日本か らみた韓半島の古代木塔
l■箱 崎 和 久
1.は
じめ に2.方
形 木塔l■の規 模 と柱 間寸 法3.望
徳 寺 木塔 の規 模 と形 態4.帝
釈 寺 木 塔 の 基 壇5.八
角 塔 の規 模 と構 造6.お
わ りに要
旨
韓回における古代寺院址の盛んな発掘調査 によって明 らかになった成果 をもとに、 日本建築 史の観点か ら木塔址 を比較・検討 し、その上部構造 について考察 した。 日本 と韓国の方形木塔 は、基壇 規模や柱配置はほぼ共通す るが、百済の木塔址 については柱 間寸法が不明である。 日本の法隆寺建築の 源流が百済 にあるとすれば、柱 間寸法が等 間でない木碁址 が今後発見 され るだろ う。 『三国史記』 に
「高十三層」 と現れる慶州の望徳寺木塔 については、規模が小 さいために否定的な見解 もあったが、 こ れ よ り規模 の小 さな 日本の談山神社十三重塔が存在す ることを勘案すれば、積極的に十二重木塔 とみて 復元考察す る必要がある。金正守 による復元案 は、構造 的・意匠的にただちに受け入れがた く、古代 十三重木塔 の復元 にあたっては、十三重木塔の特質 を究明す る必要がある。基壇の高大な益 山の帝釈寺 木塔 については、 日本の多賀城廃寺が類例 にな りうると考 え られるものの、その 目的が明 らかでない。
高句麗 を中心 とす る八角木塔 は、基壇の実面積 は大 きい。ただ し建物規模 を想定すると、方形木塔 の一 辺 と同程度 と推定 される。現存す る人角木塔 は中国の応県木塔 と日本の安楽寺八角二重塔のみだが、安 楽寺 は比較的規模 の小 さな八角塔 に用い られた構造 と考 え られるのに対 し、応県木塔の構造 は規模 の大 きな木塔 に適 した構造で、高句麗の木塔址 はほぼ安楽寺 の構造で復元が可能 と考えられる。 日本の法勝 寺八角九重塔 は応県木塔の構造 と考えられ、実現 しなかった西大寺八角七重塔 は、時代的・規模的にみ てその判断がむずか しい。
キーワー ド
方形木碁
望徳寺
十三重塔
帝釈寺
八角塔
奈良文化 財研 究所
都 城発掘調査部
1.は じめ に
近 年、韓 国で は古 代寺 院l■の発掘 調査 が盛 んで、 次つ ぎに新 た な成果が上が ってい る。
その なかで2009年度 に は、 『韓 中 日古代寺l■比較研 究
(1)一
木塔l■編 ―』1(以
下 「資料集」 と略す
)が
完 成 し、韓 国 ・北 朝鮮 の木塔址 16箇 所 、 中 国2箇
所 、 日本 が7世
紀 を中心 とす る40箇 所 につ い て、基壇規模 や建物規模、基壇構 築法 、心礎 な どにつ いて デー タが収 集 ・整 理 され た。 また、 巻 末 に は3国
の遺構 を概 観 した考察 が加 え られていて、7世
紀 ま での東 アジアの木碁 史 を素描 で きる、 たいへ ん有 意義 な成 果 で あ る。 この考察 部分 につ い て は、2009年5月 8日 に韓 国伝 統 文化学校伝統 文化研 究 院で開催 され た、 『韓 中 日古代寺 址比 較研 究一木塔 編 ―』 学術 セ ミナー において、鄭子永・趙恩 慶 ・卓京柏 ・韓旭 「韓 ・ 中 。日 古代木塔基壇築造技法比較研 究
‑5〜 7世
紀古代 木塔 を中心 に 一」2でも触 れ られて お り、 この元デー タが先 の資料集 とい うことになる らしい3。こ こで は、 これ らの成果 に よ りなが ら、方形 木塔l■の規模 と柱 間寸法 、望徳 寺木塔 の規 模 と形 態 、帝釈 寺塔 の基壇 、人 角塔 の規 模 と構 造 につ い て、 日本 建 築 史か らみ た問題 点 に つ いて私考 を披 涯 し、今後 の調査 ・研究へ の備 え としたい。
2.方 形 木塔 址 の規 模 と柱 間寸 法
まず、韓 国で発 掘 された方形木塔址 につ いて概 観 しよう。百済 で は扶 余地域 の軍守里寺 址 、陵 山里寺址 、王興寺址 、金剛寺址、扶蘇 山廃寺址 、龍井里寺址 、益 山地域 の帝釈寺址 、 弥勒 寺址 が あ る (以上 を百済地 区 と仮称す る)。 新 羅・統 一新 羅 で は慶 州 の皇龍寺址 、四天 王寺l■、望徳寺址 が あ る (これ らを新羅地 区 と仮称す る)。 第
1表
は、資料集 に基づ いて韓 国の方形木塔址 の概 要 を まとめ、本稿 に関係す る 日本 の現存 木塔 の情報 を加 えた ものである(以下、寺址 の「址 」 を略す る)。
よ く知 られてい る よ うに、新羅地 区の木塔 の遺構 は残存 状況 が きわめて よ く、心礎 のほ か礎 石 、基壇 外装 な どを残 すが、百済地 区では、基壇 上 の礎石 は失 われて建物 規模 が明確 にわか る ものはない。
基壇 と建物の規模
基壇規模は、第
1表
か らわかるように皇龍寺が破格に大 きく、帝釈寺 と弥勒寺が続 く。このうち皇龍寺 と弥勒寺は広大な寺地をもつ別格寺院で、帝釈寺はやや 特殊な遺構であるため除外すれば、最小は扶蘇山廃寺の約8.Om、 最大は金剛寺の14.2mと な る。日本 にお い て破 格 の 規 模 を もつ 寺 院 は百 済 大 寺 (吉備 池 廃 寺
)で
、 塔 の基 壇 規 模 は32m
程 度 を測 り、 新 羅 皇 龍 寺 と同規 模 と想 定 され る。 皇 龍 寺 九 重 塔 は、 方
7間
・ 総 柱 式 の平 面 を もち、 東 ア ジ ア の 古 代 木 塔 で7間
で あ る こ とが 確 実 な 唯 ― の 事 例 で あ るが 、 金 堂 の柱 間日本からみた韓半島の古代木塔址
寸法が最外周 を除けば
48m程
度であるにもかかわ らず、木塔の柱 間寸法は3.2m弱 と小 さい のが特徴である。 日本の大官大寺で も、金堂の廂部分が4.5mでもっとも柱 間寸法が小 さい ものの、九重塔 は一辺15mの
規模 をもちなが らも、方5間
のため、柱 間寸法は3.Om程度 と 小 さい。その他 の寺院で も、7世
紀代の塔 で3m以
上の柱 間寸法 をとる例 はな く、大勢 と して木塔の柱 間寸法は金堂に比 して小 さい。柱 間寸法 は別格寺院で3m程
度 と共通 し、 こ れ以上の柱 間寸法をとらず、規模 を大 きくする場合 は柱間を増や した と考えられる。8世
紀 になると、大安寺の東西七重塔が方3間
で一辺約12mの
規模 をもち、中央間の柱 間寸法が4.2mに 達 してお り、各国の国分寺の木塔で も3mを
超 える柱 間寸法 をもつ ものが 出現す る。 しか し柱 間は方3間
であ り、規模 を大 きくす るには柱 間数 を変えずに柱 間寸法 を大 きくすることで対応 した らしい4。 これ らを勘案すると基壇規模 しかわか らない弥助寺 の木塔(1856m)は
、側柱か らの基壇の出を4.5m程度 とれば塔身が9.6mほ どとな り、方 3 間で3.2m程 度の柱 間寸法をもつ木塔ではなかったか と推定 される。一方、規模 の小 さい扶蘇 山廃寺 は山岳寺院であ り、 日本の室生寺 (基壇一辺5,6m、 方3 聞
)や
龍門寺 (基壇一辺約70m、 方3間
四天柱 な し)な
ど、 日本にも山岳寺院には規模の 小 さな木塔があることと符合す る。龍 門寺 は四天柱 の礎石がな く、扶蘇山廃寺が基壇規模 しかわか らないのは残念だが、四天柱がない可能性 もあるだろう。基壇規模が8.3mの 望徳 寺 については節 を変えて述べたい。その他の木塔 は陵山里寺の11.8mか ら金剛寺の14.2mの あいだに
5塔
あって、 日本の7世
紀代の木塔の基壇規模が12m前
後であることと符合する5。 このなかでは柱 間寸法が判明 し ている遺構 は四天王寺だけだが、いずれも方3間とみてよいだろう。柱間寸法 と隅一組物の問題
上述のように、新羅地区の
3塔
は柱 間寸法が等間である。その 他 はわか らないのは残念だが、皇龍寺九重塔の造営に百済の名匠・阿非智 を招請 していると いう『三国遺事』の記事か ら、百済地区の木塔の柱配置推定に新羅地区の本塔の柱配置を応 用 し、柱 間寸法を等間と推定すると、 日本の法隆寺建築 を考える上で難点が生 じる。それは、現存す る法隆寺 にみ られる様式の源流が朝鮮半島にある と考 え られていること による。木塔 に限 らず、法隆寺金堂 を中心 とす る細部様式 は、高句麗古墳壁画や中国漢〜
唐代 における文物の検討か ら、中国の漢・魏代 といった古い様式や、北斉〜初唐代 といっ た同時代 に近い様式が混在 し、 これ らは高旬麗古墳壁画で も認め られるものがあることか ら、朝鮮半島で醸成 された様式が 日本に伝 えられた と考えられている6。
この うち本稿で問題 となるのは、法隆寺の建物隅の組物 と平面 との関係である。す なわ ち法隆寺の建物隅の組物 は、建物各辺 と直交す る方向には挺 出せず、隅行45° 方向のみに 挺出する。 これを隅一組物 と呼んでいるが
7(第
1図)、 このため金堂や五重塔では正狽I面 端 間の柱 間寸法が小 さ くなる。木塔 に限れば、中央間が広 く両脇 間が狭 い平面 となるので
第 1表
方形木塔の概要
寺 名 年 代 掘 込 地 業 基 壇 外 壊 基 壇 規模
百 済 軍 守 里 寺
陵 山 里 寺
I興寺 金 剛 寺 扶 蘇 山廃 寺 龍 井 里 寺 帝 釈 寺 弥 勤 寺
皇 龍 寺
四天 王 寺 望 徳 寺
吉備 池 廃 寺 山 田寺 川 原 寺 多 賀 城 廃 寺 法 隆 寺 大 官 大 寺 龍 門 寺 大 安 寺 西塔 東 大 寺 西 塔 室 生 寺 談 山神 社 十 三 重 塔
6世紀 中期 567年 677年
7世紀 前 半 7世紀 前 期 〜 中期 7世紀 前 期 〜 中期 7世紀 前 半 7世紀 前 半 645年
679年 7世紀 後 半 639年 676年 完成
7世紀 後 期 7世紀 後 翔 7世紀 後 期 8世紀 初 顕 8世紀 前 期 8世紀 後 期 8世紀 後 期 300年 頃 1532台F
な し。
あ り(詳細 不 明)。
12m四方 、深 さ30cm。
岩 盤 ま で 掘 り込 む。
地 山 削 り出 し。
上 面185m四方 。 深 さ23m。
あ り。 深 さ76側 。
215mほど。 深 さ34m。
平 均315m。 深 さ平均19n。
14m四方 。 深 さ1 lm。
な し(推定)
な し
平 均15m程度 、 中央 で 深 さ08m
基 痘 範 囲 を03m掘り込 む な し
不 明 な し 不 明 な し 不 明 不 明 不 明
苺 積 141m
痩 正 積 二重基 壇 118m
壇 正 積 12ワ m
窺 正 積 二 重 基●̲ 142m
石 造 基壇 S Om前 後 不 明 不 明 二 重基 壇 212m
壇 正 積 二 重 基規 1856m
煙 正 積 二重 基垣 295m
穂 石 併 用 二 重 基 壇 129m
筑 正 積 二重 基 瞳 83m
不 明 (木製?) 推 定32n 切 石 痘 正 積 128m
創 建 時 不 明 117m
痙 正 積 1lm程 度 切石 積 二 重 基 範 138m
な し(施I前焼 失) 24m?
乱 石 積 697m
疱 正 積 207n
痙 正 積 24m
石 積 み 56m
t7」石 積 二 重 基 垣 31m
新 羅
統 一 新 羅
日本
(筆者撮影)
第2図
国立扶余博物館青鋼製小塔片
(国立扶余博物館図録 日本語版1998年より)
あ る。
隅一組 物 の実例 は、 中国 には法 隆寺 と 同時期 の
7世
紀 の例 が あ る よ うだが8、朝鮮 半 島 にお け る古代 の例 は、 国立扶 余 博 物館 蔵 の青銅 製小塔 片 (第
2図 )に
みえる。 ここで は挿肘 木 に よる隅一組物 と してお り、大斗上 の組物 を隅一組物 とす る法 隆寺 の様 式 とはや や異 な る可 能性 もあ るが 、現 在 の ところ、朝 鮮 半 島 に お け る類 例 は これ だ けで、 百 済 との 関 係 が注 目され るのであ る。
以 上 か ら、新 羅 地 区 の木塔 に見 え る 各柱 聞 同寸 の平 面 は法 隆寺 様 式 の源 流 とは な りえず 、 高句 麗 にお い て人 角 平 面 の 木塔 しか発 見 され て い な い現 在 、 隅 一 組 物 の源 流 た り得 るの は百 済 しか 秦生れ,F̲P4メイテ̲えをセ>,1江
日本か らみた韓半島の古代木塔l■
柱 配 置 (柱間 寸 法) 心 礎 備 考
東 側 柱 礎 石 痕 跡 か 不 明。
不 明。
不 明。
不 明。 推 定3×3。
不 明。
不 明。 裳 階付5問か 。 不 明。
地 下式 (基鎮 下18m)、 西 方 に斜 道 地 下 式 (基嬢 下15m)
地 下 式 (基虹 下05m)、 東 方 に斜 道 心礎 な し。 岩 盤 に径12mの穴。 西方 に斜 道 推 定 半地 下式。
推 定 地 上 式 。 地 下式 で は ない 地 上 式
地 下 式 で は な い
地 上 式
地 上 式 地 上 式 (人角 心 礎)
地 上 式 地 下 式 (13m下)
地 下式 (1 lm下)
地 上 式 地 下式 (釉3m下)
地 上 式 地 上 式 地 上 式 地 上 式 地 上 式 地 上 式
南 北2面 南 北2面 四 方 不 明 南 北2面 不 明 四 面 推 定 四 面
南 面3箇所 、他 の3面 1箇所 四面
四 面 (階段 幅134m)
不 明 四 面
創 建 時 期 の 階段 不 明 中世 に 改 造 四 面
四 面 不 明 北 面 の み 四 面 四 面 南 面 なし
x
× 明
×
×
×
×
× X X 明 x x 3 3 不 3 3 3 3 5 3 3 不 3 3
(3176m等間)
(215m等問)
(165m等間)
(中央 問24m、
(20m等間)
(21m等間)
(中央 間27m、
(32m?等間)
(柱間 一 辺33m)
(中央 闘42m、
(中央 間09m、
(中央 問12m、
両 脇 間21m)
両 脇 問19m)
両 脇 問39m)
両脇 間03m)
両 脇 問09m)
建 造 中に焼 失 山岳 寺 院
山岳 寺 院
*寺名 ゴ シ ック体 は 現 存 遺 構
な い。 したが って 百 済 にお け る木塔 の柱 配置 も、 法 隆寺五重塔 な どと同様 、 中央 間 を広 く、脇 間 を狭 くした平 面 を とる ものが あ る と考 え られ る。心礎 の設置位置が、大勢 か らみ れ ば新 羅 と百済 とで は異 なるの と同様、柱 間寸法 も新 羅 との相違 点が あ る と考 えたい。 た だ し、 これは木塔 だけでな く金堂の発掘成果 を含 めて検討すべ き課題 である。
逆 に柱 間が等 間なの は、 日本 の木塔 の場合 、本薬 師寺 。薬 師寺 の東西両塔 が あ り、 これ らは双塔 式 の伽藍 配置 を もつ。双塔式 の伽 藍 配置 は統一新羅 の寺 院 に特徴 的であ り、 と り わけ薬 師寺 と同様、 回廊 が横 長の平面 を もつ感恩寺 との類似性が指摘 されているが9、 木塔 の柱 間寸法 で も、新羅寺 院 との類似性 を指摘す ることがで きる。
3.望 徳 寺 木塔 の規模 と形態
遺構 の概 要
望徳寺東塔 は、舎利孔 を もつ地上式心礎 とともに四天柱 の礎石
4基
と側柱 の 礎 石 10基 を残す。基壇地覆石等の遺存状態 もよ く、規模 は基壇 が一辺8.3m、 建物が一辺495m、 柱 間寸 法 が1.65m等間であ る (第
1表
)。 『三国史記』 巻第9、 新 羅本紀 第9の
景徳 王 14年 (755)春条 に「(前後 略)両
塔相対 、高十三層 、」 とあ り、十三重塔 と考 え られてい る が、遺構 の規模 が小 さい こ とか ら、藤 島亥治郎 は二重塔程度 を想 定 しЮ、米 田美代 治 は五重 塔 あ るい は七重塔 に裳階が付 いた もの・ 、 と考 えている。金正守の復原案 について
一方、金正守 は浄恵寺l■十三層石塔 (慶尚北道慶州郡、
9世
紀、第3図 )な
どを参考 に第4図
のような復元案 を提示 した12。 浄恵寺址十三層石塔の比例 か ら塔 身部の高 さを求めたたため と推定 されるが、初重がやや高 く、二重 目を扉口 と連子 窓を備 えて楼閣式 に、三重以上 を密捨式 にしてお り、浄恵寺址十三層石塔 とも異 なる特異 な形態 となっている。 また逓減が大 きく、最上重 は初重の17%程
度、実寸法 は85cm程 度で あ り、十二重 よ り上 を2間
に割 りなが らも組物 をもつので、組物の部材寸法が きわめて小 さくなっている。初重平面が2.4mほ どしかない 日本の室生寺五重塔では、五重の平面が1.5m弱 で、初重に 姑する通減率は
59%で
ある。 これは五重 を三 間に割 って隣 り合 う組物 がぶつか らない よ う、五重の納 ま りに合わせて部材 を規格化 し た と考 え られてお り13、 軒 の出の実寸法 も初 重か ら五重 までほとんど変 えないため、塔舅 の近減率ほど上層が小 さ く感 じない。すなわ ち、石造の近減 を木造にも単純 に適用 させ る ことの妥当性 を検証 し、 また全体の形態だけ第4図
金正守による望徳寺十二重塔復元図 (註12より)
でな く部材の寸法を考慮 す る必 要 が あ る と考 え る。
ただ し、 『三国史記』
に「望徳寺二塔相撃」や
「望徳寺二塔戦」 とある のは、塔身部 と心柱 とが 地震や風 によって揺れ方 が異なった り、露盤部分 で生 じた りする摩擦のた めにギシギシとたてる音 が、
両塔が争 うよう1こ感 じられた様子 を表現 した ものと思われ、塔舅部が 細 くてやや不安定だった ことを暗示するもの と考 えられる。
第3図
浄恵寺十三層石塔 (筆者撮影)
日本か らみた韓半島の古代木塔址
一 方 、金正守 に よる断面復 元案 に関 して は、後述 す る ように、古代 にお け る十三重塔の 構 造 自体 が 明確 で ない もの の、 日本 の談 山神 社 十 三重塔 や現存 す る古 代 の木塔 、 あ るいは 日本 の木塔 の構造的変遷 を勘案す れ ば、第
4図
の ような通柱構造 とは考 えに くい と思 う。談 山神社 十 二重 塔 の構 造
現 存 す る純 木造 の十 二重塔 で あ る談 山神社 十 三 重 塔 (奈 良県桜 井市 、 第
5図 )は
、 明確 で はない ものの7世
紀 の創 建 と考 え られ、 そ の後 、 焼 失 と復 興 を く り返 して1532年 に再 建 され た もの で、壇 正積 の二重基壇 は、型 式 と材 質 か らみ て1532年 以前 の形 態 を踏襲 して い る可 能性 が指摘 され て い る14。 初重 平 面 は方3間
で 、 中央 間118
m、 両 脇 間0.85mと楼 閣式 の 木塔 と平 面形 式 は変 わ らない。側柱 は土 台上 に立 ち、 内部 に は床 を張 るが、修理工事 報告書掲 載 の修理前写真 を見 る と、 四天柱が礎石 位 置 とず れてお り、礎 石 は創 建 当初 の位 置 を保 つ か も しれ ない。 心柱 を基壇 上 か ら立 て る点 、 二 重 基壇 と す る点 も時代 的 にみ る と異例 で、筆 者 も古 式 を踏襲 した可能性 が大 きい と思 う。
構 造 をみ る と (第
6図
)、 側 柱 は垂 木の上 に置 いた柱 盤か ら立つ ものの、 初 重 の四天柱 は通柱 と して二重 の横 架材 を受 け、 それ以上 の四天柱 は2層ご との通柱 と してい る。
複雑 な組 物 を設 けず、横 架材 の先 端 を柱 上 に出す とともに内部 に引 き込 んで、 四天柱 の切 れ る層で は対辺 の柱 上 の横 架材 として 引 き通 し、 四天柱 に当 た る層 で は四天柱 の
第5図
談山神社十三重塔 (筆者撮影) 第 6図
談山神社十二重塔断面図 (註 14より)
387
側 面 に挿 して い る。 紙 幅 の 関係 で 詳 述 で きな い が 、 濱 島正 士 に よる塔 の構 造 の 変 遷bから見 れ ば 、 日本 の 中 世 の 長 柱 構 法 と近 世 の 椿 構 法 を合 わ せ た よ うな構 造 で あ り、 時 代 相 応 とい えそ うで あ る。
望徳寺木塔の復元 の ために
談 山神社 十三重塔 は、年代 が 降 る ものの、望徳寺 木塔 の平面 よ りも小 さな十三重塔 が現存す るので あ って、藤 島亥 治郎 や米 田美代治が十三重塔 を否 定 ぎみ に述べ ているのはあた らず、金正守 の ように積極 的 に十三重塔 ととらえるべ きである。
望 徳寺 十三重塔 の造形 と構 造 の復 元 には、密権 式 とす るか楼 閣式 とす るかが大 きな判 断 の分 かれ 日にな る と思 われ るが、 これ はす なわ ち組 物 を備 えるか どうかの判 断 にな るだ ろ う。 中 国遼代 の密槍塔 で は、 た とえば北 京市 の天寧寺十三重樽塔 の ように組物 を備 える事 例 もあ るが 、規模 が大 きな塔 は組物 を備 えて も密 捨 式 の造 形 を とる こ とが で きる ものの 、 規模 が小 さい と組 物 の積 み上 げ高 さだけで各重 の軒 が離 れて しまい、楼 閣式 に見 える こ と に な る と思 われ る。組 物 を用 い た楼 閣式 とす るの で あれ ば、 日本 に現存 す る三重 塔 や 五 重塔 の構 造 を十三重塔 に応用 で きるか どうかが課題 となる。組物 を用 い ない密権式 とす れ ば、談 山神社 十 三重塔 の構 造 を参考 に、古 代 の十 三重塔 の構 造 と意 匠 を検討 す る作 業が 必 要 とな る と考 え られ る。組物 を もた ない談 山神社 十三重塔 の造形 も、密権 式 の意匠 とす る こ とを優先 させ たため、 と解釈す ることも可能か もしれない。
4.帝 釈寺木塔 の基壇
遺構 の概 要
帝釈 寺 の木塔 は、 高 大 な二重 基 壇 を もつ。 第
1表
の よ うに、 下 成 基壇 の一 辺 が21.2m、高 さ1.9m、 上 成 基 壇 が 一 辺
19m
(資 料集 の記 述 に よる。 た だ し資 料 集掲 載 図面 :第
7図
だ と11.6m 程 度 で あ る)、 高 さ0.5mの規模 をもつ 。 北面 の下成基壇上 に
14m離
れ て検 出 した礎石 を当初位置 を保 つ と解釈 し、 また頂 部 には
2つ
に 割 れ た心 礎 が残 存 して い る こ とか ら、上成基壇上 に地上式心礎 を も つ 方3間
の本塔 が建 ち、下成基壇 上 に は5間
等 間 (柱間寸法28m)
の裳 階柱 が立つ と推 定 してい る。
0 10m
第7図
!帝
釈寺木塔遺構 図 (資料集 よ り)
日本か らみた韓半島の古代木塔址
上成基壇 の規模 は標準的な木塔 と同等で、下成基壇 に裳階柱 を立てるのは、塔 においては 高句麗清岩里寺が確 認 されているのみだが、慶州の皇龍寺や 四天王寺で は金堂 に例があ る。 したがってここに建つ木塔の規模や構造は標準的な もの と考え られる`
。特異なのはこ れ らを
2m近
く下成基壇 によってか さ上げ している点である。階段 と基壇外装
階段 は下成基壇 の高 さが1,9mあるに も関わ らず、下成基壇 か らの出は 66cm程 度 との資料集の報告であ り、 とすれば、下成基壇 内部 に入 り込む形式の階段 になる だろう。上成基壇西面で検出 した細長い石材が階段地覆石 とすれば、 これに接続する痕跡 が平面方形 に廻 って階段 の突出がないことか ら、上成基壇 も内側 に切 り込む形式の階段 と なる。
また資料 集で は下成基壇 か ら上成基壇 まで階段 が連続す る と述べてい るが、階段幅が 3.4mあ り、柱 聞寸法 を2.8mと 推定 しているか ら、階段 の途 中に中央間の礎石や柱が立つ 部分が現れて しまう。下成基壇上の礎石がほぼ完全 に露 出 している状況 を鑑みれば、相当 の削平 を受 けていることは確実である。資料集で想定 しているように下成基壇が石製壇正 積 とす れば、羽 目石の高 さが1.5m程度必要 とな り、それ を支持す る地覆石 も相応 に大 き くなるとみ られる。 したがって、遺構 図に見 える基壇地覆石抜取溝 の規模が適当か どうか 検証す る必要がある。 また資料集 によると階段状 の基壇構成 を想定 してい るが、北面で検 出 した礎石が当初位置 と高 さを保つ とすれば、 これ らが露出 しない基壇形式 を考えなけれ ばな らない。いずれに して も特異 な形態の基壇 であ り、 どの ような発想あるいは 目的に基 づいて造 られたのか明確 でない。わずかではあるが類例 を挙 げて今後の検討 を待 ちたい と 思 う。
多賀城廃寺
日本 における類例 は宮城県多賀城市の多賀城廃寺 にある。多賀城 は古代の東 北地方 における政治的・軍事的中心地であ り、多賀城廃寺 はこれに付属す る寺院 として 8 世紀前期 に創建 された と考 えられている。多賀城廃寺の塔跡 は、一辺30m、 高 さ約
24mの
四角錐 の頂 部 を水 平 に切 り落 と した土壇 の上 に、方
3間
、21m等
間 の礎 石 16個 と地 上式 心 礎 が完存 す る遺構 で、1962 年 の 発 掘 調 査 に よ っ て 、 高 さ約lmの
人工 土 壇 の上 に、高 さ1.36mの基 壇 を築 い た も の であ る こ とが半U明 した。基 壇 は凝灰 岩 製 の切 石積 で、一
辺
Hm程
度 、 四面 に階段 を も 第 8図多賀城廃寺塔跡基壇整備後 (註 17より)
つ。羽 目石 の頂部 を葛 石 で押 さえず 、上面 に羽 目石 の木 口 を見せ る構 造 だ ったため、 羽 目 石 が外 側 に傾 きやす か った ら し く、補 修 時 に羽 目石 を埋 め て基壇 高 をほ ぼ解 消 し、埋 め た 土盛 り上面 の基壇 す ぐ外 側 に大 走 りや雨落溝 を造 ってい る。 その後 もこの補修 の土盛 りの 外側 に切 石列 を設 け るな どの改修 が施 され てい るW。 第
8図
は整備 後 の状況 で、基壇 は保存 の ため に埋 め られて全体 が 土壇 に見 えるが、階段 を登 りきった縁石 部分 が基壇縁 で、 ここ か ら下 に基壇 羽 目石 が落 ちて、 高 さ1.36mの段 差 に な り、 そ の下 が マ ウ ン ド状 の土壇 とな る。帝釈寺 の木塔 と異 な る点 は、帝釈寺 が上成基壇 が低 く、下成基壇 が高 いの に対 して、多賀城廃寺 はその逆 で あ る点 で あ ろ う。
何 の ため に土壇 上 に基 壇 を築 くのか、 報告 書 に も詳 し く触 れ られ て い ない。 地形 や 地盤 な どの立 地条件 も検 討 しなけれ ば な らないが、土壇 の効 果 と して期待 され るの は、 回廊 な どで 囲 まれた外狽Iか らみ る と、木塔 がやや高 く見 える とい う点 くらい しか思 い浮か ば ない (第
9図
)。 木塔 の塔 身規 模 が小 さけれ ば小 さい ほ どこの効 果 は大 きい だ ろ うが、多 賀 城 廃寺 の塔 は、時代 的 にみて標準 的 な規模 である。いっぽ う、帝釈寺 の ように下成基壇上 に礎石 を配 しているか どうか、す なわち土壇上の 基壇際に礎石 を配 しているか どうかは、基壇地覆石 を検 出 したのが南北の深掘 リトレンチ 部分のみであって、後世 の補修 を破壊 しない とい う発掘時の配慮のために、その有無 は不 明である。仮 にあった として も基壇規模
(1lm)と
塔本体の規模(6.2m)を
勘案すれば、側柱筋か ら最低で も
25mは
必要 とな り、初重塔身の柱間寸法 と同 じ21m(7尺 )等
間 とは ならない。基壇際に裳階の柱が立ち、基壇上 に十分 な空間を確保 しようとすれば、基壇 の 高 さを考慮す ると多賀城廃寺の場合 は裳階柱が相当長 くなって しまう。帝釈寺の場合 は、上成基壇が低いので裳階柱 に関す る問題点はある程度解消 される。
第9図
多賀城廃寺復元立面図 (註17より)
―
日本か らみ た韓半 島の古代木塔址
第10図
復元整備後の土塔 (註19より
)
第11図上層頭塔復元立面図 (註20より)
土 塔 と頭塔
発想 を変 えて、帝釈 寺 木塔 の版築全体 を塔 の本体 とみ る こ とがで きる とす れ ば、 日本 の土塔 (大阪府堺市
)や
頭塔 (奈良市)も
類 例 に加 え る こ とが で きる。 土塔 は神 亀4年
(727)も し くは同5年
の銘 のあ る瓦が 出土す ることか ら、 この頃の創建 と考 え られ てい る。一辺53.lm、 高 さ1.2mの瓦積基壇 を もち、その上 にさらに土 を盛 って四角錐形の13 の段 とし、頂部 を水平 に した もので、高 さは8.6m以上 に達す る。各層 をなす段 の高 さは0.3m程
度 で、 その上 に瓦 を葺 き、頂部 (13層 目)に
は平面 円形 もし くは人角形 の構 築物 を据 えた と考 え られ る径5.9mの粘 土 ブ ロ ック環 が あ る。礎 石等 は検 出 され てお らず、頂部 にあ った とみ られ る構 築物 の具体 的 な様相 は不 明であ る。土壇全体 が塔 の本体 であ り、 ここに 登 るための階段 な どは備 えていない略(第10図)。
これ と似 た構 造 で、表面 に石 仏 を配 した石 組 ピラ ミッ ド状 の遺構 が頭塔 で あ る。上 下
2層
の遺構 が確 認 されてお り、基壇 一辺 は32m程
度、 上層 の初 重塔 身が24.5m前後 、 高 さ8mの
規模 を もつ (第H図
)。 760年創 建 の遺構 で、 頂 部 で は地 下 式心礎 が検 出 され て い るが 、 や は り構 築 物 の礎 石 や土壇 に登 るた めの 階段 は な く、土壇 が塔 本体 とい う認識 で あ る20。5。
八角塔 の規模 と構造
八 角塔 の遺構
東 ア ジアで発 見 されてい る
6〜 7世
紀 の人 角塔址 には、 資料 集 にのせ る、高句麗 の土城里寺l■、上 五里寺址 、定 陵寺址 、清岩里寺址 と、新 羅 の霊廟寺址 、 日本 の樫 原廃 寺 が あ る (この節 で は、塔lkと 現存塔 とを区別 しやす くす るため、「l■」 を省 かず に 記 す )。 これ らの基壇規模 を比較す るため、資料 集 を もとに作成 したのが 第
2表
で あ る。ここには、発掘遺構 で明 らか になってい る中国の雷峰塔 遺址閉
(浙江 省杭 州、977年
)と
ともに、 日本 の西大寺八 角塔址22(奈
良市 、
8世
紀 後 半)と
、 法勝寺 入角 九重塔址23(京 都 市 、1083年 供養)の
発掘 成 果 を加 えてみ た。 日本 で人角塔が発掘 された事例 は、樫 原廃寺第10図
復元整備後の土塔 (註19より)
第2表
東アジアの八角木塔の発掘遺橋
基壇規模
対辺 間 一辺 基壇外装 雨落 も しくは犬走 り
高句麗 土城 里寺 4世紀後半 高句麗 上五里寺 5世紀後 半 高句麗 定陵寺 5世 紀 高句麗 清岩里寺 5世紀後半
新羅 霊廟 寺西塔 8世紀 新羅 霊廟 寺東塔 8世紀
雷峰塔遺址 977年
樫原廃 寺 7世紀 中頃 西大寺 8世紀後半 法勝寺 1083年
182 (75) 不 明
不 明 (少 な く と も 地 下 式 で な い)
不 明
不 明 (少な くとも 地 下式でない)
不 明
石 造 (推 定)
不 明
切 石 地 覆 石 を 検 出
石 造 二 重 基 壇
石 造 基 壇
石 造 基 壇
瓦 積 み 基 壇
不 明
基壇外115m離れて 幅70cllの雨落溝 基壇外 に幅80cmの 玉 石敷 き
基壇縁 か ら80clll離れ て幅60cmの 雨落溝 雨落 ち玉石・ 幅70cn
基壇外 に散水
不明
掘込地業外 に別 の地 業 あ り
(193) 17 6 (246)
3
(73) 102
104 (79) 不 明
(43) 不 明
明 明 不 不 9
ぉ
0
ぉ
7
2 1
︲O
Z
︲2
2
3
不 明
本 本 本
51 地 下 式
(112)不 明
(133)未 調 査
第3表
現存八角塔等の規模
国
時代
地
域 遺 構 名 年 代 塔身規模 心 柱
対辺 間
一辺
中国
北魏 河南省登封県
嵩岳寺塔 中国
遼
遼寧省 北鎮
崇興寺双塔 中国
宋
江蘇省蘇州
雲厳寺塔 中国
宋
江蘇省蘇州
羅漢院双塔 中国
宋
江蘇省蘇州
瑞光塔 中国
宋
河南省 開封
祐 国寺鉄塔 中国
未
河北省 定県
開元寺塔
中国
遼
山西省応 県
仏宮寺釈迦塔 (応県木塔) 中国
遼
内蒙古慶州
釈迦仏舎利塔
中国
遼
内蒙古寧城 県
中京大明塔 中国
遼
山西省霊丘県
覚 山寺塔
日本
鎌倉 長野県 安楽寺人角二重塔
523年
106
937年
(15,6)
961年
137
982年
53
1020年 頃
113
1045年 頃
10
1055年
(237)
1056年
(261)
10494F (24 1) 1050年 頃
(306)
1089年
92
1289年
62
73
(5,7)二重 目よ り立つ
(22)工
重 目よ り立つ(47)六
重 目よ り立つ (41)98
中央部塔心柱108
最上層天丼上 10143
不 明(3.8)中央部塔心柱
27
裳階天丼上*『中国古代建築史 第2版』(中国建築工業出版社、1984年)および
『 中国古代建築史 第3巻』(中国建築工業出版社、2003年)より作成
*高さは上記文献の記述による。ただし、基壇を含む場合とそうでない場合があり、参考程度とされたい。
*表中()内の数値は()のない長さからの計算による。()のないものは上記文献の記載による。
掘込地業 の有無
地 山削 り出 し 南北2箇所
羹
│ヱ吾紀 署 鉄 普 四 面
地 山 削 り出 し 四 面
日本からみた韓半島の古代木塔址
址 を含 めて この
3例
である勢。ま た 第
3表
は 、 現 存 す る人 角 木塔 で あ る、 中国山西省 の仏宮寺釈 迦塔 (通称「 応 県 木塔 」 。以 下 この通称 で記す 。 1056年)と 日本長野県 の安楽寺入 角三重塔 (13世 紀 後期)、 お よび 中国 に現存 す る比較 的古 い 宋代 ・遼代 にかか る平面八角 の碑塔 、碑 身 木槍塔25などの初重平面の規模 (樽塔・樽 身 木権 塔 の場 合 は舟 向す る辺 の外 壁 間
)を
まとめ た ものであ る。 また、第12図 に発掘 遺 構 を、 第 13図 に現存 遺構 の
1/800の
平 面 図 を掲 げて、その規模 を視覚 的 に比較 で きる ように してみた。 この うち、高句麗の上五 里寺l■は人角基壇上 に一辺約12mの
方形塔 が建つ と推定 されている。これ らの発掘遺構 で柱配置のわかるもの は、清 岩里寺l■の下成基壇 上 で検 出 した 礎石 だけであ り、発掘遺構 図にみえる礎石 位置は東西南北面 (周囲の建物 に接続す る 面
)を 5間
に、その他の面 を各面4間
に割 る位置 にあ り、建物の上部構造 と密接 に関 わる柱 の礎石 とは考 えに くく、後世の移動 の可能性 を含めて再検討す る余地がある。したが って発掘 された人角塔址 を比較す る には、基壇規模 しか手がか りがない。
基壇 と建物の規模
第
2表
か らわかるよう に、高句麗の塔址の基壇規模 は、一辺が7.3 m、 対辺 間距離17.6mの定陵寺l■が最 も小 さ く、一辺が10.2m、 対辺 間距離が24.6m
の清岩里寺址26が最 も大 きい。第1節
で述 べ たように、 この時期の方形塔l■の平均的 な基壇規模が12m程
度であ り、 これが この なか にほぼ納 まって しまう27こ とを考 えれ備 考
不 明 不 明
(推
定 )劣
@乗爆妖 建 つ
基壇 下に礎石 明
明 不 不 明
明 不 不
不明 東西面
刺 g∵ 冨審 ォ壕確認 側柱柱 磁 2m
据込地業 のみ検 出 不明 掘込地業 のみ検 出 不明
*表中 ( )内の数値 は計算による
形 式 高 さ 備 考
十三角十二重密権塔 人角十二重密槍塔 人角七重楼閥塔 人角七重楼閣塔 人角七重楼閣塔 人角十二重楼閣塔 人角十一重楼閣塔 人角九層五重楼閣塔 人角七重楼閣塔 人角十二重密権塔 人角十二重密槍塔 人角二重楼F48塔
39 5rn 48 7rn 48rn 30mほど
53m(復元)
547m 84m
673m 初重碑壁外側規模
733m
73 1m 43 1m
185m 裳階平面規模
どr工
・ r︼L ︑
H
高句麗
土城 里寺址 高句麗
上工里寺址
■津
拶疼
高句麗
清岩里寺址
日本
西大寺人角塔
宋 雷峰塔遺址 (中国浙江省)
I L 止 F
日本
法勝寺人角九重塔
第12図
東アジアの八角木塔の発掘遺構
1:300
日本か らみた韓半島の古代木塔址
癌晶 埒 1解
虎 丘雲 厳 寺塔 (中国江蘇省蘇州)
だ く
―)│
iiノ
羅 漢 院 双 塔 (中国江蘇省蘇州)
③
覚 山寺 塔 (中国山西省霊丘県)
安 楽 寺 人 角 二重 塔
(日本長野県)
開元寺料敵塔 (中国河北省定県)
瑞光塔 (中国江蘇省蘇州)
̲=「化
111
ド■ .│ =
■仏宮寺釈迦塔 (中国山西省応県)
■ Ff
﹁︻
︱
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■ 帝
︱・
● 十 一I IP
第13図
現存八角塔等の平面規模
1:800
ば、総 じて規模 は大 きい と言 えるのか も しれ ない。 しか し、 そ う断ず るには建物規 模 を検 討 してお く必要 があ る。
判 明す る基壇 規模 か ら、基壇 の 出、 す なわ ち側柱 か ら基 壇 縁 までの距離 、 これ は軒 の 出 に近 い と考 え られるが、 この基壇 の出 をた とえば法隆寺五重塔 な どと合 わせて約
370m程
度 と想 定す る。 これ を先述 の高句 麗 の人 角塔址 に一律 に当て はめてみ る と、定陵寺址 の初 層 の平面規模 は、対辺 間距離が102m、 一辺 長が4.7m、 清岩里寺址 で は対 辺 間距 離 が17.2m、一 辺長が8.Om程度 となる。 当時 の人 角塔 の基壇 規模 と初 層 平面 規模 の相 関 関係 が 明 瞭 で な い ため、 この数値 の有効性 が明 らかで ない。 しか し、上記 の成果 は、法隆寺五重碁 と同程 度 の基壇 の 出、す なわ ち組物 に よる軒 の 出 を想 定す れ ば、初 層平面 の一辺 長 は最 低 で4.7m 程 度、最 大 で も8.Om程度 とな る こ とを示 してい る。 基壇 の大 きさは確 定 してい るた め 、 建 物 規 模 が大 き くなれ ば軒 の 出 も大 き くな って塔 身の規模 は小 さめ にな る し、建 物 規 模 が 小 さな木塔 であれ ば、軒 の出は小 さ くな り、 そのぶ ん塔 身が大 きめにな るので、 この数 値 は 傾 向 を うかが うには十分 とみ られ る。
これ を方形 木塔 と比べ る と、 た とえば法 隆寺五重塔 の初層平面一辺 が
64mで
あ り、 先 述 した人 角塔 の初 層一辺 の推 定規模47〜
8,Omのほ ぼ平均 を示 す こ とを勘案す れ ば、 人 角 塔の一辺長は、 この時期の方形木塔の一辺長 と同程度 と考 えて大過ない と思われる。す なわ ち、人角塔 と方形塔 とは初層平面一辺長 を同程度 とす る関係 にあ り、先述 したように発掘 された人角塔址 の基壇 の実面積 は大 きいが、一辺長 とい う視点か ら比較す ると、必ず しも 大 きい とは言 えない ということになる。
さらに、この建物規模 を中国に現存する比較的古い代表的な人角平面の俸塔・碑身木権塔 などと比較 してみ よう (第2・ 3表 。第12・ 13図)。 先述 したように、発掘遺構の建物初層の 一辺長が4.7〜8.Om程度 と推定 されるとすれば、江蘇省 を中心 とする樽身木権塔 (第14図)
と同程度 もしくはそれ より若千大 きい程度であ り、山西省応県の応県木塔はきわめて大 きい ことがわかる。河北省定県の開元寺料敵塔 (第15図
)と
内蒙古慶州の万部華厳経塔 (通称、慶州自塔、第16図
)は
楼閣式の碑塔で、また内家古寧城県の中京大明塔 (第17図)や
遼寧省 北鎮の崇興寺双塔 といった遼代の密槍式の碑塔 は、初重塔身を高 く二重以上 を密捨式にする もので、いずれ も軒の出が小 さいため、初重の規模が大 きくなると考え られる。 ここか ら高 句麗の人角塔のボリュームは、お よそ中国江南地域 に建つ比較的規模の大 きな宋代の碑身木 捨塔 などか らうかが うことがで きると言えよう。心礎 の有無
ところで、 これ らの朝鮮半島における発掘調査成果では、人角塔の遺構 と推 定 しているものの、心礎 あるいはその痕跡 な どを一切発見 していない。清岩里寺l■では地 山を削 りだ して基壇 を造 ってお り、地下式であればその痕跡 な どを認識す ることはで きた
第14図
瑞光塔 (江蘇省蘇州、筆者 第15図
開元寺料敵塔 (河北省定県、筆者撮影)
第16図
万部華厳経塔 (内蒙古慶州、筆者撮影) 第17図
中京大明塔 (内蒙古寧城県、筆者撮影)
と思 われ る。基 壇 上 面 が削平 され て い て柱 配置 も不 明 で あ り、少 な くと も地 下 式 で はない と推 定 で きる もの の、 地 上式 の心 礎 で あ る可 能性 、地 上 付 近 に心礎 が ない形 式 で あ る可 能 性 、 発 見 基 壇 が 塔 で ない可 能性 、 の
3通
りを推 定 で きる。塔 で ない可 能 性 の検 討 は人 角 建 物 全 般 を検 討 しな け れ ば な らな くな る た め、 こ こで は 他 の2点
を確認 しよう。各八角碁址 が地上式の心礎 だった と推 定 して も、心礎 の規模 は相応 に 大 き く、 したが ってその掘方 も深 く 大 きい と考 え られ、何 らかの痕跡 を 留 めて よさそ うであるが、その他 の 礎石 の痕跡 も含 めて まった く失われ てい る。削平が激 しい とい うことと 同時 に、基壇が高い とい うことが わ かる。
い っぽ う、同時期 の方形木塔llLを み る と、中国河北省の趙シ城仏寺や 百済 の王興寺址 な どでは、地下 に心 礎 を置いて舎利 を納めてお り、日本の 例 を含 めて も、地下式心礎 か ら地上 式心礎へ と変遷す る傾 向がある と言 える。 しか し入角塔では、これ らと様 相が異なると考えざるを得ない。
ところで、 中国に現存す る八角平 面の樽塔 や碑 身木権塔 では、初重 の 床面 に心礎 を置 く例が ない。た とえ ば江蘇省蘇州の瑞光塔 は、七重 の う ち、六重の床面 に人角平面の各頂点 か ら対角線 に材 を渡 してその中心 に
日本か らみた韓半島の古代木塔址
第18図
瑞光塔六重の心柱設置状況 (筆者撮影)
第19図
瑞光塔断面図 (註28より) 違
397
心柱 を立 ててい る (第18。 19図 )。 この ような地上 よ り上 に心柱 を立 て る構 造 を、発掘遺 構 で も想定す る こ とは不可 能 で ない。
平面 形状 と心礎 の設置位 置 に大 きな相 関関係が あ る とは考 えに くい と思 うが、 これ らの遺 構 が木塔 なのであれ ば、上重 に心柱 を立てた可能性 の方が大 きいのか もしれ ない。す る と方 形木塔 では、 なぜ 地 中あ るいは地表 に近 い位置 に心柱 を据 えるのかが逆 に問題 となる。
日本 の 人 角塔 址 の位 置 づ け
以 上 の よ うな特徴 を もつ 高句 麗 を中心 とす る人 角塔l■に対 し、先 述 の ように 日本 で は樫 原廃寺址
(7世
紀 中 頃)、 西 大 寺 八角塔l■(8世
紀 後半)、法勝寺 人 角塔址 (1083年
)の
3つが発掘遺構 として知 られ てい る (第2表
・ 第12図)。樫 原廃寺址 は規 模 が小 さ く、八角塔址 と しては東 西 を問 わず 地下式 の心礎 を確 認 した唯一 の遺構 で あ る。 人 角 平 面 の側 柱 (柱 間
1.2m)と
内部 の 四天柱 (柱間22m)か
らなる平面 を もち、高句麗 な どの人角塔 址 と比 較 して も、現在 の ところ規模・柱 配 置 の 観 点 か ら特 異 な塔 址 で あ り、 そ の源流 を大 陸 に求 め て よい の か、 日本 人 に よる創作 なのかわか らない。
西 大 寺 人 角 塔 址 は掘 込 地 業 のみ検 出
安楽寺八角二重塔立断面図
(註30掲載図を調整)
越 i=│
第20図
安楽寺八角二重塔 (註29) 第21図
日本か らみた韓半島の古代木塔址
した もので、 そ の一辺が11.2m前 後 に達 し、 高句 麗 な どの人角塔址 を しの ぐ規模 を もつ。方形木塔llL も日本 で は
8世
紀 にな る と規模 が 一 まわ りも二 まわ りも大 きな もの が現 れ るが、 それ と軌 を一 にす る と考 えて よいだろ う。法勝 寺 八角塔址 は、年代 も降 る が、 これ らよ りも格段 に規模 が大 きい。 これ も掘 込地業 のみ検 出 し た もので柱 配置 な どは不 明 だが、
中国華 北 。東北 地方 を治 め た途王 朝 の時代 には、 山西省 の応 県木塔 や 内 蒙 古 慶 州 の万 部 華 厳 経 塔 と
い った人 角塔 が多数建 て られてお 第22図
安楽寺八角二重塔二重・二重見上図 (註30よ り)
り、 当時 、 日本 は大 陸 とのあ いだ に正式 な国交 は ないが 、突如 と して現 れ る この塔 に、大 陸の影響 を排 除 して考 えることはで きない と思 われ る。
安 楽 寺 八 角二 重塔 の構造
日本 に現存 す る唯― の人 角塔 であ る安 楽寺入角二重塔 (第20・
21図
)は
、 初 重 を裳 階 と し、裳 階天丼 上 か ら心 柱 を立 ててい る。 近年 の年 輪 年代 測 定 で 1289年 の伐採木で建 て られているこ とが知 られ たm。 この時期 の 日本 の三重塔 は、心柱 を初 重 天 丼上 か ら建 て るのが通例 で、安楽寺 八角 三重塔 もこの系譜 にの る と考 え られ る。 また この塔 は 日本 で禅 宗様 と呼ぶ様式 を用 い た典型 的 な遺構 であ る。禅宗様 の特徴 の一つ は、細 い 木割 の材 を精緻 に組 み上 げ るこ とで、現 存 遺構 で は柱 も細 く建 物規模 が小 さい ものが 多 い 。 安 楽寺 人 角 三 重塔 も裳 階部 分 の平 面 が 一 辺2.6mであ り、全 体 的 に規模 が小 さい の は、禅宗様 を用 いることもその要因の一つ であ ろ う。
裳階部分 を除 く安楽寺八角三重塔の構造は、一言で言えば、方一間の木塔 を心柱 を中心 に
45° 回転 させて合体 させた構造である (第22図 )。 方形木塔では、側 まわ りか ら挺出す る組 物の横架材 を内部 に引 き込んで対辺の組物 と接続 し、その組物の横架材 を構成する とい う 構造が基本である32。 安楽寺八角三重塔 の初重以上 は各辺1間であ り、方1間の塔で直交す る0°
。90° の構造体 を造 り、 これを45° 回転 させ た45° と135° の構造体 を合体 させ て側 まわ りを繋いだ形態である。紙幅の関係 で詳述 で きないが、各方向か ら部材が集 まって断 面欠損が大 きくなると考え られる部分 も、対辺 と連結す る水平材が
3段
程度重 なることを 利用 して、巧みに組み合わせている。 これを安楽寺型 と呼ぼう。この形式は古代以来の方形木塔の構造 を応用 した もの ととらえることがで きる。 したが って、 日本の木塔が現存す る
7世
紀 まで遡 らせ ることが可能 な構造 と考え られ、 さらには 日本の木塔l■と共通点が多い韓 国の木塔l■の復原 にもこの構造 を適用で きるだろう。 これ よ り規模が大 きくなって、各面の柱 間が3間
となる場合 も想定で きるが、 この場合、木組 みが さらに複雑 になる。後述す るように対辺間距離が大 き くなると、材料の問題 も出て く る。 このような問題点 を整理・改善 したのが応県木塔の構造 と考えられる。応県木塔の構造
応県木塔 は初重 に裳階 をもつ内部
9層
、外観五重の塔で、1056年の建築 である (第23・ 24図)。 第3表
の ように、塔身初重樽壁外側の規模 は各辺10.8m、 基壇の規 模 は各辺14.6mに お よぶ。建物側 まわ りは各面3間
、内部入側柱筋は 1間 として、側柱 と入 側柱上 に組んだ水平材で緊結 し、 またその上 に立てた暗層 (天丼)の
柱 と水平材 とに筋違 を渡 して緊密 な構造 としている34(第25図)。 側柱 と入側柱 間の横架材で建物 の周囲を緊結 し、中央部に大 きな構造的意味 をもたないこの形式 を、私 は八角環状構造体 と呼んでいる35。
つ づ いて具体 的 な組物 の様相 をみてみ よう (第26図)。 隅 の組 物 は、建 物 の各辺 と直交
応県木塔の二重 を中心 とする組物
(筆者撮影)
第25図
応県木塔の八角環状構造体 信主34より)
第27図
応県木塔の二重内部の構造
(筆者撮影)
第23図
応県木塔 (筆者撮影)
籍
日本か らみた韓半島の古代木塔址
。
1 5 10M
第24図
応 県木 塔 断面 図 (註33より)
401
す る ものが 主 とな らず 、 隅行 方 向 の ほか 各 辺 と平 行 す る方 向 を 中心 に挺 出す る。 側 まわ りは柱 間
3間
に割 り、 中央2 本 の柱 上 は各 辺 に直 交 す る方 向 に組 物 を挺 出 させ て 内部 に 引 き込 み 、 入 側 柱 隅 の組 物 と 連 結 す る (第27'28図
)。 こ の た め 中央 間がや や広 く、 中 備 に詰 組 の組 物 を置 く。 入側 柱 上 の組 物 で挺 出す るの は、隅行 方 向 と各 辺 と平 行 す る方 向 を基 本 と し、 入 狽〕内部 で も 組 物 を組 む ものの、対 辺 あ る い は対 角線 の組 物 とは連結 し ない。
この よ うに、側 まわ りを 3 間 、 入 側 を
1間
と して 、 側 柱上 は隅行方向の組物 を中心 として各辺 と直交す る方向の組物 を備 えず、側 まわ り中央 2 組の組物 を内方 に引 き込んで入狽I隅の組物 と緊結 させ る方法 は、応県木塔の ように規模の 大 きな人角塔 には有効であろう。側柱 と入側柱 を横架材 で緊結 して八角環状構造体 を形成 し、対辺 との関係が希薄 なのは、安楽寺型や 日本 に現存す る古代以来の木塔 の構造 と異 な る点である。 これを応県木塔型 と呼ぼう。応県木塔型 は、規模 の小 さな塔で も採用で きる と思われるが、規模 の大 きな塔の場合 によ り効果 を発揮す るだろ う。ただ し、 この型式が5〜 8世
紀 まで遡 るか どうかは明 らかでない。中国の薦塔 などか ら推定 される木部構造
第
3表
に掲 げた現存す る楼閣式の碑塔や樽身木 槍塔の構造 について、上記の安楽寺型 と応県木塔型の構造 を勘案 して考察 してみ よう。 ま ず、江南地域 の人角塔 を蘇州瑞光塔 を例 にみると、塔 身各面の中央 を扉口 (火灯窓)、 そ の両筋 を連子窓や壁等 とす ることによって、3区
に分 けるのが一般的である (第29図 )。ただ し、各隅の ような円柱 あるいは人角柱で区分 けす ることは稀 で、方形の方立等 を用い て分け られてお り、当然のことなが ら方立 は頭貫の下で止 まるか ら、各面一間 と解釈す る ほうが 自然である。
組物 は詰組で頭貫上 に配 される。江蘇省・蘇州雲厳寺塔 では詰組 によって各重の各面を
/多/ク
第28図
応県木塔の五重見上図 (註34より)
日本か らみた韓半島の吉代木塔址
3区
に分 け、蘇州瑞光塔 では、初重か ら三重 を各面3区
、四重か ら七重 を各面2区
に分 け ている。瑞光塔では方立の直上 に組物が配 されてお らず、方立 と組物の関係 は希薄であっ て、やは り基本は各面l間で詰組 を用いていると考えることがで きる。また、江南地域の樽身木権塔では、人角隅の組物 を、隅行方向す なわち八角の中心か ら 放射状 に伸 びる方向 と、各辺か ら直交す る方向の計
3方
に挺 出 させ るのが一般 的である (第29図 )。 この隅で挺 出 した肘木は、 日本の安楽寺八角碁 の裳階の ように、内部では隅 方向のみに引 き込 まれているが、木造 に忠実な構法 とす るな らば、安楽寺八角三重塔の初 重〜三重のように、対向する面の組物 まで通す構造 と考 えるのが 自然だろう。いっぽう、各面詰組の挺 出 した肘木は、対辺の組物 まで通す とい う考え方 と、内部 も詰組部分で完結 するという考 え方の
2通
りがある。 これは各面 を3間
と解す るか、1間
と解するかによる が、上述の ように方立 と組物の関係が希薄で、各面1間と解釈で きることか ら、安楽寺型 の構造 を想定で きるだろう。 したがって、安楽寺型の構造 は、江南の樽身木槍塔 に共通す ると解釈で きる。いっぽう華北・東北地域の人角楼 閣式の碑塔 をみると、塔 身各面 は柱形 を刻んで中央 間 の広い
3間
に割 り、柱上 には組物 を置いて、中央間の中央 に詰組の組物 を置 く、 とい うの が一般的である (第30図 )。 各重隅の組物 は、隅行方向に挺出させ るほか、壁 と平行す る 肘木は挺 出させ るものの、各壁面 と直交す る方向には肘木 を挺出させ ないことで一貫 して いる。 これは応県木塔 でみ られる構造であ り、応県木塔 の側 まわ りで内部 に引 き込むの は、各隅の隅行方向 と各面柱上の肘木であって、各面中央の詰組の組物 は内部構造 との関 係が希薄である。以上か ら、江南地方の人角塔 は各面1間で、組物の構成 も安楽寺型 と共通 し、華北 。東 北地方の人角塔 は各面3間で、応県木塔型の構造 と共通 していると考 えることが可能であ る。ただ し、 これは建物規模 に姑応 した構造でな く、地域差の可能性 を否定で きず、 さら なる検討が必要である。
第30図
万部華厳経塔の初重 と二重の組物
(筆者撮影)
第29図