトラーの期待に反することであっ た」とテイラー氏が結論付けることが出来たのは,上述の事実及びその他の歴史 的事実を無視して初めて出来ることである。我々が歴史的事実に則して最大限許 される発言は,ヒトラーが,彼の期待が如何なるものであったかに拘らず,自ら とヨーロッパを戦争へと引きずり込んで行ったということであり,国家間の不均 衡状態を侵略目的のために利用するという政策からの転換を,彼自身が拒絶した ことに原因があるということである。 <第15章了>

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(27) Ibid .71,151―53,170―71. (28) Ibid .70.

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たのかどうか疑問視するようになった。 このような過程を辿って来たということと同時に,他方では,決定事項の執行 機関として,総会が適正な機能を果たせないということもあって,1950年代末以 降,総会が安保理からある意味において「簒奪」して来た権能を,本来その権能 を担うべき国連の執行機関に戻そうとする動きが見られるようになった。ところ が,未だ相互に対立する中で,協調する姿勢を示すことが出来ない安保理に戻す という選択肢が排除され,国連事務局(Secretariat)――国連という組織の「内 閣」(Cabinet)には程遠く,謂わば「公僕としての行政執行機関」(Civil Service) に過ぎない――に執行権限を預けるという道を選ぶことになった。スエズ危機に 即応するという名目で,総会決議に基づき創設された国連緊急軍(United Nations Emergency Force,略称 UNEF。総会決議第998(ES―1)号,第1000(ES―1) 号及び第1001(ES―1)号)[第二次中東戦争の際,国連事務総長ダグ・ハマーショルド(Dag

Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld, 1905―61)のイニシアティヴの下で,国連の平和維持活動の一 環として創設された。訳注]が中東に派遣され,2年間余に亘り駐留したこと,さら には,1960年に勃発したコンゴ危機[ベルギーからの独立後,第一次コンゴ共和国の時

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連盟がそうであったように,国連は不信にまみれ,瓦解の道を辿ることになろう。

<第16章了>

1)J.L. Brierly, ‘The Covenant and the Charter’, in British Year Book of International

Law(1946).

参照

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