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写真における時間の傷痕

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Academic year: 2021

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写真における時間の傷痕

―― いかにして不定形の傷痕は時間の結晶として現れるか ――

江 澤 健 一 郎

序 写真と時間

「カシャ」

写真機のシャッター音は,裁断機の刃が下りる音を想わせる.まるで時 間が切断されたような音がする.

実際,カメラは切断する.まず空間において,被写体をフレームによっ て切断し,世界からイメージを剥離する.そして同時に時間において,や はりイメージを時の流れから引き剥がし,過去の一瞬においてそれを凍結 させる.過ぎ去るイメージに防腐処理を施し,記録し,存続させる.世界 というイメージは絶え間なく変化し続ける流動的なものだが,写真はその 生成変化するイメージを,決して変化しない非時間的イメージへと変換す る.シャッター音が共鳴させるのは,その切断の音色であり,フィルムは 切断面の映像を定着させる.

そのように写真という存在は,時の流れから乖離し,宙づりになった存 在であり,しかも永遠化した瞬間を,無限に複製可能で反復可能な映像と して呈示する.繰り返し現在において現れうる映像として.しかし写真は 同時に,過去という時間において凍結された映像,過去という時間の存在 を示す指標であり,それを見るわれわれに,失われた時と接することを可 能にする.亡くなった祖母,失われた町並み,若き日の自分,写真は失わ れた時をめぐる時間性を感じさせる.その意味では,すべての写真が過去 の印を帯びているともいえる.しかしすべての写真が,時間の存在を顕著 に感じさせるわけではない.むしろほとんどの写真は,時間を忘却させ,

無時間的な永遠性,時間の凍結,そして無限の複製可能性を感じさせる.

都市に氾濫する広告写真を見ながら,一度も会ったことのないスターの映 像を見つめながら,一体誰が,失われたものや時間性を感じるというのか.

失われる暇もなく流通し,消失するどころか複製によって増殖し続けるも のの映像であるかのように,写真はアクチュアルな情報伝達の手段として,

(2)

世界に溢れかえっている.

しかし一枚の写真が,突如として時間の光暈を帯び,それを見つめるわ れわれの目を捉え,時間の存在を感じさせることがある.写真が,時間の 痕跡として自らの本性を明かし,時間が残す傷痕を捉え,露にし,時間の 存在を示すことがある.われわれは,写真に刻まれたそのような傷痕につ いて,これから考察する.

この考察は,ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille,1897-1962) が雑 誌『ドキュマン』(Documents,1929-1930) において用いた「不定形」とい う概念や,アメリカの論理学者パース (Charles Sanders Peirce,1839- 1914) による「指標記号 (index)」の定義,ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuze,1925-1995) が映画論において用いた「時間の結晶」という概念 を手がかりとしながら,次のようないくつかの命題をめぐって展開する.

写真は,痕跡という印しるし,言い換えるなら「指標」という記号によって時間 を指し示す.そして時間の指標は,形ならぬ形である「不定形」という様 態をとる.最後に,写真そのものがあらかじめ指標として存在している,

つまり時間を指し示す写真は,指標の指標という様態をとる.

これは写真史の試みでも,写真についての包括的概説の試みでもない.

われわれは,この写真論において,ごく少数の限られた写真作品しか扱わ ない.写真を前にした視覚体験において,われわれに触れ,われわれの体 験にかかわってきた要素を出発点として,写真体験における時間性の印象 をめぐって,ごく限定的な写真論を試みる.

まずわれわれは,特定の被写体,時間という見えないのを見えるように する被写体について考察する.その被写体とは,文字通り「傷痕」である.

1.時間の傷痕

「痛っ」

からだ

を覆う皮膚に裂け目が入るとき,痛みは現在形で表される.「痛い」

「痛い」「痛い」.傷口がすでに開き終わり,それ以上裂けることがなくと も,それでも血は流れ,「痛い」.このとき痛みを表す言葉は,時間の流れ の中で,現在の先端を走り抜けているように聞こえるが,「痛い」と口走 るとき表そうとしていた痛みは,せいぜい寸前の痛みであり,あるいはそ れまで引き続いてきた痛みであり,「痛い」と叫ぶときに,それでもなお 引き続くと予想された未来の痛みである.現在形の「痛い」は,倍音のよ うな過去の痛みに半ば浸り,その深さを響かせつつ,これから先の痛みへ

(3)

向けてさらに声を高め,響き渡らせる.

痛みは,そんな急迫した時間の体験を伴っている.

「痛かった」

傷は,そんな記憶を残す.そして傷痕は,そんな記憶の印となる.かつ て起こったこと,起こってしまったことを刻み込む,過去の痕跡として.

つまり傷跡は,時間が通過していること,通過したことを身に刻み,現し,

見えるようにする.

時間は,見えない.時間は,決してひとつの個物ではなく,形を持たず,

目に見える物としてそれ自体が現れることはない.時間は,決して不変的 な形態ではなく,特定の明瞭な輪郭を持たず,むしろ形態の下に潜み,絶 えずそれを脅かし,蝕む.不断の生成変化として.だから時間そのものは 見えないが,しかしその効果は,ときには顕在的な印として現れる.それ は時間の作用としての「蝕み」の印,つまり傷痕である.

2.石内都の写真

石内都(1947-) は,身体部位を撮影した一連の接写で知られる写真家だ

が,彼女の写真は,まさに時間の傷痕を捉え,見えるようにする.特に連 作《SCAR(傷痕)》は,文字通り傷痕をクローズ・アップ撮影した写真で 構成されている.1999年に開かれた回顧展,「石内都,モノクローム ――

時の器」展(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室,105日−1211 日)においては,それらの傷痕の写真が多数展示されていたが,大判の印 画紙にプリントされたそれらの写真は,圧倒的な存在感を放っていた1). それぞれの写真には,「傷が刻まれた年,原因,撮影年(プリント年)」を 記したキャプションが添えられている.まるで医学写真に添えられたかの ようなキャプションは,ドキュメントとしての写真の性格を強調し,得体 の知れない症候を示しているようにも見えるが,同時に「痛かった」過去 の記憶を指し示している.同時期に,傷痕の写真のみを集めた小規模な個 展「SCARS」(ツァイト・フォト・サロン,104日−23日)も開かれてい たが,ここで展示された巨大な横長の写真は,傷痕を見つめるわれわれを 呑み込み,「痛かった」過去へと巻き込んでいくような,異様な印象を与 えるイメージであった.

傷痕の一連の写真は,まずは得体の知れない謎として現れる.そこでは 視界一杯に,細やかな質感をなす粒状のものが広がっている.量感を持ち,

(4)

触覚的で,ノイズのような物質が視覚を覆う.どこかで見たような,身近 な素材が,印画紙一面に広がる.それは印画紙の繊維をなすような,肌理 . 接写によって拡大された皮膚.われわれの頭部を超える大きさに焼き付け られたそのイメージは,われわれの視覚を占拠するのみならず,われわれ の顔に食らいつき,貼り付き,癒着するような物質である.形をなすとい うよりも,素材の質感のニュアンスを露にし,波のような捉えがたい形状 をなす粒子の集積.しかしその中央に,なにかが口を開けている.形態の ようではあるが,むしろ,印画紙という平面を毀損する「壊れた形」のよ うだ.それは傷痕,皮膚の裂け目であり,肌とはまったく別の存在感を放 って現れる.それは躯に刻み込まれた印しるしであり,それを見つめる我々の神 経をも疼かせるような感染力を帯びている.「痛かった」という過去がか つてあったことを,それは見えるようにする.

《SCAR(傷痕)》がわれわれに見せ,見ることを強いるのは,そんな 傷痕である.彼女のカメラによって,傷痕はクローズ・アップされ,焦点 を当てられ,個人の身体から切り出され,独立した存在感を与えられる.

痛みを負ったひとりひとりの躯から自律することによって,傷痕は特定の

「誰か」の傷というよりも,むしろ傷そのものとして,われわれの傷口と なり,それを見る者の神経を疼かせる.

そしてそのような裂傷の痕跡ばかりでなく,年輪を刻み込む皮膚の皺も また,時間の印,傷痕として現れる.日々の表皮の動きが生み出す褶曲が,

蓄積し,どんなに微細なものであろうとも,その痕跡の堆積が,「時間が 経った」という過去形を皮膚に刻み込んでいく.日々,時間によって穿た れ,過去を積み重ねていく躯は,人間が胎児から歩む道のりを,その疼き として抱え込んでいる.そして胎児の肌でさえも,微視的には無垢ではな く,細かな皺を刻まれている.皮膚は,そのように褶曲として,時間を折 り込む.

石内が,自らの祖母を撮影したシリーズ《1899》,そして舞踏家大野

一雄(1906-) を撮影した《1906》は,そんな時間の傷痕を見えるようにす

る.そのタイトルが示す数字は被写体の生誕年であり,老境に至った現在 の躯がたどった時間的な隔たりを示している.接写された《1899》の手,

顔に刻み込まれた皺は,撮影年1990年までに石内の祖母が経験した日々 の生活の痕跡である.そしてシリーズ《1906》は,まさに身体を糧とし て生きる舞踏家の躯のイメージであり,執拗な接写によって露にされた肉 体の驚異的な襞は,これまでにその身体が経験した伸縮の痕跡を示し,見

(5)

事に時の響きを奏でている.肉がいかに波打つものであるか,いかに躯が 波動に貫かれているか,そして時間に貫かれているか,《1906》は顕在 化させる.

あるいは皮膚の褶曲でなくとも,日々の摩擦によって厚みを増したタコ,

あるいはアカギレ,ササクレ,肌荒れ,ウオノメ,ニキビ跡,うっすらと 生えたヒゲ,歯の欠落,それらもまた,出来事を刻み込む程度こそ異なれ,

やはり時間の印,傷痕として現れる.躯はさまざまな印を孕んでいる.や はり石内が,同世代の手や足を接写したシリーズ《1947》,指の接写シ リーズ《爪》2)において示すように.

そしてまた躯に刻み込まれる瘢痕ばかりでなく,空間における塵埃,壁 面の亀裂,床の破損,水による侵食,もはや誰も住まなくなった場所,そ れらもまた時間を感じさせる.傷はいたるところで口を開け,絶え間なく 増殖する.廃屋の写真は,空間におけるそのような傷痕を顕在化させる.

やはり石内の《互楽荘》《Bay Side Courts》《EMクラブ》は,時の印 を捉え,視覚的に呈示する.

時間は,風が風紋を残すように,それらの痕跡を可視的な印として残し ていく.そして写真は,物質に刻まれたそれらの痕跡に焦点を定め,世界 から引き剥がし,一枚の矩形のイメージへと変換する.さて,ここで改め て考えてみたい,写真空間において印として現れるそれらの痕跡は,時間 の傷痕は,どのような形をしているのだろうか.

3.連続の印

「痛っ」

痛みがいつかは和らぐように,だんだんと,いつともしれず治まるよう に,時間は絶え間なく流れ,世界は変質し続ける.時間は,空間は,ひと つながりに連続して流れながら変わり続ける.だから「痛い」と言うとき,

ひとが感じるのは「痛かった」であり「もう痛くなくなる」なのだ.程度 を変えながら異なりゆく変化が時間として展開する.

そして傷口は,形というよりも壊れた形であり,そこからわたしは流出 する.わたしの血が流れ出し,わたしではない世界へと,外界へと侵入し,

浸透し,わたしは拡散して流動化する.わたしが外へと溢れ出す.そして 外もまた,わたしの中へと侵入し,流入する.大気が,砂利が,水が,黴 菌が.外が内へと感染し,わたしの境界は侵され,わたしはわたしでない ものと共にある流れとなる.内は外へ,外は内へ.傷口という開口部に乗

(6)

じて,連続は,時間の中で展開し,空間においても展開する.傷口という 形態の裂け目を通じて,わたしの形態は破損し,外とつながり,不特定な ものとなる.

だから傷痕は,二つの連続の印なのだ.時間という連続,そして空間と いう連続を,それは示している.

身体部位の境界を越えて広がる傷痕,物体の個体性を超えて空間全体に 広がる塵埃,繁茂する蔓植物,物体の風化,損傷は,写真において連続の 印として現れる.あるいはネガ・フィルムそのものの破損,腐食は,ある いは現像写真の退色,画像劣化,印画紙の損傷は,やはり被写体の個体性 を横断する連続的な傷痕を,写真に現れさせる.

「痛かった」

傷痕は,そんな経験を明示している.切れた傷口は,縫合し癒すことが できる.しかしそれを無傷へと戻すことはできない.損傷の経験は,不可 逆的な時間の経験であり,起源の無垢へは回帰することができない.もう

「異なってしまった」のであり,かつてと「同じ」には戻れない.だから 傷痕は,時間が「異なりゆくこと」であることを具現している.

そして傷痕を消すことができないように,その傷が印す痛みもまた忘却 することができない.たしかに「もう痛くない」が,どこか「まだ疼く」. もはやそれは現在の痛みではないが,まだ痛む.引き続き.傷は,そんな 時間錯誤の体験へとひとを導く.傷痕は,想起させる,痛みを,そしてわ れわれが外と交わったことを.それは連続性の印である.そしてその形は,

不定形である.

4.不定形,過剰

傷痕は,皮膚という境界,内と外の境界が攪拌された,その連続の印と して,起伏に満ちた不穏な皮膜を形成し,躯という形態が損なわれた印と して,形態の損傷そのものとして存在する.それは形ではなく,破れた形,

ほつ

れ目であり,身体の等質性に穴を穿ち,躯を異質なものに変える.それ をジョルジュ・バタイユに倣って「不定形アンフォルム」と呼ぶこともできるだろう.

「不定形」は,バタイユが,自分が中心になって発行していたグラビア雑 誌『ドキュマン』において用いた概念だが,それは「無形アモルフ」を意味するの ではなく,「定まった形」ではない「形」,形を侵害する形を示している.

当時のバタイユはシュルレアリスムに見られる「イデアリスム(理想主義,

(7)

観念論)」を批判していたが,論考「不定形」(« Informe »,1929) におい ては,おそらくプラトニスムを意識して,哲学におけるイデア的な観念性,

形相的な形態(ここでは〈数学的フロック・コート〉と呼ばれている)を 批判して,それに対して「不定形」という形容詞を突きつける.

すべて哲学というものは他の目的を持つものではない.つまり存在す るものにフロック・コートを与えること,数学的フロック・コートを 与えることが問題なのである.それに対して,宇宙がなにものにも似 ておらず不定形

...

でしかないと主張することは,宇宙がなにか蜘蛛や痰 のようなものであると言うに等しい.

(バタイユ「不定形」)3)

不定形は,既定の「なにか」には似ておらず,「なににも」似ていない が,「なにか蜘蛛や痰のような」侵犯的な形態である.「なにか……のよう な」,つまり既定の形態ではないが,無形ではない.そして現在のわれわ れの文脈でいうならば,傷は,「身体の形態」という規定された形,既知 の対象として同定される形を変質させる不定形である.西洋美術において,

「人体比例理論」は,古代ギリシアのポリュクレイトス(Polyclète) に始ま り,近代に至るまで強い規範的な影響力を発揮したが,その規範に従って 表される「人体均衡図」のような身体表象が,人類に共通する理想的で同 一的な身体形態を示していると「される」ならば4),傷はそのような同一 性を損ない,身体形態を毀損し,差異を発生させる.つまり,分類可能な 形態を分類不可能な特異な形態へと生成変化させる(傷に特定の形態とい うものはない,傷痕はそれぞれ異なった特異な形をしている).規定され た形が,不動の永遠性を湛え,安定した均衡状態を保つとするならば,不 定形は,均衡を横溢する不安定な過剰性を示す.

だから傷痕は,形態に癒着した過剰なのだ.身体に刻まれる傷のみなら ず,年輪を刻み込む皮膚の皺もまた,身体の形態を溢れ出す余剰,不必要 な残滓としての形である.あるいは廃屋の壁面に広がる亀裂,ひびは,そ こに増殖する蔓植物は,降りつもる塵埃は,空間の機能的な等質さを損な い,その形を侵害する過剰なるものであり,空間を不定形へと変貌させる.

剥落しつつある壁材,塗料の遺骸は,空間に醸成された過剰である.ある いは褶曲の無限のグラデーションを描く伸張した皮膚の弛

たる

み,余分な皮膚 の質料は,あるいは表皮にそして肉に刻まれた,できるものなら消し去り

(8)

たい傷痕は,まさに形態における過剰であり,空間に蔓延

は び こ

る余計なもので ある.つまり時間の印は,形を損なう過剰,不定形の形態として現れる.

では,時間の印となるこの傷痕,不定形の形態,過剰な形態は,実際に は,つまり「視覚的」には,なにを示し,なにを露にしているのだろう か.

5.露呈する素材

傷口は,内を外へと曝す.血液を流出させ,肉を露出させ,身体の別の 次元を垣間見させる.そのとき露呈するのは「素材」という身体の潜在的 な次元である5).身体の素材性は,通常は忘却されている.日常行動のレ ベルにおいて,身体は活動のための効率的な道具であり,分割可能な諸部 分とその有機的総合によって成立している.それは等質な全体として想定 され,表皮を境として輪郭線を描き,明確な形態として現れる.理想的な 身体のイメージが示しているのは,そのような「形態」である.古代ギリ シア・ローマの彫像が示しているような身体,永遠なる神性を具現する滑 らかで破綻のない形態が表そうとしているのは,身体の素材性から離脱し た身体の形相性である.しかし,現存する古代彫刻は,時間の侵食にさい なまれ,部分的に破損し,傷んでいる.摩滅し,手や足といった部分が,

ときには頭部が欠落し,亀裂が生じ,傷が刻まれている(『ミロのヴィー ナ ス 』,『 サ モ ト ラ ケ の ニ ケ 』 … … ). ア ン ド レ ・ マ ル ロ ー (André Malraux,1901-1976) に倣うならば,こうして彫刻作品は「変貌」し,時 間の刻印を帯び,魅力を損なうどころか味わいを増し,別の魅惑を帯びて いくのだが6),この変貌において実際に「視覚的」に現れ始めるのは,彫 刻の素材的次元である.破損部分から覗くのは,たとえば大理石という素 材であり,そこに現れているのは,形態というよりも「壊れた形」,決し て一様ではない複雑な様相を呈する部分である.そして生身の身体におい ても事は同様であり,傷口からは肉という素材が露出する.もちろん身体 の表面においても,微視的に見れば常に素材性が現れているのだが(皮膚 の肌理

,垢……),傷はその潜在的な素材性を一挙に現前させる.

典型的な広告写真やファッション写真,あるいは最近よく見かけるよう なCG処理によって毛穴を消去され,等質な表面性と滑らかな形態へと 還元された身体イメージは,身体から可能な限り素材性を消去しようとす るが,それとは全く逆に身体の物質性を浮き彫りにしようとする写真家達 もいる.たとえば石内都の傷や爪の写真は,傷つき,成長し,老いていく

(9)

物質としての身体を捉え,その素材性を顕在化させる.あるいはアーヴィ ング・ペン(Irving Penn,1917-)が撮影した一連の女性ヌード写真《俗世 の身体》(Earthly bodies, 1949-1950) は,モデルの顔をフレームからはず し,肉付きの良い胴体に焦点を定め,肉という身体の潜在的次元を現れさ せる.あるいはまた,荒木経惟(1940-) が撮影するヌード写真は,どこか 唐突で,体臭が漂うかのような肉体性を感じさせる.そして人体の写真に 限らず,荒木が撮影した花々の写真もまた,花という植物の素材性を露に する.荒木の花の写真は,墓地の供花を撮影した《彼岸花》(1967 年) のシ リーズで始まっているが,彼は,半ば枯れた花々を好んで撮影している.

つまりそれらの花は,既定の花の形態から変質し,壊れた,しおれた不定 形へと変貌しつつある.そしてその不定形の部分は,もはや花弁とはいえ ない物質と化している.そこに現れているのは,身体における肉と共通す る,花における潜在的な素材の次元である.しかもその不定形は,花の物 理的変質を,変質する時間を,花の「死」を示す印として現れる.

素材は,そのように形の解ほつれとして現れるが,通常それ自体としては現 れえない潜在性である.「素材」はプラトン(Platon,前428−前348) 以来,

哲学において「形相(形態)」の対概念として用いられる用語であり,プ ラトンやアリストテレス(Aristote [Aristotelês],前384−前322) において は,形相化される限りにおいて問題となる.つまり,素材は現働化された

「形態化された素材」となって初めて認知され,思考されるのであり,純 然たる素材とは,思考しえないもの,存在の秩序に属さない非存在に他な らない.たとえば,土塊によって作られた球体と立方体があるとする.土 塊は素材であり,球と立方体という規定は形相を示している.土塊自体は 形を持たず,無規定であり,球や立方体という観念(イデア)による規定 を受けて初めて,形を持ち,名付けえるものとなる.素材そのものは,球 にも立方体にもなりうるものであり,それ自体では「なにでもない」.土 塊は,球や立方体として,あるいは最低でも大地として,形相を帯びた素 材として現れるのであり,土塊そのものは存在しないと考えられる.そし て球や立方体という観念が,朽ちることを知らない永遠性であるのに対し て,素材によって形成された球や立方体は,時間とともに変質し,形相性 を失墜していく.観念,形相そのものが普遍の存在であるのに対して,素 材性を帯びた形相は,変質して変化していくもの,真に存在するとはいえ ない非存在としての性質を帯びる.素材は,そのように非存在とみなされ るのだ.だから問われるのは形態であり,素材ではありえない.たとえば

(10)

大理石の彫像において問題となるのは,人物の形態であり,大理石という 素材が問われるとしても,それは素材そのものとしては無化され,形態に 従属したものとして,「材料」として問われるにすぎない.あるいは大理 石という材料が,たとえば石の塊が,そのものとして問われているように 見える場合でも,問題化されているのは「資材化」された材料であり,現 働的な彫像や建築物への,作品への現働化の過程にある材料であり,「素 材」そのものではない.つまり,素材そのものとは,特定の形態を持たず,

命名しえない純然たる潜在性なのである.

そして素材は,現働的形態の解ほつれ,不定形として現れるが,不定形はい わゆるデフォルメとは異なる.デフォルメは,既定の形態を故意に変形す る技法だが,そこで問われるのはあくまでも歪曲された「形態」であり,

歪められた形態が何の形態であるかが最終的に同定されなければならな い.デフォルメされて引き延ばされた身体,あるいは誇張された顔貌の特 徴は,あくまでもそれが何の形態であるかが認知される必要がある.しか し不定形は,決して特定の形として同定されるものではない.たとえば,

石内都の一連の写真《SCAR(傷痕)》を見つめるものが目にするのは,

決して「傷痕」という「同じ形」ではない.窪み,曲線,直線,波形,傷 痕はそれぞれ特異な姿態を曝している.そこに現れているのは,さまざま な多様な形であり,同時に形態の損傷,露呈した素材である.それは決し て「形へと昇華した素材」ではない.しかしそれでもやはり形でもある.

では,不定形というこの現れは,一体何を示しているのか.

6.時間の結晶

そこに現れているのは,結晶である.形と素材,現働的なものと潜在的 なものの結晶である.しかしそれは,ある対象へと現働化した素材,形へ と昇華された素材ではない.つまり総合され一元化した形と素材ではない.

結晶は,逆に多重性が透視される装置である.傷痕は形へと現働化してい るが,同時に潜在的素材の露呈に他ならない.形と素材は異なる,しかし 傷痕は素材の形を,形なき素材の形を露にする.それは不定形という形で あるが,それは素材である…….形と素材の弁証法は,止揚されず,分裂 状態で現れる.このような絶え間なき弁証法的不均衡が,癒されぬ裂傷と して,傷痕において現れている.この結晶を通して,現働的形態と潜在的 素材の二重性が,識別不可能なものとして,現れる.特異な傷の形である 不定形,形なき素材の形が,形と素材の二重の結晶を顕在化させる.

(11)

そして傷痕というこの結晶は,同時に現在と過去の結晶,時間の結晶に 他ならない.傷痕は現在の身体という現働的な現在を示すが,同時に「痛 かった」という過去の潜在を示す.現在の身体と共存する身体の記憶を示 す.傷痕とは,現前する「傷痕」であると同時に潜在する過去の「傷」で ある.そして現在とは,つまり現前する傷痕とは,不定形の形であり,潜 在する過去とは,傷として露になる肉,素材である.この二重の結晶に,

われわれは時間の現れを見いだす.

ジル・ドゥルーズは『シネマ2,時間イメージ』(Cinéma 2, L’image- temps,1985) の第4章において,映画における「時間の結晶」について論 じている.ドゥルーズは,アンリ・ベルクソン(Henri Bergson,1859- 1941) の時間論について注釈しながら,時間の二重性について,結晶とい う比喩を用いて考察する.ベルクソンが論じるように,過去とは決して過 ぎ去った現在ではなく,現在は同時に過去として潜在化しているはずであ る.つまり時間とは絶えざる分裂,二重化であり,一方は未来へと向けて 現在を押し進め,もう一方は現在を過去として保存する.そしてこの現働 性と潜在性の共存する二つの水準が,結晶として現れる.

ドゥルーズは,この結晶を映画におけるイメージの問題として論じるの だが,「結晶イメージ」とは,共存す

る二つの水準を呈示するイメージであ る.ここで参照されるのが,ベルクソ ン の 『 物 質 と 記 憶』(Matière et mémoire,1939)である.その第2章に おいて,ベルクソンは,有名な図を用 いながら知覚と記憶の問題について論 じている(図1)7).人間の知覚は,純 然たる知覚とはいえず,必ず何らかの 記憶の作用を伴い,知覚の延長上に,

深まりゆく回想の回路を構成する.例 えば対象Oの知覚は,A,B,C,D

という回想の深みへと広がっていく.

そして知覚主体のみならず,対象世界 の側でも,対象Oの背後に,回想の回 路の反映であるB’,C’,D’ という現

実の深層が形成される.このように, 図1

(12)

ベルクソンは現動的な対象O

と潜在的な記憶の地層について 論じるが,ドゥルーズが「結晶 イメージ」を論じるにあたって 問題とするのは,この図におけ る最小回路,つまり直接的知覚 にもっとも近い記憶の回路,A

と対象O が形成する回路であ る.この最小回路は,他の場合 のように AA’ という構成には ならない.なぜなら,最小の記 憶,対象の即時的記憶は,現働 的対象O そのものと不即不離 の状態にあり,最小の記憶は知

覚と同時的に共存しているからである.つまりO のイメージは「その」

潜在的過去と最小回路においてすら共存している.この最小回路は,『物 質と記憶』第3 章に現れる有名な逆円錐の図においては,円錐の先端Sと して記述される(図2)8).そして最小回路は,現動的な先端に対しては限 界として位置づけられるが,潜在性に対しては,そのまま潜在的な過去の 深層へと連続的に開かれている.ドゥルーズが論じる結晶イメージとは,

この共存する二つの水準の不断の生成を,つまりは時間を見えるようにす るイメージなのだ.

時間はこの分裂のうちにある,そしてわれわれが結晶の中に見

......

るのは,

この分裂,時間なのだ.結晶イメージは時間ではなかったが,われわ れは時間を結晶のうちに見るのである.

(ジル・ドゥルーズ『シネマ2,時間イメージ』)9)

先ほど論じたように,写真における傷痕は,このような二重性を透視さ せる装置,印として現れるのではないだろうか.

しかし本質的に時間とともに進行する映画イメージと,本質的に静止し たイメージである写真を同一視するわけにはいかない.その本来の性質か らいって,写真は時間を直接的に現前させることはできない.ただ時間を 示す「指標」となるだけである.「指標」とは,後述するようにアメリカ

A

A'

A"

B

B'

B"

図2

(13)

の論理学者パースの用語であり,指示対象と物理的で力動的な関係にある 記号を指す.パースは膨大な記号とイメージの分類を築き上げたが,例え ば風の存在を示す風見鶏,火を示す煙,足跡などが指標にあたる.風見鶏 は風そのものを示すことはないが,風という見えないものを示す指標であ る.そして傷痕もまた,痛かった過去があったことを指し示し,時間とい う非現前を示す指標となる(「指標(index)」はラテン語源においては「人 差し指」「指し示すもの」を意味する)10).われわれが注目した写真は,そ のような指標をファインダーに捉えていた.そしてその写真化された指標 の形式が,結晶構造をしているのだ.時間の結晶は現働性と潜在性の不断 の生成によって形成されるが,写真はその結晶構造を一枚のイメージへと,

生成変化しない一水準へと圧縮する.つまり写真化されたイメージは,指 標記号としては二重の結晶体として機能するが,イメージそのものの存在 としては,静止した一水準へと変換されている.だから写真は,時間を非 時間態において示すのだ.

そのような時間の縮減,濃縮は,たとえば黎明期の写真に顕著に現れて いる.周知のように,初期の写真は現在よりも長い露光時間を必要とした ため,モデルは長時間,同じポーズをとらなければならなかった.現代の スナップ・ショットは,一瞬のイメージを定着し,人間の行動を切断し分 解するが,初期の写真は,優に行動が展開しうるような持続した時間のあ いだ,露光しつづけ,光を定着し続ける.しかも後者の場合,露光の持続 とは逆に,被写体は行動を抑制し,こわばった表情で静止し,自己の像を 一枚の写真へと,非持続としての一水準へと圧縮しようとする11).そして 写真機は,感光材料に光による化学反応を連続的に堆積させ,世界におい て持続しているイメージを一枚の感光材料へと圧縮し,持続する時間を写 真空間へと濃縮する.

そのように写真は時間を結晶化する.瞬間的なスナップ・ショットでさ えも,初期の写真と程度こそ異なれ,やはり一定の持続を,最小限度の持 続を結晶化している.被写体の運動によるブレや手ブレが示すように,ス ナップ・ショットも,一瞬といわれる持続の軌跡を映像化する.

結晶,先ほど写真における時間の結晶を論じたとき,われわれは傷痕 という「被写体」が結晶体として現れることを見いだした.しかし初期 の写真に顕在化している持続の圧縮について考えるとき,われわれは写 真という存在そのものが時間の結晶であると考えずにはおれない.写真 そのものが時間の傷痕として存在しているのだ.そしてここでも問題と

(14)

なるのは「素材」という次元,「光」である.長い露光時間を要する初期 の写真は,光の軌跡を顕在化させる.一枚の写真へと現実化するために,

光の軌跡が堆積し,連続的に積み重なるその痕跡が,顕在的な映像を生 み出していることを,感じさせる写真がある.現代の写真においても,

たとえば宮本隆司(1947-) は,ピンホール・カメラという装置を用いて,

長い露光時間(3分から 5 分)をかけてイメージを,光を,印画紙に定 着させる.ピンホール・カメラは,暗箱の内側に印画紙を置き,レンズ を用いる代わりに針穴ほどの小さな穴を空けて撮影する装置である.宮 本は,人一人が入れる大きなベニヤ製の暗箱を用いて,その内面に(穴の 正面ばかりでなく,床面や側面にも)印画紙を貼り付け,数分間という長 い露光時間をかけて,外の光景を定着させる.2001 年に開かれた個展

「Up-side-down In-side-out」(秋山画廊,313日−47日)では,雑木 林で撮影された大型のピンホール写真が数点展示されていた.ピンホール 写真の映像は,現実の光景とは上下左右が逆転したものとなるが(通常の カメラの場合は,フィルムが介在することで,倒立像が正常な映像に修正 される),宮本は作品をそのままの姿で,つまり天と地が逆転した姿で展 示していた.そこに写し出されているのは,倒立した現実世界の眺めであ り,雑木林の木々や地面や空であるが,そこに見えているものにじっと目 をこらすとき,それらの顕在的な形態,現働的な個物とは異なる要素が,

不定形の柔らかい質感が,世界という素材,その素材性が,そして光とい う素材の次元が,通常は見えているものとして顕在化しない潜在的なもの が,薄ぼんやりと物の形に取り憑くオーラのような次元として,とりわけ 特異な色合いとして,そこに現れてきているのがわかる.時間の軌跡が,

光の堆積として,一枚の写真に集約され,われわれは「つかの間」と呼ば れる時間の深みへと入っていく.それは宙づりにされた時間であり,素材 が物の形へと現働化していく現在化する時間の流れ,そして物の形が素材 へと潜在化し過去へと落ち込んでいく時間の流れ,その二つの流れが,結 晶化する一点へ向けて求心的に集約され,そこに静止状態で現れる.凝結 したそのイメージは,もはや現働化も潜在化もしない.それは時間の零度 であり,結晶である12)

7.指標としての写真,写真における症候

われわれはここまで,写真に映し出されたさまざまな傷痕をたどってき た.そしてそれらの被写体が,それ自体として現れるのみならず,同時に

(15)

時間の指標記号として,結晶として現れている事実について考察してきた.

ここで最後に写真そのものの存在について考察しなければならない.なぜ なら,まず写真そのものが指標記号として存在するからである.

すでに言及したように,パースは膨大な記号の分類を築き上げたが,ロ ザリンド・クラウス(Rosalind Krauss) も指摘するように13),パースにと って,写真はその表意様式からいって「類似記号 (icon, icône)」ではな く「指標記号 (index, indice)」にあたる.「類似記号」とは,たとえば

「富士山の絵」のように,対象と性質的に類似した記号を指す.それに対 して「指標記号」は,対象と類似するのではなく,むしろ<その対象によ って実際に影響せられ,そのことによって,その対象の記号として機能す るもの>(パース)14)をいう.つまり指標は,対象と物理的で力動的な関 係にある.たとえば,風の方向を示す風見鶏,病を示す症候,足跡,煙と いったものが指標記号にあたる.風見鶏と風の関係は,山の絵と山のよう な類似関係ではないし,鳩と平和のような象徴関係(類似性も,物理的関 係もない)でもない.その関係は,むしろ隣接関係である.似ていない,

そもそも形を持たない風によって,風見鶏は物理的に動かされ,その方向 を示す.これが指標記号である.あるいは,パースが用いる「index」と いう用語がラテン語において「人差し指」「指し示すもの」を意味するよ うに,「これ(this)」や「あれ(that)」といった指示代名詞,つまり「わた し」「あなた」のような「転位語(shifter, embrayeur)」,言表行為がなさ れる状況や話者と密接に結びついた言葉も指標記号にあたる.そして,た とえばわれわれが,ある場所や人物の特徴を言葉で明確に説明できないと きに,写真を持ち出して「これこれ」と示すように,写真は指標記号とし て機能している.

だから,すべて写真というものは指標記号であるといえる.たしかに写 真は,世界からイメージを剥離し,薄い皮膜のようなそのイメージをある がままに呈示する.しかし,それは現実のイメージそのままではない.フ レーミングされた時点で,現実のイメージはすでに写真イメージへと変換 されている.写真機は,世界のイメージを空間的座標から切断し,フレー ミングされた矩形のイメージへと分離し,絶対化し,そして時間的座標か らも分離させ,イメージを非時間態に変換する.こうしてイメージは指標 化される.つまり写真イメージは現実のイメージと物理的で力動的な関係 を持ち,それを指し示すものだが,あくまでも現実のイメージとは異なる イメージとして存在する.そして先ほど写真における感光作用について考

(16)

察したように,写真機は,世界から光を受け取り,その痕跡をネガに,印 画紙に定着させ,光としての世界のイメージを写し取る,つまり文字通り 物理的で力動的な作用によって世界のイメージを指標化する.写真記号は,

足跡(それはまさに足のネガである)や煙のように物理的過程を経て指標 として生み出される.マン・レイ(Man Ray,1890-1976) のような20世紀 の前衛写真家が用いた技法,たとえばフォトグラムは,感光材料の上に事 物を直接に置いて感光させる技法だが,このような技法は,写真が物理的 指標であることを顕著に示している.フォトグラムは,対象の映像そのも のではなく影を,つまり指標を写し取るのだ.だから,われわれはここま で,写真に写された時間の傷痕,指標について論じてきたが,それらの指 標は,写真によってさらに指標化されていたのだ.つまりそれは指標の指 標である.たとえば,先ほどわれわれは,写真が顕在化させる素材の次元 について論じたが,もちろん問題は「写真=素材」という公式ではない.

問題は,指標としての写真が,素材性の指標を指標化する点にある.つま り写真は,イメージの素材である光や,身体の素材である肉を捉えるが,

あくまでもそのような素材の指標を捉え,それを写真的な指標へと変換す るのである.例えば光という素材は,明暗の変化や色調の変化という指標 によってその存在を示されるが(そのような「変化」は同時に時間の指標 である),宮本隆司の写真は,そのような変質する時間的な指標を,静止 した一枚の写真へとさらに指標化する.

あるいはネガの腐食について考えてみよう.パブロ・ピカソ (Pablo Picasso,1881-1973) が撮影した写真には,保管状態が悪かったために部分 的に腐食したネガがいくつもみられるが,ネガの腐食は,それ自体が,保 管状態の悪さ,湿気,時間の経過を示す指標である.1998年に開かれた

「ピカソと写真」展(Bunkamuraザ・ミュージアム,1998 年6 6 日−

28 日)においては,腐食したネガからプリントされた写真が多数展示され ていたが,それらのプリントは,腐食という指標の指標化を示している.

プリントは腐食部位そのものを示すのではなく,その影(指標)を呈示す る.そのような指標の指標化は,イコール「同じ指標」にいたるかといえ ば,必ずしもそうではない.確かに写真において示されるものもまた指標 なのだが,それはいわば被写体の指標性を二乗した指標なのだ.別の言い 方をするなら,写真によって指標は記号として自律する.

先ほど述べたように,ネガの腐食は,ネガの保管状態の悪さ,湿気,現 像後の時間の経過を示す指標である.しかし,そのネガからのプリントは,

(17)

そのような腐食の発生条件から切断されている.ピカソが撮影したクロヴ ィス・サゴ(Clovis Sagot) やジョルジュ・ブラック(Georges Braque,

1882-1963) のポートレイトのネガは変質し,黒い腐食部位が,人物を取り

巻く後光のように広がっている15).形の定まらないその部分は,まるで海 底の海藻のような不思議な形態を示している.われわれの目の前に現れて いるその部分は,もはや物質的な変質の痕跡である「ネガの腐食」ではな く,「イメージそのものの腐食」へと変質している.それはもはや変質部 位,黴,傷といった「イメージに付着した損傷」という外在的なものでは なく,フレームによって世界から切断されてフレーム内に収められた,イ メージに内在する腐食部位であり,イメージの奥深くに食い入り,それと 一体化し,その内奥を侵蝕する不定形である.それはイメージと癒着した 領域であり,イメージの全体を損ない侵害している過剰性である.過剰,

つまりその部分は,通常の光の定着と比べて変調をきたしており,そこで は感光材料が過度な反応をしているのだ.そこに現れているのは,そのよ うな光の痕跡なのだ.だから,「ネガの腐食」が腐食の発生条件に内的に 結びつき,その指標として形成される記号であるとするならば,その指標 の指標である「イメージの腐食」は,写真によるフレーミングによって,

発生条件との内的な紐帯を切断され,指標そのものとして抽出される.発 生条件から切断されたその腐食の指標は,原因不明の,不可解な病が示す

「症候」のようなものになる.

われわれがここまで論じてきた写真における時間の傷痕は,そのような 症候として現れる.そして症候化の主要な要因がフレーミングである.た とえばクローズ・アップという技法は,それを顕著に示している.すでに 言及したように,傷を撮影する石内都はクローズ・アップを多用している.

アップは,傷のみならず,足や爪といった身体部位の撮影にも適用されて いるが,この撮影方法によって,被写体は,個人の身体の全体やそれを取 り巻く背景から分離される.つまり被写体のイメージは,矩形の写真イメ ージへと変換されるのだが,このとき対象は症候化されるのだ.たとえば 傷痕は,現実においては「単なる」傷痕であり,個人の身体に印された外 部的暴力の指標であるが,クローズ・アップ撮影された傷痕は,私的な身 体から引き剥がされ,不可解な症候として現れ始める.ジル・ドゥルーズ が『シネマ1,運動イメージ』(Cinéma 1, L’image-mouvement,1983) で 述べているように,クローズ・アップは対象を〈空間時間的なあらゆる座 標〉から分離し,それを部分ではない実体へと絶対的に変質させる16).つ

(18)

まり撮影された傷痕は,「いつ」「どこに」あるのか,「誰が」つけた「誰 の」身体の傷であるのか,といったあらゆる座標から自律し,しかし写真 である限りは明らかに過去(非限定的な)に属するものとして,そして匿 名的な自存する傷そのものとして現れ始める.そして不定形としてのその 姿を,顕在化させる.しかしそれはあくまでも指標であり,しかも指標と して宙づりにされ,謎としての「症候」へと変貌している17).もちろん傷 の写真に限らず,爪や皮膚の褶曲や足の指や,剥落した壁材さえも,そし てクローズ・アップに限らず,フル・ショットやロング・ショットの光景,

例えば無人化した室内空間や風景の写真さえも,やはり座標系から自律し て症候化する.先ほど触れたピンホール写真についても同様のことがいえ る.宮本のピンホール写真は,いわゆる「風景写真」だが,写真化された 風景は世界から引き剥がされ,自存する任意の空間へと変貌する.たとえ,

写真に添えられたキャプションが,撮影地と撮影日を示そうとも,それは 人間の歴史的営みや出来事とのいかなる連結関係も示さず,ただひたすら 撮影が行われた「ある場所」と「ある日」を示す18).つまりキャプション が指し示すのは,任意の場,任意の時である.そしてイメージそのものは,

展示会場の白い壁の上で,あらゆる繋縛から切断され,宙吊りになってい る.その任意の空間に,座標系から解放された時間そのものが,光の戯れ として現れる.光の震え,微細な蠕動は,時間を肌で感じさせる指標だが,

宮本隆司の写真は,一定の時間の持続を,光の持続として定着する.その とき持続する光の流れは,あらゆる空間時間的な座標から抽出され,フレ ーミングされた一枚の写真へと凝縮され,症候化する.そして持続として の時間もまた,ともに写真へと折り込まれる.そのとき時間の結晶が,症 候として写真に記録されるのだ.症候とは,このようにして行われる,一 枚の写真への指標の変換である.

われわれはここまで,写真が捉える時間の痕跡をたどってきた.時間の 傷痕は,不定形の印としてその可視的な姿を現した.そして指標記号とし ての写真は,そのような時間の指標をさらに指標化していた.それをわれ われは症候と呼んだ.症候は,一枚の写真へと変換され凝結した指標であ り,持続して移り変わる時間を,一枚の写真という凝結した一水準におい て示すような,不可思議な謎の徴なのだ19)

(19)

1) これから言及する石内都の写真については,展覧会カタログ『石内都,モノク ローム ―― 時の器』(東京国立近代美術館,1999年)を参照.

2) 石内都『爪』(平凡社,2000年)を参照.

3) Georges Bataille, « Informe », Documents, no7,1929, p. 382. 雑誌『ドキ ュマン』掲載のバタイユの論文に関しては,同誌の復刻版を参照(Documents, t. 1-2, Éd. Jean-Michel Place, Paris, 1992) .ガリマール社版『ジョルジュ・

バタイユ全集』(Georges Bataille, Œuvres complètes, t. 1-12, Éd. Gallimard, Paris, 1970-1988) では,残念ながらごく一部の図版しか見ることができない.

4) バタイユが同誌1930年第2号に掲載した「自然の逸脱」(« Les écarts de la nature » , 1930)において言及しているように,多数の人物の顔を重ね合わせる と,均衡のとれた理想的な顔が構成されるという.

バタイユは,ここでガルトン(Francis Galton, 1822-1911) によるモンター ジュの例を挙げているが,ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(Georges Didi- Huberman, 1953- )は,『不定形の類似,あるいはジョルジュ・バタイユによ る視覚における悦ばしき知』(La ressemblance informe ou le gai savoir visuel selon Georges Bataille, Macula, Paris, 1995) において,そのような同一的モン タージュに対して,映画監督エイゼンシュテイン(Serge Eisenstein, 1898-

1948)の差異的なモンタージュを対置している.これはバタイユ自身が同論考

でエイゼンシュテインに言及しているからだが,ディディ=ユベルマンは,具 体例として,『ドキュマン』1930 年第4号に見開き2頁で掲載された『全線』

(La ligne générale, 1929) のフォトグラムを挙げている.エイゼンシュテイン 本人によってモンタージュされたこのフォトグラムにおいて,多様な顔は,多 様性を保ちつつ組み合わされている.

5) ここで問題となるのは,いわゆる身体の「資材性」ではない.身体の資材化は,

身体を材料としてそれを有用な目的のために活用すること,あるいは身体を活 動のための道具へ変えること,つまり,身体を経済的な活動サイクルへと投入 することを意味するが,われわれがこれから問題とする「素材」は,現働的な もの(例えば道具)の材料ではなく,潜在的なものとして存在する純然たる素 材である.「素材」は古代ギリシア哲学から「形相」「形態」と対になって使用 されてきた概念であり,語源はギリシア語の「ヒュレ(hylê)」,ラテン語では

「マテリア(materia)」,フランス語では「マチエール(matière)」,英語では

「マター(matter)」であり,日本語では文脈に応じて「物質」や「質料」とも

訳される.われわれがこれらの用語を使用するとき,前提となっているのは,

そのような哲学的な文脈である.

6) アンドレ・マルロー『沈黙の声』(Les voix du silence, Gallimard, Paris, 1951) を参照.

(20)

7) cf. Henri Bergson, Matière et mémoire, P. U. F., Quadrige, Paris, 1990, p. 115.

8) ibid., p. 181. 先端Sは,正確に言えば点とはいえない.先ほどの図の場合と 同じように,ここにも最小回路が介在している.記憶の次元を持たない人間が 存在しない以上,「点」である純粋知覚はありえない.しかし知覚する「機械」

である写真機は,いっさいの記憶を持たないがゆえに,不可能な純粋知覚を実 現してしまう.

9) Gilles Deleuze, Cinéma 2, L’image-temps, Les Éditions de Minuit, Paris, 1985, p. 109.

10) われわれが「指標」と呼ぶ時間の痕跡は,過去の現れ,消滅した不在の現れで あるというこの意味において,現在における現前とはいえず,むしろ現前の

模 像

シミュラクル

であるともいえるだろう.cf. Jacques Derrida, « La différance », MARGES de la philosophie, Les Éditions de Minuit, 1972, Paris, p. 25. 11) ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940) は,「写真小史」

1931年)において,初期の写真におけるそのような持続の役割に注目してい る.〈技法そのものが誘因となって,モデルたちは,瞬間から外へではなく,瞬 間の中へむかって生きる.かれらは長い撮影時間のあいだに,いわば生長して 映像となる.(……)初期の写真では,いっさいが持続にもとづいていた〉(田 窪清秀・野村修訳「写真小史」,佐々木基一編集解説『ヴァルター・ベンヤミン 著作集2,複製技術時代の芸術作品』,晶文社,1970年,77頁).

12) 参考までに,宮本氏自身によるピンホール・カメラの説明を引用しておこう.

〈今回のピンホールカメラは,長さが1m80cm,幅が90cm,高さが1m50cm

の箱を12mm厚ぐらいのしなベニヤ製でつくりました.真ん中に,ほぼ直径 1mmぐらいのピンホールの穴をあけたアルミの薄い板をとりつけてあります.

それでカラーの印画紙を丸めたものを箱に入れそれをもって中に入る.中を真 っ暗にしないと撮影できないので,黒いテープで目張りをしますが,この目張 りに1時間ぐらいかかります.完全な暗闇ができたら76cm×170cmの印画紙 を壁に2枚,床に1枚貼ってようやく撮影が始まるわけです.快晴の日の昼の 12時前後で露光時間が3分から5分くらいかかります〉.(「宮本隆司インタビュ ー,〈都市の無意識〉を撮る」,『建築文化』彰国社,2000 7 月号,106頁). 以上のコメントは,雑木林の写真ではなく,海辺のピンホール写真についての コメントである.『建築文化』誌の同号には,それらの海景の複製図版が,イン タビューと併載されている.また,宮本氏のピンホール写真については,長島 確「風景のふちに影が住む ―― 宮本隆司《ピンホールの家》」(京都造形芸術 大学編『現代写真のリアリティ』角川学芸出版,2003年,222-237頁)も参照.

13) ロザリンド・クラウス「指標についての覚書」を参照.cf. Rosalind Krauss,

(21)

« Notes sur l’index », L’originalité de l’avant-garde et autres mythes modernistes, Macula, Paris, 1993.

14) 米盛裕二『パースの記号学』勁草書房,1981年,152頁.パースからの引用 文は,米盛氏の著書からの引用であるが,原典の該当箇所の翻訳は,内田種臣編 訳『パース著作集2,記号学』(勁草書房,1986年)の12頁を参照.また指標 記号に関しては,同書第2章も参照(31-56頁).パースは記号を一次性,二次 性,三次性に分類しており,記号の「表意様式」のカテゴリーは二次性にあたる.

また,二次性は「類似記号」「指標記号」「象徴記号」の三つに分類される.

15) 同展カタログ『「ピカソと写真」展』(朝日新聞社文化企画局,1998年)の 101-102, 107, 111, 113-114頁を参照.

16) Gilles Deleuze, Cinéma 1, L’image-mouvement, Les Éditions de Minuit, Paris, 1983, p. 136.

17) 1929年という早い段階で,そのような症候的なクローズ・アップ写真が,雑

誌『ドキュマン』に多数掲載されていた.同誌掲載のバタイユの論文「足の親 指」(« Le gros orteil », 1929) に添えられた,ジャック=アンドレ・ボワッフ ァール(Jacques-André Boiffard, 1902-1961) 撮影による《足の親指》のクロ ーズ・アップ写真などを参照.

18) 東京都現代美術館で開かれた展覧会(20021112日 ―1215日)の カタログ『傾く小屋,美術家たちの証言since 9.11』(セゾン現代美術館,セゾ ンアートプログラム,2002年)には,宮本隆司撮影のピンホール写真が掲載さ ており(同書122-135頁を参照),そのそれぞれには撮影日と撮影地を示すキ ャプションが添えられている(例えば《Pinhole House, 17 Feburary 2001,

Tokyo》).また,前掲の『建築文化』誌に掲載されたピンポール写真にも,や

はりキャプションが添えられている(例えば《ピンホールの家,大田区京浜島 2丁目,317日》).

19) 蛇足になるおそれがあるが,最後に付け加えておきたい.写真はフレーミング された一枚のイメージへと時間を結晶化する.時間はそのとき静止像という非 時間態において示される.それに対して,映画において示される時間の様態は 根本的に異なる.例えば,キャメラがフィックス・ショットによって静物を捉 えるとしても,ショットの中で時間は流れ続ける.ドゥルーズは,映画論にお いて,タルコフスキー(Andreï Tarkovski, 1932-1986) が語るそのような〈時 間の圧力〉に言及している.cf. Gilles Deleuze, Cinéma 2, pp. 60-61; « Le cerveau, c’est l’écran », Deux régimes de fous, Les Éditions de Minuit, Paris, 2003, p. 270.

また,本論は,1ショットの写真において示される時間の様相,一つの水準へ と縮減される時間について論じたが,もちろん写真は別の方法によっても時間

(22)

を 呈 示 す る こ と が で き る . 例 え ば 運 動 の 軌 跡 を 記 録 し た マ イ ブ リ ッ ジ

(Eadweard Muybridge, 1830-1904)の連続瞬間写真やマレイ(Étienne Jules

Marey, 1830-1904)のクロノフォトグラフィは,被写体の移動を示すことによ

って,空間化された間接的な時間を呈示する.あるいは,ドゥエイン・マイケ ルズ(Duane Michals, 1932-)のシークエンス写真は,複数の写真を併置する モンタージュによって,叙述的な時間の展開を示す.また,同じモンタージュ でも,画家デイヴィッド・ホックニー(David Hockney, 1937-)によるモンタ ージュは,「一つ」とされる被写体を撮影した複数の写真の断片を,同一平面上 で構成することによって,断片の間に時差を折り込み,決して叙述的ではない 時間の輝きを現れさせる.

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