ギリスの自治体共同墓地の運営
著者 久保 洋一
雑誌名 社会科学
巻 42
号 2‑3
ページ 145‑170
発行年 2012‑11‑30
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012909
1887 年ダービー市の日曜埋葬問題
─ 19 世紀後半イギリスの自治体共同墓地の運営 ─
久 保 洋 一
19 世紀後半イギリスのダービー市においてほぼ唯一の墓地である自治体共同墓地を 運営したのは,市を構成する 7 教区が連合して設立した埋葬委員会であった。1887 年 に墓地の敷地を荒らした公開葬儀を契機に埋葬委員会は,日曜埋葬の制限を「上から」
検討し始めた。聖職者を中心とした制限の強硬な支持派が,安息日の理念との調和,そ して日曜日の職務との兼ね合いから制限を達成した。彼らに葬儀屋と葬儀の簡素化を 求める人が穏健な支持派として協力した。しかし制限に反対する活動が「下から」活 性化し始めた。制限の強硬な撤回派である友愛協会は,加入者の不満を吸い上げ,再 三に渡って制限撤回を表明する会合を開催し,撤回を求める陳情文を埋葬委員会に提 出した。制限の穏健な撤回派は労働者と納税者であった。労働者は市の基幹産業であ る鉄道労働者として度々引き合いに出された。納税者は制限撤回を求める候補者を埋 葬委員に教区会で選出した。経済力によって限定されるも利用者による「下から」の 動きで撤回派の委員が過半数を占めるようになった埋葬委員会は,「上から」課せられ た日曜埋葬制限を撤回した。
は じ め に
19 世紀イギリスの都市では多くの共同墓地(cemetery)が建設された。共同墓地は先 行した教会墓地と対照的な点が多い。共同墓地は,教会墓地が都市内に点在したのに対 して郊外に立地し,面積も教会墓地に比べると広かった。
共同墓地に関する研究としてジェームズ・スティーヴンズ・カールの先駆的な研究が ある1)。カールは 19 世紀の墓地に関する主要な項目を取り上げ,共同墓地に関しては民 間の著名な墓地の建築上の意義を論じている。しかし民間共同墓地に関する研究として 画期をなすのはジュリー・ラグによる研究である2)。ラグは,民間共同墓地の建設が集中 している 19 世紀前半にそれがどのような動機で建設されたのか網羅的な調査を行い,主 たる建設動機を宗教差別解消,投機,衛生確保の三つに分類した。ラグ以降の民間共同墓 地に関する研究では,建設だけでなく運営にまで対象時期を拡大しつつ特定の墓地を取
り上げる研究が相次ぐ。スーザン・バッカムはヨークの民間共同墓地を取り上げ,埋葬 されている故人の生前における階級,宗派など,社会的な地位と墓石との関係を検討し,
子供の墓でのみ埋葬された者と墓石の形状との間に有意な広がりがあったと言う3)。アガ サ・ハーマンの研究では,1852 年に開設したブルックウッド民間共同墓地は,ロンドン の死者を一手に引き受けるための広大な土地確保と,田園共同墓地の理想の双方を実現 するために,ロンドンの中心から 25 マイルの遠方に位置した4)。しかし埋葬された者は 期待された中流階級と上流階級ではなく貧民であった。その割合は 8 割にも達したので,
この墓地をハーマンは「貧民共同墓地(pauper cemetery)」と呼ぶ。この墓地は理想と 現実の差が顕著であった。
民間共同墓地に続く新たなタイプの共同墓地が,1852 年の改正首都埋葬法と同法を全 国に適用した 53 年の改正全国埋葬法(以下では両法を併せて埋葬法と略記)で建設され た。また埋葬法は 1875 年までに教会墓地を中心に 3,000 ヵ所を越す墓地の埋葬を停止さ せるため,新たな共同墓地は代替墓地の役目を果たすべく,その数が 76 年には 619 ヵ所 にも達した。墓地の建設と運営にあたった埋葬委員会(burial board)は,19 世紀後半 に都市に相次いで設置された水道やガスの供給など特定の目的を遂行した公的な委員会 の一例である。埋葬委員会は,埋葬法の規定で救貧制度が独立して機能している市,教 区連合,教区,分教区(町区)の各当局によって設置された。これらの設置者を総称す るため自治体(municipality)という言葉を使う。これは,水道やガスの供給事業が「自 治体による事業(municipal enterprise)」と呼称されているのに準拠するからである5)。 従って自治体が設置者となる共同墓地を自治体共同墓地と呼ぶ。自治体共同墓地の建設 については全国とリヴァプール教区を例として,この墓地で国教徒の墓地と非国教徒の 墓地が可能な限り並立すると拙稿で論じた6)。
1850 年代に埋葬法によって設置された埋葬委員会は墓地建設後,その運営に携わっ た。1894 年と 99 年の二つの地方自治法によって新設された地方当局が埋葬委員会の後 を継ぐまで,半世紀近くも埋葬委員会は活動した7)。しかも前述したように救貧制度が 独立して機能している当局であるものの,市,教区連合,教区,分教区(町区)のいず れかの当局によって埋葬委員会は設置されたため,頻繁に組織上の位置に差異が生じた。
従って検討する時期と地域で生じた問題も異なるであろう。本稿では埋葬委員会が運営 した墓地が都市のどのような時間と空間の中に位置付いていたのかを論じるべく,日曜 埋葬(Sunday interments)つまり日曜日の埋葬を取り上げる。文脈によっては日曜葬儀
(Sunday funerals)つまり日曜日の葬儀と言うこともある。日曜埋葬であれ日曜葬儀で
あれ当時は互換的であり,ほぼ同義と見なされたために,本稿でもこの用例に倣う。
まずは日曜埋葬が 19 世紀後半のイギリスでどのような時期と地域で問題となったのか を把握したい。ブリティッシュ・ライブラリーが所蔵する新聞を基にしたデータベース British Newspapers 1600-1900 を利用することで,日曜埋葬問題に関する多くの記事を 入手できた。日曜埋葬問題が地元新聞を中心に新聞各紙に掲載された 17 の都市(年)を 五十音順に列挙する。ただし問題への言及が些細な記事の都市は省いた。
ウェスト・ハートリプール(1873, 74, 79)8),エクセタ(デヴォン,1875)9),サウ ス・シールド(1879)10),ダービー(1855, 72, 87)11),ダーリントン(1873-75)12), チョーリー(1866, 67)13),ニューカースル(1872, 85)14),バーミンガム(1870, 72)15),ハンリー(1877)16),ビショップ・オークランド(1884, 92)17),ブライト ン(1872)18),ブリストル(1882)19),プレストン(1866)20),ポーツマス(1868-70, 81, 84)21),リヴァプール(1857, 63, 65-67, 71, 96)22),ロングトン(1873, 78)23),ロ ンドン(1853, 60, 61, 73, 75, 91)24)。
日曜埋葬問題は,イングランド最北の州ノーサンバーランドのニューカースルから最 南の州コーンウォルに隣接した州であるデヴォンのエクセタにまで広がり,その発生時 期は 1850 年代から 90 年代までに及ぶ。限定的な調査ながら日曜埋葬問題は特定の時期,
地域に収斂しない。議会資料や全国新聞『タイムズ』が特定の時期に全国で日曜埋葬問題 が広がっていたことを伝えたこともほとんど無い。法律上も自治体共同墓地における日 曜埋葬は規定されることがなかったため25),埋葬委員会の自主的判断に問題解決は委ね られた26)。この自主性のため,特定の時期と地域に集中しないで日曜埋葬問題は広がっ たのである。
日曜埋葬問題に立ち入る前にイギリスの日曜日の歴史について言及したい。イギリス は,都市住民が農村住民を統計値上初めて上回る 1851 年のセンサスが象徴するように,農 業社会から都市社会へと 19 世紀に変容した。人口の中心の移動は社会制度の変更を伴っ た。農事暦に従って労働日と休日を決定した農村住民とは違って都市住民は,工場の稼働 日に準じて週日を労働日に,週末を休日に充てた。都市住民の数的優位は彼らの生活サ イクルの全国への普及を意味した。土曜日,日曜日以外の休日は 19 世紀には急速に減少 した。「1808 年には合計 44 日あったイングランド銀行の日曜日以外の休業日は,1834 年 には 4 日」に減少し,この傾向は都市の外にも拡大し,「農業労働者の場合,日曜以外で
休めるのはクリスマスとグッド・フライディの 2 日間だけであった」27)。「そして 1867 年 の土曜半休制度の全工場への拡大」により,週末を休日とする傾向がより強調された28)。
都市人口の増加を背景とした非労働時間としての日曜日の成立に加えて,日曜日は安 息日遵守運動(sabbatarianism)との関わりで,15 世紀中葉から 20 世紀中葉までその過 ごし方に関する論争が闘わされ29),関連する複数の法律が制定された30)。論争で対立し たのは,「日曜日は完全に礼拝,説教,聖書黙読といった宗教的行為に捧げられるべき」
としたサバタリアンと,「宗教・世俗の両機能を充足すべきである」としてサバタリアン に反発した人々である31)。サバタリアンを構成したのは急進的なプロテスタントであり,
その代表は 17 世紀にはピューリタン,18 世紀と 19 世紀には福音派とノンコンフォーミ ストであった。特にピューリタンの遺産として「日曜日の労働と娯楽が神の意志に反する という心性」がイギリスでは根付き,その結果「祝祭的気分のみなぎる「大陸の日曜日」
と対比され,イギリスを訪れる外国人の目に奇異に映った暗鬱な「イギリスの日曜日」は 18 世紀に始まる」32)。
非労働時間と安息日との接点として位置する日曜日に実施された埋葬が,前記の記事 内容の分類から明らかなように,多くの地域と時期で問題となった。なかでも本稿では ダービー市における 1887 年の問題を取り上げる。他の例と比べて諸勢力の関係が明確に 出てくるからである。日曜埋葬問題に関する唯一の先行研究であるリヴァプールに関す る拙稿との比較によって,自治体共同墓地の理解の深化も期待される33)。
ダービー市の人口は 1851 年のセンサスによると 43,684 人であった。埋葬委員会は市を 構成する 7 教区が連合して 53 年に結成された。51 年のセンサスによる人口順に並べた 7 教区の名称はセント・ピーターが 13,702 人,セント・アークムンドが 11,918 人,セント・
ウォーバーグが 10,482 人,オール・セインツが 4,396 人,リトチャーチが 1,720 人,セ ント・マイケルが 1,036 人,リトル・チェスターが 430 人である。人口は最多のセント・
ピーター教区の 13,702 人から,最少のリトル・チェスター教区の 430 人まで,かなりの 開きがあった。しかしこれらの 7 教区から均等に 9 人ずつ選出された計 63 人が埋葬委員 会の委員となった。埋葬委員会は 55 年に墓地を市外のチャデスデンに開設し,この墓地 は隣接する道の呼称に因んでノッティンガム・ロード墓地と呼ばれた34)。同様の方法で 命名されたアトクスター・ロード墓地は民間共同墓地として 1843 年に建設され35),それ を埋葬委員会が委員会の設立直後に購入し,ノッティンガム・ロード墓地と併せて管理 していた。ただし本稿で扱う墓地は明示しない限りノッティンガム・ロード墓地である。
ダービー市の人口は 1851 年の 43,684 人から,81 年には 81,000 人,1911 年には 115,000
人へと増加した36)。70 年代の市域拡大で市の人口は,71 年のセンサスによれば 50,000 人から 61,000 人に増加した。19 世紀後半における唯一のこの市域拡大を差し引いても,
この時期の市の人口は一貫して増加していた。死者数も全国での増加傾向と同様であろ う。イングランドおよびウェールズでの 5 年毎の死者数は 18 世紀末に 100 万人を超過し,
1848-52 年に 211 万人に達し,1898-1902 年に 280 万人の頂点に達し,これ以降に急激に 減少した37)。いわば 19 世紀後半はイギリス史上死者が最も多い 50 年であるため,ダー ビーを含む人口が急増した都市では死者はさらに多かったであろう。
死者が多い 19 世紀の都市では世紀前半には民間によって,世紀後半には自治体によっ て共同墓地が建設された。都市の総埋葬数に対する割合は,例えばレディング,ノーサ ンプトン,ヨークといった都市で民間共同墓地が 1850 年前後に半数程度を占めた38)。自 治体共同墓地では,その建設が多くの教会墓地で埋葬が停止された後であるため,都市 の総埋葬数に対する割合はさらに高かった。例えば 1879 年 5 月にシェフィールド町区の 自治体共同墓地では,町区における一年の死者 2,538 人のうち 2,000 人が埋葬されると見 積もられた39)。つまり 19 世紀が進むにつれ都市における死者は,教会墓地から共同墓地 へ,共同墓地でも民間より自治体の墓地に埋葬される割合が高くなったのである。その ために立地先の社会関係を最も写し出すのが自治体共同墓地である。ダービー市の自治 体共同墓地も 69 年には遺体の埋葬先が不足するほど利用されたため,墓の再調整によっ て埋葬先が確保された40)。日曜埋葬問題も埋葬先としてこの墓地が盛んに利用されたこ とに関連する。
1 日曜埋葬制限へ
日曜埋葬は 1887 年 1 月のダービー市の埋葬委員会の会合で問題になった41)。事の発端 は,ある日曜日の公開葬儀で大勢の見物人がノッティンガム・ロード墓地の敷地を荒ら したことであった。W・マーウッド牧師によると「葬儀の実施が日曜日に許可されなけ れば,この問題は解消する」。問題検討のために特別会合を翌月に開催することが決まっ た。
埋葬委員会が検討を始めた日曜日の埋葬は確かに数が多かった。この墓地における 1885 年の埋葬数は土曜日が 202 件,日曜日が 284 件,月曜日が 120 件であり,86 年もそ れぞれ 223 件,268 件,113 件であった42)。いずれも日曜日の埋葬数は前後の曜日に比し て多い。埋葬委員会が管理したもう一つの墓地,アトクスター・ロード墓地では 85 年と
86 年に各 9 件の日曜埋葬が実施された。埋葬数から明らかなように問題とされた日曜埋 葬はノッティンガム・ロード墓地におけるものである。67 年から 71 年の間も年平均埋葬 数は,土曜日が 129.4 件,日曜日が 248.4 件,月曜日が 53.8 件であり,日曜日の埋葬数が 前後の曜日を大きく上回った43)。55 年の墓地開設直後も日曜日には葬儀参列者,訪問者 が絶えなかったために,開設から 2 ヶ月後の 7 月には埋葬委員会は,午後 2 時から 5 時ま でとしていた日曜日の開園時間を夏期は 1 時から 8 時までに,冬期は 1 時から 5 時まで に拡大した44)。つまりこの墓地は開設されてからほぼ一貫して日曜日の埋葬数が前後の 曜日と比べて多いのである。リヴァプール教区の自治体共同墓地でも日曜埋葬が問題と なった 60 年代,埋葬数は週のうち最多が日曜日で45),日曜日の埋葬数と他の曜日の平均 埋葬数の割合は 3 対 1 であった46)。しかし多いといってもダービーのこの墓地では 1 年に 300 件に満たない日曜埋葬は平均すると 1 回の日曜日に 5 から 6 件である。これはリヴァ プール教区の自治体共同墓地での 35 件と比べると少ない47)。ダービーの墓地ではその数 の多さだけが問題理由であるとは考えにくい。
2 月 24 日の特別会合で先に不満を述べたマーウッド牧師がまず提議した48)。「ダービー の埋葬委員会が管理する共同墓地では日曜日にはいかなる埋葬にも実施許可を与えな い。例外は感染症のケースであり,全てのそれらの遺体の埋葬は午前 8 時 30 分から 9 時 30 分までに実施すべきである」。埋葬委員は相次いで牧師に賛意を示し,日曜埋葬の制限 を要求した。その中でW・ラスベリーはある日曜日に行われた「志願兵の葬儀」を紹介 し,その際に「多くの人が被害を被っている」とした。公開葬儀の典型が兵士の葬儀であ り,先の会合でマーウッド牧師が不満としたのはこの「志願兵の葬儀」であった。一方,
葬儀屋が制限を求める陳情文を司会のE・H・アブニー牧師が紹介した。「もし我々がい つもの仕事を求められないような日曜日を持てたら,それは馬車の御者,棺を運ぶ人,葬 儀で何らかの手伝いをする人といった様々な立場で我々が雇う必要のある人に多大な恩 恵となろう」。E・コランベルも「日曜日には,聖職者と牧師は日曜礼拝という別な仕事 を行うよう求められている」として制限を求めた。
日曜埋葬の制限を求める根拠としては兵士の葬儀による混乱,そして葬儀屋と聖職者 の日曜日の忙しさがあった。一方で日曜日の葬儀が許可されないなら,貧しい労働者が 週日の労働時間を葬儀の時間に転用せざるを得なくなるために,経済的損失を被ると複 数の委員は危惧の念を示した。特に代表的なのがシドニー・バートン・エケットであり,
彼はマーウッド案に対抗する修正案を示した。その要点は,第一に日曜日の大規模な葬 儀によって被る敷地の被害を防ぐ規則を作成すること,第二に敷地の被害,秩序の乱れ
に繋がりかねない兵士の葬儀を軍,警察,市当局,民衆の協力で統制すること,第三に 労働者の便宜のために日曜埋葬を制限しないことであった。
一方,労働者が制限に肯定的だと牧師を中心とした委員が異議を唱えた。「多くの労働 者と交流のある」W・H・テトリー牧師は「日曜埋葬制限に労働者は無関心」,更には「埋 葬委員会の財産保護」の観点から,墓地を保護するため日曜埋葬を制限すべきであると 述べた。W・ナイト牧師は労働者の「家族で葬儀は稀」であると主張した。
こうして労働者による日曜埋葬を中心に埋葬委員が対立するなか,マーウッド案とエ ケット案で採決が行われた。まず挙手に付されたエケット案は 7 対 30 で採用されず,続 くマーウッド案は圧倒的多数の支持を得て採用され,日曜埋葬の制限が決定した。残る 手続きは制限開始日を翌週の会合で決定するだけとなった。今回の会合ではさらに土曜 日の葬儀用の時間を 3 月から 9 月の夏期が 2 時から 6 時までに,10 月から 2 月の冬期が 2 時から 4 時までに設定することが提議され,その承認も翌週に持ち越された。
日曜埋葬制限の決定には直ちに反応があった。早くも 24 日の決定当日の夜に,友愛協 会の一つアンシャント・フォレスター会(Ancient Order of Foresters)のダービーのあ る支部が会合を開いた49)。参加者は埋葬委員会が日曜埋葬制限を決定したことに驚きと 懸念を示し,支部代表による半年に一度の総会でこの問題を検討すると決めた。
相互扶助を目的に近代イギリスで結成された友愛協会は,会費を払うほぼ男性の加入 者とその家族が失業,疾病,老齢,死亡などで困窮している際に,彼らに経済的援助を 行った50)。その組織は全国型と一地方型に大別される。全国型である先の協会は加入者 が抱いた日曜埋葬制限への不満を代弁したようだ。ではどれくらいの人の見解を友愛協 会は代弁したのだろうか。ダービー市の加入者総数は不明であるものの,他の都市の状 況から類推できる。日曜埋葬問題が 1870 年代に発生したダーリントン市でも友愛協会が 日曜埋葬制限に強く反対した。制限に反対したある市会議員によると,「ダーリントンは 複数の友愛協会を有している。それらは全体で約 4,000 人の会員を持つ。4,000 人のうち 3,000 人は既婚男性である。既婚男性 1 人が 5 人の家族を代表するとして計算すると,そ の時 15,000 人,つまりこの都市の人口の約半数がその 3,000 人によって代表されている」51)。 人口が 3 万人のダーリントン市で 3,000 人の既婚男性が友愛協会に加入したなら,市民 10 人に 1 人が加入し,総加入者数の 4,000 人という値を取れば,市民 7.5 人に 1 人が加入し たことになる。一方,1872 年の友愛協会に関する王立委員会の調査によると,人口 2,271 万人のイングランドおよびウェールズで友愛協会の加入者数は 407 万人なので,国民 5 人 に 1 人程度が加入したことになる52)。この割合は,ダーリントン市における市民 7.5 人に
1 人という値まで上回る。そのため友愛協会は,ダービー市でもダーリントン市と同程度 以上の加入者数があったと想定できよう。少なくとも人口の半数程度を代表する友愛協 会の広がりを背景に,ダービー市では複数の友愛協会が日曜埋葬制限に繰り返し反対を 表明することになる。
2 月 24 日の特別会合について 3 月 2 日付の地元新聞『ダービー・マーキュリー』紙は 詳報しただけでなく,関連記事も複数掲載した。その内訳は投書 4 通と社説であり,投 書のうち 3 通は匿名で,残り 1 通は実名が記された。実名が記された投書は埋葬委員エ ケットによる 2 月 26 日付のものである53)。彼は 24 日の特別会合が終わって直ぐ筆を執 り,特別会合で示した自案の妥当性について書いた。「日曜日の兵士の葬儀において秩序 を維持し,損害を防止するため警察の協力を求めた」のは,「かなりの損害があった最近 の兵士の葬儀で警官が二人しかいなかったためだ」。そこでエケットが「我が州の首席警 察官代理のローソン氏」に助力を要請すると,ローソンは「共同墓地の管理人から求め があれば,秩序を守るため,より多くの人員を派遣すると確約した」。エケットの投書は 彼の案が特別会合で否決されたにも関わらず,その案に沿って彼が行動したことを意味 する。この行動によってエケット案の実現可能性が高いことを彼は読者に訴えかけた。
エケットが問題視した兵士の葬儀に関してはこの墓地の管理人の証言がある54)。「日曜 日には通常 400 人か 500 人がこの共同墓地を訪問した。兵士の葬儀は日曜日であろうと,
週日であろうと,大抵 2,000 人位の見物人を迎えた。過去には 1 万人にも達したことも あった。日曜日における訪問者が多いため,その混雑は週日を遥かに凌いだ」。この証言 は 72 年 9 月に記録されたため,87 年の時点とは事情が違うかもしれない。しかし公開葬 儀の一つとして兵士の葬儀の人気が高かったのは分かる。
日曜日に兵士が埋葬されることが法によって定められたのかどうかは不明である。た だし国教会の教会における日曜礼拝のために教会まで兵士が行進をすることは,17 世紀 の内乱の頃から 1946 年まで法によって定められた55)。従って日曜日に兵士が教会に現れ ることは珍しくはなかったため,教会への行進とそこでの礼拝に併せて,兵士の埋葬も 教会に隣接した墓地,つまり教会墓地で実施するという慣習ができ,これが自治体共同 墓地に持ち込まれたのかもしれない。
匿名の投書 3 通のうち日曜埋葬制限に 2 通は反対し 1 通は支持していた。反対した 2 通 のうち 1 通は,制限撤回への支持文書を,エケット案に投票した埋葬委員 7 人に更なる 尽力のために送付するよう読者に求めた56)。
同じく制限に反対した匿名の投書 1 通は,「最大多数の最大善」の原則に従って人口の
大半を占める貧しい労働者のために日曜埋葬の継続を求めた57)。特に日曜日の葬儀での 手伝いは「貧しき者のために貧しき者によって常に提供されている」。しかし日曜埋葬が 制限されたら,埋葬は平日に行われるため,この自発的な無料の援助が難しくなり,「葬 儀屋が有料の棺担ぎ人とアシスタントを提供することになり,葬儀にかかる費用は現在 よりはるかに多額になろう」と懸念を示した。
日曜埋葬は葬儀屋が一手に引き受けていたわけではなかった。リヴァプール教区にお ける 1860 年代の日曜埋葬の調査報告書でも,調査に答えた葬儀屋は「反物商人ではない」
と明記された58)。葬儀屋を兼業する者がいたのである。「反物商人」以外にも日曜埋葬が 葬儀屋ではなく「行商人,八百屋,床屋など」によって主体的に遂行されたことを 71 年 に指摘した葬儀屋もいた59)。葬儀屋はそのとき,「葬儀業専門家協会」なる葬儀屋の一団 が日曜埋葬の制限をロンドンの各埋葬委員会に求める集会に参加していた。葬儀業の専 門団体ができるほどにまで葬儀の専門化,商業化が進んだ巨大都市ロンドンでも,葬儀屋 による葬儀の掌握が十分ではないからである。この状況と 16 年後つまり 87 年のダービー 市の事情との間に大差はなかったであろう。葬儀屋による葬儀の掌握が十分ではなかっ たとの指摘は 19 世紀中葉の地方小都市に関してもある60)。従って日曜埋葬制限は,葬儀 屋が休日確保に加えて葬儀業を他の人々から遠ざけ掌握する方策でもあった61)。
一方,日曜埋葬制限に賛成した匿名投書の 1 通は,労働者階級が葬儀に際して「頻繁 に不必要な装飾を施し浪費をしている」と問題を指摘し,労働者の節約のために制限を 求めた62)。特に日曜日に「大勢の友人と隣人とが集う機会が,もしくは友愛協会か志願 兵の葬儀のための機会が提供され続ける限り,抗い難きこの飾りつけと支出への誘惑が 発生する」。
この投書からは日曜日の葬儀として個人の葬儀と兵士の葬儀に加えて,友愛協会の葬 儀があったことが窺える。友愛協会は葬儀で加入者を経済的に支援するだけではなかっ た。協会の団旗を掲げ会員を葬列に参列させるなど,故人が協会の加入者であることを 明示した葬列を作った。この明示性を「不必要な装飾を施し浪費をしている」とこの日 曜埋葬の制限支持者は批判した。1860 年代に日曜埋葬が問題となったリヴァプール教区 でも,日曜埋葬の制限を求めた人物は,友愛協会が日曜埋葬を支持する理由を 2 点指摘 している63)。まず友愛協会の一種で支援を埋葬に特化した埋葬協会は,日曜日の葬列が
「他の曜日以上に注目される」ためにその宣伝効果を当てにした点である。次に埋葬協会 が葬儀屋に葬儀を依頼することで得られる手数料は,多くの人と道具の動員ができる日 曜日の葬儀の方が週日よりも高額になった点である。埋葬協会は労働者を主たる加入者
としてイギリスで 19 世紀を通じて成長し,97 年には人口 3,116 万人に対して 470 万人,
つまり国民 7 人に 1 人が加入した64)。91 年に人口 94,000 人となるダービー市では 87 年 に 38,700 人が加入したダービー埋葬協会(Derby Burial Society)だけで加入者割合が市 民 2.5 人に 1 人程に達し,この割合は全国の割合を大きく上回るので,埋葬協会が関与す る葬列はダービーではより頻繁に目撃されただろう65)。
これらの日曜埋葬制限への賛否両論を記す投書を掲載した地元新聞『ダービー・マー キュリー』紙は,同日の社説で埋葬委員会の働きを評価しつつ注意を喚起した66)。「聖職 者だけでなく共同墓地で働く人と葬儀屋も日曜日の余分な仕事から解放したいのは,十 分理解しうる。しかしこの解放を実現しようとする際に,より大きな階級に苦しみが付与 されないように配慮すべきである」。さらに「埋葬委員会はダービーの人がいつ埋葬でき るかを決めたいま,どのように埋葬すべきかを考慮するために時間を少しでも割いて欲 しい」と社説は論じた。「葬儀を葬儀屋の見せ物にするという愚かで不快な習慣を放棄す べき時が近いのではないか」と記したように,社説は昨今の葬儀,特に葬儀屋の関与する 葬儀に批判的な見解を抱いていたからである。19 世紀中葉から末期にかけて,中流階級 と上流階級が葬儀を簡素化させたのに対して,労働者を中心とした下層階級は,自らが会 員となった埋葬協会の発達にあるように,彼らなりの葬儀への拘りを示し続けた67)。こ の社説は,「大きな階級」の労働者階級に配慮しつつ,葬儀の簡素化を進めるために,ま ず葬儀屋に干渉しようとした。
日曜埋葬制限に関する支持派,反対派の見解が示されるなか,埋葬委員会の特別会合が 予定通り 3 月 3 日に開催された68)。この会合では前回提議された土曜日の葬儀の時間に ついて承認し,ついで日曜埋葬制限の開始日を決定する予定だった。まず事務員が前回の 会合から今回の会合までに受け取った書簡,陳情文などを慣例通り紹介するなかで,複 数の友愛協会から提出された日曜埋葬制限に反対する陳情文も紹介した。続いて制限に 反対していたエケットも同様の陳情文を紹介した。この議事進行にテトリー牧師は,「今 回の会合が既に言及した目的のために召集されている」と抗議した。これ以降,日曜埋 葬制限に反対して制限を一旦延期し再考を求めた委員と,制限は既に決定しているとす る委員とが対立するも,制限決定は覆らなかった。そして土曜日の葬儀時間に関する前 回の特別会合での提案が承認された。
その後は日曜埋葬の制限開始日について議論が交わされた。制限に反対する者が制限 開始日までしばらく期間を措き,6 月の第 1 日曜日である 5 日を開始日として提案した。
これに対して制限を支持する者は 10 日後と間近な 3 月の第 2 日曜日,13 日の開始日を提
案し,採決で後者が採用された。
こうして開始日まで決まった日曜埋葬制限はダービー市に限らない。各地の埋葬委員 会の調査によると,早くも 1860 年代にロンドンとその周辺,さらにイングランドの 6 都 市,そしてウェールズとスコットランドのほぼ全域で日曜埋葬が規制されていた69)。70 年代にはイングランドの 20 都市以上に制限都市が増え70),ロンドンの共同墓地 20 箇所 のうち 17 か 18 箇所で規制されていた71)。80 年代には調査対象の 50 都市のうち 40 都市 で規制された72)。つまり日曜埋葬が制限される都市が増加しつつある時期に,ダービー 市の埋葬委員会でも制限を導入したのである。
2 日曜埋葬制限への抗議
ダービー市では,市の二つの自治体共同墓地で日曜埋葬の制限が開始日まで決まった にも関わらず,制限に対して抗議が続いた。例えば前述したアンシャント・フォレスター 会のダービーの別な支部は,共同墓地で日曜日の葬儀を制限することを「狭量な安息日 遵守主義」として 3 月 12 日の会合で厳しく批判した73)。さらにマーウッド牧師とテト リー牧師による,「日曜日の葬儀に労働者が大挙するのは全くの興味本位からだ」との主 旨の発言に抗議した。同じ頃にやはり有力な友愛協会のオッドフェロー大連合会(Grand United Order of Oddfellows)のダービー支部も,四季会で「本会は埋葬委員会による日 曜埋葬制限に抗議する」との決議を採用した74)。
日曜埋葬制限への抗議活動はさらに続いた。3 月 18 日の夕方にはギルドホールで納税 者が市長に要求した抗議集会が「非常に多くの出席者」を迎えたなか開催された75)。
議事では日曜埋葬制限への批判が相次いだ。アルバート・ソープは聖職者が制限を求め た理由を三点に整理した上で反論した。つまり「日曜日の葬儀による墓地への損害」を 防止するという理由には,「当局に損害の重要性を知らせ」,埋葬委員会と当局で損害へ の対策をまず講じるべきだと応じた。次いで「全くの興味本位」から日曜日の葬儀に参 列しようとする者を墓地に入らせないためという理由には,聖職者が参列者を誤解して いると反論した。三番目の「共同墓地で働く人々に不都合である」という理由には,「少 数者の快適さと便宜は多数者の利益に常に従属する」として優先順位を間違えないよう にと制限に反対した。
ソープは制限後に発生するであろう問題にも言及した。「ダービーには鉄道に関係する 人が多い。もし鉄道会社が日曜日以外の曜日に従業員を休ませたら,鉄道で移動する人々
に危険が生じるだろう」76)。
ダービー市内に本社を置くミッドランド鉄道会社が,市内に住む労働者を 1878 年には 5,000 人,91 年には 10,290 人も従業員として雇用していた。市の人口は 81 年が 81,000 人,
91 年が 94,000 人であった77)。5 人 1 家族の世帯を基本単位とすると,市には 16,200 人か ら 18,800 人の既婚男性がいたことになる。つまり約半数の既婚男性が鉄道業に従事した ため,市の鉄道への依存度は高い。
ソープに続きH・ペンバートンも,埋葬委員の選出方法に不満を述べる陳情文が約 12,000 人の署名入りで提出されたと述べた上で,提議した。「埋葬委員会は,ダービーの 人々にひどく敬意を払わなかったことが明らかになった。埋葬委員会と協議し,かの決 議を無効にするように要求する委員会が任命されねばならない」。この案は満場一致で成 立し,13 人からなる代表団が埋葬委員会と交渉するために設立された。
その後の議論でも聖職者への不満が噴出した。ジェームズ・メーザーズは共に制限を先 導したマーウッド牧師とテトリー牧師を批判した。とりわけ後者が「多くの労働者と交 流のある」と言ったことに,「彼は自分の言動を理解していない」とメーザーズは批判し た。一方,市会議員フォスターによると日曜埋葬制限の後に,聖職者であって「埋葬委員 会に従事している 10 人のジェントルマンは,直ちに埋葬委員のような世俗の仕事を辞め るだろう」。聖職者は制限を達成するだけでなく,制限決定直後に埋葬委員を辞すことで,
制限への批判も巧みに回避するのではないかとフォスターは疑った。W・ロウ市会議員 は,制限が決定した会合で「埋葬委員会に属す全ての国教会の牧師と非国教徒の牧師が,
日曜埋葬制限を支持した」と聖職者が制限の強硬な支持派であることを明らかにした。
3 月 22 日には,全国型友愛協会のオッドフェロー・マンチェスター連合(Manchester
Unity of Oddfellows)のダービー支部が会合を開催した78)。日曜埋葬制限が多くの不便,
特に労働者への不便をもたらすので撤回を求める動議を採用した。
日曜埋葬制限への抗議活動が盛り上がるなか,4 月 7 日に埋葬委員会の会合が開催され た79)。まず幾つもの友愛協会から提出された制限に反対する陳情文を事務員が紹介した。
彼はさらに,エケットを含む埋葬委員 3 人から提出された制限撤廃を視野に入れた特別 会合開催を求める通知を読み上げ,それは 4 月 18 日に開催の運びとなった。事務員は 3 月 18 日の抗議集会で任命された代表団が埋葬委員会との会合を要求している手紙も読み 上げ,この代表団を 4 月 18 日の特別会合に迎えることが同意された。
その後の議論では,まずテトリー牧師が友愛協会からの反発や抗議集会での批判に耐 えかねて発言した。第一に「多くの労働者と交流のある」という発言に関しては,2 月の
特別会合には「病や難問に遭遇している労働者を訪問し,また労働者が亡くなった時には 彼らを埋葬する」,「多くの国教会の聖職者と数名の非国教徒牧師が」居合わせた。そこ で「労働者の代理人が私の判断ではその存在感で際だっている」と述べたに過ぎなかっ た。つまりテトリー牧師が労働者と実際に密な交流があったわけではなく,労働者と直 接交流のある多くの聖職者が特別会合に同席していたことを牧師は示唆しただけであっ た。第二に日曜埋葬制限の「問題を埋葬委員会の財産保護の問題とみなす」という発言 に関しては,一般論として「一部の人は日曜日に全てを休みにしようとする」。それは財 産を保護する権利として認めうる。しかし,この一般論から墓地を日曜日に休園する問 題を正当化したわけではないと牧師は抗弁した。第三に「人々が全くの興味本位から日 曜日の葬儀に参加している」との発言も否定した。テトリー牧師は,2 月の特別会合で,
兵士の葬儀の秩序を軍と警察の協力で維持しようというエケット案を問題にした。兵士 の葬儀で「人々が全くの興味本位で動き回っている」とき,その大勢の人々に干渉しよ うと軍とこの都市の治安当局が協力をしても,役割を巡って対立しかねないことに牧師 は危惧を表明したというのである。
ナイト牧師も聖職者への批判に関して発言した。彼は,テトリー牧師と違い「人々が 全くの興味本位から日曜日の葬儀に参加する」ことを特別会合で指摘したと認めた。そ れに該当する葬儀として,牧師は喉を切って自殺したある人物の葬儀を紹介した。その 自殺方法は他の点で有名だった故人をより有名にしたため,見物の容易な日曜日の葬儀 には多くの群衆が殺到した。「それは大いに非難されるべき全くの興味本位」からでた行 為であると牧師は批判した。牧師は 18 世紀末以来の伝統あるロマン化された自殺の人気 を問題視していた80)。
4 月 12 日には友愛協会オッドフェロー・ダービー・ミッドランド連合団(Derby Midland United Order of Oddfellows)が四季会を開催した81)。ダービーの各支部から代表が出席 し以下の決議文を採択し,埋葬委員会に送付した。「本会は日曜日の葬儀に共同墓地を利 用させないという埋葬委員会の行為を非難する。この自治都市の納税者の権利を擁護す るためにこの都市の他の協会と協力することを誓う」。
埋葬委員会の特別会合が予定通り 4 月 18 日に開催された82)。まず,3 月 18 日に開催さ れた,日曜埋葬制限に抗議する会合で任命された代表団 13 人から意見が聴取されること になった。13 人のうち 8 人は肩書きないし所属組織も判明している。まず市会議員 2 人と 以下の 4 つの友愛協会から 1 人。友愛協会連合医療組合(Amalgated Friendly Societies Medical Association),オッドフェロー・ロンドン団(London Unity of Oddfellows),そ
して既出のダービー埋葬協会とオッドフェロー・マンチェスター連合である。残りの 2 人 はダービー協同組合(Derby Cooperative Society)とミッドランド鉄道会社からである。
まず代表団の一員である市会議員のクレメント・バウリングによると,「これらの公開 される葬儀は一般に兵士の葬儀である」。そのうち「正規兵(army)と民兵(militia)は 日曜日には埋葬されないので,日曜埋葬への警告は志願兵に関係する」ものである。日 曜日に開催された「軍旗護衛下士官エヴァンズの葬儀に集まった人々は,全くの興味本 位から参列したとかつて批判された。これは全く見方に問題があって,現にその葬儀に 私も参加した」。「葬儀参加者の行動には不適切もしくはおかしな点は全くなかった」。だ から私は「20 年以上同僚であった志願兵らを弁護し,共同墓地で近くにいた人々を擁護 することができる」。ただし志願兵の葬儀で「何千もの人が統制なしに共同墓地に集まっ た時には損害は避けられない」。「しかし埋葬委員会は検討対象から兵士の葬儀の問題を 全く外したようだ。というのも私はブキャナン大佐から手紙を受け取ったからだ。大佐 はそこで,自分の役目であるなら,特別な状況を除いて,埋葬委員会の同意の上で兵士 の葬儀を土曜日など日曜日以外の曜日に実施する用意があると書いている」。つまり埋葬 委員会は上級兵士と協議し,兵士の葬儀を日曜日以外に移すことができたにも関わらず,
そうしなかっただけでなく,日曜埋葬も制限したことをバウリングは問題にした。
バウリングの次にアルバート・ソープが発言した。ソープは既に 3 月 18 日の抗議集会 で積極的な発言をして制限に反対していた。彼は,「住民が見解を表明できる機会となる 10 月の埋葬委員の選出まで,今回の過激な対策を少なくとも実施しないで欲しい」と要 求した。
ジェームズ・メーザーズはミッドランド鉄道会社の労働者代表として発言した。「鉄道 会社の同僚の葬儀に参列する機会を埋葬委員は持つべきだ」と迫った。埋葬委員が鉄道 業に従事する者の葬儀に不案内だと言うのであった。
市会議員のジョージ・フォスターは代表団の権威を著名な団体の代表が参加している ことで示した。彼によると,38,700 人の会員を持つ伝統あるダービー埋葬協会と,労働 者階級のエリート 5,500 人が属すダービー協同組合からの代表が代表団にいた83)。二つの 団体はダービーにおける有力な団体だった。
代表団が退出した後は埋葬委員が議論を始め,制限の撤回を次々に求めた。T・ロウ下 院議員によると「15 年前,日曜埋葬の問題がある委員会によって調査されたとき,私は日 曜日の葬儀は維持されるべきと提議した。そしてこの案は多数の支持を得て成立した」。
今回も「もし埋葬委員会がこの権利を奪う予定であることが事前に広く知られていたら,
埋葬委員会が熟考の上でこの都市の問題について別な見方をするように迫る発言があっ たはずと私は強く思っていた」。しかし制限の提案から実施までの期間が短く,人々の意 見は求められなかった。そこで彼は,「少なくとも今回の問題は次の埋葬委員の選出まで 結論を出さずにいるべきであると考える。故に 2 月 24 日の決議は無効にされるよう提議 する」。
W・ロウ市会議員もこの無効決議を支持した。彼は日曜埋葬制限が始めて議題に上がっ たときから制限案が抵抗を受けると予想していた。その抵抗は日曜埋葬を埋葬委員会が 制限した原因と,制限が議題に上り決まるまでの過程とに由来していると考えた。前者に 関してロウは,軍旗護衛下士官エヴァンズの葬儀に多くの人が集まったせいで墓地に損 害が発生したことを理由に,「日曜埋葬が制限されることは馬鹿げている」と語った。と いうのも「エヴァンズの葬儀に際し,ある埋葬委員がその葬儀の広告を出し人々の注意 を引きつけて大勢の人の興味を喚起した。そして,その結果は非常に多くの人が一斉に 集まり,その群衆を統制する人がいなかったために,幾ばくかの損害が発生したのであ る」。制限支持派による画策をロウは疑っていた。一方,日曜埋葬制限が議題に上り決定 されるまでの過程に関して彼は,「労働者階級の家族は中流,上流階級の家族より一般に 大きい。だから葬儀がより多く開催される。加えて労働者階級は他の階級よりかなり人 口も多い。従ってこの問題に関して意見を求められる権利がある」と言った。
無効決議を同じく支持したJ・W・ニューボルドによると「鉄道会社で雇用されている 非常に多くの人は,土曜日の夜は遅くまで仕事を終えられず,かつ月曜日の朝早くには 出社しなければならない。その上,従業員は重大な事故で亡くなった仲間の遺体に墓ま で付き添うことを好む」。だから日曜埋葬制限は,日曜日以外に葬儀に参加することが困 難な鉄道労働者から,その参加機会を奪うとニューボルドは問題にした。
こうして立て続けに日曜埋葬制限への反対が続くなか,制限支持を表明したE・R・
グッドヘッドによると「日曜埋葬という権利がかつては必要であった。というのは労働時 間がかなり長かったからだ。しかし今や,労働者階級は土曜日の午後に休みを確保したの で,それはさほど必要ではない」。さらに「共同墓地で働く人と葬儀屋の従業員は,その 仕事に就いたとき,日曜日に働く必要があると分かっていただろう」という指摘にグッド ヘッドは反論した。「どんな労働者がこんな主張をするのか」と驚いた彼は,「数年前には 労働者の主張は,労働者が短時間労働を求めるのを妨げるようなものではなかったのに」
と労働者としての主張の一貫性に疑問を投げかけた。1870 年代,80 年代には労働者,特 に鉄道労働者は 9 時間労働日のスローガンを掲げた労働運動を展開した84)。ダービーは
ミッドランド鉄道会社の本社があることで労働運動の一つの拠点となった。この労働運 動の激しさを意識してグッドヘッドは発言したようだ。しかもダービーでは早くも 1830 年代には,鉄道の敷設作業と運行を日曜日には認めないことを求めた安息日遵守運動が 活発化していた85)。バース,ヨークでも同様の運動があり,これらの都市は他に先行し た。短時間労働運動と安息日遵守運動の歴史あるダービーで,日曜日の労働を巡って両 運動に不和が生じているとグッドヘッドは危機意識を抱いたのである。
同じく制限を支持したラスベリーは,代表団がダービーで有力な団体が中心となって いるものの,労働者の見解を正しく代表しているのか疑問を呈した。そして「とにかく 一年間は日曜埋葬制限を試行してみよう」と提言した。
さらにテトリー牧師も,日曜埋葬制限に反対する代表団と埋葬委員による主張が説得 力に欠けると考え,この対立を打開すべく修正案を提議した。「2 月 24 日に到達した決定 を 12 ヶ月間試行して,その期間の終了時にまだ納税者が埋葬委員に全く反対しているこ とが判明すれば,埋葬委員は辞任しよう」。
W・H・ホイストンは,制限が聖職者と葬儀屋には望ましいが労働者には望ましいとは
言えないと苦しい立場を表明した。もっとも「今後は日曜日に兵士の葬儀は行われない と人づてに聞いた。きっと他の問題に関しても,制限決議が無効になった後でも,人々 は言われたことに気を配りその権利を乱用することはあるまい」と語り,制限支持派に 一定の配慮をした上で,日曜埋葬を実施できるとの見通しを示した。
そこで妥協案が示された。「テトリー牧師の修正案は満場一致で採用されるべきであ る。ただし何らかの不便がまだ解消していないと判明したら,埋葬委員会が全ての問題 を再考するという条件付である」。この案を複数の埋葬委員が次々と支持した。
T・ロウも妥協案を支持しつつ,「テトリー牧師が修正案を 12 ヶ月から 6 ヶ月に変更す るなら,それに全ての集団が満足するだろう」と語った。この修正をテトリー牧師は受 け入れた。こうして日曜埋葬制限の支持派と撤回派が一致点を見出すことになり,対立 していた両派の埋葬委員も和解した。
司会のアブニー牧師は「埋葬委員の選出は 9 月 29 日から 1 ヶ月以内に実施される。新 たな埋葬委員は初会合を 11 月 3 日に開く予定である」と指摘した。今回の会合の開催日 は 4 月 18 日なので,予定した試行期間が明ける 6 ヶ月後は 10 月中旬であった。新たな 埋葬委員が初めて参加する会合が 11 月 3 日に開催されるために,その日に今回の制限の 試みを継続すべきか決しようと牧師は想定した。これらの議論を踏まえた最終的な妥協 案が提議された。「埋葬委員会は日曜日の葬儀に関する 2 月 24 日の会合で到達した決定
を次の 11 月 3 日まで試行する」。この動議は成立し散会した。
こうして日曜埋葬制限が 11 月 3 日まで試行されることになった。今回の妥協案の成立 後は制限に反対する動きはほぼ沈静化し,埋葬委員を選出する時期が到来する。
3 新埋葬委員
ダービー市の埋葬委員会を構成する 7 教区の教区会で,9 名の埋葬委員のうち任期が切 れる 3 人の後任が選出されることになった。後任を決める教区会は 10 月の第 2 週に 5 教 区で,第 3 週に 2 教区で実施された。
10 月 13 日のオール・セインツ教区の教区会には大勢の参加者があった86)。任期が切れ る埋葬委員 3 人のうち 2 人は再選を希望した。2 人は規定通り,推薦人と支持者を各 1 名 確保して立候補し,新人 3 人も同様の手続きを経て立候補した。日曜埋葬制限の撤回を新 人 3 人が求め,継続を現職 2 人が求めるという新旧対立の構図であった。挙手で撤回派 の 3 人は 50 人,49 人,48 人の支持を得た。一方継続派の 2 人は 23 人,17 人であった。
この結果,撤回派の 3 人が選出される予定になった。しかし敗北した継続派 2 人の支持 者が投票による選出を要求し,投票は 15 日に実施予定となった。教区会における埋葬委 員の選挙制度は納税者による挙手と投票を併用した。挙手が 1 人 1 票制であるのに対し て,挙手で敗北した側の要求で実施される投票は,投票者の納税額に従って票が付与され る複数投票制であった87)。しかも挙手と投票で結果が異なる場合には,投票による結果 が挙手による結果に優越した。15 日に実施された投票の結果は,撤回派の 3 人が 281 票,
276 票,254 票,継続派の 2 人が 255 票,236 票だった。撤回派の 1 人が継続派の 1 人に 1 票差で敗れたため,挙手の時とは異なる結果が示された。挙手に対する投票の優越から,
埋葬委員には撤回派 2 人,継続派 1 人が選出された。
リトル・チェスター教区も 13 日に納税者が参加する教区会を開催した88)。任期の切れ る埋葬委員 3 人に代わって,日曜埋葬制限の撤回を求める 3 人を埋葬委員にアーサー・
ベーカーが推薦し,支持者も確保した。ベーカーによると,人口 9 万人のダービーでは ミッドランド鉄道会社に勤務している 1 万人だけが「時間単位で給料を受け取っている」
89)。他の多くの労働者は,週日のうちのある曜日に葬儀に参列したなら,時間単位で給 料を受け取れないため,一日分の給料を失っただろう。しかし日曜埋葬が実施できれば,
日曜日は勤務日でないため,この損失が避けられるとベーカーは考えた。制限撤回派 3 人 の埋葬委員への任命案は満場一致で可決された。
リトチャーチ教区も大勢の参加者を迎えるなか 14 日に教区会を開催した90)。推薦人は 現職の制限撤回派 2 人に加えて,現職の制限継続派 1 人に代えた撤回派の新人 1 人を擁 立した。撤回派 3 人の任命案は満場一致で可決された。
セント・ピーター教区は,10 月 15 日に「これまでのほんの数人の参加ではなく大勢の 参加があった」なか教区会を開催した91)。埋葬委員選出への関心を日曜埋葬問題は喚起 したようだ。現職の 3 人が退任するため制限撤回を求める新人 3 人を,既にミッドラン ド鉄道会社の労働者代表として代表団に加わり制限を求めていたジェームズ・メーザー ズが推薦した。推薦された 3 人は満場一致で埋葬委員に任命された。
セント・アークムンド教区も多くの納税者が参加するなか 10 月 15 日に教区会を開催し た92)。任期が切れる 3 人にダービーを離れることで辞任する 1 人を加え,後任 4 人が選 出されることになった。再選を望んだ現職の 3 人に加えて新人 5 人も立候補した。日曜埋 葬に関する内訳は,現職 3 人は継続が 2 人と不明が 1 人で,新人 5 人は撤回が 4 人と中立 が 1 人であった。中立で司会の牧師補は,「埋葬委員に選出されても,この問題では中立 でいたい」と語った。この判断は制限を求める牧師としての立場と,制限撤回を求める教 区民への教区牧師としての配慮という,両義的な牧師補の立場を自覚したものであった。
挙手で日曜埋葬制限の撤回を求める 3 人と中立の牧師補が埋葬委員に選出された。
セント・マイケル教区は 10 月 20 日に教区会を開催した93)。「非常に多くの参加があっ た」。任期が切れる埋葬委員 3 人は再選を望み立候補し,全員が日曜埋葬制限の撤回を求 めた。一方で制限の継続を求める 3 人も立候補した。挙手によって撤回派の 3 人が 30 人,
29 人,29 人から支持を得た。その一方で継続派の 3 人は全員が 20 人から支持を得た。撤 回派の 3 人が再選されることになった。しかし敗れた 3 人が投票実施を求めたため,そ れが認可され,投票は 22 日に実施された。結果は撤回派の 3 人が 106 票,105 票,98 票 を,継続派の 3 人が 54 票,52 票,49 票を得たため,挙手の結果と同じ撤回派の 3 人が 再選された。
セント・ウォーバーグ教区は 10 月 22 日に教区会を開催し,5 人の候補者が立候補し た94)。日曜埋葬制限の撤回を求める 3 人が挙手で 79 人,76 人,75 人から支持され,継 続派 2 人が 18 人と 14 人に留まったため,撤回派 3 人が選出された。
結局ダービー市の埋葬委員会を構成する 7 教区会から新たに選出された埋葬委員の内 訳は,日曜埋葬制限の撤回派が 20 人,中立派が 1 人,継続派が 1 人であった。明らかな こととして,教区会に参加した多くの納税者は日曜埋葬制限の撤回を支持した。
新埋葬委員が埋葬委員会の会合に初参加したのは,予定通り 1887 年 11 月 3 日のこと
だった95)。問題であった日曜埋葬の議論が再開した。W・ロウ市会議員は 4 月 18 日に可 決された決議,「埋葬委員会は日曜日の葬儀に関する 2 月 24 日の会合で到達した決定を 次の 11 月 3 日まで試行する」決議を無効にする動議を提出し,それは成立した。
しかしナイト牧師はロウに対抗すべく修正案を提議した。「日曜埋葬制限を決議するに 到った原因と同種のスキャンダルを再発防止する十分良い手段が実施されない限り,埋 葬委員会は日曜埋葬を共同墓地で再開しない」。ナイト牧師は「数年前,周囲を囲む群衆 によって墓穴に落とされそうになり」,墓前で「一度ならず悲しみに暮れている人が,群 衆によって相応しい位置からわきへ追いやられたこと」を覚えていた。牧師はこれらの
「スキャンダルは取り除かれるべき」と強調した。
一方「墓前でのスキャンダル」に関して,防止策が取られつつあることにグッドヘッ ドは一定の評価を下した。「日曜日にはどんな兵士の葬儀も二度と実施しないことを,志 願兵を代表して市会議員バウリングが約束した」からである。
当のバウリングは 4 月の特別会合に日曜埋葬制限に抗議した代表団の一員として参加 していた。さらに 10 月にはセント・アークムンド教区の教区会で埋葬委員に新たに就任 したため,今回の会合には埋葬委員として参加した。撤回派のバウリングは,ナイト牧 師とグッドヘッドら継続派以上に「墓前でのスキャンダル」の防止に努めることを強調 した。
ナイト牧師はこれらの議論と方策を評価し,自身が提議した修正案の必要性が減じて いると認識したため,修正案を撤回した。
こうして日曜埋葬制限の継続派が制限を求める一つの原因は解消したため,日曜埋葬 再開の声が表明され始めた。日曜埋葬を制限した「過去 6 ヶ月を経て,共同墓地の入口 は納税者の意向に従って日曜日には開放されるべき」。さらに「誰も責任のなすり合いに 腐心すべきてない。日曜日の葬儀に反対していた人は,世論がそれに反対しているとい う事実をほぼ示させた。埋葬委員会はW・ロウの動議を全会一致で可決すべきである」。
日曜埋葬制限を無効にすべきだとする論調が支配的となった。W・ロウの動議がT・ロ ウの提案で修正された。「先の 2 月と 3 月に開催された会合で可決した決議が今後は無効 にされる。共同墓地はそれらの決議が可決される以前と同様に日曜埋葬に利用できる。か つて効力を持っていた規則が直ちに復活させられる」。採決を経て本案は成立した。しか し全聖職者を含む 3 分の 1 の埋葬委員は賛否を示さず,中立のままで,会合は散会した。
4 比 較
ダービー市の自治体共同墓地を運営したのは,市を構成する 7 教区が連合して設立し た埋葬委員会であった。1887 年の埋葬委員会は兵士の葬儀を契機に日曜埋葬を「上から」
制限を試みた。聖職者を中心とした日曜埋葬制限の強硬な支持派が,安息日の理念との調 和,そして日曜日の職務との兼ね合いから制限を達成した。彼らに葬儀屋と葬儀の簡素化 を求める人が制限の穏健な支持派として協力した。しかし制限に反対する活動が「下か ら」活発化し始めた。制限の強硬な撤回派である友愛協会は,加入者の不満を吸い上げ,
再三に渡って制限撤回の会合を開催し,撤回を求める陳情文を埋葬委員会に提出した。制 限の穏健な撤回派は労働者と納税者であった。労働者は市の基幹産業である鉄道労働者 として度々引き合いに出された。納税者は制限撤回を求める候補者を埋葬委員に教区会 で選出した。結局,撤回派の委員が過半数を占めるようになった埋葬委員会は日曜埋葬 の制限を撤回した。
日曜埋葬問題を巡るダービー市のこのような動向の意味をより明確にすべく,日曜埋 葬問題を論じる先行研究が取り上げたリヴァプール市の場合と比較してみよう96)。
リヴァプール市の中心地区であるリヴァプール教区の自治体共同墓地でも,1860 年代 に日曜日は埋葬数が多かった97)。まず日曜埋葬による問題の解決に埋葬委員の中心メン バーであるサミュエル・ベネス・ジャクソンは取り組んだ。彼は衛生医務官が提唱した 遺体安置チャペルに注目した。日曜埋葬を含む複数の要因に基づく「遺体の家での保管」
が接触伝染病を拡大していると考えられた。拡大を軽減するために,貧しいアイルランド 人が多く住む地域に,「遺体の家での保管」を防ぐ遺体安置チャペルを建設することを,
衛生医務官は求め,ジャクソンも支持した98)。
日曜埋葬の禁止こそが「遺体の家での保管」を解消でき,接触伝染病を抑制できると の指摘が相次ぎ始めた。同時に葬儀屋と聖職者という日曜埋葬を実施する人々の一部が,
日曜日に多くの葬儀を実施する忙しさから解放されるために日曜埋葬の禁止を求め始め た。彼らの不満を,ジャクソンが中心となって作成した日曜埋葬の調査報告書の中で質 問に答え,聖職者と葬儀屋がほぼ半数ずつを占めた 90 人も共有した。日曜埋葬が「遺体 の家での保管」の主因であると考えたジャクソンと,日曜埋葬が日曜日の過労に繋がっ ていると考えた聖職者と葬儀屋とでは,日曜埋葬を禁止ないし制限する点では同じだっ たけれども,その目的が異なった。
調査報告書での結論を武器にジャクソンは,リヴァプール市全域での日曜埋葬の制限
を試みた。市とその近郊にある共同墓地の代表者が勢揃いした会合で彼は,「遺体の家で の保管」と「遺体の家への移動」を接触伝染病の拡大原因として問題視した。「遺体の家 への移動」では,貧しき者が入っている施設において接触伝染病で死去した場合に,その 遺体が持ち帰られた家で新たな感染者を出すことが危惧された。しかし「遺体の家への 移動」は法による規制が困難であることが判明したため,規制をジャクソンは断念した。
ただし日曜埋葬の午前 9 時までの制限には成功した。その結果リヴァプール教区の自治 体共同墓地では日曜埋葬が減少した。
日曜埋葬制限はリヴァプール市と近郊の共同墓地で一斉に実施された。例外はカト リック専用のフォード民間共同墓地であった。ここは市内最大の共同墓地であるリヴァ プール教区の自治体共同墓地を上回るカトリックの埋葬者数を誇っていた。つまりジャ クソンが日曜埋葬制限の主たる対象とした貧しきアイルランド人は,フォード民間共同 墓地を利用できたために,日曜埋葬を制限されず,結果として彼らによる「遺体の家で の保管」は許容された。
日曜埋葬問題がリヴァプール教区では埋葬を制限して決着がついたのに対して,ダー ビー市では埋葬委員会による埋葬の制限が覆った。この結末の違いはどう考えるべきだ ろうか。
リヴァプール教区の自治体共同墓地における日曜埋葬制限は,複数の共同墓地が至近 距離に並立したので,アイルランド人を主とした日曜埋葬をフォード民間共同墓地へと 集約させた。加えてアイルランド人は,その貧しさ故に友愛協会と埋葬委員の選挙権と を持たないだけでなく,カトリック教徒の集団であったため,特定宗派の意向が反映し にくい埋葬委員会に見解を届けることも困難であった。
リヴァプール教区における動向とは逆に,ダービー市の自治体共同墓地では埋葬委員 会による日曜埋葬制限をその利用者が「下から」撤回させた。制限を求めた者が聖職者 と葬儀屋であるのはリヴァプール教区と同様である。ただし「遺体の家での保管」の問 題は出てこない。加えてダービー市では,ノッティンガム・ロード墓地が市内の埋葬を ほぼ一手に引き受けたため,利用者には他の埋葬先が乏しく,そのために公開葬儀もこ の墓地で実施された。しかしリヴァプール教区の場合と異なり,ダービー市の利用者は,
会費を支払い加入する友愛協会と一定の担税力と引き替えの選挙権とを有したため,埋 葬委員の多数派を日曜埋葬制限派から撤回派へと入れ替えることに成功し制限を撤回さ せた。
リヴァプール教区とダービー市では,利用できる共同墓地の数と,利用者が埋葬委員